2009年5月24日 昇天主日 「天」

ルカ24章44~53節

 
説教  「天」  大和 淳 師
イエスは彼らに言われた、「わたしがまだあなたがたと一緒にいた時、あなたがたに語ったわたしの言はこうである.すなわち、わたしについて、モーセの律法と預言者の書と詩篇とに書かれているすべての事は、成就されなければならない」。
それから、イエスは聖書を理解させるように、彼らの思いを開かれた.
イエスは彼らに言われた、「こう書かれている、『キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から復活する.
そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、彼の御名の中で、エルサレムから始まって、すべての国民に宣べ伝えられる』。
あなたがたはこれらの事の証人である。
見よ、わたしはわたしの父が約束されたものを、あなたがたの上に送る.ただ、あなたがたは、高い所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい」。
イエスは彼らに言われた、「わたしがまだあなたがたと一緒にいた時、あなたがたに語ったわたしの言はこうである.すなわち、わたしについて、モーセの律法と預言者の書と詩篇とに書かれているすべての事は、成就されなければならない」。
それから、イエスは聖書を理解させるように、彼らの思いを開かれた.
イエスは彼らに言われた、「こう書かれている、『キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から復活する.
そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、彼の御名の中で、エルサレムから始まって、すべての国民に宣べ伝えられる』。
あなたがたはこれらの事の証人である。
見よ、わたしはわたしの父が約束されたものを、あなたがたの上に送る.ただ、あなたがたは、高い所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい」。

   東京にいますと、東京には空がないという智恵子抄ではないですが、空と言っても、ビルなどの建物に区切られた、本当に背景の一部でしかなわけです。そういう風なところで生活していると、自然、視線は上を向かない、やっぱりどうしても下、うつ向いて生きてしまいますね。せいぜい水平にしか視線は行かない。あるいはむしろこう言うべきだと思うのですが、ともかく空と地上が完全に区切られた世界である、と。

   それで、天を見上げることのない生活ということ、それは、ややもすればどうしても下を向いていく、あるいはうつむいていってしまう生活となっていうのですけれど、けれども、本当にこうして空があるということ、わたしたちの上には、わたしたちが見上げることのない天があるということ、そのことを思うわけです。わたしたちの上には天、空がある、これは勿論、全く当たり前のことです。自然ではないか、そう言われるかも知れない。でも、現代の人間は、果たして、本当に空のもとで生きているか、空を見上げながら生きているか、そういうことを思います。空と一体となっているか、と。

   そういうことを思いますと、あらためてわたしたちが水平に見ている町並みとか、道とか、山並み、そういう地上のもの、景色、それは実は本当にこの空の模様を反映しているということを思うのです。明るいまぶしいような太陽の光が降り注ぐ、そうして抜けるような青空、その光がどんなにこのわたしの居る地上と一体になっているか、あるいは曇り空、その柔らかな光、その下にあって見ている、それがこの地上であるということ、その光によって、一本一本の木がいろんな色に、それぞれ違って染まっている。まさに空無しにはないのだ、ということ、そういうことを思うのですが、勿論、この聖書が語るキリストは天に昇られたという、その天というのは、そんな風に目で見えるところの空ではなく、あるいはこの空の向こう、はるか彼方のどこかということではない、むしろそれは、最早わたしどもの考えを超えてしまっているのですが、端的にただ神のいまし給うところ、そういう意味です。そういう天、キリストがおられるところ、それはわたしたちが意識していようといまいと、使徒書の日課、エフェソ書が「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。・・・」、そう語っている、そのようにわたしたちのこの地上は、このキリストの下に今やあるのだ、ということ、つまり、本当に、今やこの世界、そして何よりもこの教会、それはこのキリストと一体なのだ、ということ。そのことをもっと端的にパウロは、こう語るわけです、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章34~39節)。

  「キリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」、そして、パウロは、それを「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、キリストが天に昇られたということ、それは、それほどにわたしたちと一体となられたのだ、そう語っている。

   そのことをルターは、1525年5月14日の昇天主日説教 ― わたしは毎年この説教を読み、また毎回のようにこうして紹介しているのですが ― その中でこう語っています。「キリストは上にましそしてそのはるか上からここにいる我らを治め給うために、天に昇られた、そのように考えてはならない。そうではなく、キリストはそこでこそ最も多くのことを創造し、治めることが出来るが故に天に昇られたのだ。何故なら、もし彼がこの地上に人々に目に見える仕方で留まり続けられるとしたら、彼はこれほど多くのことを創造したりはできないであろう。全ての人々が彼の傍らにあり、彼に聴くことはできないであろう。・・・だから、彼は今や我々と遠く離れてしまっているのだと、くれぐれも考えないようにしないさい。むしろ、事実は全く逆に、彼が地上におられたとき、彼はわれわれと遠く経だっていたのだが、今や彼はわれわれの近くにいまし給うのである。」

  つまり、わたしたちが、そういう風にキリストのおられる天を見上げる、仰ぐということ、それは即わたしたち凡てのものの足下、土台、それがどれほど確かなのもであるか、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、そのことを知ることだ、そう言っていい。

   けれども、そうであればあるほど、本当にわたしどもは、それにも関わらず、本当に自分自身の弱さというものを実感せざる得ないわけです。揺れ動く。あるいは、こんな風に疑いを抱く、もし、そのようにキリストが今やわたしたちと一体となっておられるなら、何故、わたしの生はこんなにも脆いのか、と。その中で感じるのは、ややもすると、あの天と区切られ、切り離されたようなわたしどもの生であるわけです。あるいは、そういう風に、わたしたちの中、互いにまた、このキリストの愛によって、わたしたちもまた一つとされている、まさにパウロは「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ2章27,28節)、そう語っているのに、やはり現実には教会もバラバラではないか、と。

  そういうとき、わたしたちは、それはやはり自分たちの信仰の弱さなんだ、と、そう考える。信仰が弱いから揺れ動く、と。でも、本当にそうなのか。信仰が強ければ、たとえば、あの愛する長谷川さんの死は、悲しくないのか、痛みとならないのか。勿論、聖書の中には例をあげるまでもなく至る所で、そういうわたしたちの姿を不信仰、信仰の弱さであると、確かにそういうことも語っています。だから一面、そうなのですけれど、たとえば、あのパウロはまた、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」、そう率直に語り、「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ローマ7章15-19節)と。ここで言われていることの厳密な意味はともかく、パウロもまた、自分のしていることが分からない。あるいは、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」、悪を行っている、つまり、それほど逃れようもなく自分は不信仰なのだ、そう言っているわけです。あるいは自分は罪人の頭であるとまで言うのです。

   しかし、同時にその弱いパウロは、また「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12章10節)、まさにそのように「強さ」についても語り得るのです。あるいは、「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(〃11章29-30節)。一体それはどういうことなのでしょうか。

   「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、それほど確かな土台に据えられているということ、それは、だから即わたしたち自身がもう決して揺れ動くことはない、どんなことにもびくともしない、そういうものにキリスト者はなったということではないのです。むしろ、揺れ動く。いや、揺れ動いていいんだ。いや、土台がしっかりしているからこそ揺れ動くのだ、ということ。

   だから、本当に悲しいことの中で、本当に悲しむ、それどころか、何故、神さま、こんなことがあるのですか、あなたはあなたの右に座しておられるキリストによって、この世を支配されているのではないですか、と叫んでいい。痛ければ、痛いと泣いていい。でも、信仰とは、その揺れが大きければ大きいほど、まさに土台はびくともしない、全く強い力で、わたしを支えているのです。わたしどもは、自分の弱さを知れば知るほど、そのキリスト、その愛の強さを知るのです。まさに「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12章9節)ということ、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(〃)そうパウロは呼びかけているのです。

   それゆえ、それは全く自然体、キリスト者の生き方は自然体の生き方である、そう言い換えた方がいいかも知れません。まことに苦難がある、あるいは行き詰まるようなことが起こる。まことに揺り動かされる、けれども、そういう時にこそ、この土台、キリストの昇天とは、まさに土台となられたということですが、その強さを仰ぐ、つまり堪え忍ぶということ。その時、わたしたちは、本当に驚くほど揺るぎないもの、力を知るのです。

   このキリストの昇天という主日、昇天、それは、なるほど、わたしたち自身は、痛み、悲しみ、苦しみに揺れ動くかも知れない、しかし、「神を愛する者 凡てのもの相働きて 益となる」、キリスト者はそのことを知り、また仰ぎ望んで生きる者であることを。
ルカ福音書は、キリストが天にあげられていく、いわば別離であるはずなのに「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」、彼らは悲しむどころか、大喜びで帰っていったのだ、とそう伝えています。

   それはまったく今やわたしどもの命はしっかりとこのキリスト、その命につながっている。そして、またこのキリストを通して、わたしたち一人ひとりとしっかりとつなげられているのです。わたしたちは今ここで既にありのままに一つの命に生きている。だからこそエフェソ書が語るように教会が生まれたのです。そこに教会があるのです。それが、キリストが天に昇り、父の右に座し給うということの意味です。自らは揺れ動くとも天を仰ぎつつこのキリストを証し続ける、それが教会なのです。だからこそ、あの弟子たちは彼らは喜んだのです。
さぁ、わたしたちもまた、今あるがままに大喜びで帰り、絶えず神をほめたたえていきましょう。

2009年5月17日 復活後第5主日 「喜び」

ヨハネ15章11~17節
大和 淳 師

これらの事をあなたがたに語ったのは、わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい.これがわたしの戒めである。
人が友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛を、だれも持つことはない。
わたしが命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友である。
わたしはもはや、あなたがたを奴隷とは呼ばない.奴隷は主人が行なっていることを知らないからである.わたしはあなたがたを友と呼んだ.わたしは父から聞いたすべての事を、あなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない.むしろ、わたしがあなたがたを選んだのである.そしてあなたがたを立てた.それは、あなたがたが出て行って実を結び、あなたがたの実が残るためであり、あなたがたがわたしの名の中で父に求めるものは何でも、彼があなたがたに与えてくださるためである。
わたしがこれらの事をあなたがたに命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためである。

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節) ― 「わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるため」、そのために、キリストはわたしたちにみ言葉を語られる、全てはこのためであると言うのです。キリストの言葉、わたしたちがそれを聞くのは、まさにこの喜びのためなのだ、と。つまり、これは「今あなたがたの持っている不確かな喜びを全く揺るがない、確かな喜びとするために、わたしはこれらの言葉を語ったのである」、そういうことです。

と言うことは、キリストは、当然わたしたちの喜び、わたしたちが今持っている喜びとは、如何に弱く、不確かなものであるかを、わたしたちは本当には喜べないものであるということを、この方は本当によく知っておられるのです。いや、それどころかもっと直接に、19節では「世はあなたがたを憎む」、あるいは16章20節では「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」、その16章の終りでは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、そのようにキリストは言われるように、わたしたちが、今ここでは苦しみを持ち、泣き悲しむような人間であり、憂いて生活し、悩みを抱えて生きている、それがわたしちの真の姿であることを、本当に御存知であり、それ故、「喜びが満たされるため」、そうおっしゃっておられるのです。

ですから、わたしたちが、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」、このキリストの言葉に耳を傾け、自分のものにするということ、それは、でも自分のことを振り替えれば、どうしたって本当には喜べない、むしろ悩んだり、悲しんだり、苦しんでいるものであること、そういう自分であることを忘れて、謂わば無理にでも喜ぶ、喜ばなければならない、そういうことではないのです。

むしろ、それはこういうことです。わたしたちは、やはり喜べない、喜びたい、本当の喜びが欲しいのに、いやそれ故に悩んだり、苦しんだりする、悲しまなければならない、そういう自分であるということ、そのことを、この方の前に隠す必要はない、むしろそのようなありのままの自分を本当に思っていいのだ、ということです。それ故にこそ、キリストはあなたに言われるのです。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」「わたしの喜びがあなたがたのうちにある」ようにして下さるのです。キリストご自身の喜びを、またあなたのものに、あなたの喜びとして下さるというのです。

ですから、思い切って主に言っていいのです。「でも主よ、どこに喜びがあるのでしょうか。このわたしの中に・・・。主よ、喜びを求めて様々なことをしてきたのです。でも、いつも喜びは裏切られました。泡のように浮かんでは消えました。だから思い悩むのです。苦しいのです。人一人も愛し通せない自分です。いや、自分自身さえ本当に大事にできないのです。だから、本当は忘れていたいのです。そんな自分を真剣に考えることは、ただあまりにも悲しいからです。あまりにも自分が惨めだからです。汚れてしみだらけの自分を取り替えることはできないからです。主よ、だから、あなたの言われるような、一点の曇りもない喜びは、今更どこにもないのです。わたしの中にも、わたしの周囲にも。」と。

そもそも、わたしたちが本当に喜べない、それは、たとえば、希望、本当に確かな希望を持っていない、それゆえ、今ある喜びも全くつかの間の喜びになってしまう、そう言えるでしょう。だから、それこそ今あること、周囲のことに常に引きずり回されてしまう訳です。他人と比べて、ああ何て自分は不幸だろうと思ったり、あるいはこの方はるかにが多いかも知れませんが、自分より不幸な人、みじめな境遇な人を見て、自分はまだましだ、いい方だとか思ったりする、そういうどこか気楽な人生を歩んだりする訳です。しかし、本当に確かな希望を持っていないがゆえに、たとえば災難や、あるいは周囲にちょっとした暗いことがあると、もう動揺してしまって、自分を見失ってしまう訳です。それは明日がない、本当の希望がないからです。だから、重い過去を引きずるようにしか、人生を感じられなくなってしまう、そう言えるのです。言い換えれば、本当の意味で明日がない、明日を感じられない、そういうところでは、逆につかの間の喜びというか、刹那的な人生観しか持てなくなる。人生が投げやりになっていく。それは今が楽しければそれでいいという風な生き方になりかねません。つかの間の喜びでしかなくなるわけです。

しかし、何と言ってもわたしたちが喜びを失うのは、この後、キリストが、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)と言われている、このことに関わります。つまり、わたしたちが喜びを失うのは、「たがいに愛し合う」ような、愛し、愛される、共にいる人間がいないときです。独りぼっちであるからです。つまり、こういうことです。たとえば、宝くじで一億円当たったところで、やっぱり自分ひとりだけでそれを使うことを考えれば、最初は嬉しいでしょうが、むしろ、大金を独り占めしようとし始めるなら、一億円は喜びであることから、苦痛、重荷になっていくでしょう。何故なら、喜びとは、本来誰かと一緒に喜ぶことだからです。あなたを喜んでくれる人がいる、あるいはまた一緒に悲しんでくれる人がいるということです。もっとも、それにも関わらず、一億円あったら、そんな浅ましい思いを持ち続けるわたしがいるわけですが・・・。

それで、9節でキリストは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」、そのように言われ、そして、だから「わたしの愛にとどまりなさい」と命じておられます。原文を見ますと、この「愛にとどまりなさい」という「とどまりなさい」という言葉と、この「わたしの喜びがあなたがたの内にあり」の「内にある」は同じ言葉です。一方でキリストの愛のうちに留まりなさいと言われ、同じように、ここではキリストの喜びが留まるためである、そう言われているわけです。実に愛と喜びは切り離せないものなのです。それが、このキリストであり、この神の愛なのです。そして、ここでキリストの言われる愛にしろ、喜びにしろ、ともかく主語は、全くキリスト、つまりこの喜び、あるいは愛する主体は常にキリストです。その意味では、わたしたちは、その愛、喜びを徹底してただ受けるだけなのです。つまり、一方的に、このキリストから、わたしたちに与えられる、やってくるものである訳です。実は、そのことがこの15章のはじめから一貫していることなのです。

少し振り返りますと、キリストは、はじめに「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、わたしたちに言われました。そして、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)と。わたしたちは、このキリストにおいて、キリストと言う「ぶどうの木」の枝であるとされていました。だから、このキリストにつながっていれば「豊かな実を結ぶ」(〃)けれど、もしキリストから離れるなら「あなたがたは何一つできない」(〃)。ここで、ともかくわたしたちはキリストから離れることはできないと言われている。「あなたがたは何もできない」、これは実にはっきりとした、強い言葉です。全く、ことごとく何もできないと言われるのです。したがって、もし、わたしたちが喜べない、喜びのないものに人生がなってしまっている、あるいは端的に愛することができないということ、それはただ、わたしたちは決して幹、木そのものではなく、一本の枝、折られてしまったら「投げ捨てられて枯れる」枝だからだと言うのです。しかし、わたしたちは、既にキリストというぶどうの木の枝なんだということ、いや、わたしだけではない、一人ひとり、わたしたちの目にはバラバラに見える一人ひとりが、同じ幹から命をもらって生きている、実がなるよう支えられている同じ木の枝なんだということ。 ですから、わたしたちはこの自分自身、この自分で「実を結ぶ」、そういう風に、あたかも自分自身が「ぶどうの木」であるかのように考え、生きている訳ですが、しかし、実はその自分の足元、その下に、このわたしが今このありのままで「実を結ぶ」ようにしっかりとわたしをつないでいるキリストという命の木、支えがあるのだ、ということ。だから、「喜びが満ちあふれる」、それはただこのキリストの愛、大きな力強い、そのぶどうの木に、枝として留まる、ただそれだけがここで求められている、あえて言えば、それだけでいいのだと。このキリストの愛のうちに生きる、しかも、わたしだけではない、すべての人が愛され、大切な枝として、わたしと共に生かされている、そのことを知ることが求められているわけです。

もちろん、最初に申しましたとおり、わたしたちの内には絶えず不安がある訳です。そうは言ってもこの木から、自分は離されてしまっているのではないか、というような不安、あるいは苦しみがあるわけです。あるいは、やはり自分は本当に人を愛することはできない、あるいは、むしろ、愛されていないのではないかという苦しみ、不安です。希望がないと感じる悩みです。孤独を感じる悲しみです。わたしたちの眼には、何と言っても闇の深さしか写らないからです。

しかし、そういうわたしたちに、このキリストは力強く、そのわたしたちのぶどうの木として、わたしと共にい給うのです。十字架という死の苦しみ、その深い人生の谷底まで降り給い、死さえも、この方から、わたしたちを離すことができないほどに、わたしを結び付けていてくれる、その愛を貫かれたのです。あなたの苦しみ、悲しみ、悩み、それはあなたひとりの、その枝だけの痛みではないのです。一つの枝、一本の枝の痛みは、そのまま木全体の苦しみであり、このキリストの苦しみであるのです。

全くに、このキリストは、それだからこそ、枝であるわたしたちなしには存在し給わない。幹のない、幹から離れた枝は枯れるように、しかし、またその幹、ぶどうの木は、枝なしには存在しないのです。キリストは、あなたなしにい給わないのだということ。わたしたちは、キリストというぶどうの木の枝であるということ、それは、キリストかわたしたちなしには存在しようとされないし、それ故にこそ、わたしたちはこのキリストなしには存在しないということなのです。 それ故、今日のみ言葉の真ん中で、こういうことが語られています。キリストは、このように言われるのです。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」 ― この15章の少し前、同じヨハネ福音書10章では主イエスはご自身を「わたしは良い羊飼いである」とされ、わたしたちを羊にたとえられていました。そして、この15章の冒頭では今度は、ぶどうの木とぶどうの枝にたとえられました。それで、この羊飼いとぶどうの木の比喩を比較してみますと、羊飼いと羊の関係より、ぶどうの木とぶどうの枝は、更にキリストとわたしたちとの関係がよりはるかに緊密な、強く結ばれた関係として語られていると言えるでしょう。羊飼いと羊は、何と言っても別々の二つのもの、つまり、導く者と導かれる者、師と弟子の関係のように、親密であっても、しかし、両者には決定的に相違があると言わなくてはならないのですが、しかし、ぶどうの木とぶどうの枝は、何と言っても同じ一つのもの、どちらも一方を欠いては存在し得ないような、まさに一体化された、羊飼いと羊の関係より一層強い緊密な関係として、主イエスはわたしたちを見ておられるということ。そして、それに続く今日のこの箇所では、更に強まって更にその緊密さ、密接さを増すように「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、この方は、ご自身とわたしたちを更にもっと暖かな親密さの中に立たれる、そのようにわたしたちに中に踏み行って来られてくるのです。そのようにして、十字架のキリスト、復活された方は、わたしたちの希望、支えとしてわたしたちの中に立っているのです。

わたしたちの愛は喜びよりも、あるいはそれと同時に、どこかに必ず悲しみ、痛みを伴います。何と言っても不完全だからです。そのことは本当は、わたしたちを全くぶちのめすようなことです。どんなに人を愛そうとも、限界がある。相手に届かない、苦しんでいる兄弟姉妹を前に無力にならざる得ないのです。私事で恐縮ですが、長女を授かったとき、この子を愛する深い喜びを与えられました。しかし、まだその小さかった命を抱いていたとき、あぁ、やがて、この子と別れる時が来るのだ、そういうことを思ったのです。どんなに愛しても、限界がある、そのことにあらためて愕然としたのですが、だが、しかし、この子を、わたしを導くのは、このわたしではない、このお方がおられる。このお方が必ず、このわたしの不完全さ、いや、どんなに罪にまみれた愛であろうと、最もよきことを必ずしてくださる、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、だから、お前はなし得ることを最善を尽くすがいい。そのことを知ったとき、むしろ、限界があり、不完全であるが故に、弱さの故に、感謝と喜びがあることを知ったのです。「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、この主があなたの足元で、あなたを支え、いつくしみ、養ってくださっています。勇気をもって、わたしたちの前に立ちはだかる困難、闇に立ち向かっていきましょう。あなたはひとりではないのです。

2009年5月10日 復活後第4主日 「豊かに実を結ぶ」

ヨハネ15章1~10節

 
説教  「豊かに実を結ぶ」  大和 淳 師
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫である。
わたしにある枝で実を結ばないものはすべて、彼は取り去られる.そして実を結ぶ枝はすべて、もっと実を結ぶようにと、彼は手入れされる。
わたしがあなたがたに語った言のゆえに、あなたがたはすでに清いのである。
わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできない。
わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。
わたしの中に住んでいない者は、枝のように投げ捨てられて枯れてしまう.人々はそれを集めて、火の中に投げ込むので、それは焼かれる。
あなたがたがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたがたの中に住んでいるなら、何でも望むものを求めなさい.そうすれば、それはあなたがたにかなえられる。
あなたがたが多くの実を結ぶことで、わたしの父は栄光を受けられ、こうしてあなたがたはわたしの弟子となる。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した.わたしの愛の中に住んでいなさい。
あなたがたがわたしの戒めを守るなら、わたしの愛の中に住むであろう.それは、わたしが父の命令を守って、彼の愛の中に住んでいるのと同じである。

   「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」、そう主イエスは、言葉を切り出します。今日のこの御言葉において、父なる神が農夫としてたとえられていることは、しばしば見過ごしにされるのですが、父なる神は、ここではぶどう園の主人ではなく、あえて働く農夫にたとえられています。そして、「あなたがたは、その枝である」。
 

 そして、わたしたちは、ここでもう一つ、父、神は主人ではなく農夫であることと並んで、しばしば見過ごしにしてしまうのですが、ここで主イエスはまず、「わたしはまことのぶどうの木」とおっしゃっているのであって、ただ「わたしはぶどうの木」であると言われていないのです。「まことのぶどうの木」なのです。、このイエスが「まことのぶどうの木」であるのは、まさに父である「まことの」農夫がおられるからなのです。この父、「まことの」農夫があっての「まことの」ぶどうの木、そして、その「まことの」ぶどうの木あっての実なのです。そして、「わたしにつながっていなさい」、キリストはここでわたしたちにそうお命じになっています。この「つながっている」ということが繰り返し何度も語られま
す。それがここで主イエスが語ろうとされている中心に関わっていると言っていいでしょう。すなわち、5節「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」のです。

 「まことの木」である「わたしにつながっていなさい」。命令なのです。枝であるあなたがたは木であるわたしにつながっている、という現在形、単なる状態だけを語るのではなく、尚わざわざつながっていろという命令、呼びかけ、勧告、訴えがなされます。もし、この農夫の存在を忘れると、それは実に奇妙なことをイエスは言っておられるに過ぎなくなります。つまり、そもそも、わたしたちが枝であると言われているのですから、あらためて、その枝に向かって「わたしにつながっていなさい」と言うのは奇妙です。

  しかし、ここで大事なことは、このぶどうの木には、父、真の農夫がおられるということ、このぶどうの木を通して慈しみ、丹精こめて働いてくださる父、その父である神が、他のどれでもない、このイエスという「まことのぶどうの木」の農夫であるということなのです。この父にこそ、わたしたちはつながっていなければならないからなのです。つまり、このぶどうの木につながってさえいれば、あとは放って置いても、わたしたちは実を結ぶのだというのではないからです。このイエスというまことのぶどうの木には父と言うまことの農夫が働くからなのです。つまり、この枝がこのぶどうの木につながっている、わたしたちがこのキリストを信ずる、信じていることができる、いや、こうして生きているのは、それは枝であるわたしたちの業ではなく、実にこの農夫の業があるということ。イエスは、その父の働きがあるからこそ、ご自身、「まことのぶどうの木」であり、わたしたちは実をむすぶのだから、「わたしにつながっていなさい」と言うのです。ですから、枝が木につながっているのは当たり前のことなのに、その当たり前のことが当たり前でなくなっているのだ、それがわたしたちなのだ、そう言っていいでしょう。「まことの木」である「わたしにつながっていない枝は、そのまことの木から離れれば、最早枝ではなく、枯れ木、薪にするしかない存在になってしまう、ということです。つまり、木から離れても枝はしばらくは生きているかも知れない。だがやがて枯れて死んでいくのです。そこにあるのは死の世界、それがわたしたちの言う当たり前の世界なのです。あるいは、こう言い換えていいかも知れません。わたした
ちは、やがて枯れて枝にすぎないのに、あたかも、自分がぶどうの木そのものであるかのように錯覚しているのだ、と。

  ですから、「わたしにつながっていなさい」、そう命じられているイエスは悲しみに満ちておっしゃっているのかも知れません。何故、命から離れて平気でいるのだ、命に帰れ!命から離れるな、父に帰れ!悲痛な思いで叫んでおられる、そう考えていいのではないでしょうか。それ故にの命令形なのです。いえ、それだけではありません。むしろ、このことこそ、わたしたちがここで見なければならないこと、知らなければならないことですが、この「わたしにつながっていなさい」という主の命令、そしてここでただそれだけを命じてい給うこの命令は、何より、このぶどうの木につながっている、否、あの農夫がこのぶどうの木から成長させ、手入れしてくださっている、このわたしたちを、このまことのぶどうの木、主イエス・キリストから引き離そうとする力があるからです。このぶどうの木につながっていても、尚、そのような力、この世の力、死の力、その世界にわたしたちがあることをご存知であり、そして今や、この方ご自身,その力と戦い、勝利され給うからです。それ故、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)、そう言われるのです。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」、これは強い言葉です。何も、です。

  ことごとく、一切なのです、Nothing!なのです。言うまでもなくそれが死、その力です!それがキリストから離れたところの世界なのです。 今、ここにいるみなさまの中に、この教会の群れにも、病や苦難を通して今まさにそのような死の力が襲ってきている、そして、その死の力と闘っている兄弟姉妹がおられのです。あるいは、肉親、ご家族がその最中にいて、共に苦しみ、闘っておられる兄弟姉妹がおられるのです。主はそれ故命じ給うのです、「わたしにつながっていなさい!」そして、わたしたち自身誰も、その力がこの肉体を、そして何よりわたしたち自身の心を蝕んでいこうとしているのを知っています。体が弱るとき、心も弱るのです。しかし、「わたしにつながっていなさい!」今やわたしたちが、それ故耳を傾けるのは、見上げるのは、そのように命じ給う方です。あなたがたは既にわたしにつながっている。父である農夫がおられるのだから。しかし、わたしはあえてあなたがたに言う、「わたしにつながっていなさい!」、命、目に見える死の力ではなく、命、わたし自身を見なさい!わたしは十字架にかかる、だがわたしは命、復活!農夫は最早農夫自身のためにあるのではなく、そのぶどうの木のためにあるように、今そのぶどうの木であるわたしが、その枝であるあなたがたのためにある。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11章25節)。わたしだけが復活であり、命なのではない。復活とは、あなたが生きることなのだ!あなたがわたしと共に、そしてそれ故、父と共に!「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15章5節)。

  「わたしにつながっていなさい!」、これは命の言葉なのです。何故なら既につながれているからです!たとえどれほど死の力がわたしたちを襲い来るとしても、それ故、「豊かに実を結ぶ」。命を結ぶ!今日、復活後第四主日、それは伝統的にはラテン語でCantate、「歌え」の主日。Cantate、「歌え」、それは詩篇98篇1節「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって主は救いの御業を果たされた」のみ言葉からきています。そうです、「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」からこそ、「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた」のです。先ほど、体が弱るとき、心も弱ると申しました。しかし、わたしたちは今は体が弱ればこそ、心を躍らせ、新しい歌を主に向かっていきましょう、この主につながっている一人ひとりの人生の、一人ひとりの命の歌を、主に向かって!「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって主は救いの御業を果たされた」!

2009年5月3日 復活後第3主日 「Jubilate! たとえ悲しくても、喜べ!」

ヨハネ21章15~19節
大和 淳 師

彼らが朝食を済ませた時、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこれら以上にわたしを愛するか?」。ペテロは彼に言った、「はい、主よ.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの小羊を養いなさい」。
イエスはまた二度目に彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか?」。ペテロは彼に言った、「はい、主よ.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
イエスは三度目に彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか?」。ペテロはイエスが三度目も自分に、「あなたはわたしを愛するか?」と言われたので、悲しんだ。そして彼はイエスに言った、「主よ、あなたはすべての事をご存じです.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
まことに、まことに、わたしはあなたに言う.あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、望む所を歩いた.しかし、年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人があなたに帯を締めて、あなたの行きたくない所へ連れて行くであろう」。
イエスはこう言って、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示されたのである。こう言ってイエスは彼に、「わたしに従って来なさい」と言われた。

今日、復活後第3主日は、古くは「喜べ Jubilate」と呼ばれた主日です。「喜べ」、イースターを迎えたわたしたちは今日そのように呼びかけられています。しかし、今日ご一緒に聴く福音書に登場するペトロにとって、キリストの復活と「喜び」、それは決して、当然のことではありません。何より、彼は、復活の主を前にして決しておおよそ喜べる人間ではなく、むしろ、それどころか、悲しんだ、悲しみに目を真っ赤にしている人間なのです。その「イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」(17節)。この「悲しくなった」と訳されているこの動詞のもともとの言葉は、強い心の痛みを表わす言葉です。たとえば、この言葉は、こういうところところで使われています。

マタイが記す、イエスが十字架にかかる直前、最後の晩餐のときのことです。主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」、そうおっしゃった、そのとき、「弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」(マタイ26:21-22)。その「非常に心を痛めて」と同じ言葉なのです。それは、いわば、良心の咎めによって引き起こされた心の痛みです。そして、まさにその時と同じ様に、ペトロは心を痛めているのです。しかし、その十字架の前のときの悲しみと、今ここでのの悲しみについて、決定的な違いがあります。今ここでのペトロの悲しみは、まさに復活のキリストの前での悲しみであるということです。すなわち、「わたしを愛しているか」、端的に愛のゆえに、愛によって引き起こされた悲しみであるということです。パウロは、この悲しみについてこう記しています、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(2コリント7:10)。「神の御心に適った悲しみ」、その復活の主の御前での悲しみは、Jubilate「喜べ」と呼びかけられる悲しみなのです。

そもそもペトロは何故悲しんでいる、何を心に痛めているのでしょうか。それはただ単に二度ならずも三度まで「愛するか」と問われた、それ故「主は、自分の主への愛を信じてくださらない、・・・自分の言葉を、わたしを信じてくださらない」、そう思ってのことでしょうか。もしそうだとしたら、それは、むしろ傲慢な思いがそこに潜んでいると言わなくてはならないでしょう。つまり「わたしは愛している、それなのに、自分を信じてくださらない・・・」、結局は自分の正しさに固執していることになるでしょう。もちろん、ペトロは、主イエスのこの「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」に対して、また彼もまた率直に「はい」と答えているように、他の誰よりもイエスを愛していると言えるのです。それは、このヨハネ福音書6章に記されていることからも確認できます。それはこの主イエスから「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)ときのことです。そもそも主を愛するとは、旧約聖書を含めて、聖書では信ずることと同じですが、いわば、その代表として、あなたがたもわたしから離れ去りたいかと問われたのに対し、ペトロは直ぐさま「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」と答えたのです。そして更に、主が、ご自身の受難、十字架の死を予告されたとき、即座に「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)と言ったのもペトロです。ペトロは、その時ただ自ら命がけに愛する、そのことを誓ったのです。全く激しい誓い、誰にも負けない愛であったのです。しかし、その結末は、何より、その時、主ご自身が「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:38)、そのように言われた、そのとおりになったのです。

他ならないこの主ご自身の言葉、「鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:38)、その主イエスが今あらためて三度、「わたしを愛するか」と問うた時、それはまた同時にこの「あなたは、三度わたしのことを知らないと言う」、その主の言葉が重なってペトロを揺り動かしているのです。それは、ペトロがただ単にあの夜の自分のしたことだけを思い起こして、ただそれを悲しんでいるのではありません。そうだとしたら、ペトロは「わたしを愛するか」という主の問いに直ぐに「はい」とは答えられなかったし、むしろ、「いいえ、そんな自信はわたしにはありません」としか答えられなかったでしょう。

三度キリストのことを知らないと言ったペトロ、しかし、今彼は三度、「あなたはご存じです」と答えるのです。彼は、たとえ悲しくても「はい、あなたはご存じです」と答えるのです。つまり、ペトロの悲しみは、ここでこういうことを語っているのです。〈主よ、他の誰でもない、あなたが、あなただけがご存知でした、わたしのすべてを。あなたはすべてを知っておられ、それでもあなたは、わたしを見捨てず、わたしから離れず、こうして今、わたしと相対してくださっています。主よ、わたしは誰にも負けないほどあなたを愛します。・・・。しかし、悲しく情けないことにわたしはあなたから離れてしまいました。でも、わたしは今分かります、わたしがあなたを愛したからではなく、あなたがわたしを最初に愛してくださったことを。あなたはご自身、そんなわたしの愛を少しも必要がないのに、そうして十字架にかかられたのに、今、まるでわたしの愛がなければならないかのように、わたしの愛を、わたしを求めてくださっています。主よ、あなたが一切をご存知です、わたしがあなたを愛していることを!主よ、あなたが知ってくださっている、それだけで十分です!主よ、あの夜のわたしであるからこそ、わたしはあなたを愛さずにはおれない、あなたと共に生きていきます!〉そのようにペトロは、たとえ悲しくても、ジュビリターテ「喜べ」の人間となったのです。復活の主と向き合って、主の愛に捉えられて生きていくのです。

それゆえ、このペトロが、ここで主イエスによって「わたしを羊を飼いなさい」、そのように立てられるのは、このペトロ自身の自らの後悔に由来するのではないのです。そうではなくて、まさにこの復活の主、キリストととの出会いだからこそである、そうヨハネ福音書は語る、このペトロの涙を、この復活の主との出会いの喜びの中で記す、わたしたちの心に刻み付けるのです。悲しみを抱く者よ、心に痛みを持ち続ける者よ、この主のみ前で泣け、思いっきり泣くが良い、そして「喜べ」、その復活者の招きを伝えるのです。
ですから、復活の主と向き合って生きる、それは、最早これまで熱心さがどれほど足りなかったかを主は問うのではなく、また、わたしたちがどれほどこれから勇気が必要か、どれほど信仰が強くなければならないかでもないのです。むしろ、おおよそ、逆なのです。そのようなわたしたちがなし得るかなし得ないか、もっと言えば、わたしがそのために死ねるか死ねないか、にあるのではないのです。むしろ、そのとき主から離れた人間 ― つまり、かつての彼自身に過ぎないのです。

要するに、キリスト教信仰とは、わたしたちが思いつめて、いちかばちかのようなことではありません。思いつめれば、いや思い詰めればこそ人間は愛するもののために死ねるでしょう。あのかつての特攻隊の若者たちは本当に真剣に、祖国のために、いや、実際はそうではなく、彼らは親や兄弟、妻や恋人、家族のために、少なくともそう信じて死んでいった、まったく純粋に!その純粋さは本当に心を打ちます!しかし、わたしたちの思う純粋さ、熱心さとは、またあの十字架の夜、ペトロのその愛が剣を抜いたように、他者の命まで奪うということもある、そのような悲しさを伴っているのです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(2コリント7:10)、パウロの言葉を思い起こさずにはいられないのですが、わたしたちの純粋さ、熱心さはしばしば、わたしたちを思いつめさせ、思い込みへと駆り立てる、その時、人はそこでどれほど非人間的になるのかを、わたしたちは経験します。昨今、耳にするどうしてこうも簡単に人が人の命を奪うことも出来るのか。そして他人事ではありません。わたしの日常生活の中で、いや、教会の中でも、自分の思いつめ、思い込みから逃れられず問題が起こる、自分に対してのみならず、家族に、他者に、非人間的にふるまってしまう。だが、それは一見強いように思えても、ペトロがあの夜身をもって体験したように日常性の中では音もなく倒れ、崩れ落ちていくのです。死、罪の力とは、そのようにわたしたちに忍び寄って来るのです。

そのような人間の純粋さがここで求められているのではないのです。実際、ここでの主イエスのペトロへの問いが、あたかもそのような純粋な殉教への招きとして解されたりします。確かに、ここには、このペトロ自身の殉教の死まで暗示されているからです。しかし、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」!そうです、「あなたは、わたしに従いなさい」、ただ従う、導く方に従う、問題はただそのことだけなのです。

今日の福音書は、先週の日課でありましたが、直前の21章1節以下の出来事と密接に結びついています。そこで復活の主は、そこでペトロたちにまず第一に、「子たちよ、何か食べる物があるか」と問われたのです。すると彼らは、「ありません」と答えざる得なかった。何もない、「ありません」とペトロたちは、この方に告白しなければならなかったのです、わたしたちは何も持っていません、と。つまり、ペトロは最早、あるかのようにふるまう必要はなかったし、ないことを隠す必要もない、役に立たないものであることを隠す必要はないのです。すべてはそこから始まるのです。わたしたちの無力、貧しさ、しかし、それは、「主の慈しみ」のもとにある無力であり、貧しさであり、無能さに過ぎません。そのようにして、わたしたちは、この復活の主、そのあふれる豊かさ、栄光の方の前に立っているのです。そして、ここでも同様にペトロを通して、わたしたちは更に深く主のみ前に立っています。ペトロはまた改めて、この主のみ前に今度は一対一で、まさに裸で、何もないままに立つのです。そして、できないことに思いつめてではなく、また出来ることに思い込んででもなく、まさにそのように、何もないわたし自身のままに!

そして、この前の出来事では「シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」(7節)ことが記されています。そして、今日のここでは「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)と主は言われます。この「帯を締め」るという言葉は、もともとの言葉では、実は先の7節の「上着をまとって」と同じ言葉なのです。すなわち、彼は、今まで自ら「上着をまとって」「帯を締め」て今主の前に立っていました。しかし、主は言われます、「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と。他の人、すなわち、主イエス自らが、今何もない、裸になった彼の「帯を締め」、彼を携えていくのです。

それを実に不自由な生き方と想像するとすれば、それは違います。これは、むしろ、解放の言葉です。自由へとペトロは召されているということです。彼の行きたいところに行こうとした時、彼はキリストを三度も否んでしまったからです。わたしたちも自分の行きたいところにいけることが自由だと思っていないでしょうか。しかし、どんな勇気も、豪胆さも崩れ落ちていく。本当の自由とは、出来ない、何もない自分を受け入れるところにあるのです。否、正確に言えば、そんなわたしが、それにも関わらず受け入れられているところから生まれるのです。あなたも、わたしも、このあるがままで!わたしたちは、このペトロに命じられた主の言葉に驚かずにはいられません。「わたしの羊を飼いなさい」。このペトロを、今やご自身の代わりに主は牧者として立てられるのです。主は、その彼を用い、必要とし続けてくださるのです。この主はどこまでも人間と共にあろうとされ、人間を愛し、求める神、それが故に死を乗越え、勝利された方であり給うからです。

このペトロと同様、主はあなたのすべてをご存知です。主イエスはすべてを知っておられ、それでも、あなたを見捨てず、あなたから離れず、あなたと相対してくださっています。この方はご自身、あなたの愛を本来少しも必要がないのに、そうして十字架にかかられたのに、今、まるであなたがいなければならないかのように、わたしを、あなたの愛を求めてくださっています。主が一切をご存知です、あなたが主を愛していることを、いや、主が一切をご存知である、それだけで十分なのです!だから、わたしたちは、この主を愛さずにはおれない、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか!」tp。

たとえこのわたし自身は悲しくても、いえ、今は悲しいからこそ、「喜べ(Jubilate)」の人間、この復活の主の愛に捉えられて、わたしたちは生きていけるのです!