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2013年5月19日 聖霊降臨祭 「変わり続ける」

ヨハネによる福音書16章4b〜11節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

皆さん、ペンテコステおめでとうございます。教会の誕生を思い起こし、聖霊の御力によって、今、私たちはこの2013年のペンテコステを迎えることができました。毎年このペンテコステにおいて、第2日課は使徒言行録2章から御言葉を聞きます。

2章1節~4節を見て見ますと、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」という弟子たちの証言が記されています。弟子たちは、主イエスが語られた約束の聖霊を実際に見て、その音を聞くことができたのです。これは弟子たちにしかわからない感覚でしょう。私たちはこの弟子たちのように、実際に聖霊を見たり、聞いたりすることはないからです。

しかし、ペンテコステの出来事が私たちに伝えようとしていることは、聖霊の形や音がどうだったかということではなく、彼らが聖霊を受けて、その御力に満たされたということであり、そして彼らはどうなったかということです。彼らは霊が語らせるままに、他の国々の言葉で、話し出しました。(4節)そして、2章5節以下で、多くの外国の名前が記され、五旬祭に集まっていた人々は弟子たちの言葉を聞き、その出来事を「神の偉大な業を見た」と証言しています。戸惑い、驚く者もいれば、彼らはぶどう酒に酔っていると言って、あざわらう人々もいました。この時、本当に異様な空気に包まれていたのでしょう。神の業が働いているその時、私たち人間の理解、その感性を越えて、出来事として私たちに伝わってくるものがあるのです。

あざわらう人々に対して、最初に口火を切ったのはペトロでした。自分たちはぶどう酒に酔っているわけではないと弁明し、人々に語り出します。ペトロは預言者ヨエルの預言が成就したことを明らかにし、続いてダビデの歌を引用して、主イエスの十字架と復活を力強く証ししました。そして、このペトロの説教を聞いて、心を打たれ、洗礼を受けて、彼らの仲間になったのは、3千人だと言われています。1章15節を見て見ますと、120人ほどの人々が集まっていたそうです。120人の群れに一気に3千人が加わったのですから、驚きです。そして、42節で02:42「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあり、彼らのこの姿を通して、教会の始まりを私たちは見るのです。

ここで聖霊に満たされたペトロたちという弟子たちの人物像に注目したいと思います。ルターは1534年のペンテコステの説教で、ペトロたちの姿を通して次のようなことを述べています。「あの力と権威はいったい何によるのでしょうか。それはみことばと御霊にほかなりません。ペテロはなんと驚くべき力をもっていたことでしょうか。しかも、ペトロだけでなく、他の人たちも同様だったのです。彼らはいかに確信をもってメッセージを語ったことでしょう。あたかも10万年も学んできて完全に知った人のようです。私は神学博士で、彼らはそれまで聖書を学んだことのない漁師でしたが、私は彼らのように聖書をものにすることができなかったのです。このようにキリストの国は、貧しい漁師たちのことばと、十字架につけられたナザレのイエスと呼ばれる神の、侮辱され軽蔑されたわざとにより始められたのでした。」ルターは、あのペトロたちの姿を見て、神学博士として、聖書知識において右に出る者はいないはずである自分自身よりも、聖書知識がほとんどない彼ら漁師たちのほうが遥かに聖書を知っている、確信をもって語っていると、言うわけです。彼は決してペトロたちに対して謙遜に浸っているのではなく、むしろペトロたちそのものではなく、彼らに働きかけているみ霊、すなわち聖霊に、その力と権威を見出しています。どんなに聖書を読みこなし、知識を得ても、聖霊が働かなければ、意味がないし、何も伝わっては来ない。ただ聖霊により頼み、祈り求める以外にはないということなのです。

ペトロの説教を聞いた人々は、その内容に喜び、共感したのではなく、「心を打たれた」のです。心を打たれる、それは自分自身の奥底にある魂に触れたということ、絶対に曲げられない価値観の転換が起こったとも言えるでしょう。また、悲しくて、苦しくて、絶望の内にある者を、慰め、立ち上げる力があるということです。ここに聖霊の働きがあり、聖書を読み、聞くことへの姿勢が私たちに語りかけられているのです。そして、私たちの生き方が、人生の歩みが変えられる、いや今も御言葉と聖霊の働きを通して、私たちは変わり続けている。時代が変わり、物事の価値観、思想が変わる、目に見える形でこの世そのものが変わろうとも、御言葉の真理は変わらないのです。神様の福音は、その中心的なメッセージである愛は、絶えず、私たちに語られている。説教者、奉仕者の口を通して、どんなにつたなく、魅力がない言葉を使おうと、その口を聖霊が清め、聖霊が働くことにおいてのみ、私たちの心は打たれる、魂に触れ、響き渡るのです。

このような聖霊の働きについて、今日の福音書で主イエスは、この聖霊を「弁護者」と呼んでいます。今日の福音は主イエスのヨハネ福音書13章から始まる告別説教の場面ですが、この告別説教の中で、弁護者と言う言葉はたくさん出てきます。14章16-17節で「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」この聖霊は弟子たちと共におられ、内にいてくださるということです。そしてこの聖霊は弁護者であるということ、これは助け主、慰め主とも訳せますが、もとの言葉は「呼んでそばに来てくれた人」という意味なのです。ですから、聖霊とはずっとそばにいて助けてくださる神の御力ということであり、主イエスが昇天された後に、弟子たちに与えられるということなのです。しかし、この世にはこの聖霊が見え、知られ、受け入れられるというものではないと言うのです。

そして、今日の福音であります16章8節で「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」とあります。世の誤りを明らかにする、口語訳聖書では「世の人の目を開くであろう」となっています。罪と義と裁きについて、9-11節まで主イエスは語られますが、弁護者と言われる聖霊がこの世の人の目を開くために、神の御業を証しするというのです。それが今まさに、ペトロたちの口を通して語られている、主イエスキリストの救いの出来事なのです。罪について、義について、裁きについて、ペトロたちは証しできるでしょう。彼らは主イエスを信じ、その救いを体現しているからです。しかし、証しするのは、彼等ではない、彼らと共にいてくださる聖霊だと言うのです。

実に、ペトロたちはこの世に対して、無力であります。誰も彼らの話を真剣に聞こうとはしない、それどころか彼らはこの世から迫害されるということを、主イエスは見通して、ペトロたちに語っているのです。使徒言行録4章13節で、ペトロとヨハネが人々からこう見られています。「二人が無学な普通の人である」と。彼らは律法の教師ではないし、地位のある議員でもない。教養がある学者でもない、ごくごくふつうの人。面白半分に彼らの話を聞いても、人々は信じることはないでしょう。まして、彼らに聖書の知識はほとんどなかったでしょう。彼らは自分たちの体験を軸に、福音を語る以外にないのです。それも人生の教訓でもないからこそ、彼らには弁護人が必要なのです。彼らにはその弁護人なる聖霊が働かれている、彼らの口を清め、無学であるが、彼らに言葉を与えられるのです。与えられた言葉を、彼らは口に出しているだけなのです。そう、与えられた言葉、受け止めた言葉をただ人々に語る、説教とはそれに尽きるのみです。神学博士であるルターが10万年かかっても、無学な人たちであるペトロ、彼らが語るメッセージには及ばないのです。彼らは聖霊に満ちて、人々の魂に語りかけているわけですから。

世の中には、名言やはやり言葉がたくさんあります。私たちの日常生活において、どれだけの言葉が生きた言葉として、心に響いているでしょうか。聖書の言葉も、その一部分だけを、抜き出して、ただ名言として聞こうとするのであれば、それは世の中に価値観に重点を置いて、聞こうとする言葉に過ぎないのです。そこで混乱が起きる。理解できないものを無理やり理解しようとして、様々な解釈を持ちこんで、味付けしていく。ちょうどいい味になるまで。しかし、その味のある言葉、元の味はなんだったのか。改良に改良を重ねれば重ねるほど、本質を見失うということを、私たちは歴史の中で垣間見てきているのではないでしょうか。

また、学者や教養ある人、政治家などが発する言葉は確かに重く、影響のある言葉ばかりです。生きていくうえで、それらの言葉は知恵の言葉として、必要なわけです。しかし、時代の変革において、それらの言葉はいづれ廃れていく人間の言葉です。

当然ですが、私たちは人間の言葉を通して、人とコミュニケーションします。人と関わり、社会と関わります。でも、最近コミュニケーション傷害(略してコミュ症)という言葉を聞きます。自分の意志を伝えられない、理解されない、言葉が出てこない。言葉だけの問題じゃないかも知れません。対人関係などいろいろな事情はあります。しかし、誰しもがそういう問題を抱えているのではないでしょうか。悩み、苦しみ、誰からも理解されないという苦痛。言葉にならない言葉しか出ない。そう、気付いたら、沈黙が支配している。この世に生きている私たちが直面しなくてはいけない問題はいくらでもあるわけです。

言葉にならない言葉、でも誰かに聞いてほしい、受け止めてほしい、そういう思いがあります。そんな時、私は思うのです。祈りを通して聞いて下さる方、受け止めてくださる方がいる。そう、主なる神様という方が。胸の奥にある「伝わらない」という葛藤を抱えつつ、その思いを神様に向けて解放する、心を開く、それが祈りです。神様はあなたを受け入れ、あなたを愛の言葉で包んでくださいます。神様に思いを向けていくということ、すなわちペトロが使徒言行録2章38節で、心を打たれ、自分たちはどうすればよいのかと迷っている3千人に言った言葉はこうです。「悔い改めなさい。」と。神様の懐に飛び込みなさい、大丈夫だからということです。神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。主イエスはそう言われました。この世を愛されている、だからこの世に生きるあなたがた一人一人を愛さないでいようか。今は、この世に属し、この世の価値観で生きている。それも必要です。しかし、主イエスはこの世に勝る救い主です。この世の価値観という縛りを解かれた方です。あの「死の力」をも克服された救い主なのです。この救い主を信じ、仕えていく時、聖霊が与えられるのです。

無学なペトロたち。この世から相手にされない彼らが、聖霊に満たされて、世界中の言葉を話だし、3千人が心打たれた説教、その言葉を話した出来事。教会はここから始まりました。世の無学な者たちが、聖霊に満たされて、神様の愛を伝え続けていった。そして今の私たちも、彼らに続いています。悔い改めなさい、神様の懐に飛び込みなさい、大丈夫だから。神様はあなたを受け入れ、愛される。そう信じて、そのことを人々に伝えながら、私たちの伝道は今日も始まっているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年5月5日 復活後第5主日 「神が与える平和」

ヨハネによる福音書14章8〜18節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

一昨日の金曜日、久々に私は実家に帰り、家族と夕食を共にしてきたのですが、その時、私の母親が、「ルーテルアワー」について話をしてきました。「ルーテルアワー」、ここにおられるほとんどの方が、このラジオ放送の内容や主旨に詳しいことでしょう。キリスト教に縁のない私の家ですが、私の母は子供の頃に、このルーテルアワーを毎朝聞いていたようです。毎朝、学校に登校する時間帯に、次のようなメッセージが、ルーテルアワーの放送で流れていたそうです。「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう。」毎朝このメッセージが流れるわけですから、子供ながらに意味がわからなくても、私の母はとてもこの言葉が印象に残っていたそうです。Read more

2013年4月28日 復活後第4主日 「新しいおきて」

ヨハネによる福音書13章31〜35節
藤木 智広 牧師

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

ヨハネによる福音書13章31~35節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

主イエスは言われます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」互いに愛し合うということ、そのことを主イエスは「新しい掟」として、弟子たちに、そして私たちに与えられました。互いに愛し合うという新しい掟、新しいとありますから、当然古い掟があるわけです。それは旧約聖書にある御言葉、レビ記19章18節に記されている「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という愛の掟であります。

古い掟、新しい掟、共に「愛」ということが共通しています。愛する、愛される、愛し合う。当然、それは単に恋愛感情における関係、または家族関係について言っているのではなく、また好き嫌いということについて言っているのではありませんが、私たちは、普段の人間関係において、「愛し合う」という関係、言葉をあまり思い浮かべないのではないでしょうか。協力する、支え合う、仲よくする、一緒に歩むといった言葉のほうが身近にあります。東日本大震災が起こった年では、「絆」と言う言葉をあちこちで聞きました。日本中の人がこの絆で結ばれている、苦しいのはあなただけじゃない、私が、あなたが共にいるよといった、そういうフレーズの言葉をたくさん聞きました。印象に残っている言葉です。

しかし、愛し合うと言えば、やはり恋愛関係、家族関係、または教会、聖書の中にある専門用語みたいな領域に押し込まれてしまうという気がいたします。というのも、根本的に「愛し合う」とはどういうことなのか、尊い言葉に思えて、自分には身近に感じられないから、考えないようにする。どこかそういった思いがある、私自身もそういう思いがどこかにあります。しかし、主イエスが言われた「愛し合う」ということ、愛の群れの中に、今御言葉を聞く私たちはその一人として、その場にいる、その場に立っているということをよくよく踏まえていきたいのです。というのも、「愛し合う」ということが、私たちの教会における愛の共同体としてあるということと、私たちの人生の歩みにおいて、新しい視点を与えてくださるからです。

愛する、愛し合うということが古くからの掟としてありました。ユダヤの世界では、「律法」を通じて、神様と自分、相手と自分の関係を示す大切な言葉として、浸透していました。ところが、旧約聖書の歴史を見ると、神様はどの時代においても、愛の御心を彼らユダヤ人に示し続けるのですが、彼らは神様の愛から離れて、偶像崇拝にふけり、自分たち人間の価値観に軸を置いて、神様を拝まず、その心は神様から離れていたのです。多くの預言者が遣わされましたが、彼らは神様から離れたままでした。そして、父なる神様は愛する御子をこの世に遣わされ、神様の愛を彼らに伝えているのです。主イエスは弟子たちに愛し合いなさいと、従来からの律法の掟を伝えるのですが、それだけにとどまらず、新たな愛の視点を彼らに与えるのです。それが「私が愛したように」ということです。「私が愛したように」ということが「新しい」掟というのは少し変かもしれません。というのも、長い歴史の中で、神様は人々を愛され続けてきたのですから。しかし、その愛に気付いてこなかった、生き方を変えようとしなかった。神様の愛が、どんな愛なのかということがわからないからです。

私たちもそうです。愛がわからない、だから愛し合うと言われると、戸惑うのではないでしょうか。人に優しくする、支える、与えるなどと言う言葉を思い浮かべるかも知れませんが、しかし、実は私たち自身が、まず愛されたいという気持ちが根底にあるということに気付かされます。生きていて、様々な痛み、悲しみ、嘆きを背負っているからです。そんな自分を受け入れてほしいと願うことは誰にだってあります。最近は「愛の欠如」という言葉をよく耳にしますが、私はいつの時代でも、人間は愛に欠如した生き物だと思っています。だから愛されるということを求めます。それは決して悪いということではなく、根本的な私という存在が、愛を求めて生きている存在だからです。私もあなたもそうです。聖書はそんな自分の姿を映し出してくれる鏡のようなものです。本当は愛に飢えている、愛されたいと思っている。決してはずかしいことではない。愛がなければ、私たちは育たない、命の灯を感じられない。命があり、生きているという実感は、愛され生かされているということと、相互不可欠なのです。

では、主イエスはどのようにして、私たちを愛されているのでしょうか。今日の福音書であるヨハネ福音書13章からは、主イエスの告別説教と言われる箇所です。弟子たちとの最後の語らいのとき、この章の冒頭、すなわち13章1節で、主イエスは弟子たちをこのうえなく愛し抜かれたとあります。愛のテーマがこの告別説教の中心なのです。まず、洗足の話が記されています。主イエスは弟子たちの足を洗った後、「あなたがたも足を洗い合いなさい」と言われました。それは愛し合いなさいという掟と同じ響きがあります。しかし、その直後、ユダの裏切りが発覚します。27節で、サタンが彼の中に入ったとあります。ユダはサタンの思い、すなわち人間の思いに立ち、主イエスのもとを離れていくのです。その時、夜であったと30節に記されています。ユダの裏切りが、人間の闇の部分がこの夜という暗さを表わしているかのようにです。主イエスはその闇と向き合いました。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたのです。そして今日の福音書、31節で、ユダが出て行くと同時に、主イエスはご自身の栄光を顕されたのです。神様の御姿を現したということです。何が原因か、それはユダによってでした。ユダの裏切りという臨場感の中で、すなわちご自身が捕えられ、十字架の死が確定したということが、主の御心を成し遂げたということにおいて、神様の御姿がそこに顕されているのです。私たちは、この主イエスの御姿から、みすぼらしく、無残な死を遂げてしまう無力なる「人」を思い浮かべるでしょう。どうして、栄光なのか、敗北ではないのかと。しかし、福音書は語ってまいりました。主イエスご自身のお言葉を。「私は復活であり、命であると」。この栄光の中に、その甦りの主が既におられる。失われる命を通り越して、それが死という終わりではなく、永遠の命が輝いているのです。主イエスの十字架という死、その失われる命の中に、ユダの裏切りという闇の勢力が一層際立つように思えるのですが、その闇の只中で、メシアなる主イエスは栄光に満ちているのです。この闇にまさる光を顕している。ユダの裏切り、またそのことに動揺する弟子たちの不安、恐れという闇がここにある。その闇をも照らす光、闇を甘んじて受け入れる神の愛、人間の闇にまさる神の愛が、栄光のメシアとしての主イエスに顕されているのです。わたしがあなたがたを愛した、その愛とは十字架の死という命の消失において、頂点を極めるのです。すなわち、私たちを愛されるが故に、命を捨てたということなのです。

さて、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しなさいという主イエスのお言葉を聞いた時、私たちはどのようにして互いに愛し合うのでしょうか。神の愛が、十字架の死というメシアの命の消失において、頂点を極めるのであれば、それでは私たちも、互いに愛するというとき、命を捨てるということなのでしょうか。このヨハネ福音書と最も結びつきのあるヨハネの手紙では、互いに愛し合うということについて、こう記しています。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(ヨハネの手紙13:16-18)。

主イエスが命を捨てて、私たちに神の愛を教えてくださったように、私たちも兄弟を愛するために、命を捨てなくてはならないと、非常に厳しいことが記されています。兄弟のために命を捨てる、そのようなことができるのでしょうか、いや問いかけるまでもないでしょう。そんなことはできない、神様はなぜそのような厳しいことをおっしゃられるのかと、嘆きたくなります。

でも、ここで考えていただきたい。私たちの「命」とは何かということを。この命がどこから来たのかということを。自分で得たものなのだろうか、そうであれば、それを手放すということなどできないと思えます。しかし、この命が、神の愛の息吹によって吹き込まれた、賜物としての与えられた命であると信じるならば、この命の所有者は私ではないということ。私を創り、私に命を与えられた方のものであるということ。そう信じる時、命を捨てるということは、無駄にする、どぶに捨てるということではなくて、命を与えて下さった方に、自分の命を委ねるということ、人生の歩みを、その方に委ねるということです。兄弟のために命を捨てる、すなわち委ねるということにおいて、他者を真っ向から受け入れる。優しくする、支える、与える以上に、その人と生きるということ、そばにいて、共に歩むということに他ならないのです。そのための命、他者を生かす、他者する命として、その灯は燃え続けているのです。なぜそのようなことができるのか、それは私たちが神の愛を知り、永遠の命という希望を見据えて、歩むことが許されているからに他ならないからです。

永遠の命を見据えて、今ある命を委ねる。私たちは命を失うことを恐れます。手放すことを恐れます。安全な囲いの中で、命を守りつつ、歩んでいきたい、その思いがあります。命を粗末にするな、大切にしろ、その通りです。そのことを否定しているわけではありません。粗末にせず、大切にするからこそ、この命を豊かな命として、用いていきたい。失うことを恐れて、この命を守りたいが故に、自分自身の力量や知識に頼って、生きて行こうとする私たちの姿があります。しかし、私たちは、自分の命をコントロールすることはできないのです。いつ失われるかわからない、死という恐怖と向き合いつつ、生きていかなくてはいけないというこの世での生活があります。しかし、主イエスの死と復活によって知りえた神の愛、永遠の命の中に、自分の命、人生を委ねることができたとき、もはや死という闇に恐れることはないのです。死と墓を打ち破った復活のキリストと共に、愛の共同体の中で、羊が緑豊かな牧草地で、草を食むことができるように、その豊かな命の中で生きることができるのです。

互いに愛し合いなさい。その愛の群れの中に生きる者は、命を委ね、永遠の命という希望と喜びに満たされているものたちです。主イエスは、その愛の群れに生きるものたちをご自分の弟子とされました。そう、教会の姿がそこにあるのです。今の私たちの教会の姿、愛の群れに生きる私たちひとりひとりの姿がここにあるのです。その姿を、世にいる人たちが知るのです。豊かな命に生きる信仰者たちの姿の中に、いや姿だけではありません。その言葉、行い、業、全てが神の愛を伝える器として、目に映されているのです。神の愛がここにある、命を委ね、復活の主と共に生きる者たちの歩みがあるのです。

神様がいないかのような時代、愛の欠如だとか言われるこの時代に生きる私たち。私たちは伝道、奉仕の困難さをいやというほど経験してきました。これからもそうでしょう。しかし、それは絶望のまま終わらない、無駄に終わるということはないのです。神の愛を求めている人たちに、少しずつ、伝わっていると信じられる。私たちは神の愛を知り、互いに愛し合うことができるのです。この愛に生きられるからこそ、愛が伝わっていくという確信をもつことができるのです。神の愛を信じて、豊かな命の灯を、これからも灯してまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年4月21日 復活後第3主日 「宮清めの祭り」

ヨハネによる福音書10章22〜30節
藤木 智広 牧師

そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

ヨハネによる福音書10章22~30節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

昨日の土曜日から、関東地区が主催する「信徒塾」が始まり、六本木教会からは、私とKさんが受講してまいりました。教職を含めての参加者は、全部で25名近くもいますので、かなりの反響を呼んでいます。これは大変うれしいことではあります。皆さんは、この信徒塾について、どのような想いを持たれているでしょうか。単なる勉強会というイメージを持っておられる方もいるかも知れません。また、奉仕者訓練の場というイメージも持っているでしょう。参加者の皆様の中にも、勉強目的で参加された方もいるでしょうし、実際に奉仕者として活動するために、卒業を目指して、認定者となるべく、参加されている方もいます。

授業を始める前に、開会礼拝がありました。大宮教会の梁先生が司式を務められ、メッセージをされたのですが、その礼拝の中で、梁先生は参加者の皆さんに対して、この信徒塾にはビジョン、つまり夢があると言われました。明確なビジョン、夢があるということ。希望があるということに思えます。この信徒塾が単なる勉強会や奉仕者訓練の場だけではないということ。目的がある。それも大いなる目的。つまり神様のビジョンにあなたたちが参与するということです。このビジョンを持てることはすばらしいことであると、先生は力強く語られていました。とても私は印象に残っています。

ビジョンを描くということ。会社や学校という組織体だけではなく、一人一人が人生のビジョンを持ち、それを描いていることでしょう。それは期待や願望だけで潰えるのか、実現するだけの実行力と決断力を持っているのか、人によって違います。ビジョン、そこには熱い思いがある。確固たる確信がある。決して大げさな言葉ではありません。なくてはならない指針であります。もはや私の口を通して言うまでもないのですが、六本木教会も、六本木教会のビジョンがある。4月から新しい牧師、役員が与えられ、奉仕者が与えられました。初の役員会も先週いたしました。新しさの中で、慣れないことも多く、戸惑うことも多くありますが、常に前向きにチャレンジしていきたいという皆さんの熱意が伝わってきます。ビジョンが描かれている。しかし、それは私たちだけの思いではないということ、神様の御用にお仕えするという絶大なビジョンの中で、私たちの歩みがあるということ、それに参与させていただいているということなのです。神様が描くビジョンに私たちはお仕えするのです。そのビジョンとは何か、それこそが主イエスを通して働かれる神様の愛、全き愛と、永遠の命を与えられる救いのビジョンなのです。

今日の福音書でありますヨハネによる福音書10章には、主イエスが門であり、良き羊飼いであるという有名な譬え話が記されています。羊たちは、主イエスという門を通って羊の囲いに入って牧草を見つけることができるのですが、その羊たちを導く羊飼いも主イエスであります。しかし、そこには盗人や強盗も同時に入り込んでくる。羊たちを襲うためです。羊飼いは羊たちを守るために命をかける、いやそれ以上に命を捨てるのです。羊たちが豊かに命を得るためです。羊飼いである主イエスはそのために来られたというのですが、17節と18節でさらにこう言われるのです。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」。命を捨て、命を得る。そのどちらも成し遂げられるということが、父なる神様の掟、強いて言えば、御心なのだと証しされる主イエス。この言葉を語られる主イエスのお姿の中に、十字架と復活の主イエスがおられるのです。神様のビジョンを成し遂げるために来られた主イエス。今、苦難のメシアとして、私たちの前におられるのです。

さて、それでは羊を襲う盗人や強盗は何を顕すのでしょうか。文字通り受け止めれば、害をなす者たちです。傷害となる存在。しかし、それは目に見える害だけではなく、痛み、悲しみ、嘆きを与える存在、闇そのものに他なりません。羊である私たち人間にもたらす闇、この闇の只中に生きている私たちの人生があります。この闇から救われたい、光を照らして欲しいと私たちは願う者であります。今日の福音書に出てくる、ユダヤ人たち。彼らも今、ローマ帝国という圧政者、闇を取り払ってくれる光なるメシアを求めているのです。主イエスにその姿を見いだせない彼らは、10章24節で主イエスに詰め寄ってこう言うのです。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」気をもませる、つまり不安に陥っているということです。浮き足が立ち、不安の只中にある。メシアなのか、そうでないかはっきりしてほしい。不安だけでなく、いらだっているようにも見えます。

彼らユダヤ人たちは今、22節に記されています「神殿奉献記念祭」、口語訳では今日の説教題であります「宮清めの祭り」という祭りを祝っている最中にあります。これはヘブル語で「ハヌカ」と言われるユダヤのお祭りで、「ハヌカ」とは「奉献」という意味を指します。また、このお祭りは「光の祭り」とも言われています。光の祭りと言えば、私たちはまず燭台に火を灯すクリスマスを思い浮かべるかと思いますが、ハヌカもまた、燭台に火を灯す光のお祭りなのです。それは、彼らユダヤ人たちが、過去に、自分たちの国がギリシャに支配されていた時代に、このギリシャを追い出し、首都エルサレムを救った出来事に由来します。ギリシャの支配者たちは、ユダヤ人たちに、神様への信仰を捨てさせるために、エルサレム神殿に豚や偶像を持ちこんで、それらを納めさせ、神殿を汚しました。エルサレム神殿を清めるために、ユダヤ人たちは立ち上がりますが、その反乱軍を指揮したのが、マカベヤ一家のマタテヤという人物。そう、あの「ユダヤのマカべウス」です。ヘンデルが作った「ユダス・マカベウス」という凱旋の歌はこの人物に由来します。彼らは、ギリシャと戦い、見事にエルサレム神殿を奪還することに成功しますが、その時、神殿は完全に荒れ果てていました。彼らは豚や偶像を取り除いて神殿を清めますが、燭台に火を灯そうにも、1日分しか油が見つからず、油の補充には8日間もかかるという状況でした。しかし、火は1日のみならず、補充に必要な日数である8日間も燃え続け、火は途絶えることなく、永遠の火を灯すことができたのです。彼らは神様が奇跡を起こして、8日間も油が尽きないにされたと信じ、神殿の再奉献ということで、ハヌカと呼ばれる祝典を祝うようになりました。そして、このお祭りは、「ハヌキヤ」と呼ばれる特別の燭台に8日間にわたって火を灯すため、「光の祭り」と呼ばれるようになったそうです。

主イエスの時代のユダヤ人たちが、ユダヤのマカベウスを、国を救ったメシア的な英雄として讃えていたことは目に映ります。このお祭りを祝うたびに、今の支配者であるローマ帝国を倒してくれるメシアを彼らは求めていた、そして主イエスがそのメシアなのかどうか、彼らははっきりさせたいのです。しかし、主イエスは彼らに言われるのです。25「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。26しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

彼らユダヤ人たちは、主イエスを信じず、その声を聞くことができない。自分たちの描いているユダヤのマカベウスといったメシア像を、主イエスに見出すことができないからです。そして、28節で、主イエスは永遠の命を与えると言われるのです。武力をもって命を削る方ではなく、命を造りだす者、尽きることのない永遠の命を与える方なのです。尽きることのない、永遠の命という灯を照らされるのです。ユダヤのマカベウスたちが、神殿を清めた際、8日間も火が燃え続いて、途絶えることのなかったあの灯のように。主イエスはその永遠の灯を照らされる光のように、今、真の良い羊飼いとして、救いの門として、おられるのです。永遠の命が与えられ、そこに生きるとは、主イエスという光に照らされて、歩むことなのです。その恵みの中で、生き続けられるように、主イエスはあなたを招き、あなたに声をかけています。永遠の命を与えられる主イエスという永遠の灯を照らす光は、私たちの闇の只中で照らされているのです。目の前の困難や痛み、悲しみから逃れるということでなく、たとえそのような状況の只中にあったとしても、それは絶望のままで終わりはしない。あなたはこの光に照らされて、希望を持って歩むことができる。神様はその私たちへの愛、救いのビジョンをもって、愛する御子をこの世界に、私たちの闇の只中に、永遠の灯、光として遣わされたのです。ユダヤのマカベウスが死に、ローマ帝国が支配しようとも、この光は潰えない。私たちの人生の只中においてもそうです。主イエスは復活して、今も私たちと共におられる。永遠の命を与えるために、私たちに呼びかけられています。この命に生きるということは、闇の只中にあっても、もはや恐れることはないということです。

「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」詩編23編の作者はこのように歌います。恐れることはない、それは主が共におられるからに他ならない。迷い悩み多き、羊である私たちであっても、良き羊飼いは私たちを導くとこしえの光として輝いています。この光の道は途絶えることがないのです。

ここに復活のロウソクが灯されています。この復活のロウソクは、礼拝が終わっても、ずっとつけておくということが、教会の習慣としてあるそうなのです。今は礼拝後、この礼拝堂には誰もいなくなりますので、防犯上消しますが、このロウソクの灯が消えないということは、まさに復活の主イエスの光そのものを表わしていると言えるでしょう。この永遠なる灯、燃え続ける灯としての命に与るものとして、私たちの内に、この光を受け入れ、光の道を、共に歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。