2009年8月30日 聖霊降臨後第13主日 「人を汚すもの」

マルコ 7章1-15節

 
説教  「人を汚すもの」  大和 淳 師
さて、パリサイ人とある聖書学者たちがエルサレムから来て、イエスの所に集まり、
彼の弟子たちが汚れた手、すなわち、洗わない手でパンを食べているのを見た。
(パリサイ人とすべてのユダヤ人は、昔の人たちの言い伝えを固く守り、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしないからである.
また彼らは、市場から帰った時には、身を洗ってからでないと食事をしない。そのほか、杯、水差し、銅器をすすぐことなど、受け継いで固く守っている事が多くある)。
そこでパリサイ人と聖書学者たちは彼に尋ねた、「なぜあなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えにしたがって歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか?」
イエスは彼らに言われた、「イザヤはあなたがた偽善者のことを、よくも適切に預言したものだ.こう書かれている、『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている.
彼らは人の戒めを教えとして教えながら、むなしくわたしを礼拝している』。
あなたがたは神の戒めを放棄して、人の言い伝えを固く守っている」。
イエスはまた言われた、「あなたがたは自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めを捨てたものだ。
モーセは言った、『あなたの父と母を敬え』.また『父や母をののしる者は、殺されなければならない』。
ところがあなたがたは、『もし人が父や母に、あなたがわたしから得るものはみなコルバン(すなわち、神への贈り物)ですと言えば、
その人に、父や母のためにもう何をしなくてもよい』と言う。
こうしてあなたがたは、自分たちが伝えてきた言い伝えによって、神の言から権威を奪っている。また、これと同じような事を多く行なっている」。
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて、彼らに言われた、「みな、わたしの言うことを聞いて、理解しなさい。
外から人に入って人を汚すものはない.むしろ人から出て来るものが、人を汚すのである。

 「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。キリストは、そのようにファリサイ派の人々、律法学者を批判されます。ことの発端は、「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者」がいたからでしたが、ファリサイ派の人々、そして、エルサレムから来たと言う律法学者の人々が、それを見ていたのです。手を洗わないで食事をする、それは、単に衛生上の問題ではなく「昔の人の言い伝え」とあるように、全くの宗教上の理由からです。あえて言えば、非は手を洗わなかった弟子たちにあります。ところが、主イエスはここで弟子たちをたしなめることなく、ファリサイ派の人々を叱責されるのです。

そして、そのファリサイ派の人々、律法学者たちへのイエス言葉はまことに痛烈です。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。[この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。]あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(6~8節)。このイエスの言葉は、ファリサイ派の人々、律法学者たちに向けられたものです。とは言え「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」、これもまた、全くわたしたちに関係のないことだろうか。そう思うのです。イエスのファリサイ派の人々に対する批判は更に続きますが、13節では、「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」。最初に「神の掟」とここで言われていたのが、ここで端的に「神の言葉」と言い換えられ、それが「無」にされている、と言うのです。神の言葉を無にしている。福音を無にしているのだ、と。神の言葉は、自らの生活、自分の日常生活では関係ない、まるでそこに無きもののように無視し得るのだ、そう言われるのです。それは、手を洗わなかった弟子たちも同様でしょう。そして、このわたしたち自身、わたしたちはそうではない、わたしは神の言葉を無にしていない、そう言える人がいるだろうか。わたしたちは、わたしたちなりの仕方で、神の言葉を無にする、そういうものになっているのではないでしょうか。

神の言葉を無にしている、ここで主イエスが何を見ておられるのか?神の言葉を無にしている、つまり、まったくわたしたちのこの生の足もと、あるいは、わたしたちの心の根の問題です。それ故、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」、まるでとどめをさすように、ただ単にファリサイ派の人々たちだけにではなく、そこにいた群衆すべてに向かって、そう言われるのです。人を汚すもの、わたしを汚すもの、わたしを躓かせるもの、それは「外から」ではない、徹底してわたしの内、わたしの中から出て来るものが、わたしを汚すのだ、と。

キリストは、まったくわたしたち自身の罪、神の言葉を無にしている、神ご自身を無にしている、そのようなわたし自身に向き合うことを求めておられるのです。わたしたちが、あれこれの人を批判する、問題にする、だがしかし、あなたの内はどうなのか、そのように問うておられる、と考えてもいいかも知れません。だから最早主イエスは、それをファリサイ派の人々、律法学者たちに言うのではなく、「群衆に」、つまり、彼らだけではなく、すべての人間に向かって言われ給うのです。

主イエスは何よりそのありのままのわたしたち自身をご覧になっておられる、。主イエスの視線を辿っていくとありのままのわたしたち自身があるのです。

そこでもう一度、この物語のはじめに戻ってみたいのですが、このことは他ならない、当のことの弟子たちを巡って起きたことでした。この主イエスの視線から離れて彼らを見ていると、そもそも何故、弟子たちは手を洗わなかったのだろう、そう思います。2節を見ますと、弟子たちみんな洗わなかったのではなく、中の幾人かが洗わなかったのです。ということは大多数の弟子たちは洗ったのです。しかし、目につく程度の人が手を洗わなかったということです。彼らだって、ユダヤ人でしたから、小さいときから親たちにしつけられてきたことではないでしょうか。つい、うっかりしたのでしょうか。それとも、手を洗う暇もないほど忙しかったのでしょうか。それに対して弟子たちの言葉、言い訳や弁明は記されていません。そしてイエスご自身もまた、手を洗わなくてもいいとか、いけないとか一切おっしゃってはいません。しかし、落ち度と言えば落ち度であり、そのような非難の口実を与えた責任もあるでしょう。それは決して小さなことでもないでしょう。イエスもたかだか手を洗ったか、洗わないかのことではないかという風に問題にされていないからです。

つまり、まことにだらしがない、いい加減、そのように非難されても仕方がない弟子たちがまずそこにいるのです。そしてその弟子たちを見つめるイエスの眼差しを思うのです。わたしどもであったら、こう言うかもしれません。ほんの一握りの者たちのために、全体が非難を受けている、と。しかし、主イエスは彼らをそのように全体から切り離してご覧にはなっていないのです。あたかもそれはまた彼らすべてが負うべきこと、パウロが「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(1コリント12:26)と語るように、あるいは「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(〃12:22)と言われるように、そのように眼差しを注いでおられる、担って下さっているのです。そこに注がれている愛の深さを思うのです。ファリサイ派の人々への言葉が厳しく、激しければ激しいほど、イエスが守ってくださるものの大切さを思うのです。この方が、あのだらしのない弟子たちの中で、担ってくださっている重荷を思うのです。そのようして生かされているわたしたちが見えてくるのです。

誰一人かけてはならないのです。このファリサイ派の人々さえ。そして、大切な言い伝え一つ守れない弟子たちもまた必要とされていることを思うのです。それが何より最初にあるのです。まったくわたしの内側、誰にも見えない心の中、その奥底をご覧になっておられる、まさに汚れそのものであるわたし自身をご覧になりながら、だが、それに先立ってそのようにまずわたしたちを深く憐れんでおられる、愛し通されるこの方の眼差しがあるのです。

ですから「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」、それはこういうことです。このキリストの眼差しの中で、わたしたちはその自分、わたし自身と向き合うのです。敢えて言えば、除いても除いても内から出てくるわたしの「汚れ」、だが、そこにこの方は共におられるのです。そのようにしてわたしたちはこの方の十字架の前に立っている。何よりこの方はその汚れの底に立たれる方です。内から出てくるわたしの「汚れ」、何よりそれをご自身に負ってくださる方、それがキリストなのです。だから、この方ととあなたと、神とあなたを最早引き離すことはできない。わたしたちの心を暗くするようなことが、外から絶えずあなたに内に来るあれやこれのことがあなたを汚すのでもない。あなたはありのままにわたしと共にいなさい、と。わたしがあなたの内側にいる、と。

D.ボンヘッファーは「共に生きる生活」という本の中で「あなたは、あたかも罪がないかのように、自分自身とあなたの兄弟とをあざむく必要はもはやない。あなたは罪人であることを許される。そのことを神に感謝せよ。何故なら、神は罪人を愛し、罪を憎み給う方だから」(D.ボンヘッファー「共に生きる生活」111頁)と言っています。つまり、教会は、ややもすると、敬虔な者の交わり、正しい者の交わりとなり、過つ者、破れたる者であることを許されなくなってしまうものになると言うのです。しかし自分の罪を、自分ひとりでは克服し得ないのです。だから、わたしたちは、教会、他の兄弟姉妹が必要なのです。その中にキリストはおられからです。問題・罪のないキリスト者がキリスト者なのでありません。あるいは、問題のない教会が良い教会なのでありません。教会が教会であるのは、共に重荷を、問題を担っていけること、あるがままのわたしを共に担ってくれる兄弟姉妹がいることです。いえ、重荷を、問題を担っていることが不幸なのではないのです。どんな重荷を、問題を担っていようとも、決して失われることのないわたしであり続けるために、このキリストはありったけの愛をもって、わたしたちを支えてくださっているのです。

人は正しいと思えば思うほど己れ自身と向き合うことをしなくなるのです。そして、またこのキリスト、この真の愛なしに己と向き合うことは、卑屈になるだけです。「人の中から出て来るものが、人を汚す」からです。しかし、自分の罪を、自分ひとりでは克服し得ないし、またそうする必要もない。このキリストに担われてこそ、わたしたちは悩み、罪を自ら向き合い担っていける、克服しえるのです。そこにキリストの眼差しを感じながら、そこにこそ注がれている、担ってくださっているキリストを信じながら、共に「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」ように生きていくことです。もちろん、だから傷つきます。後から後から溢れてくるいわば自分の汚れに打ちのめされるような思いをするのです。だから繰り返し、この主イエスの愛に帰るのです。この主の愛に導かれて生きるのです。

2009年8月27日 聖霊降臨後第12主日

マルコ6章45節~52節
大和 淳 師

それからすぐ、イエスは強いて弟子たちを舟に乗り込ませて、先に向こう岸のベツサイダへ行かせ、その間に群衆を解散させられた。
そしてイエスは人々に別れを告げてから、祈るために山へ行かれた。
夕方になって、舟は海の真ん中にあり、彼は一人、陸におられた。
すると、逆風のために、彼らがこぎ悩んでいるのが見えたので、彼は第四の夜回りのころ、海の上を歩いて彼らの所に向かい、彼らを通り過ぎようとされた。
ところが、彼らは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声を上げた.
彼らはみなイエスを見て、おびえたからである。しかし、イエスは直ちに彼らに話しかけて、言われた、「しっかりしなさい.わたしだ.恐れることはない」。
イエスが彼らの所に来て、舟に乗り込まれると、風はおさまった。彼らは心の内で、ひどく驚いた.
彼らはパンのことについて理解しないで、心がかたくなになっていたからである。

今日の福音書は、言ってみれば、弟子たちの不信仰物語です。そして、実に不可思議な物語と言えば、真に不思議な物語です。同じような湖の不可思議な出来事として、マルコの4章では、イエスが嵐を鎮めた物語がありました。ちょっと読んでみますと、〈35その日の夕方になって、イエスは「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。〉

しかし、その4章での物語と、この今日の6章の物語は同じ湖での物語でも、明らかに、違っていることがあります。4章では、イエスは嵐を鎮め、弟子たちを助けるキリストでしたが、この6章では、むしろ、風にこぎ悩む弟子たちの船の「そばを通り過ぎようとされた」と言うのです。イエスは最早弟子たちの舟 ― それは古くから教会の象徴でしたが ― その中に乗り込まないのです。わたしたちは「そばを通り過ぎようとされた」と聞くと、どこか、イエスは弟子たちを突き放しているような冷たさを感じてしまうかも知れません。更にそもそも4章では、イエスは、嵐の中で弟子たちと一緒に船の中に乗っておられたキリストでした。ところが、この6章では、物語は「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。」、そのように始まりますが、イエスは弟子たちだけで、しかも「強いて」、彼らを船に乗せ、夜の航海に先に出さしてしまうのです。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」という、この「強いて」という言葉は、大変強い言葉。無理に強いて、無理矢理弟子たちを舟に乗せたということです。6千人の人々を、5つのパンと魚2匹で満たした、そのパンの奇跡の直後のことです。弟子たちは、その感動の余韻に浸っていたかも知れまぜん。あの満腹になった人々、群衆と共に、その満足感に浸りつつ、このイエスと共にいることの喜びをかみしめていたのでしょうか。しかし、「強いて」、弟子たちは、このイエスから引き離されるのです。このイエスご自身の手で。弟子たちから見れば、この夜のイエスは、別人のような冷たさを感じたかも知れません。あるいは、そうまで感じなくても、夜の闇の中で、風に悩まされ、漕ぎあげている中で、このイエスのいない、イエスの不在は、どんなに心細かったでしょうか。

更に、この物語は、また不可思議なことを伝えます。〈48ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。〉イエスは「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを」見たのだと言うのです。一体、どこで、どのように見たのでしょうか。そもそも時は「夕方」から「夜が明けるころ」までですから、最も暗い時です。そんな中でイエスは弟子たちをどこで、どのように見られたのか、最早、わたしどもには分かりません。とは言え、まだ弟子たちは岸から遠く離れていなかったのだ、とか、月明かりで見えたのだ、とか、実際、そんな風に解釈する人もいるのですが、合理的に解釈する必要もないのです。あえて言えば、イエスは祈りの中で「見て」おられるのです。「逆風のために漕ぎ悩んでいる」弟子たちを。何故なら、「逆風のために漕ぎ悩んでいる」、それは、わたしたちの人生、またわたしたちの生身の生活そのものだからです。

向かい風が吹いて来た。すべてが、裏目に出るような夜。そして、頼るべきイエスがはいない。弟子たちはこぎ悩みます。きっといくら漕いでも、ちっとも前に進まない、それどころか、押し戻されてしまう。何一つ思い通りにならぬ人生。しかも、私どもの目には辺りは真っ暗闇にしか見えないのです。だが、福音書、聖書は、わたしたちに伝えるのです。しかし、イエスは見ておられる。イエスの目の中に、わたしどもはあるのだ、と。それがイエスの祈りなのだ、と。しかも、イエスは単に見つめているのではないのです。そのイエスは既に近づかれるイエスである、と。「湖上を歩いて」。わたしたち一人ひとりが、このイエスの祈りの中にあるのです。

ところが、イエスを見て弟子たちは脅えた。「幽霊だ」と思ったからだと言います。ここで福音書は「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て」と記していることに注意したいのです。ここでは「弟子たちは、イエス・・・・・を見」たのだ、と。もう一度あの4章の出来事と比較してみると、あのときも弟子たちはイエスを見ていました。何と言ってもその時舟に一緒に乗っていたのですから。しかし、彼らはこの6章と同じようにあわてふためいていたのです。それはこういうことです。わたしたちを支え、救い、守るもの、それは決して目に見えるもの、そのようなイエスではない。わたしたちの目はたとえイエスを見ても、あわてふためくような目でしかないのです。わたしたちは眼に見えないイエスの祈りの中で見られ、守られているのです。そう言っても、そんな馬鹿な、そう思う方もおられるでしょう。

子どもの頃、夢中になったトランプ・ゲームの一つで、「ダウト」というのがありますね。よくご存じかと思いますが、あえて説明すると、参加者が順に一、二、三、と数字の順に声を出してカードを裏側に真ん中の山札に出してゆくわけですが、その数字のカードがなかったとき、あるいはわざとそうでないカードを出す。裏にしてだから、見た目では解らない。しかし、そうでないカードを出したと他のメンバーの誰かが疑って判断すると、「ダウト!」と言ってカードを確認し、見破られた人は、それまで山札に積まれたカードを全部引き取らなければならない、そうして一番最初に手持ちのカードがなくなった人が勝ちというゲームです。この「ダウト」が疑うという意味の英語だと知ったのは、英語を習った中学の時でした。

実はこの「疑う」ということは信仰にとって大事なことなのです。いや、信仰に限らず、生きる上で。さもないと、修行をしたら人間も空中に浮遊できるという教えを信じたり、電話でオレオレというだけで信じて大金を取られる、そういう被害に遭う人が後をたたないわけです。
実は、これは春名典範先生が言っておられることの受け売りなのですが、そもそも人間には100パーセントそう思うとか、100パーセント信じるということもないように、100パーセントしたくないとか100パーセント疑っているということも人間には本来ないのです。むしろ、常に相反する感情が共存していて心の中はゆれ動きながら一方を選択してゆくというのが、信仰のことにかかわらず日常の一切に関わるわたしたちなのではないでしょうか。つまり、疑うことは、100パーセント否定していることにはならない。疑っても、その疑ってることを疑う、あるいは疑い得る、それが人間なのだ、ということ。逆に、信じるも、100パーセント信じることではない。信じても信じ切れない、それが人間なのだと言うこと。実は「疑う」という意味の英語ダウトは、ダブル(二倍の、二通りの)と語源が同じだそうで、聖書の原語であるギリシア語で「疑う」、ディアクリノーという言葉ですが、これはもともとデイア(通って)、クリノー(離れる、分ける)という意味の合成語ですが、そのデイアの語源はデュオ(二つ)、ディス(二度)ですから「二つに分かれる」、あれかこれか悩むということだと春名先生は言っています。
つまり、その意味で、わたしたちは、あるいは教会とは、信じる者だけの集団ではなく、疑う者をも含めた集まりであり、信仰は疑わないで信じることではなく、疑いを持ちつつもイエスに従っていく、いや、このイエスの祈りの眼の中で生きていくことです。しかし、疑いを持ちつつも、聖書、イエスの言葉に従って生きていく内、たとえ、イエスが通り過ぎていく、そう思える、あるいは信じられない、疑い続けたにもかかわらず、まことの道へと導かれていく、それが信仰の道なのです。
教会が、よくわかっている人や信仰深い人たちだけの集まりではなく、疑っている人をも含めた集まりであるということ、この福音書の物語はまた、そういうことを語っているのではないでしょうか。
ところで、更にこの「疑う」ということで言いますと、マタイ福音書の最後、復活物語の最後に、この復活のイエスに出会っても、なお疑う人がいたということが28章に記されています。「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(17節)と。

つまり、復活のイエスを見て、心から信じた者たちに「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。9だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、0あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28章18-20節)という大宣教命令がくだされたのでも、また「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という大きな約束がなされたのでもないのです。疑っている人も含めた人間に宣教の命令、そしてこのイエスは共にいることの約束がなされたのです。そもそも、マタイによる福音書は、最初のイエスの降誕、クリスマス物語でインマヌエル ― 神、われらと共にいます ― が語られ、そうして、この最後の締めくくりのイエスの復活物語で、またインマヌエル ― 神、われらと共にいます ― が語られているのですが、その「神、われらと共にいます」には、この疑っている人も含まれているのです。

再びマルコ福音書に戻ります、迫る波、暗闇に脅えるとき、わたしたちの心は萎えきり、恐怖に駆られます。もしかしたら、弟子たちがイエスを見て「大声で叫んだ」のは、もうこれまで、と思ってのことかも知れません。しかし、イエスは、「通り過ぎて行かれ」ようとした。その彼らに先立って行かれるのです。弟子たちが、恐れ、大声を上げて、ぎゃーとか、助けてくれーとか、ともかく、あらぬ限りのことを叫んだ、その傍らを、まるで笑い飛ばすかのように通り過ぎて、しかし、その彼らをそのまま導いていってくださる。

それ故、キリスト教信仰とは、半信半疑のままで、しかし、それでも、キリストはわたしを確かに導き、この神我らと共にいます、その真実へと導かれることを信じていく、希望を持っていくことです。つまり、どんなことがあろうとも、決して行き詰まることなどないのです。

ルターは1515~16年の「ローマ書講義」の中でこう言っています。「・・・ところで、もし人が恐れと謙虚さから神に対して敬虔な態度で『なぜ、あなたは、わたしをこのように造ったのか』(ローマ書9章20節)と言ったとしても、決して罪ではない。たとい人が圧倒的な試練の激しさの故に神を冒涜しても、この理由で人が滅ぶことは決してないだろう。なぜなら、私たちの神は性急かつ冷酷な神ではないからだ。不敬虔な者たちに対してさえも、神はこのような方ではない。私は、このことを、絶えず冒涜の思いに苦しめられ、ひどくおののいている人々の慰めのために言っている。というのも、この種の冒涜は悪魔によって力ずくで、人間の意に反して無理にこじつけられたものだから、この種の冒涜は神の耳には、しばしばハレルヤそのもの、または、どのような讃美の歓声にもまして好ましいものとひびくのである。・・・」。

これも、何と言う大胆な言葉でしょうか。とりわけ「この種の冒涜は神の耳には、しばしばハレルヤそのもの、または、どのような讃美の歓声にもまして好ましいものとひびくのである。・・・・冒涜が恐ろしいもの、醜いものであればあるほど、神にとっては、いっそう好ましいものなのである」、一瞬耳を疑いたくなるような言葉であるかも知れません。「たとい人が圧倒的な試練の激しさの故に神を冒涜しても」、「だれが神の御心に逆らうことができようか」と言うのです。神は最早決してご自身のわたしたちへの愛を放棄されないからです。確かに、これは大胆な言葉です。しかし、何と言う慰めに満ちた言葉でしょうか!とりわけ、自分の不敬虔さ、不信仰を知っている者にとっては!何故なら、わたしたちの内、まことに苦しみの中で、悩みの中で「どうして、わたしをこのように造ったのか」と思わなかった者がいるでしょうか?あるいは、わたしたち現代の人間風に言えば、「神さまなんかいるのか」と思わなかった、つぶやかなかった、神を神を冒涜しなかった人間はいるでしょうか?ましてや今も、わたしたちを苦しみが襲うのです。果てしない痛みと悲しみの中で、「どうして、わたしをこのように造ったのか」と呪わざる得ないのです。掛け価なしにそれが人間なのです。だが、「だれが神の御心に逆らうことができようか」、そう呼びかけられている人間なのです。今やそれがわたしたちなのです。どんなに汚れ果てようと、どんなにぼろぼろになろうと、それがわたしたちなのです。わたしどもが呪いたくなるようなそこに、キリストはおられるからです。

2009年8月2日 平和の主日 「躓くからこそ」

マルコ6章1節~6a節

 
説教  「躓くからこそ」  大和 淳 師
イエスはそこから出て、ご自分の故郷へ行かれた.弟子たちも従って行った。
そして安息日になったので、彼は会堂で教え始められた.すると、聞いていた大勢の人が驚嘆して言った、「この人は、これらのことをどこで得たのだろう? この人に与えられているこの知恵は何だろう.どうしてこのような力あるわざが、彼の手によって起こるのだろう?
この人は大工ではないか? マリヤの息子で、ヤコブやヨセやユダやシモンの兄ではないか? 彼の妹たちは、ここでわたしたちと一緒にいるではないか?」。こうして、人々は彼につまずいた。
イエスは彼らに言われた、「預言者は、自分の故郷、自分の親類の間、自分の家以外では、敬われないことはない」。
イエスはそこでは力あるわざを何も行なうことができず、ただわずかの病人に手を置いて、いやされただけであった。
そしてイエスは、彼らの不信仰に驚かれた

クリスチャンなら、いや、クリスチャンならずとも、内村鑑三の名は知っていると思いますし、著書に触れ、尊敬している人は少なくありません。日本のキリスト教会にとって真に偉大なる人物であり、今も大きな影響を与えている人です。内村を通してキリスト教に触れたと言う人が跡を絶たないのです。その内村の息子で、日本の精神医学の先駆者ともなり、また高校野球連盟の会長も務めた内村祐介という人が、内村鑑三について書いているのですが、一言で言えば、祐介は、人間内村に躓いてしまったようです。家では気むずかしく、癇癪をしばしば起こすので、恐れていたことを語っています。あるいは内村の弟子で、東大総長を務めた矢内原忠雄、この人も優れた人物ですが、やはり、その息子は彼の家庭での言動、行動が外での彼とあまりにギャップがあることに躓いたことを記しています。そのことで内村や矢内原の偉大さ、尊敬すべきことはいささかも減じることはありませんが、どんな偉大な人も家庭、日常生活では普通の人であったということでしょう。

  さて、今日の福音書の日課は、イエスさまが弟子たちを連れてご自身の故郷に行かれた。そうして、会堂で教え始められましたが、結局その故郷の「人々はイエスにつまずいた」、そういうことが記されています。内村や矢内原とは事情は違うものの、やはりイエスも躓きを与えた、つまり、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」、そう言ってつまづいた、と福音書は語っています。

  主イエスはこのナザレの町においても、これまで人々が聴いたこともない権威と深い知恵に満ちた教えをなされた。ところが、彼らはかえって躓いてしまった。彼らにとってイエスは、自分たちと変わらない、そう言う意味では、まるでそんな権威や力が本来あるはずもない、言うなればイエスは、そういう風にどこまでも日常生活の人、ただの人、そのように彼らにとってはイエスはあるということです。このナザレの人々の躓きは、またわたしたちの躓きともなると言っていいでしょう。

 教会の信仰告白は、主イエスは真の神にして真の人である、そう信じているわけです。神は全知全能です。そのような権威を主イエスは持っておられる、と。しかし、信仰告白はまた同時に、この方は真に人であった、と告白する。つまり、そういう意味では、この方はスーパーマンではない、ということ、それ故、この故郷ナザレでは、主イエスは全知全能どころか、「そこでは、・・・何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(5節)と記されるように全く無力なのです。「神の子イエス・キリストの福音の初め」、そのようにこのマルコ福音書は始められていますが、「神の子」と言うより、全くの「人の子」、ただの人としてもおられるのです。そして、主イエスご自身「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(4節)そう言われたことが記されていますが、要するに、この物語は、まったく伝道に失敗であったということです。つまり、言ってみれば、主イエスは伝道に失敗したと、あたかもそういうことと言っていいでしょう。

 伝道、わたしたちは、出来ることならすべての人に受け入れられることを願います。でも、実際には拒否や、拒絶、失敗に色々な形で出会うわけですが、わたしたちにとってはそういうことは勿論、それはどこまでもネガティブなことにしか思えないわけです。何かあってはならないこと、汚点のように思ってしまう。もちろん、そのようなことがなければない方がいいし、またないように努力しなければならないことは言うまでもないことです。

 しかし、まさに主イエスご自身、そこに立っておられるのです。そして、この方はそのような拒否、不信仰にあってお怒りになり、呪ったとか、あるいは力づくで人々をねじ伏せるのではなく、ただ「人々の不信仰に驚かれた」と記すのです。主イエスは期待する、望むからこそ驚かずにはいられないのです。

 何よりこの主イエスの驚きは、この方ご自身の十字架にへとつながっています。彼らの拒否、不信仰を受け入れて、それをご自身に負われる、主はただ愛することによってそれに打ち勝ち給うお方だからです。拒否、不信仰に対して、神のなされ給うこと、それは最早愛する、それ以外にないその愛 ― 主イエスご自身、その愛にすべて委ねていかれるのです。拒否、不信仰 ― だが神は愛する、それが神の応えなのです。審き、罰ではなく、ただひたすら愛する!主イエスは、どこまでも最も身を低くしていわば彼らにご自身を踏ませ、通り行かせるままにされるのです。それが十字架の神なのです。

 わたしたちは、自分とは反対の人、拒否する人がいる、受け入れてもらえない、そのとき、悲壮な思いにかられます。しかし、イエスはただ驚いたのです。怒ったのではなく、腹を立てたのではなく、まるでいわばご自身との違いに、ああこの人はこう言う風に考えるのか、とそんなこと思いもつかなかったかのように・・・。

 そもそもわたしたち自身ちっとも主の道に従えないのです。あるいは他者の違いや過ちが赦せず、直ぐに腹を立てたりするのに、そのくせ自分の過ちや不信仰のことはもはや考えもしない、いや考えても、わたしだけでない、あの人のほうがもっとひどいじゃないか、そのようにして主の愛を、他者に対しても、そして自分に対しても拒んでしまうのです。でも、主は今でも、そんなわたしたちの不信仰を驚いてくださっているのです。その主の驚きの中に身をおいたとき、わたしのために、そしてあの人この人も、決して見捨てず、どこまでも負うてくださる主イエスの十字架が立っていることを知ります。

 主は、尚不信仰なわたしどもを友のように扱ってくださるでしょう。わたしたちは主に悪を行なうのに、主はわたしに善きことをなしてくださるでしょう。主はわたしの悪を数え上げるようなことをせず、倦むことなく、憤慨することなく、わたしをたずねてくださるでしょう。主はわたしと共に苦しみ、わたしのために死んでくださる。土はわたしのためには何もいとわれないのです。

 最初にナザレの人々は、いわば日常生活に躓いてしまった、そう申し上げました。敢えて言えば、少し変わった言い方ですが、そんな風に、でも日常生活に躓くほど近く、主イエスはわたしたちの中に来られたのです。えっ、この人が?えっ、こんなところに?と驚くほど身近な存在となられた。それがわたしたちの神であるということです。

 しかしそれほどに身近になってくださっても、そもそも、このような話、つまりあたかも神さまも失敗する、そうとってしまうようなこんな出来事は、そもそも聖書がいわばイエスを神格化しようとするなら、わざわざ聖書に記す必要はないはずです。「そこでは、・・・何も奇跡を行うことがおできにならなかった」、何も出来ない神さまなんて一体どうして信じられるでしょうか?

 でも、この主イエスが二千年にわたって実に多くの人を立ち上がらせ、生きる力となったのです。その最初の証人の一人がパウロです。先ほど読んだ第二朗読の2コリント12章で、ちょうどパウロはこう述べています。「・・・それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、それに行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12章7~10節)

 ここでパウロが与えられたという「-つのとげ」、「わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」とは、パウロはその肉体にひどい障害、ある人はパウロはてんかん症であったとも言いますが、そのような障害を持ちひどく苦しんでいたのでしょう。そして、何とかそれを取り去ってくださるよう、祈ったというのです。つまり、直してください、癒してくださいと祈ったということでしょう。しかし、その折りはかなえられなかった。しかし、そのパウロに全く思いがけない、そして驚くべき喜びとなった主の答えが与えられたというのです。主イエスは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」、そうパウロに教えてくださったというのです。

 しかし、そのような障害を身に負うている、そして祈りがきかれなかったというようなことは、わたしども日常の考えからいけば、それほ全くつまづきとなる以外ないことです。でも「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」、つまづきの中にこそ、弱さの中にこそ主イエスの力は十分に発揮されるのです。つまり、神はパウロにこう言っている、「あなたにそのようなとげ、障害、弱さがあっていいのだ」と。

 何故なら、このキリストは、「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」お方だから、とヘブライ書5章2節はそう語ります。そして、そのパウロ自身また「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(2コリント13章4節)、そうコリントの信徒に語ります。そのような神、キリストの弱さ、わたしたちにとっては躓きとなるもの、それどころかパウロは、それを単に弱さ、神の弱さと呼ぶだけではなく、「神の愚かさ」とも呼ぶのです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(1コリント1章25節)すなわち、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを喜べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(〃23-24節)

 ですから、今日のこの福音書の物語は、何より大切な物語、特に福音書の前半部の中心とも言うべき物語と言えるかも知れません。少なくとも決して余計な物語、余分な不必要な、あってもなくてもいい物語ではないのです。

 人生に、信仰に躓きがなかったらどんなにいいだろう、わたしどもはそう考えてしまうからです。躓きとはそもそも要はわたしたちにとって余計なもの、いらないものがそこにあるということです。しかし、聖書を通して主イエスは、ここでわたしたちに語りかけています。それは本当に余計なもの、いらないもの、なければいいものだろうか?そうではなく、それを通してこそ、「わたしの恵みはあなたに十分である」わたしの「力は十分に発揮される」。わたしはそのために来た。わたしはそれ故あなたの日常のただ中にいつもいる、と。

2009年7月26日 聖霊降臨後第8主日 「死の傍らに命が始まる!」

マルコ5章21節~43節

 
説教  「死の傍らに命が始まる!」  大和 淳 師
さて、イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大群衆が彼の所に集まって来た.そして彼は海辺におられた。
すると、会堂管理人の一人で、ヤイロという名の者が来て、イエスを見ると、彼の足もとにひれ伏した.
そして、しきりに彼に懇願して言った、「わたしの小さい娘が死にそうです。どうか、おいでになって、手を置いてやっていただき、娘がいやされ、生きるようにしてください」。
そこでイエスは彼と共に行かれた.大群衆は彼について行き、彼に押し迫った。
そこに十二年間も血の流出を患っている女がいた。
彼女は多くの医者にかかってさんざん苦しめられ、持ち物を使い果たしたのに、何の効果もなく、かえって悪くなる一方であった。
彼女はイエスのことを聞くと、群衆にまぎれて彼の後ろに近づき、彼の衣に触った.
「彼の衣に触りさえすれば、わたしはいやされる」と言っていたからである。
すると直ちに、彼女の血の源が枯れて、彼女はその病苦がいやされたことを体に感じた。
イエスは直ちに、力がご自分から出て行ったことを感じ、群衆の中で振り向いて、「わたしの衣に触ったのはだれか?」と言われた。
弟子たちは彼に言った、「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っているのに、『わたしに触ったのはだれか?』とおっしゃるのですか」。
イエスはこのことをした女を見つけようとして、見回された。
その女は、自分に起こったことを知って、恐れおののきながら、彼の前に出てひれ伏し、ありのまますべてを彼に告げた。
イエスは彼女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたをいやしたのです。平安のうちに行きなさい.あなたの病気は良くなりました」。
イエスがまだ話しておられる間に、人々が会堂管理人の家から来て言った、「あなたのお嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすこともないのですが?」
しかし、その言が耳に入ると、イエスは会堂管理人に言われた、「恐れることはない.ただ信じなさい」。
そして彼は、ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほか、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
そして彼らが会堂管理人の家に入って行くと、人々が取り乱して、泣いたり、わめいたりしているのを、イエスは見られた。
イエスは中に入って、彼らに言われた、「なぜ取り乱して泣いているのか? この子供は死んだのではない.眠っているのだ」。
すると人々は彼をあざ笑った。しかし、彼は人々をみな外に出し、子供の父と母と彼の供の者たちを連れて、子供のいる所に入って行かれた。
そして子供の手を取って、彼女に「タリタ、クミ!」と言われた.それは、「少女よ、わたしはあなたに言う.起きなさい!」という意味である。
すると、直ちに少女は起き上がり、歩き回った.彼女はすでに十二歳であった。彼らは非常に驚いた。
イエスは彼らに、だれにもこのことを知らせないようにと厳しく命じ、彼女に何か食べる物を与えるようにと言われた。

 主イエスの一行は、会堂長であるヤイロ、その彼の死にかけた娘を救うべく彼の家へと、その道を急いでいました。ところが、ひとりの女性によって、その主イエスの足は止まってしまいす。「十二年間も出血の止まらな」い、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」、そんな人生をまさに12年間苦しみ続けたその女性が、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」のです。「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」。すると、「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。」そうしてイエスはそこにそのまま立ち止まってしまいます。そこでイエスに癒されたこの人は「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話し」ました。その彼女に主イエスは「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」、そう命じられます。だがその後もイエスはそこに立ち止まってなおもまだ、この女に語られていたのです。主イエスはそこに立ち止まり続られた。主は、このひとりの女のために惜しみ無く時間をおさきになります。まるで彼女が苦しみ続けた12年間の年月を取り戻されるかのように。その命を慈しむかのように。イエス、このかたは、福音、命をもたらすおかただからです。

  しかし、それは一方で、待たされているこの道を急ぐヤイロをはじめどんなに周囲の人々をやきもきさせたことでしょうか。わたしたちにもこのヤイロの気持ちが良く分かるでしょう。そして、更にわたしどももまた、このヤイロのように、いわばこの主、神に放っておかれたように感じる経験があるのではないでしょうか。「主は、もうわたしのことなど忘れたのではないか」、そう感じる、思わざる得ないときです。そのようなすべてに見捨てられたような孤独に、まさにヤイロはいるのです。イエスは、何かお話しておられます。けれど彼、ヤイロの耳には入らなかったでしょう。案の定、最も恐れていた知らせがもたらされるです。「あなたの娘はなくなりました。このうえは先生を煩わすには及びますまい」。

 イエス、このかたは、福音、命をもたらすお方、その命の使者と、死の使者が路上で遭遇、激突したのです。しかも、死が、一歩はやく、一足はやく少女をとらえたのです。「・・・この上は先生を煩わすには及びますまい」、死は、もう無駄だ、勝ち誇りながら、福音、命の知らせをあざわらうのです。この方の十字架を人々が、すべての者があざ笑い、罵ったように!

  わたしどもの人生の路上で、今もこのように死の知らせが耳元に届けられるのです。「このうえは、主をお連れして煩わせるに及ばない」、所詮、信仰といっても、この死の一歩手前のところでのことだ、と。ヤイロに既に主の語られている御言葉が耳に入ってこなかったように、そのとき、わたしどももまた御言葉、聖書は耳に入らず、その死の声の方がはるかに深刻に、圧倒的にリアルに耳元に響くのです。人は誰もなかばあきらめたように、その死の路上に立ち尽くすのです。

  しかし、驚くのはそのとき、主イエスがお語りになったことです。「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた。」(36節)この「イエスはその話をそばで聞いて」と訳された原文をそのまま直訳しますと、「しかし、イエスは語られた言葉を聞き流して・・・」、イエスはその死の知らせを〈聞き流された〉のです。このうえは、イエスを信じても無駄である、その声、思わずわたしどもが耳を傾け、そして捉えられてしまっているその声を聞き流されるのです。それが、わたしどもの信じる、わたしどもの主なのです。主は、命の主であり給います。命、福音を告げ知らせ給うおかたです。わたしどもにとって、死の、あの知らせが、既に勝利していると思える時にも、真の命の主であり給うのです。それ故、言われます、「恐れるな。ただ信ぜよ」。

 さて、ヤイロはここで一方から死の知らせを聞き、一方から命のおとづれを聞く板ばさみになります。ちょうどそのようにわたしたちにも自分自身の敗北と悲しみを告げる知らせが刻々と届けられます。御言葉、福音よりもはるかにリアリティーをもって、あのこの世の声、「キリストは、信仰は無駄だ」と言う声が圧倒してきます。たとえどれほどの強い信仰をもっていたとしても、確かに死の知らせは常に一足はやく力をもってくるのです。わたしどもの力ではどうにもならないものとしてわたしどもの足をからめとるのです。誰が、それを聞き流すことができるでしょうか。誰が恐れずにいられるてでしょうか。それを聞き流し、恐れずに信じることができる、それはこの死の力に対して、勝ちえるかた、そのかた以外にないのです。主は言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい」。

 このヤイロはそもそもすでにイエスのひざもとに平伏すだけの信仰を持っていました。そのヤイロの信仰は、イエスを連れてきた、イエスを動かしたのだ、と言えるのです。そのようなひたむきさがイエスを引っ張ってきたのです。しかし、わたしども自身の持ちえる信仰とは、それまでなのです。わたしどもの「ただ信じる」とは、そこまでなのです。信仰はただ死のこちら側でしか意味をなさないかのように、死を前に音を立てて崩れていくのです。あの死の知らせと、このいのちの知らせと板ばさみになったとき、立ち往生してしまうのです。今度はヤイロの足が止まってしまうのです。いえ、わたしたちの足はこの死を前にして、そこから一歩も進めないのです。

 死、それは、わたしどもの人生に対する壁のように突然わたしどもの前に立ちはだかります。路上でヤイロを襲ったように。わたしどもは、この壁の一歩手前にいるときに、この壁のこちら側でなら、信じていることもできる。恐れずに生きていられるかも知れない。このヤイロのように。まさにヤイロは会堂長、本来ならイエスと既に敵対している陣営に属するこの人は、しかし愛する娘のために、全てを投げ打って、このイエスの足元に平伏しました。その死によって立ち塞がれる壁の一歩手前までの真剣な努力、その愛・・・。彼のそのひたむきな信仰、その努力、その誠実さ、その愛情、彼は、ぎりぎりまで努力した、為しうる限りのことをしたのです。だが、あの死の知らせ、その使者の言葉、「あなたの娘はなくなりました。このうえは先生を煩わすには及びますまい」それは、「よくやった。だが、ここまでだよ」、そう告げます。そこでわたしどもは信じること、信仰の空しさも感じてしまうのです。わたしどもの生、その無意味さを感じてしまうのです。その限りの人生、信仰であると。どうしても、わたしどもがこの壁を乗り越えることはできないからです。どれほどひたむき、純粋な信仰であれ、この壁を乗り越えることはできないのです。この壁の先は、「このうえは先生を煩わすには及びますまい」、諦めなくてはいけない、もうこれ以上はしょうがないではないか、と。だから、それ故、わたしどもは、この壁の前、死の直前まで、結局どう生きるかである。どれだけ生きたか、ではないか、と。だが、それは結局は、この死の壁、この世の力に押しつぶされているのです。限りある命である。だから、その限り真剣に生きる、精一杯努力する。確かに、それがわたしどもに、究極的に残された生き方でしす。そして、それ自体、本当に困難な、尊い生き方であるでしょう。何故なら、彼の娘が死に至ったときに、もし、所詮もうどうにもならない、どんなに努力しても、自分は駄目なんだ。そういう風にヤイロが考えたとしたら、この出来事は起こらなかったし、彼は、はるか以前に、この世の力に押しつぶされてしまっている訳です。しかし、限りある命である。だから、その限り真剣に生きる、精一杯努力する、その生き方自体もまた、この世の力、死の力に押しつぶされた生き方となるのです。謂わば、この死の壁、その力に駆り立てられてあるに過ぎないからです。この世の力、その支配されているからです。わたしどもは、やっぱりそこで恐れ、恐怖によって生きているのです。この壁のこちら側で、いたちごっこのように、この恐怖と戦っている訳です。

 だが、それから先がある。今やここに転換が起きます。ここから先は、このかたがヤイロを、弟子たちを、わたしたちを連れていくのです。ここから先は、イエスが、わたしどもを引っ張っていくのです。それは、死の克服という事実の前です。「恐れることはない。ただ信じなさい」、その御言葉がわたしどもを伴っていく道がそこから通じていくのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」。主は、ヤイロにそう言われました。「恐れてはならない」、「ただ信じる」。わたしどもは今、このヤイロとともにそのようなイエス・キリストの現実に立っているのです。

 「恐れてはならない」。したがって、この主の言葉は、敢然とこの死の壁を突破するということです。わたしどもが、この壁の手前で、もうそこで終わりだと感じている、そこから先のこと、それはもう、本当に、夢物語、このヤイロの家で、泣き叫んでいた人々が、イエスをあざわらったように、愚かしいこととしか思えない、その限り深刻そのものである。その死の現実が、終わりどころか、始まりである、思いも依らず、そこでこそ「信じる」ことが始まる、全く新しい命の現実が指し示されているのです。それは、このヤイロのように、これまでの努力は全くの無駄、最早何も残らない、そういうこの世の力によって全てが奪われていくその現実の中でなのです。死の支配、この世の力が、わたしどもを根こそぎ押しつぶし、打ちのめすときに、驚くことに、なおそこでわたしたちには信じられるものがある、信じることができると言うのです。いや、そのときに信じなければならないのです。信じることが始まるのです。何故なら、わたしどもは、そこで空手であるからです。そこでわたしどもの手の中に確かなものは、あの死の壁そのものを突破しうる保証、力も何もないからです。

 しかし、主は、泣き叫んでいる人々に言います。「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。それは、あたかもこういうことです。何故深刻なそぶりを見せているのだ、と。わたしどもは、確かにこの世の力、死を目の前で、全く深刻にふるまう、いやそうせざる得ないでしょう。これ以上ない深刻、厳粛なもの、人の死!しかし、一方でまさしくこの40節「イエスをあざ笑った」人々のように、その涙のかわかぬうちに、人をあざわらうような姿がわたしたちの中にもあるのです。何故なら、わたしどもは死を決して、本当には真剣に受け取ることができないのです。それは裏を返せば、生、命を本当には真剣に受け取ることができないということですが、もし、本当に真剣に死を考えたなら、わたしどもは、全く根こそぎ打ちのめされるからです。ですから、わたしどもは、この壁の一歩手前までは、本当に真剣になれます。この壁を忘れられる限り、わたしたちは、あらゆることにおいて真剣に、真実でありうる気がするのです。しかし、一度この壁が、わたしどもの前に塞がると、信仰でさえ、真実に思えず、真剣になれなくなるのです。そして、この壁の前で、真剣であり、真実であるのは、ただこの力に、ただ無考え、無反省に隷属していくことです。どうせ、こんな世の中だから、そうして、人はまた命がけにもなれるのです。それこそ、戦争に行くし、権力争い、憎しみ合いのために命まで捨てるのです。死の法則に従っているから、その時にだけ、真剣である、真実であるように思えるのです。そのように、わたしどもの深刻さは、あのこの世の力、死の力そのものに押しつぶされているからです。決してあの壁を乗り越えることができないと信じているからです。ただこの世の力、その支配に、隷属しているに過ぎないからです。諦めている、仕方がない、そういう風にしか、死を、したがって生を、命を大切に考えられなくなっているからです。

 しかし、わたしどもは、真実の涙、本当にただ一人、深刻に死の事実と戦ったかたの涙を知っています。他ならぬこのかた、イエス・キリストご自身であります。ゲッセマネでの、あの十字架を前にしての祈りの真実であります。そのとき、誰も、この方以外に起きていることができなかったと言います。眠ってしまった弟子たち、わたしどもの不真実、眠っている現実・・・。そして、十字架、このかたの死。そして、復活。それは、この御方だげが、この死の支配のもとで、真実に戦い、ご自分のものとし、そして、突破された、ということです。だから、この御方によって担われているからこそ、わたしどもの死は、「ただ眠っているだけである」となるのです。この御方は命にお向き合うお方だからです。「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」、それは、したがって、誰よりも真剣に死を担われ、しかし、そうして命を担われるお方の言葉、事実なのであります。そして、ただ一人、あのこの世の力に勝利されたお方の言葉なのです。しかし、この世の力に屈服し、押しつぶされ、本当にはその恐ろしさを知らない人間にとっては、むしろ全く不真実なものに見えます。一かけらの深刻さも感じないからです。わたしどもと一緒に、死に突っ伏していないからです。この方だけが命に対して本当に真実、真剣であり給うからです。

 そうして、「少女よ、起きなさい」。それは、さしずめ「さぁお嬢ちゃん、起きなさい」と言うことです。「少女よ、復活せよ」とか、大仰な言葉ではなく、全く平凡な、そう、母親が、朝そっと自分の子供を起こすような日常の言葉であります。そして、起き上がった少女のために「食物をあたえるように」と言われます。まさにそこは日常生活そのものです。復活、それはキリスト教信仰において、秘義の中の秘義、そう言えるかも知れません。それ故、この出来事の前に「ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを許されなかった」のです。しかし、そこで現出する世界は、全くのわたしどもの日常そのものの世界であるのです。復活は、まさにわたしたちのこの日常生活そのものの中にもたらされるのです。

 「恐れるな。ただ信ぜよ」。わたしどもが、この主の言葉を聞くのは、したがって、このわたしどものこの日常そのものの中で、であります。わたしどもが、あの壁の前で、ゲッセマネの園で眠りこけている弟子たちのようなこの生活のただ中で、であります。それはこういうことです。既に、わたしどものこの平凡なこの生活、食べ、飲み、寝る、働く、この日常の行為、わたしどもが日々繰り返し、時に無意味にも思えるそれは、もはやこの死の力、この世の力に呪われたもの、支配されたものではないのです。この御方によって、新しい命そのものへ踏みだしているのです。この方の苦しみ、十字架と復活に支えられているのです。

 それ故、ヤイロは、あの死の路上で、決して放って置かれていたのではなかったのです。彼にとってはすべては徒労に思えたその瞬間も、人生の空白のように思えたその苦しみ、悲しみも、その一切は決して無駄とはならないのです。既にこのお方がそれら一切を受け取り、引き受けてくださっているのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」とはそういうことです。そのことは、また「十二年間も出血の止まらな」かったこの女性にも起きたことなのです。彼女の「十二年間」、「ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけ」、それが彼女の人生のすべてではなかったのです。いいえ、あなたが、あなたの人生をそのようにまさに感じる、あの死の知らせが、一切は最早無駄である、そうわたしたちに語る時にこそ、この方の声はわたしたちを招くのです、命へ、命へと。「恐れるな。ただ信ぜよ」、何もないが故に、「恐れるな。ただ信ぜよ」、そこから命の道が始まっている、この方に導かれて、従いつつ歩むわたしの命の道が始まるのです。そうです、ヤイロも、この長血の女にも、そしてあなたにも今既に復活が起きているのです。真に死の傍らに命が始まる!このお方があなた、その命の傍らにおられるからです!