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2019年6月23日 聖霊降臨後第2主日の説教「返される神」

「返される神」 ルカによる福音書7章11~17節 藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

  梅雨時ですが、緑豊かな新緑の季節となりました。そして教会歴の色も緑になりました。緑の典礼色は希望や成長という意味があります。緑一面の木々を見て、成長の豊かさを感じるものですが、この希望や成長とは神様の御業におけるものであります。神様がもたらしてくださる希望であり、豊かに成長して実りを与えてくださる神様の恵みです。

聖書にはその希望や成長をもたらしてくださる神様の御業が至るところに描かれていますが、それは人々の苦難や悲しみといった闇の只中に示されたものでした。光が闇の只中で輝くように、絶望の中で、神様は希望の光を与え、私たちを慰め、導いて行かれるのです。

さて、主イエスが弟子たちと共にやってきたナインの町では、主イエスの歩みとは入れ違いに、これから町の外に向かって行こうとする人々の姿がありました。それは、やもめである母親の一人息子が亡くなり、その棺を担ぎ上げて行進していく一団でした。おそらく町の外にあるお墓に埋葬するためであったのでしょう。ですから、葬儀を終えて、これから葬送の行進をしていく人々と主イエスは遭遇したのです。

この時、ナインの町の人々が主イエスのことを知っていたのかどうかはわかりません。ナインという町は、ナザレから南東に10キロほど離れたところにある、ガリラヤ地方の南端にある町であったと言われています。主イエスの噂がそこまで広がっていたのかも知れませんが、人々の方から主イエスに声をかけることはなかったでしょう。息子は既に「死んでいた」からです。死者を生き返らせることなど誰にでもできようがないと人々は思っていたからだと思います。町の人々はやもめの女性に付き添い、彼らもまた、やもめと同じように、悲しみの只中にあったことでしょう。やもめというのは、夫に先立たれた未亡人です。当時の社会の中で、夫に先立たれた女性が生きていくことは大変なことでした。再婚して新しい夫に養ってもらうか、息子に養ってもらうかしないと生きてはいけませんでした。ですから、自らが愛し、頼りにしていた一人息子を失うということは、その悲しみを背負いつつ、困窮した生活をこれから送っていかなくてはならないということを意味するのです。

主イエスはこの母親に「もう泣かなくともよい」と言われました。母親としてしっかりしろという意味で言ったわけではありません。この母親のまなざしを全く別の方向へと導くためでした。主イエスはその言葉をどこから語られているのかと言いますと、それは母親の涙の中から語られているのです。同情はしているが、涙の外にあって、悲しみとは別次元の所から語っておられるのではないのです。主は確かに彼女の涙の中に共にいてくださっているのです。

それは主がこの母親を憐れんでおられるからです。ただそれは私たちの憐れみ、私たちが同情を寄せるのとは異なります。この憐れみという言葉は、人間の「はらわた」とか、「内臓」という言葉からきています。それは人間のいのちを司るものと思われているものです。憐れに思うというのは、はらわたが痛むということです。命を司る器官が痛みの内にあり、急所にぐさっとつきささるほどの絶大な痛みを伴っているのです。彼女の痛みを我が痛みとなされる憐れみの神がおられるということです。ようするに、この母親の、私たち人間の痛みに神様は素通りして行かれる方ではないのです。素通りして、悲しむな、泣くな、絶対に救われるから大丈夫だと蚊帳の外から語っておられるわけではない。痛みを伴うところに、神様は立ち止まられるのです。神様はそこにおられるのです。私たちの痛み、悲しみ、涙の中に。

「もう泣かなくともよい」。その言葉は主イエスが彼女に命のありかを示す言葉でした。息子の死を通して、もう命はないと思っていたわけです。それは私たちも自然と受け止めることです。しかし、息子は生き返って、命は返されたのです。息子自身の中にではなく、主イエスにある命です。主イエス、神様によって与えられている命に私たちは生きているのだと。

私たちの感覚から、この息子はただ眠っていたということではありません。確かにこの息子は死の内にあったのです。起きなさい、この主イエスの言葉によって彼は生き返りました。主イエスが彼と共にいてくださったからです。主イエスを離れては、命は与えられないのです。そして16節で「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言います。ここで現れたという言葉がありますが、実はこの言葉が14節の「起きなさい」という言葉と同じ言葉なのです。死の淵から起き上がった息子のように、主イエスも人々の間で起き上がって現れた。まず初めに主イエスご自身が死の淵から起き上がった。生き返ったということ。だから、主イエスご自身の中に復活の命があるのです。起き上がるという言葉は、復活するという意味の言葉でも使われています。主イエスが与えられる命は、死を素通りしたものではなく、死を通って与えられている命なのです。

主イエスは私たちに憐れみを示されます。我が心の痛みとしてくださいます。そして痛みだけでなく、主も死なれるのです。十字架にかかって死なれ、究極の憐れみを私たちに示されるのです。ただ神様の答えは、その死がゴールではないということ。神様の命であるということをキリストの復活の内に見ることができるのです。

私たち人間にとっての命のありかは、主イエスの中に見ることができます。復活の主の中における命です。

私たちはもう死なない世界の中に生きているわけではありません。この息子もまたいずれは死を迎えたことでしょう。それは描かれてはいませんが、主イエスは復活の命を通して、私たちを死における孤独の中には立たせない、私がどこまでも共にいると約束してくださっています。

私たちにいのちを与え、ただありのままに私たちを憐れまれ、愛される方、主イエスキリストと出会い、このお方にいのちを委ねるならば、私たちはいづれ朽ち果てるこの世のいのちに優る尊き恵み、真のいのちを知ることができます。真に私たちを生かしてくださる恵みを知り、生きる力を得ることができるのです。それは決して平坦な道ではありません。試練の連続かも知れません。とても辛いかも知れない。辛いけれど、それは私たちの生きる力の本質ではありません。それらは表面的なことに過ぎないのです。辛さの只中にあって、「神はその民を心にかけてくださった」のです。主の憐れみはどれほど深い事か。私たちの心に、魂の奥底にいのちを与える方なのです。

死の現実がしか見えない痛みと悲しみの中に、主は憐れまれ、死に覆われているところに、命の光を貫かれました。主ご自身が死なれ、復活の命を明らかにしてくださるからです。だから「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。これは私たちへの約束の言葉、命の言葉です。主イエスは死の傍らにある私たちを通り過ぎず、そこで立ち止まられ、このように約束してくださいました。だから、この主イエスの恵みを知り、私たちはこの命の主イエスを語り続けていくことができるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年6月2日 昇天主日の説教「ああ、大丈夫なんだ」

「ああ、大丈夫なんだ」ルカによる福音書24章44~53節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

  主イエスキリストの昇天。本日私たちは、主イエスがこの地上でのご生涯を終えられ、天の神様の御許へと上って行かれた昇天主日の礼拝へと招かれております。ですから、本日の礼拝では「昇天主日」としてキリストの昇天を覚えますが、教会暦で定められている主イエスの「昇天日」は数日前の5月30日の木曜日であります。教会手帳にもそのことが記されております。

ドイツではこの昇天日に教会の鐘が一斉に鳴り始め、キリストの昇天をお祝いするために、この日は国で祝日と定められているそうです。彼らはキリストの昇天を記念日としてお祝いしています。お祝いということですから、そこには喜びがあるということです。日本の教会にはあまりない習慣です。キリストの昇天が喜びだということ、そのことは何よりも昇天を目撃した弟子たちが証ししているのです。

さて、このキリストの昇天という出来事。聖書をよく見てみますと、主イエスは天に上ったのではなく、天に上げられたということが記されています。主イエスを天に上げた方が天におられる。すなわち父なる神様です。天とは父なる神様がおられるところ、ご支配されているところです。そこは天の国とか神の国といわれるところでありますが、私たち人間が空間的、時系列的に捉えることのできる場所ではないのです。しかし、私たちに全く無縁の場所でもない、それどころか、私たちの故郷とも言えるところなのです。フィリピの信徒への手紙でパウロが「わたしたちの本国は天にあります」(3:20)と言っているとおりです。ですから、私たちのこの世での生の営みには、ちゃんとゴールがあるのです。私たちはそのゴールを、すなわち天の国、神の国を目指して歩んでいる旅路の最中にあるのです。しかし、ただの旅ではありません。マタイによる福音書の山上の説教の中で、主イエスは「神の国と神の義を求めなさい」(6:33)と言われました。神の義を求めるということ、すなわち、自分自身を絶対化するのではなく、神様の御前に自分自身を相対化して、神様に従う歩みをすることです。だからこの旅路は「信仰の旅路」とも言われるのです。この旅をしている群れは「教会」であり、その旅人は「証人」と言われるキリストの民であります。

だから、私たちの生きているこの世の世界と、天の国は全く無関係な、並列的な関係ではなく、2つの世界は神様の下にある。神様は天の国も、この世もご支配されている方です。そのことは、神様の御子であります主イエスキリストがこの世にご降誕された出来事と、そして今日の昇天された出来事を通して明確になったのです。

さて、主イエスの働きは、この地上での世界だけのものだったのでしょうか。地上でのご生涯を終えられ、天に上られてそれで終わってしまったのでしょうか。決してそうではないのです。今日の第2日課でありますエフェソの信徒への手紙にこう記されています。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」(12021天に上られた主イエスは、この地上の世界の支配者となって、今も私たちと共にいてくださるということなのです。私は世の終わりまで、あなたがたと共にいるというインマヌエルの神様が共におられるということ、ですから、私たちの信仰の旅路はこのキリストと一つになるということなのです。この旅路の群れである教会はキリストの体として、わたしたちとつながっているのです。だから、私たちは信仰告白をするのです。「三日目に死人の内よりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座した給えり」。この使徒信条の告白は、現在の私たちの告白です。キリストの昇天によって、私たちと永遠にいてくださるようになり、今も生きて働いてくださる主イエスへの信頼の告白の言葉なのです。このことが明らかになったのが、主イエスの昇天の出来事なのです。

さて、弟子たちは、今この信仰の旅路を旅するための準備を、主イエスによって、整えられているのです。復活した主イエスの御姿を見て、彼らは喜びに満ち溢れていました。主イエスを裏切り、ユダヤ人たちから逃げまどい、不安の只中にあった弟子たちの前に再び現れて下さり、それも亡霊のような不確かな存在としてではなく、共に旅をしてきた自分たちの主であり、教師である主イエスが肉体をもった自分たちと同じ人間の姿として、今目の前に現れてくださったからです。この時、主イエスが真っ先に弟子たちにしたことが「あなたがたに平和があるように」(ルカ24:36)、口語訳聖書では「平安あれ」という言葉を通して、彼らを祝福されたことでした。それも真ん中に立って、一人一人と向き合ってくださったのです。再び弟子たちを召してくださった、弟子としてくださったのであります。彼らはここから復活の主イエスの弟子として、新しい歩みを成して行くのです。それはどのような歩みか、「キリストの証人」としての歩みです。そのために主イエスは彼らの心の目を開いて、聖書を悟らせました。モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄、すなわち旧約聖書全体の神様の約束が主イエスによって成就したということを彼らに悟らせたのです。旧約聖書の成就、すなわち長年に渡る約束、待望のメシアが彼らの前に現れてくださったことが明らかになった瞬間でした。彼らの抱いていたメシア像、ダビデ王のような目に見える力に満ちていたメシアではなく、人々の罪のため、咎のために苦しみを負われ、十字架の死を受けられたあのイザヤ書53章に出てくる苦難の僕としてのメシアです。しかし、このメシアは三日目に復活された。罪の代償としての死を滅ぼし、救いの御業を完成されたメシアが彼らと共にいてくださる。彼らがそのように信じることができたのは、心の目が開かれ、聖書を悟ったからでありました。また、弟子たちは主イエスから「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」という約束の言葉を聞きました。高い所からの力、すなわち聖霊の力です。それが彼らに与えられるという約束。覆われるということは着るということ、すなわち洗礼を受けて、新しい命の中を歩むものとして、彼らは召し出されようとしているのです。それが聖霊における洗礼において与えられる新しい命であり、「キリストの証人」としての歩みであります。このようにして、主イエスは彼らを再び弟子として召し出し、彼らに全てを語り、与えたのであります。

しかし、主イエスは彼らをベタニアに連れていき、彼らを祝福しながら天に上って行かれました。彼らと共に宣教の旅路に向かうのではなく、天に上って行かれたのです。弟子たちにとっては、この地上での主イエスとのお別れとなりました。もう主イエスと直接語ったり、触れたりすることができなくなる。私たちも人との別れを人生において何度も体験します。嘆き悲しみ、涙にくれます。もう会うことができない、永遠の別れ。しかし、この時、弟子たちは大喜びでエルサレムに帰ったと福音書は記しています。主イエスが天に上って行かれ、もう姿が見えなくなるに、彼らは喜んでいた、いやむしろ大いに喜んでいたのです。別れるのに喜ぶ。そんなことがありえるのか、いやそうではないのです。別れだけれど、別れではない。むしろ、永遠の出会いだということを。どういうことでしょうか。それは、主イエスが地上における人間の姿として、語ったり触れたりするという目に見える制限された中でしか、主イエスと出会うことができなかった彼らが、天に上られ、神の右の座から、永遠に自分たちとつながっていてくださるということを確信したからであります。肉体的な制限を受けずして、彼らはいつでも主イエスと出会うことができるという希望を抱くことができたのであります。聖霊の力を通して、いつでも自分たちを祝福してくださるということに実感をもつことができたからに他なりません。目に見えなくても、いやむしろ、目に見える制限された出会いではないということ。共にいてくださるとは、空間的、時系列的なものを超えた永遠の出会いだということなのです。別れが別れではなくなったということ。私たちとの永遠の出会いだということを示してくださったキリスト。ですから、キリストの昇天、それは私たちを喜びの希望へと招くのです。

彼らは主イエスが自分たちを祝福されながら、天に上っていかれたのを見つめていました。その時彼らはひれ伏していた、すなわち礼拝をしていたのです。祝福しながら、絶えず自分たちを祝福しながら天に上り、常に自分たちが祝福の共同体として恵みを頂けるということに大きな喜びを抱いたのです。そして、一番最後の53節で、彼らは神殿の境内にいて、神様をほめたたえていました。このほめたたえるとは、実は祝福するという言葉と同じ言葉が使われているのです。ですから、彼らも神様を祝福していたのでした。変なニュアンスかも知れません。神様を祝福するというのは。だから、日本語の聖書では、ほめたたえていたと訳されているのですが、彼らの想いは神様への祝福に満ちていたのです。それは神様への讃美であり、喜び、感謝であります。祝福の共同体の中心には、常に私たちを祝福してくださるキリストが共におられるのです。

ヨハネによる福音書15章1節から17節で主イエスがご自身のことを「ぶどうの木」であると弟子たちに言われた箇所であります。そして、弟子たちは「その枝である」と主イエスは言われました。ぶどうの木である主イエスを離れては、あなたがたは何もできないと主イエスは弟子たちに言われました。そして、「わたしの愛にとどまりなさい」と弟子たちに言われたのです。このたとえから聞こえてくるのが、わたしの命につながっていなさいということではないでしょうか。キリストの命につながるということ、すなわち「キリストの愛にとどまる」ということ。パウロはローマ書8章39節でこう言っています。「他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」その愛につながっているのが、ぶどうの木であるキリストに連なるぶどうの木の枝としての私たちの存在なのです。たとえ目には見えなくとも、私たちはつながっているのです。神様に愛され続けているのです。祝福されているのです。だから「互いに愛し合いなさい、祝福しないさい」と言われるのです。ここに礼拝をする教会があるのです。教会はキリストの証人として呼び集められた者たちの、祝福の共同体なのです。弟子たちはこの神様の愛に包まれて、喜んだのです。私たちもこの祝福の共同体の中で、神様の愛に結ばれて生きているのです。ここには大きな喜びがあるのです。絶えず、神様をほめたたえる共同体として、今私たちの信仰の旅路は始まったのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

2019年5月5日 復活後第2主日の説教「復活の香り」

「復活の香り」ルカによる福音書24章36~43節 藤木智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今週の主日もまた主イエスの復活について、私たちは弟子たちや婦人たちの証言を通して、聖書の御言葉から聞いています。そして今日の福音は、主イエスの御姿を弟子たちが明確に目撃する箇所であり、いよいよ、主イエスの復活についての核心に迫っていくのです。

今日の福音の箇所を見る前に、改めてこれまでの弟子たちの心境と、主イエスの復活についての様々な証言について見ていきたいと思います。主イエスが捕えられて死刑に処せられ、そして死んだことを聞いてから三日後に婦人たちから驚くべきことを聞かされました。その時までは、おそらく彼らは主イエスが死んだことの悲しみと、自分たちも捕まってしまうという恐ろしさを抱いていたかと思います。そんな心境にある彼らにもたらされた報告、それは主イエスの遺体が、墓穴に見当たらなかったこと、そして、ふたりの神様の御遣いの言葉でした。それは『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』という内容の言葉でした。それは生前の主イエスご自身が弟子たちに語られた御言葉であるということを私たちは思い浮かべると思います。今まさに、その御言葉が実現したという知らせだったのです。しかし、彼らは婦人たちの報告をたわ言だと思って、信じませんでしたが、ペトロは墓まで走り、遺体が見当たらないことを確認して驚いています。この空虚な墓の出来事、御遣いたちの言葉、ペトロはそれが嘘ではなく、本当に復活されたという思いを抱きます。

そして、次の復活の報告は、エマオでの出来事です。クレオパたちの前に現れた一人の人が主イエスご自身であったということ。彼らの目は最初、遮られていましたが、食事の席で主イエスが賛美の祈りを唱えて、パンをお渡しになると、彼らの目が開け、主イエスだとわかった。しかし、その姿は見えなくなってしまったという出来事。彼らは結局主イエスだと認識して、その姿を見たわけではありませんでしたが、聖書の説明を受けている時、自分たちの心は燃えていたという心境を語っています。そしてエルサレムにすぐ戻り、ペトロたちと合流して、彼らと分かち合います。空虚な墓、御遣いたちの言葉、エマオで現れたという出来事と、私たちは改めて主イエスの復活の経過を辿ってきました。どの出来事も、人間の業によるものではないことを私たちは知ります。

しかし、まだ私たちは多くの疑問を抱きます。主イエスの復活の本質は何であったのか、ただの象徴にすぎなかったのかと、考えてしまうかも知れません。弟子たちの証言は断片的で、現実性を帯びてはいないのです。弟子たち自身も、外見は主イエスの復活を理解しようとしていますが、実際はまだ復活した主イエスには出会っていなかったのです。彼らは復活したという出来事に喜んでいたのではなく、むしろ驚いているのです。その心境は非常に複雑で、冷静さを失って戸惑っていたのかもしれません。

さて、その心境にある彼らの前に、主イエスは現れ、彼らの真ん中に立ち、弟子全員がその姿を見ます。『あなたがたに平和があるように』と言って彼らを祝福されます。口語訳聖書ではただ一言『安かれ』といって、彼らを慰めています。主イエスは単に挨拶しただけではなく、まず彼らの複雑な心境を慰められたのです。その姿は、主イエスを見捨てた弟子たちに対する不信仰さを咎め、怒る神様としての姿ではなく、何よりもまず、彼らの心境を慰め、憐れんだ主イエスの愛の神様としての御姿だったのです。しかし、弟子たちはその姿が亡霊に見えて、恐れおののく、つまり取り乱しているのです。マタイによる福音書14章26節とマルコによる福音書6章49節でも彼らは湖の上を歩く主イエスが亡霊のように見えて、恐怖のあまり叫び声をあげています。その実体のない姿に恐れ、取り乱すのは、おおよそ主イエスがこの世の者ではないという印象があったからでしょう。まして、主イエスが実際に死んで埋葬された後にその姿を見れば、誰もが取り乱します。この世の者ではない、つまり生きていない者、死んだ者を認識することなど、不可能なのです。弟子たちの中には確かに遺体が見当たらない空虚の墓を見た者がいたし、エマオで現れた主イエスに出会ってはいましたが、今目の前にいる方が、墓に埋葬された遺体であり、エマオに現れた主イエスだという確証は全くないのです。死者がそのままでの姿で復活するとは彼らは考えもしなかったでしょう。それは彼らが死後の世界がはっきりわからないように、私たちにもわからないのです。死ぬことは人生の終わりであり、肉体は消滅し、お墓に埋葬される。霊だけの見えない姿になって、その後は天国とか地獄とかの別次元の世界にいき、生きている者たちの世界と切り離されていくと思うかも知れません。

私たちはそのように理解して、生きている者たちの世界と、死んだ者たちの世界を区別します。それはやはり、死後の世界がわからないがゆえに、私たちは不安になり、恐ろしくなり、また悲しくなるという心境からくるものでしょう。だから、お化けや幽霊などの実体がないものの話を聞いたり見たりしてしまえば、怖くなり、冷静さを失って取り乱したり、死んだ人間が生き返ったと聞けば、何か魔術的な力によるものであるとか、非現実的なことを連想してしまいます。しかし、主イエスの復活、キリストの復活は、実体のないあいまいな姿として恐れられる存在としての復活ではないのです。弟子たちと同じ肉の体においてではないが、生きている者なのです。主イエスは彼らに手と足を見せ、そして触らせます。肉や骨がある実体だからこそ、弟子たちは見ることができたし、触ることもできる。亡霊のような存在ではない。復活した体が本当にあったのです。弟子たちが恐ろしさのあまり証拠を確かめるために、主イエスを観察したり、触ったりして、確信したのではなかったのです。主イエス自身から、彼らを導いて復活の証を示したのでした。それによって、彼らの心境は一転して、喜びへと変わっていきます。喜びのあまり、信じられず、不思議がっている彼らですが、それは心を乱すような恐ろしさをもう抱いてはいないのです。ただ、今目の前で起こっている出来事に、本当に喜んでよいのかという戸惑いを感じるのです。まるで夢でも見ているかのように、目の前の出来事が都合よく突き進んでいくのです。

しかし、これらの出来事は全て、彼らにとっての能動的な動作ではなく、受動的な動作なのです。彼らの視点から見ると、見せられ、触らせてもらっているのです。そして、さらに主イエスは自ら一匹の魚を食べて見せるのです。手や足があることと、亡霊であれば、食事をすることなど、不可能であるということをはっきりと示されたのです。これらの出来事は主イエスが生前弟子たち共に食事をし、生活をし、共に旅に出た方であるということをはっきりと示されたということでした。主イエスが真の体を持っていること、食事をし、本当に生きていることを示したこの復活の出来事を、後に弟子たちは人々に宣べ伝えて行くのです。

主イエスの復活は、真に命ある体を持った姿であり、死者の中から甦ったことを、私たちに伝えています。『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』という聖書の御言葉の実現は、そのようなキリストの復活へと焦点が向けられているのです。コリントの信徒への手紙1の15章20節ではこう記されています。『実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。』死後の世界では、キリストを信じる者が、初穂となったキリストと共に復活するのです。その時は終末の日であり、キリストが再臨し、キリストを信じ、キリストに属する者がよみがえることを示しているのです。ローマの信徒への手紙6章4―5節ではこう記されています。『わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からさせられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となって、その死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。』

私たちはいずれ肉体的な死は迎えますが、その死はすべての終わりを指すのではなく、むしろ、キリストが再臨する終わりの時に、新しい命をもって、霊の体をいただいて復活するのです。死後の世界において、その肉体が失われ、亡霊のような存在になるのではないのです。キリスト共に復活する時を待ち望むのです。その完成された日に向かって、私たちは死後の世界を恐れることなく、復活を信じて日々をキリスト共に歩んで行くことができるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年4月28日 復活後第1主日の説教「燃える心」

「燃える心」ルカによる福音書24章13~35節 藤木 智広 牧師

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

先週のイースターにおきまして、主のご復活の喜びを皆で分かち合い、お祝いできたことを嬉しく思います。先週も言いましたが、パウロが「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄である」(コリントの信徒への手紙Ⅰ1514と言うように、主の復活がなければ私たちの群れは存在しません。キリストの復活によって、私たちの思いと心はひとつにされるのです。

復活物語は弟子たちの不信仰の物語とも言えます。弟子たちは婦人たちから主が復活されたという証言を聞きますが、彼らはその証言をたわごとだと言って、信じることができなかったのです。彼らは主を失い、自分たちの歩みもこれで終わりだと思っていました。また、ユダヤたちを恐れて、身を隠していました。そのような絶望の只中にあって、希望を見出すことができなかったのです。しかし、先週のイースター、主の空の墓を見た婦人たちに、神様のみ言葉であるみ使いたちは、彼女たちにこう言いました。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」(ルカ24:6~8)思い出しなさい。過去にあった出来事を単に記録として呼び覚ますのではなく、それは必ず実現するという神様の約束でありました。その約束が今、彼女たちへの神様からの答えとなって明らかにされている。彼女たちの恐れ、動揺、弟子たちの不信仰物語と切り離されたところにある主の復活ではなく、その不信仰の只中に主の復活は明らかになったのでした。そこで復活の主イエスと彼らは出会っていくのです。

今日の復活物語は有名なエマオ物語です。多くの画家がこの物語を描き、私たちの心をぐっとつかむ見事な描写で描かれています。二人の弟子の暗い顔、目が遮られて、大切なものを見失っている姿。そこから、二人の目が開け、燃える心を宿していた。主イエスは最初からふたりと共にいて、共に歩き続けてくださっていました。時間はかかっても、主イエスはずっとふたりと共にいました。このエマオでの途上も、二人の弟子たちに対して、「思い出しなさい」という神様からのメッセージが、主イエスによって終始ふたりに語り続けられていたのです。

エルサレムからエマオまでの60スタディオン、これは約11キロ半という距離だと言われています。結構な距離です。かつてはこのような長い道のりも、主イエスと共に歩いてきたけど、今はもう自分たちしかいない。「この一切の出来事を話していた」彼らの心境が重い足取りとなって、この長い道のりを歩いていたのでしょう。そこに主イエスの方から彼らに近づかれて、彼らと共に歩かれていったのです。

彼らは暗い顔で、それまでのことを主イエスに話しました。自分たちが期待していた救い主が死んでしまったことと、婦人たちの復活の証言のことを。自分たちには何のことかわからず、信じることもできない。ただ大切なものを失い、それは目には見えなくなってしまったという現実だけを見つめて、受け止めている彼らの思いがあるだけです。そこで主イエスは彼らに言われるのです。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(2526節)彼らの後ろ向きの歩み、その闇深き思いに対して、主イエスは同情の言葉を投げかけたのではなく、むしろあなたがたは根本的にわかっていない、真実からそれていると言うのです。物わかりが悪く、心の鈍い者とはそういう意味です。根本的な真理から目を背け、目の前の事実だけに目を留めて、自分たちの思いだけに踏みとどまろうとすることです。彼らの目を遮っていたのは、自分たちの思いだけに踏みとどまっていたことでした。

弟子たちの思いに対して、主イエスは「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言われ、ここでもこの弟子たちに、主の言葉を思い出しなさいと言われているようです。こういう苦しみとは、主イエスの受難と十字架の死です。それは彼ら弟子たち、そして私たちの苦しみ、痛み、悲しみ、嘆きを我がこととして担われた十字架の死でした。それらの不幸を避けて神様の栄光、救いを顕そうとされたのではなく、まさにその只中を突き進んで、神様の救い、愛を完成されたのです。私たちが避けたい事柄、避けたい道、理不尽だと思うことからの救いではなく、そのただ中をこそ主が共に歩んで下さり、そのような荒れ狂う大嵐の中で舵取りをして、導いてくださるのです。主イエスは、力ではなく、苦しみの中にこそ、神の栄光を顕そうとされたメシア(救い主)だったのです。そして、その栄光は十字架の死で終わったのではなく、墓を打ち砕き、死を打ち滅ぼし、復活のメシアとして、私たちに示されたのです。主イエスはその神様の約束の言葉を彼らに語り続けました。

そして、エマオへの村に近づいた彼らは、主イエスを引き留め、一緒に食卓につきました。パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて彼らに渡すと、彼らの目は開け、そこでやっと主イエスだと分かったが、その時には既に主イエスの姿は見えなくなっていたと言います。主イエスとの食卓、聖餐の恵みを体現して、ここでもまた彼らは主の言葉を思い出しました。それが真実として自分たちに明らかにされていることを体現し、生きて働かれている主を見出し、復活の主イエスと出会うことができたのです。聖書の御言葉と聖餐の恵みによって、復活の主を体現したのです。今も生きて自分たちと共に復活の主がいてくださると。そのことを私たちは毎週の礼拝において確認し、復活の主との交わりをいただくのです。

弟子たちは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。主と歩いていた時、聖書の御言葉を聞いていたとき、彼らの心は燃えていました。気分が高騰し、熱狂的に燃え上がっていたのではなく、確かに命の鼓動を感じさせるような熱が自分たちに伝わってきたのだということでした。暗く、遮られていた彼らの心境、その闇の只中に光り輝くように、主イエスの復活の命の光が輝いていた。暗い顔をし、遮られていた目をしていた彼らの姿の中に、歩みの中に、既に主イエスは、彼らの心に神様の言葉、その約束は必ず実現するということを語り伝えていたました。彼らとは無関係の、冷めた言葉ではなく、彼らの歩み、命を生かす燃えた言葉となって、彼らの心、魂の中に燃えているのです。それは何よりも、このエマオでの途上で、一緒に歩き続けてくださる中で、主イエスご自身が彼らの心に復活の命の灯を灯してくださったのです。彼らのペースに合わせて、心境に合わせて、同情するわけでもなく、確信と愛をもってして彼らに寄り添い、これで終わりではなく、ここからまたあなたがたの歩みは始まっていくという神様の約束を明らかにしてくださったのです。

今日の詩篇交読は16編でした。この中でこういう言葉があります。主(しゅ)は右(みぎ)にいまし、わたしは揺(ゆ)らぐことがありません。」共に歩いてくださる主は右にいると言います。これはただ近くにいてくださるというだけではありません。右というのは、右腕と言われるように、信頼に足る存在だと言われます。そこに主がいてくださる。主が私たちの右腕となって保護してくださるのです。心が燃えるとは、目に見える事実からの心地よさ、感動ではなく、見えなくても信じて信頼できることです。今この時も、主イエスが私の人生を共に歩んで下さっている。主イエスが一緒に歩いてくださっている。主が私の右腕、私の信頼できるところに共にいてくださる。厳しい現実の只中にあって、私の歩みを共に歩いてくださり、確かに導いてくださる。主イエスご自身が「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言われた苦難の救い主だからです。どのような時でも、主が私たちの右腕となってくださり、自分ではつかむことができない命を、主はしっかりとつかんでいてくださいます。弟子たちの燃える心、そして私たちの燃える心の根拠は、信頼できるところに、常に主が共にいてくださることにつきるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。