2012年4月8日 復活祭 「復活の知らせ」

マルコによる福音書16章1〜8節
説教: 高野 公雄 牧師

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

マルコによる福音書16章1〜8節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

みなさま、主イエス・キリストのご復活、おめでとうございます。

きょう新しい復活のローソクを灯しましたが、これは十字架上で死んだイエスさまがよみがえって、私たちと共におられることを象徴するものです。復活されたイエスさまは、折に触れて弟子たちにその姿を現わされましたが、40日後には、天に上げられて、もうその姿を目で見ることができなくなりました。これを覚えて、昔は復活祭から40日間だけ灯されていましたが、今では少し長く聖霊降臨祭まで点灯されます。その後は、洗礼式と葬送式のときにだけ灯され、それ以外のときには仕舞うようになっています。

復活のローソクが灯されているのを見たら、「キリストの光が、私たちの心の闇をすべて追い払いますように」と心に祈りましょう。

《安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った》。

イエスさまが十字架で死んだのは、金曜日の午後3時ごろのことでした。古代のユダヤでは日没を新しい一日の始まりとしていましたので、この日を1日目とすると、金曜日の日没から土曜日の日没までの「安息日」が2日目、土曜日の日没から日曜日の日没までの「週の初めの日」が3日目ということになります。

「安息日が終わると」、今で言うと、土曜日の日没後に、イエスさまの弟子であったこの女性たちは、香料を買ったのです。安息日にはお店を開くことも、買い物に出かけることも禁じられていましたから、日没になるのを待ち構えて香料を買ったのでしょう。

この女性たちについては、15章で前もって紹介されています。40~41節に、この人たちは故郷のガリラヤで弟子になって以来、ずっとイエスさまに従ってきたこと、そして男の弟子たちがみな逃げ去ったあとも刑場に留まり、遠巻きに成り行きを見守っていたと書かれています。午後の3時ごろに息を引き取ったイエスさまの遺体は、夕方、まだ安息日に日が替る前に、最高法院の議員であるアリマタヤのヨセフによって墓に葬られました。47節には、彼女たちが墓の場所を確認していたことが記されています。

《そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った》。

女性たちは、日曜日の午前3時から6時という早い時間帯に、香料をもって墓に向かいます。ヨセフがイエスさまの遺体を葬るときすでに香油は塗られたはずですし、パレスチナの気候を考えると、すでに腐臭が立っているにもかかわらず、女性たちは自らの手でイエスさまを葬りたかったのでしょう。これが最後のご奉公と思ったことでしょう。14章でベタニアの女性が高価なナルドの香油をイエスさまの頭に注ぎかけた、葬りの準備も思い出されます。

《ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた》。

パレスチナの墓は、斜面に人が歩いて入れるほどの大きな横穴を掘って遺体をいくつも寝かせるもので、入り口を大きな丸い板の石でふさぎます。入るときは、その石を横に転がして墓穴を開けます。「転がされている」は主語である神を隠した形の受身形です。転がしたのは神さまです。女性たちは誰が墓を開けたのか分からないのに、さほど驚きもせずに中に入ります。中に天使が座っているのを見て初めて、神と出会った人の恐れとおののきを経験します。

《若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」》。

天使の本来の意味は使者・伝令です。ここで天使は神の使者の名にふさわしく、神からの伝言を伝えます。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」。イエスさまは人にも神にも見捨てられて死んだ、これが最後の別れだと思って、女性たちはイエスさまに会うために墓に来ましたが、「ここにはおられない。復活なさった」、これがイエスさま復活の最初の告知であり、聞いたのは女性たちです。

天使は伝言を続けます。「弟子たちとペトロに告げなさい」と。逃げ去った弟子たち、またとくにも三度もイエスさまを否んだぺトロに対する神の深い愛は、これで終わらない。イエスさまと最初に出会ったガリラヤに戻りなさい、そこで復活したイエスさまにお会いできる。まだ立ち直るチャンスがある、と言うのです。弟子たちが犯した失敗や罪をゆるし、もう一度弟子として召すという再出発への招きです。

このことが、まさにイエスさまの十字架と復活の意味を明かしています。それは、弱く不信実な人間に対する救いの出来事であり、イエスさまを通して人間に対する神の愛と真実な心を証しする出来事だったのです。神の愛の力が人を支配する悪の力を滅ぼした出来事だったのです。失敗しても、罪を犯してしまっても、もう一度人生をやり直すことができる。イエスさまの十字架と復活を通して、神はもう一度生き直すチャンスをくださっているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年4月1日 受難主日 「十字架の道」

マルコによる福音書15章1〜39節
説教: 高野 公雄 牧師

 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

マルコによる福音書15章1〜39節
(長文につき一部抜粋)


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

《夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した》。

このように、きょう私たちが読んだ個所は、ローマ総督ピラトの裁判から始まります。14章でユダヤ人指導者たちによる最高法院における裁判で死刑を言い渡された後、イエスさまはローマ側に送られて来たのです。死刑を行なう権限はユダヤ人側にはなくて、その権限は支配者であるローマ総督が専有していたためです。

聖金曜日の出来事は時刻も記されています。まずここでは「夜が明けるとすぐ」とあります。朝の6時頃のことです。

イエスさまの罪状については、ユダヤ人にとっては「神の子を僭称した」ことの方が重いものだったことでしょう。ユダヤ人は「神」と名指しすることを避けて「ほむべき方の子」(14章61)と言っています。しかし、その罪状でもって総督に死刑判決を求めても、それはユダヤ人たちの内部問題だとして取り合わなかったでしょう。「ユダヤ人の王」を名乗っているという訴えの方が、死刑判決を求め易かったのです。「ユダヤ人の王」を名乗ることは、ローマ帝国の支配下で重苦しい生活を強いられていたユダヤ人を扇動し、政治的軍事的にローマ帝国に反旗を翻して、その支配を跳ね返そうとする運動の指導者を意味しました。それは、国家反逆罪という大罪であったのです。

《ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた》。

総督ピラトの問いに対するイエスさまの答えは、肯定しているのか、否定しているのか、分かりにくい答えです。私たちが以前に使っていた口語訳聖書では、「そのとおりである」と分かり易く訳していますが、それでは訳し過ぎになります。新共同訳では原文を直訳しています。つまり、イエスさまの答えは、Yes and No なので分かりにくいのです。つまり、ピラトが考えるような政治的軍事的な意味では王ではないけれども、クリスチャンたちが考える信仰的な意味では王である、と二重の答えをしているのです。

ピラトによる審問の場面は、緊迫感がない印象があります。なぜなら、政治家であるピラトには、《祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである》。イエスさまその人はローマにとって脅威ではないと思っていたのです。それでも、ローマの政治家であるピラトは、イエスさまを巡るユダヤ人たちの熱気は危険なものに見えたのでしょう。「十字架につけろ」という叫びに妥協して、暴動を起こした罪で死刑判決を受けていたバラバを釈放し、その代わりにイエスさまを「ユダヤ人の王」として死刑の判決を下します。

総督から処刑をゆだねられたローマ兵たちは、イエスさまを鞭打ったり、唾を吐きかけたり、ついには侮辱するために、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼したりします。皇帝が戦勝してローマに凱旋するとき、人びとは「皇帝、万歳(アヴェ・カエサル)」と歓声をあげて迎えます。ローマ兵たちがそれを真似たのだとしたら、「アヴェ」と叫んでいたのかも知れません。天使ガブリエルが「アヴェ・マリア」と呼びかけたあの「アヴェ」です。マルコ福音はギリシア語で書かれていますから、「万歳」は「カイレ(喜べ)」という言葉が使われています。

《このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した》。《そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った》。《イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった》。

イエスさまの磔刑を描いた作品には十字架上に、「捨て札」と呼ぶのだそうですが、罪状書きが付いていて、そこには「INRI」とローマ字が刻まれているのを目にすると思います。この礼拝堂の入口には目黒教会から受け継いだ十字架像が設置してありますが、そこにもINRIの四文字が見られます。これは次のラテン語の四語の頭文字を並べたものです。Iesus(イエス)、Nazarenus(ナザレの)、Rex(王)、Iudaeorum(ユダヤ人の)。

《そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。》

総督の官邸の中ではローマ兵がイエスさまを思うがままに虐待しましたが、ゴルゴタの丘では、今度はユダヤ人同胞が、すなわち祭司長、律法学者、通りがかりの民衆、両隣の死刑囚たちが、イエスさまを侮辱する様子が描かれます。しかし、その侮辱の言葉が、かえってイエスさまの十字架の死の意味を明らかに示しています。

《他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう》。この言葉のとおり、イエスさまは身を捨てて、他人のために生きた、そして死んだお方でした。マルコ10章45に《人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである》、ともあります。自分勝手をする、自分が得をする、自分の身を守る、そういう己を捨てて、まず他人の益となす。喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者とともに悲しむ。弱い人、苦しむ人の傍らにつねに寄り添う。イエスさまはこういうご自分の生き方と死に方を通して、私たち一人ひとりを誰ひとり漏らすことなく愛する神の真実を人々に身をもって証ししたお方であったのです。

総督やローマ兵はイエスさまを「ユダヤ人の王」と呼びましたが、ここで同胞のユダヤ人たちは、「イスラエルの王」と呼んでいます。この表現の違いにも意味があります。ユダヤ人とはユダヤ地方の住民を指す民族名ですが、イスラエルとは聖書が証しする神を信じる人々を指す宗教的な呼び名です。ユダヤ人たちは誇りをもって自分たちをイスラエルと称しました。私たちクリスチャンも、イエスさまは、神により頼む民の王であり、メシアであり、救い主であると信じています。

《昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である》。

イエスさまは午前9時に十字架につけられ、午後3時にいたって、断末魔の叫びをあげます。これがマタイ福音では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27章46)と少し違いがあります。ふつう、マルコの「エロイ」はイエスさまが日常使っていたアラマイ語、マタイの「エリ」は旧約聖書のヘブライ語と説明されます。

このイエスさまの叫びの意味は、重要です。本気で神を信じている人が、神に対して抗議する絶望の言葉です。詩編22編2の言葉ではありますが、それを引用したというよりも、すっかりなじんでいた言葉が、自分の心境を表わす表現として、最後におのずと心に浮かんだということでしょう。

親しい人は皆、離れ去り、そばにいるのは責めさいなむローマ兵のみ。「他人は救ったのに、自分は救えない」。まさに孤立無援、イエスさまは神にも見捨てられて絶望のうちに死にました。弟子たちは、イエスさまのこの叫び「なぜ」という問いをあたため続け、この「なぜ」を思い巡らすことから、イエスさまをキリストと信じる信仰にいたったと言えるでしょう。私たちも、この「なぜ」という問いに対する答えを信仰の中に見出すことができますように。

《イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った》。

神殿の垂れ幕が裂けたことは、イエスさまの十字架の苦難と血によって、永遠のあがないが成し遂げられ、いまや動物の血によるあがないは廃棄されたことを、象徴的に表わしています。イエスさまの十字架によって、旧約の時代は終わり、新約の時代が始まったのです。

百人隊長とは、ローマの軍隊制度で、十人の兵をまとめるのが十人隊長で、その十人隊長を十人まとめるのか百人隊長です。この人が、イエスさまたちを処刑する責任者だったかも知れません。唐突ですが、マルコはここで、この惨めな死にざまを目撃した百人隊長の口を通して、「本当に、この人は神の子だった」という自分の信仰告白を書き入れます。これは、悲惨な死にざまにもかかわらず、ではなく、悲惨な死であるからこそ、イエスさまは神の子であるのだというマルコの強烈な信仰告白です。

マルコは、この福音書を読む私たちにも、ここに証しされたイエスさまの姿への応答として、信じることへと招いているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年3月25日 四旬節第5主日 「イエスに神を見る」

ヨハネによる福音書3章36b〜50節
説教: 高野 公雄 牧師

イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」

イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

ヨハネによる福音書3章36b〜50節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

ヨハネ福音書は、前半と後半の二つに大きく分けることができます。前半では、イエスさまが人々の間で語った言葉、行った奇跡的な癒しのわざが語られ、後半ではイエスさまの苦難と死、そして復活して弟子たちに現われ聖霊を与えることが語られます。きょう読んだのは12章の最後の部分ですが、これは福音書の前半を締めくくる部分であって、これが人々の間で話をする最後の機会となります。13章からはもはや人々への語りかけは無くなります。

きょうの福音は二つのパラグラフを含む長い個所なので、最初のパラグラフに焦点を絞って見て行きたいと思います。

《イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった》。

きょうの福音の、この始めの言葉は、物語の前半を締めくくる言葉です。イエスさまはこれらの言葉を最後に、地上での教えと行ないを終えて人びとの前から消え去る、と言っているのです。12章までに書かれた人々の間でのイエスさまの公の活動、福音の宣教にもかかわらず、人びとは「イエスを信じなかった」のです。そのことが13章以降に記される、イエスさまが十字架につけられ、苦しみを受けることへと繋がります。

イエスさまの時代にも弟子たちの時代にも、同胞のユダヤ人たちの間に、信じる人も生まれましたが、ほとんどの人々はイエスさまを信じませんでした。殉教死する弟子たちも出ました。そのことが、弟子たちが周辺の国々に出て行って宣教活動を始めるきっかけにもなったのです。そこでも、信じる人々も生まれましたが、ほとんどの人々は信じませんでした。そこでも殉教死する人がでました。信じる人々が少ないのは、日本だけのことではないのです。

では、人びとがイエスさまを信じないのは、なぜでしょうか。それは、イエスさまの福音が理解されなかったからです。聖書が証しする神・救い主が、人びとが期待する神さま像・救い主像と違うからです。イエスさま当時のことで言えば、人びとがメシア・救い主に期待することは、昔のダビデ王が力でもって外敵を追い払ったように、強大な支配者ローマ帝国をユダヤから追い払い、人びとを抑圧する悪い支配者たちを駆逐することでした。また、病気やけがや不和など人々を悩み苦しめる悪からすぐに解放することでした。

しかし、イエスさまを通して神がなさろうとしたことは、そうした人々の悩み苦しみに対する対症療法ではなくて、それを根もとから癒そうとする根治療法でした。イエスさまは重荷を負って労苦し、救いを求める人に対症療法的に癒しを与えることもありましたが、それはイエスさまがなさろうとすることの「しるし」であって、それは人々の中に信仰を惹き起こすための行いでした。イエスさまは本来は、悩む人・苦しむ人と共に歩む中で、その悩み・苦しみを共に担い、そのことを通して、私たちもまたそれに習うべき愛をお示しになり、またそのことを通して、抑圧者の側にも抑圧される側にもある愛の欠如・罪を示しつつ、イエスさま自らがその罪を身代わりに背負って、十字架につき、自らの命をもって私たちの罪責をあがなう、そういう仕方で私たちを救おうとなさったのです。

人々は、悩み・苦しみを共に担うような、まだるっこいやり方は、望みませんでした。また、自分たちの内なる罪を認めませんでした。人々はイエスさまを役立たずと思って捨てました。そして十字架につけました。そこに人々の罪が現われています。イエスさまはその人々の罪を身代わりに引き受けて十字架につきました。イエスさまは人々にご自分の命を与えました。それが人々を救うイエスさまの愛の極限の姿です。こうしてイエスさまは、ひとりをも漏らさず、万人を救おうとなさる神の愛と真実の心を示したのです。

《預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか」》。

人々は、自分たちが見捨てたイエスさまの十字架の死を見て、それを神の愛と真実の心の究極的な現われと知ったでしょうか。いや、むしろ、ただただ惨めな男の死にざまを見ただけです。預言者イザヤがこう嘆くのも無理ありません。イエスさまを救い主と信じる者は、ほんとうに少数にとどまります。

この言葉は、イザヤ52章13~53章12は「苦難の僕」をうたう詩の中の一節、53章1からの引用です。この「苦難の僕」の歌は、イエスさまの無残な姿の死の意味を解き明かす預言のことばとして有名な個所です。

次に、ヨハネはイザヤのことばをもうひとつ引用します。《神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない》。これは、イザヤ6章10の逐語的な引用ではなく、自由に敷衍した引用のため、引用元とは異なります。人々の心は罪に汚れているために、イエスさまの言葉と行いを見聞きしても、そこに神の真実の愛が体現されていることを見ぬくことができません。イエスさまは神の子であり、私たちの救い主であることを信じることができません。しかし、本当は、このイエスさまの言葉と行いを通してのみ、私たちは真の神のみ心を知ることができるのです。

《イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである》。

イザヤは「苦難の僕」の惨めな姿の中に、人びとの罪を一身に負って人々をあがなう救い主の栄光を見た、とヨハネは書いています。私たちはヨハネ福音書を終わりまで読んで、十字架の先に復活があることを知っています。イザヤの時代の人々よりも、イエスさまの時代の人々よりも、私たちはだんぜん有利な立場にいます。ヨハネはこの言葉を通して、私たちに、こう問いかけているのです。「あなたたちは、イエスさまの言葉と行いにおいて、とくにも十字架において、神の私たちへの愛と真実の心が示されていることを見ることができますか。イエスさまを神が遣わした私たちの救い主と信じますか」と。

《とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである》。

きょうの福音の初めに「彼らはイエスを信じなかった」とあったように、イエスさまを神の子・救い主と信じる人は少なかった。イエスさまは自分の期待する像とは違うから役に立たないと思う人が多数を占めていたことでしょう。けれども、信じる人の中にもユダヤ会堂からの破門を恐れて、信仰を隠していた者も少なからずいました。ヨハネが福音書を書いた時期には、ユダヤ教からキリスト信仰を排除することが正式に決まって、キリストの名を唱える者は破門されることになりました。ユダヤ人であることとユダヤ教徒であることは一つでしたから、社会的地位のあった人は、キリスト信仰をひた隠しに隠したことでしょう。

日本にもそういう時代がありました。秀吉の切支丹禁制以来の長い時代、そして第二次世界大戦下で「天皇とキリストとどっちが偉いか」と問い詰められた時代です。そういう状況下で信仰を公に言い表すことができる力を恵まれた人は多くはないでしょう。たとえ踏み絵を踏んでも、キリストを捨てますと宣誓書を書いたとしても、人の弱さを思いやることのできるイエスさまは、きっと赦してくれると思います。ヨハネは転ぶ弱さを非難しようとしているのではありません。

ここで、私たちが立ち止まらなければならないのは、《彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである》という指摘です。社会的な制裁を恐れることは、人の弱さであって、仕方がないとしても、私たちは心の奥底で神の意思を第一とするという信仰を失っていないか、世の大勢に迎合しきっていないかと自らを省みることは必要です。私たちの立ち帰るべき本当の故郷を忘れないように、ヨハネの言葉を深く心に留めたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年3月18日 四旬節第4主日 「永遠の命を得る」

ヨハネによる福音書3章13〜21節
説教: 高野 公雄 師

天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

ヨハネによる福音書3章13〜21節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、イエスさまとニコデモとの問答の後半部分です。ニコデモという人は、3章1に、ファリサイ派の属する者、ユダヤ人たちの議員であったと紹介されています。つまり、ユダヤ人の国会である最高法院の議員七十人のひとりで、当時のユダヤ人社会の有力者です。そのニコデモが、人目をはばかって夜ひそかにイエスさまに会いにきます。教えを受けるためでしょう。イエスさまは彼に《はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない》(3節)と教えを説きます。《するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか》(9~10節)。こういう会話の続きとして、きょうの福音は語られています。

ところで、二千年前のギリシア語原文には句読点もカギ括弧もなく、白文つまり返り点などの付いていない漢文と同じようにべた書きです。聖書学者が、白文のどこが文の切れ目か、どこが段落の切れ目か、また、どこが話者のセリフで、どこが著者の地の文か、と著者の思いを読み解いて、各国語に翻訳する元になる校訂本を作っているのですが、きょうの福音は解釈が分かれ、検討が続けられている個所です。私たちが用いている新共同訳聖書では16節で改行されてはいるものの、21節まで全部がイエスさまの言葉とされています。しかし、新改訳聖書とか岩波書店版などでは、イエスさまの言葉は15節で閉じられ、16~21節はカギ括弧の外に出されて、著者ヨハネがイエスさまの言葉の真意を解き明かす地の文とされています。「人の子」がイエスさまの自称なら、16節以下は地の文なのかも知れません。どちらを採るか、微妙です。

《天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである》。

ここで、イエスさまはご自分の使命を、旧約聖書にある故事を引き合いに出して述べています。先ほど第一朗読で聞いた個所、民数記21章に書かれている出来事です。紀元前13世紀のことですが、イエスラエルの民はエジプトで塗炭の苦しみにあえぐ奴隷でした。彼らの嘆きの叫びを聞いた神は、モーセを指導者として送り、エジプトから脱出させます。イスラエルの人々は、エジプト人の奴隷から自由な身分へと解放されます。ところが、脱出した先は、荒れ野です。彼らは水にも食べ物にも不自由し始めます。そのとたんに、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、エジプトにいた時の苦難も、そこから救い出された喜びも忘れて、目先の苦労からただ逃れたくて、彼らは「何のために自分たちをこんなところに引っ張り出したのだ」とモーセと神に食ってかかります。神は毒ヘビを送って民をいましめます。民はモーセに助けを求め、モーセは神にとりなします。すると、神はモーセに「青銅でヘビを造り、旗竿の先に掲げよ、ヘビに嚙まれた者がこれを見上げると救われる」と約束されました。

民は、空腹な自由人であるよりも、奴隷でもいいから旨いものを食いたいと言います。なんと卑しい根性なんだろうと思いますが、私たちも自分の思いを振り返ってみれば、本音は同じようなものではないでしょうか。旗竿に掲げられた青銅のヘビは、そういうげすな者、不信実な者をも見捨てず、なおも愛し続ける神の信実な心の現われです。この昔の出来事は、「人の子」つまりイエスさまの十字架に人間に対する神の究極の愛を見、信頼を持って十字架を仰ぐ者は皆、救われる、神の国に入る、永遠の命を得ることを前もって証ししていたのです。

ここで、もうひとつの点に目を向けたいと思います。《人の子も上げられねばならない》とは、イエスさまが十字架の木に架けられることを指しているのですが、その前に《天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない》という言葉があります。これはイエスさまが天に上げられて誉れを得たこと、高挙を意味しています。「上げる」という言葉は、物理的にものを持ち上げるという意味と、精神的に人格が高く評価されるという意味とを持っています。著者ヨハネは、二重の意味をもつ言葉を利用して、イエスさまが十字架に釘づけにされて高く上げられたことと、イエスさまが天に上げられて神の右の座を与えられたこととはひとつであるという理解を示しています。首を垂れて瀕死の十字架像の他に、しっかり顔を上げて、両手を大きく広げて、私たちに祝福を与えているような、私たちをみ許に招いているような十字架像があるのをご存じでしょう。それがヨハネが強調する十字架像です。イエスさまは人間の救いのために天から降って人となり、十字架上で救いのわざを完成して、再び神の許へと帰っていたお方である、とヨハネは言っているのです。

《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》。

これが福音中の福音と言われる有名なヨハネ3章16です。キリスト教とは何か、それを一言で表わすのがこの一節です。創世記22章に、神がアブラハムに一人息子のイサクを献げ物としてささげよとお命じになった記事がありますが、ここでは神自らが独り子を与えて、私たちを永遠の命へと招いてくださっている、と説かれています。十字架は人に対する神の愛の究極の姿です。イエスさまはモーセのような偉大な指導者であるどころか、全人類に対する神からの唯一無比の、最善の贈り物であり、いのちの言葉そのものだ、これが著者ヨハネの信仰です。

《神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである》。

この言葉は、前節の言い換えですが、新しい考え方をも含んでいます。それは、「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」という言葉に如実に表われています。どういうことかと言いますと、どの宗教でも、「救い」とか「裁き」は、将来死んだ後で天国に入るとか地獄に落ちることと教えています。ところが著者ヨハネによりますと、神の御子イエスさまのことが宣べ伝えられている今この時、将来の裁きが今すでに行われるのだというのです。イエスさまを救い主と信じる者は今すでに救われ、私たちの有限な命において、神の永遠の命にあずかれるし、信じない者は救いのなさを手にして生きることになるというのです。このことを、ヨハネはさらに次のように言い直して述べています。

《光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために》。

私たちは、ものごとを判断するとき、何が神のみ心であるかまっさきに考えるでしょうか、それとも、そんなことは無視して、他人を蹴落としてでも、自分がしたいこと、自分が得をすることを第一に考えるでしょうか。神の愛、神の信実な心を自分のためと知り、それを喜びと感謝をもって受け入れる人は、つまり信じる人は救われます。物の見方、考え方が変わり、自分が変わります。人生が明るくなります。イエスさまの福音は、誰か他人が救われるか裁かれるかという問題ではありません。徹頭徹尾、自分が問題です。神の愛、イエスさまの恵みが自分に注がれていること、そこに自分の光と救いと命があると信じることが問題です。それに目が開かれること、気づくことがすべてです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン