2011年2月20日 顕現節第8主日 「一人の主人に仕える」

マタイによる福音書6章24〜34節
説教: 安藤 政泰 牧師

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」   マタイによる福音書6章24〜34節


当時のユダヤ社会では、一人の奴隷を2人で所有することが出来ました。しかし、奴隷にとっては二人の主人が居ることは大変苦労の多い事で、また同時に、耐え難いような事が起こっても不思議ではありません。どちらの主人も、自分だけの所有のように扱うからです。聖書では、そうした日常起こるトラブルを題材にして二人の主人に仕える難しさを述べています。

 

「富と神」と言う二人の主人に同時に仕えれば、問題が起こる、と警告しているのです。仕えて何が得られるのでしょうか。仕えると言うことに、どんな意味があるのでしょうか。従うということです。少なくとも聖書では「あなたの生命に関わる事」だと記しています。生命、聖書では「たましい」「霊」の事です。神は与えられた生命を養って下さいます。この生命は人間の存在すべてを意味しているのです。その生命「たましい」を創造された神が、それより次元の低い衣類、食物を人間に用意されないはずが無いと、述べています。

信仰とは何でしょうか。それは、神に信頼し、神により頼む事です。それは、部分的な信頼ではなく、全面的な信頼です。しかし、信仰自体、神から賜ったものです。戴いた信仰を育てるには、人はどうすれば良いのでしょうか?

人生のほんの些細な、小さな事をでも、完全に神により頼めるようにする事です。どんな小さな事でも神により頼めるのでしょうか。それには、「所有」と言うことを考えてみましょう。もっている、所有しているとはどんな意味があるのでしょうか。よく「お金は墓場まではもって行けない」と言います。しかし、よく考えると、私たちは、神が造られたすべてを所有しているのです。だからことさら自己主張するような「所有」は必要ないと聖書は言うのです。別な表現では、必要なものは必ず与えられるのですから、今更何を所有したいのか、と言うことです。「与えられる」と確信した時、ささいな事でも神を信頼し、問いかけられるようになります。

自分の生命の終わり近づいても、ヨブのように 裸で生まれたのだから 裸で神のもとに 帰る覚悟が出来ないのが、悲しい私たちの現実です。たしかに、富を貯える事を聖書は否定しているのではありません。富に仕えるなと警告しているのです。富ではなく、神に仕える時、富も地位も、必要はすべて満たされる、今満たされて居るのです。あなたは今満たされていますよ。あなたは今恵まれていますと、互いに確信し、共に神に感謝し、支え合うことが出来る教会員の交わりが出来ればと願います。それが 神様に仕える道となりますように祈ります。

2011年2月13日 顕現節第7主日 「神が愛であるとは・・隣人を愛し、祈れ・・」

マタイによる福音書5章38〜48節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆復讐してはならない
5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

◆敵を愛しなさい
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
マタイによる福音書5章38〜48節


私たちの父なる神と主イエス・きリストから 恵みと平安が あるように アーメン

 

今朝はイエスの「山上の説教・垂訓」の一部を読みました。有名ですから聞いたことがある言葉が出てきます。山上の説教は「山上の垂訓」といわれました。「垂訓」とは「教訓を説き示すこと」です。実際はマタイの5章1節から7章終わりまでです。有名なのは「空の鳥を見よ」とか「野の花(百合)を見よ」、「地の塩」とか「世の光」も聞いているでしょう。も一つ、異な同じような説教がルカ福音書の6章29以下にあります。平野の説教といわれています。

一つ問題がありまして、イエスの垂訓は何か、どんな性質かです。よく山上の説教はキリスト教の神髄、キリストの教えの中心とかいいます。しかし、それは間違いです。ある方ははじめの「~~は幸いである」という言葉でそう考えました。しかし、キリスト教の中心、キリストの教えは「福音」なのです。福音とは「よい知らせ」です。それは普通、神が恵みによって、私たちのために、救いをなされたことを意味します。山上の説教は、如何にして罪人が救われて、神の国の一員・メンバーになるかを告げていません。イエス自身や贖いの業(十字架と復活)について語っていません。端的に言うならば、信仰による救いを言っていません。ですから「福音」ではありません。

福音でないと何かですが、それは「律法」です。律法とは神の意志による教えで、人間の守るべき道を教えているものです。ではイエスは誰に向かって「山上の説教」をされたのかですが、福音書では2種類の人に語られました。弟子たちと群衆です。英国の神学者ハンターは「山上の説教」は根本的には弟子たちに語られたと言いましたが、正しいのです。当時は12弟子・・使徒ですが、今・現在では「イエスに従う者・信仰者」です。つまり、クリスチャンということになります。イエスは神の国の一員であるメンバーのConduct・振る舞い・行為を述べていると言えます。先のハンターは「イエスの倫理・価値体系・弟子の倫理の要約・一覧」と言っています。つまり、神の国の生き方・生活様式・way of lifeです。古い日本語では「処世術・処世のための術策」です。あるいは「人生訓」です。しかし、」単なる世渡りの方法や人生訓ではありません。神の律法・掟はうわべだけのものではないからです。

この世の処世術はなぜあるかと言えば、私たちは生まれ落ちて以来、家庭でも、学校でも、会社でも、教え込まれることは、人々といかに穏便に、協調してつきあうかについて、また、集団の中で生きる術(すべ)を身につけるかを考えることです。世渡り術ですが、適当にやっている人が多い。でも最近では、自己虫が強くて、他の人を考えない行動が若い人に多くなりました。すぐ切れます。

イエスがここで話しているのは、クリスチャン・キリスト教信者の律法・神の掟を、そのルール・導きとしてです。イエスは信仰を通して神の国の一員となった人々の守るべきルール・行動を告げているのです。そして、それはとりも直さず、言い換えると、クリスチャンの信仰を証明すると共に、彼らの主を賛美することになるのです。イエスは明白に神の律法の意味を示しています。イエスはいくつかの律法を取り上げて、律法学者たちが決して説明をしなかった、新しい意味を語っています。英語に、before and after..がありますが、イエスは、その違いを明らかにしました。

堅い話になりましたので、イエスの言葉を見ましょう。

十戒 出エジプト記20章1-17(一部省略)

20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。

20:12 あなたの父母を敬え。

20:13 殺してはならない。

20:14 姦淫してはならない。

20:15 盗んではならない。

20:16 隣人に関して偽証してはならない。

20:17 隣人の家を欲してはならない。

隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

今朝は前週(安藤先生)に続いて「山上の説教」を学びます。小見出しの「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」です。後者は有名です。最近本を読んでいて気づいたことは、多くの聖書の言葉が、日本語の辞典にあることでした。日頃使っている言葉が聖書から、例えば、「目から鱗」、「地の塩」、「求めよ、さらば与えられん」とか聞きます。今日のところでもあります。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」です。多くの教訓があります。普通の、この世的な考えと違います。キリスト教的人生訓・格言とも言えます。

イエスは「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と言い、「し

かし」と言っています。「しかし」というのは「接続詞」で、先の話の内容を受けて、それと反対または一部違う事を述べる時使う用語です。ですからイエスは当時の社会の考え方と違う考えや生き方を示しました。そのいくつかがここにあります。キリスト教の用語もよく見たり、読んだりしますと、意外と日本の社会に浸透している事です。中には正確な意味で使われていますが、ある言葉は意味が違った風に言われます。キリスト教は日本には広まりませんが、用語が多くの人に用いられている事から、希望があるという方がいます。どうでしょうか。

「復讐してはならない」を見ましょう。普通ここは「絶対無抵抗主義」の意味に取られています。しかし。罪との戦いや悪への抵抗を禁じている訳ではありません。原文の「悪人」は、悪意のある加害者のことです。「目には目を、歯には歯を」は古代の法律での「同害報復法」の決まりです。過剰な復讐を禁じるもので社会正義の基本です。

*「同害報復法」はタリオ(talio ラテン)の訳語で、被害に相応した報復または刑罰をいいます。ハムラビ・バビロンの王。紀元前18世紀。「ハムラビ法典」を制定。その中にある。(1686一説に前1792~前1750)

「悪人」とはギリシャ語では悪意を持っている加害者です。ですから、悪意と危害に対して、同じような苦い報復をすることを断念せよということです。無抵抗というか非暴力を実行した人が、歴史上二人います。インドのガンジーとアメリカのマルチン・ルター・キング牧師です。ガンジーはインドの民族運動指導者・思想家。インド独立の父とされます。非暴力・不服従主義により自治拡大、独立の実現に努めました。ヒンドゥー教徒に射殺されました。(1869~1948)。キング・Martin Luther King, Jr.はアメリカの牧師・黒人解放運動家。非暴力直接行動主義に立ち、公民権運動を指導。暗殺されました。ノーベル賞を受賞。(1929~1968)。バスに乗らないで抵抗した出来事が思い出されます。

下着や上着はそこまでやるかという感じですが、また、二倍の道を行けとか、求める者には与えよという言葉もそうですが、イエスは私たちに問題提起をしているのだと思います。それは「私たちは憎しみと憤りを、あるいは復讐を乗り越えられるか」という問いです。ということは神への信頼と余裕のある信仰を持て!というイエスの言葉です。

さらにイエスは「愛敵」を、敵への「親切」、「祝福」、「祈り」を言います。普通は「憎敵・敵を憎む」です。「目には目を」式です。人を愛するより憎むことのほうが、分かり易い。旧約聖書にはそんな言葉があります。イエスはそのような背景で言っているのです。イエスは敵を愛せという言葉を、抽象的な意味で言ったわけではありません。漠然とした意味ではありません。イエスがこの言葉を語った状況は、厳しい中でした。つまり、当時の宗教家たちとの論争からでした。イエスは命をねらわれている中での発言でした。ユダヤ教の指導者たちは自分の民族・隣人だけを愛することを主張した、狭い民族宗教を、イエスは世界宗教・普遍的信仰にしたとも言えるのです。

キリスト教は「博愛」の宗教だと言われます。そこから社会事業が、赤十字が生まれました。日本でも初期の社会事業はキリスト教の宣教師が手をつけました。

「敵を愛せよ」の敵とは・・ある先生は憎しみと悪意の執念にみちた相手だといいました・・そんな人を憎み返すのではなくて、愛して大事に思えという意味です。牧師として説教していて、お前にそんな愛があるかといわれると,自信がありませんが、神のような完全な愛はありませんが、私のために死なれたキリストの大きな愛を、本気で受け止めたとしたら、そのキリストの愛が注がれて溢れていたら、イエスの言葉は励ましの言葉であると同時に力の泉になるのではないかと思っています。皆さんはどうですか。

マタイの福音書に「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(7:12)という言葉がりました。Golden Ruleです。これを日本人は「己の欲せざる所、人に施すなかれ」と言います。「論語」の孔子の言葉ですが、面白いことにキリスト教と日本人の考えは、時々反するような気がします。習慣とか行動が逆のことがあるような気がしています。

これらの言葉には背景があります。イエスの言葉は「山上の垂訓」(マタイ)にもあります。イエスの場合はよく見ると積極的ですし、孔子の場合は「消極的」です。「善をせよ」と「悪をするな」の違いです。日本は儒教的な道徳の傾向がありますから、禁止が多いと言えます。その理由は何か。世間体を気にするからと言います。世間は鋭い目を・・それも非難する・・していますから、「怪しからん人間」とか「世間を騒がす親子」と言われないように気を遣うのです。むかし、アメリカの文化人類学者のルイス・ベネディクトが「日本の社会は恥の社会」と言いましたが、反面正しい。犯罪を犯した子どもの親がTVに出てきて「世間を騒がせて、申し訳ない」という場面があります。あれはTVの聴視者に謝っているのでなくて、世間に謝っているのです。聴視者は関係ないからです。先だっての市川海老蔵の事件でも、父親の団十郎が出て謝っていました。昨日は中目黒の夫婦殺人事件の犯人の父親がTVに出て謝罪していました。日本でも、だんだん、家族は関係ないというようになりましたが、まだそうではないようです。世間から厳しく言われたくないと思い、じっとしているようです。

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。「律法と預言者」とは旧約聖書のことです。このような積極的な愛が聖書全体の思想です。律法の二大原則ですが、神への愛と他者への愛です。(マタイ22:36-40)。

*「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

「黄金律・ゴールデンルール」というので、今の言葉は知られています。それはキリスト教倫理の原理と言われます。

アメリカで留学生活をしていた牧師が書いていました。車がポンコツ車でしょっちゅう故障をして、道端に止まっていると、何台もの車がとまって「Can I help you?」と声を掛けてくれたそうです。所が、日本では、側をスイスイ通り過ぎるらしい。日本では保険会社・JAF・日本自動車連盟がすぐ来るからかも知れませんね。

この間、川口から東京に京浜東北線に乗りました。優先席がありましたが、私の向かいに若い青年が座っていました。すると乗ってきた中年の男の人が、青年に言葉をかけると、青年は立ち上がって席を譲りました。やがて私の隣の若い女の子が携帯をだしました。するとその中年の男性が、厳しい言葉で注意をしました。この中年の男性は、気の強い方で若い人に注意をしたのだと思います。普通は黙っていますからです。下手したら喧嘩になり、反対に殴られますからです。優先席で携帯の電源を切るのは医療的な目的です。心臓のペースメーカーです。ほとんどの人が電源を切りませんし、老いも若きも使っています。他者に対する思いやりや心遣いがほとんど欠けています。「あなたの親切が明るい車内をつくります」なんて書いていますが、難しいですね。

私の老人ホームでも自分だけの事を考えている人を見ます。エレベーターでも、さっさと乗っていく人と、ドアーを開けて他の方を待っていてくれる人とがいます。恐らくそんな環境に今までいなかったからかなと思います。社会的にそれなりの人々ですが、ホームに入る前に、他者に対する心がけが不必要だったのでしょう。育ちが悪いとは思いません。

愛にはいくつかの種類や性格があります。イエスが愛せよという場合はどんな愛なのかですが、人間的な「GIVE and TAKE」・物々交換ではありません。イエスは「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている」と言いました。案外私たちはしています。私もそうです。

何故私たちが人々を愛するかですが、それは「神は全ての人に、分け隔てなく対応される、だからあなた方もです」。別の所でイエスはこう言っています。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。(ルカ6:36)。また、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)。

「完全」とはその根底には、全的に十分な、欠けのないという概念があり、絶対的完全は、神御自身のみです。御子イエスは受肉された地上の生活において、人としての完全を示された。私たちは神並みの完全は出来ません。無理です。ただ、人についての完全に言及している用例は今日の福音書にもあります。しかし、人間は地上においては罪を犯さない完全さ、欠陥の全くない完全さには到達し得ないのです。私たちの経験で分かります。

しかし、パウロが言うように、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」。ですから、そうするのは、努力をするのは「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。(フィリピ3:12)。パウロは「このように考えるべきです」と勧めています。

パウロは罪人である自分を私を、イエスが十字架の死によって救ってくださったことへの感謝と喜びのゆえに、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向け」て自分を訓練し、神に仕えていくのです。他人と比較したりせず、私たちは自分の達した点を基準として進むものです。神は必ず、私たちの歩みを見つめてくださるのです。そう信じて歩きたいと思います。

キリスト教人生訓は単なる処世術・世渡りとしてでなく、人をいかす言葉です。しっかりと心に留めていきたい。そして私たちの魂の基礎となり、これからの人生を作る言葉として生かしていきたい。                            アーメン

2011年2月6日 顕現節第6主日 「新しい戒め」

マタイによる福音書5章21〜37節
説教: 安藤 政泰 牧師

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
マタイによる福音書5章21〜37節


私達は律法により救われるのではなく、信仰によって救われるのである、と言うことは良く知っています。信仰さえ持てばどのような事をしても良いのでしょうか。私達には律法は必要無いのでしょうか。よく律法は私達に罪を示してくれる、と言います。しかし、律法の役割はただそれだけなのでしょうか。

私たちには律法と福音が共に同じ様に与えられています。今日はその律法について考えてみましょう。

日曜ごとに聖餐に預かっています。礼拝式文を見ていただくと、アグヌスデイの直前に平和の挨拶を交わします。それは文字通り23・24節の聖書の言葉の具体化です。

「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇のまえに残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」

主の聖餐に預かる前にまず互いに主の平安を願い祈り、安らかな気持ちで聖餐を受けます。この聖餐はわたくしたちが、神による家族である証明です。私達はこの主イエスの食卓を囲む家族なのです。前提とされる事は人と人との和解です。しかも、神の前における和解です。このように聖書が示す律法は礼拝の中で具体的に表現されています。それでは聖書が示している律法は私達の日常の生活にどのように拘わり合ってくるのでしょうか。

マタイによる福音書はユダヤ人を対象にして記されたと言われています。律法を守ことに誠実なユダヤの人々を対象としただけあって、特に律法にはきびしくなっているように感じられます。一方、主イエスは神の許しを私達に示しておられます。そのイエスの教えに、ユダヤ人たちは、律法を無視して、自分達の努力を評価しない、として、イエスを十字架にまで追いやるのです。

主イエスの示される律法の成就とは、神の主権の宣言です。

律法は人間の自己完成の道具ではありません。

神のみ心を行う道人が心をこめて歩く道です。

それによって直接救いに入れるか否かにわかれる、そのようなものではありません。律法は人が心をこめて歩く道、それはルターの小教理問答書の十戒の解説によくあらわされています。禁止として記されている律法を前向きに、積極的に受け止めようとしています。どうかこのルターの精神を私達の日常の生活の中で実践したいと願います。

2011年1月30日 顕現節第5主日 「山の上にある町」

マタイによる福音書5章13〜16節
説教: 北川 逸英 神学生

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
マタイによる福音書5章13〜16節


「あなたがたは地の塩である」山の上でイエスさまは弟子たちに対して語られました。塩とは、一体、何を意味するのでしょう。料理にとって塩は大切なものです。私たちは塩気のない料理を味気なく感じます。しかしまた、塩気の強い料理は食べることが出来ません。塩味を決めることが、料理人の大きな仕事です。そのために料理人は、さまざまな塩を、その食材と調理法に合わせて選びます。海の塩、山の塩、塩はそれぞれ、色も味も多種多様であります。料理の塩加減は、食べる時の温度と、食材の口触り、そして食材全体の甘さや、辛さ、酸味、苦み、全体の調和で決まります。そして塩加減は、使う塩の種類によって、大きな違いが出ます。海から取られた塩でも、その海域や製法によって様々な味の違いがあります。岩塩も、その採取場所によって、色も味わいも様々です。料理人は作る料理に合わせて、ふさわしい塩を選び、適量を、適所に加えます。塩は素材に溶け込んで働きます。肉や魚に当てる塩は、味付けだけでなく保存の働きもします。塩は他の食材を引き立てる存在なのです。塩だけでは料理になりません。また塩は毒性も持っています。定量以上の塩を取ると、生物は死にます。しかし全く塩を取らなければ、また私たちは動くことが出来ません。塩は私たちの生命に深く関わるものなのです。

 

塩が大切なものであることはわかりました。しかし、いまや私たちはいながらにして、上はヒマラヤ山脈のマグマ塩から、下は死海の海底にある塩まで世界中のさまざまな塩を買うことができます。では「あなたがたは地の塩である」とイエスさまが言われている、地の塩とはどんな塩なのでしょう。どうも私は消費文化に毒されたようです。「地の塩」とは、商品ブランドのように、他と区別する言葉ではありません。イエスさまは地の塩を、世の光と並べて言い表されます。それはこの世のどこにでもある、しかし大切なものです。そして互いに個性を持ちながら、その場で用いられるために、神さまによって用意されたものです。そしてあなたがたはそれであると、イエスさまが私たちに語られたみ言葉です。

「地の塩」は特別などこかの場所で見つかるものではありません。どこの家にも置かれている、普通の塩壺に入れられた塩なのです。食塩は器に入れて置かないと湿気ってしまいます。そして使われる時に取り出されて、食材と混ぜ合わされるのです。ですから塩が料理に用いられる時には、塩が素材とよく解け合うことが大切です。それが塩の役目です。ですから「地の塩」であるとは、調和をあらわします。塩がいつまでも固い結晶のままでは、口触りも悪く、味も強過ぎます。塩は自らの形を消して、全体にまんべんなく行き渡らなければなりません。そして素材の中に染み込んで鮮度を保ち、その持ち味を邪魔することなく、引き出す働きが求められます。

しかし光は違います。光は闇の中をまっすぐに進みます。光が闇に溶け込んでいくことはありません。そしてそこに置かれた物とぶつかって、その形や色をはっきりと照らし出します。闇と光は混じり合うことはありません。光は闇に向けて放たれていきます。そして闇を切り裂いていくのです。ですから、ともし火は燭台の上に置かれて、すべてを照らし出します。当時のともし火はオリーブオイルの中に灯芯を置いて、火を付けていたようです。そしてこのともし火は燭台の上に置かれます。この世の光をイエスさまは「山の上にある町」と表現されました。そして「山の上にある町は隠れることができない」と言われるのです。山は聖なる場所です。人はそこで神と出会います。モーセもアブラハムも、山の上で神と出会いました。山の上にある町とは聖なる光のある場所、私たちのこの教会です。聖霊によって集められた教会こそが、山の上にある町なのです。

私がこの教会にはじめて来た時は夜でした。翌朝カーテンを開いてけやき坂を望んだ時、「ここは山の上にある」そのように思いました。この六本木教会こそ「山の上の町」であります。60年前、主はこの地を選んで、聖霊の働きによって人々を集められたのです。それは今ここにおられる方々皆様が、今日ここで読まれた「地の塩、世の光」となられるためです。「山の上にある町は、隠れることができない」そのように主は言われます。教会は隠れることができません。それは光を放って、輝いているからです。教会の中に灯された聖霊の火は、消えることがありません。

確かに私たちは今、試練の中にあります。様々な思いもよらない出来事が、私たちを取り囲み、私たちは不安になります。闇が周りを囲んでいる。いっそどこかに隠れようか。そのように思うことすらあります。しかし主は言われます。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。またともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」

主は私たちに信仰をあたえて下さいました。主は私たちに希望を与えて下さいました。そして主は私たちに愛を与えて下さいました。私たちがともし火として、主によって燭台の上に置かれるのです。すでにみことばによって、信仰の火はともされています。私たちに新しい希望も示されています。私たち教会はいま互いに愛をもって仕え合うことを、主によって求められております。そしてこれこそが「家の中のものすべてを照らす」とイエスさまが、私たちに与えられた約束の言葉です。いま見える力が確実に働いて下さるのです。そして主は言われます。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」

私たちの光とは何でしょう。それは私たちのイエス・キリストです。私たちの立派な行いとは何でしょうか。それは私たちのイエス・キリストへの服従です。私たちのイエス・キリストの十字架による救いの業です。これにより私たちの主イエスは「あなたがたの天の父を、人々があがめるようになる」と言われています。私たちはこのみことばによって、もっと大胆に、私たちの光であるイエス・キリストを、人々の前に輝かせて行きましょう。私たちは塩のように、この世に溶けて行き用いられるのです。私たちの中心にはいつでも、イエスさまのみことばがあります。それを説き明かす説教と、見える形で分かち合われる聖礼典があります。私たちは今、屋根に輝く十字架の下に集まって、一つのテーブルを囲み、聖餐の喜びを共にします。主よどうかこの教会を祝してお守り下さい。私たちの教会がこの試練の時を乗り越えて一つとなり、さらに大きな発展を遂げる事ができますように、私たちに宣教の賜物をお与え下さい。私たちがただ、主を信頼し、いかなる時も、愛をもって互いに仕え合う群れとしてください。そして私たちのひとりひとりをあなたの道具として用いてください。あなたからの光をお与え下さい。