2011年4月10日 四旬節第5主日 「死を招く復活」

ヨハネによる福音書11章17〜45節
説教:高野 公雄 牧師

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。

マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、

イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

ヨハネによる福音書11章17〜45節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

いま私たちが過ごしている教会の暦の季節は、「四旬節」と言います。四十日間という意味です。むかし、復活祭に洗礼を受ける志願者は、その前の四十日間を特別な期間として守り、断食や節制をして信仰の学びと祈りに打ち込み、信仰の決断へと導かれることを待ち望みました。ヨハネ11章の話は、そういう人たちの決断を助ける聖書箇所として読まれました。長い話ですので、読むときは始めの部分と終わりの部分を省略していますが、きょうの説教は11章全体の話が前提になります。

今、この場に集まっている私たちは、すでに洗礼を受けた者と、まだ洗礼を志願するに至っていない者が多いと思いますが、私たちもまたこの聖書箇所を学ぶことを通して、イエスさまを救い主と信じることの意味をより深く理解できるように願っています。

さて、聖書の話の筋をたどっていきましょう。エルサレムに近いベタニア村に、マルタとマリアという姉妹が住んでいました。この姉妹は、すでにイエスさまと出会っており、イエスさまの弟子となっていたと考えられています。この姉妹にラザロという兄弟がいますが、重い病気にかかって死にそうです。姉妹はイエスさまに使いを送って、早く助けに来てくださいとお願いしました。しかし、イエスさまが到着する前に、ラザロは息を引き取ってしまいました。ユダヤにおける当時の埋葬の仕方は、火葬でも土葬でもなく、洞穴の中に寝かせるものでした。墓穴は大きな石でふたをします。暑い地方ですから、腐臭を消すにおい物、つまり没薬(ミルラ)をたくさん入れて布にくるんで寝かせます。

イエスさまが到着したとき、ラザロの死を悲しむ人々の泣き叫ぶ声は、あたかも絶対的な力をもつ「死」を称える賛美の歌声のようでありました。イエスさまははげしく心を動かされました。35節に《イエスは涙を流された》とあるとおりです。悲しむ人々に対してイエスさまが深く共感されたことを表す出来事です。イエスさまはラザロの眠る墓に行くと、「死」を叱りつけるかのように、大きな声でラザロに命じます。

《「ラザロ、出て来なさい。」》

すると、死人が起き上がり、布にくるまれたまま墓穴から出てきたというのです。

これが「ラザロの復活」と呼ばれる記事のあらすじです。この記事は、イエスさまが死人を蘇生させるという奇跡を伝える物語のような体裁になっていますが、じつは、ヨハネ先生はこの出来事を物語ることを通して、もっと深い話をしているのです。

ヨハネ先生はラザロのよみがえりの奇跡を題材にして、古いいのちの復活ではなく、新しいいのちの誕生について話しているのです。この世のいのちだけを見るならば、復活したラザロはいずれまた死にます。しかし、イエスさまを信じ、新しいいのちに目覚めた人は、《死んでも生きる》または《決して死なない》とイエスさまは言います。マルタとの対話に聞いてみましょう。

《イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」》。

私たちがまことの神を信じ、神さまのみ心を体現するイエスさまを信じ、神さまの愛に包まれていることを信じると、私たちはイエスさまから古い自分を脱がされ、新しいいのちを着せられるのです。この新しいいのちのために、死の手前のこの世にありながら、すでに死を超えて神さまの世界に生きるのです。死後の復活ということも、この新しいいのちがあればこそ信じられるのです。ですから、《終わりの日の復活の時に復活する》と信じることは、間違いではありませんが、それは真理の半分です。イエスさまは、信じれば、今ここで、新しいいのち、復活のいのちをいただける、と言うのです。《このことを信じるか》と問われて、マルタは答えます。

《マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」》

これがマルタの信仰告白です。イエスさまは「主」であり、「世に来られるはずの神の子」であり、「メシア(キリスト)」であると、三つの称号で答えます。ヨハネ福音書には、他の福音書にあるペトロの信仰告白「あなたこそ生ける神の子メシアです」という記事はなく、女弟子マルタが弟子たちを代表して信仰の告白します。

イエスさまは、そのようなメシアとして、これからどのような道を歩まれるのでしょうか。この点に関しても、ヨハネ11章は私たちに大事な真理を伝えています。

ヨハネ福音書はこのあとの12章で、このラザロの復活の出来事がエルサレム入城のときに人々が「ホサナ、ホサナ」と歓呼して迎えたことの理由だと述べています。

《イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。》(ヨハネ12章17~18)。

しかし、祭司長たちが、イエスさまを殺さなければならないと決心するのも、ラザロの復活がきっかけでした。

《マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ》(ヨハネ11章45~53)。

つまり、ヨハネ先生は、他人にいのちを与えるという奇跡が、イエスさまに死をもたらすという皮肉な結果を招いた、と言っているのです。マルコによる福音書によると、この矛盾ないしは逆説を突いて、人々はイエスさまをあざ笑ったといいます。

《そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。》(マルコ15章29~32)

この「他人にいのちを与えるという奇跡が、イエスさまに死をもたらす」ことの中に、大切な真理が隠れて現れているのです。ときの大祭司カイアファは言います。

《「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである》。

これが、神の救いの真理、十字架の論理です。イエスさまは救い主として私たちにいのちを与えるために自らを犠牲になさいます。この真理について、ヨハネ3章16節はこう言っています。

《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン

2011年4月3日 四旬節第4主日 「ユダヤ会堂からの追放」

ヨハネによる福音書9章13〜25節
説教:高野 公雄 牧師

人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

ヨハネによる福音書9章13〜25節

 


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン

体の具合が悪くなると、お腹を冷やしてしまったからかなとか、夜更かししすぎたからかななどと、思い当たる原因を考えて、対処の仕方を考えるのではないでしょうか。体の不調の原因は、自分が罪を犯したためとまでは考えないにしても、自分の不注意とか不摂生のせいだと反省することしばしばです。

障がい者に対しても同じような考え方をすることが多いと思います。わたしの経験ですが、生まれつき目の不自由な人が教会に訪ねてきました。わたしが彼女にまず尋ねたのは、目が悪いのは小さいときからなのかとか、いまどの程度目が効いているのか、というようなことでした。彼女は、わたしの問いに誠実に答えてくれたのですが、わたしの質問は彼女にとって何の意味があったでしょうか。

二千年前のイエスさまの弟子たちにも同じようなことが起こったことが聖書に述べられています。

≪さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」≫

目の見えないこの男は物乞いをするしかありませんでした。そんな社会の片隅に追いやられている人に、イエスさまは目を向けられます。弟子たちは彼の目が見えないのは「生まれつき」だと知っていたということは、すでに何度かこの男の前を通っていて、彼の噂を聞いていたのかもしれません。しかし、素通りしたのではこの人の人生はなにも変わりません。イエスさまが目を留め近づかれたということが、一切の始まりです。イエスさまは弟子たちに答えます。

≪「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」≫

福島県に住む人々は津波と原発事故で苦しい状況に置かれただけでなく、放射線の影響についての誤った風評による被害にも遭っています。二重の痛みを負うことになり、本当に気の毒です。この男の場合も、生まれながらに目が見えないだけでなく、それは本人の罪のためだ、いや親の罪のためだと論じられることで、さらなる痛みを負わされていたのです。イエスさまはこの負の連鎖をきっぱりと断ち切ります。これは本人のせいでも親のせいでもない。ひとごとのように因果応報を論じる、そんなことはこの人にとって何の役に立つと言うのか。むしろ、神さまがこれからこの人をどう恵まれるか、どう導かれるかということに目を向けようではないか。こうイエスさまは諭されます。これはすでにこの人にとって望外の福音であったに違いありません。

わたしが出会った目の不自由な人の場合を思い起こします。彼女が求めていたのは、人生の指針であり、人生の支えです。彼女は先に光が見えない、出口が分からない、暗いトンネルの中にいるような心境で、明かりとなってくれるキリストを求めていたのでしょう。彼女は当時、大学3年生で、大人として生きるために道を求めていたのだと思います。実は、わたしも大学生になって初めて教会を尋ねたのですが、社会人として、大人として生きるために、自分の生き方の芯となるものとしてキリスト教を学ぼうとしたのでした。五里霧中の状態で自分がどう生きるべきかを探し求めていました。それはまさに、生まれつき目の見えない人が、物乞いをしている状態だったと言えます。

聖書の中のこの人は、イエスさまと出会って、視力を回復させてもらいました。しかし、神のみ業は、この奇跡的な癒しに限られません。むしろ、聖書がわたしたちに語るところによれば、彼の心眼が開かれたことの方が重要です。

四旬節は、もともと復活祭に洗礼を受ける志願者が信仰を告白する準備のときでした。今日の福音、ヨハネ9章もこの時期に読まれる伝統的な個所です。生まれつき目の見えない人がイエスさまと出会い、闇から光へと移される、闇から光へと生まれ変わる物語です。

聖書の表現では、目が見えないこと、耳が聞こえないことは、神を知らずに、または神を信じずに生きていることのたとえです。聖書は、その状態を「罪」と言い表しています。イエスさまを世の光として認めることができない状態です。しかし、イエスさまは自らその盲人に近づき、彼の目を開かれます。自分を照らす世の光としてイエスさまを知ること、それが救いであり、新しい命を生きることであります。

ですから、盲人が見えるようになることは、聖書の表現では、神のみ業が現われたことであり、世の救い主が現われたことであり、イエスさまこそまことの救い主であることを指示しているのです。イエスさまのみ言葉≪シロアムに行って洗いなさい≫は、イエスさまを救い主と信じて洗礼を受けなさい、新しく生まれ変わりなさいという福音的な勧めに他なりません。

自分が目の見えないこと、耳の聞こえないことを認めて、門をたたく者、求める者には、必ず門が開かれ、探すものが見つかります。しかし、見えると言い張る者は、実は見るべきものを見てはおらず、闇に留っていて、それが闇であることを知りません。

さらに、聖書は、イエスさまを自分の目を開いてくださった方と知った男は、ユダヤ教の会堂から追放されることをも辞さず、イエスさまをメシア、キリストであると告白したと語ります。

≪ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。≫

このことは、少し説明を要します。イエスさまの在世中には、キリスト教徒という概念はありませんでしたし、キリスト教徒をユダヤ人社会から追放するという決定もありませんでした。ヨハネ先生は福音書を、ただ過去の出来事を歴史として書いたのではなく、自分の教会の信者たちの直面している状況に合わせて書いています。ヨハネ先生が福音書を書いたのは一世紀の末だと考えられていますが、その当時には、キリスト教はユダヤ教の一派とは認めらなくなり、クリスチャンはユダヤ教の会堂から締め出され、破門されるようになっていたのです。ヨハネ先生は自分の教会に集う者に向かって、イエスさまは信じる者を必ず守ってくださるから、追放されることを恐れずに信ぜよ、と教えているのです。

ところで、今日の日本社会でキリストを信じて生きることもまた、容易なことではありません。世俗的、実利的なものの見方、考え方が行きわたり、神を仰ぎ見るわたしたちは昔の人か異星人のような異質の存在となっています。また、地鎮祭や法事との付き合いも欠かせないのが悩ましいところです。そんな中でも、キリスト者として気骨をもって生きよ、もう一度その覚悟を固めよ、とイエスさまはわたしたちに呼びかけています。イエスさま自身、わたしたちの救いのために罪人としてユダヤ教指導者によって棄てられました。イエスさまを信じ従うわたしたちもまた、イエスさまと同様の道を歩み、苦難をとおって栄光へと至るのです。しかし、わたしたちはこの点において、あまりに不徹底であると思います。わたしたちはかつては闇の中に住んでいましたが、いまは主の恵みを知り、命の光の中に生かされています。この幸いを喜び、イエスさまと出会った盲人のように、決然と、心の底から主に感謝し、主を賛美しましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン

2011年3月27日 四旬節第3主日 「それは、私である・・出会いの恵み」

ヨハネによる福音書4章5〜26節
説教:五十嵐 誠 牧師

それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた.すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
ヨハネによる福音書4章5〜26節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

 

世界各地で起こっていることに「差別」があります。 人種差別、宗教的差別、同じ民族による階級的差別・インドのカースト制度、日本では部落問題などです。一昔前の「ルーツ」というアメリカの黒人奴隷の映画が印象的でした。今はアメリカの大統領にオバマさんがなる時代ですから、大部変わったとは言えますが、去年の中間選挙で、ティー・パーティとか言う集会の影響で大敗しましたが、その根底に人種差別があると言います。やはり根深いなと思いました。イエスの時代にもありました。かつては同じ仲間でしたが、お互いに付き合わない状態でした。「サマリア人」と「ユダヤ人」でした。サマリア人(サマリアじん)はユダヤ教に対抗して特別な教派を形成していた、サマリア地方の人々を指した。今のパレスチナの半分の上部がサマリアで、下方がユダヤになります。死海がある方です。
紀元前721年アッシリアの王サルゴン2世のサマリア攻略後、アッシリアの各地から集められた人々がサマリアに移住し、自分たちの宗教とユダヤ教とを混ぜ合わせたものを信じました。(列王下 17:24-34)。独自の聖書(モーセの五書)と神殿を持っていました。そのことからユダヤ人はサマリア人を正統信仰から離れたものと見なし(ヨハネ:4:8参照)、交わりを絶っていました。(ヨハネ 4:9)。福音書にもしばしば現れ(ヨハネ 4:39-42、ルカ 9:52,53など)、使徒言行録の中では彼らがイエスの福音を受け入れた様が語られている(使徒 8:5-25)。

今朝はイエスとサマリアの女との出会いから学びたいと思います。出会いの場所は「ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町」でした。そこに「ヤコブの井戸」がありました。ヤコブとは旧約聖書ではユダヤ人の祖先とされている人物です。その井戸はサマリヤ人の伝承によるとヤコブが掘ったとされていました。いわば、名所・旧蹟です。今聖地に行くといろんな名所旧蹟があります。
イエスは「旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」とあります。疲れたなんてちらっと書いていますが、イエスの人間性を感じます。ヨハネ福音書は特色が合って「時・時刻」を書いています。今日の出来事は「正午ごろ」、「夜」とかです。印象深さを与えます。

会話の発端はイエスが「水を飲ませてください」と言われ、女が「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですかと言った」所から始まりました。その理由は、先ほどいいました「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」からでした。

イエスと女の人の始まりは「水」の問題でした。砂漠や荒れ地では「水」が大変です。TVでは水源地や井戸に子供が来て、女子がバケツや天秤棒に水かめを吊って、日に何回か遠くまで通うのを見ます。女と子供が水くみ役です。日本NPOが村に井戸を掘って贈る運動をしています。ですから、この女の人も、仕事を減らしたいと思ったのかも知れません。イエスが「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と。ですから「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」から分かります。蛇足ですが、「主よ」(11節も)という言葉をカトリックの神父は「旦那さん」と岩波書店の聖書は「旅の人」と訳しました。主というのは神的な意味があるからです。

禅問答的な面もありますが、次第にイエスのこと、ふさわしい礼拝へ、そして、彼女が待っていた方との出会いへと進んでいます。キリスト出会うことで起きることがあると思います。彼女はイエスと出会い・・偶然であれ、そうでない場合でも・・コミュニケーションが出来て、誤解やら反感があり、そんな思いを正されて、ついにユダヤ人を避けていては出会うことの出来ないメシア・救い主に心を開かれて、導かれて出会ったのでした。彼女はこの後、「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。この方がメシアかもしれません」と。大事な水がめを放っておいた程の出来事と言えます。

この出来事から、今私たちはなにを学ぶかですが、私は信仰に関して一つ思います。世間では信仰は困ったときのもの・・病気になったとき、困ったとき、追い詰められたとき、年老いたとき、場合によっては、受験や就活、婚活・・今は離活も・・に必要なものだと考えています。だから、今は目の前のことに専念し、楽しみ、自由に勝手に生きようと思うのではないかと思います。しかし、サマリヤの出来事は、日常生活に起きています。信仰とか宗教は、生活の状況に左右されないことを示していると私は思います。信仰とか宗教は、どう生きるかの根底に関わるものですから、順境の時にも、否、順境の時こそ、真剣に向かい合うべきものです。そう思いますが、どうでしょうか。苦しいときの神頼み式の生き方でなくて、信仰は自分の生き方の「中心」においたとき、私たちを生かす力となります。昔、修道女・シスターたちを見たとき、多くの人は彼女は、彼女たちは何か大きな悩みや苦しみをしたからと思ったものです。でもそうではないのです。そんな人はほとんど、いないと言います。あるシスターに会った時、すばらしい方で、活発なかたでした、外の社会で働いたら、もっと良い働き、結婚したら良妻賢母だろうなと見えたかたでしたが、失礼と思いましたが、「あなたなら、もっと良い働きの場所があるのでは・・」と聞きました。すると、そのシスターは「そうなんですけど、神様に会ったから、しょうがないんですね」と淡々と答えてくれました。ある日、ある時、神がその方に出会って、いや、シスターが神と出会ってたのです。そんな時が多くの方にと願っています。

イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と。ちょっと抽象的で分かりにくい表現ですが、イエスを信じる者の持つ信仰の姿を描いているのです。キリスト教は何か暗いと言うか、弱さを言われます。韓国から来たキリスト教の高校生が「日本教会はお葬式の雰囲気がしている」といいました。韓国の教会は元気だそうです。生き生きした雰囲気が一杯だそうです。私がアメリカの教会を訪問したとき、牧師が一段高い説教壇から・・ルーテル教会は説教壇が・・日本のように平面の床にあるか、少し高い祭壇の横・・この教会のようなものでなく、上の方、見上げるような所に・・劇場の貴賓席のように・・高いのです・・身振り手振りで、声だかに説教していました。日本人牧師は原稿を読んでいる感じがします。講義をしているみたいです。また、信徒も、額に八の字をしているような暗い、悩んでいる顔をしているといわれます。真面目過ぎるとも。でも、そういう顔は・・暗い顔は形容矛盾です。本当は「明るい」が正しい形容詞であるはずだからです。

去年の暮れに、秋田の田沢湖で絶滅したと言われた「クニマス」が静岡の「西湖」で発見されました。私もキャンプに行ったことありました。サカナ君がTVに登場して話題を蒔きました。田沢湖に帰そうというのですが、だめだそうです。それは湖に酸性河川水が流入して、湖水が生きていない、つまり死んだような湖らしいのです。水のたまった湖が澱んで、魚も住まない、水も飲めない。死んでいる信仰はそれに似ています。生きている信仰は淀みなく流れる泉に似ています。水はいつも澄んでいます。泉はこんこんと湧き続けます。そのように流れ続ける信仰が生き生きとしています。イエスの「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」からです。また、イエスは「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)とも言われています。泉と生きた水・生ける水とは何でしょうか。

今、私たち信仰者は「泉・井戸」と「生きた水・生ける水」(4:10,7:38)を持つものです。それはイエスご自身と聖霊です。それはこんこんとわき出る泉・尽きることのない井戸を持つことであり、生きるすべての道で、信仰者を導き、助け、励まし、慰め、信仰者を生き生きとした、元気な者に導いてくれるのです。
イエスはご自分のことを、「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である」(ヨハネ黙示録1:17-18)と言っていますが、最初の者、最後の者とは聖書では「神」としてのイエスを表します。(黙示録2:8)*参照最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方・キリストが、次のように言われる。
しかし、文語訳聖書はこんな風に訳しています。「恐れるな、我はいやさき(最先)なり、いやはて(最後)、生ける者なり」と。私は旧約聖書の言葉の詩人の「主よ、あなたはわたしを知っておられる。・・わたしの道にことごとく通じておられる・・前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる」(詩編139:1-4)を思い出しました。皆さんは列車が高い山や峠を喘ぎながら上る時、スイスのアルプスや日本では前と後ろに機関車を連結(重連)しました。時には機関車三台の三重連もありました。徳川家康は「人の世は重荷を負って行くようなもの」と言いましたが、恐れや苦難、心配などの中で、生きているイエスが、私たちを引っ張り、押し上げてくださるという信仰と信頼を持つとき、一歩を踏み出す勇気が出るのです。

今年(2010)の1月7日の朝日新聞の「天声人語」におもしろい記事がありました。岡本眸さんという方の俳句に「温めるも冷ますも 息や日々の冬」というのがあります。息というものは重宝なもので、かじかむ指を温められるし、熱い雑炊を冷ますことも出来ます。生きることのささやかな幸せを感じさせる名句です。寒い季節ほど、人は「幸せ」への感度をふくらませるように思う。その幸福感は、収入が多いほど大きいものでもないらしい。米国で調査したら、日々の幸せを感じる度合いは年収7万5千ドル(620万円)で頭打ちになるという結果が出たと言います。プリンストン大のカーネーマン名誉教授でノーベル賞受賞者が45万人を電話で調査しました。教授は「高い年収で満足は買えるが、幸せは買えない」と結論づけました。幸せ者とは小さな喜びを十分に味わえる人、ということになろうと言います。人は幸せを願っています。どのような状態を幸せと見るかは、人によって違ってきます。有り余る程の財産があっても、不幸と見るし、そうでなくても幸いと見ることもあります。

聖書は幸せをどう見るかですが旧約聖書から見ます。ヘブル語で幸いは「アシュレー」と言います。それは43回使われ、詩編26回と箴言7回で、77パーセントが二つの文書で占められています。人生の哀歓や知恵を語る本にあります。幸いとはですが、長くなりますから、纏めて行きます。1,主を神とする人・神の所有とされた人*(詩編33:12。2)。2,主に身を寄せる人*(詩編34:9)。3,主に信頼する人*詩編40:5)。4,主を畏れ、主の戒めを愛する人*(詩編112:1)。5,主の律法に歩む人*(詩編119:1-2)。6,知恵に到達した人*(箴言3:13)。7,罪を赦された人*詩編32:1-2)。これが「幸い観」です。

新約聖書では、イエスは「山上の説教」のはじめで、クリスチャンの幸福一覧表を述べています。八つの「さいわいである」(マタイ5:3-12。ルカ6:20-26))を揚げています。1,貧しい人、2,悲しむ人、3,飢え渇く人、4,憐れみ深い人、5,心の清い人、6,平和を実現する人、7,迫害を受ける人、8,キリストのために悪口に合う人です。旧約聖書とは違った新しさ・・常識的には幸いとは結びつきそうもない人が幸いだとされていることが言われています。一方、ルカは富んでいる人、豊かな人への、それは「不幸」だと言う言葉があります。私は常識的に幸福と思えないのが幸福とはなぜかと思いました。それは神が彼らを・・悲しむ人、飢え渇く人を・・慰め、満たし、憐れむからです。貧しい人を慰め、飢え渇きを満たす神が、その人を包み込むから幸いなのです。

人生はジグソーパズル・Jigsaw puzzleだと言います。このゲームは何十、何百のピースをはめ込んで完成します。私たちは日々、完全な絵が出来ることを願いながら、ばらばらのピースをつなぎ合わせて生きています。しかし、ピースが足りないと思うことがあります。それは合わないピースを探していたのかも知れません。神を中心としない人生は、最も大切なピースを欠いた人生です。もしも、自分の人生には何か足りないと感じたら、感じているなら、唯一の神だけが豊かに、そして完全に満足させる方であることを思い出して、人生というジグソーパズルを、神に完成してもらうようにしたいと思います。神は預言者イザヤを通して、私たちに訴えています。聞きましょう。
「なぜ、あなたがたは、糧にもならぬもののために金を費し、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる」。(イザヤ55:2)。 アーメン
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私の礼拝担当は本日で終了します。担当牧師としての約一年でしたが奉仕が出来て幸いでした。楽しく出来ました。私の貧しい説教に耳を傾けてくださって有り難うございました。この年になって今までにない勉強をしました。私には、この教会の前身の教会に最初の牧師として赴任した教会でしたが、今、最後の牧師としての奉仕を、その教会で終わるのは、不思議なことでしたが、それは恵みでした。そんな機会をくださった神と六本木教会の役員、会員に心から感謝します。有り難うございました。来週から新しい牧師の下で進んでください。神の大いなる恵みを心から祈ります。本当の有り難う、感謝します。

2011年3月20日 四旬節第2主日 「上昇志向」

マタイによる福音書20章17〜28節
説教:安藤 政泰 牧師

イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書20章17〜28節


この世の価値観と聖書の価値観

春は人の出入りが多くあります。 転勤の季節でもあるからです。栄転、左遷とその人々により受け取りかたは様々です。都会に転勤になれば、栄転で地方に転勤になれば左遷と単純に人は考えるようです。

この世の価値観です。

この世の価値観を否定したり 悲観的に考えたり、自分の現状を厳密に考え、自分の罪を、自分の業の深さに悩む、それは、この世の価値観に捉われることになります。

自分が否定的に感じたり、自分のマイナスと感じることを、肯定的に、積極的に向き合うことが出来ると時、それを 乗り越えたこたとになります。

それに 捉われ悩むとき、私達はこの世の価値観の支配下にあります。

先日女優の大竹しのぶの話をテレビで見ました

父が教職で アシシの聖フランシスを日本に紹介し、彼を尊敬し清貧生きた方との事でした。

貧しい事を誇る生き方、物にこだわらない生き方をされたそうです。

彼女がある神父と話した時に、この世的な「欲望が無いのですが」「嫌いな人はいないのですが」と尋ねたそうです。そのとき尋ねられた神父は「欲望はありますが」それを「希望」と呼びます。「嫌いな人もいますが」それは その人の「個性」ですと答えたそうです。

一般的に「欲望」はそれを満たした段階で次の欲望が生まれます。

しかし それを得たいと望んでいるときが最も良い時ではないでしょうか。

その人は「自分とは全く違う個性の人」と考えるときに、嫌いな人と向き合うこともできるかもしれません。

聖書ではイエスと共に生活した直接の弟子も又、その弟子の家族も、この世的な価値観をもっていたことを記しています。ゼベダイの子の母は自分の息子の出世を考えてイエスに特別にお願いしています。この願いは私達に取ってみたらば、天国でその指定席をイエスに予約するようなもの、と受け止められます。

宮殿ではなく馬小屋で、都会エルサレムではなくナザレの田舎で、栄光の王座ではなく、罪人を罰する十字架で、これがイエスが身をもって示された道です。イエスは本当に尊い方は仕えられる者ではなく、仕える者であるとしめしておられます。

この母のイエスへの願は、イエスを自分なりに信じ、確信したからこその願であり、子を思う母の願でもあったのでしょう。

自分なりに信じ、それを イエスにぶつけ、願っても良いのです。

それが 唯一のイエスに従う道ではないでしょうか。

「給仕する」と言う言葉のギリシャ語はディアコネオです。

このディアコネオは「塵」コニアと通ってディア、塵にまみれる行為、です。

愛はけっして奇麗事では済みません。塵にまみれ、身を汚す事もしばしばあるはずです。それは、イエスの受難がその事を語っています。

聖書の教える、ひとに仕えると言う事とこの世にしきたりとの間には。ある場合には大きな襞たりがあります。

しかし、私たちはこの世の価値観を否定するのではなく、その向こうに主が示しておられる道を見ようとするとき、私たちはこの世の価値観を超えることができます。

受難の主を裏切った弟子たちは、その現実の向こうに主が希望を示してくださいました。

それが 復活の主であり、昇天の主です。