2010年12月24日 聖降誕祭燭火礼拝 「あなたがたのために救い主がお生まれになった」

今日 救い主 誕生!
ルカによる福音書2章1〜20節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆イエスの誕生

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

◆羊飼いと天使

2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。

2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

ルカによる福音書2章1〜20節


私たちの父なる神と主イエスキリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

 

今日の説教題は「今日 救い主 誕生!」という題ですが、正しくは「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の言葉です。その言葉を今日一緒に聞きたいと思います。

クリスマスというのは、いきなり来たのではありません。旧約聖書の時代から連結した時間の流れの中でおきました。パウロはガラテヤの手紙で「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」言い、クリスマスは「時が満ちて」起きた事で、それは「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れ」(テトス2:11)た日だと書いています。クリスマスは、旧約の、神の約束の成就・実現した事を私たちは知る日でもあるのです。その時間的な流れを追体験するために、クリスマスの四週間前の「待降節」という期間が守られ、心の準備をするといわれています。一番顕著なことは、クリスマスクランツです。四本のローソクを、毎週一本ずつ点灯して、四本つけるとクリスマスがくるのです。心をワクワクしてクリスマスを迎えることになります。その意味では今日は本当にうれしい、喜びの日です。

今ではクリスマスは大きな祭りですが、最初のクリスマスは貧しいものですし、人々の目を引かない出来事でした。

また、クリスマスは驚きで充ちています。受胎告知でもマリアは驚いています。「どうしてそんなことが・・」と言っています。ヨセフも驚きました。慌てて婚約解消を考えていました。荒野の羊飼いも天使の出現に驚いています。東方の博士たちは星を見て、驚いてエルサレムに向かって旅をしました。宿屋の人たちも驚いたでしょう。なぜなら羊飼いたちがやってきたからです。なんだこれはです。何故人々は驚いたかですが、それは思いがけないことが起きたから驚くということです。驚かない人もいました。それは赤ん坊が生まれたという普通の出来事と考えるからです。生まれた方が神の子であると気が付かないからです。当時の人はクリスマスを前もって知っていた人はいませんでした。神が計画し、実行したからです。こんな仕方で神の御業が起こるとは、予想できませんでした。

クリスマスはイエス・キリストの誕生日ですと言います。ご承知のように戸籍が残っているわけではありませんから、正確ではありません。当時の他宗教の祝祭日を、意味を変えて転用したと言われています。そういうことはよくあります。また。イエスの誕生が歴史というか年代を決めています。つまり、BC、ADです。BCは英語ではBEFORE CHRIST・キリスト前を意味します。ADはAnno Domini・ラテン語・the year of Our Lordで、西暦・紀元を意味します。キリスト誕生を紀元元年としています。今はAD、BCを使わず、CEを使います。the Christian Era・キリスト紀元、西暦紀元です。あるいはCommon Eraとも言います。それは他宗教を尊重してです。

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」とあります。ヘロデ大王の時代にイエスはベツレヘムに生まれたとされています。しかし、ヘロデは紀元前37年にユダヤの王になったヘロデは紀元前4年に死んでいます。天文学者たちの研究で、今日では紀元前7-6年をイエスの誕生と見ている人が多いです。ですから、紀元後の29-30年にイエスが十字架に付けられたとすると、イエスの生涯は大体37年位でしょう。イエスが伝道した期間・イエスの公生涯は最後の1-3年であろうと思われます。

クリスマスは神が計画し、実行したことといいます。聖書ではそれを預言と成就と言います。イエスが生まれるところも預言されていました。聖書はその場所は「ベツレヘム」だと言います。

普通クリスマスは誰のためかと言いますと、こんな答えが出ます。1.人間のため。2.世のため・世界のため。3.自分のためです。この3の答えが出来る人に、クリスマスの意味が出て来ます。しかし、よく見ると、クリスマスは神が必要としたものだと言うことです。神の側から見たクリスマスの意味です。人間の救いを見ますと、いつも神が先手を取っていると知るのです。私たちもそうです。イエスは言っています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。

クリスマスは神のためとは?それは親と子供を考えると分かります。子供は親が何くれとしますと、いやがります。経験です。子供は、自分は自分なりにやっていると考えます。しかし、親がそうするのは「親の愛」と言えます。親の愛がそうさせるのです。それを五月蠅いと思うのですが、親は子供のためにしているのです。

これをクリスマスに適用します。神がひとり子イエス・キリストをこの世に送ることを決意し、実行したのは、そうせざるを得なかったのは、神がそうする情況が私たちの方にあったということです。「神の愛・こころ」がそうさせたのです。神は天より人間を見て、どうしても放っておけないので、イエス・キリストを、この世に遣わされたのです。神が放っておけないと考えたのは人間の罪でした。こんなことをというと奇妙に思うでしょうが、それは私たちが余り罪について考えないからです。たいしたことではないと思います。昔も今も変わりません。人間が罪を犯している、それを見ない振りをしているのが人間ですが、神は違います。神は罪の恐ろしさをよく知っているからです。ですから、神は手を差し伸べられたのです。それがクリスマスの出来事です。

マリアとヨセフは人口登録のために、ナザレからベツレヘムに向かいました。約140キロの旅です。二人はダビデの血筋のため、登録のために故郷の町・ダビデの町に行きました。ベツレヘムはダビデ王の生誕地で、ダビデはここで父の羊を飼い、預言者サムエルによって王として油を注がれています。(Ⅰサム16:13)。それ以来ベツレヘムは、「ダビデの町」(ルカ2:4,11)として知られるようになった。

町は混雑で、泊まるところはなかった。で、彼らは馬小屋を借りました。そこで、マリアはイエスを生むことになりました。多くの人は気がつきませんでしたが、その赤ちゃんイエスこそが神の子・メシア・救い主でした。

クリスマスの使信は単純です。神の子がおいでになったことによって、私たちはすぐ側に神がいつもいてくださるということが確信できるようになった。すぐ側にというと何ですから、どんな時でも、神が一緒にいてくださることを確信出来るようになったと言ってもいいのです。それをヨハネはこう言いました。「言・イエス・は肉となって・人間となって、わたしたちの間に宿られた・テントを張った」と。(1:14)。テントとは天幕を張ったということです。これは遊牧人・草原を移動して歩く民族・でないと理解が難しい。ユダヤ人はすぐ理解できました。エジプトから約束の地パレスチナにいく途中、彼らはテントを張っていました。移動式住居です。その中に特別なテントがありました。それは、神の住まいとしてのテント・天幕・「幕屋」(出40:1など)とも呼ばれていました。「彼らがわたしのために(幕屋)・聖所を造らされる第1の目的は、主がイスラエルの民の中に住むためでした。このことから、幕屋、わたしは彼らの中に住む」(出25:8)と主が言われるように、幕屋は「聖所」とも呼ばれています。で、旅の途中でも、そこに行けば神に会えると言うことです。つまり、いつも神が民と共に居るということです。

クリスマスは救い主の誕生日ですが、救いとは何でしょうか。宗教は救いを言います。いろんな救いがあります。困っているから助けるとか、人間の欲望を満たそうという信仰、いわゆる、御利益です。キリストはそんなことは言いません。確かにキリスト教にも、御利益はありますが。イエスとは天使が告げられたように「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。(マタイ1:21)。「罪」は神にとっても、人間にとっても放っておけないことです。前にも言いましたが。神は罪の恐ろしさをよく知っているからです。ですから、神は手を差し伸べられたのです。それがクリスマスの出来事です。

私はクリスマスは人間のあるべき姿、状態にすること、回復することだと思っています。旧約聖書の創世記は天地の神による創造を書いています。神は各創造の日の終わりに、「神はこれを見て、良しとされた」と言っています。英語では it was goodです。ヘブル語ではbAj-yKi(キー・トーブ)です。意味は「確かに よいです」。英語でCOSMOSというのがあります。意味は宇宙・調和・秩序です。調和とは美しい状態です。そこから、COSMETIC・化粧品がでました。ですから、ある先生は「美しい」と訳しました。神は六日目に創造のすべてを見て、「それは極めて良かった」と言いました。極めて美しかったです。でも、今はどうですか。その神の創造の美しさはありません。人間をとってもそうです。人間は美しいと言うより、汚れているのです。パウロはいみじく書いています。

「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。(エフェソ2:2-3)。

「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」。

なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」。(コロサイ1:21)。

パウロは結論します。「正しい者はいない。一人もいない」と。(ロマ3:10)。ですから、人間は調和のない状態にあります。つまり、罪に、悪魔、神に敵対し、神の怒りを受けるべき者でした。そんな状態から、神との調和・神との完全な交わりの状態の美しさを回復するために、クリスマスがあるのです。パウロはこう言います。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです」。(エフェソ2:4-5)

年末になると、二つの鐘がなります。ヨーロッパに行った方が、日曜日の朝、町中の教会の鐘が一斉に鳴るそうです。それは至るところに神の救いが満ちあふれていることを語っているように感じると言いました。日本の年末の鐘は除夜の鐘です。大晦日にNHKのTVで有名なお寺の鐘の音を聞くことが出来ます。除夜の鐘は、夜中の12時に諸方の寺々で、百八煩悩を除去する意を寓して108回撞つく鐘を言います。百八煩悩とは人間の心身を迷わせる一〇八種の煩悩・一切の煩悩をいいます。

ある方が面白いことを言いました。お寺の鐘は“ゴーン”、「ゴーン」となる。教会の鐘は「カーン」、「カーン」となる。「ゴーン」は英語のgoneだ、教会の鐘はcanである。ゴーンは、(過ぎ)去った、過去の、いなくなって、見込みのない、尽きた、古くなったと言う意味である。響きは暗い。しかし、カーンは出来る、可能性がある、力がある、明るい響きがあります。ギリシャ語で「救い」は「変える」という意味があります。

私たちを・・心の定まらない私たちを・・造り変えようとされて、イエス・キリストをこの世に送り、十字架にあけられたのです。神はあなたを変えようとされているのです。

どうでしょうか。

羊飼いたちは「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と書いてありました。私たちはどうでしょうか。今日、同じように「神をあがめ、賛美しながら」帰ることが出来るでしょうか。「崇める」とは何か。それは心からへりくだって、神を讃えると言うことです。「賛美」とは普通、ほめたたえると言います。しかし、ある先生によると、「賛美」は「神をなだめる」という意味があると言います。クリスマスに神を賛美するというのに、なだめるとはですが。ここにクリスマスの意味があるのです。クリスマスに生まれたイエスが、やがて、私たちのために十字架にかかります。そういう方が生まれたということがうれしいのです。分かると思います。うれしいことです。でも、考えたら、そのような方を送ってくださった神に対する感謝をして、罪を悔い改めて、神を崇め、賛美したい思いが沸くのではないでしょうか。

アーメン

2010年12月19日 待降節第4主日 「謙虚な女マリア」

ルカによる福音書1章46〜55節
説教: 安藤 政泰 牧師

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

ルカによる福音書1章46〜55節


ルカによる福音書に、私達はあの有名な二つの賛歌を読むことが出来ます。

1、マリヤの賛歌      1章46節~55節

2、シメオンの賛歌    2章29節~32節

今日の主日の主題はマリヤの賛歌ですがこの記事の前にありますエリザベツへの訪問から考えてみたいと思います。「主の母となることを告げられたマリヤは、親族でヨハネの母であるエルザベツを訪ねます」

この光景についてルターは 「マルヤは真実の生みの母たるべきものでありました。しかも彼女は、エリザベツのために、手伝い女の仕事をするよう、歩いて2日-3日の旅にでかけたのです。 私達は皆、自分達の誇りを、恥なければなりません。」ルターは聖母像を彼の食堂に掛けていた、といわれています。

それはマリヤを信仰者の代表として神に向かう姿と考えていたからです。

01:45  主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」エリザベツがマリアをその信仰の故に讃えたという事実です。この場面の中心は勿論その偉大さを讃えられたマリアにありますが、しかし、このマリアよりかなり年上のエリザベツが「しるし」となっています。それは マリアの信仰に確証を与えているのです。このことを更に強調しているのが、マリアがエリザベツの挨拶に答えるという形で、記述されている賛歌です。それは マリアの喜びにあふれる確信を表現しています。この冒頭が Magunificat anima mea Dominumとなっており、マグニフィカートと省略して使っています。

この賛歌はサムエル上2:1-10のハンナの賛歌によっています。

2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。

2:2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。2:3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか・・・と続いています

マリアの賛歌の内容は、はじめに、神が彼女に与えられた恵みの故に、神を讃えます。選ばれた民の救いのためになしたもう神の業の豊かさを讃ます。

神はマリアに、ご自身を救い主として示されたように、父祖達に与えられた約束を成就してくださいます。聖にして、憐れみ深い方である神が、その恵みを、真に全てを包むような仕方で自分に与えてくださったことを告白しています。

マリア自身、その恵みのために、卑しい道具となり、神が彼女をもちいられると言う事柄自体の背後に身を隠すのです。マリアに関する記事はこの誕生にだけ集中しています。この事が成就した現在は、旧約の側からみると、それは未来であるし、復活の後の時代からみると、過去のように感じられますが、決してそうではなく、イエスの誕生は現在の出来事であり、また未来の出来事でもあります。そうした意味でこのマリア賛歌は大きな意味があります。単に、マリアを信仰の先輩として敬うだけのものだとしたら、現在の教会にとりマグニフィカートはそれほどの意味が無いと考えます。成就した未来を現在として記されています。私達にとっての未来は、神が最終的に罪により人をこの世を破壊し裁くのではなく、人々の救いの成就の時となるのです。神は未来において、その全能をもって、登場し、時代と一切の物を排除されるのです。神が王として支配される終わりの時は、これまでの基準は完全に打ち砕かれ、これまでの価値観は消滅するのです。

最終目的はそうした価値観の破壊にあるのではなりません。むしろ救いが必要とされ、神の約束にしたがってそれを待つ全ての人々に本当に救いが到来するのです。私達がマリヤの賛歌を見るときに、そこに、一人の謙虚な女の人を見ることができます。彼女は決して自分を高くすることをしませんでした。 それどころかあくまでも謙虚に、神のかえりみを感謝してしかも賛美しているのです。クリスマスになると、いつもマリヤのことを考えます。ひとりの乙女が男の子を宿す、そしてその思いがけない出来事に驚き怪しむ、又、悩む。 しかし、かみの祝福であると知り、その現実をそのまま受け入れる、そこまでの、激しい感情の動きと、受け入れるまでになった信仰、 私達の悩み、怒り、悲しみ、はマリヤの経験から考えるとはるかに軽く凌ぎやすいのもではないでしょうか。マリヤを考える時、私達は自分の誇りを 恥ずかしい、と感じざるをえない。それはマリア自身、その恵みのために、卑しい道具となり、神が彼女をもちいられると言う事柄自体の背後に身を隠すのです。それが神の器となることです。

2010年12月12日 待降節第3主日 「神、われらと共に」

マタイによる福音書1章18〜23節
説教: 江本 真理 牧師

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
マタイによる福音書1章18〜23節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

待降節(アドヴェント)の歩みも3週目に入り、聖壇の上のアドヴェント・リースのロウソクには3本火が灯りました。待降節の第3日曜日は伝統的に「ガウデーテGaudete」と呼ばれます。これは「喜びなさい」という意味のラテン語です。待降節の第3日曜日を、私たちは特に喜びの主日として守るのです。なぜ「喜びなさい」なのか。それは、救い主イエス・キリストをお迎えする時が間近に迫っているからです。フィリピ書の言葉を引用するならば、「主において(常に)喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます」(4:4-5)ということです。主はすぐ近くにおられる。主の約束は既に成し遂げられつつある。だから「ガウデーテ」、「喜びなさい」。これが今朝の礼拝を守りながら、私たちが心に留めるべき主題、テーマであると言えます。

今朝与えられております御言葉は、マタイ福音書が記す「イエス・キリスト誕生」の次第の箇所です。クリスマスの記事はもう何度も読んでいる、そのストーリーもよく覚えているという皆さんが多いと思いますが、皆さんがこのクリスマスの出来事を聞くときに、一番不思議に思うこと、このクリスマスの出来事における神秘とは何でしょうか。

このクリスマスの出来事における最大の神秘、私たちが一番不思議に思うことは、主イエスは聖霊によって宿ったということではないかと思います。私たちは、使徒信条の信仰告白の中で「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と告白します。今日のマタイの箇所でも、主イエスの誕生のことを、それは「聖霊による」ことなのだと繰り返し語っています(18節、20節)。あるいは、ルカ福音書に記されるマリアへの受胎告知の場面においても、天使から「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられたマリアが、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と戸惑いながら答えたのに対し、天使はこう言っています。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる…神にできないことは何一つない」と。つまり、「聖霊」とは「いと高き方の力」「神の力」なのだと。そしてその聖霊によって、神の働きによってクリスマスの出来事は起こったのだということです。

ですから、「主は聖霊によって宿り」ということ、このクリスマスの出来事が聖霊のわざ、いと高き方の力によるものだということは、私たち人間の力によってではないということです。私たちの人間の思いや力をはるかに超える仕方で起こった出来事がクリスマスなのです。私たちの考えや想像をはるかに超えてもたらされたこと、それが「聖霊によって宿り」と言われる、主イエス・キリストの誕生(クリスマスの出来事)なのです。私たち人間がクリスマスを生み出したわけではなく、私たちの側に、最初から、この出来事がもたらされる資格があるとか、クリスマスを受け容れる用意があるとかというわけでもないのです。むしろ、「聖霊によって宿り」とは、私たち人間のどんな現実「にもかかわらず」「宿り」ということなのです。

クリスマスの記事の前にマタイ福音書は、長い系図を書き記しました。アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロン捕囚まで、そしてクリスマスの出来事までです。しかし、なぜこの系図が記されているのでしょうか。この系図から救いがやってきたからでしょうか。そうではありません。この系図からではなく、この系図へと救いがやってきたからです。聖書が記している系図は、人間の能力や優れた血筋を示している系図ではありません。むしろ、人間の嘆きが示されている系図です。そこに名が記されているタマル(3節)は、創世記38章によれば、夫に先立たれ、舅から忘れられた婦人でした。クリスマスの系図は、このタマルのいる系図です。ラハブ(5節)は異民族の遊女であり、ひとり救われイスラエルに加えられた女性でした。そのラハブのいる系図です。ルツ(5節)はやはり異民族の婦人で夫を失った人です。そしてダビデの計略によって敵の手を借りて殺されたウリヤ、その妻(6節)がそこにはいます。そういう婦人たちのいる系図です。そしてそこにはアハズ(9節。イザヤ書「インマヌエル預言」を示された)がいます。列王記下16章によれば、このアハズについて次のように記されています。彼は「主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣って、自分の子に火の中を通らせることさえした。彼は高台、丘の上、すべての茂った木の下でいけにえをささげ、香をたいた」。要するに、この系図は人間の罪とその嘆きの系図、人間の危機の系図です。そして、これこそ人間の現実の歴史ということではないでしょうか。主イエスは、その人間の歴史のただ中に「自分の民をその罪から救う」(21節)ためにやって来られたのです。人間の過酷な現実、苦しみや悲しみ、欺きの絶えない現実にもかかわらず、主は人間を救うために、聖霊によってその中に来られたのです。そのようにして「神は我々と共におられる」ということが現実になったと聖書は告げるのです。私たち人間のどんな現実にもかかわらず、主は聖霊によって宿り、そして「神、我らと共に」なのです。

それでは人間は、どういう仕方でクリスマスにいるのでしょうか。「主は聖霊によって宿り」と告げられている待降節の人間はどのようにそこにいるのでしょうか。それは「おとめマリア」として、あるいは「ヨセフ」としているのです。ヨセフのことを考えてみましょう。ヨセフは「正しい人であった」と記されています。しかし、「主は聖霊によって宿り」に対して、ヨセフの「正しい人」としての決心は、マリアと「ひそかに縁を切ろう」(19節)とすることであったというのです。その理由として、19節には「マリアのことを表ざたにするのを望まなかった」とあります。「彼女を恥にさらすようなことは好まなかった」とも訳せる箇所です。ですから、ヨセフは決して自分のことだけを考えていたわけではなく、マリアのことを考えて「ひそかに縁を切ろう」と決心したのです。このヨセフの決心は、人間としては正しい決心であったかもしれません。しかし、それだけでは人間の罪や悲惨さからの救い(解放)である「神、我らと共に」をもたらすことはできないのです。クリスマスは、このヨセフの正しさを越えて、否、ヨセフのこの正しい決心がもう一度覆されることによって、やって来たというのです。ヨセフはここで、自分の、人間としては一応もっともな決心をなお変更して、神の御旨に従いました。パウロが言うように、人間の正しさをいくら積み重ねてみても、それで救いに到達することはできないのです。むしろ、自分の信じてきた正しさが覆され、塵あくたと見なされるほどに、救いということは、私たちの手には負えないもの、私たちの考えているものよりもはるかに偉大で、厳粛なものなのです。人間は、この救いを、神の助けから謙虚にへりくだって受け容れるほかはありません。ですから、待降節の人間は、自分のそれなりの正しい決心さえも越えて、神に動かされる用意をする必要があります。あのマリアのように、またここでのヨセフのように、自分の思いを越えて神の御旨に従う用意をするのです。

もちろん、私たちには、自分なりの気持ちがあります。自分の決心があり、予定があります。ヨセフのことを考えてみれば、彼はこのときマリアと婚約していました。ごく普通の結婚をし、ごく普通の家庭を築き、人並みの生活をしていく、平凡な日々を送ろうと考えていたのではなかったでしょうか。平凡であることが何よりも幸せなことだと言われたりします。しかし、そんなヨセフの思いとは裏腹なことが起こり出すのです。身ごもったマリアを見て、ヨセフは困惑したことでしょう。思い悩んで眠れぬ夜を過ごしたことでしょう。20節に「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」とあります。「恐れず」と言われていることは、ヨセフが、悩み、自尊心を傷つけられ、あるいは不信と疑惑で苦しむ日々を送ったことをうかがわせます。人間は、いろいろなことで思いめぐらさざるをえなくなる存在です。その中で決意し、しかしなお悩みと混乱の中にあり続けるのが人間です。しかし、待降節の人間は、そうした人生の悩みや混乱の中で、究極的に何に動かされる人間なのか、です。そこでなお神に動かされる用意がある。それがヨセフの姿であり、待降節の人間です。「主は聖霊によって宿り」ということは、私たち自身の決心や予定にもかかわらず、聖霊・神の力によってその判断や決心を変えられて、神に動かされる人間がそこにいるということでもあります。私たちは、何ものにも動かされない「不動の境地」を求めているのではありません。そうではなく、神に深く動かされることです。だからこそそれ以外の何ものにも動かされないことです。自分の欲望にも、また自分の不安や恐怖にも動かされず、自分の考える正しさにでもなく、それ以上のただ神にのみ、神の霊にのみ動かされるのです。それがヨセフの姿であり、待降節の中にある人間なのです。

ですから私たちは今、そのような一人の人間として、ただ神にのみ、神の霊にのみ動かされる者として立たされることを主に願い、主の大いなる御力により頼んで生きていく者でありましょう。これこそが、今日この日曜日に示されている主題、「ガウデーテ」、「喜びなさい」と言われるときの私たちの「喜び」であるのです。

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように(ローマ15:13)。

2010年12月5日 待降節第2主日 「希望の時」

マタイによる福音書3章1〜12節
説教:安藤 政泰 牧師

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

マタイによる福音書3章1〜12節


本日の日課であるマタイによる福音書3章にはバプテスマのヨハネの記事です。

洗礼を考えるときにはいつでも、このバプテスマのヨハネの話が思い起こされます。

イエスの洗礼とバプテスマのヨハネの洗礼との大きな違いは何でしたでしょうか。

それは、水による洗礼と聖霊による洗礼の違いです。バプテスマのヨハネの水による洗礼は悔い改めの洗礼です。今までの罪を悔い改め。水に洗い流し新しい決心と決意をもって生きると言うことです。

イエス・キリストによる水と聖霊による洗礼は、悔い改めを要求いたしますが、その事に加えて、罪の許しが与えられます。

この罪の許しは、洗礼の時に与えられるのでしょうか。

それが、自分のものになる、と言う意味ではたしかにそうです。しかし、キリストは既に、罪の許しを私達に与えておられます。その許しを、この私にも働いている、この私も救われると確信し信じる信仰が受洗となるのです。

自分自身を嫌いな人はいません。同時に、自分自身の何かを嫌って居ない人もめづらしいです。自分の汚い面を自分が一番良く知っています。自分の罪についても多分自分が一番よく感じているはずです。その、拙い自分に神から与えられる希望がキリストの誕生です。

聖書は単に神とイスラエルの人々の過去の歴史を語るものではなく、今日も生きている私達の指針となります。聖書が記す、神と人々の関係の歴史は、今の私達に忍耐と慰め、希望を与え続けてくれます。この事は今もこの私に生ける神の働きがある事を確信させてくれます。

私達は最後のところで、どこに拠り所を求めれば良いかを知っています。

恵みは既に与えられています。この事が私達の信仰の拠り所です。

キリストが誕生し救い主としてこの私のために世に来られたという恵みです。

この神を「望の神」と言います。

アドヴェント、降臨節の色は紫です。しかし、私達に取ってキリストの誕生は「希望」です。希望を表現する色として、近世になりブルーを使っても良い、と考えるようになりました。人はそれぞれに、無いように見えてもあるのが苦しみ、悩みです。自分の事、家族の事、仕事の事など色々の場面で人は苦しみ悩みます。しかし

キリストの誕生は私たちに、希望の光を見せてくれます。

神に希望をおく者になり、謙虚な思いと、期待を持ってクリスマスを迎えましょう。