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2019年3月24日 四旬節第3主日の説教「実りを信じて」

「実りを信じて」ルカによる福音書13章1~9節 藤木智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音書で主イエスは「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と、2回も言われています。「悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と言われると、私たちはびくついて、不安な思いに駆られるかもしれません。ちゃんと悔い改めないと、自分は滅びてしまうかもしれない、救われないかもしれない、そんな強迫観念にも駆られて、滅びないように悔い改めをしなくてはいけないと思ってしまうかもしれません。しかし、主イエスはここで私たちを脅し、暗い顔でこのようなことを言われているわけではありません。悔い改めなければ、皆同じように滅びる。それはまた、あなたがたが滅ぶことを私は良しとしてはいない。滅ぼすことを神は目的としているわけではないのだという愛の眼差しで私たちに語られているのです。それは続く「実のならないいちじくの木のたとえ」の話で明らかになってくる主イエス、神様の御心であります。

悔い改め、ギリシャ語でこの言葉はメタノイアと言います。メタノイアとは方向転換するという意味です。それも、180度転換するということですから、全く向きが真逆になるのです。突き詰めて言えば、自分の考えや思いがひっくり返るということです。人の考えや思いに立つのではなく、神様に祈り求め、導かれて神様の御心に立つということです。だから、時には自分の期待や願望が打ち砕かれるという体験をもします。自分の側には、自分を立たせるものはなく、空っぽにされるという体験でもあります。自分にではなく、向きを変えて自分を受け止め、自分を包んで下さる方が待っていてくださる。またそこに、自分の存在を肯定してくれる命、場所があるのだということに気づかされることでもあります。ですから、悔い改めるとは、神様のもとに立ち返るということです。そのままの姿で、帰っていくのです。そして、帰っていけるところがある、帰りを待っていて下さる方がいるのです。それは非常に嬉しいことでもあります。来週の福音書の日課である放蕩息子のたとえ話は、そのテーマを私たちに深く伝えている物語であります。帰る場所、自分を待っていてくれる父親の姿は、神の愛を深く現しているのです。

さて、主イエスが「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と言われました。このあなたがたもというのは、群衆のことを指しますが、あなたがたではない誰かの存在と重ねて、あなたがたもと語られていることがわかります。それがまず、1節で言われている、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことにおける災難に合った人たちの存在があります。ガリラヤ人も同じイスラエル民族でありますが、エルサレムに住むユダヤ人から見れば田舎者として映っていたようで、そのガリラヤ人の中には総督ピラトを始め、ローマ帝国に反逆して、過激な行動をしている人たちもいたようです。そして、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことにおける災難とは、彼らが礼拝をして動物の血で犠牲の捧げものをしている時に、ピラトが不穏分子である彼らに軍隊を送って襲撃し、犠牲の動物の血に襲撃された彼らの血が混ざって起こったことではないかと言われています。そういう災難、惨劇は歴史上、ローマ帝国の占領下にあるイスラエルの各地で起こっていました。そのひとつの知らせが主イエスと群衆に届けられたのです。そこで主イエスは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。」と言われました。罪深い故に、そのような災難に見舞われたなどということではないと言います。ことはそういうことではなく、この知らせを聞き、直接災難に遭っていないあなたがたも悔い改めなければ、滅びると言われたのです。災難に合う、合わないということは、罪深い云々ということではないと言うのです。

そして、もうひとつの話は4節で、「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。」という主イエスの言葉です。シロアムとはエルサレムの水源地のひとつで、ここから水道が引かれていたのではないかと言われるところです。シロアムの塔とは、その水道を確保する建物であって、その塔の建設工事中に起きた事故のことを指しているのかもしれません。ただ、主イエスはここでも同じく、犠牲になった18人は、罪深い者だったと思うのか。と、具体的な人数を現して、そう問いかけます。罪深い18人だけが犠牲になったという話ではない。そのこととは関係なく、また繰り返して、悔い改めなければ滅びると言われたのです。

罪深いから災難に遭ってもしょうがない、逆に正しい者なのに、なぜあのような災難に遭うのかという、群衆の思いを主イエスは知っているのです。私たち日本人は因果応報の思想を思い浮かべたり、罰が当たるということを身近に聞いたりするかと思います。災いの根拠というものを探したりします。逆もあるかと思います。なんであんな罪深い者が、祝福されているのか、優遇されているのかと。自分や他人の幸せ、不幸を何かの因果関係に照らし合わせて、そう受け止めるという思いもあります。

ただ主イエスはここで、単に因果応報等の人間の考えを拒絶しているわけではありません。ピラトが起こした災難やシロアムの塔の事故の話の中に、人間的な思いが見出されています。そういうことが起こったのは、あなたが罪深いと、要はその人に原因があると考えるのです。そういう事故が起こったのは、人間の欲が勝っていたからで、その人間の我欲を罰するために、事故は起こったのだという人もいます。けれど、この群衆に言われた「あなたがたも」という主イエスの言葉は、災難や事故に遭ったあの人たちを罪深いという眼差しで見つめるなら、あなたたちも同じ罪深いものであるということです。彼らもあなたたちも全く同じであるいうことです。災難や事故、または逆に成功や安全ということが罪深さや正しさの証拠ではないということです。彼らも含め、あなたがたも、悔い改めさないと言われるのです。災難や事故が悔い改めのきっかけ、動機になるということではなく、常に、そして今すぐに悔い改める、神様の方に向きを変えなさいと、主イエスは言われるのです。

災難や事故などの不幸の有無に関わらず、全ての人に悔い改めさないと呼びかける主イエスは、その言葉の意味を明らかにするために6節からたとえ話をされます。ぶどう園にいちじくの木を植えるというのは違和感を覚えるかもしれませんが、ぶどうを上手に栽培するために、ぶどう園に敢えていちじくの木を植えるという方法があったとも言われています。それで、このいちじくの木はなぜか3年待っても実を結びませんでした。土地の主人は、土地をふさがせておくわけには行かないから、切り倒せと園丁に命じます。成果、効率を重視するなら、当然の判断とも言えるでしょう。他のぶどうの実に影響がないようにするための処置とも思えます。しかし、園丁は言います。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」この園丁は、いちじくの木を必死に守ります。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」いちじくの木を最期まで見捨てず、実がなるようにと心を込めて、また一からお世話していくのです。実がなるかならないか、その原因はわかりません。ただ、自分がいちじくの木の立場に立たされて考える時、実がなる、ならないというのをどう考えるでしょうか。先ほどの災難や事故の話で言えば、罪深いから実がならなかったということになります。だから、切り倒されて滅んでしまうと受け止めてしまうかもしれません。

主イエスが語る園丁はそういう眼差しでこのいちじくの木を見つめているのではないのです。このいちじくの木に責任を押し付けて、見捨てているのではないのです。実がなるかならないかで、その木の存在を肯定するか否定しているかということではないのです。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。とそのいちじくの木をお世話する。いちじくの木を殺すのではなく、命の実を結んでほしいと必死にお世話し、守り続けるのです。いちじくの木と重ねる自分に、園丁である主イエスは、木の周りを掘って、肥やしをやってくださるように、私たちに絶えず、恵みを与えてくださり、命の実を結んで、共に歩んでほしいと願ってくださるのです。あなたに期待しているから、失望しているから、ということではなく、あなたが神様の恵みと愛の中で生きてほしいというただその思いの中で、主イエスは私たちを支え、守り、導いてくださるのです。実を結ぶというのは、その信頼の中で生きていくことです。何か評価されることや、成果を発揮したから、実を結んでいるということではなく、私たちの人生を大切に思って、養い続けてくださる方が待っていてくださり、招いていてくださるということに安心し、悔い改めてそこに帰っていくところに、私たちの命の実りをもたらしてくださる神様の愛があるのです。

木の周りを掘って、肥やしをやってくださる、それは私たちの日々の歩みの中で、絶望し、倒れてもう立ち上がることができない私たちの心の闇の中で輝く、神様の命の光です。罪深いというレッテルを貼られ、劣等感故に実を結べないという絶望感、不安感の中で、終わりを告げるのではないのです。その中で、私たちに希望と命を与えてくださるために、主イエスが共にいてくださることに信頼したいと願います。悔い改めて、待っていてくださる主イエスと共に。命の道を歩んでいきたいと願います。「悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」皆同じところに立っています。ひとりひとりがいちじくの木でもあります。実を結ばないという厳しい現実に打ちのめされているかもしれない。主イエスはその私たちの原因を探り、罪を指摘して、切り倒そうとはなさりません。私たちに帰るところを指し示してくださっています。いちじくの木を今日も世話してくださる主イエス、その姿に顕される神の愛の懐に私たちは立ち返って行けば良いのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年3月17日 四旬節第2主日の説教「見えるようになれ」

「見えるようになれ」ルカによる福音書18章31~43節 藤木智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

人間の行動の8割は視覚に制御されていると言われています。そのことから、いかに私たちはこの視覚を頼りにして生きているのかということがわかります。ただ、パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節でこう言います。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」見えないものに目を注ぎなさいとパウロは教えます。私たちは時には目に見えるものに束縛されて、本当に大切なこと、真実が見えていない自分の盲目さに気づかされることがあります。またパウロはフィリピの信徒への手紙1章9節から10節でこう言います。「知る力と見抜く力を身に着けてあなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」見えないものに目を注ぐのは、重要なことを見分けて、愛がますます豊かになるためです。愛の豊かさは見た目にはわからない「愛」を知る経験から育まれるものではないでしょうか。その愛を知るということが、愛を見つめるということ、見えないものに目を注いでいくことです。

エルサレムへの途上にあるエリコの町で、道端に座って物乞いをしていた盲人がいました。盲人と記されているだけで、この人が全盲なのか、または生まれつき目が見えないのかはわかりませんが、物乞いをしていた彼の姿から、働くこともできず、一人で生活することもできず、人々からの助けがないと生きてはいけない状況にあったのでしょう。彼にとって、この道端とは自分の生活圏とも言える領域です。その自分の生活圏の中に、エルサレムへ上っていく主イエスがお通りになるという情報を彼は聞きます。そこで彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。彼には主イエスの姿が見えなかったでしょう。今どこを通っているのかもわからなかったはずです。しかし、主イエスが自分の近くに来ていることは確かであるから、彼は力いっぱいに、先に行く人々が叱りつけようとするぐらいに、叫び続けました。この叫び声は単にボリュームの大きさだけではなく、彼の苦しみがその叫び声に現されているのでしょう。声の大きさだけでなく、苦しみの大きさが現れているのです。彼は神様の憐れみに全てをかけました。

主イエスは立ち止まり、盲人が言います。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。すると主イエスは、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」と言われ、「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。」ということが起こりました。主イエスに視力の回復を願い出て、視力を回復してもらったということではなく、主イエスはあなたの信仰がと言われ、盲人の信仰が盲人を救ったと言われているのです。この盲人の信仰とは一体何なのでしょうか。盲人は一体何が見えるようになったのでしょうか。

「わたしを憐れんでください。」この一言を盲人は叫び続けただけでした。いや、そう叫ぶことしかできなかったのです。「ナザレのイエスのお通りだ」と聞いて、人々の反応は様々だったでしょう。主イエスに期待をもっていた人で賑やかになっていたと思います。盲人は目が見えない故に、生きていくことの大変さを噛み締めています。物乞いをして、やっと自分の生活を支え、それを頼りにしていました。自分自身に頼れるものは何もないのです。「わたしを憐れんでください。」この叫び声は、自分の中には何もない、何も頼れるものがないという者の声です。ですから、主イエスはその彼の叫び声に応えられた、憐れみを求める彼に憐れみをもってして応えたということです。

ユダヤ人にとって忘れられない、神様の大いなる救いの出来後であるあの「出エジプト」は、まさにエジプトで奴隷状態にあって、苦しみ抜いていたユダヤ人の叫び声から始まったのです。そのことを出エジプト記にはこう記されています。「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。/神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。/神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。(出エジプト記22325助けを求める叫び声に、神様は応えられ、モーセを遣わして、彼らをエジプトから、奴隷状態から救い出されたのが出エジプトの出来事です。彼らはただ助けを叫び求めた、いやもう叫ぶことしか出来なかったのです。あのユダヤ人たちも、この盲人も、自分に持てるものは何もない、その無力さの中で苦しみを背負っていました。彼らの叫び声はその全貌を明らかにしているのです。

主イエスは盲人の叫び声に応えられました。そして、その叫び声をあなたの信仰と受け止められたのです。彼自身は本当に必死に叫んだだけでした。その叫び声は自分の力ではどうにもならない者の叫びであり、自分に土台を据えることはできない声でした。それがあなたを救う信仰であると主イエスは言われたのです。それは神様が憐れみに必ず応えてくださる方であり、その叫び声を無視する方ではないということです。盲人の信仰が盲人を救ったというのは、神様の憐れみが先行して盲人に応えてくださっているからです。この憐れみにおいて、主イエスはこの盲人を愛し、受け止めておられるということが明らかにされているのです。

盲人は見えるようになり、そして主イエスを賛美して、主イエスに従ったと言います。目が見えるようになって喜んだだけではないのです。主イエスを賛美して、主イエスに従った、盲人はそういう生き方へと変えられていったというのです。盲人は主イエスに従って信じる自分の人生を見つめているのです。このことはまた、何を見て、何が見えるようになって、主を賛美し、主に従っているのかということを私たちに問いかけているのではないでしょうか。

この出来事の直前で、主イエスは3度目の受難と十字架、復活の予告を弟子たちに告げられました。3度目にも関わらず、弟子たちはそのことが全く理解できなかったと言います。その言葉の意味が隠されていたという神様の働きがあったということですが、それは弟子たちですら、主イエスが成し遂げられようとしている救いの御業を人間的な期待の中で理解しようとしていた節があったからでしょう。少なくとも、主イエスがエルサレムで死ぬということを弟子たちは到底受け止められなかったはずです。なぜ神の子である救い主が理不尽な死を迎えるのか、そのことが私たちの救いとどう関わるのかということです。この時弟子たちは主イエスの御業が隠されていて、それを見ることができませんでした。十字架の理不尽な死という現実だけが彼らに見えていたのでしょう。この後、弟子たちは主イエスのもとを離れて、逃げ出してしまいます。弟子たちもまた主イエスの救いのみ業に対して盲目であったということです。しかし、敢えて、「その言葉の意味が隠されていたという神様の働きがあった」ということは、その弟子たちの弱さ、小ささ、いや無力さが明らかにされる必要があったということです。主イエスを信じて従っていくということは、自分の力や知恵で歩んでいくことではなく、自分が空っぽにされ、あの盲人と同じように、叫ぶことしかできないほどに、自分の中には何も頼れるものはないということが明らかにされる必要があったのです。神様はその叫び声を通して示される無力さの中に、憐れみを示してくださる、憐れみを持って応えてくださる方なのです。それはやがて、十字架と復活を通して成し遂げられる神様の人間への憐れみとなるのです。

この盲人が真に見えたものとは、神様の憐れみでした。十字架と復活における神様の働きはまだ彼にも隠されています。しかし、「見えないものに目を注ぐ」というように、実際に見たからということではなく、主イエスと自分との関わりにおいて、自分の叫び声に応えてくださった主イエスの中に、それを見出したのです。主イエスが彼に見せたものはその憐れみでした。自分のことを絶対に見捨てない愛であり、盲人をそのままに受け止めてくださった慈しみでした。その神様の憐れみと愛が見えるようになったから、主イエスを賛美し、主に従っていったのです。盲人の信仰による救いがその彼の行動に現れています。彼自身の自分の力における神様に対する正しい自分の生き方、姿勢ではなく、無力なままに神様によって肯定され、愛されていることに信頼していけるという喜び示されているのではないでしょうか。

「見えるようになれ」。主は私たちひとりひとりにこう言ってくださいます。私たちも現実の中で叫びます。苦しみを大にして叫びます。声にはならない叫び声もあります。その声に必ず応えてくださる神の憐れみがあなたを見捨てず、あなたを救い出す、その神様の憐れみと愛が見えるようにと、主は御言葉を通して私たちに語られます。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」見えないものに目を注ぐことによって、見えてくる神の憐れみと愛があるからです。その憐れみと愛によって生かされて本当の自分の姿が見えてくるからです。だから、私たちは自分を偽る必要はないのです。神様の前に叫び続けていいのです。いや、主に従うものとは、主に叫ぶものでもあるのです。自分を拠り所とせず、神を拠り所とするものの歩みだからです。見えるものだけに縛られている私たちの目を回復され、神様の憐れみによって生かされる歩みがこれからも守られるように願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

 

2019年3月10日 四旬節第1主日の説教「幸いに生きるため」

「幸いに生きるため」ルカによる福音書4章1~13節 藤木智広牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

3月6日に灰の水曜日を迎え、イースターまでの期間を、主イエスの受難と十字架の死を覚える四旬節の時を歩んでまいります。自分自身の信仰生活を振り返る時となるでしょう。本日はその四旬節の最初の主日を迎えました、この四旬節の第1主日には、毎年主イエスが40日間荒野で誘惑を受けられた聖書の物語から御言葉を聞いてまいります。40日間悪魔から誘惑を受けられたとありますが、1節に「荒れ野の中を“霊”によって引き回され」と記されています。この霊というのは、悪霊のことではなく、神様の御力、または働きとも言える聖霊のことです。また、引き回されるというのは導かれるという意味もあります。ですから、主イエスは聖霊に導かれて、荒野に赴き、悪魔から誘惑を受けられたのです。福音書は主イエスの宣教開始の前に、この誘惑物語を記しています。なぜ神様はわざわざ荒野という場所に主イエスを導いて、誘惑を受けさせられたのかと疑問に思うかもしれません。荒野、そこは人が住めるような環境ではありません。荒涼とした大地です。「寂しいところ、人里離れたところ」という意味合いもあります。人はいないのです。主は救いを待ち望む人のところにまず行ったのではなく、誰もいないところに行かれました。それも宣教の準備をするために一人になったのではないのです。この悪魔の誘惑、悪魔との戦いにおいて、主イエスという救い主とは誰か、どのような救いを私たちにもたらされるのかということを、そのご自身の姿を通して私たちに伝えているのです。その救いの御業が宣教されるお姿の中に現れてくるのです。

悪魔はまず主イエスの空腹を知って、その辺にある石ころをパンに変えて、飢えを満たしたらどうだと言います。飢え乾きは切実な問題です。食糧問題を考えるでしょう。世界中に満たされていない人たちがいる。その人たちを満たして、救ってあげたい。そのためにも、石ころをパンに変えて、そのパンをあなたと同じように、飢えているすべての人に、分け与えたらどうだ。その神の力を使えば容易なことだし、そのための力ではないかと悪魔は迫ります。しかし、主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。と言います。この言葉は、旧約聖書申命記の言葉から来ています。申命記には、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(申命記83)」と記されています。確かに、自分の価値観や権威の力を使えば、その食糧問題は解決するかもしれません。食料は行き渡るようになるのかもしれません。しかし、人を真に生かすのは、神の言葉であると言います。神の言葉は、必要な糧を私たちに与えてくださる祝福の糧として、感謝して頂きなさいということを私たちに教えます。ここで主イエスは食べることを否定して、神様の御言葉だけを聞きなさいと言っているのではないのです。

この石にパンになるように命じたらどうだ。この悪魔の言葉は、その問題を解決するために、手段を選ばなくなるということに通じます。自分が力を発揮すれば、空腹が満たされ、食糧問題はなくなるという結果論だけに固執してしまい、その本質が問われてきます。人間、手段を選ばなくなると、雑になってきます。極端な話、食べ物さえあれば大丈夫だろう、という感覚に陥り、食品偽造の問題なども出てくるでしょう。手段を選ばず、自分の価値観で都合のいいように力を発揮して、食料を得るところに、そのような大きな問題が後になって見出されてくるのです。神の言葉が直接空腹を満たしてくれるわけではなりませんが、神の言葉はその自分の価値観や正しさに危機を促し、命を与えてくれる食料の恵みに気づかせ、食料が与えられればいいという結果論に固執する私たちの思いを開放し、真に生きることができる命の御言葉です。空腹を満たすために、食糧さえあれば良いという思いは、命を得させる食糧を軽く扱い、結果命を軽んじていることと変わらないのです。ただ命を持続させるための食糧だけで私たちは生きているのではなく、その命を発揮するため、命を使うためのエネルギーとなる大切な食料を恵みとしていただくということを神の言葉は私たちに告げるのです。主イエスはその神の言葉に信頼し、悪魔の誘惑を退けるのです。

この主のまなざしと悪魔のまなざしは続く2つめの誘惑の内容でも明確な違いが見られます。悪魔は主イエスを高いところにつれていき、世界を見渡しながら言います。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」あなたが一切の権力を持てば、世界は丸く収まるのではないかという具合に。あなたが人々の支配者になり、人々を救えば良いと。悪魔であるこの私を拝めばそれは叶えられると言います。悪魔を拝むことで、主イエスが支配者となり、人々を導いていく。しかし、その働き、業は悪魔に軸を置くものであるということ、すなわち悪魔の業であるということを意味します。それは人間のためではなく、自分のため、自分の力の偉大さを誇ることです。それはまた神様の名を借りて、また聖書の言葉を借りて、あたかも自分が正しいものであるかのように思い込み、人を支配しようとする人間の姿と重なるでしょう。人のため、世のためと、もっともらしいことを言いつつ、自分の正義を振りかざし、自分のために人を支配しようとする独裁政権と何ら変わりはないでしょう。それは愛の業ではなく、自己実現に執着する悪魔の業なのです。

主イエスは『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と答えられます。悪魔に言いつつも、まずその姿勢を自分自身が貫いていくのです。支配するのではなく、仕えるということ。それは神様を愛し、神様に委ね信頼して生きなさいということです。さらに、主イエスは福音書の中でご自身のことを指してこう言われるのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ1045主イエスの方から私たちに仕えてくださるために、近づいてきてくださったということです。悪魔の誘惑を通して見出される自分の弱さ、無力さ。そんな自分を主は裁きの眼差しで見つめておられるのではなく、その弱さ、無力さを受け止められ、そこに仕えて共に歩んで下さる主イエスは、愛の眼差しに満ちているのです。それは、主は惜しみなくすべてを投げ打って、私たちを愛してくださるということです。あなたが神を愛し、神に仕え、悪魔の誘惑に陥らずしっかりと立ち続けられるよう、この私こそがあなたたちに仕える。あなたたちと共にいるから、神の愛に信頼して仕えてほしい。そのように、いつでも私たちのことを気にかけてくださり、慈しんで共にいてくださる主に、仕えなさいと言われているのです。

最後に悪魔は「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」と言い、聖書の言葉を用いて、天使が守ってくれるのだから大丈夫だろう、神様を信じているならそれができるはずだと言います。主は言います。「あなたの神である主を試してはならない」。主を試すということ、それは疑いからくるものです。本当に神様は助けてくれるのか、試してみたい。助けてくれたら信じられる。そこに救いがあるのかと思わされるのです。

実は、この悪魔の言葉は、主イエスが十字架に付けられたときに、人々の声となるのです。十字架につけられた主を人々はみて叫びます。神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてきたらどうだ。そうすれば神様はその苦しみから助けてくれるのではないのかと。しかし、主イエスは十字架から降りられないので、そこで息を引き取るのです。「あなたの神である主を試してはならない」それを、身を持ってして貫かれた主のお姿がそこにあるのです。主を試すところに真の救いはない、あなたの望みをただ叶えるところには、本当に満たされるものがないのだと言わんばかりに、主はそのご生涯を、神様の御心に委ね、人々と共に歩んでいかれるのです。

主イエスは悪魔の誘惑をすべて退かれましたが、ルカ福音書だけが「時が来るまでイエスを離れた」と記しています。悪魔はまた主イエスの前に現れるということ、それはイスカリオテのユダの中に入り、主イエスは人々の手に引き渡されて、十字架の死を迎えるのです。一見、それは悪魔の力に打ち負かされたような印象を与えます。しかし、主イエスはこの十字架をもってして、悪魔の誘惑を完全に打ち破るのです。それは、主イエスがこの十字架の死をもってして、人々への救いを完成されるからです。主が私たちを救うために、この世に来られ、ご生涯を歩まれた。それはどのようなご生涯か。ただ安全地帯の中で、人々の救いを願っていたのではなく、一人一人の人生を愛し、慈しまれ、共に共感してくださる愛のみ業を貫き通された。神様の教えをただ遵守し、その見本を人々に示されたのではなく、惜しみなく、自らの姿を通して、神様の愛を与え続けてくださるのです。この主の私たちへの愛が悪魔の誘惑を打ち砕いたのです。主イエスの偉大さ、神の子としての無限大の力が誇示されたことによってではなく、私たちへの愛によってです。

私たちも誘惑の途上にあるかと思います。苦しみや悲しみを経験します。悪魔はそんな自分に魅力的な言葉をかけます。弱いなら強くしてやろう。望みのものを与えよう。その力を拒絶する力は私たち自身にはないのかもしれません。誘惑が私の心を揺さぶる。しかし、私たちの只中に来てくださった主イエスはその誘惑に打ち勝ち、弱さ、無力さのある私の存在そのものへの愛を、御心としてお示しくださいました。私たちが望む以上に、私たちが真に生かされる道を、主は備えていてくださり、愛をもってして導いてくださいます。主はこの誘惑の外ではなく、内におられ、私たちを一人にはさせないのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年3月3日 変容主日の説教「闇から光への歩み」

「闇から光への歩み」 ルカによる福音書9章28~36節 藤木智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日は変容主日です。聖書には「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」とあります。それはまるで幻のようであり、非現実的な出来事のように思えます。

ただ、ルカによる福音書では、この主イエスの変容の出来事は主イエスの祈りの中で起こりました。祈り、それは天の神様との対話、交わりの只中にあることです。福音書の中で主イエスは何度も祈るために人里離れたところに行っていたとあります。夜を徹して祈っていた時もありました。夜祈っていたということと、「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると」、という記述から、一説には、この時、主イエスは夜に山に上って、祈っていたのではないかと言われています。その夜、暗い闇の中に輝くようにして、主イエスが変容し、栄光の光に包まれていたというのです。

暗い闇という意味では、弟子たちの心も暗闇の中にあったかと思います。それは、今日の冒頭で「この話をしてから八日ほどたったとき、」とありますように、8日前の出来事から続いております。8日前に何があったのか、すぐ前の箇所を読むと、9章21節、22節で主イエスはこう言われています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」人の子とは主イエスご自身のことです。主イエスとの歩みの結末、それは、排斥されて殺されることであると。弟子たちはそのことに敏感に反応し、落ち込んだことでしょう。マタイの福音書では、ペトロがそんなことがあってはなりませんと、主イエスといさめている場面もあります。さらに、23節から25節にはこうあります。「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うとまで言いますから、主イエスと歩むこれからの道は、絶望の道ではないのか、もう主イエスの最後のことが言われていて、自分たちはどうすれば良いのか、落ち込み、落胆していたことでしょう。

それが8日前にあった出来事です。弟子たちはその暗い闇とも言うべき思いで、主イエスと祈るために、この山に上ってきたのだと思います。彼らのその心と思いの中にある闇を照らすかのように、変容の出来事が起こりました。そこには自分たちの先祖であり、信仰の模範者であるモーセとエリヤの姿がありました。モーセは旧約の律法を象徴し、エリヤは旧約の預言者の中の預言者と言われる人物です。だから、この二人は旧約聖書そのものを表すと言えるでしょう。旧約聖書という神の御言葉、御心がそこで顕にされているのです。

そこで、ふたりと語っていた内容は、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」というものでした。この最期というのは、やはり主イエスが排斥されて殺される十字架の死を表しています。主イエスが8日前に語られた内容と変わりはありません。しかし、そこには栄光に輝くイエスの姿があったと弟子たちは証言しています。おぼろげな目で弟子たちはその栄光の光を見つめ、ペトロは喜び勇んで言います。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を3つ立てましょう。・・・」しかし、そのペトロの言葉は、自分でも何を言っているのか、分からなかったことでした。ペトロが何を言っているのかわからないほどに、主イエスの栄光の光は眩しすぎたとも言えますが、彼はその栄光の光が真に何を示しているのかがわからなかったのでしょう。

この栄光の光は、主イエスの最期のことと決して無関係ではありません。弟子たちの思いをも暗闇に落としたその死の出来事も、主イエスの栄光を表しているのです。この最期とは、主イエスがエルサレムで遂げようとしておられることであり、成就するという目的を持っている出来事だというのです。

この最期を迎えることの何が主イエスの栄光を意味しているのでしょうか。この最期という言葉はルカによる福音書にだけ記されています。この言葉は「エクソドス」と言います。英語ではエクソダスと言います。これは実は、旧約聖書の出エジプト記のことです。出エジプト、エジプトからの脱出という意味で、エクソドスは脱出、または出発という意味があります。それは確かにエルサレムで迎える死を表します。ただ、主イエスの死を出エジプトと言い表すとき、これは奴隷状態の中からの解放を意味するのと同じように、死の闇における終わりを言い表しているのではないのです。それはこの死の闇からの出発、闇を通って、光へと続く旅立ちであります。主イエスの最期、それはこの出エジプト、闇からの解放を目指して、旅立っていく栄光への出発を意味するのです。

今日の第2日課であるコリントの信徒への手紙Ⅱ4章4~6節にはこう書いてあります。「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」闇から光が輝く、それが、主イエスが成し遂げようとしておられる最期の出来事、神様の栄光です。それは人間の栄光ではなく、また自分のための栄光ではないのです。このコリントの言葉の中で、「主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」と言っています。キリストの栄光を伝えていくのであって、自分の栄光ではない。そして、その主イエスキリストの栄光のために、あなたがたに仕える下僕だと自分たちのことを言うのです。キリストの栄光を伝えるもの、キリストの栄光に生きるものは、神様と隣人に仕えるものであるというのです。キリストの栄光に関する福音の光とも言いますから、福音という喜びの光でもあるのです。主イエスが成し遂げようとしておられる最期とは、この福音の光を明らかにすることであり、それは仕えることの栄光であるということなのです。

先ほど、最期ということについて、それは死の闇における終わりを言い表しているのではなく、この死の闇からの出発、闇を通って、光へと続く旅立ちであります。と言いました。主イエスが既に「三日目に復活することになっている。」と言われた復活の光、復活の命をも明らかにされているのです。それが神様の栄光の中に生きる命の始まりでもあり、栄光への出発であります。主イエスの成し遂げようとしておられる最期は、最期まで私たち人間に仕えてくださる方として示された私たちへの愛であり、自分のためだけではなく、人のために仕えて生きるところに、神様の栄光の光が輝いていることを明らかにしてくださることなのです。

ペトロは仮小屋を立てて、主イエスの栄光をそこに記念として留めようとしました。しかし、主イエスは山に留まらず、山を降りて行かれます。最期を成し遂げるために、そして神様の栄光を明らかにするために、旅立って行かれるのです。

私たちもまた、高い山から降りて、この世で隣人と共に歩んで行きます。この礼拝から神様の祝福の内に遣わされて生きていきます。それは主イエスが栄光への出発、人に仕え、人と共に愛をもって生きていく姿の中に示された新しい生き方への始まりです。自分のためではなく、他者に仕えること、愛することにおいて、神様の栄光の光は広まっていくのです。今日ここからまた、その栄光の歩みを私たちは始めてまいりたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。