2011年11月20日 聖霊降臨後最終主日 「最後の審判」

マタイによる福音書25章31〜46節
説教:高野 公雄 牧師

人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
マタイによる福音書25章31〜46節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

本日は、教会の暦ではマタイ年の最後の主日です。私たちは、マタイ福音書のイエスさま最後の説教を聴きました。続く26章以下はエピローグでして、イエスさまの受難と復活の物語になっていきます。
きょうの福音は、小見出しに「すべての民族を裁く」と付けられています。マタイ24章14に《御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る》とあります。マタイ先生の考えでは、福音が全世界に伝え終わらないうちに、「最後の裁き」は来ないとされているのですが、きょうの福音はその「最後の裁き」について述べています。

始めの31節《人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く》、これがマタイ先生によるこのたとえ話の表題です。
続く32~33節がたとえ話本体の舞台設定になります。《そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く》。羊と山羊はウシ科の動物で、互いに良く似ていて、旧約のヘブライ語では、羊と山羊ははっきりとは区別されませんが、山羊の方が羊よりも先に家畜とされたと考えられています。山羊はペットとして飼われるくらいに人なつこく、体も丈夫です。
羊の群れの中に山羊を混ぜておくと群れの扱いが楽になります。群れの先頭はオスの山羊が務め、首にベルをぶら下げて、群れを導きました。群れは、昼間は放牧されていますが、夜になると羊飼いは広がっている群れを囲いの中にかき集めます。羊は新鮮な空気が好きで、山羊は暖かさを求めるので、分けて集められます。
34節以下の話しによりますと、右側に分けられた羊は《さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい》と神の国に招き入れられた人たちを表しており、左側に分けられた山羊は《呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ》と断罪された人たちを表しています。これにならって、教会では、聖壇の奥に立てられた大きな十字架、イエスさま像から見て右手が優位の方角であって、福音の側、説教壇のある側とされます。ただし、私たちの教会では、何らかの理由によって説教壇はイエスさまの左手に置かれています。
日本では「左右(さゆう)」と言うように、昔は中国にならって左が優位の方角でした。天皇が左で皇后は右、左大臣は右大臣よりも優位でした。三月の雛飾りは昔はそのように置かれていましたが、江戸では和語で「右左(みぎひだり)」と言うように、右が優位の方角と考えられるようになり、地方により人によって雛人形の置き方が異なるようになったということです。
ところで、なぜ羊が良いと認められる人にたとえられ、山羊が良くないとされる人にたとえられるのでしょうか。それについては、キリスト教信仰がギリシア・ローマ世界に伝えられた当時、人々は山羊を多産・豊穣をもたらすものの象徴とみなして信仰の対象となっていたために、キリスト教の側では山羊を低くみなすようになったと考えられています。

いままで見てきた31~33節は、世の終わりのあり様そのものを伝えようとしているというよりも、裁きの中身、何が神によって決定的に問われることか、ということを語るための舞台装置のような役割を果たしています。このたとえ話は、世の終わりの裁きの様子やその客観的基準を教えるための話ではなくて、マタイ先生はこのたとえ話で、神の判断基準に照らして私たち自身の今の生き方を問いかけているものと考えられます。他の人たちがどのように裁かれるかということを知識として教えようとしているのではありません。
34節以下の物語によれば、最後の裁きで祝福を受けるのか、それとも呪いを受けるのか、その違いを生み出すのは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指していると受け取ることができます。その人々に私がどう関わったのか、ということによります。そういうことだけであれば、どんな宗教でも言いそうなことであって、なにもキリスト教に限っての話しではありません。しかし、実はこのたとえ話では、イエスさまはそれ以上のこと、つまり新しい教えを述べています。
《すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」》。
イエスさまの右手に集められた人たちは、飢えたり渇いたりする者たちが「人の子」イエスさまであるとは知らずに、援助の手を差し伸べています。彼らは「最後の裁き」のことなど念頭になく、ただ憐れみを抱いたから、小さい人、弱い人、この世に生きにくい人を助けたのです。
40節と45節の人の子の言葉では、「最も小さい者にしたこと」と「わたしにしたこと」が同一視されています。なぜイエスさまは《わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》と言えたのでしょうか。「飢えていた、のどが渇いていた、旅をしていた、裸であった、病気だった、牢にいた」。イエスさまの十字架への歩みは、これらの苦しむすべての人と一つになる道でした。だからこそ、イエスさまはその人々を「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語るのです。私たちは、目の前の苦しむ人の中に、イエスさまご自身の姿を見ようとします。それは、この目の前の人が神の子であり、イエスさまの兄弟姉妹であることを深く受け取り、私たちにとってその人がどれほど大切な人であるかを感じ取るためなのです。

マタイ先生は、単に人間同士の連帯ということだけを考えていたのでしょうか。しかし、人はまずイエスさまを見、イエスさまを愛することを学んだ後でないならば、どのようにして「最も小さい兄弟」を見、かつ愛することができるでしょうか。マタイ先生にとっては、無限の赦しを受けたものが始めて、ゆるしに基づいて生き、かつその上で他人にもゆるしつつ出会うことを学ぶのです。それゆえ、み言葉に耳を傾けることも、実際に人に対して親切であることも、両方とも重要なのです。
信仰には十字架上の強盗のように(ルカ23章42~43)、信じつつ助けを求めることだけで成り立つ、未完成だけれども本物の信仰があります。しかしまた、それとは対照的に、そのもとである源泉を知らないままに、貧しい人たち、小さい人たちに対し、神の意志を行なうという形で成り立っている、これまた未完成ではあるけれども本物の信仰もあるのです。あらゆる愛の行為は、イエス・キリストご自身が貧しい人という形で私たちのところに来るという事実に基づいてのみ生きているのですが、しかしそのことは最後の審判になって始めてすべての人に明らかになるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年11月13日 聖霊降臨後第22主日 「忠実に待つ」

マタイによる福音書25章1〜13節
説教:高野 公雄 牧師

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
マタイによる福音書25章1〜13節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

先週は全聖徒主日、先に召された方々を偲んで礼拝を守りましたが、来週はもう聖霊降臨後最終主日、マタイ年の終わりです。そして再来週11月27日は待降節第一主日、マルコ年の新たな始まりとなります。
そういう次第ですから、全聖徒主日が過ぎますと、教会の暦はあと二回または三回の日曜日を残すのみとなります。今年は今週と来週の二回になりますが、教会暦の一年の終わりに当たり、この世の終わり、終末について学びます。マタイ福音書25章の、イエスさま最後の説教から、今週は「十人のおとめのたとえ」を、来週は「すべての民族を裁くたとえ」を読むことになっています。

《そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く》。きょうのたとえ話は、ここまでが表題です。天の国が「婚宴」にたとえられています。「結婚」は神と人とが一つに結ばれる救いのイメージとして聖書にしばしば現れますが、ここでも花婿の到着と婚宴は、「世の終わり」の救いの完成を表しています。花婿が花嫁を迎えに来ると、《十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く》、そういうたとえ話です。
このたとえで、花婿は終末の時に再び到来するイエスさまを指し、花嫁とその友人であるおとめたちはそれを待つ私たち教会を指しています。若い女性を表す言葉は他にあるのに、わざわざ「おとめ(処女)」という言葉を使っているのは、信徒をキリストの花嫁という聖書の比喩表現に近づけるためと言ってよいでしょう。

このたとえ話は、当時のユダヤの村の結婚式の習慣を背景にしています。当時、婚宴は、多くの人が参加できるように夕方から始まりました。花嫁は、介添えをする友人たちと一緒に自分の家で花婿が迎えに来るのを待ちます。「十人のおとめ」は花嫁の友人たちです。
花婿の一行は花嫁を迎えるために花嫁の家に向かいますが、その行列は時間がかかり、花婿の到着はしばしば遅れたそうです。花嫁の家で、花婿一行と花嫁一行が合流して、花婿の家に向かいます。婚宴は花婿の家で行われるのです。
おとめが持つ「ともし火」は、花嫁の家の近くで花婿の到来を待っているときに灯している油のランプのことであって、花婿がたいへんに遅れたので、ランプが消えかけているということのようです。五人の油を持っていないおとめたちは、油を買うために店に寄ってから行ったので遅れてしまうのです。ちなみに婚礼は村にとってのお祭のようなものですから、それが行われる晩はお店が夜中まで開いていたと考えてよいでしょう。遅れた五人は婚宴の席に入れてもらえなかった、というのです。戸が閉められたことは、神の審判はこのように明確で取り消し不可能であることを表わしています。

このたとえは解説書によっては、「ともし火」と訳されている言葉を松明(たいまつ)と解釈して、興味深い説明をしていますので、ここで紹介しておきたいと思います。
たいまつとは、棒の先にオリーブ油を染み込ませた布が巻いたものです。花婿が迎えに来たとき、花嫁の友人のおとめたちはすぐにたいまつに火を灯して、歓迎の踊りを演じたそうです。そのたいまつは、火を灯しても15分ぐらいしか持たなかったようです。それで、たいまつ踊りの間に一度、油を注ぎ足さなければならないのに、五人の愚かなおとめはそのための油の壺を持っていなかったというのです。しかし、たいまつ踊りに補充用の油が必要なことは周知のことであったはずですから、それを持たないということは考えにくいという訳で、この解釈は少数意見にとどまります。

ところで、このたとえ話は、世の終わりにおけるイエスさまの再臨について教えているのですが、これには二つの側面があります。一つは、迫害などの厳しい状況の中で、この悪の時代は過ぎ去り、最終的に神による救いと解放が実現する、という希望を告げる側面であり、もう一つは、日常的な生活のさまざまな関心事に埋もれてしまう中で、最終的な神の裁きを語ることによって、今をどう生きるべきかを示し、回心を呼びかける側面があります。きょうのイエスさまの説教にもこの両方の面が含まれていますが、どちらかと言えば回心という側面が強く表れています。「花婿の到着が遅れた」というところに、初代教会の人々の特別な関心が表れているようです。最初のキリスト者たちは、遠くない将来にイエスさまが再び来て、救いを完成することを切望していましたが、その再臨は人々が予想したほどすぐには来ませんでした。そこで、再臨までの長い期間、「いつか分からないが突然訪れる」その時に向かってどのように生きるか、ということが、テーマとして浮上してきたのです。

《だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから》。このたとえの結論でイエスさまは「だから目を覚ましていなさい」と言います。でも、このたとえ話では十人とも眠ってしまいました。「目を覚ましている」というのは「肉体的に目覚めている」という意味ではありません。ここで「目を覚ましている」とは、「油を用意している」ということです。
この「油」は何を意味しているのでしょうか。きょうの箇所には「油」についての説明がありません。ルターは、この油は「信仰」を表していると主張したそうですが、今日ふつうには、余分の油は「善い行い」を表わすと考えられています。「ともし火」は、山上の説教の《そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天の父をあがめるようになるためである》(5章16)を連想させます。そして、賢いおとめと愚かなおとめの対照は、《そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった》(7章24~26)と同じようです。また、「ご主人様、ご主人様」の連呼と「わたしはお前たちを知らない」という否認は、《わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』》(7章21~23)と良く似ています。

このようにマタイ福音書の流れを見ていくと、「油」は「善い行い」を表していると言ってよいでしょう。しかし、たとえ全体のポイントは、「油」は何を表すかということよりも、重大な瞬間に愚かなおとめたちは準備ができていなかったことにあります。賢さ、愚かさは、知力の高い低いではなく、予備の油を携えているか否かで表されています。つまり、来たるべきものに対して目が開いており、ただ漫然と生きることをしないように警告されているのです。
このたとえを読んで、賢いおとめは、なぜ油を分けてあげなかったのか、分けてあげたら良いのに、と感じる人もいたでしょう。しかし、この油は「人に分けてあげることのできないもの」を指していました。それは、その人自身の生き方だったのです。このたとえでは、目を覚ましているという私たち自身の生き方そのものが問われているのです。
「目を覚ましている」とは、現在においてすでに将来の神の裁き、神の国の実現を目指して生きる、そのような用意ができていることを表しています。福音を受け入れるというのは、私たちの生涯をかけての事業です。花婿イエスさまの到来は、人にとっても自分にとっても救いと同時に審判をも意味します。イエスさまの到来、神の国の実現が、どんなに遠く先のことと思われても、イエスさまが来られるまで、私たちは忍耐して信仰を堅持し、研ぎ澄ましていなければなりません。まさに、《最後まで耐え忍ぶ者は救われる》(24章13)のです。イエスさまは絶えず私たちを顧みていてくださいます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年11月13日 聖霊降臨後第22主日 「そして戸は閉められた」「二つの時を生きる・・」

マタイによる福音書25章1〜13節
説教:五十嵐 誠 牧師

◆「十人のおとめ」のたとえ
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
マタイによる福音書25章1〜13節


私達の父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

今朝は久し振りに説教にお招きを頂き、皆さんとお目にかかれて感謝です。普段は両手に収まる位の会員を相手に説教をしていますから、大勢の方々を前にしての説教は緊張を覚えます。今朝は共にイエスの譬話を聞きましょう。「十人の乙女」の譬です。
私は思いますが、イエスは卓越した・すぐれた短編作家であり、譬え作家と言えます。あの「放蕩息子」の譬は最高の短編小説ですし、譬といわれます。で、イエスはいくつくらいの譬を話したかですが、「共観福音書」(マタイ・マルコ・ルカ)には、学者によって違いがありますが、50くらいあるそうです。譬とは日本語辞典では「他の物事になぞらえていうこと」とあります。また、「他の物事にかこつけて、それとなくある意味をほのめかすこと」でもあります。私なんかは、難しいことを易しくいうためによく使います。たとえばなんて言い、たとえば、たとえばを繰りかして、分からなくなることあります。
ギリシャ語・新約聖書の言語・では parableです。本来の意味は「比較」です。その場合、譬とは自然や日常生活ののような一つの領域において妥当することは、霊的な世界においても妥当するするという仮定に基づいて、自然や日常生活から類推され・ある霊的な真理を教えようと意図された比較であると定義されます。私は「日常の出来事を通して霊的なことを伝えるもの」と言います。霊的なこととは「よい知らせ・福音」であり「神の国の教え」であると。昔は譬は「天上の意味を持つ地上の物語」と言いましたが、正しいとも言えます。地上の物語・譬から、天上・神の意味を知ることが大事です。

今朝の譬は地上の物語の「婚姻。結婚」を用いています。ここからなにを学ぶかです。結婚のしきたり・習慣は地域や・集団でずいぶん違います。TVで見ることがあります。今ではエージェント代理店が結婚式や披露宴などしますから、画一的になりました。この六本木教会でも結婚式が行われます。昨日この教会で結婚式を担当しました。

今朝の譬も面白いです。当時の・一世紀のパレスチナの結婚の風習でした。ある旅行者が、それを見て、書いています。10人の乙女ですが、Bridesmaid(ブライズメイド)ですが、この教会でもあります。外国での経験なんでしょうが、花嫁の付き添をつける方がいます。男の場合はBest manと言います。この譬では花婿を迎える十人の乙女・娘が登場しています。譬に花嫁がいません。何故かですが、昔から疑問らしく、それを解決するために、あるギリシャ語聖書写本は、「花婿を迎えに出て行く」(25:1)のところに「花嫁」を記入しています。「花婿と花嫁をむかえに出ていく」にです。当時の結婚式は、花婿が夜に、友人と共に花嫁の家に行き、花嫁を友人と共に、新郎の家までエスコートするのでした。譬でイエスは、結婚式を子細に言っているのではありません。で、花嫁を省いたのです。というのは譬のスポット・ポイントは結婚式のドキュメンタリーではないからです。
ではポイントは・・強調点はイエスの「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい」、「目を覚ましていなさい」にあるからです。「迎えるために」「目を覚ましていなさい」です。
「ある時に備えて用意をしなさい」ですが、聖書を・・マタイの福音書の24章と25章は、その「ある時」を想定して、弟子たちに心構えを教えています。そのあるときとは何でしょうか。今年東日本大震災や原発事故でよく聞いた言葉がありました。「それは想定外」でした。イエスはあることが起きたとき、それは「想定外」の出来事でないと言われているのです。ある時とは・・教会の方はおわかりですが。説明をします。

教会は独特の暦をもっています。週報の表紙にあります。「~~~主日」の所です。で今日は「聖霊降臨後第二十二主日」です。来週は「二十三主日」ですが、「最終主日」です。つまり、来週は教会では「大晦日」になります。教会の習慣で、年末になると、「終末」・・世の終わりとか物事の終わりを思う時にします。今朝の譬えは終末・・世の終わりをどう迎えるかを教えています。キリスト教に限らず、ほかの宗教にも終末の教えはあります。キリスト教はイエス・キリストを中心に「暦」・教会暦が組まれています。教会は二つの時の間にある物です。イエス・キリストを巡る、最初の時と最後の時です。最初の時とはイエスの地上への誕生・クリスマスです。では最後の時とは?それは「使徒信条」(AD200年頃)・・当教会礼拝式文での信仰告白・信仰箇条にあります。こう書いてあります。((5ページにある)。「天地の造り主、全能の父なる神を私は信じます。その独り子、私たちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によりてやどり、処女マリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府(よみ)にくだり、3日目に死人のうちから復活し、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生ける人と死んだ人とを審(さば)かれます。聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦(ゆる)し、身体(からだ)の復活、永遠の生命(いのち)を信じます。アーメン」。これがクリスチャンが信じている信仰です。

その「処女(おとめ)マリアから生まれ」が最初の来臨・到来です。イエスは十字架上で死に、復活しています。そして、天に帰られて、神としての力と権威をもって生きております。最後の・第二の来臨・到来は「そこから来て、生ける人と死んだ人とを審(さば)かれます」です。クリスチャンとはこの二つの時の間に生きるものです。今の私たちもそうです。二千年にわたって、信徒は第二のキリストの来臨を待って生きてきました。初期
の信徒は「主イエスよ、来てください」(ヨハネ黙示録22:20)と熱心に祈りました。主イエスの到来が遅れたと言っている信徒に、使徒ペトロは答えています。
「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。と言い、「主の日は盗人のようにやって来ます」と警告し、「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです」と勧めています。(ペテロⅡ・3;8-12)。

そのペトロの薦めにしたがって、すべての教会は「主の祈り」でこころを合わせて祈りをしています。「み国がきますように」(第二の祈り)とです。この「祈り」で私たちはイエスの到来を切に祈っているのです。これはきちんと覚えていたいと思います。その祈りをする信徒にとって、今朝の譬えは聞くに値する、イエスの言葉になります。今日の科学的な時代に、イエス・キリストが再び来られるなんて信じられないと言う方もいるかも知れません。信徒の中にも、そんなことを考えてない人もいるかも知れません。確かに、イエスの来臨がいつかは・・明日かⅠ年後か10年後か、分かりません。だれもです。しかし、それはもう来ないではなく、それはいつでも来るし、その可能性があると言うことです。今日、今来ても不思議ではないと言うことです。そうすると毎日が、備える日になります。イエスが再来するのか、しないのかですが、私は、神はいるか、いないかの議論と同じで、神の存在を信じ、イエスの言葉を、私たちに救いを与えられようと願う言葉としてうけとめて、イエスの再来・来臨を求めて、信仰生活をおくるものでありたい。

今日、私たちは代々の信徒と同じく、時の間に・・キリストの最初の来臨とキリストの第二の再来の間に立ち、歩いています。「目を覚まして」いること大切な点になります。譬えでは十人とも眠っていますから、「目を覚まして」は「眠るな」ではないことは分かります。「眠るな」では毎日が「戦々恐々」(びくびくして)です。不眠症になります。そうではなく、「花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」時に、「ともし火」を絶やさない「油」の用意をしている、あるかが、問われていると、私は思います。
昔から、譬の解釈は問題がありました。譬えを解釈する時に、譬の中の人物、動物、物事などに意味を見つける方法です。それを寓意解釈・アレゴリカル解釈と言います。面白いですが、簡単な譬を複雑にします。その代表的な例は「イソップ物語」です。ところで、この譬えの「油」とは何かです。(皆さんはどう思いますか)。ある先生は「愛の行為」、ある先生は「立派な行為」、ある先生は「信仰」を意味すると言いました。私はそうではなくて、信仰者のあり方・有り様だと思います。それは「イエス・キリストを迎える用意・準備をしている」ことです。「イエスを迎える準備」とは、別の言葉で言えば「死を
迎える用意」でもあります。私たちが最後に会う方はイエス・キリストだからです。
私たちにはイエスについて、前もって二つ知らない出来事があります。一つはクリスマスです。クリスマスが起こるとは・・あのような方法ではとだれも知りませんでした。だから「驚いた」のです。二つ目は「イエスの再臨です」。だれも日時を知りません。しかし、必ず起こりましたし、起こります。何故かです。それは神が計画されて、神が実行されるからです。そのことを覚えていたい。

私は前には、人間は死に向かって歩いていくものだと思っていました。若い人はそうだと思います。しかし、後期高齢者75歳を迎えたとき、死に向かって歩くのではなく、死が向こうからやってくると言う感じを受けます。死がどんどんやってくるです。終末期をどう対処をするか問われています。
それと同じく、今までは神・キリストを目指して、見上げて歩く信仰生活でしたが、最近は、向こうからイエスがどんどんやってくる、近づいて来る。いや、来ていると言う感じです。終末が近くないと、高をくくって生きるのではなく、キリストの来臨に備えて信仰生活のあり方が問われていると言えます。
私は少し前に「私たちが最後に会う方はイエス・キリストだ」と言いました。私は最近、間違っているんではないかと思うことがあります。私は説教で、お話で、励ましのつもりで、「神に心を向けなさい」、「神を考えなさい」「祈りなさい」とか、「キリストに向かって、キリストを見て、見上げて」とか教会の方々に言いましたが、本当はそうでなく、「神はあなたを見ていますよ」、「イエスはあなたにこころを寄せていますよ」、「イエスは一緒に歩いていますよ」、「イエスは最後まで愛されていますよ」、まさに、イエスは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)のです。私たちを愛し、愛し抜かれているイエスだからこそ、イエスの来臨を期待し、迎える用意をするのではないでしょうか。

今朝11月13日の朝日新聞「天声人語」でアメリカ大リーグのヤンキースの大スターのディマジ オの言葉が紹介されていました。彼は「(球場で)自分を見るのが最初で最後の人がいる。その人のためにプレーをしている」と言われたそうです。彼は日々最高のものを見せようと生きたのです。そのプロ意識はすごいです。私はこの言葉は別な意味で、私たちにも適用できると思いました。私たちは、私たちを見ている方がいる。その方・イエス・キリストのために日々生きると言うことではないかと。信仰のプロ意識を持っていたい。

今日の説教題は「そして、戸は閉められた・・」ですが、迎える準備をしていなかった5人の乙女は「愚かな乙女」と呼ばれています。一方。迎える準備が出来ていた5人の乙女は「賢い乙女」と呼ばれています。「そして、戸は閉められた」時に、どちら側にいるでしょうか。内側でしょうか、外側でしょうか。賢い選択をしたいと思います。
再び来られて私たちを 永遠の住まいに迎えられるイエスを待ち望みたい。
アーメン
*一言申します。今日は私の牧師になって50年のお祝いの会をいたします。六本木教会が準備をしてくださいました。また、館林と横浜教会が参加してくださいました。心から感謝をいたします。私はこの教会の前身である「目黒マルチン・ルーテル教会、館林聖ルカルーテル教会、大宮シオンルーテル教会、横浜泉ルーテル教会」。定年後は館林聖ルカルーテル教会、そして今年の4月まで当教会の協力牧師として奉仕をしました。私の牧師としてのその初めと終わりの教会で奉仕ができたことはうれしいことでした。神の恵みと皆さんの助けを頂き50年を迎えました。改めて感謝をいたします。有り難うございました。皆さんの上に神の祝福を祈ります。 アーメン

+参考に・
*仏教ー後期高齢者→末期高齢者→臨終期高齢者→西方浄土期高齢者・浄土に着地?
*キリスト教ー後期高齢者→末期高齢者→臨終期高齢者→天国期高齢者・神の国に着地0
+高名な仏教学者が明るい西方浄土に着地するか、暗いあの世に舞い降りるか、その辺の 所ははっきりしないと言う。しかし、キリストは確言します。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:1-4)。

2011年10月30日 聖霊降臨後第20主日 「皇帝への税金」

マタイによる福音書22章15〜22節
説教:高野 公雄 牧師

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

マタイによる福音書22章15〜22節


今週の説教録については、「説教録の体裁」と「教会暦の名称」についておことわりすることがあります。
第一点は「体裁」についてです。今週は「説教」に代えて、礼拝で朗読した福音書の個所の「解説」を高野牧師が書くことにしました。次のような事情によります。
10月の最後の日曜日は、宗教改革を記念する恒例の行事として、日本ルーテル教団を形成している都内の六つの教会による合同礼拝が行われます。今年は、高野牧師も司式の補助を務めました。しかし、六本木教会でも礼拝を行なって欲しいという希望があり、安藤政泰先生に司式と説教を引き受けていただきました。安藤先生はアメリカで開かれた被災者支援に携わるルーテル教会の国際会議から戻ったばかりの多忙の身であり、説教録を書いていただくのははばかられました。
第二点は、「暦名」についてです。六本木教会でも「宗教改革主日」として礼拝を守りましたが、この説教録では「聖霊降臨後第20主日」としました。これは安藤先生と相談して決めたのですが、礼拝で朗読した聖書個所は先週の教会の暦に続く聖霊降臨後第20主日に配分されている個所を選んだからです。その理由ですが、一方で「宗教改革主日」の朗読個所は毎年同じ個所をくりかえし読んでいることと、他方で「宗教改革主日」と次週の「全聖徒主日」に指定の個所を読むと、今まで読み継いできた福音書の物語が途切れてしまいます。それで、マタイ福音の続きを読むことにしました。私は、この解説ではとくに宗教改革に触れないことにしました。

マタイはファリサイ派に偽善者と呼びかけるのが好きで、次の23章では6回もこの言葉を使っています。「偽善者」とは、もともと演劇用語で「役者」を意味したのですが、マタイ15章7~8では《偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』」》とあります。マタイはたんなる偽善を言っているのではなく、神から離れた者を指して偽善者と言っているのです。
ファリサイ派の人々は、《皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか》と問います。イエスさまが納税に反対するならば、彼らはイエスさまを皇帝に逆らう者としてピラトのもとに告発することができます。納税を支持すれば、イエスさまは一般大衆の支持を失うことになるでしょう。ユダヤ人大衆にとってローマへの納税は、単なる経済的負担ということだけでなく、失われた自由の象徴として嫌悪の対象であったのです。

このように、この問いは相当に政治的な意図をもっているのですけれども、「律法に適っているでしょうか」と宗教的な用語を用いて迫ってきます。ところがイエスさまは、律法問題として論じてわなにかかる代わりに、ローマの通貨を示すよう求め、《これは、だれの肖像と銘か》と尋ねます。この通貨の表には皇帝の顔が浮き彫りされており、裏には「ティベリウス・カエサル(皇帝)、神聖なるアウグストゥスの子、最高の大祭司」、つまり異教のローマの宗教の大祭司とする銘が刻まれていたと言われます。税金はローマの通貨で支払うことになっているのですが、偶像が刻まれているその通貨をユダヤ人たちは神殿においてさえも使っていることをイエスさまはご存じだったのです。

《では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい》、こうイエスさまは答えます。これはどういう意味でしょうか。さまざまな解釈が可能性ですが、「イエスさまは政治と宗教の領域を分け、政治問題には関わらないようにされた」というのもその一つです。しかし、「政治の領域」と「宗教の領域」を分ける考え方は近代になってから現れたものであって、それ以前は、人間の現実すべてが神との関係の中にあると考えるのが当然でした。現代の教会も、人間の現実には何一つわたしたちの信仰と関係ないものはないと考えています。
つまり、異邦人の王でさえ、神から許可を得てはじめてイスラエルに権力を及ぼすことができた。皇帝の支配も神の意志によるのだから、税金を払うこともあるでしょうが、神が民を解放することを望まれるときには、皇帝の権力はなんの役にも立たなくなる、と言っているかのようです。
納税だけが問題なら、前半の《皇帝のものは皇帝に》だけで十分です。後半の言い足し《神のものは神に返しなさい》にイエスさまのねらいがあります。もしも「皇帝のものは皇帝に」とだけ言ったのであれば、単純に皇帝への納税を認めただけのことです。しかし「神のものは神に」と付け加えることによって、イエスさまはもっと根本的なことに人々の目を向けさせているに違いありません。

ところで、皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨は、皇帝のものと考えられていました。では神の像はどこに刻まれているのでしょうか。それは一人一人の「人間」だという考え方があります。2世紀の神学者テルトゥリアヌスは、人間を「神の硬貨」と言って以来の解釈です。創世記1章27に《神は御自分にかたどって人を創造された》とあり、エレミヤ31章33に《わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す》とあります。つまり、イエスさまは「皇帝の像が刻まれた硬貨は皇帝に返せばよい。しかし、神の像が刻まれた人間は神のものであり、神以外の何者にも冒されてはならない」と言っているのではないでしょうか。《神のものは神に》。あなたは何が神のもので、何を神に返すべきだと思っているのか。イエスさまは私たち一人ひとりにそう問いかけているのではないでしょうか。