2001年2月4日 顕現節第5主日 「中途半端でない将来」

第1日課   エレミヤ書17:5-8

主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。

第2日課   コリント人への第1の手紙12:27-13:13

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行なう者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行なう者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来た時には、部分的なものは廃れよう。幼子だった時に、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくてとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で、最も大いなるものは、愛である。

福音書   ルカによる福音書6:17-26

イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群集は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じ事をしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなた方はもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

説教  「中途半端でない将来。」

ルカによる福音書の六章17節から26節のお言葉でございます。

主イエスさまのお言葉も、また最初の旧約聖書の言葉にも、完全に逆で、違う立場にある人々について話しておられます。そして、勿論わたしたちは良い方に属したいと思っておりますが、このことについて、わたしたちは今日考えさせられるのでございます。

言葉としては、「幸いと不幸」となっております。旧約聖書の言葉はもっと厳しく、「呪われる人と祝福される人」という言葉を使っております。どちらにしても、正反対ですから、ある程度ということではなく、こっちか、あっちかとはっきりとしております。私たちの世の中では難しいこともあり、悲しいこともあって、何時も私たちは[ある程度]ということを考えています。この時と、あの時とはいくらか違う。それほどではない。或いは、もっとすごいというように考えるのですが、ここでのイエスさまのお言葉では、[幸い]とは完全な幸いです。完全な幸福です。わたしたちは、少しはこちらで良い、またあちらではそれほど大変ではないと考えがちですが、この言葉は今の時の話ではないようです。勿論、今からそういうことが私たちに関連しているのですが、でも、本当に幸いである時が来るのです。それは限りの無いものであって、本当に祝福される時です。わたしたちが天国へ移されて、イエスさまの兄弟として、神さまの家族となる時のことです。

イエス様がいらっしゃった国は地中海に面していたところです。地中海の柔らかい良い風が普段は吹いているのです。でも、たまに東側からアラブの、今はサウジアラビヤとなっているところですが、砂漠を通る風が吹いて来るのです。すると、青いものが全部焼けてしまってその年は植物が駄目になって人々は飢饉で苦しむのです。そのことを、譬えとしてイエスさまは用いられています。また、エレミヤもその当時の人たちに聞かせています。だから、ある程度ではなく完全に駄目と言うことなのです。東から風が吹いて来たら。そしてまったく砂漠のようなところになるというのです。土地が駄目になることです。実際にそのようなところがあるのでしょうかと思いましたが、わたくしはそれには会っていないのですが、第二次戦争中、日系人たちは太平洋側から他のところに移されてしまったのです。わたしの母や親類の人たちが移されたところは、土地の塩分が多くて雑草も生えないところでした。少し風が吹くとわあっと埃が立って嫌なところでした。日本人は一生懸命に働いて工夫をして上手に畑を作ることが出来たのですが、ラデッシュを植えたら余り塩分が強いので、塩をつけなくても食べられると冗談を言ったほどでした。また、もう少し木陰が欲しいと男たちは大きな葉っぱがあるエルムという木陰を作る木をそこへ植えたのですが、土地が悪いので小さい葉っぱしかならないで、全然木陰は出来なかったのです。

エレミヤ書の中でそのような飢饉が起こる状態のところでも、そばに水かが流れていたらそこから根が水分をすって木が何時までも青々としていると聞かせています。そのように全然違うということです。

わたしたちの信仰のことを考えれば、わたしたちが救われるか、または、救われないかという大きな差があるということ。救われる者は、完全に救われる。そのある程度までと言うことではない。天国へ行ったら完全なものに変わっているということです。イエス様の兄弟となっているのです。でも、もしもわたしたちが、不幸の方になれば、不幸といったら、日本の言葉では死ぬと言う話になってしまうのですが、その通りに本当に苦しい時が来るのです。それには、終わりのが無いのです。今の世の中でしたら、一時は苦しいでしょう。痛いでしょう。でも一時的なことです。永遠の時でしたら、どっちかという本当に幸福であるか、あるいは不幸であるかをイエス様が聞かせておられるのです。

その中にいろいろな例がございますが、その「幸せ」の基になることは何かといいますと、パウロはわたしたちに愛というものを考えさせるのです。愛というものは限度がないものです。最後には信仰と希望と愛と三つのものが残るのですが、天国へ行ったら、もう希望は既に与えられて、完全な者ですので、これからもっとよくなるということはないのです。希望は必要なくなる。信仰は先への大きな望みを持って信じることです。でも、現実が完全であったら信仰はいらないのです。わたしたちは当然愛し合っていますので、残るものは愛であると、パウロの言っていることでわたしたちに愛ということを考えさせます。そのように、わたしたちが愛を考える時は神様の愛を考えるべきです。

勿論、人間にも愛はありますが、最近は余り聞きません。わたしの若い時代でしたら、愛というものは、愛国であったのです。あるいは親を愛しなさいという命令だったのです。戒めだったのです。愛国もそうでしたが、必ずしも美しいものではなかったのです。ただ、恋愛の内にも使われています。男と女が心を寄せ合って、夫婦となり一緒に生活をすることを意味するものですが、それもここに、コリントの十三章にある愛とは大分違うものでないでしょうか。はじめは恋愛をして、ボーイフレンドかガールフレンドに心を寄せているのです。余り好きでないところもあるが、人はみな欠点があるのですから、完全ではない。それはおぼろげにちょっと思っているのですが、でも心を寄せているのですから、恋愛をしている時には夢中になっているのです。結婚をして、しばらくは続くのですが、だんだんに相手のいけないところが目立ってくるのです。そのうちに嫌に思って最近は随分離婚が多く行なわれているようです。その愛というものとは全然わたしたちの今言っている愛とは違うものと考えなければなりません。ただ、感情的に神様がある人を好きと言っているのではないのです。かえって、聖書によりますと、わたしたちはまだ罪人である時に神様が愛してくださって、独り子をこの世にお送りになってわたしたちの身代わりをなさったのです。それによってわたしたちの払うべきものをイエス様が受けてくださって払ってくださったから、わたしたちは一文も払う必要がないのです。そういう神様の愛とはわたしたちが普段考えている愛とは、例えば恋愛というものとは全然違うのでないでしょうか。わたしたち人間は本当に愛というものがわかっているのでしょうか。

コリントへの手紙の中にある愛についての一つ一つの言葉も、愛は決して滅びない、終わることはない。預言や異言や知識は廃れるが、わたしたちは良い話を聞いたり、どんな素晴らしい話を聞いてもそれは無くなるが、愛はそうではない。愛は一部分ではなく完全なものです。わたしたちにはその一部しか分かっていないのです。人に聞かせることも一部分だけです。パウロは子供を例にして、幼い時に考えていたことは、いろいろ夢のようなものがあったのでしょうが、大人になったら現実にぶつかってそれほど甘いものではないと私たちも分かってくるのです。だから、昔の鏡は今のとは違って、ガラスは当時ありませんので、おそらく鉄分や銅を磨いてそれを鏡として使っていたようです。それで、完全には映らなかったのです。ですから顔と顔を見合わせれば本物がわかるのですが、当時の鏡でしたら自分の顔もよくわからないのです。はっきりと分かる時、その時は、永遠の命が始まった時で、その時、わたしたちははっきり知ることになるでしょうと、そういう大きな希望を与えてくださっているのです。そして、希望ばかりではなく、わたしたちの信仰も大事にしているのですが、最後は愛しか残らないものだと。わたしたちは神様の愛に包まれて永遠に生きることであって、それには限りがなく何時までも続くと、わたしたちは今日聞かされて、その素晴らしいことを心に留めておきたいと思います。

皆さん、この基になるものは、わたしたちの主イエス様が教えてくださったことでございませんでしょうか。主のお言葉を良く聞いて心に留めておきましょう。今のところは、全部は分かりませんが、信じて希望を持っていましょう。その信じることと希望を持つということの基は愛である。神様の愛であると覚えておりましょう。

2001年1月28日 顕現節第4主日 「神様にとって、わたしたち一人一人は大切な者です」

第1日課   エレミヤ書1:9-12

主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、或いは建て、植えるために。」主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」私は答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。」

第2日課 コリント人への第一の手紙12:12-26

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手でないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目でないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体の一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中ではほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好良くしようとし、見苦しい部分をもっと見栄え良くしようとします。見栄えの良い部分にはそうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

福音書  ルカによる福音書5:1-11

イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群集がその周りに押し寄せてきた。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群集に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答えた。そして、猟師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。

彼らは来て、ニそうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

説教  「神様にとって、わたしたち一人一人は大切な者です。」

ルカによる福音書の5章1節から11節のお言葉でございます。

この話のうちに、主イエス様が、弟子として何人かをお招きになられたのです。

その人たちは漁師であったのです。彼らは、自分はそんなに教育があるものではないから、専門はあるのですが、それによって生活をしているので、その意味では一人前ですが、でもいろんなことは分かっていないと思っていたことでしょう。そこでイエス様が彼らよりも良い漁師であることをお示しになるのです。彼らは、ずっと一晩中漁をして何一つもとれなかったのですが、イエス様のお指図に従ってやったらおびただしい量の魚が捕れたのです。漁師の頭によるとイエス様の方が素晴らしい漁師であることがそこで分かってペトロは小さくなってしまったのです。「僕のような者と一緒にいらっしゃらないで、どうぞ離れてください。」と言って頼んだのです。イエス様はそれに対してそこにいた人たちにお頼みになるのです。「これからは人間をとる漁師になってもらうよ」ということでございました。私たちは何遍もこの話を聞かされていますが、ペトロはイエス様の弟子の一人として、この後、よく活躍します。ある教会は、ペトロが一番の弟子であると言って、その後継ぎはみな牧師であり、祭司として決めているようです。イエス様がペトロにこう頼んだことによって、ペトロがほかの人間に按手礼を授けたことで、教会の一つの規則として、また、伝統としてそれを続けているのです。そういう教会は、大きい教会で二つもあります。わたしたちの教会はそこまでその伝統に従ってはおりません。実際にはいくらかそれを続けているかも分かりませんが。別にそれを規則とはいたしておりません。

今日の旧約聖書の日課によりますと、エレミヤと言う人が預言者として神様に選ばれたのです。エレミヤは「僕はあんまり言葉が上手ではない。話がよく出来ない者です。」と謙遜に言ったのですが、神様は「私はあなたのことを生まれる前からそう考えていたのです。そして、この仕事をしてもらうことを決めていました。」と言われて、エレミヤは何も言えず、その通りに従うのです。聖書を見ますとエレミヤは、預言者としては一番長くその務めをしたと考えられます。私たちには何年かは分かりませんが、かなりの歳になるまで、イスラエルとユダの国がバビロニヤに征服されて、人々がバビロニヤの地方に連れて行かれましたが、エレミヤは、バビロニヤ軍が来て、エルサレムも壊されて神殿もなくなるということを預言していたので、エレミヤは味方だと思って彼をバビロニヤへ連れて行かなかったのです。彼はそこに残っているつもりでしたが、大分歳でしたので、強いられてエジプトへ連れて行かれてそこで一生を終わるのです。そのような体験をして、その間にエレミヤ書という素晴らしい預言書を残してくださったお方です。初めはわたしは話が上手ではないと言ったのですが、沢山の良い言葉を残してくださっています。

そこで、パウロがコリント人に話したことは、私たちはみな一つの体であると、教会はこういうものだと、その中にいる一人一人は違っていて、性格はみな一人一人の個性があって、それが大事なことです。みな同じではなく、それぞれが恵まれた特別な力を持っているのです。体にはいろいろな部分が、目や、足や、手の一部分づつの役割があるのです。一つ一つが全体ではない。違う部分によって、一つの体になっているのです。よく考えると、弱いところもあるでしょう。でもそれがあってもその部分も欠かすことの出来ない大事なものです。体全体を考えればその働きの助けをしているのだと言っています。実際、教会はそのようなものです。わたしたち一人一人はそれぞれ個性があるでしょう。

自分を考えれば、変わった者の一人と思いますが、でも、いくらか役に立っていると思います。私も、本当は牧師にはなりたくなかったのです。牧師だけにはなりたくなかったのです。でも神様がこのように仕事をすることをお決め下さったので、喜んでいたしてしておりますが、でも今でもたいしたものではないと思っております。そこでそれを判断するのは神様がなさることで、そして私たちがよく出来るから、自分の力が一番仕事の助けになっていると考えることもありますが、それは恐らく僅かな一部分だと思うほかありません。私たち一人一人が教会にとって大事な者だと、役割があると、それはどんなに上手にしているかはこれは自分の力でやっていることではなく、神様がその力を与えてくださって、その場所、その時を与えてくださって、無くてならないものとなっているのです。自分をそう考えるべきだというお話でございます。

イエス様も弟子たちを選ぶ時、あのように無教育な人を、全然違う仕事をしていた人を使われて私たちの教会の初めをお作りになったのです。勿論、十二人の弟子が一人一人個性があって、全部がペトロのようなおしゃべりが達者な人ではなかったようですが、それぞれの役割があってそれを果たしたようです。十二人の中のただ一人が長生きをして、歳をとって亡くなりましたが、ほかは全部殉教して、自分の信仰のために殺されるまでしたのです。長生きをしたヨハネは随分苦労をしたように見えます。一時は島流しにされて、いわゆる悪人と思われていましたが、また、町に帰ってしばらく良い仕事をしたのです。最後はだれかに手伝ってもらってみんなの前に立つことが出来て、支えられて僅かな言葉でしたが、普通の説教は二十分か、二時間かわかりませんが、最後の説教は、「イエス様を愛しなさい。」ということだけを聞かせたようです。そのように私たちの歴史を見ると、教会の歴史を見ますと、いろんな人が教会に来て、その一人一人が教会で、なくてはならない人となっているのです。一人一人が私はたいしたことをしていないと思っているのですが、実際は神様のお望みの通りに私たちはやっているのです。私たちはそれを比較できるかも分かりませんが、でも、神様が私たちにさせてくださることが、これが、大事なことで、神様が喜びなさることです。私たちは決して、自分を役に立たない者と考えてはなりません、役割があるのです。そして、それがただ一言葉であるかもわかりません。例えば、自分のことになってしまいますが、まだ小学校へ行っている頃、三年生頃であったと思いますが、親友が、「ジョージ君日曜学校へ行かないか。お母さんに聞いて良かったら日曜日の朝お宅へよって日曜学校へ連れて行きますから。」その一言葉だけでしたがそれによって、その時からルーテル教会へ通って、堅信をしてその後また、少しは迷いました。世の中を見ようと思って、カルフォルニア州立大学に僅かでしたが行きまして、そこにいる間少し世の中を見ましたが、しなければならいことがあると思って、当時はミズリー派には一人も日本人の牧師がいなかったのです。そして、日本の伝道も始まっていなかったのです。だから僕は勝手に考えたのですよ。神様がこうさせようとしていらっしゃることはよく感じていたので、その初めの仕事をしばらくやってみようと、そして、少し仕事の結果が出たら、僕はやめて自分のしたいことをしようと考えて自分を慰めて、神学校へ行ったのです。不思議なことに、この歳になっても神様がもう少し、もう少しと言ってくださるので、今も、皆さんの前にこうして立って、神様の愛を皆さんに告げようとしております。私個人としては大したことをしていないと思うが、でも、アメリカでも、日本に来てもいろんな経験をさせられてその全部を合わせて考えればとても良い機会を神様がたくさん与えてくださったと思っています。皆さんも全部同じようなことをする必要は無いと思いますが、でも、何時か、どこかで、誰かにその大切な福音の言葉を聞かせて、それによってもっと大きな事が起こることを皆さん考えていてください。

神様は皆さん一人一人のことを大切にしておられるのです。あなたがたを、個人として大事にして、皆さんの一人一人を通してもっと大きなことを神様は考えておられるのでしょう。こう信じて、今日のペトロがイエス様の弟子の一人になりましたという話を覚えていてください。

2001年1月21日 顕現節第3主日 「わたしたちも、ナザレの人々のように思い違いをすることがないでしょうか?」

第1日課   エレミヤ書1:4-8

主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」しかし、主はわたしに言われた。「若者に過ぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われた。

第2日課     コリント人への第1の手紙12:1-11

兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じです。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって、知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって、病気を癒す力、ある人には奇跡を行なう力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

福音書   ルカによる福音書4:16-32

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に3年6ヶ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いて会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には、人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

説教 「わたしたちも、ナザレの人々のように思い違いをすることがないでしょうか?」

ルカによる福音書の4章16節から32節のお言葉でございます。

今日、皆さんはイエス様が故郷に帰られて最初の説教をなさったことの記事を学ぶことになっております。

与えられた聖句は、イザヤ書の61章の1節と2節のお言葉でございます。その言葉をよく見ますと、イエス様を指しているように解釈が出来ます。神様が多くの人々のことを心配して、例えば貧しい人、そして、その人たちのために救い主に油を注がれたのです。油を注がれるということは、任命することです。イエス様について、「わたしを使わされたのは、捕らわれている人に開放を、眼の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、」イザヤのこの言葉はわたしたちにとっては、ちょっと想像しなければ理解できないようなことですが、「眼の見えない人に視力の回復を告げ」はわたしたちもそうですが、罪のためにわたしたちは今の状態、この世にいる状態では十分にものを理解出来ないのです。何が正しいか、また、何が真理であるかがよく見えないのです。神様が、聖霊がわたしたちを助けなければそれは分からないのです。パウロがこう説明しております。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる。」(ローマ10:17)なお、ヨハネがイエス様の仰ったことを引用して、「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」(ヨハネ20:29)との言葉をわたしたちは思い出します。

わたしたちは、いろいろ見たり、聞いたり、殊に最近の科学の発展、技術の発展、また、昔のことも掘り起こして勉強しているので、いろんな事を知っているつもりですが、本当にわたしたちは分かっているのでしょうか。このイザヤの言葉の『捕らわれている人に解放を』とは、昔の捕虜はひどく侮辱され、いじめられて、身体的にもかなり傷を負わされていたのです。そのように、無理やりに考えさせられたり、押し付けられている状態のことをいっている言葉でございませんでしょうか。わたしたちもそこまでではないですが、自分の思った通りにならない。わたしたちはもっと人が親切であったら良いなと思ったりするときもあるでしょう。或いは、わたしたちのすることもあんまり誉められるようなことではございません。やはり、罪人であること。そして、わたしたちに一番難しいことは、神様がわたしたちをどう思っていらっしゃるかということを学ぶ時、本当に殴られたような痛い思いをします。罪人であると。犯罪人であると。勿論、神様の法律を犯した者という意味でしょう。それで、わたしたちは罪に捕らわれている人で、救い主がわたしたちをそこから解放してくださるということです。

「圧迫されている人を自由にし。」という言葉は、わたしたちはいろんな苦労をして、場合によれば、身体的の病気で体が弱っていく、そればかりではなく、わたしたちの心もかなり疲れて弱っているところを意味して、そこからわたしたちが自由にされたということはイエスさまご自身が私たちの身代わりをなさって、十字架の上でわたしたちの罪を全部負われてそれを全部受けてくださったということが、聖書の教えです。神様がわたしたちにこれをしてもらいたいということです。昔の人たちは、旧約時代の信徒の人たちは、7年ごとに恵みの時があって、その時が7回続いて、49回の後の年には恵みの年、ヨベルという年があったのです。その時は、自分の手放した財産の権利が全部戻されたり、奴隷も解放されるのです。

50年目の年はそのように聖別されて、その一年は休息の年であるのです。人々はいつもの難しい仕事を休んで、ある物でその一年を過ごすのです。そのように、完全にその時の苦労から解放されると言うことを経験したのです。歴史をよく見ると、あんまりこれを守ることは出来なかったようです。ルールとしては聖書にあるのですが、実際には人間はそれを実行は出来なかったようです。そのようにイエス様が、神様がわたしたちの生活までも心配してくださって、わたしたちに安息の年を神様が工夫をしてくださっておられるのに、わたしたち人間はそれを上手に守れなかったように見えます。聖書を読むとそれが書かれています。レビの書物の中にモーゼが書いております。そこで、このような素晴らしい話をイエス様がナザレの人たちに話されて、彼らも感動していたようです。そして聖書にある救い主は何時来られるのでしょうかと考えていたところ、イエス様ご自身が「今日あなた方が耳にした時に実現した」、わたしがその救い主であるとはっきりと彼らに言われたのです。それを聞いて、皆喜んでいたようですが、ある人は「この人は村の大工さんの子供ではないか」と思っていたので、イエス様は彼らの考えていることを察しられて、「あなたがたは医者よ、自分自身を治せと言う諺で、郷里のここでもしてくれという。」と話されたのです。これを現代的に言うならば、それほど素晴らしいことをなさったのですが、わたしたちはうわさを聞いております。それでその素晴らしいことを実演してください。ここでそれをやってくれということです。結局、見世物にしたかったのでしょう。わたしたちの町からこんなに素晴らしい人が出て、病気を治したり、奇跡を行なったりしたということを自慢したかったのでしょう。イエス様はそれを断ったのです。さらに聖書を引用して、エリヤを助けたのはその国の人ではなく隣国のシドンのサレプタのやもめでした。また、その後に、エリシャの時代で、らい病が流行ったときに神様が癒した人は外人であったと、二つとも、イスラエルの人ではなく故郷の人ではなく他の国の人だったとイエス様は仰ったので、町の人たちは興奮してイエス様を崖から突き落とそうとしたのですが、イエス様はそこから逃れられたのです。

この例を見せられてわたしちもちょっと考えるところがあると思います。わたしたちの町、わたしたちの国、わたしたちの周りの人たちに良いことがあることは悪くないことですが、でもわたしたちだけののものとして考える欲望は、少しわたしたちにもあると思います。私もそうね。子供の頃の話で、例えば、昔は韓国の人たちを、朝鮮と言って、いい人ではないと言われたその一言葉が私の心に残って今でもちょっとそう感じることがあります。このように人間が差別をすることは自分が偉い、自分が一番よろしいとそう考えたいからです。自分を他の人と比較して、弱い人がいたら、自分の方が上だと思っていたいのです。本当はわたしたちは神様に愛された罪人ですから、もっと理解あるはずでしょう。わたしたちも本当は、神様のみ前でしたら困った者です。全然なっていないものです。罪人という恐ろしい言葉を聞かされているのです。もう何度も聞かされて欠点だらけだと自分で認めているのですが、それほどは悪いとは思っていない。みんな同じと思っています。みんな同じです。皆このままでしたら地獄へ行くほかはないのです。でも、神様がわたしたちを心配して、御独り子をこの世に送って、わたしたちの身代わりをさせたのです。そして、わたしたちは今十字架を飾っていますが、そのように主イエスさまはわたしたちが受けるべき刑罰を全部御自分で受けられて、完全な方が悪い者の代わりになってくださったのです。丁度、大昔アダムとエバが、最初の人々が罪を犯したからその後の人は皆罪の結果で、その報酬を受けているのです。ですからわたしたちは誰一人も完全な人はいません。そう思ってもいません。人間は欠点だらけな者です。弱みが結構あるのです。精神的だけではなく、身体的にも弱い。いずれは死ぬでしょう。寿命はどのくらいあるかは誰も断言できないのです。そう90歳以上、最近は100歳を越す人もいます。珍しくもないのです。人間は今それだけ長生きになったと誇ることができるでしょうが、でも僅か100年、神様の時間から考えれば、ほんの僅かな時です。歴史を見ても今年は2001年ですが、それを全部通してきた人は一人もいないのです。その僅かな一部分の100年を生きていた人もいるでしょう。でもわたしたちは本当は弱い者です。わたしたちは自分で生きること、永遠に生きる力は持っておりません。病気を治すそうとしてしばらくは、生きようとしますが、でも何時までも生きることはないのです。そこで神様が、わたしたちのことを心配してくださって、わたしたちに永遠の命を与えてくださるのです。それは誰かがわたしたちの悪いところを全部補って、それを治して、新しい者にしてくださることがなければ、そこまでも考えることが出来ないのです。でも、神様がそうしてくださったのですから、わたしたちはあんまり良い者ではないのですが、丁度ナザレの町の人たちと同じように、自分が気に入らないことには反対して、あの人をなくそうというようなことを考えるのです。

聖書によりますと、イエス様はナザレを離れてそんなに遠くないところのカファルナウムというところへいらしてそこで仕事を続けられて多くの人に喜ばれたとあります。人々はイエス様の言葉の権威あるのに驚いています。そこまでわたしたちはイエス様のことを思っているのでしょうか。わたしたちはイエス様の有難さを真剣に考えたいことでございます。殊に今日は聖餐式に与るのです。イエス様を頂くという大切な、イエス様ご自身が工夫をしてくださった礼典です。それに与って、神様が、イエス様がわたしたちの中にいらっしゃると言うことも覚えるように工夫してくださって、わたしたち一人一人を強めようとしておられるのです。わたしたち一人一人にとっても大事なことでございます。それでわたしたちは今日も礼拝をして、み言葉を聞き礼典に与ることです。それをして頂いて、今日の良い日を喜んでおりましょう。

2001年1月14日 主の洗礼日 「イエスさまとバプテスマのヨハネを比較したら」

第1日課   イザヤ書42:1-7

見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは、島々は彼の教えを待ち望む。

主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。

見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

第2日課   使徒書10:34-38

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって……この方こそ、すべての人の主です……平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神がご一緒だったからです。」

福音書   ルカによる福音書  3:15-22

民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうして、ヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

説教  「イエスさまとバプテスマのヨハネを比較したら。」

ルカによる福音書の3章の15節から22節のお言葉でございます。

「民がメシアを待ち望んでいた」と。そこで、目の前に素晴らしい人が立っていたのです。ヨハネという人です。イエス様はヨハネを「女から生まれた人の中で一番優れた人」とおっしゃったことがございます。バプテスマのヨハネは人々の目に、深い感銘を与えるような人物でした。それで、人々は「もしかしたらこの方がメシアではないでしょうか。」と人間的に考えれば、そのような立派な方であったのです。声も大きい。背丈もいい。ちょっと服は珍しいものでしたが、でもそういうことは、人間を計るものではなく、人は実際に、正直にまた、正しく話したり判断している人物とヨハネを見て思っていたでしょう。ヨハネはとても気の強い人でした。当時の、パレスチナの一部を支配していたヘロデに対して、面と向かって、「あなたは悪い事をしている。弟の妻を取って、その人と一緒に暮らしている。」と言ったので、ヘロデとその奥さんも怒って、彼を牢屋へ入れてしまいます。ヘロデはヨハネを尊敬していたようで、時々話を聞いていたように見えますが、あるとき娘に騙されて、細君の指図で、ヨハネは殺されますが、これはその前の話です。

まだ、イエス様は人の前に現れていなかったのです。それで一部の人たちは「ヨハネが本当の約束された救い主でないでしょうか。」と思っていたのです。私たちがイエス様と比較してみますと、ヨハネは勇敢な人で、王様にも恐れずに、ちゃんと「これはいけない。」というような人であったのです。それに比べると、イエス様はただの人間のように見られたのです。そして、大人しい方。やさしい方。あんまり人の批判はしません。勿論、必要な時には正直に、話されたでしょう。その話し方は上手であって、それほど、ヨハネのように厳しくは響かなかったようです。この二人を目の前にしている人たちは、どちらが神様の約束の救い主かを考えていたのです。ヨハネはそれを察して、「わたしより優れたお方が来られる。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカ3:16)と。火は当時の人にも恐ろしいものでした。そして、旧約聖書のイザヤが「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。するとセラフィムの一人が、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏みで取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。』」(イザヤ6:5-6)と言っておられます。

また、新約聖書のペトロの言葉ですが、「あなたがたは、終わりの時に現れるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは。心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と栄光と誉れとをもたらすのです。」(第一ペトロ1:5-7)このように、わたしたちの目で見たらちょっとよく分からないのですが、その結果を見たら、確かにイエス様はわたしたちを救うお方であって、時々難しいことが起きるでしょう。試練があるでしょう。でも、その試練そのものも、わたしたちにとってその信仰が本物であるということの証拠でないでしょうかと、ペトロは言っているのです。

「罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることが出来たのです。」(第一コリント5:21)これはパウロのコリント人への言葉です。

なお、イエス様ご自身が仰った言葉です。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(ルカ12:49-50)

その洗礼というものは、イザヤが言うような火の洗礼ですか。あるいはパウロの言う難しいことでしょうか。考えますと、その洗礼は十字架上で受けられたイエス様のお苦しみです。わたしたちの身代わりとしてなさったこと、すなわち、わたしたちの罪を全部贖うために受けられたものでございます。

イエス様はバプテスマのヨハネによって洗礼を授けられます。ルカによる福音書の記事はマタイやマルコの記事と違って、最も簡単です。でも、大切なことだけが記されていることがよく分かります。「イエスがバプテスマを受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。』という声が天から聞こえました。」(ルカ3:21、22)これは天の神様のお声です。「わたしの愛する子。」と父親が自分の子供に対して、「わたしの心に適う者。」という言葉を追加されています。これはイエス様がその場だけではなく、その後も人々の助けをしたり、人々に神様の御心を話されたりして、最後にイエス様の十字架上のお姿を御覧になっても、それでも「わたしの愛する子、わたしの心に適う者。」と、わたしの思っている通りにしてくれる者と父なる神様が仰ったのです。だから、わたしたちにとって、ただ見えるところでの判断は出来ないということを聞かされているところです。そう、リーダー格といったら、見えるところではヨハネは素晴らしい方です。力があって、声も叫んだりしているのですが、イエス様はイザヤの言葉の通りに叫ばない。大きな声を出さない。わたしたち一人一人のことを思い、わたしたちの身代わりになってくださるとイザヤは語っているのです。

そのようにわたしたちはイエス様がヨハネの言う通りに、優れたお方であると考えなければなりません。そう。わたしたちの考えと大分違ったところがありますね。どうして、イエス様という素晴らしいお方が神のお子さんがこのように苦労して、苦しんで、最後は犯罪人として、十字架にかけられるということを受けなければならないかったでしょうか。それをよくよく考えてみると、わたしたちのためにそれをなさった。こうでなければならなかったのです。罪を犯す者は罰を受ける者です。誰がその罰を受けて、全部の人の身代わりになることが出来るのでしょうか。ただ主イエスさまだけですね。ヨハネはその当時は素晴らしく見えたのですが、忘れられて行くのです。ということはどんな人間であっても、神様のみ前では小さい者です。罪人です。でも、わたしたちの聖書で、繰り返し語られることは、神様は罪人のわたしたちを愛して、子供にしてくださる。だから、前にも申しましたが、洗礼を受ける方は、神の子供であるという証拠と考えてもよろしい。いずれはわたしたちも、主イエス様と同じような者になって、天国の門をくぐって永遠に生きるのです。現在の社会で考えられる一番よろしいとの判断よりも、神様が教えてくださる、この救い主イエスさまを大事にして、彼の言葉を一つ一つ心に留めて、イエス様を真似するような生き方をしたいことでございませんでしょうか。神様は確かに、私というものを愛していてくださいます。私たち一人一人はそれを信じて、喜ぶべきことでございませんでしょうか。