2009年6月21日 聖霊降臨後第3主日

マルコ2章23-28節

 
説教    大和 淳 師
それから安息日に、イエスが麦畑を通られると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
すると、パリサイ人は彼に言った、「ご覧なさい! なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをしているのですか?」
イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデが欠乏して飢えた時、共にいた者たちと何をしたか、読んだことがないのか?
アビアタルが大祭司であった時、彼は神の家へ入り、祭司のほか食べてはならない供えのパンを食べ、共にいた者たちにも分けてやったではないか」.
イエスはまた彼らに言われた、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。
だから、人の子は安息日の主でもある」。
 
先週の木曜のクラスは、ジャン・フランソワ・ミレーの『落ち穂拾い』の画を通して、聖書の学びをしました。ミレーの代表作であり、誰もが知っている画ですが、この画が、申命記24章19節の「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される」、この旧約聖書の戒めに関わっていることは、あまり知られていないかも知れません。そもそも旧約聖書の掟、律法には、寄留者、孤児、寡婦、弱い、貧しい小さな者への配慮に満ちていました。
 さて、ある安息日に道すがら、イエスの弟子たちが、歩きながら畑に実っていた麦の穂を摘んでいた、それをファリサイ派の人々に咎められるというところから今日の福音書は始まります。しかし、今述べた申命記の、収穫のとき、落ち穂まできれいに刈ってはならない、むしろ、刈り残せといいう戒めと同様、そもそも畑に実っている穂を、通りかかった人が摘んで食べてよいことは、申命記23章26節に「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」とあり、旅人や貧しい人への配慮として、飢えた人が手で摘んで飢えを満たすことまで禁じてはならないというのです。つまり、貧しい人々のためだ、空腹の旅人のために気配りを持て、そういう優しさ、命へのいたわりを求めているわけです。

 しかし、この福音書において、ファリサイ派の人々が非難したのは、それが安息日であったので、許されない、律法・聖書に反する行為であったというのです。そもそも、ユダヤ教の安息日は、金曜の日没から、土曜日の日没までですが、その間、会堂に行って礼拝する他の労働行為は一切の労働が禁じられていました。この安息日は、わたしたちにとってはそれは日曜日にあたるわけですが、欧米諸国にならって、この国でも日曜日は休日なわけです。それで日曜日は休日、休む日だ、そうわたしたちは当然考えているわけですが、ところが、このユダヤ教の安息日というのは休みの日、つまり、仕事をしなくてもいい日ではなく、厳密に仕事・労働をしてはならない日、休まなくてはならない日なのです。そこで、彼らはイエスに「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」そう問うた訳です。

 ファリサイ派の人たちは、この安息日の掟を厳密にまもるために、どの程度までが仕事であり、仕事でないか、詳細な規定を作りました。急病人が出たときはどうするかとか、我々の目には、実になんと杓子定規、不自由なんだろうと思うほどです。たとえば、その急病人が出たときはどうするか、時代によって多少変移があるようですが、命に関わる場合には、治療は認められる。しかし、そうでない場合は安息日が終わるまで待たなくてはならない。つまり、どんなに歯が痛くとも、骨折しても我慢するわけです。そんなことから、たとえば花瓶が倒れてしまったとき、それを直したら、それは違反となるとか、前日調理したものを食べるのはいいが、安息日にそれを暖め直してもいけない。つまり火をおこすのは労働にあたるわけです。現代で言えば、電気のスイッチを入れることも火をおこすと同じ労働と見なされています。

 もちろん、現代のイスラエルの大分の人々は、そのように厳格に守っているわけではなく、むしろ厳格に守る人々は少数であると言ってもいいでしょう。しかし、今でもこの安息日規定は生きていて、そうした人々が住む地域には、安息日に車で通行することもできないし、金曜の日没までに、一切の公共機関、商店は閉まってしまい、交通機関も止まってしまうそうです。火を炊いてもいけないし、売買してもいけない。何かを書くのもよくない。その火を炊いてはならないという規定は、更に暗いからといって灯りをともしたり、調理をしたり、煙草を吸ったりもできないこと意味します。電気は火の一種と考えられるので、厳格に安息日を守ろうとすれば、電気製品のスイッチにさわることもできない。事の運転もだめだし、電話もだめです。冷蔵庫を開けると明りがつくので、その明かりをつかないようにしない限り、開けてはいけない。またホテルや病院には「安息日用」エレベーターがあって、ボタンに触らなくても昇ったり降りたりできるようにはしていますが、その代わり自動で一階ずつ止って行くわけです。イスラエルに旅行された方はそういうことを体験されたかも知れません。わたしたちの眼には、何とも理解しがたい、何と不自由なと思ってしまうわけです。

 しかし、ただそういう眼で、ここでのイエスの言葉を考えると、誤解が生まれるまでしょう。主イエスはそういう杓子定規さ、不自由さを否定しておられかのように、わたしたちは受け取ってしまうわけです。けれども注意して読むと、イエスは、そういう些細なことに目くじらをたてるな、と言っているのではありません。あるいは、もっと大目に見ろと言うのでもないし、規則には例外があるのだというように論じておられるのでもないのです。ダビデの例をあげて答えられるのですが、問題はその後の27節以下の言葉です。

 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、確かにこれは、わたしたちにとってはそのままでよく分かるような言葉、なるほどそうだと思える言葉と言えるでしょう。確かにファリサイ派の人たち、彼らは、結局人間を十杷一絡げにしてしまっているからです。 彼らはこのたいせつなことを見落としてしまっている、気がつかないのです。ですから、そういう意味ではこのキリストの問いは、「あなたがたに、本当に安息があるのか。安息、安んじる、そういうものがあるか」、そう逆に問うておられると言っていいでしょう。

 ここで主イエスが問いかけ給うこと、それは言い換えれば、ファリサイ派の人たちは、安息日が疑心暗鬼で人を見るようなものになってしまっていることではないでしょうか。イザヤ58章13節には、こんなことが言われています、「安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする」。安息日は、本来、喜びの日と呼び、尊ぶべき日と呼べる日なのだ、とイザヤは言うのです。しかし、まさしく、どこかで誰か、こっそり料理しているのではないか、隠れてうまいものを食ってる奴がいるんじゃないか、そういう目で他人を見てしまっている、あるいは、そういう眼で他者をいつのまにか見ている人間がいる。けれど、そういう目の中で、安息日を守ったところで、そこに本当に安息があるのか、主イエスの問いはそこにあるのではないか。逆に言えば、他人の目を気にし、恐れながら、そういう風に休めと言われたって、そこに本当に自由はあるだろうか。安息があるでしょうか。まるで、縄で縛られ、鞭で叩かれて、無理矢理休まされているようなものです。つまり、このキリストの言葉の背後には、あの麦の穂を積んでもいいぞ、あるいは、飢えた人々、貧しい人々のために収穫のときには、わざと刈り残せ、落ちた穂はそのままにしておきなさい、という神の優しさ、貧しい者、飢えた者への配慮、あるいは命への無条件のいたわりがあるのです。人間を十杷一絡げに扱うのではない、自由があると言っていいでしょう。

 しかし、わたしたちは、ここで言われている主イエスのもう一つの言葉を忘れてはならないのです。「だから、人の子は安息日の主でもある」。それは、決して「だから、人は安息日の主でもある」ではない。そうではなく、「人の子」、このお方、主イエスが「安息日の主」である。そして、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから・・・・・」、この「だから」を見落としてはならないのです。「だから」、「そのためにこそ」、「人の子」、ご自身は「安息日の主でもある」とイエスは言われる。だから、キリストは安らぎの主である、と。つまり、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、「人の子は安息日の主でもある」、この二つは決して切り放せないと言っていいでしょう。どちらか一方だけであるのではないのです。このふたつの言葉を結ぶ、この「だから」、この「だから」に、あの腹がすかした人に、そっと麦の穂を残しておく神のあわれみが注がれている、わたしたちにあふれ通っていくのです。

 ですから、キリストは、わたしたちにも問うておられるのです。あなたは本当に安んじているか。そうではなくて、先入観というものにからめ取られたように、他人の目を恐れる恐れの中で、かんじがらめになってはいないか。結局人の考えることは分からない、あの人だってこうに違いない、ああに違いない、そのように疑心暗鬼になって、十杷一絡げに人を見てしまうような恐れの中にあなたはいないか。だから、わたしがあなたの安らぎの主となろう。あの麦の穂を摘むことが許される心のゆとり、安らぎを与えよう。あなたが苦しんでいるのなら、わたしが苦しもう。あなたが痛んでいるのなら、わたしが痛むのだ。だから、わたしは主である。そのような主である。あなたは一人ではない。あなた一人の苦しみ、あなた一人の痛みでは最早ない。あなたの苦しみ、あなたの痛みはわたしの苦しみ、痛みとしよう。そのように、わたしはあなたの主となろう。だから、恐れではなく、愛することを、あなたはこの日、知りなさい、と。

 とは言え、それ言われても、それでもわたしたちは本当に納得するということがないかも知れません。むしろ、そうは言っても安らげないのです。もちろん、つかの間の安らぎなら、わたしたちにもあるでしょう。何か責任ある仕事を終えたとき、あるいはやっかいなこと、問題が解決したり、病気が直ったりする、気にかかったいたことがなくなるとホッとする。問題がなくならない限り、あるいは忘れない限り、本当には安らぐことのないのです。しかし、わたしが言うまでもなくそれ以上に人生は過酷です。また直ぐに予想もつかない事態が起きてくる。親であれば子どものことが、あるいは病気のことが、責任が重ければ重いほど、気になればなるほど際限もなく不安にさせるのです。

 そういう自分をあらためて見つめると気づくことがあります。不安、安らぐことのないとき、大概わたしは、ともかく何もかも自分ひとりで考え、ひとりで何かをしよう、成し遂げようとしているのです。「もしかしたら、自分に出来ないことまでしようとしているのではないか」、そういうゆとり、先のことを考えたり、あるいは周囲を見回すゆとり、心の余裕をなくしているのです。一見がんばってとても健気なわけです。でもそのとき他者が見えない。自分しか見えない。だから、ひとりでパニックになり、あるいは誰もわたしのことを分かってくれないとひがんだりしている。そうして、疑心暗鬼で物事を見出すのです。

そうすると、見えてくることがあります。見えるというより、わたしたち一人ひとりに注がれているこのキリストのまなざしに気づくのです。「すべて重荷を負うている人は、わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」、そのように言い給うキリストのまなざしが、重荷を負うたわたしたちを包んでいるのです。苦労が耐えない、不安のなくならないわたしでも、それがどんなに重荷でも、それがなくなったのではないのに、安らぐときがあります。それは、そのわたしを思いがけず喜んでくれる誰かがいるときです。痛みも苦労も、そのときすっ飛んでいくのです。それは、わたしの人知れぬ、見えない、隠れた苦労を見ていてくれる、ああ、見ていて、知っていてくれたんだ、それが苦労を吹き飛ばすのです。

 安息日、わたしたちにとってのこの日曜日は、主イエスが、そのようにわたしたちを知り、喜んでいてくださる日だと言っていい。あの麦の穂を積んでもいいぞ、あるいは、飢えた人々、貧しい人々のために収穫のときには、わざと刈り残せ、落ちた穂はそのままにしておきなさい、という神は、わたしたちのそのような人知れぬ働き、その心を、隠れたところを見ていてくださるお方なのです。そして、誰よりわたし自身を、あなたそのものを慈しみ、喜んでくださるのです。安息日は、その喜びの日なのです 。

 そして、この福音書で、この主イエスが何をなしておられるかで、更に気づくことがあります。これも、何をなしておられるかと言うより、キリストだけがしておられないことです。それは、こういうことです。弟子たちは麦の実を食べました。ダビデも、その共の者たちもパンを食べたと言われています。しかし、キリストは、ダビデは食べても、主イエスは何も食べておられないのです。それが「安息日の主」なのです。この箇所でまるで弟子たちは、そのような主イエスにさえ何も気づいていないかのようです。

 しかし、何より、そのように主イエスが、わたしたちを支えてくださっているのです。わたしの重荷、苦しみ、人知れぬ苦労、しかし、主はそこにもそのまなざしを注ぎ、そこに、ご自身の愛を注ぎ込んでくださっているのです。

2009年6月14日 聖霊降臨後第2主日 「新しい生き方を」

マルコ2章18節~22節

 
説教  「新しい生き方を」  大和 淳 師
さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人が断食していた。彼らは来てイエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちが断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか?」
イエスは彼らに言われた、「婚宴の間にいる子たちは、花婿が一緒にいるのに、断食することができようか? 花婿が一緒である限り、彼らは断食することはできない。
しかし、花婿が彼らから取り去られる日が来る.そうなれば、彼らはその日に断食するであろう。
だれも、縮ませていない布切れを古い衣に縫いつけはしない.そんなことをしたなら、継ぎ当てた新しい布切れは、古い衣を引き裂き、破れはもっとひどくなる。
まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない.そんなことをしたなら、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋も駄目になる.新しいぶどう酒は新鮮な皮袋に入れるものである」。

  今日からまたマルコ福音書の御言葉に耳を傾けてまいりたいと思いますが、ここには断食ということが出てきます。そもそも旧約聖書のレビ記には、年に一度、贖罪日の時に断食することだけが規定されていましたが、イエスの時代の頃には、今日の箇所にあるファリサイ派の人々は週二度、月曜日と木曜日に断食していたようです。またルカ18章には、そのことを誇りとするファリサイ派の人々のことが書かれています。また同じく挙げられている洗礼者ヨハネの弟子たちもやはり厳しい断食していたようです。そもそも洗礼者ヨハネの教えは、何より悔い改めでしたが、その悔い改めの行為として、断食を行っていたのでしょう。これもマタイ11章18節を見ますと、その彼らの断食を評して、「悪霊につかれている」と人々が言っていたようです。つまり、正気の沙汰ではないと思われたほどであったのでしょう。

   ところが、イエスは、そのように断食を弟子たちに課さなかったし、自らも断食の習慣を持とうとはされなかったようです。それどころか、今日の直ぐ前の箇所にあるように、むしろ、食事を絶つのではなく、共に食事をする人でした。ですから、先のマタイ11章には、〈ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。〉、イエスについて、こう人々が評していたと記されています。ですから、ここで「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」、というこの問いも、非難の意味がこめられていたのかも知れません。つまり、弟子たちのことを取り上げつつ、しかし、そこには徴税人や罪人の仲間であるイエスに対する非難を遠回しにしているのでしょう。

   しかし、それに対するイエスの答え、それは、実に意表を突くたとえでした。〈イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。〉(19-20節)。今は、いわば結婚式、婚礼の真っ最中なんだ、このイエスと共にある人々は、その婚礼の客なんだ。だから、どうして、そんな時に断食する必要があるだろうか、と。そして、しかし、「花婿が奪い取られる時が来る」。その時には、嘆き悲しむであろう、と。

   この「花婿が奪い取られる時」とは、ご自身の十字架にかかられることであると言います。それは、この言葉はイザヤ書53章8節の「私の民の背きの故に、彼が神の手に掛かり、命ある者の地から絶たれた」の預言、この「奪い取られる」とイザヤ書の「絶たれる」は、ギリシャ語では同じ言葉なので、つまり、十字架にかかられたことを意味しているというのです。そこから、キリスト教が断食をするのは、キリストの十字架にかかられた日、聖金曜日である、マルコは、そのことを教えているのだ、と解釈する人もいます。しかし、ここで明らかなこと、それはこの主イエスの言葉は、断食をするかしないか、あるいは、いつするのかということではなく、何よりこのキリストと共にあること、共に生きること、キリストと共に喜び、そして、キリストと共に苦しむこと、それがご自分の弟子たちであることを語っている、そう言っていいでしょう。言い換えれば、わたしたちの喜びも苦しみも、このキリストから来るのだということです。パウロは、フィリピの手紙の中でこのことを端的に次のように言います。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1章29節)。苦しむことも、恵みとして与えられているだよ、わたしたちは、とパウロはそこで語りかけています。喜びも苦しみも、このキリストから来る、いやそれどころか、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている、と。

   しかし、苦しいときに、それは恵みとして与えられている、わたしどもはなかなかそう思えない、いえ、苦しみが恵みと思えないから苦しむだ、そう言っていいでしょう。だから、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている、とは到底思えない、かえってつまずく、そう言っていいでしょう。けれども、いずれにせよ、そんなわたしどもの思いは、いわば実は自分は変わろうとせず、言うなれば、自分ではなく、神の方を変えようとする、あるいはまた自分の周囲、他者や環境だけが変わることを押しつけてようとしているわたしであると言えるかも知れません。そして、この自分を変えようとしない、変えたくない、その背後には、実際自分を変えようとしても、なかなか自分の思うとおりには変われない、変わらなかった、そういう思いがあるからでしょう。

   だから、ここで主イエスは〈だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ〉、そう言われますが、この言葉を、決して変わらない、まだ〈古い革袋〉であるわたし自身が、み言葉、イエスさまという〈新しいぶどう酒〉を受け入れてもだめになるだけだ、そんな意味にしかとれないわけです。つまり、〈新しい革袋〉になれない自分なのだから、もし、このことを真剣に受け取るならば、どうしたら〈新しい革袋〉になれるだろうと悩み苦しむ以外にないわけです。しかし、それは、自分、わたしの思い通りに変わりたい、つまり、自分で自分の思い通りに変わろうとしているだけなのです。そうして、そのような自分の弱さ、貧しさ、惨めさ、それはわたし自身、わたしのものではない、そう思い続けているからではないでしょうか。

   ところで以前、渡辺和子先生の御著書からニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に残されているという、一人の患者が書いた言われるというこんな詩を知りましたが、これは紹介したこともあるので、ご存じの方もおられるかも知れません。

   〈大きなことを成し遂げるために/力を与えてほしいと神に求めたのに/謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった/偉大なことができるように/健康を求めたのに/よりよきことをするようにと 病気を賜わった/幸せになろうとして/富を求めたのに/賢明であるようにと 貧困を授かった/世の人々の賞賛を得ようとして/成功を求めたのに/得意にならないようにと 失敗を授かった/求めたものは一つとして与えられなかったが/願いは すべて聞きとどけられた/神の意に添わぬ者であるにもかかわらず/心の中の言い表わせない祈りは/すべて叶えられた/私は 最も豊かに祝福されたのだ〉それで、この詩を記した人は思わぬ病や事故で体が不自由になってしまったのでしょうか。かつて健康を願い、成功と賞賛を求めたこの人の祈りは、求めたものは一つとして与えられなかったのに、しかし、神の意に添わぬわたしなのに、わたしの心の中の願いはすべて叶えられたと言うのです。それで、〈新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ〉というその〈新しい革袋〉とは、結局、わたしが想い描く立派な自分、有能である、常に正しく、あるいは強く、他から尊敬されるような、そういう新しい自分なのではなく、まことに弱さ、貧困、あるいは病気、失敗・・・そのようなわたしである、いや、それを通してこそ、神は恵みをわたしに与えてくださる、ということ ― 喜びも苦しみも、このキリストから来る、いやそれどころか、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている。だから、そのように自分を、わたしを変える、変えてくださるよう祈る、まことにそこにこの十字架のキリストが立っておられる。そのことが〈新しいぶどう酒は、新しい革袋に〉ということである、そう言えるのではないか、と思うのです。〈新しいぶどう酒〉、〈新しい革袋〉とは〈永遠に変わらないぶどう酒〉、〈永遠に変わることのない革袋〉、そう言い換えてもいいでしょう。と言うのも、聖書において、新しいということ、これはもちろん、今までなかったと言う意味で新しい、そのように使われますが、しかし、聖書がいう本当に新しいとは、もっと根本的に決して変わらないもの、永遠に変わらないもの、つまり、神ご自身のみ、あるいはその神から来るものだけなのです。

   それで、渡辺先生はこう言われていますが、先の詩を書き残した人も、直ぐにそのように受け止められたわけではないでしょう。きっと、眠れない夜を幾夜も送り、時に絶望し、嘆き悲しみながら、祈り求め続けたのでしょう。でも求めたものは一つとして与えられなかった、だが神さまは心の中の願いをすべて叶えてくださった、わたしの思いではなく、本当に意に添わないはずの、そのわたしに必要なもの、永遠に変わらないものをいつも与えてくださるのだ、心の中の願い、わたしがわたしである安らぎを与えてくださったと。だから、弱さを通してこそ、神さまはわたしに本当に必要な新しい革袋、決して永遠に失われることのない革袋を用意し、与えてくださる。それがキリスト者としての新しい生き方、このキリストと共に喜び、キリストと共に泣く生き方なのです。

   だから、わたしたちが経験する出来事のひとつひとつ、たとえ、それがどれほど辛い、悲しいことに思えたとしても、それらは無意味なものでも、不条理なものでもない。それも神が与えた出来事と考えられる時に、今は恵みとは分からない、思えないけれどもそれでも自分の人生として受け入れて生きていくことができるようになるということでしょう。わたしたちには、今恵みとは分からなくても、共にいてくださる神においては神のご意志、愛、み恵みが変わることなく貫かれている ― そのことを信ずることができるなら、あるいは、その愛、神のご意志が貫かれることを祈り求めるならば、その時にこそ、わたしたちは不安を乗り越えることができるのではないでしょうか。
そもそも、わたしたちは神の御手の中にある全体の一部を知っているに過ぎないのです。しかし、それは逆に言えば、神は全てを知っておられる、ということ。全ては神の御手の中にあるということ。その神の御手、ご意志とは、決して冷たい運命や宿命、あるいは暴君のようなものではない、このわたしをただひたすら愛するが故に、このわたしの全てをご存じである ― このことを信じる、この身に帯びていく ― そこに既に〈新しい革袋〉、新しい生き方が始まるのです。もっと言うならば、どんなことにおいても、喜びも、苦しみも神が与えてくださったことだと信じることが、私たちの人生を新しい、どんなことにおいても決して変わらない生き方にするでしょう。キリストが変わらずにそこに立ち、共にいてくださるのです。

   さまざまなことがあるでしょう。受け入れがたい現実に直面することだってあるでしょう。しかしこの試練も、自分の思いに反するようなことが続くときでも、この人生は神に与えられたものなのなのです。だから、あなたの人生は無意味であるはずがない、理不尽のまま、不条理のままであるはずはないのです。〈新しいぶどう酒は新しい革袋に〉、そういう生き方が既にわたしたちの中に始まっているのです。

2009年6月7日 三位一体主日 「風は愛するままに吹く」

ヨハネ3章1節~12節

 
説教  「風は愛するままに吹く」  大和 淳 師
ところが、パリサイ人の一人で、名をニコデモというユダヤ人の指導者がいた。
この人が、夜イエスの所に来て言った、「ラビ、わたしたちは、あなたが神から来られた教師であることを知っています.神が共におられるのでなければ、あなたが行なっておられるこれらのしるしを、だれも行なうことはできないからです」。
イエスは彼に答えて言われた、「まことに、まことに、わたしはあなたに言う.人は新しく生まれなければ、神の王国を見ることはできない」。
ニコデモは言った、「人は年老いてから、どうして生まれることができるでしょう? もう一度、母の胎内に入って、生まれることができるのでしょうか?」
イエスは答えられた、「まことに、まことに、わたしはあなたに言う.人は水と霊から生まれなければ、神の王国に入ることはできない。
肉から生まれるのは肉であり、その霊から生まれるのは霊である。
わたしがあなたに、『あなたがたは新しく生まれなければならない』と言ったことを、不思議に思ってはならない。
風は思いのままに吹く.あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない.その霊から生まれる者もみなそうである」。
ニコデモは彼に尋ねて言った、「どうして、そのような事があり得るのでしょう?」
イエスは答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師であるのに、このような事がわからないのか?
まことに、まことに、わたしはあなたに言う.わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
わたしがあなたがたに、地上の事柄を告げても信じないとしたら、天の事柄を告げたところで、どうして信じるだろうか?

 子どもの頃、故郷では山の向こうに富士山が見えました。晴れた日に、その美しい姿が見えると何か憧れのような思いでじっとよく見つめていたことを覚えています。そして、曇りや雨で見えない時も、ふと、ああ、あそこに富士山があるんだ、そう思ってその方向を見ていたことがありました。さて今日、ご一緒に読む福音書、そこには、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、そういうキリストの言葉が記されています。大変不可思議な言葉であると言っていいでしょう。「新たに生まれる」 ― 私たちもこのニコデモのように、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」、あるいは「どうして、そんなことがありえましょうか」、そう困惑しながら問うてしまうでしょう。けれども、わたしたちは、これらの言葉の上に、ちょうどあの富士山のように高く聳え立っているキリストの言葉を仰ぐことが出来ます。それは、今日の福音書の日課の後3章16節以下に、こう記されている言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:16-17)。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、したがって、このニコデモもまた「愛された」者であり続けるのです。そして、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」、わたしどもは、ここでこのキリストが語っておられること、それはまさにそこから語っておられるのであり、そのようにニコデモに相対しておられるのだということを知るのです。

  もちろん、「夜」、キリストの下に訪れたニコデモの眼にはちょうど夜には見えないあの富士山のように見ることができないのです。したがって、「どうして、そんなことがありえましょうか」と声をあげてしまう彼なのです。そのように「新しく生まれる」、それはこの地上に生きるわたしたちにとっては、全く疑わしく思えることです。だが、ニコデモ、そして、わたしたちの眼にはたとえ見えなくても、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである・・・」、この御言葉は、常に富士山はそこにそびえ立っているように、いや神の言葉は永遠であるが故に、それ以上確かに、そして吹いてくる風のようにわたしたちに働きかけてくる、そのことが心にくっきりと浮かび上がってくる出来事なのです。そして、この3章16節以下のこの御言葉と今日の個所の真中には、こういうことが語られています。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(3:13-14)。わたしたちが、まさにニコデモのように、この地上で、わたしたちは誰一人「失われていく」「滅びていく」、そのようにこの眼には写るこの現実、まさに「夜」そのもののような生活、「どうして、そんなことが」とため息をもらす、苦悶している私たちのこの現実、だが、見上げるものがそこにある、「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」 ― キリストは、ご自身の十字架をはるか指差しておられるのです。復活の命、そして、昇天の出来事を!ペトロはその手紙の中で、この富士山のようにそびえる私たちの希望についてこう記しています、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(1ペトロ1:3-4)。この望みのもとにある生活!

   だが、しかし、ニコデモはそこを見上げることが出来ません。ただ下を、地上を見続けるのです。ニコデモは、そのときこの方イエス・キリストご自身を見る代わりに、自分自身を見つめてしまうのです。それが、神が、したがって、この方が愛されておられるこの世の姿なのです。しかし、キリストはそんな彼の不可能さに対して更に助け舟を出すようにご自身を示されます、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。「水と霊とによって生まれる」。つまり、「新しく生まれる」それは全く雲をつかむようなことではなく「水から生まれる」ことなのだ、と。もちろん、この水とはわたしたちにとって洗礼の水のことですが、「ファリサイ派に属する」、「ユダヤ人たちの議員であった」この「イスラエルの教師」ニコデモ、したがって、聖書を熟知し、人々を教え続けてきたニコデモ、その彼もまた、生まれた赤ん坊が産湯につかるように、水から生まれなければならない。今や彼に必要なのは、この地上のことにどれだけ熟知しえるか、ということではなく、またどれだけ確かな、そして豊かな知識と経験があるか、そういうことでもなく、まったくに子どものように、「水から生まれ」なくてはならない。彼に必要なのは、根本から必要なこと、それは霊、霊から裸で生まれることなのです。

   ところで、福音書は、このニコデモがキリストを訪れたのは「夜」であったとわざわざ記しています。それが夜であったというのには、色々な意味が込められているのでしょう。ある人は、その立派な肩書き、そして指導者と呼ばれる地位も名誉もあるニコデモが、夜、キリストを訪ねたのは、彼がそのような特別な地位にあるが故に、人目を避けてのことであったからと述べています。確かにそのような皮肉な眼をもって読むことも出来るでしょう。けれでも、また別の人は、彼がキリストを訪ね、そして、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」、そう告白するのは勇気がいったことであろう、そう言うのです。すでに彼の属するファリサイ派の人々は、このキリストと対立していたからです。ニコデモが勇気のある人であったのか、あるいはそうでないのかはともかく、そのようにわたしたちが考える「勇気」とは、何かに敢然として立ち向かい、征服・克服していこうとする、逆境に負けない気持ち、変えていく力、それを勇気と考えます。つまり、ともかく何かを変えようと立ち上がることです。若い時はそれでいい、と言うより、そのような勇気こそ若さの特権であり、向上心ということでしょう。

   けれども、人生にはもっと違った勇気が必要です。それは、一言で言えば、受け入れがたいものを受け入れる勇気と言ったらいいでしょうか。それで、このニコデモのことですが、彼は、結局、人は生まれ変わることは出来ないと言う。そういう意味では自分は変われない、そう言っているのだと言えるでしょう。では、そのことをニコデモが自分自身に本当に受け入れているかと言えば、むしろ、そうではないのではないか。ニコデモがここで受け入れられなかったこと、それは、キリストのこれらの言葉以上に、彼自身が言う他ならないこのこと、わたしは自分で新たに生まれることはできません、それを本当に率直に受け入れてはいない、本当にはできなかった、結局そういうことではないでしょうか。

   でも、キリストは、決してあなたは、あなた自身で変われ、そうおっしゃってはいないのです。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」、あなたは肉から生まれたものに過ぎないのだ、と。なるほど、そうなのです。しかし、その「母親の胎内」から生まれたのも、決して、わたしたちは、わたしたち自身で、自分から生まれたのではない。そのようにして母の胎を通して命を与えられたもの、だから同じように、霊から生まれる、同じように命を与えられる、キリストはそうおっしゃっている。
そして、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と。これは確かに全く禅問答のように捕らえどころがないように思えるかも知れません。しかし、そのような者であることをただここで率直に認める、受け入れるしかない。ありのままの姿で、このキリストの前に立つ以外にない。でも、それは決して、恐らくニコデモにとって承伏しがたかったように、いわば情けないことではないのだ、むしろ、そのような裸の自分、何々に属して、何々をしている、出来る人間であるとか、こういうことを知っている、分かっている、そんな背伸びをもうしなくていいのだ、ということ。

   更にそれをもっと身近に言い換えれば、どんな姿の自分も嫌うことなく、その自分と仲良く生きる勇気といったらいいでしょうか、他人の助けなしには結局生き得なくなっていく、情けない自分を受け入れる勇気、年と共に休型が変わり、背も丸くなったり、しわが増えていくような、そんな自分を惨めに思わない勇気、そしてあれこれの病に無力になっていく自分を、しかしそれでも生かされていることを喜ぶ勇気、そのように、さまざまに味わう悲しさを一つひとつ〝我が物″として認める、受け入れがたいものを受け入れる勇気、キリストは、まさにそれをニコデモに与えようとしている、そう言えるのではないでしょうか。

  なるほど、「風は思いのままに吹く」、わたしたちがこっちだ、あっちだ、そう定めようとしても、決してその通りにならない。ではどうするのか、風の吹くままに生きる、ありのままにその風に身をさらす以外にない。そのように言うと、まことに無責任といいうか、心許ない思いをなされるかも知れません。吹けば飛ぶような自分を思わざる得ないのです。しかし、その「風は思いのままに吹く」、その風の思い、あるいは、「、それがどこから来て、どこへ行くか」、風の心 ― キリストは、そのことについて、はっきりとこう語っておられるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

   みなさん、これが、風の思い、キリストの風なのです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、「一人も滅びない」、まことにそれが今日、わたしたち、吹けば飛ぶようなわたしに向けられた言葉、風なのです。つまり、こういうことです、「風は思いのままに吹く」、それは風は勝手気ままに、ということではなく、まさに風は〈愛するがままに吹く〉。それ故、「一人も滅びない」、決して滅びることはない、この風の中に、わたしもあなたもあるのだ、ということ。そして、単に「滅びない」というだけでなく「永遠の命を得る」。命、このわたしが生きるものとされている。

   まことに自分自身を真に見つめれば、情けない自分、みじめな自分、しかし、今やそのわたしに「風は思いのままに」〈愛するがままに吹く〉、生きるものとされている、そのような力を与えられるのです。わたしどもは、新しく生まれる、生まれ変わる、それを、まさにニコデモのようにまことにとてつもない、途方もないことのように思うのです。あるいは、あのまことに小さな自分、この平凡な生活、つまり、今わたしたちが実際に生き、そこで愚痴をこぼしたり、途方に暮れたりしながら、自分のわがまま、情けなさを感じているその生活と切り離して考える、あるいは、その自分がまことに見事な、堂々たる自分に変わるかのように。

   しかし、キリストのおっしゃることは、実は本当にささやかなこと、全く確かに目立たないことです。何故なら、このわたしたちのその平凡な生活、小さな自分を受け入れることだからです。そのようなわたしに途方もない大きな愛が注がれている、失われてはならないかけがえのないものとして慈しみ、命につないでくださっているからです。それを信じること!この受け入れがたいものを受け入れること!何故なら、神こそ、この受け入れがたいもの、受け入れがたいわたしをあるがままに受け入れてくださっておられるからです。それは具体的に言えば、たとえば人を笑顔で迎えようとか、あるいは他人と比較しないで自分の生活を大切にするという決意、実はそのようなほんのささやかな勇気、決意ではないでしょうか。日常生活の中でどんな自分も受け入れる、受け入れていこうとする勇気です。この大きな愛、命の流れの中に生かされているからこそ、わたしどもは、まことにこ些細な、小さな、取るに足らないと思えることにも忠実に生きていくのです。

   それ故、わたしたちに与えられている永遠の命とは、単に死後のことではありません。今をわたしたちが生き生きと生きていく力、希望です。希望は、常に誰か自分以外の者と共に持つもの、愛し、愛されているが故に生まれるものです。共に苦しみ、共に喜ぶこと、それが希望です。そのように永遠の命とは、わたしひとりの命のことではありません。キリストが与えてくださるように、キリストと、神と分かち合って生きる命のことです。そして、あなたなしにわたしが生きるのではなく、<一人も滅びない>と言われるように、わたしもあなたも共に生きる命です。一緒にキリストと共に生きることです。そこに教会の原点があるのです。共に生きるからこそ、苦しみもある、悲しみもあるでしょう。だからこそ、かつて旧約の民は、モーセが主の命令に従って造った<炎の蛇>を見上げて<命を得>ました。わたしたちは今、このキリスト、十字架を見上げましょう。主はこう言われるのです、「あなた自身の中を見下ろすのはではない。耐えきれないときに、憎しみに負け、不安、恐れに戦くとき、もう歩けないと立ち止まり、崩れ落ちてしまうとき、わたしの十字架を見上げよ、あなたは滅びてはならない、あなたはわたしと共に生きるのだ。<わたしが生きるのであなたがたも生きる>」と!

   今日も、あの富士山のように、わたしたちにこの御言葉が聳え立っているのです。だから、見えなくても、いや、見えないからこそ「新しく生まれる」― わたしたちはそれを信じる!この世の力がわたしたちを今わたしたちを脅かし、苦しめるこのとき、たとえ、わたしの眼には何も見えなくても、あのニコデモのように、「どうして、そんなことがありえましょうか」、ただ出てくるのはそのような結論だけだとしても(実際、わたしたち自身からはそれ以外の結論はないのですから)、そうであるが故に、そのニコデモの前に立っておられる方、共に立ち続ける方、見捨てることのない方、イエス・キリストを仰ぐのです。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」、まさに、わたしたちはどこへ行くかをなるほど知らない。この身が明日どうなるか知りません。すでに齢を重ねてきたわたしにはできないことがある。しかし、そうだとしてもわたしには今なし得ることがあるのです!何故なら「風は吹いている」のです、わたしに、あなたに!キリストの風は、愛するままに吹くからです。

2009年5月31日 聖霊降臨祭 「神さまのバリア・フリー」

使徒2章1節~21節
大和 淳 師

さて、ペンテコステの日が満ちた時、彼らはみな同じ場所に集まっていた。
すると突然、激しい風が吹いてきたように、天から音が聞こえ、彼らが座っていた家中を満たした。
そして、火のような舌が彼らに現れ、それが分かれて彼らめいめいの上にとどまった.
すると、彼らはみな聖霊で満たされ、その霊が彼らに語り出させるままに、さまざまな言語で語り始めた。
さて、エルサレムには、天下のあらゆる国から来た信心深いユダヤ人が住んでいた。
この物音が起こると、群衆は集まって来た.そして困惑してしまった.なぜなら、めいめいが、自分たちの方言で弟子たちが語るのを聞いたからである。Read more