2010年10月10日 聖霊降臨後第20主日 「この人はサマリア人だった」

説教:柴田 千頭男 牧師

ルカによる福音書17章11〜19節
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」


ルカによると主イエスは、最後にエルサレムへ上られた時、サマリアとガリラヤの間を通っていかれました。その途上、ある村に入った時、十人の者たちがイエスを出迎えたのです。しかし彼らはイエスに近寄ろうとしません。ただ遠く離れて立ち止まっていました。今日の話はそこから始まります。彼らは全員重い皮膚病をわずらっていたのです。この病気にかかっていた者については、ユダヤ人社会では、徹底した規制がありました。レビ記13章45
節から、その規制が記されています。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口髭を覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人はひとり宿営の外に住まねばならない。」彼らは他の健康な人に接することを禁じられ、社会からは隔離され、他の人と擦れ違う時には病気について黙っていてはならなかった。これがこの十人がイエスから遠く離れて、声を張り上げ、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ理由なのです。彼らは、人間としての存在すら認められていなかった、と言ってもよい。そういう人々がイエスに出会ったのです。イエスはその彼らにこう言われました、「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」。これはレビ記の規制を守った彼らに、イエスもレビ記の指示に従って対応したということです。レビ記14章によれば、重い皮膚病を患った人の管理、監督をするのはひたすら祭司の役割でした。人がこの病気に罹っているか、どうか、またその病気が治ったか、治っていないか、といった判断の一切が司祭にゆだねられていたのです。彼らはイエスの言葉どおり、祭司のところへ行ったが、その途中で奇跡が起こったのです。彼らは突然自分たちが清くなり、病気から解放されたことを知りました。もちろん彼らはそこから引き返さず、清くなった体を祭司に見せ、清められたという判断を下され、夢にまで見ていたに違いない社会復帰を許可され、喜びに小躍りしたでしょう。ここまではイエスの奇跡の話です。しかしそれが終わりではなく、ルカはここから重要な本題に入るのです。

彼らは自分たちを社会から締め出していた憎むべき病から解放された。その喜びはいかばかりか。しかし彼等はその喜びと感謝を癒してくださったイエスに伝えようとはしなかったのです。それをしたのはたった一人、しかもそれはユダヤ人ではなく、サマリア人だったというのです。だからイエスは「清くされたのは十人ではなかったか」とおっしゃり、このサマリア人に対してだけ、「立ち上がって、いきなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と宣言されたのです。ここはよくよく注意しなければなりません。救われた、と声を掛けられたのは、このひとりの人間であって、他の9人病を癒されたけれど、救われたとは言われていないのです。病は癒された、しかし彼らはその癒し手イエスと無関係に生きる道を歩んでいったのです。

ヨハネ14章19節でイエスは言われている、「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」と。これがクリスチャンの命の内実、内容です。イエス抜きでは、人は生きていても、それは死ぬべき命を生きているということが真相です。コリント第二の手紙の5章4節にパウロの、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう」という言葉があります。これはまことに凄い言葉です。人は病気であろうが、なかろうが、100%「死ぬべき」ものとして生きているは否定しようのない事実ですが、その死ぬべきものが、最後に命に飲み込まれてしまう、とパウロは言っているのです。そういう考えられない逆転が起こる、と言っているのです。そういう死を飲み込んでしまう命はただ一つしかない。十字架上で人類の罪を全部引取り、死なれたイエス、しかもその死に打ち勝って復活したイエスしかない。それが死を飲み込む命なのです。そしてそのイエスのものとされることが本当の救いなのです。表面的にはこのサマリア人と9人のユダヤ人との間になんの違いはないでしょう。だが人生の内実がすっかり違ってしまったのです。イエスと共にあるか、ないか。それは天と地の違いです。ここをさらに考えていきましょう。

この人がサマリア人であったことがここでは特に強調されています。イエスも「この外国人」と彼を呼んでいます。これはどういうことでしょうか。このルカ17章から少し戻って9章に行ってみますと、驚くことがそこに記されています。エルサレムへ向かう決心をされたイエスのため、弟子たちが準備、恐らく宿泊の準備のためでしょうか、サマリア人の村に入ったという話が出てきます。ところがサマリア人たちは、イエスがエルサレムへ行く途中と知ると、イエスを迎えることを拒否してしまった、のです。弟子のヤコブとヨハネはこれに激怒して、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」というような、とんでもないことを口にしています。それだけ冷たくあしらわれ、腹がたったのでしょう。だがこれがユダヤ人とサマリア人の現実でした。エルサレムの神殿とサマリアのゲリジム山は敵対関係にあり、同じ神を信じながら、彼らの宗教は二分されていました。ご存知のように、この時代、聖書ですら三つありました。ヘブライ語聖書、ギリシア語の七十人訳聖書、それにサマリア聖書と言われるものです。なぜそのような分裂があったのか。列王記下17章によると、紀元前8世紀にアッシリアによりサマリアのある北の王朝イスラエルは滅んでおります。その時、アッシリアは人々を大挙連れ去り、そのかわり他民族をサマリアに植民したのです。その後、アッシリアが滅亡しましたが、この植民された人々はその地に残っており、当然しこりの原因になっていました。有名なヨハネ福音書4章のイエスとサマリアの女の話がそのあたりを語ってくれています。そこではイエスが女に水を所望していますが、女はイエスに「あなたがたユダヤ人はサマリア人とは交際しない」と9章で言っています。交際と訳されたスンクロマイσυγχρωβαιという言葉は本来一緒に物を使用する、例えば「同じ桶で水を飲む」といっている言葉ですから、ここではもう同じ釜の飯は一緒に食べない、という意味なわけです。だから隣合わせに生きていてもこれでは「外国人」です。それがサマリア人とユダヤ人の現実でした。

にもかかわらず、ここではこの現実に逆転が起こったのです。まずこの外国人に、「あなたの信仰があなたを救った」とイエスは宣言されたのです。これは「あなたはわたしの永遠の命にあずかったのだ」ということとまったく同じです。これが福音なのです。そしてこの福音が、人間がもたらした罪の現実に、価値の転倒をもたらすのです。ここではもう、重い皮膚病を病んでいるか、いないか、という区別も、ユダヤ人か、サマリア人かという区別も、身内か、身内でないか、という区別も無くなってしまう。信じるというだれでも可能な、平等の地平にすべての人が立つことを許されるのです。それなのに、そういう区別に固執するなら、その人はもうイエスが何であるか全然わかっていない人です。今日のこの話では、天から火を降らせ、焼き殺してもよい、とイエスの弟子ですら思ったサマリア人のひとりが、あなたの信仰があなたを救ったと言われたのです。これが福音なのです。

10月は宗教改革記念日の月です。信仰がすべてだ、という真理を再確認したルターが、その福音をかかげて教会の改革運動に乗り出したという出来事、厳密に言うなら、この原理への回帰運動を起こしたことを記念する月です。この真理を教義的には、信仰義認とパウロは呼びました。人間はイエスを信じることによってのみ、神によって義と宣言され、神に受け入れられるという真理です。この真理を教会が見失うなら教会は単なる建物か、親睦会のような人の集まりになってしまいます。なにを言おうと教会ではなくなってしまいます。しかし、この聖書の真理は、今の世界に対して、聖書の時代、あるいは宗教改革の時代と同じようなインパクトを持っているのでしょうか。最近、ある報道番組に本当に心をうたれた出来事がありました。いま敵対するイスラエル人とパレスチナ人との間に起こった出来事ですが、イスマエルというパレスチナ人の子供、アメフド君といいますが、その子がイスラエル兵に頭を撃たれてしまった。しかしその手当はパレスチナ側の病院ではどうしようもなく、アメフド君はエルサレムの病院へ運び込まれました。だがすでに脳死の状態になって治療はできない状態でした。そこで医師は父のイスマエルさんに臓器の移植はできないか相談を持ちかけたのです。父親は子供の死を無にせず、他の人を救うことになるのなら、といって臓器移植を了承しました。アメフド君の臓器は、なんとイスラエルの5人の人々に移植されたというのです。そして日本と違い、その移植を受けた女の子、サマハさんとその家族に、父親は会っているのです。元気になったサマハさんを囲んで、二つの家族がお互いに親族のように交わりを始めたというのです。互いに人間であるという共通の地平に立ち、憎しみの壁を超えた家族がそこに生まれたのです。この報告をしたのは医師の鎌田実先生です。これは政治ではない。これは愛の問題です。そしてそれこそ神は愛なり、神のわざです。信仰義認をかかげたパウロの信念は、イエスにあってもう男も女もない、ユダヤ人もギリシア人もない、自由人も奴隷もない、ということでした。なぜか。イエスはすべての人のために死に、そして復活し、それをすべての人に保証しているからです。これがまた、教会に委ねられている福音なのです。だから教会は信仰義認の声を上げ続けなければならない。なぜか。そこに現代の宣教もあるからです。

2010年10月3日 聖霊降臨後第19主日 「質か量か」

説教:安藤 政泰 牧師

ルカによる福音書17章1〜10節

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」


信仰を「質」と捉えるのか、それとも「量」として考えるのか。

「信仰を増してください」この場合は信仰を量と考えるのではないでしょうか。

「信仰を強めてください」この場合は信仰を質と考えるのではないでしょうか。

All or nothing と言う英語の言いかたがあります。

丸ごと受け入れるか、 全然受け入れないか、 どちらかでしかなく、 その中間は無い、という意味です。

さて、今日の聖書の箇所に入りましょう。

主イエス・キリストはその弟子たちに罪と闘う備えをさせておられる箇所です。

詳細に見ると、1節〜4節 5節〜6節 7節〜10節と3つに分ける事が出来ます。

17:01 「イエスは弟子たちに言われた。つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」

初めの部分は、イエス・キリストの直接の弟子たちでさえも、罪の堕落に落ちる可能性がある、ということです。そうした誘惑に対して主は神のみ心を知らせ、常に武装させておられるので、そのような罪をもたらすものは「災いである」と述べています。

17:02 「そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」

ましてや、その罪の誘惑者になる者は、あの石臼(いしうす)を首につけられ、海に投げこまれた方がましである、と記しています。

これは多分にパリサイ人を意識し、自分の尺度で人の罪を測たり、自分自身を義としたりすることを戒めています。神の尺度と人の尺度は違うということです。

17:03「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。

17:04 「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

主イエス・キリストの弟子である私達は、自分一人でこの問題に対処する必要があるのではなく、一つの共同体、イエス・キリストにある共同体としてむかうべきなのです。私達はたとえ人の目には重い罪であっても、一度その人がその罪を神の前に告白し許しを乞うのであれば、それはゆるされる事を、共同体としての教会は示さなければなりません。しかし、その罪が認識されず、告白されないのであれば、悔い改めるまで、罪として断定される事も同時に示す必要があります。

人の尺度ではなく神の尺度である、ということです。1日に7度罪を犯し、7度悔い改めるなれ許せ、度々罪を重ねても、の意味です。

17:05 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、

17:06 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

弟子たちは信仰を増して下さるように主に願っています。信仰は増すことが出来るようなものでしょうか。信仰は、あるか、ないか、この二つしかない、と主イエス・キリストは示しておられます。

17:07 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。

17:08 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。

17:09 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。

17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

信仰によってイエスと共に生き、共に働く者は、だからと言って、特別の報酬を獲得する権利を得る事は無い、ということです。自分を召した主への謙虚な態度、献身・奉仕が実を結ぶのは、その自分の行為に対して何の要求も出さないときです。

神から与えられた信仰を感謝の内に自分の身に受け、イエス・キリストにある共同体としての教会の働きが出来るよう祈りたい。

他人を個人的には許せない場合も、共同体としては、客観的に許すことが出来るのではないでしょうか。それでも、意固地に、許さないとするのは、傲慢です。共同体が許しているのだから、許せないが許そうと勤め、主の導きを切に祈るなかで、生きるのが信仰者でしょう。

2010年9月19日 聖霊降臨後第17主日 「行動しながら考える人」

ルカによる福音書  16:1~13

説教:安藤 政泰 牧師

説教概要

不正な家令の物語りと言われている、この福音書の箇所は又理解するのに難しいところとしても有名です。

8節 「ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。」また聖書は9節ではその友人のつくりかたについて「不正の富を用いてでも、自分のために友をつくるがよい」とも述べています。

この箇所が何故理解するのに難しいのでしょうか。それは、倫理的に聖書の述べるところを考えようと無意識のうちにしているからではないでしょうか。

私達は聖書に倫理的基準を求めているのでしょうか。または具体的に生活の指針を見付けようとしているのでしょうか。聖書に記されている文字道理の生活をし、そこに記されている通りの倫理的基準に従って生活しようとしているのでしょうか。

先に引用したように主人はその不正な家令をほめました。しかし、その家令の何をほめたのでしょうか。その不正そのものを褒めたのでしょうか。

主人のものをくすねたこの家令は、その主人から会計報告を求められました。この家令は色々と策を考えます。そして、一層悪いことに、主人の負債をまけてやる事を思いついきます。それは、首になった時の事を考えて、後の生活の道をつける、という事です。

主イエス・キリストはこのような、「不正の家令のやり方を褒めて」います。友人をつくるさいの仕方についても考えてみたい。

自分自身の身に迫った危険に対して、この家令は有りったけの知恵を働かせて対処しました。

私達はこのような実行する力を持って信仰について考え行動しているでしょうか。様々な問題を考えてなかなか実行出来ないのが私達の現実では無いでしょうか。特に信仰にもとずく愛の行動、行動については、即座の判断と実行が必要ですし、自分自身の信仰については厳格である必要があるでしょう。

自分の力の限界を考え、自分の思いの不純さを考え、更に相手にどの要に受け取られるかをおもんばかり、実行に映せないのが今の私達の現実ではないでしょうか。

聖書はこの不正な家令の行動そのものを褒めて、また勧めているわけではありません。聖書は私達と神との関係の持ちかたについて述べています。

人には、考えてから行動する人、行動しながら考える人の二つのパターンがあると言います。

私達は信仰に於いては考えてから厳格に行動に映すものであり、又、その愛の行為に於いては、主イエス・キリストに導かれるままに、行動しながら考える者でありたいです。

2010年9月12日 聖霊降臨後第16主日 「共に喜ぶ」

ルカによる福音書15章1〜10節

説教:樫木 芳昭 牧師

(要約)

◇今日の福音書は徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来たと始まっている。

X-st.は、彼ら徴税人や罪人をたびたび訪ねているので、この徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来たことは特別のことでない。

◇が、ファイリサイ派の人々や律法学者たちには、このX-st.の姿勢が理解できなかった。

◇神の掟に従って清く正しく生きようとするファリサイ派の人々や律法学者たちにとって、征服者Rm.のために税金を手数料込みで取り立てる徴税人は、忌み嫌うべき穢れた人間であった。

◇罪人とは、律法学者が定めた解釈に従って生活しない人びとで、実態は今の世なら不道徳な人、恥ずべき職業についている人びと。

◇こうした人びとは、ファリサイ派の人々や律法学者たちから蔑まれ、白い目で見られていた。

◇また、律法学者やファリサイ派の影響を受けた人びとも、彼らを軽蔑し、白い目で見ていた。

◇ここで問題は、神が聖なるお方であると考え信じることは信仰の基でだが、その神の聖なることを、人間が多分こうだろうと想像し、それを尺度にすること。

ファリサイ派や律法学者たちは、神は聖なるお方であるから、当然人間も聖なる者であることを厳しく求めると考えた。

律法学者とは、この様な考えに基づいて、人間が聖なる者となるための神が形と道を定めたのが、所謂、律法・掟だとした。

◇このような道は人間の努力目標としてはよいが、それが基準となると、彼らの定めた道を歩めない者は皆、穢れた脱落者、神から見捨てられたものとなる。

◇そして、同時に求められた能力のない者は、所謂、脱落者、落ち零(こぼ)と切り捨てられる。

◇換言すると、弱い人間、恵まれない人間は切り捨てご免、絶望するより他に道がないことになる。

◇今日の日課に登場するファイリサイ派の人々や律法学者たちは、善く言えば、何があっても揺らぐことのない信念の人、悪く言えば天井天下唯我独尊、手に負えない頑固・頑迷な人びと

ファリサイ派の人々や律法学者たちにとって、徴税人や罪人は、言葉を交わすことはおろか、傍に近付くのも忌み嫌い、避けるべき人びと。

X-st.は、その徴税人罪人が話を聞こうとして近寄って来るままにしているどころか、罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている

◇これはファイリサイ派の人々や律法学者たちには言語道断。

◇それで、彼らは口々に不平を言いだした

◇この不平を言うという語の原語、新共同訳聖書で、他に囁く、呟くと訳されている、自分の期待に反していることを口にするを表す語。

◇そして今日の日課の不平を言うは、その強調形、つまりその不平の激しさを示している。

NT.不平を言う強調形は、今日の日課と、これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」Lk. 19;07.X-st.徴税人ザアカイの家に入って行った場面の二箇所だけ。

◇つまり、不平を言う強調形は、ファイリサイ派の人々や律法学者たちとその考えに同調する人びとが、罪人を迎え入れるX-st.を理解できなかったことを示している。

◇今日の二つのX-st.たとえは、そのファイリサイ派の人々や律法学者たちの考え方の誤りを指摘する話。

◇この二つのたとえ三つの共通点がある。

◇第一、この二つのたとえが共に神の憐れみを語っている。

聖なる神の憐れみは、欠けを許すことが出来ない。

◇だから徹底的に失われた羊、失われた銀貨を捜したようにその欠け、人間のマイナスである欠点を覆う。

神は人間の欠点や汚れを絶対に赦すことが出来ないが故に、その欠点、汚れを覆われる。

◇つまり聖なる神であればこそ、神は厳しく人の欠点や穢れを糾弾し、そしてその欠点や穢れ憐れみによって人を覆われる。

◇そう、欠点や穢れの故にをご自分の前から排除して切り捨てるのではなく、賛美歌No.303.このまま、我を愛し召し給うと歌うように、あるが侭の人を受け容れる。

◇第二、は、迷い出た1のために99を残して捜しまわる羊飼いのように、9も残っているのに、失われた1を見付けるまで家中を捜すのように、欠点や汚れがあるからと弾き出されるを捜し求める。

◇残りが99もあろうと、残りが9あろうと、失われたを見つけるまで捜す、此処に、神の不思議な計算、福音の計算がある。

◇私たちの計算は合計を出して+か−を重く見、+を良しとする利益の計算。

◇だが、神の計算は常に−を重視する計算。

100匹の羊の内のが失われる、これはの−。

10枚の銀貨の内のを見失う、これは10の−。

◇も実感として、千円入れた財布から10円失われて、私たちは痛みを感じるか。

10円硬貨10入れたつもりの小銭入れ、開けたら9、そのとき、私たちは大騒ぎをするか。

◇私たちの計算ではの損失は殆ど問題ではない。

◇また10の損失も、それほどの打撃でない。

◇しかし、神の計算では%ではれ、10%であれ、失われたこと、−が問題。

神の計算は常に残された者の側でなく、失われた者の側に立っている。

◇第三は、今日の日課の中で、見つけたから、喜んでその羊を担いで、見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい、大きな喜びが天にある、無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください、神の天使たちの間に喜びがある喜びという語が5回も用いられている。

◇この喜び神の喜びを指している。

◇この神の姿は、世界で一番信仰深いと自認するファリサイ派や律法学者たちの考えた正義の神の姿からは思いもつかぬもの。

X-st.はこの例えで、その神の喜び自分の喜びとして受け容れるか、あるいは、神が喜ぼうとも、正義は正義、罪人は罪人断罪するかと問われている。

は、人の義ではなく、ご自信の義で人を裁き、判決を下す。

は、迷い出たことを迷い出た、失われたことを失われと、人の罪を罪と認めた上で赦される

◇換言すると、は人の過去をすべてご存じで、人には情状酌量の余地はないとハッキリと認めた上で、その過去、その罪を問わないという判決、赦しを与えられる。

◇神が失われた者を捜し出すのは、その人を断罪するためではなく、その人を赦すため。

◇このの私たちに対する思いを具体的に表す方が人となられたX-st.

◇故に、今日の例えに記されている喜び神の喜びである。

X-st.のみが、失われた者を見つけ出して喜ばれる方。

◇これは他人事ではない!

◇そのX-st.が捜し出してくださったので、あなたは今日ここにいる。

◇あなたを探し出し、そして一番喜んでおられるのはX-st.

X-st.はあなただけを探し出し、そして一番喜んでいるのではない。

X-st.は、仮にあなたがファリサイ派や律法学者たちの眼鏡をかけたら、穢れた者、罪人と映る人を捜し出し、そして一番喜んでおられる。

◇そう、あなたも、あなたの隣人も、神の喜び、X-st.の喜びなのです。

◇共に神に喜ばれる者として互いに受け容れ、共に喜び、共にこの世をみ許に至る日まで歩もう!