2009年9月6日 聖霊降臨後第14主日 「恵みのパン屑」

マルコ 7章24-30節 

 
説教  「恵みのパン屑」  大和 淳 師
イエスはそこから立ち上がって、ツロとシドンの地方へ行かれた。彼はある家に入って、だれにも知られたくないと思われた.しかし、隠れていることはできなかった。
汚れた霊にとりつかれた小さい娘を持つ女が、イエスのことを聞くと、すぐにやって来て、彼の足もとにひれ伏した。
その女はギリシャ人で、スロ・フェニキヤ族であった。彼女はイエスに、娘から悪鬼を追い出してくださるようにとお願いした。
イエスは彼女に言われた、「まず子供たちを満腹させなさい.なぜなら子供たちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないからだ」。
すると、彼女は答えて言った、「主よ、そうです.しかし、食卓の下の子犬でさえ、子供たちのパンくずはいただきます」。
そこで、イエスは彼女に言われた、「その言でよろしい.行きなさい。悪鬼はあなたの娘から出て行った」。
彼女が家に戻って見ると、その小さい子供は寝床に伏しており、悪鬼は出てしまっていた。

 今日の福音書、「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれ」の一人の女性が登場します。この名もない人は、ユダヤ人から見れば救いにもれる人、異邦人であったのです。この人が「すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」と言いますが、それは、既にイエスの説教を聞き、またその御業を目撃した人から伝え聞いたからでしょう。と言うのもこの福音書のもっと前、3章8節を読みますと、このティルスの地方からも多くの人々が、既にイエスのもとに押しかけて来たことが記されています。「エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た」と。いわばそうした人々の噂話のような話を伝え聞いて、この人は、すぐにイエスの足下に平伏したのでしょう。噂話のような断片的な人々の言葉から、この人は何をとらえたのでしょうか。聖書は、その辺の事情については何も記していません。しかし、この女性はたとえ、噂話であったとしても、イエスのこと、まさしく福音を聞いたのです。つまり、この人自身、後にこの主イエスに言う「食卓」からこぼれ落ちた「パンくず」を既に拾っていたのです。わたしどもから見ればパン屑のような、福音の断片が、この人を立ち上がらせた。既に福音が、この女をとらえています。本当に小さな欠片のようなみ言葉がわたしたちの心を最初にとらえ、動かし、立ち上がらせる、それが福音なのです。

わたしどもは漠然とこんな風に考えているかも知れません。「もっと充分に豊に、あるいは力強く福音の言葉が語られ、聞かれなければ、この人のように立ち上がることは出来ない、人生を変えることは出来ない」と。そのような目でみると、この人の行動は実に驚くべきことです。しかし、そんな彼女が拾った、力となった言葉とは、それは6章35節以下の、あの五千人の人々を五つのパンと魚二匹で養った物語で、その後「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の篭にいっぱいになった」と言う、そのパン屑、その後、嵐の湖上で、弟子たちは「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」(6章52節)と記されていますが、弟子たちは「パンの出来事を理解できなかった」、いわば、そのようにその弟子たちが食べ残したパン屑、そのパン屑のような福音こそが、この人を立ち上がらせたのです。

さて、この人は悪霊につかれた娘、子供をかかえて、深い絶望の底にいたのでしょう。マタイでは、この母親は、叫び続けたと言います。自己を取り乱して、切にイエスに願ったと言うのです。最早娘のためどころか、自分自身のために、助けて下さい、と泣き叫ばなければならないこの人です。しかし、イエスは何とこの女の願いを退けてしまうのです。しかも、拒否などというなまやさしいものではありません。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」、取り繕う間もないほどの拒絶です。マタイ福音書では、もっと徹底して、イエスは一言も語らなかったと言います。そして、弟子たちはまるで犬でも追い払うかのように、この女を扱っています。

何故、これ程まで厳しい拒絶をなされ給うのでしょうか。もう一度この物語の最初にかえってみますとイエスは「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」(24節)、「だれにも知られたくないと思っておられた」と記されています。そういう意味では、イエスは、ここでは全ての人々を退けようとした、そう考えていいのではないか。人々は、イエスをもてはやし、追い求めています。病気を治して欲しい、悪霊を追い出して欲しい、そういう願いをもってくる訳です。しかし、今や十字架の時が迫っている、これらの人々、いや、わたしたち全ての命と向き合うために一人になり給う主イエスがおられるのです。

だから、少なくともこの人自身、あるいはこの母親一人を拒否したのではない。そういうイエスの否、拒否、マタイの記すところの沈黙、この女は、いわば代表のようにして、この命に向き合う方に相対している訳です。もちろん、それはこの人が、他の人々と違って、どこか優れている、見所があるという訳ではない。やはり、イエスを追い求める他の人々と同じような不幸を背負い、それ故に必死でイエスにすがるわけです。もっとも、他の人々とは違って、この女は、イエスの足下にひれ伏した、ひれ伏す信仰をもっていた、そう言えるかも知れません。けれど、そのようなひたむきささえ、どこか、最早てこでも動かないような頑固さを感じないでしょうか。切羽詰まれば詰まるほど、わたしどもは、どうしようもないエゴ、自己中心になっていくのです。熱心になればなるほど、最早そのこと以外に考えられなくなる、自己を押し通してしまうのです。イエスは、そのような人間、一人の生身の人と向き合っているのです。このイエスの激しいというより、これ以上ない拒否は、女がひたむきであればあるほど、そのひたむきさ、その切実さ、その彼女の苦しさと真剣に向き合っているイエスなのです。

確かに、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンをとって小犬に投げてやるのはよろしくない」。それは本当に耳を塞ぎたくなるような言葉です。だが、それは、形や状況を変えてわたしたちもまたこの人生の中の様々な苦しみの中でそれぞれ等しく体験することです。そして、多くの人は、大抵そのような拒否に出遭うと失望してしまうのではないでしょうか。そして、失望や疑いの中で、孤独に耐え切れず、願いや望みを、いいえ、自分自身を放棄してしまうのです。「所詮、救いなどないのだ」と。しかし今この人が相対しているこの主との一対一の世界、この深い孤独は、本当に冷たい放棄された、見捨てられた者の孤独なのでしょうか。何よりこの人の命、救いがかかっているのです。今、単なる情けが、一時の気休めが必要なのではない、この方は、ご自身の命をかけてこの人に相対しています。

そして、このイエスの拒否に、この人はふてくされたり、かんしゃくを起こしたりするのではなく、本当に素直に対しています。つまりイエスの沈黙、拒絶、それは、冷たい岩のようなものでは決してないということです。「主よ、しかし・・・」と言える自由がある。「なるほど、お言葉通りです。あなたの仰るとおり、わたしの願いは、どこまでも筋の通らぬもの、エゴそのものです。犬と劣らぬものです。・・しかし、主よ」と。確かに熱心になればなるほど、頑なまでに自己中心になるわたしどもです。正しければ正しいほど、エゴに深くからみ取られるわたしたちです。だからこそ、断固とした厳しいまでの拒否の中で、イエスは、しかし、真剣にわたしたちと向き合ってくださるのです。

裁かれて、地獄の火に真っ先に投げ込まれても致し方がないわたしなのです。でも、信仰とは何でしょうか。そのようなエゴを自分で捨てていくことでしょうか。そうではなく、そのような自分が、あえて、「しかし、主よ」とこの方に向き合っていけることではないか。図々しいのは分かっています。虫のいいのは分かっています。「でも、食卓の下にいる子犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。この「主よ、しかし」の「しかし」を支えるもの、「でも」を支えるもの。それは、この人のエゴ、わたしのエゴではないのです。では、何がそこにあるのでしょうか?

確かにこのイエスは、あたかもこの人の人間のエゴに説得され、打ち負けたかのようです。しかし、福音書には、そのようにイエスが本当に説得されるところがあります。「ゲッセマネの祈り」です。あの十字架、それを目前にして「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」給うイエスです。しかし、イエスは、神に説き伏せられるように、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と受け入れるのです。父なる神の沈黙、拒否を受け入れ給うのです。そこではイエスご自身がこの女性なのです。いえ、この方だけが、この女性の立場に立ち給うのです。神の否を、この人、わたしに対する否を、ご自分の死をもって受け入れ給うのです。この方の死をもって、わたしたちの命が始まるために。

先ほど、「信仰とは何か。そのようなエゴを自分で切り捨てる、切り捨てていくことではなく、そのような自分が、あえて、「しかし、主よ」とこの方に言うことではないか」と申しました。だから、わたしは罰せられても仕方がありません。拒否されても仕方がありません、と去っていくことではないのです。そのような自分でありながら、尚、「しかし、主よ」と、この方に迫っていける、信頼していいのです。この方は、わたしどもを拒絶の壁の外に冷たく放り出すのではないのです。信仰とは、この「しかし」を、「でも」と言える自由をもっているということです。自分の正しさ、主張をあっさり捨てられる自由をもっていることです。だから、この女の答えは輝いています。自分を犬にまでなぞらえるような低きに立ちながら、しかし、卑屈になるのでなく、しっかりとこの方を見つめています。

この方の拒否、否、それが厳しければ厳しい程、わたしどもには救いがあるのです。自分の救いようのなさ、そういうことをつくづく感じて、ここに座っている方がいませんか。こういう自分はどうしようもないんじゃないか、そういう思いでおられる方もいるかも知れません。自分でしてしまったこと、しなかったこと、あるいは、他人のしたことを許せないでいる自分であるかも知れません。キリストはまた否のお方、厳しく裁くことのできるお方です。しかし、それは徹頭徹尾こういうことです。わたしどもは、最早自分で自分を裁いてはならないのです。わたしどもは、他人を裁くことはできないと同様、自分自身も裁いてはならない、必要はないのです。それは、このキリストが独りなされることです。だから、委ねる。この方を知る者は、おどおどしつつこの方の前にでなくていい。そこにおられるのは、最早わたしたちを裁くのではなく、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、そのように十字架でわたしたちのために叫んだお方だからです。パン屑を拾ったこの人は、わたしたちはことごとくまさしく十字架と向き合うのです。突き放されたそこ、見捨てられたような瞬間、そこでこそ主イエスご自身が、苦しみの中でこそわたしどもを真正面に向き合っていてくださるからです。見捨てられるべき人間の前に、しかしこの方、真の神のみ子がおられるのです。

 みなさんも、これまで聖書、つまり、み言葉を聴いてこられたことでしょう。礼拝において、あるいは聖書研究や、また個人個人でも、中にはよく分からないままに、ぴんと来ないと心の奥にしまってそのままになっているみ言葉もあるでしょう。本当に自分を支えるものとは思えないままに。そして、このわたしたち自身、また教会は何と小さい、みすぼらしいのだろうと感じているかも知れません。まさにパン屑のような存在のように。

だが、そのパン屑を手にしてこそ、わたしたちはこの主と相対しています。いいえ、まさに「パン屑」を通してこそ、主イエスはわたしを受け入れ、今も働き給うのです。

 だから、この人は、あの見窄らしさの中で、取り乱した中で、自分を失ってしまうのではなく、何処までも低くなりながら、犬までに落されるような低みの中で、イエスと対等に「わたし」であるのです。何という自由の中にこの女はあるでしょう。「主よ、お言葉通りです」、「然り、主よ」。けれど、「でも、食卓の下にいる小犬も、子供のパンくずはいただきます」。この答えが見事なのは、この人の機智でも利発さでもなく、あの切羽つまった緊張感が、少しも失われることなく、更に一歩前に進み出て行くことができるからです。かつて、嵐の中で、イエスは弟子たちに「恐れるな。信じなさい」と命じ給うた、その信仰が、弟子たちではなく、この異邦の女の身に起きています。信じることのできないわたしたちです。常に身勝手さ、エゴの渦まくわたしたちです。拒絶されても当然の自分です。だが、恐れ戦くことはないのです。諦めてはならないのです。「然り、主よ」、と言える方がおられるのです。わたしの真正面に向き合ってくださる方がおられるのです。だからこそ、「けれど、でも」とこの方に言えるのです。どんなに自分が罪深く、相応しくない者であっても。

信仰とは、このかたへの絶対服従です。いわば、自分を捨て、自分の十字架をおうて従わなければならない、いわば子犬のごとく従う謙遜です。けれど、それだけでは信仰の一面なのです。それでもなお、と叫ぶ恵みの余地が、自由が開かれているのです。女は、「主よ、お言葉通りです」と、主に服従します。しかし、それは全く奴隷の服従、屈従ではありません。イエスと一対一と向き合っている「わたし」です。ありのままのわたしから火の出るような一対一のイエスとの関係から生まれてくるわたしです。この人は、このイエスによって、あの悲劇の中の自分、苦しみの中にある自分をさえ受け入れることができたのです。自分の境遇を、自分自身をありのままに受け入れているのです。もし、何でわたしがこんな目に合わなければならないのか、何でわたしだけが苦しまなければならないのか、そんな思いに女があったとしたら、この信頼は出てこないでしょう。言えば不平も言えたでしょう。語れば尽きない苦しみです。人知れず流した涙があるのです。しかし、「主よ、お言葉通りです」。女は、しっかりと自分を取り戻します。彼女は自分の十字架を負うことが出来たのです。このイエスに支えられて、十字架を負うのです。そして、それでもなお、という恵みの内に生かされます。何一つ失うことなく、こぼれたパンくずから、何と大きな確かな世界を受け取ったことでしょう。それ故、イエスはこの女の言葉を我がことのように喜んでおられるのです。それは、わたしたちすべてを喜んでくださるということ、誰一人失われてはならないが故に、「主よ、お言葉通りです」、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」、この女の告白をわたしたちも担っていい、それを喜ぶお方があなたと共にいるのです。

2009年8月30日 聖霊降臨後第13主日 「人を汚すもの」

マルコ 7章1-15節

 
説教  「人を汚すもの」  大和 淳 師
さて、パリサイ人とある聖書学者たちがエルサレムから来て、イエスの所に集まり、
彼の弟子たちが汚れた手、すなわち、洗わない手でパンを食べているのを見た。
(パリサイ人とすべてのユダヤ人は、昔の人たちの言い伝えを固く守り、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしないからである.
また彼らは、市場から帰った時には、身を洗ってからでないと食事をしない。そのほか、杯、水差し、銅器をすすぐことなど、受け継いで固く守っている事が多くある)。
そこでパリサイ人と聖書学者たちは彼に尋ねた、「なぜあなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えにしたがって歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか?」
イエスは彼らに言われた、「イザヤはあなたがた偽善者のことを、よくも適切に預言したものだ.こう書かれている、『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている.
彼らは人の戒めを教えとして教えながら、むなしくわたしを礼拝している』。
あなたがたは神の戒めを放棄して、人の言い伝えを固く守っている」。
イエスはまた言われた、「あなたがたは自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めを捨てたものだ。
モーセは言った、『あなたの父と母を敬え』.また『父や母をののしる者は、殺されなければならない』。
ところがあなたがたは、『もし人が父や母に、あなたがわたしから得るものはみなコルバン(すなわち、神への贈り物)ですと言えば、
その人に、父や母のためにもう何をしなくてもよい』と言う。
こうしてあなたがたは、自分たちが伝えてきた言い伝えによって、神の言から権威を奪っている。また、これと同じような事を多く行なっている」。
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて、彼らに言われた、「みな、わたしの言うことを聞いて、理解しなさい。
外から人に入って人を汚すものはない.むしろ人から出て来るものが、人を汚すのである。

 「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。キリストは、そのようにファリサイ派の人々、律法学者を批判されます。ことの発端は、「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者」がいたからでしたが、ファリサイ派の人々、そして、エルサレムから来たと言う律法学者の人々が、それを見ていたのです。手を洗わないで食事をする、それは、単に衛生上の問題ではなく「昔の人の言い伝え」とあるように、全くの宗教上の理由からです。あえて言えば、非は手を洗わなかった弟子たちにあります。ところが、主イエスはここで弟子たちをたしなめることなく、ファリサイ派の人々を叱責されるのです。

そして、そのファリサイ派の人々、律法学者たちへのイエス言葉はまことに痛烈です。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。[この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。]あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(6~8節)。このイエスの言葉は、ファリサイ派の人々、律法学者たちに向けられたものです。とは言え「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」、これもまた、全くわたしたちに関係のないことだろうか。そう思うのです。イエスのファリサイ派の人々に対する批判は更に続きますが、13節では、「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」。最初に「神の掟」とここで言われていたのが、ここで端的に「神の言葉」と言い換えられ、それが「無」にされている、と言うのです。神の言葉を無にしている。福音を無にしているのだ、と。神の言葉は、自らの生活、自分の日常生活では関係ない、まるでそこに無きもののように無視し得るのだ、そう言われるのです。それは、手を洗わなかった弟子たちも同様でしょう。そして、このわたしたち自身、わたしたちはそうではない、わたしは神の言葉を無にしていない、そう言える人がいるだろうか。わたしたちは、わたしたちなりの仕方で、神の言葉を無にする、そういうものになっているのではないでしょうか。

神の言葉を無にしている、ここで主イエスが何を見ておられるのか?神の言葉を無にしている、つまり、まったくわたしたちのこの生の足もと、あるいは、わたしたちの心の根の問題です。それ故、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」、まるでとどめをさすように、ただ単にファリサイ派の人々たちだけにではなく、そこにいた群衆すべてに向かって、そう言われるのです。人を汚すもの、わたしを汚すもの、わたしを躓かせるもの、それは「外から」ではない、徹底してわたしの内、わたしの中から出て来るものが、わたしを汚すのだ、と。

キリストは、まったくわたしたち自身の罪、神の言葉を無にしている、神ご自身を無にしている、そのようなわたし自身に向き合うことを求めておられるのです。わたしたちが、あれこれの人を批判する、問題にする、だがしかし、あなたの内はどうなのか、そのように問うておられる、と考えてもいいかも知れません。だから最早主イエスは、それをファリサイ派の人々、律法学者たちに言うのではなく、「群衆に」、つまり、彼らだけではなく、すべての人間に向かって言われ給うのです。

主イエスは何よりそのありのままのわたしたち自身をご覧になっておられる、。主イエスの視線を辿っていくとありのままのわたしたち自身があるのです。

そこでもう一度、この物語のはじめに戻ってみたいのですが、このことは他ならない、当のことの弟子たちを巡って起きたことでした。この主イエスの視線から離れて彼らを見ていると、そもそも何故、弟子たちは手を洗わなかったのだろう、そう思います。2節を見ますと、弟子たちみんな洗わなかったのではなく、中の幾人かが洗わなかったのです。ということは大多数の弟子たちは洗ったのです。しかし、目につく程度の人が手を洗わなかったということです。彼らだって、ユダヤ人でしたから、小さいときから親たちにしつけられてきたことではないでしょうか。つい、うっかりしたのでしょうか。それとも、手を洗う暇もないほど忙しかったのでしょうか。それに対して弟子たちの言葉、言い訳や弁明は記されていません。そしてイエスご自身もまた、手を洗わなくてもいいとか、いけないとか一切おっしゃってはいません。しかし、落ち度と言えば落ち度であり、そのような非難の口実を与えた責任もあるでしょう。それは決して小さなことでもないでしょう。イエスもたかだか手を洗ったか、洗わないかのことではないかという風に問題にされていないからです。

つまり、まことにだらしがない、いい加減、そのように非難されても仕方がない弟子たちがまずそこにいるのです。そしてその弟子たちを見つめるイエスの眼差しを思うのです。わたしどもであったら、こう言うかもしれません。ほんの一握りの者たちのために、全体が非難を受けている、と。しかし、主イエスは彼らをそのように全体から切り離してご覧にはなっていないのです。あたかもそれはまた彼らすべてが負うべきこと、パウロが「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(1コリント12:26)と語るように、あるいは「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(〃12:22)と言われるように、そのように眼差しを注いでおられる、担って下さっているのです。そこに注がれている愛の深さを思うのです。ファリサイ派の人々への言葉が厳しく、激しければ激しいほど、イエスが守ってくださるものの大切さを思うのです。この方が、あのだらしのない弟子たちの中で、担ってくださっている重荷を思うのです。そのようして生かされているわたしたちが見えてくるのです。

誰一人かけてはならないのです。このファリサイ派の人々さえ。そして、大切な言い伝え一つ守れない弟子たちもまた必要とされていることを思うのです。それが何より最初にあるのです。まったくわたしの内側、誰にも見えない心の中、その奥底をご覧になっておられる、まさに汚れそのものであるわたし自身をご覧になりながら、だが、それに先立ってそのようにまずわたしたちを深く憐れんでおられる、愛し通されるこの方の眼差しがあるのです。

ですから「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」、それはこういうことです。このキリストの眼差しの中で、わたしたちはその自分、わたし自身と向き合うのです。敢えて言えば、除いても除いても内から出てくるわたしの「汚れ」、だが、そこにこの方は共におられるのです。そのようにしてわたしたちはこの方の十字架の前に立っている。何よりこの方はその汚れの底に立たれる方です。内から出てくるわたしの「汚れ」、何よりそれをご自身に負ってくださる方、それがキリストなのです。だから、この方ととあなたと、神とあなたを最早引き離すことはできない。わたしたちの心を暗くするようなことが、外から絶えずあなたに内に来るあれやこれのことがあなたを汚すのでもない。あなたはありのままにわたしと共にいなさい、と。わたしがあなたの内側にいる、と。

D.ボンヘッファーは「共に生きる生活」という本の中で「あなたは、あたかも罪がないかのように、自分自身とあなたの兄弟とをあざむく必要はもはやない。あなたは罪人であることを許される。そのことを神に感謝せよ。何故なら、神は罪人を愛し、罪を憎み給う方だから」(D.ボンヘッファー「共に生きる生活」111頁)と言っています。つまり、教会は、ややもすると、敬虔な者の交わり、正しい者の交わりとなり、過つ者、破れたる者であることを許されなくなってしまうものになると言うのです。しかし自分の罪を、自分ひとりでは克服し得ないのです。だから、わたしたちは、教会、他の兄弟姉妹が必要なのです。その中にキリストはおられからです。問題・罪のないキリスト者がキリスト者なのでありません。あるいは、問題のない教会が良い教会なのでありません。教会が教会であるのは、共に重荷を、問題を担っていけること、あるがままのわたしを共に担ってくれる兄弟姉妹がいることです。いえ、重荷を、問題を担っていることが不幸なのではないのです。どんな重荷を、問題を担っていようとも、決して失われることのないわたしであり続けるために、このキリストはありったけの愛をもって、わたしたちを支えてくださっているのです。

人は正しいと思えば思うほど己れ自身と向き合うことをしなくなるのです。そして、またこのキリスト、この真の愛なしに己と向き合うことは、卑屈になるだけです。「人の中から出て来るものが、人を汚す」からです。しかし、自分の罪を、自分ひとりでは克服し得ないし、またそうする必要もない。このキリストに担われてこそ、わたしたちは悩み、罪を自ら向き合い担っていける、克服しえるのです。そこにキリストの眼差しを感じながら、そこにこそ注がれている、担ってくださっているキリストを信じながら、共に「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」ように生きていくことです。もちろん、だから傷つきます。後から後から溢れてくるいわば自分の汚れに打ちのめされるような思いをするのです。だから繰り返し、この主イエスの愛に帰るのです。この主の愛に導かれて生きるのです。

2009年8月27日 聖霊降臨後第12主日

マルコ6章45節~52節
大和 淳 師

それからすぐ、イエスは強いて弟子たちを舟に乗り込ませて、先に向こう岸のベツサイダへ行かせ、その間に群衆を解散させられた。
そしてイエスは人々に別れを告げてから、祈るために山へ行かれた。
夕方になって、舟は海の真ん中にあり、彼は一人、陸におられた。
すると、逆風のために、彼らがこぎ悩んでいるのが見えたので、彼は第四の夜回りのころ、海の上を歩いて彼らの所に向かい、彼らを通り過ぎようとされた。
ところが、彼らは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声を上げた.
彼らはみなイエスを見て、おびえたからである。しかし、イエスは直ちに彼らに話しかけて、言われた、「しっかりしなさい.わたしだ.恐れることはない」。
イエスが彼らの所に来て、舟に乗り込まれると、風はおさまった。彼らは心の内で、ひどく驚いた.
彼らはパンのことについて理解しないで、心がかたくなになっていたからである。

今日の福音書は、言ってみれば、弟子たちの不信仰物語です。そして、実に不可思議な物語と言えば、真に不思議な物語です。同じような湖の不可思議な出来事として、マルコの4章では、イエスが嵐を鎮めた物語がありました。ちょっと読んでみますと、〈35その日の夕方になって、イエスは「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。〉

しかし、その4章での物語と、この今日の6章の物語は同じ湖での物語でも、明らかに、違っていることがあります。4章では、イエスは嵐を鎮め、弟子たちを助けるキリストでしたが、この6章では、むしろ、風にこぎ悩む弟子たちの船の「そばを通り過ぎようとされた」と言うのです。イエスは最早弟子たちの舟 ― それは古くから教会の象徴でしたが ― その中に乗り込まないのです。わたしたちは「そばを通り過ぎようとされた」と聞くと、どこか、イエスは弟子たちを突き放しているような冷たさを感じてしまうかも知れません。更にそもそも4章では、イエスは、嵐の中で弟子たちと一緒に船の中に乗っておられたキリストでした。ところが、この6章では、物語は「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。」、そのように始まりますが、イエスは弟子たちだけで、しかも「強いて」、彼らを船に乗せ、夜の航海に先に出さしてしまうのです。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」という、この「強いて」という言葉は、大変強い言葉。無理に強いて、無理矢理弟子たちを舟に乗せたということです。6千人の人々を、5つのパンと魚2匹で満たした、そのパンの奇跡の直後のことです。弟子たちは、その感動の余韻に浸っていたかも知れまぜん。あの満腹になった人々、群衆と共に、その満足感に浸りつつ、このイエスと共にいることの喜びをかみしめていたのでしょうか。しかし、「強いて」、弟子たちは、このイエスから引き離されるのです。このイエスご自身の手で。弟子たちから見れば、この夜のイエスは、別人のような冷たさを感じたかも知れません。あるいは、そうまで感じなくても、夜の闇の中で、風に悩まされ、漕ぎあげている中で、このイエスのいない、イエスの不在は、どんなに心細かったでしょうか。

更に、この物語は、また不可思議なことを伝えます。〈48ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。〉イエスは「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを」見たのだと言うのです。一体、どこで、どのように見たのでしょうか。そもそも時は「夕方」から「夜が明けるころ」までですから、最も暗い時です。そんな中でイエスは弟子たちをどこで、どのように見られたのか、最早、わたしどもには分かりません。とは言え、まだ弟子たちは岸から遠く離れていなかったのだ、とか、月明かりで見えたのだ、とか、実際、そんな風に解釈する人もいるのですが、合理的に解釈する必要もないのです。あえて言えば、イエスは祈りの中で「見て」おられるのです。「逆風のために漕ぎ悩んでいる」弟子たちを。何故なら、「逆風のために漕ぎ悩んでいる」、それは、わたしたちの人生、またわたしたちの生身の生活そのものだからです。

向かい風が吹いて来た。すべてが、裏目に出るような夜。そして、頼るべきイエスがはいない。弟子たちはこぎ悩みます。きっといくら漕いでも、ちっとも前に進まない、それどころか、押し戻されてしまう。何一つ思い通りにならぬ人生。しかも、私どもの目には辺りは真っ暗闇にしか見えないのです。だが、福音書、聖書は、わたしたちに伝えるのです。しかし、イエスは見ておられる。イエスの目の中に、わたしどもはあるのだ、と。それがイエスの祈りなのだ、と。しかも、イエスは単に見つめているのではないのです。そのイエスは既に近づかれるイエスである、と。「湖上を歩いて」。わたしたち一人ひとりが、このイエスの祈りの中にあるのです。

ところが、イエスを見て弟子たちは脅えた。「幽霊だ」と思ったからだと言います。ここで福音書は「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て」と記していることに注意したいのです。ここでは「弟子たちは、イエス・・・・・を見」たのだ、と。もう一度あの4章の出来事と比較してみると、あのときも弟子たちはイエスを見ていました。何と言ってもその時舟に一緒に乗っていたのですから。しかし、彼らはこの6章と同じようにあわてふためいていたのです。それはこういうことです。わたしたちを支え、救い、守るもの、それは決して目に見えるもの、そのようなイエスではない。わたしたちの目はたとえイエスを見ても、あわてふためくような目でしかないのです。わたしたちは眼に見えないイエスの祈りの中で見られ、守られているのです。そう言っても、そんな馬鹿な、そう思う方もおられるでしょう。

子どもの頃、夢中になったトランプ・ゲームの一つで、「ダウト」というのがありますね。よくご存じかと思いますが、あえて説明すると、参加者が順に一、二、三、と数字の順に声を出してカードを裏側に真ん中の山札に出してゆくわけですが、その数字のカードがなかったとき、あるいはわざとそうでないカードを出す。裏にしてだから、見た目では解らない。しかし、そうでないカードを出したと他のメンバーの誰かが疑って判断すると、「ダウト!」と言ってカードを確認し、見破られた人は、それまで山札に積まれたカードを全部引き取らなければならない、そうして一番最初に手持ちのカードがなくなった人が勝ちというゲームです。この「ダウト」が疑うという意味の英語だと知ったのは、英語を習った中学の時でした。

実はこの「疑う」ということは信仰にとって大事なことなのです。いや、信仰に限らず、生きる上で。さもないと、修行をしたら人間も空中に浮遊できるという教えを信じたり、電話でオレオレというだけで信じて大金を取られる、そういう被害に遭う人が後をたたないわけです。
実は、これは春名典範先生が言っておられることの受け売りなのですが、そもそも人間には100パーセントそう思うとか、100パーセント信じるということもないように、100パーセントしたくないとか100パーセント疑っているということも人間には本来ないのです。むしろ、常に相反する感情が共存していて心の中はゆれ動きながら一方を選択してゆくというのが、信仰のことにかかわらず日常の一切に関わるわたしたちなのではないでしょうか。つまり、疑うことは、100パーセント否定していることにはならない。疑っても、その疑ってることを疑う、あるいは疑い得る、それが人間なのだ、ということ。逆に、信じるも、100パーセント信じることではない。信じても信じ切れない、それが人間なのだと言うこと。実は「疑う」という意味の英語ダウトは、ダブル(二倍の、二通りの)と語源が同じだそうで、聖書の原語であるギリシア語で「疑う」、ディアクリノーという言葉ですが、これはもともとデイア(通って)、クリノー(離れる、分ける)という意味の合成語ですが、そのデイアの語源はデュオ(二つ)、ディス(二度)ですから「二つに分かれる」、あれかこれか悩むということだと春名先生は言っています。
つまり、その意味で、わたしたちは、あるいは教会とは、信じる者だけの集団ではなく、疑う者をも含めた集まりであり、信仰は疑わないで信じることではなく、疑いを持ちつつもイエスに従っていく、いや、このイエスの祈りの眼の中で生きていくことです。しかし、疑いを持ちつつも、聖書、イエスの言葉に従って生きていく内、たとえ、イエスが通り過ぎていく、そう思える、あるいは信じられない、疑い続けたにもかかわらず、まことの道へと導かれていく、それが信仰の道なのです。
教会が、よくわかっている人や信仰深い人たちだけの集まりではなく、疑っている人をも含めた集まりであるということ、この福音書の物語はまた、そういうことを語っているのではないでしょうか。
ところで、更にこの「疑う」ということで言いますと、マタイ福音書の最後、復活物語の最後に、この復活のイエスに出会っても、なお疑う人がいたということが28章に記されています。「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(17節)と。

つまり、復活のイエスを見て、心から信じた者たちに「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。9だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、0あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28章18-20節)という大宣教命令がくだされたのでも、また「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という大きな約束がなされたのでもないのです。疑っている人も含めた人間に宣教の命令、そしてこのイエスは共にいることの約束がなされたのです。そもそも、マタイによる福音書は、最初のイエスの降誕、クリスマス物語でインマヌエル ― 神、われらと共にいます ― が語られ、そうして、この最後の締めくくりのイエスの復活物語で、またインマヌエル ― 神、われらと共にいます ― が語られているのですが、その「神、われらと共にいます」には、この疑っている人も含まれているのです。

再びマルコ福音書に戻ります、迫る波、暗闇に脅えるとき、わたしたちの心は萎えきり、恐怖に駆られます。もしかしたら、弟子たちがイエスを見て「大声で叫んだ」のは、もうこれまで、と思ってのことかも知れません。しかし、イエスは、「通り過ぎて行かれ」ようとした。その彼らに先立って行かれるのです。弟子たちが、恐れ、大声を上げて、ぎゃーとか、助けてくれーとか、ともかく、あらぬ限りのことを叫んだ、その傍らを、まるで笑い飛ばすかのように通り過ぎて、しかし、その彼らをそのまま導いていってくださる。

それ故、キリスト教信仰とは、半信半疑のままで、しかし、それでも、キリストはわたしを確かに導き、この神我らと共にいます、その真実へと導かれることを信じていく、希望を持っていくことです。つまり、どんなことがあろうとも、決して行き詰まることなどないのです。

ルターは1515~16年の「ローマ書講義」の中でこう言っています。「・・・ところで、もし人が恐れと謙虚さから神に対して敬虔な態度で『なぜ、あなたは、わたしをこのように造ったのか』(ローマ書9章20節)と言ったとしても、決して罪ではない。たとい人が圧倒的な試練の激しさの故に神を冒涜しても、この理由で人が滅ぶことは決してないだろう。なぜなら、私たちの神は性急かつ冷酷な神ではないからだ。不敬虔な者たちに対してさえも、神はこのような方ではない。私は、このことを、絶えず冒涜の思いに苦しめられ、ひどくおののいている人々の慰めのために言っている。というのも、この種の冒涜は悪魔によって力ずくで、人間の意に反して無理にこじつけられたものだから、この種の冒涜は神の耳には、しばしばハレルヤそのもの、または、どのような讃美の歓声にもまして好ましいものとひびくのである。・・・」。

これも、何と言う大胆な言葉でしょうか。とりわけ「この種の冒涜は神の耳には、しばしばハレルヤそのもの、または、どのような讃美の歓声にもまして好ましいものとひびくのである。・・・・冒涜が恐ろしいもの、醜いものであればあるほど、神にとっては、いっそう好ましいものなのである」、一瞬耳を疑いたくなるような言葉であるかも知れません。「たとい人が圧倒的な試練の激しさの故に神を冒涜しても」、「だれが神の御心に逆らうことができようか」と言うのです。神は最早決してご自身のわたしたちへの愛を放棄されないからです。確かに、これは大胆な言葉です。しかし、何と言う慰めに満ちた言葉でしょうか!とりわけ、自分の不敬虔さ、不信仰を知っている者にとっては!何故なら、わたしたちの内、まことに苦しみの中で、悩みの中で「どうして、わたしをこのように造ったのか」と思わなかった者がいるでしょうか?あるいは、わたしたち現代の人間風に言えば、「神さまなんかいるのか」と思わなかった、つぶやかなかった、神を神を冒涜しなかった人間はいるでしょうか?ましてや今も、わたしたちを苦しみが襲うのです。果てしない痛みと悲しみの中で、「どうして、わたしをこのように造ったのか」と呪わざる得ないのです。掛け価なしにそれが人間なのです。だが、「だれが神の御心に逆らうことができようか」、そう呼びかけられている人間なのです。今やそれがわたしたちなのです。どんなに汚れ果てようと、どんなにぼろぼろになろうと、それがわたしたちなのです。わたしどもが呪いたくなるようなそこに、キリストはおられるからです。

2009年8月2日 平和の主日 「躓くからこそ」

マルコ6章1節~6a節

 
説教  「躓くからこそ」  大和 淳 師
イエスはそこから出て、ご自分の故郷へ行かれた.弟子たちも従って行った。
そして安息日になったので、彼は会堂で教え始められた.すると、聞いていた大勢の人が驚嘆して言った、「この人は、これらのことをどこで得たのだろう? この人に与えられているこの知恵は何だろう.どうしてこのような力あるわざが、彼の手によって起こるのだろう?
この人は大工ではないか? マリヤの息子で、ヤコブやヨセやユダやシモンの兄ではないか? 彼の妹たちは、ここでわたしたちと一緒にいるではないか?」。こうして、人々は彼につまずいた。
イエスは彼らに言われた、「預言者は、自分の故郷、自分の親類の間、自分の家以外では、敬われないことはない」。
イエスはそこでは力あるわざを何も行なうことができず、ただわずかの病人に手を置いて、いやされただけであった。
そしてイエスは、彼らの不信仰に驚かれた

クリスチャンなら、いや、クリスチャンならずとも、内村鑑三の名は知っていると思いますし、著書に触れ、尊敬している人は少なくありません。日本のキリスト教会にとって真に偉大なる人物であり、今も大きな影響を与えている人です。内村を通してキリスト教に触れたと言う人が跡を絶たないのです。その内村の息子で、日本の精神医学の先駆者ともなり、また高校野球連盟の会長も務めた内村祐介という人が、内村鑑三について書いているのですが、一言で言えば、祐介は、人間内村に躓いてしまったようです。家では気むずかしく、癇癪をしばしば起こすので、恐れていたことを語っています。あるいは内村の弟子で、東大総長を務めた矢内原忠雄、この人も優れた人物ですが、やはり、その息子は彼の家庭での言動、行動が外での彼とあまりにギャップがあることに躓いたことを記しています。そのことで内村や矢内原の偉大さ、尊敬すべきことはいささかも減じることはありませんが、どんな偉大な人も家庭、日常生活では普通の人であったということでしょう。

  さて、今日の福音書の日課は、イエスさまが弟子たちを連れてご自身の故郷に行かれた。そうして、会堂で教え始められましたが、結局その故郷の「人々はイエスにつまずいた」、そういうことが記されています。内村や矢内原とは事情は違うものの、やはりイエスも躓きを与えた、つまり、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」、そう言ってつまづいた、と福音書は語っています。

  主イエスはこのナザレの町においても、これまで人々が聴いたこともない権威と深い知恵に満ちた教えをなされた。ところが、彼らはかえって躓いてしまった。彼らにとってイエスは、自分たちと変わらない、そう言う意味では、まるでそんな権威や力が本来あるはずもない、言うなればイエスは、そういう風にどこまでも日常生活の人、ただの人、そのように彼らにとってはイエスはあるということです。このナザレの人々の躓きは、またわたしたちの躓きともなると言っていいでしょう。

 教会の信仰告白は、主イエスは真の神にして真の人である、そう信じているわけです。神は全知全能です。そのような権威を主イエスは持っておられる、と。しかし、信仰告白はまた同時に、この方は真に人であった、と告白する。つまり、そういう意味では、この方はスーパーマンではない、ということ、それ故、この故郷ナザレでは、主イエスは全知全能どころか、「そこでは、・・・何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(5節)と記されるように全く無力なのです。「神の子イエス・キリストの福音の初め」、そのようにこのマルコ福音書は始められていますが、「神の子」と言うより、全くの「人の子」、ただの人としてもおられるのです。そして、主イエスご自身「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(4節)そう言われたことが記されていますが、要するに、この物語は、まったく伝道に失敗であったということです。つまり、言ってみれば、主イエスは伝道に失敗したと、あたかもそういうことと言っていいでしょう。

 伝道、わたしたちは、出来ることならすべての人に受け入れられることを願います。でも、実際には拒否や、拒絶、失敗に色々な形で出会うわけですが、わたしたちにとってはそういうことは勿論、それはどこまでもネガティブなことにしか思えないわけです。何かあってはならないこと、汚点のように思ってしまう。もちろん、そのようなことがなければない方がいいし、またないように努力しなければならないことは言うまでもないことです。

 しかし、まさに主イエスご自身、そこに立っておられるのです。そして、この方はそのような拒否、不信仰にあってお怒りになり、呪ったとか、あるいは力づくで人々をねじ伏せるのではなく、ただ「人々の不信仰に驚かれた」と記すのです。主イエスは期待する、望むからこそ驚かずにはいられないのです。

 何よりこの主イエスの驚きは、この方ご自身の十字架にへとつながっています。彼らの拒否、不信仰を受け入れて、それをご自身に負われる、主はただ愛することによってそれに打ち勝ち給うお方だからです。拒否、不信仰に対して、神のなされ給うこと、それは最早愛する、それ以外にないその愛 ― 主イエスご自身、その愛にすべて委ねていかれるのです。拒否、不信仰 ― だが神は愛する、それが神の応えなのです。審き、罰ではなく、ただひたすら愛する!主イエスは、どこまでも最も身を低くしていわば彼らにご自身を踏ませ、通り行かせるままにされるのです。それが十字架の神なのです。

 わたしたちは、自分とは反対の人、拒否する人がいる、受け入れてもらえない、そのとき、悲壮な思いにかられます。しかし、イエスはただ驚いたのです。怒ったのではなく、腹を立てたのではなく、まるでいわばご自身との違いに、ああこの人はこう言う風に考えるのか、とそんなこと思いもつかなかったかのように・・・。

 そもそもわたしたち自身ちっとも主の道に従えないのです。あるいは他者の違いや過ちが赦せず、直ぐに腹を立てたりするのに、そのくせ自分の過ちや不信仰のことはもはや考えもしない、いや考えても、わたしだけでない、あの人のほうがもっとひどいじゃないか、そのようにして主の愛を、他者に対しても、そして自分に対しても拒んでしまうのです。でも、主は今でも、そんなわたしたちの不信仰を驚いてくださっているのです。その主の驚きの中に身をおいたとき、わたしのために、そしてあの人この人も、決して見捨てず、どこまでも負うてくださる主イエスの十字架が立っていることを知ります。

 主は、尚不信仰なわたしどもを友のように扱ってくださるでしょう。わたしたちは主に悪を行なうのに、主はわたしに善きことをなしてくださるでしょう。主はわたしの悪を数え上げるようなことをせず、倦むことなく、憤慨することなく、わたしをたずねてくださるでしょう。主はわたしと共に苦しみ、わたしのために死んでくださる。土はわたしのためには何もいとわれないのです。

 最初にナザレの人々は、いわば日常生活に躓いてしまった、そう申し上げました。敢えて言えば、少し変わった言い方ですが、そんな風に、でも日常生活に躓くほど近く、主イエスはわたしたちの中に来られたのです。えっ、この人が?えっ、こんなところに?と驚くほど身近な存在となられた。それがわたしたちの神であるということです。

 しかしそれほどに身近になってくださっても、そもそも、このような話、つまりあたかも神さまも失敗する、そうとってしまうようなこんな出来事は、そもそも聖書がいわばイエスを神格化しようとするなら、わざわざ聖書に記す必要はないはずです。「そこでは、・・・何も奇跡を行うことがおできにならなかった」、何も出来ない神さまなんて一体どうして信じられるでしょうか?

 でも、この主イエスが二千年にわたって実に多くの人を立ち上がらせ、生きる力となったのです。その最初の証人の一人がパウロです。先ほど読んだ第二朗読の2コリント12章で、ちょうどパウロはこう述べています。「・・・それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、それに行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12章7~10節)

 ここでパウロが与えられたという「-つのとげ」、「わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」とは、パウロはその肉体にひどい障害、ある人はパウロはてんかん症であったとも言いますが、そのような障害を持ちひどく苦しんでいたのでしょう。そして、何とかそれを取り去ってくださるよう、祈ったというのです。つまり、直してください、癒してくださいと祈ったということでしょう。しかし、その折りはかなえられなかった。しかし、そのパウロに全く思いがけない、そして驚くべき喜びとなった主の答えが与えられたというのです。主イエスは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」、そうパウロに教えてくださったというのです。

 しかし、そのような障害を身に負うている、そして祈りがきかれなかったというようなことは、わたしども日常の考えからいけば、それほ全くつまづきとなる以外ないことです。でも「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」、つまづきの中にこそ、弱さの中にこそ主イエスの力は十分に発揮されるのです。つまり、神はパウロにこう言っている、「あなたにそのようなとげ、障害、弱さがあっていいのだ」と。

 何故なら、このキリストは、「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」お方だから、とヘブライ書5章2節はそう語ります。そして、そのパウロ自身また「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(2コリント13章4節)、そうコリントの信徒に語ります。そのような神、キリストの弱さ、わたしたちにとっては躓きとなるもの、それどころかパウロは、それを単に弱さ、神の弱さと呼ぶだけではなく、「神の愚かさ」とも呼ぶのです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(1コリント1章25節)すなわち、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを喜べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(〃23-24節)

 ですから、今日のこの福音書の物語は、何より大切な物語、特に福音書の前半部の中心とも言うべき物語と言えるかも知れません。少なくとも決して余計な物語、余分な不必要な、あってもなくてもいい物語ではないのです。

 人生に、信仰に躓きがなかったらどんなにいいだろう、わたしどもはそう考えてしまうからです。躓きとはそもそも要はわたしたちにとって余計なもの、いらないものがそこにあるということです。しかし、聖書を通して主イエスは、ここでわたしたちに語りかけています。それは本当に余計なもの、いらないもの、なければいいものだろうか?そうではなく、それを通してこそ、「わたしの恵みはあなたに十分である」わたしの「力は十分に発揮される」。わたしはそのために来た。わたしはそれ故あなたの日常のただ中にいつもいる、と。