2012年3月11日 四旬節第3主日 「真の神殿とは」

ヨハネによる福音書2章13〜22節
説教: 高野 公雄 師

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。

ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

ヨハネによる福音書2章13〜22節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、イエスさまがエルサレムの神殿で犠牲として捧げる動物を売っている店や両替の店を境内から追い出した出来事とその意味について、イエスさまご自身が語っている個所です。この事件は従来、「宮潔め(みやきよめ)」という名で呼ばれてきました。

聖書に親しんでいる人はすでにお気づきでしょうが、他の福音書では、イエスさまはずっとガリラヤ地方で活動していて、最後に一度だけエルサレムの都に上り、そこでこの「宮潔め」を行ないます。そして、そのことが直接のきっかけとなって逮捕され、十字架刑によって殺されることになります。このことは、小見出しの下にある参照個所、つまりマタイ21章、マルコ11章、ルカ19章に共通して描かれています。

ところが、ヨハネ福音では、イエスさまは活動の初期に、過越祭のころエルサレムに上り、この事件を引き起こします。また、過越祭はほかにも6章と11章に現われますし、最後も過越祭でした。このことから、昔からイエスさまの活動期間は三年間とみなされてきました。しかし近年、福音書に描かれた出来事の順序は必ずしも年代順ではないと考えられるようになり、活動期間は一年とか二年とか短かめにみなされています。

《ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた》。きょうの福音は、この言葉から始まります。過越祭はユダヤ教の巡礼祭です。ユダヤ人の男子はこの祭には毎年エルサレムの神殿に巡礼することが求められていました。なぜなら、過越祭が記念する出来事こそが、イスラエルの民をユダヤ人とし、ユダヤ教徒とした、大事な祭りだからです。

その出来事は、旧約聖書の出エジプト記12章その他数か所に記されています。神はモーセを指導者として立てて、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を紅海を渡ってエジプトを脱出させてくださいました。エジプトを脱出できる決め手となったのは、春分の後の満月の日に神の怒りが降り、エジプト人の初子が殺されるという出来事でした。合理的に考えれば、伝染病が広がったのかも知れません。その際、ユダヤ人たちにはあらかじめ、しるしとして子羊の血を家の入口の鴨居と柱に塗っておけという命令が伝えられており、神はそのしるしの付いた家は通り過ごしたので、ユダヤ人の初子は神の怒りを免れました。この出来事によってユダヤ人たちはエジプトを脱出できたのです。出エジプトの出来事は、奴隷身分の者たちが自由身分への解放された出来事であり、彼らがこの救いの神を信じるユダヤ教徒として新たに自分たちの社会と国を形成する基礎となったのです。

あの日、過越しのために子羊が屠られ、その血が家の入口に塗られて、その家の者たちが救われました。後にイエスさまは過越しの子羊として十字架上で殺されます。これを私たちを救うための出来事、神の愛の真実を証しするわざと信じる者は救われると宣べ伝えられるようになります。ユダヤ教の過越祭と、それに代わるキリスト教の復活祭が対比して並べられているのです。

《そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」》。

ユダヤ人たちは巡礼の旅をして過越祭に神の宮であるエルサレム神殿に上ってきます。そして、神殿に感謝の献げ物をささげます。そのための牛や羊や鳩が、境内で売られていたのです。お賽銭を献る人は、そのために当時流通していたギリシアやローマの通貨を昔のユダヤの貨幣に両替する必要がありました。ローマの通貨には、神として礼拝することを求める皇帝の肖像が刻まれていたからです。それで両替商もいたのです。動物商も両替商も神殿には必要なものではありました。

では、なぜイエスさまはこのような乱暴狼藉を働いたのでしょうか。悪徳商人を懲らしめて、神殿を本来の祈りの場とするためだったのでしょうか。確かにそういう思いもあったでしょう。しかしむしろ、イエスさまは、「宮潔め」において、当時の宗教家たち、政治家たち、実業界の者たちが日頃の対立を越えて利害を共有し、ユダヤ教の行方を、国の行方を危うくしている神殿体制に「否」を言い、新しい信仰、新しい社会のあり方を教えているようです。

イエスさまの行為自体は小さなものに過ぎず、その日のうちに何事もなかったかのように、すっかり元に戻ってしまったことでしょう。イエスさまの行為そのものよりも、ここではその行為に託した象徴的意味を読み取ることが大事なのです。

《弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した》。これは詩編69編10の言葉です。ユダヤ社会の上層にいた人たちは、彼らは主観的には神を思い、国を思っていると自覚していたのでしょう。しかし、実は彼らは神殿を食い物にしていたのです。そういう神殿は必ず滅びてしまいます。彼らは立場の違いを越えて手を結び、イエスさまを亡き者としました。さらに彼らは、祖国が戦争に走るのを止められず、神殿体制は完全に崩壊しました。ユダヤ人たちがローマ帝国に対して仕掛けたユダヤ戦争(66~70年)の結末です。ヨハネが福音書を書いたときには、このことはすでに起こっていました。イエスさまが在世当時は分からなかったのですが、イエスさまの宮潔めは、神殿礼拝の終わりを告げていたのです。イエスさまの出現とともに、すでに新しい神礼拝の時代が始まっていたのです。

《ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである》。

イエスさまにおいて示された神の真実を受け入れない指導層の者たちは不信仰の道を突き進んで、イエスさまを殺すが良かろう、神殿を破壊するが良かろう。だが、イエスさまは十字架上の死と三日目の復活によって、救いの完成を告げる新しい時代を切り開く、新しい神殿を造ると宣言なさっています。この神殿ではもはや牛も羊も鳩も要りません。イエスさまが犠牲となられたからです。

そもそも神殿とは、神の住まいであり、神と人がそこで出会う場所を意味しています。死んで復活したイエスさまにおいて、神は人と共におられ、人は神に出会うことができるのです。神を信じる者が集まって、真の礼拝を献げることができるのは、イエスさまのからだとしての神殿においてです。この神の宮、父の家、イエスさまの身体として教会を、ふたたび商売の家としてはなりません。

私たちのこの世の旅路は、このイエスさまの十字架と復活によって与えられた神の命を求める歩みです。ものが溢れ、また、いろんなシステムが私たちの周りにある中で、私たちはただそれらに流されて生きてしまいます。今あらためて神を見つめ、イエスさまの十字架への歩みに従い、復活に希望を置く生き方をしたい、また、そこからこの世を見つめ直して歩んでいきたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年3月4日 四旬節第2主日 「第三の受難予告」

マルコによる福音書10章32〜45節
説教: 高野 公雄 師

一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

マルコによる福音書10章32〜45節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

いま私たちはイエスさまの死と復活の恵みを深く思う四旬節を迎えていますが、ただ今はマルコ福音書から、第三の受難予告とそれに続くイエスさまが受難と死の意味を語る個所を聞きました。

きょうのマルコ10章の受難予告に前に、8章に第一の、9章に第二の受難予告が記されています。この三回ともイエスさまの予告の後には、弟子の誤解とイエスさまの説明が続きます。8章ではペトロがイエスさまをいさめる大間違いを犯して

2013年3月3日 四旬節第3主日 「悔い改めか滅びか」

ルカによる福音書13章1〜9節
高野 公雄 牧師

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

ルカによる福音書13章1~9節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

《ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。》

ピラトは、ローマ帝国皇帝ティベリウスによってユダヤの総督として任命され、派遣されたローマ人貴族で、イエスさまに十字架刑を言い渡したことで、使徒信条に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と、ニケア信条に「ポンテオ・ピラトのもとで私たちのために十字架につけられ」と、その名を残しています。ピラトの統治の仕方が残忍であったことは有名で、その統治に抵抗するユダヤ人が殺されることはよくあったのですが、今回のガリラヤ人グループの事件は特別でした。彼らはただ殺されただけではなく、その血が犠牲動物の血とともに祭壇に注がれたというのです。

このような惨事を私たちはどう考えるべきでしょうか。まず第一に、これはピラトの非道を責めるべきでしょう。私たち自身が殺されることだってありえるのです。ところが、人々はかえって、ガリラヤ人たちがそれに値する悪事をしているのに違いない、「自業自得」なのだ、自分たちはそんな目に遭うはずはない、と死者にむち打つことで自分の不安を打ち消そうとします。「自業自得」とは、自分の行いの報いを自分が受けなければならないという意味の言葉です。同じ意味合いで、「因果応報」とも言います。人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあることを言います。しかし、イエスさまは、ガリラヤ人たちが遭遇した災難は、彼らが悪かったからではない、決してそうではない、とはっきりと否定します。

《また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。》

エルサレムはシオンの丘の上に建つ城壁に囲まれた堅固な町ですが、有事に備えて城壁の中まで地下水道で水が引かれました。それがシロアムの池です。シロアムとは城壁内の南東部の地名です。イエスさまがそこで生まれつき目の見えない人を癒した話がヨハネ福音9章に書かれています。シロアムの池の水は、東の城壁の外のキドロンの谷にあるギホンの泉から地下の水道トンネルによって引かれていました。エルサレム住民にとって水は非常に大切なものですから、池には見張りの塔が建っていたようです。その塔が倒れる事故で18人の命が失われました。彼らは水道トンネルの拡張工事をしていたのであろうと言われています。この事件についても、イエスさまは犠牲者の死は彼らの罪深さゆえの自業自得であるという考えに、「決してそうではない」と強く否定しています。

《言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。》

ピラトの事件も、塔の事故も、自己責任という言葉で片付けることはできません。イエスさまは繰り返して、「決してそうではない」と言っています。ヨハネ9章3に、《本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである》とあったように、不幸に見舞われた人が神の恵みに浴することができるように、私たちは福音の証し人として、また良き隣人として奉仕する課題が示されていると受けとめるべきでしょう。

「あなたがたも悔い改めなければ」という文は、犠牲者たちは悔い改め(神への立ち帰り、回心)がなかったから死んだ、だから、あなたがたも悔い改めなければ同じような目に遭うと読んでしまいそうです。しかし、イエスさまはそういう考え方を明確に否定しています。イエスさまはこの文で、犠牲者の罪深さとは関係なく、「あなたがたは悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と、私たち自身の神への立ち帰り、回心を呼びかけているのです。他人の問題ではなく、私たち自身が問題なのです。また、「滅びる」は、個々人の死よりも、もっと大きな滅びを意味していますが、不幸なことに、この預言は実現してしまいます。紀元70年にエルサレム神殿はローマ軍の攻撃によって崩壊し、ユダヤ人国家は消失してしまいました。著者のルカは、このことはユダヤ人が神に立ち帰らなかった、イエスさまを信じなかった罪の結果として起こったことと考えたようです。

このように、イエスさまは悲惨な出来事の報に接して、それを回心の機会としてとらえよ、と人々に回心を呼びかけています。しかし、問題は、悔い改め、回心を促す方法です。イエスさまが証ししている神は、人に罰を下して、それによって回心を促す、あたかもしごきとか体罰によって鍛えるかのような方法はとりません。そうではなくて、イエスさまは、人々の罪をあがなうご自分のわざを通して一人ひとりに対する神の愛、神の信実を人々に示し、その神の愛、神の信実の力によって人々の心がひるがえるのを促す、そういう仕方をとります。きょうの福音の後半は、このことを「実をのならないいちじくの木」のたとえ話によって強調しています。

《そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」》

ぶどうといちじくは、オリーブとデーツ(なつめやしの実)とともにパレスチナ地方の代表的な産物です。ぶどう畑の隅にいちじくの木を植えることはよくあったようです。畑の主人は三年間待っても実をつけないいちじくを切り倒せと園丁に命じます。しかし園丁は「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」と答えます。園丁は最後に「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言っていますが、これは文字通りの意味にとる必要はなく、待ってやってほしいという願いの篤さを強調する表現と受け取ってよいと思います。

この園丁の態度は何を意味しているでしょうか。洗礼者ヨハネの説教にも同じ比喩を使った言葉があります。《悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる》(ルカ3章8~9)。神に立ち帰り、神の子にふさわしい生活を取り戻しなさい、いまが最後のチャンスだと言っているようです。そして悔い改めに導く方法が、イエスさまのたとえでは、園丁が木の周りを掘って肥しをやってみたいという主人にたいする執り成しです。園丁のこの木への奉仕、それはイエスさまの人々に仕える地上の生活、とくにも罪人をあがなう行為としての十字架上の苦難を表わすものです。斧による裁きが実を結ばない私たちの上に降らず、私たちの裁きが免除されるために、良い園丁であるイエスさまはご自分が斧の裁きを受けたのです。実を結ぶように私たちに施される肥しは、イエスさまの御体と御血にほかなりません。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである》(ヨハネ3章16~17)。

私たち一人ひとりに対するイエスさまの深く大きな愛、それは人間に対する神の信実を表わしています。神さまのこの篤い思いに促されて、私たちは神に立ち帰り、神の子としてふさわしく、神を敬い、隣人に奉仕する生活へと成長させていただけるように、イエスさまの心を私たちのうちに注入してくださるように、神に祈りましょう。

「神よ、私のために・・」と毎週うたう奉献唱の言葉を思い出します。《神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください》(詩編51編12~14)。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2012年2月26日 四旬節第1主日 「誘惑を受ける」

マルコによる福音書1章12〜13節
説教:高野 公雄 師

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

マルコによる福音書1章12〜13節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

教会の暦できょうは四旬節第1主日ですが、四旬節という言葉は、40日の期間を意味します。教会の昔からの習わしとして、復活祭前の40日間を、ご復活を祝う準備の期間と定めて、イエス・キリストの死と復活とにふさわしくあずかることができるように祈り、節制し、愛のわざを行うことに努めてきました。

この季節には、具体的には、肉を食べないとか、お酒を飲まないとか、お茶断ちをするとか、観劇を我慢するとかで自分を鍛錬し、聖書を読み、祈り、人に親切にし、寄付をするというように、信仰のわざ、愛のわざに励むのです。教会では、お花や飾りをなるべく省いて、紫の布だけを用い、グロリアやハレルヤを歌うのを慎みます。壁のバナーもはずしました。結婚式やお祝い事も控えます。しかし、きょうは年に一度の私たちの教会の信徒総会の日であることを記念して、聖壇にお花を飾っています。

ところで、四旬節は40日だと言いましても、ご復活を祝う日である日曜日はその数に入れないので、復活祭の46日前から始まることになります。それが今年は、先週の水曜日でした。四旬節の始まりの日は、「灰の水曜日」と名づけられています。そして、きょうは四旬節中の最初の日曜日というわけです。

《それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。》

復活祭の準備期間が40日と決まる根拠になったのが、きょうの福音です。イエスさまが荒れ野で40日の間、悪魔の誘惑を受けられた記事にもとづきます。

ところで、ここに出てきたクオーテーション・マークの付いた“霊”という書き方は、新共同訳聖書で初めて使われるようになりました。従来使っていた口語訳聖書では「御霊」(みたま)と翻訳されていました。聖書には、悪霊、汚れた霊、聖霊という言葉も出てきますが、そういう形容詞が何も付かないでただの「霊」という言葉が出てきます。それが御霊とか“霊”と訳されるのですが、神の霊の力強い働きを指す言葉です。

きょうの福音の前の段落(1章9~11)によりますと、イエスさまは30歳のころ、ユダの荒れ野に出てきて、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けます。そのとき、天が切り裂かれて、鳩が翼を広げて舞い降りるように、“霊”がイエスさまを覆いました。それとともに、《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という神の声が聞こえました。これは、神が霊を注いでイエスさまを「神の子」に、私たちにもっと馴染みやすい言葉を使うならば、「救い主」に任命したことを表わしているのでしょう。

イエスさまを救い主として任命したその同じ神の霊が、今度はその強い力でイエスさまを荒れ野に押し遣り、サタンと対決させる場面をもたらします。神の子であること、救い主となるためには、この世の精神、あり方との闘いが不可欠なことを意味します。

一般にこの場面は「荒れ野の誘惑」と呼ばれており、私もこの説教題を「誘惑を受ける」と付けました。しかし、「悪魔から誘惑を受ける」場面という理解は同じ場面を描いたマタイ4章とルカ4章にはふさわしくとも、マルコ福音のこの場面は、「神から試練を受ける」場面と受け取る方がよりふさわしいようです。

マタイとルカの平行記事と比べて、マルコの記事は非常に短く、断食についても、誘惑または試練の中身についても、サタンとの闘いの結果についても書かれていません。この短い記事が何を語ろうとしているのか理解する手がかりは、「40」という数字と「荒れ野」という場面の二つのキーワードです。この言葉によって聖書の民がすぐに思い出すのは、あの「荒れ野の40年」のことです。

紀元前13世紀のことですが、エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民はモーセに導かれて、エジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野に到着しました。荒れ野は食べ物も水も乏しく、また野獣も住んでいて、人の命が危険にさらされるところです。その意味で悪霊たちの潜む場所というイメージが付きます。神に信頼して約束の地に向かって進んでいくのか、目の前にある困難に怖じ気づいて、命からがら元の奴隷状態に逃げ帰のか、荒れ野の旅はイスラエルの民にとって試練のときとなりました。荒れ野の旅は、神が民の信頼を試すと同時に、民が神の力を試す、そんな40年でした。ぎりぎりの生活の中で、神は岩から水を出し、天からマナを降らせて民を養いました。また人々は乏しいものを分かち合い、助け合って生活することを学びました。この試練と訓練の旅を経て、約束の地に入ることができたのです。これが「荒れ野の40年」です。

いま、イエスさまは神の子、人々の救い主として、神の霊によって荒れ野の試練に追いやられます。イエスさまはサタンと一対一の対決、力比べの40日間を闘います。

《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた》。

マタイとルカの記事では、40日間断食して空腹になったあとにサタンから誘惑を受けますけれども、きょうの福音では、この40日間がサタンとの対決のときです。サタンの味方は荒れ野に住む野獣です。イエスさまの味方は神が遣わした天使たちです。天使たちは「仕えていた」とありますが、この言葉は、基本的には「給仕する」という意味を持っています。同じ言葉が、2月5日の礼拝で読んだ1章31節では、シモン・ペトロのしゅうとめは一同を《もてなした》と訳されて出てきます。マルコによれば、イエスさまがサタンと闘っていた40日の間、断食していたのではなく、天使たちが食べ物を運んでいたのです。その昔、神が岩から水を出し、天からマナを降らせて民を養ったのと同じように、今度は天使たちがイエスさまを支えたと述べているのです。

この対決あと、マタイは《そこで、悪魔は離れ去った》、ルカは《悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた》と記しています。一方、マルコは勝敗とか結末のようなことは何も書かず、すぐに、《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》(1章14~15)と、イエスさまが伝道を始めたことが続いています。つまり、マルコ福音のこの荒れ野の誘惑の段落は、単なる洗礼後の一つの出来事なのではなく、洗礼に始まって十字架に至るまでのイエスさまの救い主としての公の生涯の総括的序文となっているのです。悪霊追放のわざだけでなく、これから物語られるイエスさまの全活動が、神に逆らう闇の力、悪の力との闘いであって、十字架において罪と死の闇に対して最終的な勝利を収めるものであることを、私たちに伝えているのです。

「荒れ野の40年」が、私たちに示唆することはたくさんあります。私たちの生活が、荒れ野にあるかのように恐れや不安に囲まれていること、神は昔と同じように私たちの生活を守り、恵みを与えてくれていること、しかし私たちはそのことを十分に認識して神に感謝しないこと、また神に信頼しきれないこと、神はそういう私たちに忍耐し、いまもなお見守ってくれていることなどです。そして、私たちに対する、神のこの忍耐と寛容と愛は、きょうの福音が伝えるイエスさまの罪と死と闇の力に対する体を張った闘いの勝利の賜物だということも教えられます。どうか、この四旬節の季節を、この福音にもとづいて、イエスさまを信頼し、世俗的な心を翻して神さまに立ち返る、そういう鍛錬の時として過ごしてください。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン