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2014年3月23日 四旬節第3主日 「我が魂は主を慕い求む」

ヨハネによる福音書4章5〜42節
木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「ツイッターで自分の悪口を書かれ、腹を立てた」。そんな動機から起こる様々なトラブル、果てには殺人事件、殺人事件、そんなニュースを日常的によく聞きます。悪口を書いた方も、書かれた方も、両者の間には深い憎しみが背景にあるのでしょう。その憎しみが殺人という形で現実のものとなってくる。そんな悲劇が起こる前に、彼らの深い憎しみを止めるもの、和らげるもの、治めるものは何かなかったのかと、私たちは考えさせられます。

どんなに物質的に豊かであっても、満たされ、潤っていても、私たちは渇きを覚える存在であり、常に潤いを求める存在であります。潤いが満たされず、渇いたままでいますと、脱水症状を起こし、生き物の生死に関わります。また、肉体的な渇きだけではありません。精神的な渇き、すなわち心、魂にも渇きを覚えます。憎しみ、悲しみ、孤独、不安、疑い、無関心。傷つけられ、罵られ、愛されない・・・他にも数え切れないぐらい多くの魂の渇きを私たちは覚えるのであります。それらの渇き故に、魂が脱水症状を起こし、死の危険にさらされた時、自分の理性や意思はコントロールが効かなくなります。自分自身を見失うのであります。

私たちはそのような肉体的にも精神的にも多くの渇きを覚えて生きている、時には脱水症状を引き起こして、苦しみます。自分の渇きを満たすもの、潤ってくれるものは何でしょうか。何を思い浮かべるでしょうか。自分自身でそれを知り、見つけているでしょうか。聖書は人間の渇きを真に満たすものを私たちに啓示しています。それが、今日の福音書にある主イエスが与えてくださる「生きた水」であり、永遠に渇かぬ命の水であります。私たちはこの水、真の渇きを潤ってくれるこの命の水をどのようにして受け止めて行けば良いのでしょうか。ご一緒に御言葉から聞いてまいりたいと思います。

主イエスと弟子たちはユダヤを去り、ガリラヤに行く途上で、サマリア地方に足を運び、休息を取っていました。正午ごろの時間でした。パレスチナ地方は熱帯の地でありますから、この時間帯はものすごい炎天下で、誰一人そのような暑さの中、外を歩く人などいなかったでしょう。主イエスも日差しを避けるために、井戸のそばで休息を取っていたのだと思います。そこに一人のサマリア人の女性が、通りがかりました。主イエスは彼女に声をかけ、渇きを満たすために、一杯の水を願い出ますが、彼女は大変驚くのです。サマリア人とユダヤ人の先祖は同じイスラエルの民でありますが、当時サマリアとユダヤは敵対関係にあり、その憎しみ故に、お互いの交際、交わりは全くなかったと言えます。だから、ユダヤ人の主イエスからそのようなお願いをされること自体、彼女には主イエスの行動が全く信じられなかったのです。なぜ何の関わりもない私に、しかも敵である私に声をかけたのか。

彼女の質問に対して主イエスは答えます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(10節)水を飲ませて欲しいと頼んだ私が誰であるか分かれば、あなたの方から求めてくるはずだと主イエスは言うのです。私が誰であるかというこの主イエスの問い、その問いから彼女は主イエスがユダヤ人であるということしか分からなかったと単純に推測できますが、主イエスはなぜ敵であるサマリアの女性にこのようなことを言われたのでしょうか。主イエスが彼女と出会った時、声をかけたのは主イエスの方からです。それもただ声をかけたということではない、主イエスは真に疲れ果て、喉に渇きを覚えていたのです。敵対する者の前で、そのような人間としての弱さ、あたかもすぐに襲われてもおかしくないような状況の中で、声をかけたのです。主イエスの方から声をかけ、水を要求したけれど、実は主イエスこそが彼女の渇きを知っていたのでした。その渇き故に、私からではなくあなたの方から渇きを満たすために頼んでくるはずだ、求めてくるはずだと。あなたが真実の神様からの賜物、恵みを知り、受け取れるならば・・・。そう、彼女はその状況になかったのです。自分の真の渇きを潤す、満たす水を知らなかったのです。そんな彼女の、渇きという心の空洞の只中に、主イエスは入っていかれたのです。水を飲ませてくださいと、自らも彼女と同じように、渇きの空洞の中に立たされたのであります。自らが生きた水として。

主イエスが言われる生きた水、それを彼女は理解できませんでした。ユダヤ人とサマリア人の共通の先祖、ヤコブが与えてくださったこの井戸の水で、多くの子孫と家畜たちは生きながらえてきた。井戸の深さもさる事ながら、この井戸からもたらしてくださる水も、そのような長年の歴史を経て、恩恵も深いのです。まさにヤコブの井戸からは生きた水が湧き出ているのです。今の私もこの水で生きている。あなたが与えてくださる水は、この井戸の水よりも恩恵深い生きた水なのか、どこからそんな水を手に入れるのか。先祖ヤコブよりもあなたは偉いから、そのようなことができるのかと彼女は問います。主イエスは言います。あなたが飲んでいるその井戸の水は、恩恵深いその水を飲んでも渇きは避けられない。渇きを覚える水であって、生きた水ではないと。私が与える水は違う。私が与える水は渇かない、渇きを覚えない生きた水である。それはなぜか、この水を与えられる者は、その人の内で泉となって、永遠に湧きい出る水となる、渇くことのない命の水となるからだと主イエスは言われるからです。彼女は、その水を求めますが、それはもうこの井戸まで、人目を避けて水を汲みに来なくてもよくなる、そのような便利な水に見えたのです。しかし、主イエスは「その人の内で」とこう言われたのです。どこか具体的な場所を指し示されたのではない。どこか特別な水脈源を教えたわけでもないのです。その永遠に渇かぬ水はどこに湧きいでるのか、それはまさしく私、主イエスという生きた水を知り、受け取る者、その者の内で湧きいでるのだ。すなわち、主イエスは今、この生きた水を、彼女の内に、心の空洞の只中で、湧きいでさせようと、彼女を招いているのです。いや、むしろ、既にこの招きは起こっていたのです。主イエスが渇き、彼女に水を求めた頃から、彼女の心、魂の渇きの元に主イエスはおられるのです。いてくださるのです。そして、この主イエスという生きた水の水脈源を、彼女の心、魂の渇きの元に造られようとされているのです。

されど、彼女は直、この生きた水を理解しません。彼女が自分の真の渇きに気づかないのです。主イエスは彼女の、真の渇きに生きた水を、その水脈を造るために、彼女の渇き、彼女の夫との問題に触れていきます。彼女にはこれまでに5人もの夫がいました。単に分かれたのか、死別したのか、またどのような夫婦の歩みを成していたのかわかりませんが、誰にも言えない深い事情があったのでしょう。今連れ添っている人は、夫ではないということです。彼女が夫婦関係、夫婦生活の中で、5人も夫が変わっても、むしろ変わり続けるからこそ、常に渇きを覚えていた。幸せな夫婦生活に渇いていたのかも知れません。具体的な背景はわからなくても、ここに彼女の深い悲しみ、孤独があります。主イエスはそんな彼女を、どういう事情があったかを深入りさせるようなことは言われない。彼女の人格を否定し、叱り、裁くようなことは言わないのです。彼女は主イエスに答え、主イエスは彼女に「あなたはありのままを言っただけだ」と言われたのです。心を開いて、ただありのままに、本当の自分をさらけだした。主イエスという神の御子、生きた水を与えてくださる方のみ前で、自分の真の渇きに彼女は気づくのです。真に渇かぬ水を知り、求めていくようになるのです。主イエスは、そのありのままの彼女を、ありのままにただ受け取めておられるのです。なぜ主イエスはそのように受け止められるのか、それは主イエスが彼女を愛しているからにほかなりません。そして彼女の渇きを、自らの渇きとされ、共におられるからです。

そして彼女は、真剣に神様との交わりを求めます。なぜか、それは自らの渇きは、夫が変わったところで、ヤコブの井戸から水を汲み飲んだところで、満たされるものではなく、また。根本的な渇きが起こるのは、神様から離れて、自分の渇きを自分で満たしていこうとするからであると気づかされるからです。それでは満たされない、絶対的な渇きには気づかないと思い知らされる。彼女は、自分自身、人間の真の渇きを知っておられる、受け止めてくださる方と出会ったのです。自分の渇きの只中に入ってきてくださった主イエスによって、彼女は開放されていくのです。

神様との交わり、礼拝を通しての交わり、その礼拝すべき場所はエルサレム、自分と敵対するユダヤ人の神殿の中にしかないと彼女は思っていました。それはあたかも自分は神様との関わりからはかけ離れている、ふさわしくない自分の姿があると、自覚しているかのようです。されど、主イエスはまことの礼拝について彼女に言います。場所とか自分のあり方とかは関係ない、まことの礼拝とは霊と真理をもって父を礼拝することであると。それは真に神様と向き合って、ありのままの自分と向き合う時であるということです。そして主イエスは今こそがその時であると彼女に言いました。彼女は既に礼拝に招かれ、神様との交わりの中にある、そこで生かされている。既に神様からの賜物、恵みはあなたに向けられている。あなたはその真実を知り、ありのままに私に委ねなさい、求めなさい、私の愛の中で生きなさい、私はあなたを決して見捨てないと、主イエスは彼女に愛の眼差しを向けているのです。そして彼女はいずれ来る、メシアというキリスト、救い主を待ち望みますが、主イエスは自らの存在を彼女に、今お示しになられたのです。彼女は主を求めて、また主の救いを、このありのままの自分を受け入れて、生きた水を自分の内に湧きいでてくださる主の愛、この喜びを人々に伝えていくのです。

主イエスと出会ったあの正午の時間帯、あたかも人を避けていた彼女は人が変わったかのように、彼女は新しい歩み、真に生きた水を受け入れて、新しい生命に生きていくのです。もはや井戸の水を汲む水がめは必要ないのです。自らの渇き、それは不安、苦しみ、悲しみ、孤独の中に、主が来られ、永遠に渇かぬ生きた水として、共にいてくださるからです。彼女はこの恵みを受け入れたのです。ありのままに、自分の存在を主に委ねて。

詩篇42編2節にこういう歌があります。「枯れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、私の魂はあなたを求める。」
この魂という言葉は原語(ヘブライ語)で調べて見ますと、もとの意味は「喉」という意味です。鹿の喉が渇くように、人間の魂も渇くということです。喉が渇いて飲み水を求めるように、神様を求めるということも、そのように魂が渇く、喉がかわいて飲み水を求めるように、神様との交わりを求めるということであると、詩篇の作者は思いを込めてこのように美しく歌っているのです。

この礼拝において、私たちは主に出会い、交わりが与えられています。生きた水、それはまさに御言葉を通して、あなたの魂に注がれています。命の水として、あなたの中に主がおられ、渇くことがない永遠の命の水は湧き出ているのです。サマリアの女性が水がめを置いて、人々のところに行ったように、私たちもこの生ける水が与えられています。神様は私たちの渇きを知っておられます。だから、私たちを招いてくださる。神様の方から、この礼拝に招いてくださるのです。

この神様からの賜物、主イエスという生きた水を受け取り、そこから始まる新しい生命に生きてまいりましょう。渇きだらけの世界に生きる私たちですが、私たちは誠の渇きを満たしてくれるものを知っています。喉が渇いて飲み水を求めるように、私たちは、私たちの魂は、主を慕い求めるのであります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年11月3日 全聖徒主日 「神は生かす」

ヨハネによる福音書15章1〜17節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日は全聖徒主日の礼拝を守っています。教会の伝統では、11月1日が「諸聖人の日」として守られていますが、「聖人」という概念は、16世紀の宗教改革以前の教会(カトリック)におきましては、敬虔な信仰に生き、善行を積んで社会に大きく貢献した徳の高い人(聖人崇拝)を指します。宗教改革者たちはその概念を取り除き、キリスト者は全て聖人(聖徒)であると主張したので、プロテスタント教会では聖人崇拝と言う信仰はなく、ルターが言うようにキリスト者は全て神様の御前において「義人であり同時に罪人」でありますから、人間の善行や働きによって、信仰者としての区別が成されるという概念はないのです。

さて、この全聖徒主日礼拝におきまして、私たちの教会は先に天に召されました故人を覚えて、お祈りを致しますが、召された方はどうなったのかという疑問があります。本日礼拝後に地下納骨室の祈祷会で読まれます聖書の箇所でもありますが、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4章13~14節で「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」とパウロが言いますように、神様の御許で眠りにつき、やがて「イエスと一緒に導き出してくださいます」とありますように、復活の初穂となった主イエスに続いて、死者が眠りから覚め、復活に与ることが約束されています。

では、私たち日本人にとって極めて重大なことでありますが、洗礼を受けずして亡くなられた人、キリスト教以外の葬儀でお葬式をした人はどうなるのかという問いがございます。教会は長年この問いに、明確な答えを見出すことはできなかったそうです。ですから、クリスチャンでも牧師でも、答えるのに苦悩するということがよくみかけられます。ただ一つ確実に言えることは、私たちが答えようにも、人間の側には答えを知るということは事実不可能なことであるということでありますが、「答え」ではなくて、「信じる」ということ、「委ねる」ということが、ひとつの答えであると言えます。テモテの手紙Ⅰ2章1-4節にこういうことが記されています。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」4節にありますように、すべての人々が救われるということを神様は望んでおられるということ、そのために1節で願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさいと聖書は記しているのです。「執り成し」とあるように、神様にお委ねするということであります。カトリック教会では、第2バチカン公会議において定められた文書である教会憲章第16条に基づいて、次のように理解しています。「彼らは、「まだキリストの福音と教会に出会っていないので神を知らないが、誠実な心を持って神を探し求め、自分の良心を規範として神の意志を生きてる人々」なのです。神は、彼らの救いに対して必要な助けを与えてくださいます。ここで「自分の良心を規範として」とありますように、その故人の良心に神様は働きかけ、導いてくださるということであります。

ですから、死後において、キリスト者であったからどうなったか、キリスト者でなかったからどうなったかということを認識するのではなく、私たちが本日この全聖徒主日の日を守るということは、キリスト者であろうとなかろうと、共に愛する故人を覚えるということにおいて、故人がただ神様の御慈しみと愛のご支配の下におられるということに委ね、信頼して、祈りの時を持つということなのであります。しかし、それだけではありません。愛する故人の信仰、またその支えを通して、今を生きる私たちの歩みについて、神様は御言葉を通して、私たちに語りかけておられるのであります。

今年の全聖徒主日に与えられた福音は、主イエスのぶどうの木のたとえ話であります。5節で主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言われておりますように、主イエスがぶどうの木で、信仰者たちがその木につながっている枝であると言うのです。主イエスというぶどうの木に繋がることによって、木からの養分を受け、豊かな実を結ぶことができる、木に繋がっていないと、木からの養分を受け取ることができず、枯れてしまうというのです。このたとえ話はわかりやすく、多くの人に愛されている箇所でありましょう。主イエスという木にただ枝として繋がっていれば、実を結んでいられるという安心感がある、また豊かな人生を歩むことができる、なんとなくそんな思いを抱くからであります。しかし、このたとえ話の冒頭は、主イエスと信仰者との関係ではなく、神様と主イエスとの関係から記されています。1節を見ますと、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」とあるように、主イエスがまことのぶどうの木、父なる神様がその木を植え、養い、育てられる農夫であるというのです。「まことの」というからには、特別な意味が込められています。主イエスこそ、神様の御子として、神様の御心をこの世界に示されるために遣われた救い主、まことのぶどうの木であるということ、その枝に繋がるということを通して、私たちは父なる神様からの恵みを知ることができるということなのです。

さて、2節で主イエスはこう言うのです。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」と。主イエスというぶどうの木に繋がっていれば豊かな実を結ぶ、安心だと思っていた思いがここで崩されるのです。「実を結ばない」ということが起こりえる、そうすると父なる神様である農夫がそれを取り除くというのです。5節の言葉と矛盾しているのでしょうか。主イエスに繋がればと言いますが、主イエスに繋がるとは具体的にどういうことなのかということがはっきりしていないと、ただ単に、絶対に実を結ぶ、安心だという思いを抱くだけで、あたかも何か御利益的な思い、都合のいい神の像を人間が抱いてしまうということではないでしょうか。主イエスに繋がるということは、その枝が取り除かれるという前提を含んでいるのです。しかし、2節の後半には「しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」と言うように、実を結ぶものは、より豊かに実を結ぶことができるように、農夫である神様が手入れをしてくださるというのです。そう聞きますと、あたかも実を結ばない枝と結ぶ枝という2種類の存在があるかのように、私たちもその2種類の内のどちらに属するのかと不安な思いを抱くかと思います。しかし、ここで農夫が実のならない枝を取り除くということは、神様が罪を取り除くということに示されているのです。神様がその罪なる枝を取り除き、より良い実を結ぶことができるようにと、手入れをなさるのです。ですから、罪ある枝、罪なき枝という2種類の枝があるのではなく、全て罪ある枝、そのままでは実を結ばない枝という私たちの存在があるのです。そこから手入れをしてくださる、それはどのようにしてかと言いますと、3節で「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」とあるように、わたしの話した言葉、すなわち御言葉によってということです。清くなっているというのは、2節の手入れをなさるという動詞と同じ言葉が使われています。2節の後半を口語訳聖書で読みますと、「手入れしてこれをきれいになさるのである」とありますように、神様が枝である私たちを、御言葉を通して清めてくださるというのです。それが「洗礼」に顕されているのです。そう、私たちの交わりは、まさに主イエスに繋がる枝のように、御言葉によって実を結ぶ者たちの群れであります。御言葉が聞かれるところに、キリストがおられ、私たちはその証人として、キリスト者、聖徒としての歩みを成しているのであります。ですから、先に召天された方々だけでなく、地上に生きる私たちもまた、聖徒としての歩みに神様から招かれている。地上に生きる者も御国におられる方も、主イエスと言うまことのぶどうの木を通して、繋がっているのであります。

パウロが「罪の報酬は死である」と言ったように、私たちは今ここに連なる召天者の皆様を偲びつつ、私たちもまた地上での生涯を終える「死」をいずれ経験致します。農夫が枝を取り除かれるかのように。しかし、農夫である神様はより豊かに実を結ぶようにと、私たちを清くしてくださる、手入れをしてくださいます。死の先があるのです。より豊かな実を結ぶという復活の実に与ると言うことを、神様はこのたとえを通して、私たちに語っておられます。それは何よりもこの主イエスという真のぶどうの木に繋がるということを通して、私たちがこの主イエスの十字架と復活を仰ぎ見ると言うことに、神様の救いが私たちに語られているのです。主イエスは十字架の死から復活という希望を私たちに示されました。死が終わりではない、死の先にある復活という希望のメッセージを、この聖書の御言葉を通して、また先に召された信仰の先達者たちの証しを通して、今を生きる私たちに伝えています。そして、良い実を結ぶ、それは人生における美談、成功話ではなく、あなたの人生が、破れ多く、困難にさらされつつも、真に生かしたもう神様の慈しみの中において生きる、生きているというあなたの存在自体がこの豊かな良い実、美しき実であるということであります。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。主イエスに繋がり、真に私たちを生かしたもう神様の恵みに生きる時、私たちはこの世、また自分を基準にした価値観に縛られず、与えられた命をあるがままに生きるという明日を見出して、今を精一杯に歩んでいく。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」救いは私たちが求める以前に、神様の先行する意志に基づくのです。主があなたを、ぶどうの木に繋がる枝に招いています。愛する故人の救い、故人との結びつきは、主イエスと言うまことのぶどうの木を通して、地上に生きる私たちに、真実な出来事として、聖書は証ししております。そして、私たちは神様が招かれるこの礼拝を通して、この真実を体現しているのであります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年10月27日 宗教改革主日 「自由な愛」

ヨハネによる福音書2章13〜22節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

東京分区に連なる姉妹教会の皆様と共に、この宗教改革主日の礼拝を守る時が与えられましたことを感謝致します。宗教改革、これを一言で言うなれば、「信仰の改革」であります。救いは信じることによって、いわゆる「信仰義認」という言葉が特に私たちルーテル教会の骨格となっている教えであります。信仰義認に対して、「行為義認」という言葉があります。行為、行動することによって救われる。中世キリスト教会の風習に従えば、神様に、またこの世に(社会に)「善行を積む」という教えであります。信仰がないがしろにされているわけではありませんが、ルターの生きた時代は特にこの傾向が強かった。今の時代みたいに人々の識字率が高くはなく、人々はラテン語の聖書を読むことが出来ませんでしたから、聖書の信仰に立つこともできませんでした。彼らの救いの指針となったのは、教会という「場」であり、聖人たちの善行でありました。彼らを模範とした生き方、善行を積み、道徳的な生き方が求められていた時代の中で、宗教改革は起こりました。しかし、宗教改革は、それらの風習を真っ向から否定する改革ではありませんでした。そうでなければ、人々があれだけ熱狂したことにはならなかったはずです。善行を積み、道徳的な生き方が求められるというのは、1つの秩序です。この秩序が崩壊しかけていたということです。その中の一つで、教会の聖職者たちの堕落ということがあげられます。有名な贖宥状(免罪符)の問題です。これもひとつの問題です。生涯において、善行を積めず、早死した者は、その罪の故にそのまま天国に行くことはできない(煉獄思想)という教えの背景から、教会が発行したこの贖宥状を買えば、先に死んだ者でも、罪が免除されて、天国に行ける、救われるというものです。お金で解決されるということです。明らかに商売目的でこの贖宥状が発行されていた時に、有名な「95箇条の提題」がルターによって、1517年10月31日に、ヴィッテンベルグの城教会に張り出され、人々に大きな反響を及ぼしたのです。ですから、罪が赦される。救われるということを真剣に求め、神学的な論争にまで発展したのが宗教改革であり、その過程の中で、「信仰によって救われる(罪が赦される)」信仰義認という教理に至ります。それはまた行為義認の崩壊と言いましょうか、人間の行為(善行)によって、神様の救いが確かなものとなる保証はなく、救いはただ神様からの賜物であり、先行する恵みによってのみ確かなものとなる。それを信じるということです。

さて、行為義認の崩壊とは言え、信仰義認は行為、行動するということを否定しているわけではなく、むしろ、信仰と結びつくということであります。今日の第2日課のガラテヤ書5章6節で、パウロがこう言っています。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」愛の実践を伴う信仰であるとパウロは言うのです。善きサマリア人の譬え話に見られるように、倒れた者のそばに近づき、介抱するという行為が愛の実践ということですから、信仰は愛の実践と言う行為と結びつくのです。コリントの信徒への手紙Ⅰの13章1節から2節ではパウロはこう言うのです。「たとえ、人々の異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」。山を動かすほどの完全な信仰を持とうとも、愛がなければ無に等しい、すなわち信仰はないと言うのです。信仰義認と言って、信じる、信じると言って、熱意だけはあっても、実際には何もやらない、行動しないということは、贖宥状(免罪符)を買って、信仰を得るということと何等変わりがないでしょう。愛の実践を伴う信仰、たとえ小さい働きでも、私たちは出来る限りのことをやっていく、実際に行動する。救いはただイエスキリストの十字架と復活に示されていますが、十字架によって赦され、復活するということは、新たな人生の歩みをスタートさせるということ、復活とは「立ち上がる」という意味だからです。立ち上がって、行動するものとして、愛の実践を行うということは信仰であります。

とはいえ、信じるということには、多くの誘惑、敵がつきものです。その中で、真の誘惑、敵は自身の内面に潜んでいる「無関心」というものではないでしょうか。行動に移さない、愛が伴わない信仰の誘惑が、常に私たちに向けられています。

本日ご一緒に歌いました讃美歌365番の1節の歌詞に「愛なる御神にうごかれて、愛する心は内に育つ」とあります。愛なる神様であるから、愛する心が与えられる。愛と結びつく信仰ということであれば、愛する心というのは、信じる心(信仰)とも言えます。私たちが立ち上がって愛の実践を行う前に、神様がうごかされる。私たちの思いが、心が動かされて、私たちの中に愛の実践を伴う信仰が起こされる、愛が育まれるのです。どのようにして私たちを動かれるか、それは何よりも御言葉であります。御言葉が聞かれるところに、キリストがおられる。それがこの礼拝の場、キリストの体である教会において、御言葉を通して、神様は私たちを動かされる、そして私たちの中に立ち上がる力、愛が育まれるのであります。

御言葉を通して、愛なる神様が私たちを動かされる、しかし、今日の福音は、愛なる神様と言う姿には見えない神様、怒りの神様が、主イエスを通して、現されているような気がいたします。縄で鞭を創り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と真に激しく怒っておられます。この時、ユダヤ人の過越し祭が近づいていたので、エルサレム及び、エルサレム神殿には多くのユダヤ人、巡礼者、外国人が集まり、あたりは賑わっていたことでしょう。主イエスが弟子たちと一緒に神殿に入られた時、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちをご覧になられました。牛や羊や鳩は神様への供え物として、両替は、ユダヤ人の銅貨に両替をして、そのお金を神様に捧げるために、それぞれ必要なものでした。しかし、主イエスは怒り、とても過激な行動に出たのです。主イエスはこう言います。「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」商売の家、そこにごく自然な人間の営み、人間の生活が描かれていますが、父の家を商売の家としてしまう人間の思いの中に、人間が抱く神の像があります。祝福の神、恵みの神、愛なる神といった、「人間の願望が描かれる神」がそこにおられ、呪いの神、怒りの神、裁きの神という神の像を排除する。神様が共におられるから大丈夫という安価な神の像、御利益的な神の像が造られてしまう時、私たちは真の神礼拝を忘れ、信じるという信仰に立てなくなるのではないでしょうか。

主イエスの過激な行動に対して、無論ユダヤ人たちも怒っていたことでしょう。「こんなことをするからにはどんなしるしを私たちに見せるつもりか。」何か力強い奇跡でも起こせるのかと主イエスに迫っています。主イエスは「この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」と言われ、それが「ご自分の体の事だったのである」と弟子たちが理解したように、ユダヤ人たちのいう神殿と主イエスのいう神殿というのは違うことであるというのは明白です。

主イエスの怒りは、「商売の家にするな」という人間たちの都合の良い神の像をかかげる罪に対してのものですが、主イエスは「自分の体である神殿に対して「この神殿を壊してみよ」、「壊せ」とまで彼らに迫ります。自分の体である神殿の崩壊、すなわちここに十字架の死が、十字架の贖いが示されている。神の怒りを御自身に向けて語っておられるのです。

同じヨハネ福音書で、このすぐ後の3章16-17節で、主イエスは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と、神様の御心を語りました。神様が世を愛されているがために、この世を救いたい。そのために、独り子が与えられた。この独り子なるキリストが、どのようにして世を救うのか、それこそ「この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」というメッセージであります。三日で建て直す。つまり復活するということ。主イエスの十字架と復活において、世を救うという愛なる神様の御心を、主イエスは語っておられるのです。

贖宥状における罪の赦し、救いがお金で得られるという人間の描く神の像が造られることによって、私たちは信じるということをしなくなります。不安や悩み、困難が御利益によって、立ち消えるものなのでしょうか。人間の行為(善行)によって、神様の救いが確かなものとなる保証はないというところに立つのでないならば、私たちは父の家を商売の家としてしまうのです。

46年かけて造られた彼らの立派な神殿が数十年後に、ローマに攻められて完全に崩されてしまうように、人間の営み、この世での生涯は、限りがあります。商売の家としてしまう父の家はいづれ滅びますが、聖霊によって建てられている教会、父の家であるキリストの体は滅ぶることはないのです。主イエスが言われる神殿は、46年という年月をかけて造られた目に見える父の家(教会)を越えて、そしてエルサレムから弟子たち、またパウロを通して、世界に、そして時代を超えて、今の私たちが集う教会へと続いている永遠の家であります。そこには教会を建てられた信仰の先達者の思いが詰まっている場でもあります。主イエスの御体に集う自分たちもまた、キリストの十字架と復活によって、贖われ、立ち上がった者であり、自分たちはこのキリストの御体に留まってこそ、真の神礼拝を体現し、信仰と愛を持って、日ごとの歩みが成されているという感謝の思いに立ち続けてきたことでありましょう。彼らの体験が生きた説教として、国と時代を超えて、語り続けられている。そこにキリストが現され、キリストの御体が示されています。

日毎に私たちの思い(罪ある思いから)を変えて下さる出来事が、この礼拝の中で起こっている。父の家で起こっているのであります。「商売の家とするな」、この神様の怒りは、真に愛が伴わない信仰の誘惑に陥ってしまう私たちの自覚へと向けらえています。しかし、ここを商売の家とし、自分たちの願望通りの神の像を立てるといった安価な救いにすがるのではなく、神様の怒りを顕しつつも、その根本にある私たちへの愛を示して下さった主イエスの十字架と復活という真の救い、確かな救いを御言葉から聞き、受け止め、そしてその救いを宣べ伝えるために、愛の実践を伴う信仰に生きることを願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年5月26日 三位一体主日 「近き真理」

ヨハネによる福音書16章12〜16節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

三位一体主日を迎えました。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神の働きについて、私たちは使徒信条や二ケア信条などの信仰告白を通して、三位一体の神様の働きを覚えます。ルーテル教会で洗礼を受けられた方は、ルターの小教理問答書を勉強されたかと思います。私も勉強しました。この本の使徒信条の解説の中で、ルターは三位一体の神様の働きを3つのテーマに分けて述べています。父なる神様の創造の働き、子なるキリストの救いの働き、聖霊なる神のきよめの働きという3つのテーマです。そして、解説の中でルター自身は三位一体の神様の働きを要約して、こう告白します。「私を創り、私を贖い、私をきめてくださる」神様を信じますと。私は信じますという告白の中に、「私をも」と言う思いから、より具体的に神様の働きが絶えず、自分自身に向けられているという信仰者としての、彼の生の歩みが実に示されていると言えるでしょう。

神様が私を創り、私を贖い、私をきよめてくださる。それは私という存在が、私の人生全てが神様の御手の中に、すなわち神様の愛のご支配の中にあるということに他なりません。それらの神様の働きを改めて想起させられる三位一体主日を迎えて、私は自分の信仰生活を振り返る機会が与えられました。

今年の10月31日で、私は洗礼を受けて9年目を迎えます。この六本木教会もこの建物に変わって今年で9年目を迎えますね。今私が牧師としてこの教会で仕えさせていただいているということに導きを感じます。9年間の歩みを成してきました。9年前に洗礼を受け、5年前に牧師になる事を決意し、今牧師になりました。いや、正確には牧師として、神様に遣わされてまいりました。

言うまでもありませんが、9年間の信仰生活の中で最大の転機を迎えたのが、牧師になることを決めた時です。牧師になると決めた時、何とも無謀な挑戦をするものだなという思いしかありませんでした。そう、ひとつの「挑戦」として私は受け止めていたのです。とても傲慢で、自分勝手な思いだなと改めて感じるのですが、しかし、無謀だという思いがあったことも事実でした。自分の力や知識では無理だけど、こう決断したのは、挑戦だと思っていても、導き以外の何ものでもない。何かの助けが必要だし、神様が必要だと思わなければ、最初の神学院の面接で落ちるだろうと思っていました。今でも覚えていますが、私は神学院の入学試験の面接で、「私には召命観というものがよくわかりませんが、ただ導きがあったということ以外に、言えることは何もありません」と言いました。召命観とは神様からの召し(呼びかけ)をどのように聞き、受け止め、牧師を目指す者として自分自身がどこに立たされているかということを確認することです。牧師になろうと思っている者が、召命観がわからないと言うのは、本末転倒だとしか言いようがないのですが、そのように答えたのは、私が自暴自棄になっていたのではなく、それしか答えがなかったからです。今までの信仰生活から出た率直な答えでした。ただ自分は導かれたとだけ、その思いだけに立った。そこに立ち続けていただけです。しかし、よくよく考えてみますと、その後の神学校生活、また牧師になった今の自分以上に、この時の私は、自分自身が「オープン」であったと思えるのです。召命観を答えられないという以上に、それがわからないということですから、面接を受ける前から、私は落ちていたようなものです。しかし、面接は受かり、結果は逆転した、奇跡そのものだと、何か感動を生むようなエピソードとして思いを振り返っているのではなく、あの時の私は本当に自分自身に「オープン」だった。自分自身を開いていた、開放されていた、自由な者であったと思えることです。その思いに立てたのは、やはり私の口から出た「導いてくださった」方の御力であるということだけです。無謀な挑戦だと思いつつも、私に虚勢を張らせるようなことをその方はさせなかったのです。はたから見れば、召命観もわからず、牧師としてふさわしい器を何等見いだせないような者です。しかし、真の自分、オープンな自分という存在が、この導きなる方によって前面に押し出されました。結果的に、このことが私の召命観となったわけです。すなわち主イエスが言われるように、「あなたが私を選んだのではない、私があなたを選んだ」ということなのです。そして私をオープンにし、導いてくださった方こそ、聖霊なる神様であり、きよめの働きであると私は今も信じています。

さて、今日の福音も、主イエスの告別説教の場面です。私たちはペンテコステを迎え、聖霊の働きについて、主イエスのお言葉と、使徒言行録の弟子たちの体験を通して、聞いてまいりました。

ペトロたちはこの世で無学な者でした。しかし、先週の説教の中で、ルターのペンテコステの説教を紹介しましたが、その中で、ルターは告白していますが、神学博士の自分なんか到底及ばないようなペトロの説教に心打たれているのです。語っているのはペトロの口を通して語られる聖霊なる神様なのです。

この聖霊は私たちの弁護者、助け主、慰め主です。世の誤りを明らかにする、私たちへの約束の聖霊です。弟子たちは主イエスが自分たちのもとを離れ去っていくという悲しみの極みの中にありましたが、主イエスはそれが弟子たちのためになると言われました。16章7節で「実を言うと」という主イエスの言葉は、「真理を言うと」という意味です。主イエスは「真理」を語っておられる。あなたがたのためになることであると。しかし、今日の福音書の箇所、16章12節で主イエスは言われるのです。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」彼らに言いたいことはまだたくさんある、全てを語りつくしたのではないと言われます。しかし、それらのことを言ったところで、今はまだ、あなたたちには理解できないとも言われました。主イエスの遺言とも言える、この時の言葉を、弟子たちは真剣に聞いていたことでしょう。しかし、今の彼らには理解できない。この理解できないというのは単なる知識としての理解ではありません。口語訳聖書では「あなたがたには堪えられない」と訳されています。主イエスが彼らに語ろうとしていることは、今の彼らには堪えられない、受け止められないことなのです。悲しみの極みの中にあった弟子たちの心情をよく示している一言です。その堪えられない、受け止められないことが、「出来事」として起こってくるのです。すなわち主イエスのご受難と十字架の出来事であります。無残とも理不尽とも言える十字架の死、この世の敗北者として、惨めな主イエスのお姿の中に、彼ら弟子たちはそれが自分たちへの贖いの業、救いの業であるということを見出すことはできないのです。彼らはあの十字架から逃げ去ってしまうからです。

主イエス御自身は今、語らないのです。語られることは、語られるだけに留まらず、出来事として、彼らに、いや彼らだけでなく、イスラエルの人々に、さらに私たちに示さなくてはならないあの十字架の出来事だからです。子なるキリストの贖いの業を成就させるために、主イエスは今お語りになることが出来ない堪えざる真実を弟子たちに、私たちに示しておられます。しかし、それは耐えざる真実に留まらないのです。そう、堪えることではなく、それが救いの出来事として、喜びへと変えられる。それでも、この世の価値観が逆転するのではなく、堪えざることは耐えざるままです。現実は変わらない、自分たちでは変えられないのです。

しかし、彼ら弟子たち、そして私たちを変えて下さる方を主イエスは証しされる。それが「真理の霊」です。私たちを導いて、真理を悟らせる方。その方は「自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」その方は主イエスに栄光を与える、すなわちそれは、主イエス御自身に神様が顕されるということ、もっと、具体的に言えば、あのみすぼらしく、無残な十字架上の主イエスのお姿の中に、神様が、その愛が示されていると言うのです。弟子たちは、この神様の愛を、真理の霊によって受け止める。パウロがローマの信徒への手紙5章5節で「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と言っていることなのです。

今、弟子たちのもとを離れ、十字架、復活、昇天へと突き進まれる主イエスは、14章6節で御自身を真理であると示されました。そして同じヨハネ福音書の8章32節では「真理はあなたたちを自由にする」と言われます。真理、すなわちキリストが私たちを自由にしてくださるのです。

キリストは神の愛を、ご生涯の中で言葉と行動で私たちに示されました。それは私たちの価値観を覆す、ある意味では非常識な神の愛です。放蕩息子の譬え話にでてくる父親や、ぶどう園の主人の譬え話にでてくる主人の姿がまさにそうです。愛するに値しない者を、無条で愛するお方です。愛するに値しない者を造ってしまうのは私たち人間です。真理から目を遠ざけ、目に見える事実、その価値観に縛られ、他者の目からおが屑を取ろうと、他者を裁こうとしてしまう人間の罪があります。そして、人間の尊厳が奪われています。私たちも奪われ、奪ってしまうものです。日常生活の中で、社会の中で。私たちのかたくなな心が、そうさせてしまうからです。

神の愛は奪われた人間の尊厳を回復される大いなる愛です。自分が自分らしく、オープンに生きられる、いや生かされる人生。キリストは私たちに、神様の御心を顕された方、神様の愛をオープンに示してくださった方なのです。十字架の赦し、復活という永遠の命の約束は、この世の価値観では、虚無に等しいけれど、理解されないけれど、神はあなたを愛す、そのメッセージを、御身を持って示されたキリスト。その喜びを真に私たちに悟らせてくださるのが真理の霊、聖霊なるお方なのです。私たちのかくなな心をきよめてくださるお方。そのお方は弁護者であり、あなたの内におられるのです。

私を創り、私を贖い、私を清められる神様。このお方は唯一のお方です。それぞれの働きを通して、私たちは自由に生かされる、永遠の命に生きることができるのです。虚勢を張らず、自分をオープンにする生き方です。堂々と、希望をもって生きるのです。

改めて、私たちも自分の信仰生活を振り返り、伝道について考える機会が与えられたのではないでしょうか。「大胆に罪を犯し、大胆に福音を宣べ伝えよ。」ルターの有名な言葉です。そう、大胆にです。大雑把で雑なイメージを抱くかも知れない。でもオープンな姿です。神様の御名をまだ知らない私たちの隣人に、大胆に、自分をオープンにして、伝道していく。それでも私たちの伝道は失敗だらけかもしれない、すぐに成果が出ないことだらけかも知れません。しかし、聖霊にきよめられ、真理を悟った者たちはもはや恐れることはないのです。本当の自分を知ることができるからです。本当の自分を知り、大胆に、自分をオープンにして、豊かに神の愛である福音を伝える者として私たちは生かされるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。