2010年4月18日 復活節第2主日 「良い木は良い実を結ぶ」

ルカによる福音書 24章36-43節
安藤政泰 師

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。
どうして心に疑いを起こすのか。
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。
亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、
わたしにはそれがある。」
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、
イエスは、 「ここに何か食べ物があるか」と言われた。

そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

「良い木は良い実を結ぶ」と言う聖書の言葉があります。マタイの7:17ですが。
自分は良い木でありたいと願うのは誰でもおなじです。または自分は良い木である信じられれば、それほど幸いなことはないかもしれません。私達の心には、良い事をしていれば、よい結果がある、と言う価値観があります。しかし、本当にこの世の中でそうでしょうか。私達は良い木になれるのでしょうか。

同じように人を善人と悪人と分けた場合自分は善人の方に入ると信じたい。
しかし、自分は本当に善人なのでしょうか。よくよく自分を見詰めて、自分は善人と言い切れる人が何人いるでしょうか。嘘をいわない、人の悪口を言わない、人を軽蔑しない、人の幸を妬ましく思わない、そのような人が、この世の中に居るでしょうか。自分の行い、考え言っている事をもし、全部VTRに取って見るとしたら、それを見る事に私達は堪えられるでしょうか。
今日は主の復活について考えたい。
主の蘇りと昇天については、理解するのがなかなか難しいと申し上げました。
主の受難はどちらかと言えば、理解しやすいが、主の復活とその後の昇天はなかなか理解出来しくのです。

これは、当時の弟子たちにしても同じであったわけです。
37節に弟子たちは霊をみている、と思っていたと記されています。
一人の男の人が無実でありながら、死刑になった。今でいえば、再審裁判を要求するところでしょう。 その男の人が復活した。これは新聞記事TVのニュースになるようなセンセーショナルな事件です。そのようなセンセーショナルな事件を現実のものとして信られるでしょうか。

主イエスの蘇りを信じるかどうかは、大切なことですし、この主の蘇りが信じられなければ、信仰に入ることも出来ません。しかしどのように私達は信じているのでしょうか。その実体はどうなのでしょうか。確かに信じているのです。しかしそれだけで良いのでしょうか。

「生きている言葉」と言う表現があります。これは言葉そのものが人間に行動を起こさせるような、そのような言葉の事です。聞いているが、柳に風と受け流してしまう、そのような言葉はその人達に取って生きている言葉とは言えません。

主イエスの蘇りが、この私にとってどのような意味があるか、を問う事が求められています。しかし、その前に、主はあなたの為だけにも十字架に懸かりたもう、と言う事を信じる事から考えはじめると、主の蘇りが自分にどのようにかかわるかを見る事が出来るのではないでしょうか。

自分に一番大切な事は何でしょうか。
そのために自分は何をしているのでしょうか。

始めに「良い木」の話をいたしました。 良い木になれる人間はいないのです。
聖書で言っている良い木とは主イエス・キリストの事です。

その良い木が結んだ良い実に預かる、これが私達です。その良い木が、本当に言われていた通りの良い木であった事は、主の復活が証明しているのです。

この主の復活に預かるのは、生きている者だけでなく、すでにみもとにある者も共に預かるのです。しかも、この良い木であるキリストのみ言葉を日々の糧
とする時に、私達は主の復活にあずかる栄光も受ける事ができるのです。

主は生きている者の主です。だから、先に召された者の主でもあるのです。
先に召された者がこの世での生命に生きた時、主は彼らの主でもあったのです。
主は時間を越えて、「良い木」として私達に働いておられます。
主よあなたの与えられる恵が時間を越えて働かれる事を感謝致します。

2010年4月11日 復活節第1主日 「イエスを信じて生きる・・・エマオの道から」

ルカによる福音書 24章13-35節
五十嵐 誠 師

◆エマオで現れる
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、24:14 この一切の出来事について話し合っていた。24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

(説教要旨)

先週はイエスの復活を祝う「復活祭・イースター」でした。それぞれ各自、その喜びを受けられたと思います。その復活の日の夕方の出来事を今日の福音書は伝えています。普通は「エマオへの途上で」というタイトルで知られています。二人の弟子の復活の日の夕暮れの失意と驚き、そして、喜びが書かれています。そこからの学びをしましょう。

この日の二人の道は悲しみと失意の歩みでした。彼らは一切の出来事を話し、論じていたのですが、それはイエスのこと、特に十字架と死、復活についてでした。でもそれは彼らにとっては分からないことでした。イエスに信頼して、希望と期待を寄せたが、失望に終わった。復活の出来事も・墓が空であったが、その意味を悟らなかった。

彼らが話しあっていると、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言いながらよってきた方がいました。二人は驚いています。あの大きな出来事を知らないなんて!二人は自分たちが話していたことを・とまどいと失望を語りました。するとその人は 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のでした。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」とその人、つまりイエスは言いました。

彼らはイエスの復活を話しながら、悲しそうな顔をしていたのです。イエスの復活が彼らにとって力にならなかったのです。自分と関係ないと出来事として、また理解できない出来事と話している時は、復活はなんの喜びにもなりません。信じることの出来ないそんな弟子たちをイエスは嘆いたのです。そしてイエスはなにが事柄の中心・核心かを、彼らが再確認するようにしています。イエスは十字架と復活こそ、まさしく救い主キリストの受難と栄光をあらわすものではないか、「聖書」(旧約聖書)に記されている内容そのままではないかと「説明された」のです。聖書は素晴らしい内容に満ちています。だけど自分とは関係ないという人は、悲しい顔をして立ち止まります。しかし、本気で信じる者には希望が与えられます。うれしい顔して踊り出す力になります。

私はイエスの十字架と復活の意味を初め理解しなかった弟子たちが、その意味を知り、その後、十字架と復活を、堂々と力強く述べ伝えていますが、その理由がここにあります。イエスは弟子たちに聖書・・旧約聖書からご自分のことを説明したのです。イエスは復活後、40日間地上におりましたから、その間弟子たちを教育された思いますし、弟子たちも旧約聖書やいエスの生前の言葉を思い起こして、イエスの意味を学んだと言えます。今はこう言えるのです。実に「新約聖書は旧約聖書に隠されており,旧約聖書は新約聖書に現されてい」という緊密不可分の関係にあるのです。ですから聖書は・・旧約と新約は共に、イエスキリストを証しするといえるのです。旧約聖書39冊がイエスを指し示すことを、弟子たちは知ったのですが、一方、新約聖書はその弟子たちが、その旧約聖書が示すキリストこそ、まことに神からのキリスト・メシア・救い主と言うことを示すために、証言するためにかかれたのです。

キリスト教とは何か。変な質問ですが、どう答えますか。それはこう言えます。「キリスト教とは、救い主・イエス・キリストにおいて、キリストを通して、神がいのち・命と救いを与えらるものです」。このいのち・命とは、今の肉体の命ではなく、それを超える命・いのち、普通には「永遠のいのち・命」です。現代は救いなどと言いますと、人気がありません。救いはいらないとか、そんなに弱くないとか言います。「救いとはなにか」ですが、ある先生は救いとは「変えることchange」と言いました。あなたをイエスは変えるのです。変えられるのです。ギリシャ語では救うという言葉は「変えるという意味があります。私たちはいろんな思い、悩み、恐れ、希望などで、心が揺れ、定まりません。そんな私たちを造り変えてくださるのです。イエス・キリストは・・死から復活して、その力があることを明白にしたのです。だから、復活祭・イースターは喜びなのです。聖書はその神・キリストの言葉です。

今日のエマオへの出来事に目を向けます。彼らはなにか引かれたのか、強いてイエスに一緒に泊まるようにお願いしました。イエスは泊まるために家に入りました。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」のでした。イエスの言葉か仕草かで彼らはイエスと悟った。道々語ったイエスの言葉が彼らの目を開いたと言えます。

それを彼らはこう表現しています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。 聖書は私たちに、心が燃えるような思いをあえるのです。

イエスは今も私たちと共にいるし、歩いています。人生の歩みをしているとき、近付いてきて、一緒に歩いてくださる。聖書を通して、私たちの問題に解き明かして、私たちの内の心を燃えさせてくださるのです。今日は、今日の聖餐式でも私たちは、イエスが共にいて、祝福しくださるのを知るのです。イエスは約束を守られる方です、私たちの信頼に十二分にお答えくださるのです。

聖書はなにを書いているかですが、それは「イエスに出会った、キリストは生きています」ということを書いているのです。生ける主キリストに出会ったという証言・証しが聖書です。生けるイエスに出会いさえすれば、聖書は読めるし、分かります。その時、聖書が本当に分かったと言えます。そのキリストは今も生きていて、私たちに力を与えます。そのイエスに信頼して生きて生きなさい。そう勧めています。「イエスさま、あなたを信じて生きて生きます」と今朝も告白したい。

2009年10月11日 聖霊降臨後第18主日

マルコ 10章1-16節
大和 淳 師

イエスはそこから立ち上がって、ユダヤの地方とヨルダンの向こうに行かれた.再び群衆が彼の所に集まって来たので、彼はまたいつものように、彼らを教えられた。
すると、何人かのパリサイ人がイエスの所に来て、人は妻を離縁してもよいかと質問し、彼を試みようとした。
イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたに何と命じたか?」
彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました」。
イエスは彼らに言われた、「彼は、あなたがたの心がかたくななので、この戒めをあなたがたのために書いたのである。
しかし、創造の初めから、神は人を男と女に造られた。
このゆえに、人はその父母を離れて、その妻に結び合わされる.
こうして二人は一体となる。それだから、彼らはもはや二人ではなく、一体である。
こういうわけで、神がくびきを共にさせたものを、人は引き離してはならない」。
家に入ってから、弟子たちはこのことについて、再び彼に尋ねた。
イエスは言われた、「だれでも自分の妻を離縁して、他の者をめとる者は、彼女に対して姦淫を犯すのである。
またもし彼女が、自分の夫を離縁して、他の者に嫁ぐなら、姦淫を犯すのである」。
さて、人々はイエスの所に小さい子供たちを連れて来て、彼に触っていただこうとした.ところが、弟子たちは彼らをしかった。
しかし、イエスはそれを見て、憤って彼らに言われた、「小さい子供たちをわたしに来させなさい。彼らをとどめてはならない.神の王国は、このような人たちのものだからである。
まことに、わたしはあなたがたに言う.だれでも小さい子供のように神の王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはない」。
イエスは彼らを腕に抱き、手を置いて、熱く祝福された。

今日は、順序が逆になりますが、最初に13節以降からまずみ言葉を聴きたいと思います。そこで主イエスはこう言われます、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(10章14-15節)

わたしどもは今日、この主イエスの言葉を、まずわたしたち自身に語られているみ言葉として聴き取りたいと思うのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」 ― これは他ならないわたしに語られている言葉であり、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 ― そのようにわたしたち一人ひとり招かれているのです。

しかしながら、わたしどもはここで戸惑いながら、こう問うかも知れません。ここでの「子供のように神の国を受け入れる」とはどういうことだろうか?子どものような純真無垢な心で、ということなのだろうか?と。おおよそそのような意味で、「子供のように」と言われるのなら、それはむしろ、わたしどもにとっては真に戸惑い、絶望しなければならならない言葉なのではないか、と。

わたしたちがそのように考えるのは、しかし、明らかに誤解があるのです。何故なら、そもそも聖書は、決して子どもを純真無垢な存在そのものと見てはいないからです。子どもは天使ではないのです。その意味で言えば、子どもと言えども、大人の人間と同じ神の憐れみがなければ、神から遠く離れた人間、言い換えれば助けが必要な存在なのです。

そもそも発端は、「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。」(マルコ10章13節)ことに始まります。「イエスに触れていただくため」とは、祝福を受けるため、当時の名高いラビ、教師に触ってもらうことは、その人の徳、祝福にあずかる、そう信じていたからです。しかし、わたしたちは、ここで「人々が子供たちを連れて来た」、何よりそう記されていることに心を留めたいのです。ここでの子どもは、自分からイエスのもとに来たのではないのです。人々、親の手に引かれて来たのです。フランソア・モーリャックは「子どもであるということは、手を差し出すことだ」、そう言っていますが、まさしくそのような子どもなのです。ここで言う子どもとは、その手を取ってくれる人が必要な存在なのです。その手をとってどこまでも共に歩いてくれる同伴者なしには生きられないのです。「神の国はこのような者たちのものである」と言い、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われ給う、その子どもとは、そのように手を差し出すこと、「子どもであるということは、手を差し出す」存在なのです。しかし、それは、わたしたち大人となった者もまた、手を差し出す存在、この手を握り、抱き留め共に歩いてもらわなくてはならない者であるのではないでしょうか。悲しみ、痛みの中でわたしどもの手を、わたしどもの差し出す手をしっかりと常に握ってくださる方が必要なのです。

先のモーリャックは「子どもであるということは、手を差し出すことだ」、そう言うのです。決して、「子どもとは」、そういう者だという風に言っているのではないのです。「子どもであるということ」なのです。「子どもとなるということ」と言ってもいいでしょう。言い換えれば、わたしどもが信頼する者に向かって手を差し出すとき、わたしたちもまた「子どもであるということ」なのです。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そうです、それがまたあるがままのここでのわたしたちなのです。決して純真無垢ではなくても、そうであるからこそ「子どもであるということは、手を差し出すこと」、共に生きる人を求めて、受け止めてくださる方を求めて手を差し出す、主イエスに手を差し出すのです。しかし、それはよく言われる苦しい時の神頼み、そのような安易な、単なる気休めのようなことではありません。わたしたちの生きる力そのものなのです。

その上で最初の出来事での主イエスのお言葉、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。9従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」、この主イエスの言葉を考えましょう。まず、このイエスの答えの第一の意図は、単なる「離婚」の是非の問題などではなく、イエスがここではっきりと否定しているのは、夫による「離縁」の問題、夫、つまり男による横暴、身勝手な論理です。それ故、「神が合わせたものを、人は離してはならない」とは、まず「被造物である男が勝手に離してはならない」と言っておられのです。

しかし何より大事なのはここで主イエスは「神がつなぎ合わせたものを、人が分離してはならない」(9節)、明確にそうお答えになっていることです。この「神がつなぎ合わせた」という「つなぎ合わせる」という言葉は、もともとは「くびきにつなぐ」という意味の言葉です。くびきというのは、本来畑を耕すために牛やロバなどの二頭の家畜の首と首をつなぐ道具のことですが、実はこの「くびきにつなぐ」、共に「くびきを負う」ということは、実は単に夫婦観、結婚観だけに限って言われるべきことと言うより、実は人間の存在の在り方そのものに関わっていくことです。わたしたちは、「くびきにつなぐ」「くびきを負う」と聞いただけで、何か束縛され、自由のない生活だけを思い浮かべてしまう、だからわたしたちにとって自由とは、このくびきのようなものをなくすことにある、そんな風に思っているわけです。しかし自由とは、むしろ、わたしの人生のくびきを喜んで負えることにある。つまり、人間は、たとえ王さまであろうと奴隷であろうと、男であれ女であれ、老人であれ若者であれ、大人であれ子供であれ、結婚していようとしまいと、この地上に生まれた限りどんな人でもくびきを負うているのだと言っていい。つまり、くびきを負うとは、先の「子どもであるということは、手を差し出すこと」、そのような者として生きることです。

また「くびきを負う」こと、それは同時に、その人その人なりに生きる目的と、そのためにすべきことが与えられている、ということです。わたしたち一人ひとりには能力の違いもある、あるいは身体的、また環境などの条件の違いが当然あるでしょう。しかし、根本のところでは、それらのわたしの能力や条件に一切よらない、いわばその人がその人である、たとえどんな悪人であったとしても、あるいはどんな障害、ハンディを負っていようと、その人なりに、その人にしかない生きる目的と、そのためにすべきことが与えられている、それが人間なんだということ。

でもわたしたちはしばしばそのことを見失います。一体何のために自分は生きているんだろう、何で私はこんなことをしなくてはならないんだろう、あるいは一体何で私だけがこんなことをしなくてはならないのか、こんな目に遭うんだろう、そう思うことの方が多いのです。そのとき、わたしどもはいわばひとりでくびきを負っている。あるいは自分のためだけを考えて負っている。それが「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と主が言われ給うことです。しかし、くびきとは誰か自分以外のものと共に負うものです。「手を差し出すこと」です。

自分ひとりでそれを負うならば、それはただ重荷に過ぎないものになる。しかし、くびきとは最初に申し上げたように、自分以外の者とつなぐもの、つながるものです。「手を差し出すこと」です。誰かが共に負ってくれるから負える、軽くなる。つながっているからこそ、わたしはわたしでいられる。そして、わたしのためにくびきを負うてくれる人がいる、それ故、わたしはわたしでいられるのです。だから、そのくびきを重荷とし、苦しみとするもの、それは「くびき」重荷そのものではなく人間の「心の頑なさ」なのです。そして、「心の頑なさ」とは、固さと同時に脆さという意味ももっている言葉です。

もうお気づきのことと思います。これらの言葉の背後におられるのは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28以下)、そのように招いてくださる、共に負ってくださる主イエス・キリストなのです。四国のお遍路さんは、巡礼を同行二人と呼ぶそうですが、まさしくそのようにわたしと一体となり、すなわち「くびきにつなぎ合わさり」、一緒に歩いてくださる方、それが主イエスなのです。そうしてこれらの離縁問答に続いて、イエスが子供を祝福した話につながっていくのです。

ところでみなさんの中には旅行、旅はお好きなお方も多いでしょう。旅行は楽しいものです。しかし、そもそも旅をあらわす英語のトラベル、あるいはフランス語のトラヴァーユの語源は、実は苦しい目に遭う、骨を折る、と言う意味のラテン語から来ているのです。それは、昔、教会に対して何か罪を犯した者を、そこから遠いところにある教会に行かせ、そこで礼拝して改心させる、そう言う苦行、回心の旅から来ているのだそうです。文無しで行かなければならないので、それこそ苦労の連続であったでしょう。でも、本当に困ったときに、宿を貸し、食べ物を分けてくれる人に出会う。そうしたことが改心につながったのでしょう。人生もまさに旅、トラベル、トラヴァーユです。主イエス、このお方に出会い、手を差し出し、このお方とと共に歩む旅なのです。

「子どもであるということは、手を差し出すこと」、人は誰も「手を差し出す」者となる、どうすることもできない苦しみの中で泣きながら悲しみの中で、痛みの中で手を差し出していいのです。そこでこそ喜んで神の愛、この主イエスの懐の中に身を任せること、そこに立ち上がっていく力があるのです。

2009年10月4日 聖霊降臨後第17主日 「自分自身の内に塩を持て」

マルコ 9章38-50節
大和 淳 師

ヨハネがイエスに言った、「先生、あなたの名の中で悪鬼を追い出している者を見ましたが、わたしたちについて来ないので、禁じました」。
しかし、イエスは言われた、「禁じてはいけない.わたしの名の中で力あるわざを行なったすぐ後で、わたしを悪く言うことのできる者はいないからである。
わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である。
だれでも、あなたがたがキリストのものであると名乗っているゆえに、あなたがたに水一杯を飲ませてくれる者は、まことに、わたしはあなたがたに言うが、決して自分の褒賞を失うことはない。
だれでも、わたしの中へと信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きな石うすを首にくくられて、海の中に投げ込まれるほうがましである。
もし、あなたの片手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい.両手を持ったままゲヘナに、消えない火の中に行くよりは、片手で命に入るほうがよい。

もし、あなたの片足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい.両足を持ったままゲヘナに投げ込まれるよりは、片足で命に入るほうがよい。

もし、あなたの片目があなたをつまずかせるなら、それを捨てなさい.両目を持ったままゲヘナに投げ込まれるよりは、片目で神の王国に入るほうがよい.
そこでは、うじは死なず、火は消えない。
なぜなら、人はみな火で塩味をつけられなければならないからである。
塩は良いものである.しかし、もし塩が塩味を失ったなら、何によって塩味を取り戻すのだろうか? 自分自身の内に塩を持ちなさい.そして互いに平和でありなさい」。

子供の頃、わたしの家の裏は田んぼが広がっていた田舎なのですが、田んぼにあぜ道があります。あぜ道ですから狭い。それで、その狭いあぜ道を自転車でよく走ったのですが、あるとき、田植え前の泥の水たまりのような田んぼの中に転げ落ちるんじゃないか、そう思ったとたん、急に怖くなって、真っ直ぐ走らなければ、走らなければとバランスを取ろうと思えば思うほど、腕が緊張してふらふらしてしまう。そして遂にバランスを失って道をはずして泥の田の中に落ちてしまったことがありました。それと同じように、わたしたちの中には、こうなってはいけない、こうしなくては、そう思えば思うほど思うに任せなくなる、そういうことがあるのではないでしょうか。

さて、今日の福音書、弟子のひとり、ヨハネが「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」、そうイエスに言ったことから、それに対する主イエスの言葉が記されていくのですが、ともかく発端となったのは、イエスの名でした。とは言え、そもそもヨハネは何でそのようなことをここで主に報告したのでしょうか。今日の箇所の直ぐ前、34節で、弟子たちが「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」ことが記されていますが、要するに弟子たちの内部、内輪の間で争いがあった。そして、今日の38節以下では、今度はその弟子たちと外部、彼ら以外の者との争いがあったことを福音書は記しています。すなわち、「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」という言葉がそのことを示しています。ところでヨハネは、「主よ、イエス様、あなたに従わないので、あなたを信じないのでやめさせようとしました」とは言わず、「わたしたちに従わないので」と言うのです。そこには自分たちは既にイエスに従っているんだという優越感、あるいは独善的・排他的な意識が働いていると言えるでしょう。

そして、このヨハネの報告から、弟子たちがその人に「勝手にイエスの名を使ってはならん。使うなら、我々に従え」と高飛車に言ったであろう、そんなやり取りが目に浮かびます。ともかく彼はいきり立って、憤懣やり方ないでいたのでしょう。しかし、このヨハネ、弟子たちは気づいていないのです。「俺たちに従え」と言っている、自分に従わないと憤っている、それは「イエス」の名を自分たちだけが使っていい、権利をもっているかのように、まるで「イエス」が自分のものであるかのようにしていることであることを・・・。

それ故、主は「やめさせてはならない」とおっしゃるのです。その人をやめさせるな、と。主イエスの名を使うままにさせておけ、と。そして、「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。つまり主人、主なのは「わたしの名」であって、あなたがたではないのだ、と。主イエスは、ちょうど「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」弟子たちを叱責することなく、子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き上げ、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」、そのように諭されたのと同じようそこにおられます。

しかし、それにも関わらず尚「わたしたちに従わない」と尚自分たちの優越性、排他性を捨てきれない、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という主イエスの言葉を理解しないこの弟子たち、そこには、わたしたちは従ってきた、そんな思いがあるのではないでしょうか。たとえ100パーセントとは言わなくとも自分の意志、自分の力でここまで従ってきたのだという思いがあります。そのように自分たちは従ってきた、。自分たちにはまことの神、メシアを見る眼がある、だが、あの主の名を勝手に使っていたあいつにはない、と。

他人事ではありません。わたしどももまたひたむきであればあるほど、いわばそのようなひたむきさは自分が育成したかのように、少なくとも、自分だけに真実、真理がある火のように思い込んでいくのです。熱心であればあるだけ、真剣であればあるほど、このヨハネのように優越感、独善性をもっていくのです。そして、思い通りにならないときに、その思い通りにならない自分とは反対の者に憤るのです。自分を振り返るとまことに恥ずかしいことですが、それはまたこのわたしな自身なのです。自分たちの間で争い、そして今度は自分たち以外の者と争うこの弟子たちそのままです。福音書は、このヨハネの「わたしたちに従わない」の「わたしたち」を強調している、それは先ほどまで自分たちの間で言い争っていた彼らが、つまり「わたし」「わたし」と言っていた彼らは今度はいわば自分たちより下の者、少なくとも彼らにはそう見える者、よそ者に対しては「わたしたち」「我々」と結託している、そんな身勝手さを暗示しているのかも知れません。でも、それは本当にわたしたちの間でもよくあることです。

しかし、主イエスは何と柔らかく彼らを受けとめてくださっていることでしょう。それ故、ヨハネや弟子たちは「この方は従わないあんな勝手な連中に対して何て寛容なんだろう」、そう思ったかも知れません。しかし、主が寛容なのは、従わない人々に対してよりも、何より彼らに対してなのです。わたしが憤る相手に対して寛容なのではなく、ほんとど常にその憤っているわたしに対して寛容なのです。あの人を何とかしてください、とわたしたちは言うのですが、何とかしなくてはならないのはわたしたち自身なのです。しかし、何とかしようとすればするほど、この弟子たちのようにはずれてしまうわたしたちです。

インドにこんな話があるそうです。森の中に一巻きで体をバラバラにしてしまう恐ろしい巨大な蛇が住んでいた。ある日、ひとりの木こりがその蛇と出会ってしまった。木こりは逃げ出した。すると蛇は追いかけてくる。しかもどんなに逃げても蛇はずっとついてくる。ここで疲れ果てたら捕まり殺されるだろう。そこで木こりは、蛇と闘うことを決心し、刀を抜いて切りかかる。ところが、蛇は、刃を振り下ろすとひょいと反対方向に動く。またその頭めがけて振り下ろすとまた反対に素早く動く。その繰り返しでいくら切りつけても蛇には刃は届かない。そこでまた木こりは逃げ出す。しかし同じようにどんなに逃げても蛇は追いかけて来る。もうだめだ、木こりはすっかり絶望してへたり込みそうになったとき、その森に昔から住んでいた老人に出会った。そこで木こりは「どうしたらいいのでしょう。いくら逃げようと思っても逃げられない。戦おうと思っても刃は当たらない。どうしたってこの蛇にはかないません」と老人に訴えると、老人はこう答えた、「落ち着いて考えるがよい。人間はこんな蛇に勝てる訳がない。戦えば必ず負けるだろう。どんなに逃げても、蛇の方が走り続ける力が強いのだから、逃げ切れる訳がない。助かる方法はただ一つしかない」。木こりは「教えてください。どうすればいいのかを」と言うと、老人は「それは逃げるの止め、戦うの止め、蛇の傍らに身を寄せて、蛇と一緒に歩くことじゃ」と答えた。そういう話です。

イエスの懐に抱かれた子供のように生きる、それはまさにこのお話のようなことではないでしょうか。今日の日課の最後、50節で主イエスは「互いに平和に過ごしなさい」とおっしゃっています。このわざわざ「互いに平和に過ごしなさい」とおっしゃるのは、わたしが平和に過ごすことの出来ないものと平和に、ということです。つまり、蛇から逃げるの止め、戦うの止め、蛇の傍らに身を寄せて、蛇と一緒に歩くようなことではないでしょうか。それは諦めて生きることとは違います。無関心、無責任になることでもないのです。むしろ、傍らに身を寄せて、一緒に歩くその決意が生まれたとき、真に、相手に、病気や老い、あるいは問題、苦しみに立ち向かっていくことが生まれる、克服していく最後のそして唯一の道なのではないでしょうか。

まさにその突破口が、ここで「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ました」という最初に出てくるイエスの名です。それは37節でも「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」、「わたしの名のために・・・・受け入れる者」と言われていました。そして更に41節の「キリストの弟子だという理由で」も、原文を直訳すれば「キリストにある者の名において」となのです。そして、37節の「子供のひとり」に対応するように、ここでは「わたしを信じるこれらの小さい者のひとり」と言われています。イエスの名は、常に幼な子、小さい者に結びついているのです。子供、小さな者、それは、要するに取るに足らないと見られる、無力な者のことでしょう。
わたしたちキリスト者は、この方の名によっていつも祈ります。「主イエス・キリストに御名によって」と祈ります。それはこの主の御名は、わたしたち自身を小さき者、あの子供ような者とし、いわば無力になって病気や老い、あるいは問題、苦しみに傍らに身を寄せて、一緒に歩いていかせる力なのだ、そういうことではないでしょうか。

何より、この「主イエス・キリストに御名によって」とは、わたしは、私はその懐に抱かれた子供のように、このイエスと、したがって神とひとつだということなのです。それ故、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42節)と言われるのです。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」と、「もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」、「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい」と。しかし、これらは逆に言えば、「両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあず」かれ、「片足になっても命にあずか」れ、「一つの目になっても神の国に入」れ、ということです。「片手になっても」わたしと共にだけいよ、「片足になっても」わたしのふところにあれ、「一つの目になっても」わたしから幼子のように離れるな、ということです。病気や老い、あるいは問題、苦しみに傍らに身を寄せて、一緒に歩いていけ!、それは主の御名によって生きることなのです。離れないことです。

しかし、それではただ不安と苦しみだけがあるのでしょうか。わたしたちの眼には、あの傍らにいる、一緒に歩いている蛇、それがいつ襲ってくるか、そう思ったら耐えられないような不安に襲われるでしょう。バランスを取ろうとハンドルに力を入れれば入れるほど、自転車は真っ直ぐに走れなくなるでしょう。しかし、ここでそのように厳しい言葉をお語りなっている主イエスは、あの子供を真ん中に置き、そしてそれから腕に抱いた主イエス、そうして「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」、そう言われ給う主なのだ、その懐に抱かれた子供とは、まさしくわたしたち自身、それがあなたなのだ、そのイエスに抱かれているわたしたちである、導かれているわたしたちなのだ、そのイエスの懐に抱かれた子供のように、これらの主の言葉を聴きなさい、と言うことです。
それゆえ、主は最後にこうおっしゃることも理解できるのではないでしょうか。「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。

「自分自身の内に塩を持て」。塩は、塩のままでは塩の役目はしません。また利きすぎても味を駄目にするでしょう。いずれにせよ、塩はわたしにとって全く別の味、なめれば辛い、異質なものです。しかし「自分自身の内に塩を持て」、あなたの内に、わたしとは異質なお方、キリストをもつ、言い換えれば主に抱かれて生きる、それが「自分自身の内に塩を持つ」ことです。人生の味が変わるのです。自分の力で病気や老い、あるいは問題、苦しみに傍らに身を寄せて、一緒に歩いていくのではないのです。

主は、43節からのあの厳しい言葉の最後、その締め括りとして、だから自分で片手を、片目を切り取れ、眼を抉り取れ、そう言われるのではないのです。そうではなく、「自分自身の内に塩を持て」、あなたの味を変える「塩」があなたにあるではないか、ただ苦しいだけに思える、それ故逃げ出したり、打ち勝たなくてはならない、ただそう思っていたものを喜びに変える塩があなたにはあるではないか、と。それがいと小さき者の名、主イエスの御名なのです。だから、一人でがんばらなくてもいい、無理に無理を重ねていかなくてもいい、負いきれなくなったなら、祈れ、わたしの名によって!

あえて言えばどんな祈りをささげてもいいのです。こんなことを祈ってはいけない、そんなことは何一つないのです。詩篇の中には、敵、つまりあんな奴は滅ぼしてくださいという祈りさえあるのです。でも、わたしたちは主イエス・キリストの御名によって祈る。最後に祈る。それはどんな祈りでも、わたしを小さくする祈り、神さまの懐に抱かれて祈りを終えるのです。