2011年6月5日 昇天主日 「イエスの昇天」

ルカによる福音書24章44〜53節
説教:高野 公雄 牧師

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

ルカによる福音書24章44〜53節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音の箇所は、ルカ福音書の結びの部分でイエスさまの昇天の記事です。福音書記者のルカは福音書の続編として、使徒言行録も書いています。きょうの第一朗読でその冒頭の部分を読みましたが、やはりイエスさまの昇天の記事でした。つまり、イエスさまの昇天は、イエスさまの活動を描いた福音書を閉じ、弟子たちの活動を描いた使徒言行録を始めるという、二つの文書の繋ぎの出来事になっています。

イエスさまの昇天の出来事を描く聖書の記事は、ルカが書いた二つの文書の他に、多くはありません。しかし、「昇天」は、早い時期から教会の信仰告白の中に必ず含まれる信仰箇条として認められてきました。きょうは聖餐礼拝ですから、あとでニケア信条を一緒に唱えますが、ニケア信条には、「聖書のとおり三日目に復活し、天に上られました。そして父の右に座し・・」とあります。説教礼拝のときに唱える使徒信条には、「三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し・・」とあり、三位一体主日の礼拝で特別に用いられるアタナシウス信条にも、「死人の中から復活し、天に昇り、父の右に座し・・」とあります。

古代の人たちは、世界を三層、つまり天と地と陰府(よみ)からなる三層と考えていました。それで、「天に昇る」というと、現代人は、イエスさまが宇宙ロケットのように天空に上昇する様子を思い描きつつ、それは非科学的だとして否定するということになりがちです。しかし、天に昇ることも神の右に座ることも、実は人の目に見える出来事の描写ではありません。古代にはまだ「天」と「空」の使い分けがなかったようですが、人の目に見える上空は「天」heavenではなく、「空」skyに過ぎません。「天」とは、上空のことではなく、目に見えず、人が描写することが不可能な、神の栄光の座のことを言います。イエスさまの昇天とは、復活したイエスさまが栄光の座、すなわち全能の父である神の右に挙げられたことをあらわしているのです。

この「右の座」という表現は、古代オリエントの宮廷の習慣に由来しています。王の右手の側に首相が座って、王から委託された権威と権力をもって支配しました。聖書は高く挙げられたイエスさまをあらわすために、このイメージを用いたのです。

ちなみに、このイメージは、中国や日本では左右が逆で、左が優位でした。ひな祭りの飾りを例にとりますと、昔は雄雛が左に座り、雌雛は右に座りました。左大臣と右大臣では左大臣が上位です。この場合の左右は、「左近の桜、右近の橘」もそうですが、雄雛(天皇)から見ての左右であり、お雛様を見る私たちの側から見ての左右ではありません。ところが、ヨーロッパの文化が入ってきますと、昔と左右が逆になり、大正天皇はつねに右に立ち、皇后が左に立つように変わりました。それにつれて、お雛様の置き方が二通りできてしまったということです。

話しを元に戻します。イエスさまの昇天と神の右側への着座ということで、キリスト者は、復活したイエスさまは目で見ることはできないけれど、いまや王としての権威をもって私たちと共にいてくださる、ということを信じているのです。52節に《彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り》とあります。「イエスを伏し拝む」とは、「イエスさまを礼拝した」ということなのですが、ルカ福音書の中で、弟子たちがイエスさまを礼拝すると言われているのは、ここだけです。福音書の最後に来て、この昇天の出来事によって初めて、弟子たちはイエスさまがどういう方であるかを悟ったのです。イエスさまを神であり王であると信じるのが、キリスト教です。

このことを、最も早い時代の教会の信仰告白は、「イエスは主である」または「イエス・キリストは主である」という言葉で言いあらわしました。たとえば、ローマ10:9《口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです》。またⅠコリント12:3《ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです》。またフィリピ2:11《すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです》。またⅠペトロ3:5《心の中でキリストを主とあがめなさい》

「主」という言葉(旧約ヘブライ語でアドナイ、新約ギリシア語でキュリオス)は、旧約聖書の伝統では、神名ヤハウェを大事にとっておいて用いず、その代わりに用いた神の呼び名です。それとは別に、当時の皇帝礼拝やいろいろの宗教でも、礼拝対象を「主」(ギリシア語でキュリオス、ラテン語でドミヌス)と呼んでいました。つまり、「イエスは主である」は、イエスさまを神として信じることを言い表しているのです。

そのイエスさまは、弟子たちから離れ去るに際して、両手を挙げて祝福しました。その両手には釘あとがあります。人々はイエスさまを呪い、十字架にかけましたが、イエスさまはその呪いを祝福に変えて人々に返します。この祝福は、弟子たちの裏切りや、離反・逃亡の罪を赦すという宣言でもあります。イエスさまの十字架は、人々の罪の贖いのためであったことがいよいよ明らかになりました。47節に《罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる》とありますが、人が悔い改める前に、まず神がイエスさまの十字架によって人に悔い改めを宣べ伝えているのです。私たちは、ただこの神の働きを証しすることができるのみです。

それは、ヨハネ3:16-17に《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである》とある通りです。

きょうの福音の最後に、写本によっては「アーメン」と付け加えられています。私たちもまた、この福音書に描かれたイエスさまと父なる神を賛美し、「アーメン」と応えて読み終えるように招かれているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年5月29日 復活後第5主日 「信仰の実と愛」

ヨハネによる福音書14章15〜21節
説教:高野 公雄 牧師

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

ヨハネによる福音書14章15〜21節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

今年は復活祭が遅く、4月の第4日曜、24日でした。きょうは復活後第5主日、つまり復活後36日目になります。使徒言行録1章によりますと、イエスさまは復活ののち40日間にわたって折々に弟子たちに姿を現して神の国について教え、ついに天に上げられました。40日目の今週の木曜、6月2日は「主の昇天祝日」に当たります。ですから、きょうは「復活後第○主日」と呼ばれる季節の最後でして、来週はもう「昇天主日」、再来週は「聖霊降臨祭」となります。

教会の暦で「復活後第○主日」という季節は、復活したイエスさまがいまも私たちと信仰の交わりをもち、私たちの歩みを支え、導いてくださることを、イエスさまご自身のいろいろな言葉をとおして学ぶときです。しかしまた、きょうは昇天と聖霊降臨の直前に当たり、イエスさまが昇天してしまった後はどうなるのか、イエスさまに代わる弁護者・聖霊が送られることを前もって読み、そのときに備えるという性格をも持たされています。

きょうの福音書は、ちょうどそういう趣旨に沿う個所です。たった7節の短い個所ですが、18節を中心として、前半と後半に分かれます。18節前半は中心聖句でして、イエスさまは《わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない》と言います。ここで、みなしご・孤児とは、弟子たちが師と仰ぎ、主と頼んだイエスさまがいないままに放置される状態を言います。イエスさまは十字架にかかった後も、昇天の後も、あなたがたを助け手なしのままにはしない、と約束します。

前半の15~17節では、イエスさまは昇天の後には、自分に代わる別の弁護者つまり聖霊を弟子たちに送り出し、聖霊をあなたがたと共にいるように、あなたがたの内に留まるようにする、と聖霊を降す約束を与えます。そして後半の18節後半~21節では、復活し昇天したイエスさまは、ふたたびあなたがたのところに戻ってくる、とご自分の再来を約束しています。

このように、復活のイエスさまと共に生きるということは、聖霊と共に歩むことであることが示されます。聖霊は、イエスさまに代わる別の弁護者だと言われていますが、聖霊と復活したイエスさまとは、どこが同じでどこが違うのか、よく分かりません。三位一体はとても難しい教えです。でも、私たちが信仰生活を送るうえでは、聖霊は復活したイエスさまの霊のことだと考えて差し支えないでしょう。

ところで、きょうの福音書は、同じ内容をもつ言葉が、始めと終わりにあって枠を作っています。15節に《あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る》とあり、21節に《わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である》とあります。「わたしの掟」とは、13章34の《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》という新しい掟が考えられています。イエスさまを愛することは、イエスさまに愛された者が互いに愛し合うということに向かうはずだ、とイエスさまは考えています。愛は、愛によってのみ答えることができるのです。ですから、「掟を守る」と言っても、その掟はただ外面的に守るべき規則でもなく、道徳的義務でもなく、イエスさまの言葉と業を通して神の愛を受けた者の心の中に自発的に湧き出るものです。

「そうすれば」とイエスさまは続けます。《わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる》。15節と16節は「そうすれば」という言葉でつながっています。新共同訳では、このつなぎの言葉が省かれています。私たちがイエスさまを愛し信じるならば、イエスさまはそれに答えて、私たちのために父なる神に願ってくださる。父はイエスさまの願いに答えて、別の弁護者を送ってくださいます。信じる者はだれでも、イエスさまとの生き生きとした人格的出会いを必要としています。そして、イエスさまとのリアルな交流は、私たちが自力でできることではなく、聖霊の導きにあずかってはじめて得られる体験なのです。

21節でも、この同じ事柄が違った表現を用いて言われています。《わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である》につづけて、《わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す》と。イエスさまを愛することは、何をもたらすのか。それは、《その人にわたし自身を現す》ことだというのです。愛するということは、自分を愛する相手にあらわすことなのです。愛は、愛する者へと自分をあらわし、自分を与えます。自分をあらわすのは、相手を愛するためです。

最後に、ふたたび13章34の言葉に戻りたいと思います。《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》。ここで、新しい掟の前置き《わたしがあなたがたを愛したように》ということがとても大事です。これが、掟の基礎となっています。私たちはだれでも人から愛されることを必要としています。それでいながら、自分からはなかなか人を愛せません。人を愛せない、したがって人から愛される資格のない私たちを、まずイエスさまが愛してくださった。愛されることで愛を知り、私もまたイエスさまを愛し、イエスさまに愛される人間仲間を愛することへと導かれます。そして、私を極みまで愛し通されたイエスさまが、聖霊の助けによって絶えず私の心のうちにまざまざと映し出され、私を初めの愛へと立ち帰らせてくださいます。そして、イエスさまは私たちに、隣人に自分を開く愛と勇気を与えて、私たちに新しい生き方を始めさせてくださるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年5月22日 復活後第4主日 「道 真理 命」

ヨハネによる福音書14章1〜14節
説教:高野 公雄 牧師

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

ヨハネによる福音書14章1〜14節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音書は、イエスさまが弟子たちに語りかけた励ましの言葉《心を騒がせるな》で始まります。イエスさまは最後の晩餐が済みますと、弟子たちに別れを告げる説教を始めます。その説教でイエスさまは、いよいよ最後の時が来たことを告げます。そして、《わたしが行く所にあなたたちは来ることができない》(13章33)と言い、ユダヤの裏切りとペトロの離反を予告します。当然のこと、弟子たちは動揺したことでしょう。そこでイエスさまは《心を騒がせるな》と語りかけます。心を乱してはいけない、という倫理的な話ではありません。心の乱れを、わたしがこれから話す言葉によって克服しなさいという励ましです。

しかし、その励ましが必要なのは、二千年前の弟子たちに限りません。現代人はみな不安のうちに生活しています。いまほど精神科医が、心理カウンセラーが必要とされている時代はありません。現代人は自分たちがどこから来てどこへ行くのか分からなくなっています。いわば「ふるさと」を失ってしまったのです。それで、本人が自覚すると否とにかかわりなく、現代人はみな不安なのです。イエスさまはそんな私たちに対しても語りかけます。《心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある》と。ここで《父の家》とか《住む所》と言われているのが、私たちの「ふるさと」、「人がそこから来て、そこへ帰る」所です。私たちの「ふるさと」は、イエスさまの示された父なる神のみ許にあるのです。

しかし、トマスには、そのことがまだ明白ではないと感じられました。《主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか》と問いかけます。この問い《主よ、どこへ行かれるのですか》は、ペトロもまたすでに13章36で訊いています。なるほど、目的地が分からなければ、そこにゆく道を知ることはできません。この質問は、はからずもイエスさまから偉大な言葉を引き出すことになりました。《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》。つまり、イエスさま自身がわたしは道であり、真理であり、命であるというのです。イエスさまの道は、十字架と復活の道です。十字架は、《あなたがたのために場所を用意しに行く》歩みであり、復活は、《行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える》歩みです。《こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる》のです。

イエスさまに従ってこの道を歩むのが、イエスさまの弟子の人生です。イエスさまの後に従って歩む道とは、13章34によれば、《わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》ということであり、マルコ8章34によれば、《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》、つまり己が苦しみを十字架とみなして、イエスに従うということなのです。

《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》。この言葉は日本人には評判が悪いです。日本人のもつ宗教意識は一般に、「分け登るふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という古い道歌が言うように、宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じであるというもののようです。ところがキリスト教は、正しい道を歩まなければ、目的地に行き着くことはできないと言います。そしてヨハネ福音書はここで、イエスさまこそが正しい道であり、イエスさまによらなければ、だれも父のもとに行くことができない、目的地に行かれないと主張します。イエスさまを知ることは、神を知ることです。これこそが、キリスト教をキリスト教たらしめる基本原則です。この原則を最初にはっきりと書き記したのがヨハネです。これがキリスト教をユダヤ教から独立させた決定的なポイントです。

《あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。》

私たちがそこから来てそこへ帰るそのところ、すなわち神のみ許を知っていさえすれば、神を信じることができさえすれば、不安な心も落ち着くことができるでしょう。でも、現代人である私たちはもはや神を信じることができず、ふるさとを失い、不安から逃れられずにいるのです。8節で弟子のフィリポは言います。《主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます》と。これは私たちみんなの心にある望みでもあるのではないでしょうか。神が見えさえすれば、信じることができるのに、人はその神を見ることができないのです。

イエスさまの答えはこうです。《フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ》。すなわち、私たちは肉眼で神を見ることはできないけれども、地上を歩まれたイエスさまの言葉と業をとおして、私たちひとりひとりに対する父なる神のみ心、愛を知ることができる。私たちはイエスさまを介して霊の目でもって神を見ることができるのです。それなのに、私たちはなんとしばしば神を見失い、神を疑うことでしょう。わたしたちは繰り返し繰り返し《こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか》というイエスさまの悲しみを帯びた慈しみの声を聞き、《わたしを見た者は、父を見たのだ》という諭しの言葉を聞かなければならないのです。多くの神々がいるのか、または神などという存在はいないのか、私たちには分かりません。しかし、私たちはイエスさまの言葉と業のうちに、私たちを赦し、愛する神のみ心を知ったがゆえに、神を信じるのです。その他に子細はありません。

ヨハネはすでにこのことを、福音書の冒頭に言っていたます。《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた》(1章14)。また《いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである》(1章18)。

使徒言行録11章26に《このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである》とありますが、キリスト者(クリスチャン)という呼び名は、もと「キリストかぶれ、キリスト狂い、キリスト馬鹿」というような蔑称だったと思われます。確かに、キリスト者は、キリストの心を自分の心として生きる者であります。私たちはキリストのことしか知りません。キリスト馬鹿つまりクリスチャンという呼び名を喜んで受け入れようではありませんか。そして、私たちは、日々、イエス・キリストとの生き生きとした交わりをもち、イエス・キリストと共に歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年5月15日 復活後第3主日 「良い羊飼い」

ヨハネによる福音書10章1〜16節
説教:高野 公雄 牧師

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

ヨハネによる福音書10章1〜16節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

復活祭後の第三主日は、中世以来、「良い羊飼いの主日」と呼ばれて、この聖書個所が読まれてきました。私たちはその伝統を受け継いで、毎年、この日にはイエス・キリストが「良い羊飼い」であるという福音を聞きます。復活していまも生きておられるイエスさまと、今のわたしたちとの関わりを、羊飼いと羊の関係の比喩を助けとして、より深く味わおうとするわけです。

《わたしは良い羊飼いである。》

イエスさまは11節と14節でこう繰り返していますが、「わたしは○○である」というイエスさまの自己紹介は、ヨハネによる福音書にいろいろ出てきます。6章に「わたしはいのちのパンである」とあり、8章に「わたしは世の光である」とあり、11章に「わたしは復活であり、いのちである」とあります。まだほかにも、14章の「わたしは道・真理・命である」とか、いろいろな表現が出てきます。これらは、単なる自己主張ではなく、そのときそのときの出来事に即したイエスさまの自己紹介であり、そのイエスさまに出会った人々の信仰告白でもあるのです。

《わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。》

羊飼いと羊の比喩では、羊飼いの羊たちに対する愛情、羊たちの羊飼いに対する信頼が、つまり相互の親密な交わりが表されています。羊飼いと羊の群れはパレスチナの人々には身近な光景で、その比喩の意味することはすぐに分かったと思います。ところが日本では羊が飼育されることは少なく、なじみのない話になってしまいます。犬好きと犬、猫好きと猫との関係に置き換えてみたら、その親密さ想像できるのではないでしょうか。それはともかく、この比喩は当時の羊飼いの実際の姿が背景にあって話されたものです。

当時のパレスチナでは、羊は広い牧場の柵の中で飼われていたのではありません。羊飼いは遊牧生活でありまして、50頭から100頭の羊の群れを、草のあるところを求めて旅していくのでした。羊は弱い動物なので、羊飼いは野獣や盗人から守りながら、草のあるところに導くのでした。夜になると、各地に設けられた囲いの中に入れます。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰の所有というわけではなく、いろいろな羊飼いの羊たちが混じって夜を過ごしたということです。朝になると、囲いから出すのですが、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いに付いていくのだそうです。羊飼いの方でも、一匹一匹の羊を見分けることができたそうです。

羊飼いはラテン語でパストールと言います。それは、「家畜に餌を与える人」を意味しています。それがのちには、教会で牧師に対する呼び名となり、ひとの魂を配慮する人を意味するようになりました。

羊飼いは羊の群れを導く強い指導力と一匹一匹の羊の状態を見分けで世話をする愛情を表す象徴です。それゆえ、古代オリエントでは、政治的な指導者、王は自分が羊飼いとして表されることを好みました。旧約聖書でも王や指導者を指す場合が多いですが、また先ほど交読した詩編23編のように、羊飼いは神さまを象徴することも少なくありません。そのように神さまを象徴する言葉を、イエスさまに適用しているのが、この個所です。

《わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。》

イエスさまが良い羊飼いだという根拠は、イエスさまが神さまと愛と信頼の関係において一体であることにあります。この一体の関係に基づいて、イエスさまと信徒たちの愛と信頼の関係が作られるのです。良い羊飼いは他にもいるかもしれませんが、神との一体のゆえに、イエスさまは唯一無比の良い羊飼いだと言えるのです。

《わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。》

15節にもありましたが、11節にも羊のために命を捨てるのが良い羊飼いだということが言われています。これは、イエス・キリストの十字架の意味を知らないと理解できない言葉だと思います。実際の羊飼いは、強盗に殺されてしまっては、羊を守れません。ですから、これは、イエスさまの死が、羊たちの運命をより良くしたというイエスさまへの信仰が根底にあって言われているのです。

《人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。》

これは、マルコによる福音書10章45節の言葉ですが、弟子たちが、イエスさまは私たちのために死んでくださったのだと信じたことを伝えています。

《最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。》

これはコリントの信徒への手紙一15章3~5節の言葉です。あとからクリスチャンになったパウロは、先輩たちから、「キリストは聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだ」と教えられたと言っています。

《ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。》

長い引用になりましたが、これは、ローマの信徒への手紙3章21~26節の言葉です。イエス・キリストの十字架上の死という謎を、イエスさまの弟子たちは、古代世界ではどこででも行われていた動物犠牲の祭儀にかたどって理解し、それはわたしたちの救いのためであると受けとめたのです。

このような信仰を背景にすると、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という意味が分かってくるでしょう。

《イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。》

マルコによる福音書6章34節には、こういう言葉があります。良い羊飼いであるイエスさまは、飼い主がいない羊のように、道に迷ったり、危険にさらされたりしている私たちの有様を見て、深く憐れんでおられます。

《わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。》

イエスさまは、私たちが羊飼いの声に耳を傾け、羊飼いに従うように招かれています。教会は、イエスさまが私たちを彼と共に生きる羊にしてくださることを知るところです。この良い羊飼いイエスさまを自分の人生に迎え入れてください。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン