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2013年3月31日 復活祭 「キリストの復活」

ヨハネによる福音書20章1〜18節
高野 公雄 牧師

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

ヨハネによる福音書20章1〜18節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

主イエスさまご復活の祝日です。おめでとうございます。まずは、今日の福音によって、復活日に起こった出来事をたどって行きましょう。

金曜日の正午ころに十字架に架けられたイエスさまは3時ころに息を引き取ります。ユダヤの最高法院の議員であるアリマタヤのヨセフがローマの総督ピラトに願い出て、その日のうちに遺体を引き取り、新しい墓に葬ります。ゴルゴタの丘まで着いて来た女性たちが、磔刑の様子も埋葬の様子も見つめていました。ルカ福音によると、《婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った》(ルカ23章56b~24章1)と書いています。きょうの福音は、ここから始まります。

《週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。》

土曜の安息が終わり、週の初めの日、すなわち日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行きました。墓に行ったのは彼女ひとりではなかったようですが、ヨハネ福音はイエスさまとの個人的な出会いを描くという特徴があり、ここでも他の女性のことには触れません。

このマグダラのマリアについてルカ福音はこう記しています。《七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた》(ルカ8章2~3)。彼女は七つの悪霊が憑いていたと言われるくらい、精神的にも肉体的にも深い苦悩を負っていたのでしょう。ガリラヤでイエスさまに救われると、一行にずっと従って献身的に奉仕してきた女弟子です。

ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。》(ヨハネ14章1~3)

ご自身の犠牲によって、罪を取り除いて下さった。そういうお方として現れてくださった。それが復活なのです。ただ、死んだ人間が復活したということではないし、そのことを信じるのが復活信仰ではありません。少なくとも、それだけではイエス様の復活を正しく理解しての信仰ではない。イエス様の復活は、私たちの罪を取り除くため、赦すためです。そのためにイエス様は十字架にお掛かりになり、そして墓に葬られ、そして日曜日の朝早く、暗い内に復活されたイエス様は、マグダラのマリアに現れ、その日曜日の夕方には隠れていた弟子たちに現れてくださったのです。そして、聖霊を吹きかけてくださった。その時、彼らは、イエス様の復活を見て信じました。罪の赦しが与えられたことを信じることが出来たのです。

イエス様は甦られましたけれど、それはイエス様の肉体が蘇生した訳ではありません。蘇生しただけならば、そのイエス様はまた何年かすれば死ぬイエス様です。イエス様は復活されたのです。そして、その復活とは神のところへ上ることです。そして、それは実は聖霊において世に降り、マリアや他の弟子たちの罪を赦し、新たな命を与え、共に生きることです。そして、その「主」は世界中の人々の罪を取り除き、新たな命を与える世界の主であって、マリアだけの主ではないのです。

《そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」》

当時のエルサレム付近の墓は、岩をくり抜いた洞窟です。入口を入ったところは人が立てるほどの高さの天井をもつ小部屋になっています。その小部屋に、さらにいくつか細長い横穴が掘られていて、そこに亜麻布で包まれた遺体は安置されます。もちろん、洞窟の入り口は大きな石でふさがれます。「身をかがめて中をのぞくと」という表現が5節と11節に出てきますので、入り口の穴は小さくなっていたようです。

ところで、十字架刑という極刑を受けた遺体は、ふつうは引き取られることもなく、死体捨て場に捨てられるだけです。アリマタヤのヨセフの勇気ある行動によって、イエスさまは《ユダヤ人の埋葬の習慣に従い》(ヨハネ19章40)手厚く葬られることができたのです。

マリアは朝早く、まだ暗いうちに墓に着いて、墓から石が取りのけてあるのを見ました。墓の中をのぞいても暗くて何も見えなかったでしょうが、彼女は墓穴が開いていることから、イエスさまの遺体が移されたと考えました。急いでペトロともう一人の弟子に知らせます。二人の弟子は走って行って、まずペトロが墓の中に入ります。《彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。》亜麻布や顔覆いが残されているということは、遺体は盗まれたのではないことを示しています。《もう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。》彼は残された布を見てイエスさまの復活を信じます。しかし、ペトロはそれだけでは信じられません。あとで復活のイエスさまにお会して、はじめて信じます。《イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。》これで、 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と泣きながら天使たちに訴えたマリアは、いまや「わたしは主を見ました」と仲間たちに伝える者に変えられました。どうか、私たち一人ひとりがきょうの福音を通してそれぞれにイエスさまを見、その呼びかけの声を聴き、「わたしは主を見ました」と、愛する人々に証しすることができますように。そして、これからの人生をイエスさまと共に歩めますようにお祈りします。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

父なる神、マグダラのマリアは、「わたしは主を見ました」と弟子に告げ、また主から言われたことを弟子たちに伝えました。この地上を歩まれたナザレのイエス様が、神の御子、救い主キリストであることを、おそらく最初に理解したのはマグダラのマリアであったでしょう。主を愛する人だけが感じ取れる真実があります。わたしたちがイエス様のご復活を喜べることを感謝します。イエス様の父である神が、わたしたちの父でもあることを、また、イエス様がわたしたちを兄弟と呼んでくださることを感謝します。イエス様と共に、これからの人生を歩ませてください。

主のみ名によって願い、祈ります。アーメン。

復活の出来事は、福音書記者ヨハネにとっては、天の父のもとから遣わされること、十字架の死、十字架にあげられること、そして、三日目のご復活、そして、天の父のもとにあげられることと、切り離すことのできない大事な、一体のこととして考えられるべきことであります。

《心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行二人の弟子の話は終わりで、話は二人から遅れて墓に着いたマグダラのマリアに戻ります。

墓の外に立って泣いていたマリアが墓の中に入ってみると、二人の天使がいて、《婦人よ、なぜ泣いているのか》と言います。泣く訳を尋ねているのではなく、もう泣く必要も理由も無いことを知らせているようです。マリアが《わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません》と答えながら後ろを振り返ると、そこにイエスさまが立っておられます。しかし、イエスさまだと分かりません。彼女はそれを園丁つまり墓所の管理人だと思って、《あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります》、と語りかけています。「わたしの主」とか「わたしが引き取ります」という言葉に、イエスさまに対するマリアの親愛の情がにじみでています。

イエスさまが「マリアよ」と呼びかけると、彼女は即座に「ラボニ(先生)」と答えます。ヨハネ10章3~4に、《門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く》とあるように、マリアは善き羊飼いイエスさまの声を聞き分けたのです。

《イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。》

ところで、マタイ28章8~9には、こうあります。《婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。》女性たちはひれ伏してイエスさまの足をかき抱いています。マリアもイエスさまにすがりついたのでしょう。また、ヨハネ20章27~28でイエスさまは、《トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った》とあります。復活の姿を現わされたイエスさまは、体をもっておられ、触ることも抱くこともできたし、それを弟子たちに許されたことが記されています。

では、「わたしにすがりつくのはよしなさい」という言葉は何を意味しているのでしょうか。《まだ父のもとへ上っていないのだから》という言葉や、《イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」》(ヨハネ20章29)という言葉から考えると、いつまでも復活のイエスさまの声を耳で聞く、目で見る、手で触るということに依りすがっていてはいけない。イエスさまは間もなく天に上ってしまう。これからは天から聖霊を、すなわちイエスさまの復活の霊を送るという仕方で、私たちと共にいることになる。マリアも私たちも、そのことを理解し、受け入れなければならないのです。

イエスさまはマリアにこう諭されると、彼女をご自分の昇天を知らせる使者とされます。《わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」》「わたしの兄弟たち」とは、ご自分を裏切った弟子たちです。ご自分を捨てた弟子たちを、イエスさまは「わたしの兄弟」と呼んでくださいます。そして、天の父は、わたしの父であり、そして、わたしを裏切って逃げた弟子たち、つまり「あなたがた」の父でもいてくださる。その神の信実のみ心、愛と赦しを伝えるようにと、イエスさまはマリアに語るのです。

《マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。》

2012年11月4日 全聖徒主日 「今、分かりました」

ヨハネによる福音書16章25〜33節
高野 公雄 牧師

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」

イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書16章25~33節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうは教会の暦で「全聖徒主日 Sunday of All Saints」といいます。聖徒 Saints という言葉は、聖書ではキリストの贖いを受け取って罪を清められた者という意味であって、すべてのキリスト信徒を指していました。それが迫害の時代に次第に殉教死した人々を指し、迫害が終わると、信徒の模範となるような偉い人を指す言葉となりました。そして、11月1日がそれらの人々を崇敬して記念する日となりました。その日は、全聖徒の日 All Saints’ Day と呼ばれます。

宗教改革者マルチン・ルターは、この日に大勢の人々が教会に集まるので目につくようにと、その前日10月31日に教会の扉に「95か条の提題」を貼り出して、議論を呼びかけたのでした。のちにこれが宗教改革の始まりと見なさます。それで宗教改革記念日は10月31日なのです。

プロテスタントの教会は、カトリック教会が聖人として特別に定めた人々を崇敬する習慣を否定し、この日を信仰の先輩たちを記念して、彼らを私たちに送ってくださった神の恵みに感謝し、信仰弱い私たちも彼らのように信仰の生涯をまっとうできるように祈る日としました。聖徒という言葉の意味が聖書で使われていた意味に戻ったわけです。

その後、近代になって人々の生活が忙しなくなってくると、ウィークデイに礼拝に集うことが難しくなり、11月の第一日曜にこの日の礼拝を守るようになりました。

ちなみに、アメリカでは四年ごとの大統領選挙は全聖徒主日の週の火曜日に行うと決まっています。それで、あさってその投票が行われます。

きょうは、キリストを信じて神の御許に召された信仰の先輩と何らかの形でかかわった方たちが礼拝に招かれ集まってまいりました。本日私たちに与えられたみ言葉は、ヨハネ福音16章からの一節です。これは、イエスさまが十字架に掛けられる聖金曜日の前日、最後の晩餐の席で行われたイエスさまと弟子たちとの対話です。

《わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く》。

弟子たちにとっても、私たちにとっても、問題は、イエスさまとは誰なのかということです。私たちが神に出会うこと、神に救われることに、イエスさまがどう関わっているのかということです。ここでイエスさまはご自身について謎めいた言い方をやめて、はっきりと「わたしは父すなわち神のもとから出て、この世に来た」と言っています。イエスさまはもともとは神の御許におられたのですが、私たちを救うためにこの世に遣わされたのでした。そしてガリラヤ地方を中心に神の国の福音を宣べ伝えました。ニケア信条はこれを「私たち人間のため、また私たちの救いのために天から下り、聖霊により、おとめマリアから肉体を受けて人とな」ったと定式化しています。

そして、「今、世を去って、父のもとに行く」と言います。今は弟子たちと会食をしていますが、もう間もなく逮捕され、大祭司と総督ピラトの裁判に付され、翌日には十字架につけられて息を引き取ります。しかし、それで終わりではありません。イエスさまは三日目に復活し、父の許へと帰って行きます。ふたたびニケア信条によると、イエスさまは「ポンテオ・ピラトのもとで私たちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書のとおり三日目に復活し、天に上られました」。

このように、イエスさまは、ご自分の地上における生涯の使命、その言葉と振舞いの意味を弟子たちに語ります。弟子たちはイエスさまに応えて言います。

《あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます》。

イエスさまのご自分についての言葉を聞いて、弟子たちは、イエスさまがすべてをご存じであって、彼になにも質問をする必要がないことを今理解したと答えます。そして、イエスさまが神の御許から来たことを、つまりイエスさまは神の子であることを信じます、と告白します。

人が洗礼を受けるとき、信仰に入るとき、聖書の知識は乏しく、教義の詳細を理解できていないでしょう。しかし、イエス・キリストが誰であるかを理解し、イエス・キリストを愛し敬い信頼すること、このことだけは信仰にとって欠かすことはできない大事なポイントです。イエスさまは二千年前のパレスチナにおとめマリアから生まれ、すべての人のしもべとなって、人々に仕えて、人々の重荷を担い、人々の罪の汚れを負って十字架刑で死にました。彼はそういう歴史上の実在人物です。イエスさまは人としての地上の歩みをとおして、神がすべての人一人ひとりを愛し、守り、救いへと導いてくださることを身をもって証しされました。ここまでは、現代人も理解し、受け入れることができるだろうと思います。

現代人である私たちの問題はここからです。今述べたことを視点を天に移して見てみます。すると、こうなります。神はイエスさまの言葉と行いを通して、ご自身を、そしてご自身の人に対する信実の心を明らかに現わしてくださいました。神は自らイエスという人となって地上に降り立ち、ご自身の愛と信実を人々に啓示されました。イエスさまは人となった神なのです。イエスさまは私たちと変わらぬ歴史上の人物であると同時に、イエスさまは神が人となった方であって、歴史を越えた永遠の神ご自身であります。これが、イエス・キリストは誰であるかという問いに対するキリスト教会の見出した答えです。私たちは祈りの度ごとに、その結びで「あなたは聖霊と共に、ただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります」と唱えます。そのとおり、イエスさまは私たちの主であり、永遠に生きて治められるみ子なる神でありますが、このイエス・キリストの神性ということが近代的な教育を受けた人は受け入れられなくなってきているのです。私たちは頭の中からも心の中からも神の働く余地を閉めだしています。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12)。現代人は、イエスさまについて、こうはっきりと言えなくなっています。キリスト者であっても例外ではなく、この信仰が崩れる危険をつねに抱えて生きています。しかし、イエスさまは、このことをもご存じです。

《だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている》。

「今、分かりました」「わたしたちは信じます」と答えた舌の根も乾かぬうちに、弟子たちはイエスさまを見棄てて逃げ去り、イエスさまはひとり苦難の道を歩かれることになります。しかもイエスさまはそういう弱い弟子たちを責めるどころか、「あなたがたには世で苦難がある」と弟子たちの負うべき労苦、困難を気遣い心配してくださっています。イエスさまは十字架上でも「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているか知らないのです」(ルカ23章34)と言って、「十字架につけよ」と叫ぶ群衆、逮捕し裁き処刑するユダヤ人とローマ人の罪の赦しを父なる神にとりなしておられます。

このように、最後まで徹底して罪人を愛し赦し、彼らの救いのために命を差し出されるこのイエスさまのあがないの業において、人に対して慈しみ深い神の思いが明らかに現わされています。この事実こそが、「わたしは既に世に勝っている」とおっしゃる言葉の内実です。イエスさまの神の子としての強さは、あらゆる誘惑を退けて、死にいたるまで人のために仕え尽くした、人にご自分を与え尽くしたことになるのです。そして、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」と言われます。私たちはみな弱いです。けれども優しく強いお方が共におわれるから、私たちは心強いのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」とあるとおりです。

イエスさまからいただくこの平和のゆえに、私たちもまたイエスさまと共に「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と言うことができるのです。そう言うことができるように、私たちの頭と心のうちに信仰の余地を、神が働かれる余地を開けているように心がけましょう。私たちがきょう記念している信仰の先輩たちにならって、遺された私たちも、こういう信仰に生きたいものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年6月3日 三位一体主日 「上から生まれる」

ヨハネによる福音書3章1〜12節
説教:高野 公雄 牧師

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。

はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

ヨハネによる福音書3章1〜12節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

先週の聖霊降臨祭をもって50日間の、主イエスのご復活を祝う季節が終わりました。それで、お気づきでしょうが、今まで聖卓の横に灯っていた大きな復活のローソクが片づけられました。今週から教会の暦では新しい季節が始まったのです。「聖霊降臨後」という季節で、これから11月一杯まで6か月間続きます。この季節の典礼色は「緑」、この季節のテーマは「教会の成長」となります。

その始まりにあたって、きょうは神の三位一体を祝います。典礼色は「白」です。きょうのテーマは、教会にとって根本的なこと、つまり、私たちの信じる神はどのようなお方かということです。

きょうの主日の名である「三位一体」(さんみいったい)とは、ただひとりの神がつねに父と子と聖霊という三重の仕方で私たちに働きかけるお方であるということを言い表すキリスト教用語です。三位一体という言葉自体は聖書には出て来ませんが、その言葉が指し示す事柄、つまり唯一の神は父・子・聖霊という三様のあり方をするということは、例えば、《わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい》(マタイ28章18~20)というように、聖書の中に示されています。

神さまを人の言葉で言い表すことは不可能なのですが、それでも何とかその神秘を言い表したいという初代のクリスチャンたちの努力の中でこの三位一体 Trinitas という言葉が生み出されました。二世紀後半にカルタゴ(今の北アフリカのチュニジア)の司教であったテルトゥリアヌスという教父が最初に使ったのだそうです。

キリスト教は313年にローマ皇帝コンスタンティヌスの発した「ミラノの勅令」によって禁教を解かれ、公認宗教の仲間入りをしました。キリスト教が社会の表面に出てみると、各地で教えや習慣の違いが著しい現実がありました。とくに問題だったのは、キリストの神性に関してです。ユダヤ教の影響が強く、イエス・キリストは父なる神から生まれた子であるならば、神に似た人ではあっても神ではありえないという立場の人と、イエス・キリストは人を救う力を持つのだから子なる神だという立場の人との間に、激しい論争がもちあがっていました。

この問題を解決するために、コンスタンティヌスは325年に初めての世界教会会議(公会議)をニケア(ニカイアともいう。今のトルコのイスタンブール近く)で開催しました。この会議で、復活祭の日取りが統一され、ニケア信条が定められました。神である父と子であるキリストは同質であると説くアタナシウスらが正統とされ、神に似た人と説くアリウスとその同調者は異端とされ、破門に処せられました。アリウス派を論駁したアタナシウスは後に、アレクサンドリア教会の司教に叙階され、三位一体の教理において第一人者とされました。

この論争はニケア会議以後も続き、正統派の教会では、私たちが現在使っている式文に見られるように、三位一体の神を称える言葉がいたるところにちりばめられることになりました。

私たちの礼拝は「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」で始まり、祝福に続く「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」で終わります。讃美頌に続けていつも「グロリア・パトリ」を歌いますが、これも「父、み子、み霊にみ栄え、初めも今も後も世々に絶えず。アーメン」と三一の神を称える頌栄です。キリエのあとに歌う「グロリア・イン・エクセルシス」は、ルカ2章14にある天使の讃美に、ポアチエ(フランス西部の都市)の司教ヒラリウスが加筆したもので、やはり三一の神を称える頌栄です。この人は東のアタナシウス、西のヒラリウスというように並び称される三位一体信仰の擁護者でした。そして三位一体主日のきょうは、このあと、いつもの「ニケア信条」に代えて「アタナシウス信条」を全員で唱えます。これは毎年この日だけに守られてきた習慣です。この信条は三位一体の神を称えているので、アタナシウスの名で呼ばれますが、本当の著者は不明です。詩編交読と同じように讃美の心をもって交唱しましょう。

「主日の祈り」にも三位一体を称える結びがついています。「あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン」。この長い結びは来週からの緑の季節には省かれる習慣になっています。もっともこの結びは、「奉献の祈り」にも、聖餐の感謝の祈りにも付いており、こちらは緑の季節でも省かれません。

そして、聖餐設定の言葉に続く「感謝の祈り」の結びの句があります。「すべての栄光と讃美が、教会において、ギリストにより、聖霊と共におられるあなたに世々限りなくありますように。アーメン」

このように私たちの礼拝は、三位一体の神に対する讃美に満ちみちているのです。きょうの説教は、礼拝式文の説明のようになってしまいましたが、礼拝の中で礼拝式の説明をするのも、三位一体主日の守り方のひとつの方法になっています。

さて、きょうの福音はイエスさまとニコデモの対話でした。ここで語られているのは、神の働きが人の心に救い主イエス・キリストを示し、人を新たに生まれ変わらせてくださるということです。そして、それがきょうこの個所が読まれる理由です。

《さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」》。

ユダヤ人の指導者であるニコデモが夜イエスさまを尋ねます。そして、《わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています》と挨拶します。現代でも、この世の闇を知り、真理を求めてキリスト教に近づく人はたいていイエスさまについてこう言います。それが傍観者の公平な判断なのでしょう。

このニコデモは、良識と善意を十分に持ちながらもこの世的生き方に留まり、イエスさまを救い主と告白するに至らない人々を代表しているようです。彼はヨハネ福音書にあと二回登場します。ユダヤ人指導者たちがイエスさまを逮捕しようとしたとき、こう発言しています。《彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」》(ヨハネ7章50~51)。次は、イエスさまを墓に埋葬する場面です。《その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ》(ヨハネ19章38~40)。

《イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない》。

イエスさまはニコデモに言います。イエスさまに、またはキリスト教に好意的であり、人柄も誠実で知的にも優れているあなたであっても、生まれたままの人は神を知ることはできません。人は勉強や修行といった自力の努力で神の救いを得ること、キリストを救い主と信じることはできません。神さまの賜物である霊によって上から根源的に生まれ変わることによって初めて、イエス・キリストを通して現わされた真の神と出会うことができるのです。霊による再生を即物的にもう一度母の胎から生まれ直すことと誤解するニコデモは、現代人にそっくりです。ニコデモの信仰は、人の営みの地平に留まっており、人が生ける神と出会うという次元が欠けていたのです。人は自分のできる努力はするのが当然ですが、人の努力を超えたことは、神の働きに委ねる、私たちの心に神が働く余地を空けておく、これが人として大事なことなのです。イエスさまとニコデモの対話から、きょうはこのことを心に留めましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年5月27日 聖霊降臨祭 「聖霊の約束」

ヨハネによる福音書15章26〜16章4a節
説教:高野 公雄 牧師

わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

ヨハネによる福音書15章26〜16章4a節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

聖霊降臨祭おめでとうございます。

教会の暦で、きょうは聖霊降臨祭、ペンテコステです。キリストが天に昇ってもう地上の人としては会えなくなった後に、イエスさまの弟子たちに聖霊がくだり、その聖霊に促されてキリストの復活を証しする使徒として活動を始めたことによってキリスト教会が誕生しました。聖霊降臨祭はこのことを祝うお祭りの日で、復活祭と降誕祭とならぶキリスト教の三大祭りの一つです。他の二つのお祭りほどポピュラーではありませんが、古くから大事な記念日として祝われてきました。

この日の出来事については、先ほど第一朗読で聞きました。

《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった》(使徒言行録2章1~4)。

こうしてキリストの教会は、2000年の歴史をとおして、自分たちの国の言葉で「福音」、キリスト教の教えを聞くことによって、全世界に広まりました。私自身もそうだったのですが、外国人宣教師の少し変な日本語の説教をとおして聞いた福音が心に沁みて、信仰を得た人も多いと思います。

ここに「五旬祭」とあるのが、新約聖書の元の言葉、ギリシア語でペンテコステです。これを日本語では、ユダヤ教の祭りは「五旬祭」、キリスト教の祭りは「聖霊降臨祭」と訳し分けています。五旬祭はユダヤ教の大きなお祭りであり、過越祭と仮庵祭とともに三大巡礼祭として、エルサレムの神殿へのお参りが求められました。

ところで、ペンテコステは五旬祭という訳語が示すように、50日目のお祭りです。ユダヤ教なら過越祭から数えて、キリスト教なら復活祭から数えて50日目のお祭りという意味です。旧約聖書では、「七週の祭り」とか「刈り入れ祭」とも呼ばれています。この日は、もとは冬に蒔いた小麦の春の収穫祭でしたが、のちにモーセがシナイ山で神から律法をいただいたことを記念する祭りとして祝われるようになりました。

この日、ユダヤ教では「ルツ記」が読まれます。聖書に親しんでいる人は、ボアズの畑で刈り入れの後の落穂拾いをしていたルツの話しを覚えておられるでしょう。

聖霊降臨祭を表わすシンボルは、聖霊の火を象徴する「赤」です。きょうは、聖卓に掛けられた飾布、牧師が着けているストラ、聖壇を飾るバラの花、そして皆さまが身に着けたものも、みな赤です。そのほかにこの日を表わすのが、聖霊の降下を象徴する「鳩」、この季節を表わす「麦の穂」です。壁のバナーや私のストラにも、この通り、麦の穂が描かれています。

《わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである》。

きょうの福音にこうあるように、イエスさまは生前に、自分が世を去っても、弟子たちには別の弁護者、助け主が送られるからその時を待てと言っておられました。聖霊の約束は、この個所のほかにも、たとえば《わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい》(ルカ24章49)とか、《わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである》(ヨハネ14章16~17)というように記されています。その約束の聖霊が2000年間前のきょう,弟子たちの心の中に来られたのです。

ここでは、この聖霊なる神さまを「弁護者」、「真理の霊」と呼んで紹介していますが、聖霊を人の言葉で十分に言い表すことは難しく、そもそも聖書の記述も少ないのです。いま私は、自分自身の体験に基づいて聖霊の必要性とその働きをお話ししたいと思います。

私は人生に行き悩んで、二十歳の今ごろ、初夏に自分から信仰を求めて教会に行き始めました。礼拝に出たり、聖書の勉強会に出たりして、熱心に信仰を求めましたが、いつまでも神は知識の上だけの第三者にとどまり、神をあなたと呼べるような神との出会いを経験することはできませんでした。私は二年くらいクリスチャンのまねをしていたのです。しかし、そうこうするうちにいつの間にか気がついてみると、心が開かれて、神と一対一で向き合う信仰生活へと移り住んでいました。

一般に、信仰とは人がすること、人にできることと考えられているようですが、聖書の神を信じることは、相手があることであって人が自分ひとりの能力でできることではありません。神が私の心を開いて、ご自分を私と共に歩んでくださるお方として現わしてくださることによって、初めて信仰を得ることができるのです。それが、私における聖霊降臨であり、神が私に信仰を与えた出来事です。きょうの福音にあるとおり、前もって約束されていた聖霊が与えられることによってすべての人の信仰生活は始まり、保たれるのです。

先に引用したヨハネ福音14章では、聖霊は「別の弁護者」と呼ばれています。では、もとの弁護者とは誰でしょう。それはもちろん、それはイエスさまです。《わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます》(Ⅰヨハネ2章1)。聖書はこのようにイエスさまを弁護者と言っています。

聖霊もまた「弁護者」と呼ばれるのは、イエス・キリストの贖いのみわざにもとづいて、聖霊は弁護士のように神の御前に立つ私たちの傍らに寄り添って、神との関係の回復を、和解をとりもってくださるお方だからです。

聖霊が「真理の霊」と呼ばれるのは、聖霊がイエス・キリストを神の真理そのものとして私たちにありありと示してくださるからです。《わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる》(ヨハネ14章25~26)。

イエスさまはその言葉と行いをとおして、とくに十字架と復活によって、私たちに対する神の愛と真実を示してくださいました。天に戻ったイエスさまは、今度は聖霊を送って私たちの心に愛と真実の神を現わし、信仰を与え、保ってくださっています。

私たちの内に留まる聖霊というお方のイメージは捉えにくいかも知れませんが、復活して今も生きているイエスさまが私たちの心の内にいらして、人生の歩みを共にしてくださっているというイメージなら理解ができると思います。このように、聖霊を「復活されたイエスさまの霊」と置き換えると分かり易いでしょう。

聖霊降臨の日の説教を、ペトロはこう締めくくっています。

《悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです》(使徒言行録2章38~39)。

聖霊降臨祭のきょう、私たちにはすでに約束の聖霊が与えられていることに感謝しつつ、その火が心の内にいつも赤々と燃えているように、キリストの心を心として生活できるように、さらに聖霊の注ぎを祈り求めましょう。そして、求道中の方々には、真理の霊が豊かに注がれ、真実と愛の神さまと出会う恵みが与えられるようお祈りいたしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン