2010年5月23日 聖霊降臨祭 「教会とはだれですか・・・」

説教:五十嵐 誠牧師

◆聖霊が降る

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

2;14ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。

2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

 

教会は特別な暦を持っています。週報の表紙にあります。今日は

「聖霊降臨祭・日」です。ギリシャ語で「ペンテコステ」と言いますが、それは「50」を意味します。ユダヤ教では「五旬祭」と言い、三大祭りの一つです。麦の収穫を祝う祭りです。またモーセがシナイ山で律法を授けられた記念の祝祭でもありました。キリスト教会ではイエスの復活から50日目が「聖霊降臨日」になります。イエスは復活後0日間地上におりましたが、天に昇られた後10日後に起きた出来事を覚えて教会は守ります。詳しいことは使徒言行録2章を見てください。

人はみな誕生日があります。教会にもあります。教会は誕生以来、2000年の年月を経ています。教会の誕生日は今日、「聖霊降臨日」です。この日エルサレムに教会が出現しました。教会とは、何でしょうか。正しくは、教会とは誰ですかです。「教会」という言葉で、何を想像しますか。この六本木教会を描いているでしょう。教会というと、よく町で見かける、屋根に十字架を掲げている建物を・・六本木教会は一見教会らしく見えませんが、よく見ると教会です。建物をイメージします。しかし、それは正しくありません。教会が建物として存在するようになったのは、5世紀以後だからです。キリスト教がローマ帝国の国教にになってからです。イタリアやドイツなどいきますと、巨大なゴッシックの教会があります。日本でも、横浜の海岸教会やお茶の水のニコライ堂などが有名です。ローマのバチカンのペテロ大聖堂は素晴らしい。スペインのバルセロナのガウディの「サクラダ・ファミリア教会」も尖塔がしていてます。

それ5世紀以前の教会は・・紀元一世紀から迫害時代は・・一般の信者の家でした。「家の教会」でした。迫害時代はローマのカタコンベ・catacombe でした。カタコンベとは「地下墓場」です。今でも遺跡として残っています。信者たちは隠れて集まり、礼拝し、儀式を守り、信徒の交わりをしていました。そこが「教会」でした。

今述べたことから分かるように、教会とは建物ではないと分かります。教会とは何ですかではなく、教会とは誰ですかっですが。誰かですが、それは・・その答えは「人々」です。新約聖書には多くの手紙があります。ローマ、コリント、エフェソ、ガラテヤ、コロサイなどですが、それはその都市の教会の信徒宛てに書かれたものです。使徒の働きを書いた「使徒言行録」がありますが、イエスの弟子たちは福音を携えて各地に・・世界に出ていきました。彼らは教会という建物を建てた訳ではありません。彼らはその地に「信者の集まり、群・グループ」を造ったのです。ですから、教会というのは建て獲物ではなく、人々・信徒の集まりを言います。ここ六本木教会というのは、ここに集まっている信者たち・・礼拝をし、礼典(洗礼・聖餐)を行い、信徒の交わりをしている人々を意味します。建物ではありません、建物は場所の意味です。建物があったら、そこに信徒の群・教会が あるということです。

難しくなりますが、聖書で「教会」と訳されている言葉はギリシャ語で「エクレジア・ejkklhsiva」ですが、それは日本語では「教会」と理解していますが、他に、「集会・集まり、信者の群」などと訳せます。ですから、「教会」を好まない人は別の表現をします。

パウロという弟子の言葉を借りれば、教会とは「キリストの十字架によって救い出され、神に召し集められた集団・エクレジアであるのです。日本語の教会はいい表現ではないと言います。なにか「Teaching Society」を連想するからです。教会は「学ぶ所」となるからです。また、英語でChuchというのは「主に属する者」と言う意味のギリシャ語かあ来ています。

先ほど、今日は教会の誕生日と言いましたが、紀元34年頃、パレスチナのエルサレムに誕生しました。詳しくは使徒言行録2章を読んで下さい。イエスが天に帰られた後、10日後に、約束されていた「聖霊」が、この日、集まっていた一人一人の弟子の頭の上にとどまりました。異常な出来事です。さらに驚くことが起きました。聖霊に満たされた弟子たちが、聖霊が語らせるままに外国の言葉を話しました。イスラエル生まれの弟子たちが、祭礼に来ていた巡礼者に、その国の言葉で話したからです。十何カ国語です。巡礼者は驚き言っています。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。

その後、弟子のペトロは説教をして、この出来事は預言の実現であること、そしてキリストの十字架と復活の福音を述べました。それを聞いた人々はこう言いました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか、言った」。「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。と。

そして、この「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。

この日、ここに、最初の教会・三千人の信者からなる信徒の群・集まりが誕生したのです。エルサレムに、ローマのバチカンのような大聖堂が出来たのではありません。信徒の教会生活がよく出ています。

弟子たちは救いの福音をもって、各地に伝道して、信徒の集まり、集会・教会を造りました。その働きを書いた書物が「使徒言行録」です。読みますとその苦労が分かります。その集まり・教会は弟子の努力や手柄で造られたものと考えられますが、そうではありません。この書物を別名「聖霊行伝」と言います。聖霊の働きで、福音を聞いた人々は、イエスを救い主と信じ、その集まり・教会を造りました。

それは今の私たちも同じです。聖霊は私たちに働く力です。言ってみれば、私たちの生活の・・それはクリスチャン生活の全てに大事な力なのです。私たちはよく「お陰さまで・・」と言います。「如何ですか」に対してこう答えます。それで納得しています。私も言いますが、本当は「はい、聖霊のおかげで・・」が正しいのです。率直に「聖霊のお陰さまで・・」と言いたい。

クリスチャンは「聖霊」を神、キリスト共に重んじています。聖霊は三位一体の神として、信じらています。これについては来週、江本牧師から聞いて下さい。

私たちは「聖霊のお陰で、イエス・キリストを知り、信じ、洗礼を受け、今に至るまで生かされているのが、クリスチャン生活です。それはクリスチャンが「聖霊」を与えられ、、今持っているからです。いつ何処で聖霊を受けたか、与えられたかですが、そう洗礼を受けたときです。それを忘れてはなりません。忘れている方が多いと言われます。

聖霊を受けているですが、感情的な興奮をするとか、外国語を語るとかではありません、私は友人の教会に説教に行きますが、その教会は聖霊を強調していまして、私が説教をしていますと、信者さんが「アーメン」とか「ハレルヤ」を連発します。話しにくいです。また、お祈りをすると「アーメン」とか「アー主よ」とか「アーメン、主よ」とか言います。そういわないと聖霊がないような気分になります。ルーテル教会は正反対で静かですね。感情に左右されないで、冷静です。私が説教しても、お祈りしても、途中に「アーメン」とか「ハレルヤ」も入りません。」だから、ルーテル教会の信者さんには聖霊がないとは言えません。聖霊は深く、静かに、力強く働くし、働いているのです。しして、感情だけでなく、かもの思いを理性や知性で理解するように働くき、導くのです。静かですが「聖霊によって与えられる義と平和と喜び、力」(ローマ14:17)を持ち、経験しています。

聖霊は今朝の福音書では昇天にあたって、「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」といわれました。

聖霊はここでは「弁護者」になっています。この弁護者というのはギリシャ語では「パラクレートス・paravklhto”」で、意味は「側へ助けのために呼び寄せられて来ている者の意味から、力強い味方、肩を持ってくれる者,同情をもって弁明してくれる人,弁護人」です。紀元4世紀の教父・教会の指導者は「慰め主」と訳しています。聖霊は共に居て、教え、慰める神として理解しています。そう理解したいと思います。私たちクリスチャンは「聖霊は真理を教え、慰めと励ましを与える方と」理解したい。そうすると、「心配するな、悲しむな」というイエスの言葉を信じることが出来るのです。

聖霊は多くのことをわたしたち・クリスチャンのためにしてくれます。私たちは「わたしたちに与えられた聖霊によって,神の愛がわたしたちの心に注がれている」ことを確信でき、どんな場合にも希望を持つことが出来ます。(ローマ5:1-5)。ですから、私たちには「袋小路」ありません。一人で悩むことはありません。聖霊が共にいて、祈って下さるからです。(ローマ8:26)。そのことを信じて、確信して、信仰生活を力強く歩いていきたい。

今日の説教は少し難しいかもです。先だって、」中学生から「先生のお話は難しい」と言われました。少しでも実感できたら幸いです。聖霊について改めて考えることが出来ればと思います。聖霊は立派な概念でも考えでもありません。聖霊は信仰生活を、クリスチャン生活を活性化する大きなとからです。それを経験したい。

アーメン

2010年5月16日 昇天主日 「主の証人となる」

ルカによる福音書24章44-53節

聖書では「なぜ」と感じる事がたくさんあります。
同時に、聖書は自分の疑問に直接答えてくれない、と感じる事もあります。
たとえば、マグダラのマリヤはイエスの昇天後どうしたのか?
バラバは許されて後、どんな生活をしたのか?
カナでのワインの残りはあったのだろうか?
復活したイエスの肉体はどんな風だったのか?

ドアーを開けずに部屋に入り、エルサレムに現れたと思えばエリコの途上に 現れる。しかし、聖書はイエスの肉体の様子には少しも触れていません。 どうしてなのでしょうか?

聖書には書かれていない部分が多くあります。
何故、と思っても、書かれていないのですから。
それで、何故、かかれていないのかを考える他はありません。

師といわれる人は一体何をその弟子に求めるでしょうか?
一般的には忠誠を求めるのではないでしょうか。

主イエスキリストは、あの有名なエマオへの道で、ご自身を、聖餐の再現を示 して、証明されました。
それは、私達の受ける聖餐が私達の思いではなく、主の恵みとして与えられて いるからです。その聖餐により、私達は、聖霊の助けを受けて主を見る事が出来るようになるのです。

この出来事の後で師であるイエスが弟子に何を求められたのでしょうか?

それは忠誠ではなく、信仰です。信仰無くしては、許しも救いも無いからです しかも、主イエスはその信仰を弟子の中に認めておられるからこそ、全権をその弟子に委譲する事を明言されています。 復活の主イエスの証人となれ、これが主イエスが弟子に求められたことです。

24:44  イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書 いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒に    いたころ、言っておいたことである。」

予言の成就の意味は、ただそのことが起こり、成就するということにとどまりません。 主イエスは究極的には十字架において、また、その復活によって人々に救いをもたらして下さいます。それは 言い換えると、主イエスは人々に奉仕の業をされたと言うことです。この同じ意味での人々への奉仕の業が私たちにも求められています。

24:45  そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、聖書が予言している内容を、弟子達に、復活のイエスから示されました。

イエスの復活の経験に重なる出来事としての予言の成就です。復活の出来事の中で、復活の出来事の経験として、弟子達に悟らせて下さったのです。イエスは弟子たちに、当人として、または別人として現れて下さいました。見える、触れることの出来る弟子たちと共に居た、あのイエス(当人として)は、ご自身を肉体的に生きている者として弟子たちに証明されました。 同時に別人として、時間と空間から完全に独立した存在として、自然に束縛されず、超越している存在としても弟子たちに現れて下さいました。この別人としての イエスを聖書では 神の栄光に入る、神の本質に属する者として表現しています。聖書では、復活のイエスの新しい肉体の秘密をだれも語ってはいません。また関心も示してはいません。それは弟子たちに取り、十字架に付けられた主は、今私たちと共にここで生きておられる、という確信を与えられたこと、その確信で十分なのです。自分達の生きる意味をこの確信にかけたのが、当時の弟子達です。

この確信が与えられたことにより、ほかの要因や疑問は弟子たちにとり、何の意味も無いものとなってしまったのです。

同じように私たちも、主イエスの弟子として、主が求められる信仰に立ち復活の主イエスの、昇天の主イエスの証人になろうではありませんか。

2010年5月9日 復活節第5主日 「愛という借金を・・・」

ルカによる福音書 14章23-29節, ローマ人への手紙14章8節
五十嵐 誠  師

ヨハネ14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

ローマ13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安がとがあるように アーメン

このヨハネの言葉を書き残した弟子は普通、使徒ヨハネと言われています。母はサロメで、イエスの母マリアと姉妹といわれるので、イエスのいとこになります。ガリラヤ湖の漁師でしたが、イエスの使徒・弟子になりました。生涯はよく分かりませんが、晩年は小アジアのエフェソの市に住んでたという伝承があります。そして、教会の集会で語る時には「幼子たちよ,互いに愛し合いなさい」と言うのが口ぐせであったと伝えられています。で、愛の使徒」とも言います。ヨハネはひじょうな高齢まで生きていたと言われています。他の弟子たちが殉教していますが、彼だけが地上の生をおくったと言われます。

この言葉を書いたヨハネという弟子はイエスの遺言的な言葉を彼の福音書の13章から書いています。それは「最後の晩餐」の席のことです。十字架に付く前日のことです。18章の一節まで、相当長い話を記録しています。中には印象的な出来事や言葉がたくさんあります。イエスは「心を騒がせるな。おびえるな」と言う言葉を何回も言っていますが、今日読んだ所にもありました。それはイエスを取り巻く騒然たる動きを感じて、弟子たちが動揺し、不安でいるのを見て、弟子たちを励ますために、後のことを思い測って語られたものです。イエスが「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」ために話されたと言っていますようにです。 弟子たちの不安や動揺を静めるために、イエスは二つのことをこの遺言で強調しています。一つは弟子たちが「互いに愛し合うこと」です、二つは「弁護人」の約束です。弁護人とは原語では「助けるために側に立つもの・呼ばれたもの」です。いろいろな状況においても助け,守り,新しい勇気を与える方であることを示しています。で「弁護人」「助ける者」と訳されます。これについては後日します。5月23日の聖霊降臨祭です。

今朝は愛についてですが、「イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」を考えます。私を愛する人は、私に言葉を守る」です。イエスを愛する人は「私の言葉を守る」と言いましたが、私の言葉とは何かです。漠然とした内容ですから、 前後関係から私は「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」だと考えます。(13:34)。新しい掟・命令です。そして、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。(ヨハネ13:35)。)

イエスが使う「愛」という単語は特別な意味を持っています。普通は「神の愛」と言います。神の愛とは聖書では「アガペー・ajgaph)というギリシャ語で言い表します。今日の聖書の「愛する」はそれです。それに対向する愛は「人間の愛」になります。それを「フィレア・filiva」と言います。意味は「友情」的な意味です。難しく言うと、ギリシャ語には四つの愛の単語があると言いますが。

私は二つで説明します。人間の愛はどちらからと言えば、お互いに好意を感じるという点にあります。お互いに好きである・好意を感じるから関係が成り立ちます。これを「好意の環流で成り立ちうる愛の関係」と言います。大体私たちはそうです。恋愛なんかいい例です。よく見ると、それは「価値判断」になります。ですから価値がなくなるとか、お互いに好意がなくなると離れることになります。友人とか恋愛中の男女間の破局はこれです。「みそこなった」「そんな人とは思わなかった」などです。

「神の愛」というと、普通、教会では「アガペー」と言います。お聞きになった人もいつと思います。キリスト教的な愛です。私は単なる好きとか好意があるでありません。私は率直に神の愛は「価値判断をしない愛」、「差別をしない愛」と定義をします。「相手のいかなる状態にも左右されない愛」です。神やイエス・キリストはそうでした。「わたしがあなたがたを愛したように」と言いますが、神やイエス・キリストは弟子たちをどのように愛されたのでしょうか。それは、イエスが弟子たちをありのままの姿において、受け入れていたとことを意味しています。イエスの愛が手本であるということです。

で、そのイエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言います。 この愛の掟・戒めは私の経験からも難しいのです。「互いに愛し合う」、つまり他者を愛することです。教会の中でも難しいというと、信者さんでない方は不思議におもうかもですが。紀元2,3世紀のローマの教会は迫害の中で、非キリスト教の哲学者のケルソスは、キリスト教の悪口を沢山言いましたが、渋々ながら告白しました。「見よ、なんとクリスチャンたちが愛し合っていることか」と。私は牧師になった、初めの頃、人つき合いが悪くて、今でもそうですが、教会の婦人から「先生、もう少し、にっことしてください」なんて言われたことありました。現代は人間関係が薄くなりました。私は整形外科に週三回っていますが、先日、電気療法をうけていましたら、おばーチャンが、「昔と違って、最近はつき合いが薄くなり、話をしないね」なんて言っていました。教会もその影響でクリスチャンの交わりも表面的な気がします。

「互いに愛し合う」こと「他者を愛する」ことのために、何をなすべきでしょうか。教会で、あるいは共同体でです。三つほどあります。

1,ドイツ語にアウフヘーベン・Aufhebenと言うのがあります。哲学用語で「止揚」と言います。意味は、二つの対立する概念をより高い概念に発展させることです。「人間の愛」の場合、問題にぶつかったとき、感情ではなく、理性的な行動とってより高い愛に向けて努力するのです。私はこの人のために、どうあるべきかということをするのです。

2,自分の判断、好み、自意識という銃口を他者に向けないことです。自分の価値判断を押しつけるのです。その銃口を人に向ける前に、自分に問うて見る必要があります。私はこの人を愛し、助けようとしているのか、私はこの人を現在あるがままの状態で、尊重し、愛しているのかです。これは神が自分を・・あるがままの自分を・・愛して、うけいれくださったあことを思い起こす時、決して難しくないはずです。

3,旧約聖書に、また、イエスにも「隣人を自分のように愛しなさい」とい言葉があります。神を愛することと並んで大事な言葉です。「自分のように」とは、文字通りには「自分自身のように」です。他の人を愛するには、まず、自分自身を愛さなければならないのです。正しい意味での自己愛です。自分自身を愛せない者が、どうして他者を愛せるかです。悪い自己愛は他の人を犠牲にしてもかまわないのです。自分自身を愛するとは何か。それは自分を大事にする程の真剣さ切実さで愛しなさいの意味でしょう。また、ある先生は、それは自分自身をあるがままの姿で受け入れることだと言いました。自分自身をあるがままに受け入れるとき、他の人をありのままの姿で受け入れられるのだと。そう思います。
私たち信仰者は、神が私たちに・・この私に・・目を留めて愛してくださったことを、イエス・キリストの中に見いだし者です。イエスの十字架の愛が、私たちを動かして、愛に向かわせるのです。

ところで、皆さんはどんなローンを持っていますか。家のローン、車のローン、学費のローンなどあります。聖書は唯一の借金があると言います。パウロのローマ信徒への手紙の中でこう言います。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」。(13:8)。ある英語の訳は意訳していいます。「借りがあれば、全部返しなさい。 ただし、他の人を愛するという・互いに愛し合うという「借り」だけは別です。 その「借り」だけは、いつまでも返し続けなさい」。
「愛は借金である」です。これを聞いてどんな感じを持ちますか。いい感じがしないと思う人もいます。解釈は2,3ありますが、私は「隣人を自分のように愛しなさい」、「互いに愛し合いなさい」の愛は完済したときの「やったー、借金完済したぞ・0になった」という喝采の声をあげてはいけないと言うことです。英語の現代訳には「LOVE IS? ETERNAL」・「愛は永遠である」とありますが、「Debt・owe of Love? is  Eternal」です。この心は私たちを謙遜な者にします。

愛の説教をしますと、みんな反省をします。キリスト教が愛の宗教と言われると面映ゆい気がします。愛の少なさを感じるからです。説教している私もそうです。旧讃美歌(321)に「主イエスよ!ひたすら求む 愛をば 増させ給え」というのがありましたが、多くの人の祈りです。反省は謙遜に通じます。神の前に謙遜になって祈りたいと思います。

最後に覚えて置きたいと思います。それは「愛は名詞でなく、動詞であると言うことです。同じことを聖書はこう言います。「キリスト・イエスにあっては、・・・尊いのは、愛によって働く信仰だけである」。

アーメン

2010年4月25日 復活節第3主日 「神殿回廊にて・・・」

ヨハネによる福音書10章22-30節
五十嵐 誠 師

◆ユダヤ人、イエスを拒絶する
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」 ◆ユダヤ人、イエスを拒絶する
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」

(説教要旨)

冒頭に「神殿奉献記念祭」がありますが、それはエルサレムでは、毎年12月、冬の季節にありました。これは紀元前168年にシリヤの王によって汚された神殿を紀元前165年にユダ・マッカバイオスが問い返し、再びきよめて奉献したことを記念する行事です。(Ⅰマカベア4:59),新約聖書では「宮きよめの祭り」(ヨハネ10:22‐23)がこれに当ります。

その神殿の回廊でイエスはユダヤ人と問答をしました。ソロモンの回廊というもので、500メーターくらいの長い廊でした。回廊を歩いていたイエスを捕まえてユダヤ人達は、イエスの正体を問いただしています。「あなたは私たちが待望しているメシアであるかそうでないのか」と。私たちに余り気をもませないでほしいと迫りました。イエスのことは人々の口にのぼっていました。イエスはメシアだという意見とそうではないというかたがありました。

イエスは簡潔明瞭に答えています。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と。イエスは今日の福音書少し前で「私はよい羊飼いである」という話をしていますが、それに対しても「なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか」と反対しています。ですから、彼らが気をもんでいるのは、イエスがご自分について明らかに語らなかったからでなくて、不信仰のために、明らかにされていることを見分けられないからだったのです。で、イエスはご自分が目の前で行っている業・行いを見なさいと言います。そうすれば分かると。言葉が信じられないなら、行為・業を見よです。そうすれば、イエスが神から来た方と知るはずだと。しかし、それもユダヤ人は信じませんでした。イエスは陰に陽に自分が何者かを語ったいますが、ユダヤ人やファリサイ派は信じなかった。

ユダヤ人全てがイエスを拒否したわけではありません。メシアを待望してイエスに出会って喜ん人もいました。こんな人がいました。シメオンですが、幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。(ルカ2:25以下)

イエスに会っから死んでもいいとさえ言っているのです。驚くべき言葉です。普通は立派な働きをし、財産を築き、子孫を残して、天寿を全うして死を迎えたいが、願いだろうと思います。とにかく死ぬ前にイエスに出会うことが願いでした。凄いと思う。

ユダヤ人がパレスチナに国家を作らない前、一つの願いがありました。死ぬ前にエルサレムに行き、そこで死にたいでした。老人は死ぬためにエルサレムに来たのでした。1948年パレスチナにイスラエル国家が出来たときに、世界各国からユダヤ人がエルサレム目指して帰ってきました。飛行機で空輸されたので、「空飛ぶじゅうたん作戦」と言われました。ある日、年老いた病気の老人が少年に負ぶわれて飛行機から降りて来ました。老人は背中から降ろされました。老人は地にひざまずき、大地に接吻して、死にました。エルサレムで死にたいが願い・信仰でした。それが実現しています。

論語に「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」と言うのがありますが、信仰とはそういうものとも思います。人間の生き方やあり方を知ることは、それほど重大なのだと言うことです。

今日私たちは聖書の中でイエスに出会います。どこでイエスの言葉を行いを見るかと言えば聖書です。聖書はイエスに出会い、共に歩き、イエスの話に耳を傾け、イエスの行いの全てを目で見た弟子たちの言葉です。それは証言です。信じるに値する言葉です。作り話・フィクションではなく、真実の・ノンフィクションです。聖書というか、弟子たちが私たちに語っているのは、生けるイエス・キリストに出会ました、そのイエスはあなたに力を与えますよ、そのイエスに信頼して生きていきなさい、これが、聖書の言うところです。ですから 、余り知らなくても、「イエスさま、私は余り知りませんが、でも、あなたを信じて生きて行きます」という一言が大事なのです。

生けるイエスに出会い、力をうけて、新しい出発が始まります。そこからなにが起こるかと言えば、それは不可能が可能になるということです。神、イエス・キリストが生きているから、不可能と思われることが可能になるという生き方が生まれてきます。信じるものには、全てのことが出来るという信仰が起こって来ます。だから、信仰者は強いのです。そういう生き方を聖書は約束しています。

イエスは羊でさえ羊飼いの声を知っていて、その声を聞き分け、ついていくのに、あなた方、ユダヤ人は真の羊飼いであるイエスを知らず、従って来ないと非難しています。が一方、イエスはイエスとイエスを信じる者との信頼の堅いきずなで結ばれていることを強調しています。イエスは「わたしと父とは一つである」(30)と言っています。これはユダヤ人に取っては神を汚す言葉でした。イエスは神だということだからです。ユダヤ人には神は唯一だからです。だから、ユダヤ人は石を投げようとしたのです。(10:31節)。

しかし、イエスが神と等しい方だからこそ、私たちは信頼出来るのです。神の救いの目的のためにイエスは送られて来たイエスです。従って、だれもイエスの働きを、力を妨げられないのです。イエスと結ばれている者は神の大きな笠の下に、腕の中にあるのです。私の好きな聖句に「My times in His hand」というのがります。(詩編32:15・口語訳) 「私の全ては神のみ手に中に」です。
イエスは人生は悲しいとか空しいものだとかあきらめを説きませんでした。イエスはいつでも希望を、歓喜を、光明を説きました。だから、イエスはよく、天国を宴会に譬えました。一杯ご馳走のある、豊かな振る舞いです。(ルカ14:15以下、15:22以下)

現在もいろんな声が聞こえて来ます。大きな声も、小さな声もあります。耳障りのいい声も、欲望をそそるような声もあります。しかし、私たちは聖書からイエスの声を聞く者でありたいと思います。イエスの声に従った人はクリスチャンです。クリスチャンとはなにかと言えば、ただ座って天を見上げている人ではありません。ある先生が言われたように、クリスチャンとはキリストと共に冒険・アドベンチャーの旅に歩む人に与えられた名称なのです。ですから、クリスチャンとは、古い生活から抜け出して、身支度をして旅を歩む者となることです。私たちがクリスチャンになるとは、神の国に向かって歩く冒険の旅に加わるように選ばれることを意味しています。この冒険の旅に加わることによって、私たちは恐れから解放されます」ということです。この旅に加わり、喜びと確信の日々を過ごしたいと思います。