マルコ16章9節~18節
説教 「不信仰物語 ― 新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti) ― 」 大和 淳 師
週の初めの日の朝早く、イエスは復活してから、まずマグダラのマリヤにご自身を現された.イエスはかつて彼女から、七つの悪鬼を追い出されたことがある。
彼女は、イエスと一緒にいた人たちが、悲しんで泣いている所に行って、報告した。
その人たちは、イエスは生きておられ、そのイエスをマリヤが見た、と聞いても信じなかった。
これらの事の後、彼らのうちの二人が、村へ入ろうとして歩いていると、イエスは別の姿でご自身を現された。
その人たちは行って、残りの人たちに報告した.しかし、彼らも信じなかった。
その後、十一人が食卓に着いていた時、イエスはご自身を現された.そして彼は、彼らの不信仰と心のかたくなさを、おしかりになった.それは、復活した後のイエスを見た人たちを、信じなかったからである。
イエスは彼らに言われた、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマされる者は救われる.しかし、信じない者は罪に定められる。
信じる者には次のようなしるしが伴う.彼らはわたしの名の中で悪鬼を追い出し、新しい言葉を語り、
蛇をつかむ.死に至る物を飲んだとしても、それは決して彼らを害さない.彼らが病人に手を置けば、病人はいやされる」。
キリスト教会の古い伝統に、イースターからペンテコステ、聖霊降臨日までの毎週の日曜日に名前を付けて呼ぶ習慣があります。復活後第一主日の今日は、「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」の主日、そして来週第二主日は「主の慈しみ(Misericordias Domini)」の主日、その後、「喜べ(jubilate)」の主日、「歌え(cantate)」の主日、「祈れ(rogate)」の主日、そして昇天主日を経て、「主よ聴き給えの主日(Excaudi)」、そうして「ペンテコステ・聖霊降臨日」を迎えるのです。
人は大切なものは名前を付けて呼びます。子どもは自分の気に入った、毎晩一緒に寝る友だちとなった人形に、まず最初に名前を付けてあげるでしょう。あるいは、以前、俵真智さんの「あなたがおいしいと言ったから今日はサラダ記念日」という俳句が有名になりましたが、人は特別な日に、特別な名前を付けてその日を覚えます。そのように、イースター後の最初の日曜日、それは「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」の主日と教会は覚えたのです。
キリストの復活、その信仰、それは何より新しく生まれた子どものように生きることなのです。「生まれたばかりの乳飲み子のように」(一ペトロ2:2)生きる、でもそれはどういうことでしょうか?デートリッヒ・ボンヘッファーは、そのことを、こんな言葉で教えています。「キリストの復活の奇跡は、[今この世にある]わたしたちを支配している死の神格化[絶対化すること]を根底から覆すものである。死が最後のものであるところでは、現世のこの生をすべてとするか、それとも現世をまったく空しいものとするか、そのどちらかでしかない。しかし、死の力が打ち破られたこと、つまり、死が支配するこの世界の真中にすでに復活と新しく生まれる奇跡が輝いていることが受け入れられるところでは、人はもはや人生に永遠を期待することなどをしない。むしろ、人生がわたしたちに差し出すものを受け取るのである。そこでは、人生がすべてか、それとも無か、というような生き方ではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方が生まれるのである」(D.ボンヘッファー「倫理学」より)。
わたしたちは先週イースターを共に祝いました。共に礼拝を守り、祝いのときを共にしました。でもその祝いで終わったのではないのです。また「新しく生まれた者のように」生きる生活が始まっているのです。この普段の変わることのない生活、その生活が「わたしたちに差し出すものを受け取」っていく。「そこでは、現世のこの人生がすべてか、それとも無か、というような生き方ではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく」生を生きるのです。復活、それは、キリストがわたしたちの生活の中へ踏み込んでこられることだからです。復活とは、ただ単にキリストが死んで、再びよみがえったことだけを意味するのではないのです。わたしたちがこのキリストによって新たに生きる、わたしたちの復活、わたしたちの始まりなのです。
そのことが、今日の福音書においても具体的に記されています。それで、あらためて、少し注意深く読みますと、復活後の出来事が一見大雑把に記されているように見えるのですが、そこにも大切な意味が込められていることに気づきます。
まず、マグダラのマリヤ、そして、12節の無名の二人の弟子、これらの人々にイエスは現れたということ。そのような人々、マグダラのマリヤ、彼女はルカ福音書7章によれば「罪ある女」と呼ばれた人でした。そして、この名も無き二人の弟子、つまりペトロやヨハネのような主だった弟子たちではなく、無名の人の口を通して、まず復活の使信は伝えられたのだということ。罪深いもの、弱い者、軽んじられている者、主はそのような人々に現れた、共におられた。それが何より復活のキリストであったことが伝えられています。
しかし更に、もっとわたしたちの目を引くことがあります。実に繰り返し、「信じなかった」という言葉が出てくることです。それは言ってみれば、イエスの復活を決して信じなかった、信じられなかった物語なのです。そして、何と言っても驚くのは、最後まで弟子たちの内誰一人「信じた」とは記されていないことです。これらのことから言えば、弟子たちは誰一人結局、信ずることの出来なかったまま、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と遣わされていったのです。しかし、それが、聖書がわたしどもに伝える復活信仰、復活体験なのです。
何より復活のキリスト、この方は、いつも信じない者の中心におられます。復活のキリストは、信じる者、敬虔な者たちの間にだけおられるというのではない。罪ある者、信じない、心のかたくなな人間の友、その中心となられたのです。復活信仰とは信じられない者の信仰なのです。何故なら、復活のキリストは、十字架のキリスト、十字架にかかったキリストだからです。この方の十字架、それは、まさしく信じない人間、それどころか、この方に敵対する人間、その真ん中にこの方が、その罪を担って立たれた出来事でした。まさに、ご自身、信じない人間の中の一人、その中心となり給うたのです。
この聖書の箇所は、実はそのように信じなかった物語を記すことによって、信じられない者である自分自身への痛みと共に、しかし、この復活のキリストは、そのわたしを決して見捨てないのだという、初代の教会の人々の喜びに満ちた体験、深い溢れる感謝の思いが込められた信仰告白でもあるのです。われわれは信じなかった。信ずることのできないものであった。しかし、主はあらわれた、その信じないわたしどものために・・・、そう聖書は語っているのです。
もちろん、不信仰がいいということではありません。その後、こういうことも記されているからです。「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(14節)。イエスは、不信仰と頑なな心をおとがめになった、この「おとがめになった」というのは、要するに叱られたということです。叱るのは見限った、見捨てたからではありません。むしろ、これは端的に愛です。不信仰を受け止めつつ、その不信仰を克服されようとする愛です。親が子どもの成長のために、今し得る限りのことに全力を尽くしてなすような真剣な愛であると言っていいでしょう。
もちろん、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」、そういう言葉もここには記されています。そして、わたしたちは、そのことを厳粛にそのまま受け入れるべきであり、決して割り引いたり、軽んじたりしてはならないでしょう。しかし、そうだからこそ、このキリストは、わたしたちのために、真剣に、不信仰を叱って下さるのです。何より、そのためにこの方は十字架にかかり給うたのです。それは、全くわたしたちの不信仰の故にということです。それをご自分のものとし、ご自分に担い、わたしに代って戦い、克服されるため、わたしたちが一人も滅びないためでした。それは確かにそれほどに、わたしたちの不信仰は絶望的なものだということです。しかし、叱ってくださる主イエスがおられるからこそ、わたしたちには希望があるのです。
ですから、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(16節)、この言葉も、わたしたちは、いわば脅しのように受け取る必要はないのです。こんな信ずることの出来ないわたしは滅びの宣告を受けるかも知れないとびくびくしながら生きるのではない、あるいは、だから抱えた罪を、それを隠して生きるのではないのです。主はその全てを既にご存じであり、しかし、それに関わらず、何より、ここに先立ってあるのは、わたしたちへの救いの約束、このお方を通しての愛なのです。何より、滅びの宣告より先立って、救い、恵み、今この方の叱責・愛が、主ご自身がわたしたちにはあるのです。ただこの主に目を注ぐ、「新しく生まれた者のように」ただこの主に目を注ぐ、それがわたしたちのイースターの信仰なのです。
そして、ここでは、そのことと直ぐに並んで、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(15節)と言う主イエスの命令が記されています。福音を宣べ伝える、伝道、宣教が命じられています。わたしたちは、この命令もまた厳粛にそのまま受け入れるべきでしょう。しかし、わたしたちは、この伝道、宣教とは、いわば他の人を信仰者に変えるようなことではないということをここでしっかりと心に留めておきたいと思うのです。つまり、伝道とは、あたかも確かな信仰の持ち主、いわば救われた確かな者が、別の確かではない、信じていない人間を上から下へと救ってやると言うようなことではないのです。主は、信じない弟子たちをあるがままに伝道へと遣わされたように、あるがままのわたしを見てくださり、そして恵み深くわたしたちを用いてくださる、遣わしてくださるのです。もう一度、最初にご紹介したボンヘッファーの言葉を思い起こして欲しいのです、「人生がすべてか、それとも無か、というような生き方ではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方が生まれる」。それを、伝道ということに置き換えて言ってもいいでしょう。つまり、伝道とは、人生がすべてか、それとも無か、というようなことではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方、そこから生まれるのです。
良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方 ― それは言い換えれば、「あなたは、あたかも罪がないかのように、自分自身とあなたの兄弟とをあざむく必要はもはやない。あなたは罪人であることを許される。そのことを神に感謝せよ。何故なら、神は罪人を愛し、罪を憎み給う方だから」(D.ボンヘッファー「共に生きる生活」111頁)ということなのです。実は、これもボンヘッファーの「共に生きる生活」の文章からの言葉です。そこでボンヘッファーは、またこういうことを言っております、「自分の悪を抱いてただひとりでいる者は、全くひとりで孤立している。キリスト者が、礼拝を共にし、祈りを共にし、またともに奉仕することにおいてあらゆる交わりを共にしているにもかかわらず、互いにひとり孤立しており、交わりの最後の通路が開かれていないということがありえるのである。何故なら、かれらはそこで、なるほど信仰者として、敬虔な者としてはお互いに交わりをもっているが、しかし敬虔でない者として、罪人としての交わりを持っていないからである。敬虔な者の交わりの中では、何人も罪人であることは許されない。突然に現実の罪人が、敬虔な者たちの中に見出される時、多くのキリスト者の驚きは思いの外に大きいものがある。だからわれわれは、自分の罪を持ったままで、偽りと偽善の中に自分を閉じてひとりでいるのである。何故なら、われわれは確かに罪人だから・・・」(〃110頁)。
つまり、教会は、ややもすると、敬虔な者の交わり、正しい者の交わり、つまり、過つ者、破れたる者であることを許されなくなってしまうのだ、ということです。教会で、自分の罪の故に孤独でいることほど、この復活のキリストの真のお姿に相応しくないのです。そして、自分の罪を、自分ひとりでは克服し得ないのです。だから、わたしたちは、教会、他の兄弟姉妹が必要なのです。その中にキリストはおられからです。問題・罪のないキリスト者がキリスト者なのでありません。あるいは、問題のない教会が良い教会なのでありません。そして、罪に立派な罪もそうでない罪もないように、問題に立派な問題も、立派でない問題もないのです。教会が教会であるのは、共に重荷を、問題を担っていけること、あるがままのわたしを共に担ってくれる兄弟姉妹がいることです。ここに、「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」ある教会があります。「良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めて」いく、わたしたちの教会が。
そのような教会の中にある者として、「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」主と共に歩んでいきましょう!