2010年9月5日 聖霊降臨後第15主日 「捨てる勇気」

ルカによる福音書14章25節~33節

説教:安藤 政泰 牧師

説教概要

今日の福音書のテキストは、よく誤解を招きやすい箇所です。

聖書は決して親、兄弟を粗末に扱ってよいとは教えていません。

しかし、25節だけを読んでそのように解釈してしまうと困ります。

14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

昔キリスト教会に親が子供を行かせなかった理由に、教会では親を粗末にする教えをするからだ、と言った、と聞いたことがあります。

聖書はけっしてそのように教えていません。これは誤解です。

さて、今日の話の内容はイエス・キリストご自身が経験された事、又はこれから経験されるであろう事を土台として話されているのです。又、そのイエス・キリストの行われる事業についてご自身をその証拠として示されているのです。

1)キリストはご自身の両親、兄弟のことを第1に考えましたか?

2)キリストが第1に考えた事は、人々の救いです。世界の救いです。

まず自分の兄弟、親を救ってから、世界の、全人類の救いを考えようとしたでしょうか?

28以下の話は「救いに入ることの出来る」と言う確証を持って従う事ができる事を見せて下さるのが、イエス・キリストの生涯である、と示しています。

誰でも先の見とおしを考えてから行動します。

建設を考えるとき同じような規模、同じような状態の例をまず研究したいと願います。そして自分の建設計画を立てます。経済的うらずけはもとより、設計図、その他を吟味します。

私達の命、救いに就いても十分に吟味されることに堪えられる内容をキリストは提供しておられます。それでもなを、吟味したり、検討したりする必要があれば幾らでも出来ます。そのように検討、吟味した結果であろうとなかろうと、

まず。その約束は見せられています。

それに従い、その約束に入るにはどのようにすればよいのでしょうか。

信仰の問題です。信仰者の生活の問題です。

信仰は個人の問題です。家族関係や親族関係に関係はありません。私と神とのかかわりあいの中で救いの問題が問われるのです。たとえ夫婦であっても、こと信仰に関しては別々です。 夫婦の一人が救われ一人が救われないと言うことも起こり得るのです。あくまでも個人の問題です。

自分の信仰の事が大切です。自分を捨てる、自分の十字架を負う、自分の財産をことごとく捨てる、これはどんな意味でしょうか。

自分の生活の判断基準、生活そのものを支えていた考えかた、総てを捨てることです。例えば、財産はすべて自分の力だけで得たものでしょうか。神から与えられ又、神に帰すものではないでしょうか。それも、神の助けにより、自分の殻から出て古い自分を捨てることが出来るのです。言いかえれば、自分を空にすることです。

私たちは、食事に呼ばれる前に、スナックのようなものを

自分で何か食べて、それで、お腹が半分ぐらいいっぱいにして

出かけることもあります。特に、パーティーに行くときには、トーストを1枚食べていけば席上、余裕をもって、食事が出来るからだと考えます。

がつがつ、したくないからです。しかし、それが、個人の家でしたら、どうでしょうか? 招いた人がそれを知ったら、ちょっと、考えてしまいます。

お腹を空かせて食事には来てほしい。

今までのしがらみを吸い込んだ食物、今、自分の前にある自前の食物を捨て、主から与えられる新鮮な食物で自分を満たしたい。そのために、自分を空にして、空腹にしなければなりません。自前の食物を捨てる勇気をお与え下さい。

新しい主から与えられる食物で満たしたい。

そのためには、まず、自分のという器をを空にしなくてはなりません

自分の前にある、自前のものを捨てる勇気を与えて下さい。

2010年8月29日 聖霊降臨後第14主日 「まことの謙虚さ」

ルカによる福音書14章7〜14節

説教: 粂井 豊 牧師

ルカによる福音書14章7〜14節

イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」


始めまして。札幌にあります札幌中央ルーテル教会の牧会の責任を負っています、粂井です。多くの方々が、初めてお会いするか、または、どこかでお顔を会わせていても、言葉を交わす機会をあまりもてていない皆さまがほとんどと思いますが、主にあって兄弟である皆さま方と、初めてこのようにして共に、礼拝をすることができることをうれしく思います。

 

今、この六本木ルーテル教会は、専任の牧師がいません。責任教職者である江本牧師を中心に、定年後の安藤牧師や五十嵐牧師のお手伝いをいただき、役員の方々や会員のみなさまの支えによって、毎週の礼拝が守られていることを、主にあって感謝いたします。教会の中心は、安息日を覚えてこれを聖とすることです。神さまは、モーセを通して十の戒めを与えられました。その戒めの一つに、安息日を覚えて聖とするようにと教えています。専従の牧師がいない中にあって、礼拝を守り支えていくことは大変なことと思いますが、毎週の礼拝を休むことなく続け、み言葉に生かされた歩みをしていただきたいと願っています。

さて、今日の福音書の日課は、イエスさまが招待受けた客が上席を選ぶ様子をごらんになって、その方々にたとえ話で語りかけられた内容の箇所です。

たとえは二つ語られていますが、ふたつとも、話としては、それほど難しいものではありません。

一つは、日本人には、むかしから教えられている、謙遜の美徳の精神に通じるお話しです。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て『この方に席を譲ってください』と言うかも知れない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。・・・・・・・・・。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と綴られているイエスさまのお話しは抵抗なく聴き取れます。

二つ目は、“招いてお返しできるような人々を招かないで、お返しできないような、身体にさまざまな不自由がある人々や、貧しい人々を食事に招きなさい”という無償の精神を示そうともしているように受け取れる話です。多くの人たちが、スムーズに聞き取り、良い考えだと思う話だと思います。けれど、実際に実行することは、なかなか困難なことです。イエスさまは、何故、このような話をされたのでしょうか。このような歩みをするようにと、教訓を語ろうとしたのでしょうか。人は、とかく、聖書の言葉を教訓として聴き取ろうとしがちなのですが、聖書は、私たちに教訓を示そうとしていません。

イエスさまを招待した人や、そこに招待された人たちの多くは、ファリサイ人や議員たちであると、今日の日課の前のセンテンスに記しています。いわゆる、社会的に立派であり、神さまのことを大切にし、それ故に、律法を大事にして歩んでいる人たちでした。彼らは、神さまが与えてくださった律法を忠実に守り、神さまに従って行くことによって、自分たちの国を再び復興できると真剣に思い、律法を守る事を実行していた人たちです。今日の聖句の後に記されている(18章)箇所では、一週間に二度断食し、神さまに従う正しい歩みを誠実に行うことができている事を感謝する、と祈っているファリサイ派の人の話しがあります。彼らは、そう祈るように、実際に、そのように歩んでいたのです。口先だけでなく、そう祈ることを実行する歩みをしていたのです。ある意味で、上席についてもおかしくない人たちです。その彼らに向かってイエスさまは語られています。

それは、上席に着くことを問題にしておられるのでなく、上席についてもおかしくないと思う、彼らの心の問題を問題にしておられるのです。彼らが、律法を誠実に守り実行しているという、自らの信仰による自己正当化と、それによる他者断罪に陥っている彼らの心の奥底にある傲慢さに矛先が向けられているのです。マルコ12章39節以下で、「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席に座ることを望み、云々・・・」と、記しているように、律法を守り、神さまに従う歩みをしているうちに起こってきている、傲慢さに囚われた律法学者たちの罪ということを問題にされているのです。

しかし、このファリサイ派の人や、律法学者たちの中に起こってくる、罪という心の問題は、彼らだけでしょうか。ルカ22章24節-27節を見ると、弟子たちも、自分たちのうちで、誰が一番偉いだろうかと議論した話しがあります。弟子たちでさえ、自分のことの評価にふりまわされたように、人は、皆、自分の中にある自分の中の、傲慢という罪の問題をもっているのです。

上席に着く、着かないという問題に対して、たとえ、末席に座っていたとしても、それは、末席に座る謙虚な人だと思われるためのものであって、心の奥底には、自分が他者に敬われようとする心に振り回されているのです。

私たちは、謙遜でありたいと思って、へりくだる中にあっても、自分を良く見せようとする欲に振り回されています。そのような驕る罪に振り回されていることさえも分からないでいるのです。

まことの謙遜の中で生きられるのはイエスさまだけです。私たちは、まことの謙遜の中に立っておられるイエスさまに出会い、そのイエスさまを通して、自分が、真の謙遜の中で立ち得ない、自分の欲に振り回される存在であることに気づかされるのです。そんな罪に囚われている私たちを、神さまは赦してくださっているのです。神さまに赦されて生きる中で、神さまに赦されているだけでなく、人にも赦されながら生きていることに気づかされるのです。

イエスさまは、“謙遜になりなさい、無償の愛の中にいきなさい”と、教え諭しているのではなく、まずは、まことの謙遜の中で生き得ない私たちの罪を明らかにされながら、その私たちを裁くのではなく、まことの謙遜の中で生きる者へと導こうとされているのです。

2010年8月22日 聖霊降臨後13日 「救いの責任・・・神か人か」

説教:五十嵐 誠牧師

ルカ13:22ー52   マタイ7:7:21-23

◆狭い戸口

13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。

13:23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同

に言われた。13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。13:26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。13:27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。13:28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。13:29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン

 

我が国のキリスト教信者の数は、カトリックとプロテスタントを加えても100万ちょっと位ですが、聖書の言葉は結構浸透しています。日常見たり聞いたりします。「福音」「目から鱗が落ちる」「目には目を」「右の頬を打たれたら左をだせ」とかです。また今日の「狭い戸口からはいるように」は「狭い門から入れ」と同じように使われます。受験期には見かけます。先日会議がありました。面白い話が出ました。私たちの教団は二つの学校を持っています。埼玉県の飯能に「聖望学園」・最近は高校野球で甲子園に行きました。浦和のは小中高の「浦和ルーテル学院」です。結構人気があります。で、浦和で「狭い門から入れ」(マタイ7:13)という標語がだされました。ミッションスクールですから、さすが宗教教育が盛んだと思いましたら、それは大学受験生のための言葉だったそうで、ビックリしたというのです。クリスチャンにはそう映ります。

何故かと言えば、そこの先生のほとんどはクリスチャンでないのです。ですから、これはいい励ましの言葉だと思ってしたようです。目くじら立てることもないかなと思いましたが、キリスト教の言葉がそれだけ日本の社会に入ってきたのかとも感じました。ですから、ある牧師は日本のキリスト教にも未来があると言いました。どうでしょうか。

さて、今日の福音書の所で、イエスに付いてきた人が、こう質問しました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と。これは現代も質問です。日本にキリスト教がきてから、カトリックでは500年、新教・プロテスタントでは150年です。それで100ちょっと位ですから、だれでも「何故、キリスト教はすくないのか」と聞かれます。私もよく分かりません。と言ったら怒られそうですが。いろんな理由が挙げられます。先だって、ICUの先生が「何故日本にキリスト教は広まらないのか」と言う本を出しました。後で触れます。

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。と同じ言葉があります。マタイの福音書の山上の垂訓・説教の「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」。(7:13-14)。です。少し違った観点から、マタイとルカは書いています。笑い話ですが、会うところで、講演会がありました。一方は「天国への道」。も一つは「天国についての講演」でした。多くの人が後者に「天国について」の講演会に入ったそうです。私たちはどうでしょうか。

この出来事は、ガリラヤの伝道の最中、エルサレムに向かっての途上の出来事でした。伝道したが、受け入れられなかったようです。何で救われる者が、少ないのかが関心でした。今の日本の状況と似ています。イエスはある時、「種蒔きの譬え」で、必ず、収穫はあるといいましたが、目の前は希望がなかったのです。(マタイ13:1-9)。イエスは答えは「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」でした。その後、神の国の宴会に入る者は少ないと言いました。入る資格があると思って戸口に来たが、締め出しを受けるのです。ただ、一寸解りにくいが、マタイ福音書の方の言葉を見ると理解で来ます。(マタイ7:13以下)。

「狭い門」はルカでは天国の宴会ですが、マタイは「命に通じる門」です。共に神が与える「救い」を意味します。戸口に来て入れない人とはどんな人かですが、ルカは「一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」。平行箇所のマタイの福音書では「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。(7:21)になっています。ですから、両方から見ると、単にイエスと食事をしたとか、教えを受けたとかで天国の門をはいれないこと、単なるつき合いではだめです。また、単に口先で「主よ、主よ」と言う者です。結局、神の国の門は狭いが、滅びへの道は広いと言うことです。だから、口先だけの信仰ではなく、神の御心をしっかりと行うことで、狭い門を入るようにせよということです。

イエスの時代も付和雷同・一定の主義・主張がなく、他人の意見や行動にすぐ同調する人が多かったようです。大勢イエスの話をききました。5、000人もありました。しかし。ある者は「話を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか(ヨハネ6:60)と言って去っていきました。

日本では信仰とか宗教は余り生活に関係ないと言えます。外国で入国で書類を書きますが。「しゅうきょう宗教欄は大抵「なし」と書きます。宗教や信仰のことは個人に任されています。自由です。これを政教分離と言います。しかし、国によっては政教一致:神政国家があります。イスラエルやアラブ諸国に多い。彼らにとって宗教とは生活の基盤です。私たちには宗教とか信仰は感覚的なものですが、ユダヤ人にとっては身にしみているのです。全存在に関わるものでした。イスラエルという国ではユダヤ教が国の、民族の宗教ですから、個人の宗教・信仰です。旧約聖書を読むと、ユダヤ人は神に選ばれた民・民族であり、神が共にいつも歩き、守られたという先祖以来の信仰を持っているのです。

そういう観点から、狭い門の言葉を見ると、ユダヤ人がイエスの言葉を聞いて、狭い門を入らないことやイエス・キリストを救い主と信じて狭い戸口からは入り、神の国の宴席に参加しようとしないのがわかります。イエスの招きは持っているものを捨てて、狭い入り口から入りなさいと言う勧めです。私たちも持っているものを壊しても、捨てても、キリストを受け入れることで、私たちは神の救いの上に、より優るものを持つことが出来るのです。本当に私たちを生かしてくれるのは神・イエス・キリストなのです。

キリストの福音・・十字架にかかり、復活したイエスを述べ伝えていますが、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問は、今もあります。教会が悪いのか、信じない人が悪いのかと・・。冒頭に触れた本ですが、ICUの古屋安雄先生の「何故日本にキリスト教は広まらないのか」は、原因をあげていました。大きな理由は、教会の社会の状況の変化への対応の遅さでした。この先生は、人は20年くらいの周期で心理的変化をするから、時代の風潮に一喜一憂する必要はないと言いました。面白い意見です。20年くらいで、いい時と悪いときが繰り返すと言います。一理ありました。そんな悠長な事はいっておれませんから、先生いくつかの点を上げていました。

1,青年・学生の出席が少ないが、教会が学生の変化を理解していない。エリート大学か  らマス大学の変化です。青年活動の活性化に気づかない。知識から働きへである。

2,牧師中心と信徒の冷凍化。非民主主義的教会。

3,社会的な問題にコミットしない。キリスト教とナショナリズムを結びつける事。

4,教会の神学的な論争と分裂。日本キリスト教団の激しい論争があります。

5,新しい伝道方向のなさ・大衆化を考慮すること。

他に細かいことが多くありますが、牧師として強く反省をさせられました。

私はもう一つ考えています。それは日本化です。日本は外来宗教を日本的に変えると言います。日本的なものになったとき、その信仰は受け入れられるているというのです。そういえば、仏教はその例です。日本の仏教は、また、神道も本来とは違って、御利益信仰・宗教になっています。新年の初詣を見れば解ります。「家内安全」、「商売繁盛」、「病気平癒」、「満願成就」、「合格祈願」とか一杯です。そして、人々が押しかけます。お祈りする人達もそんなに固く信じている訳ではないと言えます。気安い、気軽な信仰心ともいえますが。変身させるのが、日本の特色です。

キリスト教は変身しなかったと思います。中には変身したキリスト教があります。日本の伝統的思想・考え方を取り入れたものです。キリスト教は変身しなかったのは何故かです。御利益宗教・信仰に変身しないキリスト教が正しいのか、それが伝道の妨げなのか、難しいことです。皆さんはどうでしょうか。意見を聞きたいと思います。

今は座して論議している時間かという意見がありますが、しかしながら、教会は福音を述べ伝えて行くのですが、人々が、ユダヤ人のように先祖伝来の信仰に固着していくならば、それは神にとって残念なことです。信仰なんて考えたことがないと人もいると思います。それならば、その人はイエスの所に来るチャンスです。イエスの所にきて、イエスの声を聞き、イエスと共に歩く喜び、安心を、生活の基盤にしてほしいと思います。イエスと共に歩く道は「冒険の旅」です。わくわくした道です。みんなと共に冒険の旅をして欲しい。

イエス・キリストは救い主であるということは、揺るがない事実であり、このイエスを避けては救いはないのです。聖書はいいます。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス)のほか、人間には与えられていないのです」。(使徒4:12)。イエスも言いました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。(ヨハネ14:6)。

私たちは現在、信仰や宗教が、信じるか、信じないかで、生死を分けることのない世界に住んでいますから、昔のユダヤ人のように「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(ヨシュヤ24:15)とは迫られませんが、選ぶことは強制されませんが、選ぶ必要ないこととして、拒否してしまうな事にならないようにと、神は望んでいるのです。それを覚えて下さい。

イエス・キリストを信じて、揺るがない神の救いを土台としてもたれるように祈ります。 アーメン

2010年8月15日 聖霊降臨後第12主日 「主は愛する者を鍛える」

説教:安藤 政泰 牧師

8月15日は特別の思いがあります。小学生のこと母の兄弟の家に疎開していました。そこで 終戦をむかえました。現在は埼玉県狭山市になっています。

空襲に合い、怖い思いもあります。飛行機から撃たれそうになった経験もあります。しかし今でも思い出しますが、この戦争がいつ終わるのかと、との思いで過ごしていました。終わりの見えない戦争のように思えていました。それは 子供心にもつらい思い出としてあります。

戦争を知らない世代が日本の人口の半分以上になっていますが、戦争体験者としては、出口の見えない苦労はつらいものだという経験が実感としてあります。

さて、今日は第2日課のへブル人への手紙を共に考えてみましょう。Read more