2011年3月6日 変容主日(顕現節最終主日) 「人はみかけによるのでしょうか」

マタイによる福音書17章1〜9節
説教:安藤 政泰 牧師

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
マタイによる福音書17章1〜9節


私たちの日常生活は小さな出来事の繰り返しです。そして、その小さな出来事につまずきます。風邪がなおらないと何か悪い病気にかかっているのではないかと考えます。特にある年令に達しているとよけいそうです。

主はこうした日常生活の中にいつでも来ておられることを思い出してください。
日常生活の中で私たちがあまり意識してない行動や言動を主は、聖なるものと結びつけて下さるのです。私たちは同じ行動や言動でも、それを否定的に受け止める時も、肯定的に受け止める時もあります。

教職や信徒は誰によって養育されるのでしょうか。それは、もちろん神により導かれ育てられます。具体的には人を通して実際には行われることがあります。
教会を通して、信徒を通して、教職も信徒も養育されます。相互に養育しあう関係です。人がそれを行うのではなく、神が介在して行われます。

さて、主の変容は私達に隠れた主の姿を見させてくださいます。この主イエス・キリストの姿は私達には顔覆いで隠されているのではなく、主イエス・キリストの受難によって隠されているものです。
16章21節以下に、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

主はご自身の受難について弟子たちに明らかにされていますが、弟子はそれと理解することはできない。しかし、この主の変容で弟子達は主の蘇りの姿を知る事ができたはずです。しかし、本当に弟子たちは理解したのでしょうか
残念ながら聖書を読む限りそのようには読み取れません。
17章9節で「一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。」

主はこの事を秘密にするように弟子に命じています。何故イエス・キリストはこの事を秘密にされたのでしょうか。私達にとって日常的な事と非日常的な事があります。主イエス・キリストの変容の出来事はこの両方を持っています。それゆえに、人は誤解をする可能性があります。外見によって判断したり、自分の解釈で不思議、不可思議な事を解釈してしまう危険性があるからです。
弟子たちも同じようにこの変容の出来事を本当に理解できたのでしょうか。
ペテロの言動を見ても、決して本当に理解したとは考えにくいです。その時起こった現象に目を奪われてその背後の真実を見ることが出来ないのが通常です。

いわば現象に目を奪われてしまい、真実を見ることが出来ないのです。見かけで判断してしまうのです。
「人は見掛けによらない」と言います。このことの本当の意味は「人は見掛けによる」と言うことです。見掛けで人を判断するのがこの世の中の常です。

この外見で、見掛けで判断する事の危険は、自分のイメージでその人を判断することです。特に外見から判断してしまいがちになることです。自分の中にあるパターンにその人を照らし合わせて、判断するのです。自分の過去の経験を照らし合わせて 理解しようとします。
変容の現状に立ち会った弟子たちがそうであったようです。旧約の記述、自分の見聞、経験などを 尺度に考え判断してしまします。

しかし、こうした誘惑を乗り越えて本当の姿を見ることが出来るようになるのは信仰の目 聖霊の導きにより開かれた目でしか見ることができません。

変容日主の真実は 復活の主の姿 昇天の主の姿です。
それを 主のご受難の前に示された神の恩寵を私たちは知るべきです。
しかも 日常生活の中で、聖霊の導きになりのみ神の恩寵を受けられます。

2011年2月27日 顕現節第9主日 「人生と歴史が変わるとき・・」

マタイによる福音書7章15〜29節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆実によって木を知る
7:15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。7:18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

◆あなたたちのことは知らない。7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

◆家と土台
7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

7:28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。
7:29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
マタイによる福音書7章15〜29節


私たちの父なると主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

 

イエスの「山上の説教・垂訓」の結末に来ました。イエスのフアンだから言うのではないのですが、イエスは偉大な説教家だと思いました。また、人々を引きつける魅力を持った方だと思いました。古今東西、偉大な説教家は言葉にも行動にも人々に強力な影響を与えています。新約聖書はギリシャ語で書かれました。イエスはどんな言語を話したかですが、当時のアラム語・・ヘブライ語の方言・・を話したと言いますが、ギリシャ語だろうとも思います。ギリシャ人と話しているからです。(ヨハネ12:20以下)。通訳を通してではないと思います。聖書の翻訳ですが、今まで、文語訳、口語訳とかあります。文語訳は重々しく、いかにも宗教的な雰囲気に満ちた訳です。たとえば、「さいわいなるかな、心の貧しき者、天国は彼らのもなればなり」です。アラム語をギリシャ語に翻訳したという学者もいますが、私はギリシャ語だと思います。ギリシャ語ですが、当初は新約聖書特有のギリシャ語・・聖霊による・・と考えられましたが、A・ダイスマンという学者の研究で、それは当時・ヘレニズム時代の共通語・標準語と分かりました。それを「コイネー」と言います。意味は「共通」です。今の英語と言えます。ですから、聖書は普通の言葉で書かれました。だからと言って翻訳はどうでもいいとはいえません。ですから、尊厳を持ち、読みやすい翻訳がなされます。私は昔若い頃、今の「新改訳聖書」の翻訳を手伝いました。旧約聖書の「詩編」の下訳で全て訳をしました。私の下訳を専門家が見て直していました。しかし、私が立教大学大学院「本文批評学」(ホンモンヒヒョウ学)を履修しました。それは紀元後2世紀以後の新約聖書の写本を研究して、原本を求める作業です。今では、現在の新約聖書の99パーセントは、原文・・著者が書いたもの・・と言われています。自筆原本を読んでいることになります。有名な外人教授がいましたが、私たちの「新改訳聖書」を「説教している訳」だと言いました。悪口です。みんなヘブル語、ギリシャ語を読めればいいのですが、翻訳は難しい。

聖書をどう見るかが教会内外で論議が盛んです。聖書を特別な書物でこの上もなく重要な書物・・神の言葉と見るか、人間の言葉であり、自由に批判し、分析して扱うことが出来るかで、大きな相違があります。去年の10月に「キリスト教成立の謎を解く」という本が出ました。教会員から、正月にお読みになったらということでしたので、読ませていただきました。聖書を人間の書物として扱い、いろんなテクニックを駆使して批判しておりました。著者のB.D.アーマンは、はじめ、聖書は神の言葉と信じ、すべては正しく、誤りはない(聖書無謬説・むびゅうせつ)を信じていましたが、聖書の矛盾や人生経験から、従来の信仰を捨てて聖書の分析に入りました。専門家でも解きにくい問題もありますし、視点を変えたらと思う点もあり、聖書は聖書で解釈すると言う原則を考えたらとか思います。ただ、今から2000年前ですし、時代の状況が現代と違いますし、多くの資料が存在しないので解釈次第だったり、前提が間違っていたりします。私はこういう問題は、初代教会で・・紀元3-5世紀にすでに起こっていたと感じました。今も姿形を変えて出ていると言えます。私は今の異端・誤った考えとかは、すでにその世紀に起きていたし、今はその亜流・まねをするだけで独創性のないこと・・だと思っています。

聖書の見方はキリスト教会・教団間でも違います。ですから多くの教派・教会・教団があります。さらに一つの教会の中でも違います。年を取った牧師と若い牧師とでも違います。同床異夢・同じ仲間うちでありながら、異なった考えを持つこと・と思うことあります。一つの教会は同じ聖書観、同じ信仰かと思うと、そうでないことが起きます。ルーテル教会は信条・信仰告白・信仰の箇条・堅く信じ守っている事柄を持つ教会ですが、時代で古いとか、合わないと言われます。信条集が本棚で塵をかぶっています。最近は、ポスト・モダン・post-modern・とかパラダイム・paradigm・の転換とかいって、古い考えを超えようとか、一時代の支配的な見方や思考の枠組を抜け出すことが主張されました。特に、人権・・男と女の権利が問題になりました。多分気がついているでしょうが、議長・司会は英語でChairmanでしたが、今はChairairpersonです。看護婦が看護師になりました。英語の書物でよく三人称を「She・he」と併記して書いているのを見ます。デリケートな問題です。教会でも女性の地位の向上を求めて、聖書の考えを否定することがあります。女性は牧師になれるか、なれないかという問題が起こりました。

聖書の読み方、理解の仕方で、論争しています。女性を認めないのは、男性上位の考えだとか、時代遅れの、恥ずかしい考えだとか聞きました。自分の教会の教えを恥ずかしいとは分かりません。ある責任ある牧師は教理は時代で変えることが出来ると発言していましたが、どんな聖書観をしているのか疑問でした。

特に、私は最近の不毛な論争を見ていて、もっと聖書を信徒の方々が読んで欲しいと思います。自分の教団・教会の聖書理解を知っているべきですし、自分の教会の教えをしっかりと持つべきです。牧師が間違ったら、信徒が正すべきです。きつい言葉ですが、知らな過ぎると言えます。そんなところに教勢の不振があると思いますが。自分の教会を愛する信徒になって欲しい。

今朝のイエスの言葉は、神の言葉である聖書を正しく語る者とそうでない者に注意を向けています。なぜなら正しくない教え・教理は誤った道に導き、神の備えている恵みと救いを失う危険があるからです。イエスは二つ見分け方を示しました。「偽預言者を警戒しなさい」とは言葉がきついですが、ですが、警戒するのは彼らが「羊の皮を身にまとって来る」からです。言葉を換えれば「天使の姿」をして来るからです。パウロは「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです」と言いました。(二コリ 11:14)。

教会の中に巧言令色・言葉をかざり、顔色をうまくつくろって来るのです。こうしたら、教会は盛んになるとか、誠実で信徒ために深い心遣いなど・・隙を突いて来ます。イエス彼らは「その内側は貪欲な狼」だと。グリムの童話に「赤ずきんちゃん」とい童話がありますが、オオカミの甘い言葉にだまされて、オオカミに食べられます。水面に一滴垂らすと、波紋が広がりますが、いつの時代も教会は、混乱を招いています。

さらに、イエスは実・Fruitsで見分けよとも言います。その正体を見破ることですが、「実」とは何か。外形的姿・形なものですから、「教理・教え」LCMSは言いました。LCMSはアメリカのルーテル教会・ミゾーリー・シノッドですが、私たち日本のルーテル教団の母教会です。厳格な、保守的な教理を保持しています。よく「実」を見るために、私たちは聖書・神の言葉をしっかりと学びたいと思います。

「山上の説教・垂訓」も終わり・クライマックスに来ました。最後の6節ですが、「そこで」という言葉が示すように、この全体の説教のまとめとして話しています。この説教の最初の聞き手は、世の救い主の言葉を聞いて、うっとりとしていたと察します。イエスの説教は終わりますが、決して終わっていません。

ある教会でこんな会話がありました。礼拝が終わって帰り始めた信徒に、外にいた信徒が聞きました。「説教は終わったか」と聞いた。熱心な信徒は「いや、説教は終わっていない。始まったばかりだ!説教を私たちの日常生活の中に取り入れることが、私たちに期されているのだ。私たちの生命が終わるまで、この説教の言葉は終わらないのだ」と答えました。本当にそうです。聖書は時代に沿って訳されます。最良の翻訳を求めて、いろんな訳の聖書が出版されます。日本でもそうです。では、最上の聖書の翻訳はどれでしょうか。皆さんはどう思いますか。私のパソコンには世界の各国の翻訳が入っています。英語?日本語?フランス語ですか。私は一番最良の訳は、誰であろう、私やあなたなのです。自分の体で聖書を翻訳するのです。イエスは少し前でこんなこと言いました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。翻訳という言葉は英語ではTranslateですが、通訳する、解釈する、言い換えるなどです。イエスの言葉を心の中に保ち、それを日々のクリスチャン生活で、行為と行動で通訳し、翻訳する、言い換えるようにとのすすめです。その時に、堅固な永遠の建物を私たちは建てることが出来るのです。

結びの建物に関する譬えは有名です。聖書はクリスチャン・ライフ・生活をしばしば、建物・家について・・まだ未完成の・・しかし、完成に向かっている課程として言及しています。この意味は、私たちが神の国に入る(ゴールする)まで、信仰に、知識に、聖化に・・罪打ち勝って、神のみ心を行う、よい業に・・成長することです。

砂の上の家と岩の上の岩の譬えは説明はいりません。イエス自身が説明しています。「賢い人」「愚かな人」の対比があります。私は新潟地震(1964年)の時、その後、佐渡に行きましたが、6階建ての県営住宅が横転しているのを見ました。地盤が地震時に液体のようにふるまう液状化現象で倒れました。今でも欠陥住宅を見ます。地盤が弱い住宅です。最近のニュージーランドの地震でもありました。

イエスは言います。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と。反対に、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と。私たちはどちらの中に入るでしょうか。「賢いひと」、「愚かなひと」ですが。イエスの言うように、彼らが建てた家は同じような天候似合います。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲う」のです。結果は大いに違います。これらの現象はなにを言うのでしょうか。私は同じような人生で出会う様々な出来事だと思います。二人は幸福や豊かさ、順調な生活をしていますが、人生にはしばしば起こる悩み、苦しみ、死への恐れや心配などがあります。あるいは死の時を迎えるときでしょうか。あなたの人生は何だったのかと問われる時でしょうか。そんな時に私たちは、立つべき、頼るべき保証・保証人・セキュリティを持っているかです。キリスト教信仰は確かな保証を与えてくれます。それはイエス・キリストです。キリストこそ、Rock of Ages 賛美歌では「岩なるイエス」・「代々の岩」と歌われます。その巌(いわお)の陰に守られるのです。だから私たちは試練や誘惑、恐れや悩み、悲しみ、死の恐れ、迫害などの嵐に、身支度出来るのです。

イエスは唯一の誤りのないカウンセラーです。イエスは、私たちの様々な問題に答えを与えてくれますし、その答えは正しいのです。イエスの説教が終わったときに、人々は、その教えに驚いたとありました。それはイエスが神の権威を持って語ったからです。このイエスを自分の主・岩にして、人生と歴史が変わるときを経験してください。アーメン

2011年2月20日 顕現節第8主日 「一人の主人に仕える」

マタイによる福音書6章24〜34節
説教: 安藤 政泰 牧師

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」   マタイによる福音書6章24〜34節


当時のユダヤ社会では、一人の奴隷を2人で所有することが出来ました。しかし、奴隷にとっては二人の主人が居ることは大変苦労の多い事で、また同時に、耐え難いような事が起こっても不思議ではありません。どちらの主人も、自分だけの所有のように扱うからです。聖書では、そうした日常起こるトラブルを題材にして二人の主人に仕える難しさを述べています。

 

「富と神」と言う二人の主人に同時に仕えれば、問題が起こる、と警告しているのです。仕えて何が得られるのでしょうか。仕えると言うことに、どんな意味があるのでしょうか。従うということです。少なくとも聖書では「あなたの生命に関わる事」だと記しています。生命、聖書では「たましい」「霊」の事です。神は与えられた生命を養って下さいます。この生命は人間の存在すべてを意味しているのです。その生命「たましい」を創造された神が、それより次元の低い衣類、食物を人間に用意されないはずが無いと、述べています。

信仰とは何でしょうか。それは、神に信頼し、神により頼む事です。それは、部分的な信頼ではなく、全面的な信頼です。しかし、信仰自体、神から賜ったものです。戴いた信仰を育てるには、人はどうすれば良いのでしょうか?

人生のほんの些細な、小さな事をでも、完全に神により頼めるようにする事です。どんな小さな事でも神により頼めるのでしょうか。それには、「所有」と言うことを考えてみましょう。もっている、所有しているとはどんな意味があるのでしょうか。よく「お金は墓場まではもって行けない」と言います。しかし、よく考えると、私たちは、神が造られたすべてを所有しているのです。だからことさら自己主張するような「所有」は必要ないと聖書は言うのです。別な表現では、必要なものは必ず与えられるのですから、今更何を所有したいのか、と言うことです。「与えられる」と確信した時、ささいな事でも神を信頼し、問いかけられるようになります。

自分の生命の終わり近づいても、ヨブのように 裸で生まれたのだから 裸で神のもとに 帰る覚悟が出来ないのが、悲しい私たちの現実です。たしかに、富を貯える事を聖書は否定しているのではありません。富に仕えるなと警告しているのです。富ではなく、神に仕える時、富も地位も、必要はすべて満たされる、今満たされて居るのです。あなたは今満たされていますよ。あなたは今恵まれていますと、互いに確信し、共に神に感謝し、支え合うことが出来る教会員の交わりが出来ればと願います。それが 神様に仕える道となりますように祈ります。

2011年2月13日 顕現節第7主日 「神が愛であるとは・・隣人を愛し、祈れ・・」

マタイによる福音書5章38〜48節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆復讐してはならない
5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

◆敵を愛しなさい
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
マタイによる福音書5章38〜48節


私たちの父なる神と主イエス・きリストから 恵みと平安が あるように アーメン

 

今朝はイエスの「山上の説教・垂訓」の一部を読みました。有名ですから聞いたことがある言葉が出てきます。山上の説教は「山上の垂訓」といわれました。「垂訓」とは「教訓を説き示すこと」です。実際はマタイの5章1節から7章終わりまでです。有名なのは「空の鳥を見よ」とか「野の花(百合)を見よ」、「地の塩」とか「世の光」も聞いているでしょう。も一つ、異な同じような説教がルカ福音書の6章29以下にあります。平野の説教といわれています。

一つ問題がありまして、イエスの垂訓は何か、どんな性質かです。よく山上の説教はキリスト教の神髄、キリストの教えの中心とかいいます。しかし、それは間違いです。ある方ははじめの「~~は幸いである」という言葉でそう考えました。しかし、キリスト教の中心、キリストの教えは「福音」なのです。福音とは「よい知らせ」です。それは普通、神が恵みによって、私たちのために、救いをなされたことを意味します。山上の説教は、如何にして罪人が救われて、神の国の一員・メンバーになるかを告げていません。イエス自身や贖いの業(十字架と復活)について語っていません。端的に言うならば、信仰による救いを言っていません。ですから「福音」ではありません。

福音でないと何かですが、それは「律法」です。律法とは神の意志による教えで、人間の守るべき道を教えているものです。ではイエスは誰に向かって「山上の説教」をされたのかですが、福音書では2種類の人に語られました。弟子たちと群衆です。英国の神学者ハンターは「山上の説教」は根本的には弟子たちに語られたと言いましたが、正しいのです。当時は12弟子・・使徒ですが、今・現在では「イエスに従う者・信仰者」です。つまり、クリスチャンということになります。イエスは神の国の一員であるメンバーのConduct・振る舞い・行為を述べていると言えます。先のハンターは「イエスの倫理・価値体系・弟子の倫理の要約・一覧」と言っています。つまり、神の国の生き方・生活様式・way of lifeです。古い日本語では「処世術・処世のための術策」です。あるいは「人生訓」です。しかし、」単なる世渡りの方法や人生訓ではありません。神の律法・掟はうわべだけのものではないからです。

この世の処世術はなぜあるかと言えば、私たちは生まれ落ちて以来、家庭でも、学校でも、会社でも、教え込まれることは、人々といかに穏便に、協調してつきあうかについて、また、集団の中で生きる術(すべ)を身につけるかを考えることです。世渡り術ですが、適当にやっている人が多い。でも最近では、自己虫が強くて、他の人を考えない行動が若い人に多くなりました。すぐ切れます。

イエスがここで話しているのは、クリスチャン・キリスト教信者の律法・神の掟を、そのルール・導きとしてです。イエスは信仰を通して神の国の一員となった人々の守るべきルール・行動を告げているのです。そして、それはとりも直さず、言い換えると、クリスチャンの信仰を証明すると共に、彼らの主を賛美することになるのです。イエスは明白に神の律法の意味を示しています。イエスはいくつかの律法を取り上げて、律法学者たちが決して説明をしなかった、新しい意味を語っています。英語に、before and after..がありますが、イエスは、その違いを明らかにしました。

堅い話になりましたので、イエスの言葉を見ましょう。

十戒 出エジプト記20章1-17(一部省略)

20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。

20:12 あなたの父母を敬え。

20:13 殺してはならない。

20:14 姦淫してはならない。

20:15 盗んではならない。

20:16 隣人に関して偽証してはならない。

20:17 隣人の家を欲してはならない。

隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

今朝は前週(安藤先生)に続いて「山上の説教」を学びます。小見出しの「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」です。後者は有名です。最近本を読んでいて気づいたことは、多くの聖書の言葉が、日本語の辞典にあることでした。日頃使っている言葉が聖書から、例えば、「目から鱗」、「地の塩」、「求めよ、さらば与えられん」とか聞きます。今日のところでもあります。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」です。多くの教訓があります。普通の、この世的な考えと違います。キリスト教的人生訓・格言とも言えます。

イエスは「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と言い、「し

かし」と言っています。「しかし」というのは「接続詞」で、先の話の内容を受けて、それと反対または一部違う事を述べる時使う用語です。ですからイエスは当時の社会の考え方と違う考えや生き方を示しました。そのいくつかがここにあります。キリスト教の用語もよく見たり、読んだりしますと、意外と日本の社会に浸透している事です。中には正確な意味で使われていますが、ある言葉は意味が違った風に言われます。キリスト教は日本には広まりませんが、用語が多くの人に用いられている事から、希望があるという方がいます。どうでしょうか。

「復讐してはならない」を見ましょう。普通ここは「絶対無抵抗主義」の意味に取られています。しかし。罪との戦いや悪への抵抗を禁じている訳ではありません。原文の「悪人」は、悪意のある加害者のことです。「目には目を、歯には歯を」は古代の法律での「同害報復法」の決まりです。過剰な復讐を禁じるもので社会正義の基本です。

*「同害報復法」はタリオ(talio ラテン)の訳語で、被害に相応した報復または刑罰をいいます。ハムラビ・バビロンの王。紀元前18世紀。「ハムラビ法典」を制定。その中にある。(1686一説に前1792~前1750)

「悪人」とはギリシャ語では悪意を持っている加害者です。ですから、悪意と危害に対して、同じような苦い報復をすることを断念せよということです。無抵抗というか非暴力を実行した人が、歴史上二人います。インドのガンジーとアメリカのマルチン・ルター・キング牧師です。ガンジーはインドの民族運動指導者・思想家。インド独立の父とされます。非暴力・不服従主義により自治拡大、独立の実現に努めました。ヒンドゥー教徒に射殺されました。(1869~1948)。キング・Martin Luther King, Jr.はアメリカの牧師・黒人解放運動家。非暴力直接行動主義に立ち、公民権運動を指導。暗殺されました。ノーベル賞を受賞。(1929~1968)。バスに乗らないで抵抗した出来事が思い出されます。

下着や上着はそこまでやるかという感じですが、また、二倍の道を行けとか、求める者には与えよという言葉もそうですが、イエスは私たちに問題提起をしているのだと思います。それは「私たちは憎しみと憤りを、あるいは復讐を乗り越えられるか」という問いです。ということは神への信頼と余裕のある信仰を持て!というイエスの言葉です。

さらにイエスは「愛敵」を、敵への「親切」、「祝福」、「祈り」を言います。普通は「憎敵・敵を憎む」です。「目には目を」式です。人を愛するより憎むことのほうが、分かり易い。旧約聖書にはそんな言葉があります。イエスはそのような背景で言っているのです。イエスは敵を愛せという言葉を、抽象的な意味で言ったわけではありません。漠然とした意味ではありません。イエスがこの言葉を語った状況は、厳しい中でした。つまり、当時の宗教家たちとの論争からでした。イエスは命をねらわれている中での発言でした。ユダヤ教の指導者たちは自分の民族・隣人だけを愛することを主張した、狭い民族宗教を、イエスは世界宗教・普遍的信仰にしたとも言えるのです。

キリスト教は「博愛」の宗教だと言われます。そこから社会事業が、赤十字が生まれました。日本でも初期の社会事業はキリスト教の宣教師が手をつけました。

「敵を愛せよ」の敵とは・・ある先生は憎しみと悪意の執念にみちた相手だといいました・・そんな人を憎み返すのではなくて、愛して大事に思えという意味です。牧師として説教していて、お前にそんな愛があるかといわれると,自信がありませんが、神のような完全な愛はありませんが、私のために死なれたキリストの大きな愛を、本気で受け止めたとしたら、そのキリストの愛が注がれて溢れていたら、イエスの言葉は励ましの言葉であると同時に力の泉になるのではないかと思っています。皆さんはどうですか。

マタイの福音書に「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(7:12)という言葉がりました。Golden Ruleです。これを日本人は「己の欲せざる所、人に施すなかれ」と言います。「論語」の孔子の言葉ですが、面白いことにキリスト教と日本人の考えは、時々反するような気がします。習慣とか行動が逆のことがあるような気がしています。

これらの言葉には背景があります。イエスの言葉は「山上の垂訓」(マタイ)にもあります。イエスの場合はよく見ると積極的ですし、孔子の場合は「消極的」です。「善をせよ」と「悪をするな」の違いです。日本は儒教的な道徳の傾向がありますから、禁止が多いと言えます。その理由は何か。世間体を気にするからと言います。世間は鋭い目を・・それも非難する・・していますから、「怪しからん人間」とか「世間を騒がす親子」と言われないように気を遣うのです。むかし、アメリカの文化人類学者のルイス・ベネディクトが「日本の社会は恥の社会」と言いましたが、反面正しい。犯罪を犯した子どもの親がTVに出てきて「世間を騒がせて、申し訳ない」という場面があります。あれはTVの聴視者に謝っているのでなくて、世間に謝っているのです。聴視者は関係ないからです。先だっての市川海老蔵の事件でも、父親の団十郎が出て謝っていました。昨日は中目黒の夫婦殺人事件の犯人の父親がTVに出て謝罪していました。日本でも、だんだん、家族は関係ないというようになりましたが、まだそうではないようです。世間から厳しく言われたくないと思い、じっとしているようです。

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。「律法と預言者」とは旧約聖書のことです。このような積極的な愛が聖書全体の思想です。律法の二大原則ですが、神への愛と他者への愛です。(マタイ22:36-40)。

*「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

「黄金律・ゴールデンルール」というので、今の言葉は知られています。それはキリスト教倫理の原理と言われます。

アメリカで留学生活をしていた牧師が書いていました。車がポンコツ車でしょっちゅう故障をして、道端に止まっていると、何台もの車がとまって「Can I help you?」と声を掛けてくれたそうです。所が、日本では、側をスイスイ通り過ぎるらしい。日本では保険会社・JAF・日本自動車連盟がすぐ来るからかも知れませんね。

この間、川口から東京に京浜東北線に乗りました。優先席がありましたが、私の向かいに若い青年が座っていました。すると乗ってきた中年の男の人が、青年に言葉をかけると、青年は立ち上がって席を譲りました。やがて私の隣の若い女の子が携帯をだしました。するとその中年の男性が、厳しい言葉で注意をしました。この中年の男性は、気の強い方で若い人に注意をしたのだと思います。普通は黙っていますからです。下手したら喧嘩になり、反対に殴られますからです。優先席で携帯の電源を切るのは医療的な目的です。心臓のペースメーカーです。ほとんどの人が電源を切りませんし、老いも若きも使っています。他者に対する思いやりや心遣いがほとんど欠けています。「あなたの親切が明るい車内をつくります」なんて書いていますが、難しいですね。

私の老人ホームでも自分だけの事を考えている人を見ます。エレベーターでも、さっさと乗っていく人と、ドアーを開けて他の方を待っていてくれる人とがいます。恐らくそんな環境に今までいなかったからかなと思います。社会的にそれなりの人々ですが、ホームに入る前に、他者に対する心がけが不必要だったのでしょう。育ちが悪いとは思いません。

愛にはいくつかの種類や性格があります。イエスが愛せよという場合はどんな愛なのかですが、人間的な「GIVE and TAKE」・物々交換ではありません。イエスは「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている」と言いました。案外私たちはしています。私もそうです。

何故私たちが人々を愛するかですが、それは「神は全ての人に、分け隔てなく対応される、だからあなた方もです」。別の所でイエスはこう言っています。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。(ルカ6:36)。また、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)。

「完全」とはその根底には、全的に十分な、欠けのないという概念があり、絶対的完全は、神御自身のみです。御子イエスは受肉された地上の生活において、人としての完全を示された。私たちは神並みの完全は出来ません。無理です。ただ、人についての完全に言及している用例は今日の福音書にもあります。しかし、人間は地上においては罪を犯さない完全さ、欠陥の全くない完全さには到達し得ないのです。私たちの経験で分かります。

しかし、パウロが言うように、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」。ですから、そうするのは、努力をするのは「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。(フィリピ3:12)。パウロは「このように考えるべきです」と勧めています。

パウロは罪人である自分を私を、イエスが十字架の死によって救ってくださったことへの感謝と喜びのゆえに、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向け」て自分を訓練し、神に仕えていくのです。他人と比較したりせず、私たちは自分の達した点を基準として進むものです。神は必ず、私たちの歩みを見つめてくださるのです。そう信じて歩きたいと思います。

キリスト教人生訓は単なる処世術・世渡りとしてでなく、人をいかす言葉です。しっかりと心に留めていきたい。そして私たちの魂の基礎となり、これからの人生を作る言葉として生かしていきたい。                            アーメン