2011年8月28日 聖霊降臨後第11主日 「湖の上を歩く」

マタイによる福音書14章22〜33節
説教:高野 公雄 牧師

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

マタイによる福音書14章22〜33節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、《それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた》と始まります。「それからすぐ」の「それ」とは、先週読みました、イエスさまが五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人の飢えを満たしたという出来事を指します。
きょうの福音は、「それ」に続くもう一つの不思議な出来事です。《ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた》。イエスさまが水の上を歩いたという物語です。
しかし、先週の五千人にパンを与える物語と同様に、この水の上を歩く物語も、現代のキリスト者にとっては、つまずきの石です。おそらく一世紀の人々にとってもつまずきだったことでしょう。もっとも、当時は、自然法則も、超自然的なものが介入することによって留保されると広く信じられていましたから、聖書の民にとって、出エジプトを導いた神ならイエスさまにそのような力を与えることができたということについては、疑いはなかったと思われます。
ほんとうにイエスさまは湖の上を歩いたのでしょうか。聖書に書いてあるのだからそのとおりに違いないと考える人もいるでしょうし、どうしてもそれは信じられないという人もいるでしょう。事実はどうだったのか、と議論してもあまり実りはなさそうです。それで、ここではこの出来事の歴史性の問題はわきに置いて、この物語がマタイにとってどういう意味があったかという点に、焦点を合わせて見ていきましょう。

結論を先に言ってしまいますが、マタイの意図では、イエスさまは神からの授与によって、奇跡的な能力を発揮されたのです。イエスさまが、《わたしは天と地の一切の権能を授かっている》(マタイ28章16)と言っておられるとおりです。ただし、奇跡的な能力が、イエスさまが神であることの証拠だとするのであれば、ペトロも同じように湖の上を歩いたことを書き加えるのはまずいことになります。ですが、この物語では確かに、ペトロもまた同じように力を与えられています。
イエスさまは自分が誰であるかを見せびらかすために水の上を歩いたのではありません。そのとき、舟は岸から遠く離れていて大波に悩まされていました。イエスさまが水の上を歩かれたのは、危機に陥った弟子たちを助けるためでした。つまり、この物語は、イエスさまが何者であるかではなく、イエスさまは何を行なう方なのかを強調しているのです。イエスさまはメシアとして、神の民を牧するように、またその群れに配慮をするようにと、神から委託を受け、それを果たす力を与えられているお方なのです。

弟子たちに恐れを生じさせるのは風と水ですが、聖書では水は、神に敵対する悪を象徴しています。例えば、詩編69編はこう歌います。《神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。わたしは深い沼にはまり込み、足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み、奔流がわたしを押し流します。叫び続けて疲れ、喉は涸れ、わたしの神を待ち望むあまり、目は衰えてしまいました。理由もなくわたしを憎む者は、この頭の髪よりも数多く、いわれなくわたしに敵意を抱く者、滅ぼそうとする者は力を増して行きます》。
この物語は、嵐を静めた物語(マタイ8章23~27)とテーマが似ています。どちらも舟は、自分の弱さや試練、迫害という海の大しけに翻弄されている教会を表しています。高波をぬって生き延びるには、《主よ、助けてください》(8章25、14章30)と主に呼びかけるほかありません。どちらの物語でも、イエスさまは、ご自分を呼び求める人々を救うに十分な力を持って教会を見守ってくださっています。したがって、「弟子たち」と書くことが予期されるところで、マタイが《舟の中にいた人たち》(14章33節)と書いているのは、読者たちを念頭に置いてのことです。すなわち、単に使徒たちだけでなく、すべての信仰者たちが、危険にさらされた舟の中にいるのであり、イエスさまに依り頼んでいるのです。

《弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」》。イエスさまは恐怖のどん底にいる弟子たちに向けて、《安心しなさい。わたしだ。恐れることはない》と呼びかけます。「わたしだ」とは、「わたしはあなたたちと共にいる」という意味です。イエスさまは今もさまざまな恐れに囚われている私たち一人一人にそう呼びかけています。

《すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ》。
イエスさまが湖の上を歩かれる物語は、マルコ6章45~52とヨハネ6章15~21にもありますけれども、マタイだけがペトロについての物語を付け加えています。この追加の物語は、信仰と懐疑のただ中にとらわれつつキリスト者として生きるとはどういう意味があるかを鮮やかに描き出しています。ペトロは信仰による大胆な一歩を踏み出したのは良かったのですが、逆巻く波に目を奪われてしまい、イエスさまから目を離してしまった私たちすべての信仰者を代表しています。私たちもペトロのように水の上を、あるいは水の上でなくともイエスに従う道を歩みたいのです。しかし強い風、さまざまな困難のために怖くなって、《「主よ、助けてください》と叫びたいのです。ペトロに代表されるように、すべてのキリスト者は、不確実な状態の中で生きぬくことを学びつつ生きるのです。イエスさまの救いの力を信じるということは、危険を冒して歩み出すことなのです。

《イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた》。マタイによれば、弟子たちは信仰が小さいために、恐れが生じるのです。その恐れとは、直接には、当時マタイの教会に襲い掛かっていた迫害のことでしょう。弟子は師のようであるべきですから、ペトロは自分も水の上を歩こうと願います。危険を承知で敢えて歩み出そうとします。しかし、強い風に目を移してイエスさまから目を離すと、おぼれかかります。ペトロのこの姿こそ、あらゆる時代のイエスさまの弟子の現実の姿です。信仰が無くはないのですが、小さいのです。小さいので失敗を繰り返します。ですが、イエスさまは「すぐに」手を伸ばし救い出してくださいます。
この物語のテーマは「恐れと疑いから信頼へ」と言えでしょう。聖書の「信仰」という言葉は、「信頼」と訳すこともできます。「信仰」というと「神の存在を信じる」ことだと考えがちですが、信仰の本質は、「神が存在するか否か」ということではなく、「神に信頼を置くかどうか」ということです。神に信頼せず、自分の力だけで危険に立ち向かおうとするとき、疑いや恐れに陥るのです。《信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか》、kのイエスさまの問いかけは、もっと大きな信頼を持って大丈夫というイエスさまの私たちへの励ましです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年8月21日 聖霊降臨後第10主日 「パンを増やす」

マタイによる福音書14章13〜21節
説教:高野 公雄 牧師

イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

マタイによる福音書14章13〜21節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音、聖書の小見出しに「五千人に食べ物を与える」と題された出来事です。小見出しの隣のカッコ書きで書かれた対照個所で分かるように、この記事はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書すべてに共通して伝えられています。しかも、四福音書にそろって記されている唯一の記事なのです。きょうの福音は、初代教会のキリスト者がこの信仰に立ち、励まされて、さまざまな迫害や困難の中をくぐり抜けていった物語です。

《イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた》、という言葉から始まります。「これを聞くと」の「これ」とは、この個所の前の段落を指しています。前の段落は「洗礼者ヨハネ、殺される」と小見出しにありますように、イエスさまの先駆けである洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデに首をはねられて殺されたことが記されています。イエスさまは洗礼者ヨハネがヘロデによって殺されたことを聞いて、ひとり人里離れた所に退かれたのです。

《しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた》。イエスさまは自分にも危険が及びそうな状況を見て、身を隠そうとされたのではないでしょうか。ところが、そんなさびしいところまで、人々はイエスさまを慕い求めてやってきました。そういう群衆をご覧になって、彼らを深く憐れまれたゆえに、この出来事は起きたのです。

この「深く憐れむ」と訳された言葉は、「はらわた(腸)」を動詞化したもので、「目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたがゆさぶられる、自分のはらわたが痛む」ことを意味します。これは、聖書では大事な言葉です。たとえば、「善きサマリア人」のたとえです。旅の途中、追いはぎに襲われて半殺しにされ、道端にうずくまっている人がいました。《ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した》(ルカ10章33~34)。ここでは「憐れに思う」と訳されていますが、元の言葉は同じです。

また、「放蕩息子」のたとえでも使われています。放蕩に身を持ち崩した息子が帰ってきたとき、《ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した》(ルカ15章14)。ここでも「憐れに思う」と訳されています。

また、「仲間を赦さない家来」のたとえにも表れます。王に莫大な借金をした家来が返済を迫られるが、返せないのでしきりに待ってくださいと頼みます。すると、《その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった》(マタイ18章27)。この「憐れに思う」も同じ言葉です。

これらのたとえで、善きサマリア人も慈悲深い父も柔和な王も、神を象徴しています。そして今日の福音ではメシアであるイエスさまの心を表す言葉として使われています。イエスさまが病人をいやし、食べ物を与えるのは、この「苦しむ人への共感」から出た行動なのです。

《夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」》。人々はイエスさまの跡を追って、人里離れたところに来ています。イエスさまの話しを聞き、なさることを見ている間に夕暮れになりました。弟子たちはイエスさまに進言します。もう群衆を解散させて、各自が村で食べ物を手に入れるようにさせましょう。これは良い考えではないでしょうか。

ところが、《イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」》。イエスさまは人々に買いに行かせるのではなくて、人々の食事を心配しているあなたがた自身が与えなさいと答えます。《食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった》とありますから、女と子供を入れると二万人ほどにもなったでしょう。マルコ福音によると、《弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と》(6章37)イエスさまに反問しています。そんな大金は持っていないし、持っていたとしても、そもそもそんなに大量のパンは売っていないでしょう。ですから、《弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」》。イエスさまは「あなたがたが与えなさい」とおっしゃるけれど、弟子たちの手にあるのは、五つのパンと二匹の魚だけです。こんなわずかなものが何の役に立つだろうか。東日本大震災また福島の原発事故の報道を見聞きして、私たちもこの弟子たちと同じ思いにとらわれるのではないでしょう。問題の大きさに比べて、私たちの持てる能力・手段はあまりにも小さいのです。

《イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した》。イエスさまは、どんなに少しのものでも、それをここ、イエスさまのところに持って来なさいとおっしゃいます。そして、それを手に取って、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」られました。イエスさまのみ手の中で、そのパンを用いた奇跡が起こり、人々の必要が満たされました。

この出来事から学ぶことは、第一に、「私たちに今日もこの日の糧をお与えください」という祈りは必ず聞かれるということです。この物語は、その昔、荒野において神がナマを与えられたことをも思い起こされます(出エジプト16章)。ここにはぶどう酒や肉のごちそうは出てきませんが、いま必要最小限のものはすべての者に満たしてくださる神さまの深い憐れみが表されています。イエスさまが天を仰いで賛美するのは、このパンが神から与えられたものであることを強く意識するからです。

第二に、イエスさまは「あなたたちが食べ物を与えなさい」と言われ、ここで弟子たちは給仕役として働いています。この弟子たちの姿は、古代のキリスト者にだけでなく、私たちにも、人々の必要のために働く神の道具として召されていることに気づかされます。「私たちに今日もこの日の糧をお与えください」と祈り、その祈りの聞かれることを望む者は、その祈りに積極的に関わることが求められているのです。

第三に、たとえ小さなパン五つと魚二匹しかないとしても、神はそれを用いられました。神の国のみわざのために、自分たちの持てる小さなものを提供するよう励ましておられます。「パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」とあるますが、「パンを裂く」のは、自分ひとりで食べるためではなく、他人と分かち合うためです。すべてのものは神から与えられたものであり、だからこそ人と人とが分かち合って食べる、これがイエスさまの食事の豊かさです。

第四に、この物語は、《そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった》ということで締め括られます。パンは五千人または二万人に配られたことを思うと、裂かれたパンの残りが十二籠であったことは、「足りないかと心配したけど、何とか全員に配ることができた。良かった、良かった」と安堵する、その程度のぎりぎりの余りです。ヨハネ福音では、《人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた》(6章12)とも書かれています。「無駄を出すな。もったいないことをするな」ということです。さもないと、その分だけ誰かが飢えたままでいることになるのです。

聖書は、神の恵みを伝えると共に、私たちが神と出会うことを通して、神が私たちの人生の主となり、私たちの人生を掬い上げてくださることを教えています。

2011年8月14日 聖霊降臨後第9主日 「隠された宝」

マタイによる福音書13章44〜52節
説教:高野 公雄 牧師

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

マタイによる福音書13章44〜52節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、マタイ福音書13章に集められた「たとえ話集」の結びの部分です。きょう読む「たとえ」はすべて、福音書の小見出しの隣にカッコ書きで参照個所が挙げられていないことで分かりますように、マタイ福音書の特ダネ記事です。

きょうの「たとえ」も《天の国は次のようにたとえられる》で始まっています。「天」はマタイ特有の「神」を言い換えた言葉ですから、他の福音書では「神の国のたとえ」と言われます。しかし、学者たちによれば、静的に「神の国」と訳すよりは、動的に「神の支配」と訳す方が良いのだそうです。天の国あるいは天国というと、人が死んだあと行くところ、あの世のことになってしまいますが、このたとえでイエスさまが言おうとしていることは、この世における、つまり私たちの日常における、神の支配、すなわちイエスさまの言行を通して始まっている神の愛の働きを主題としているのです。

さて、きょう最初のたとえは、「畑に隠された宝」のたとえです。《天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う》。

タンス預金という言葉があります。銀行などに預けないで現金をタンスの中などに持っていることを言います。欧米ではマットレスの下に隠す人が多いそうです。昔の人にとって、日本でもそうだったでしょうが、盗難の危険を防ぐために金品を壺に入れて土に埋めるのが一番確実な方法と考えられました。隠した場所が忘れられたり、戦争が起こったり、家が途絶えて、そこが畑になったりということもあったことでしょう。埋蔵金を発見というニュースは今でもたまに聞かれます。このたとえでは、事情はどうであれ、宝は畑の中に隠されていました。それを見つけた人は、小作人であって主人の畑で働いていたのでしょう。彼は大喜びで家に帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買いとったという話です。

次のたとえは「高価な真珠」のたとえです。《また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う》。

古代には真珠の養殖はありませんでしたから、天然の真珠です。滅多に採取できない貴重な宝石でした。ヨブ記28章18に「さんごや水晶は言うに及ばず、真珠よりも知恵は得がたい」とあるように、さんごや水晶に比べ真珠がずっと高価であったことが分かります。そもそも「真珠」という言葉自体が「真の珠」、宝石の中の宝石を意味しています。古代の真珠の産地は、ペルシャ湾や紅海の沿岸でした。商人たちは、真珠を求めるために、イスラエルから遠く離れた場所へ行かなければなりませんでした。そして探していた一つのものを見つけると、やはり、持ち物をすっかり売り払って、それを買うという話です。

さて、これら二つのたとえで、「隠された宝」また「真珠」でたとえられている「天の国」とは、私たちの日常生活を支配しておられる神の愛の働きのことでした。それを農夫は汗して耕していた畑で、商人は遠い外国の仕事先で見つけました。どちらの人にとっても日常生活の中で彼らの宝を見つけ、《持ち物をすっかり売り払って》それを手に入れました。喜んで《持ち物をすっかり売り払って》、彼らが宝とするものを手に入れたのですから、彼らの人生はすっかり新しい、喜ばしいものに変わったことでしょう。宝を手に入れた生活とは、神が彼らを愛し、人生を共に歩いていてくださる、彼らの人生を支え、導いていてくださる生活です。人はこの神の愛の働きをイエスさまの言動をとおして見出すことができるのです。《このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです》(コロサイ2章3)。

ひるがえって、私たち自身にとって一番大切なもの・宝は何でしょうか。お金や宝石そのものでしょうか。マタイ6章21に《あなたの富(すなわち宝)のあるところに、あなたの心もある》とあるとおり、あなたの心が一番大切にしているもの、それがあなたにとっての「神」です。神と名付けられていなくても、一番大切にしているものがあなたの命なら、それがあなたの「神」です。家族が一番大切なものであるなら、あなたにとって家族があなたの「神」です。それがお金なら、お金があなたにとっての「神」です。たとえ自分は無宗教だ、無神論者だと主張するとしても、実は人は何かしら心に「神」を持っているというのが、聖書の人間観・宗教観です。

今もいつも神が私たちの味方として私たちと共にいてくださる、人生を共に歩んでくださるということこそが、地上における「天の国」であり、福音であり、何ものにもまさる宝です。古代キリスト教教父アウグスチヌスはこう言っています。「神よ、あなたは私たちをあなたに向けて造られたので、私の心はあなたのもとに憩うまで、安らぎを覚えることがありません」。このように、神の愛の働きに私たちの心の目が開かれることが、このたとえのねらいであり、イエスさまが言葉と行いで目指していたことだったのです。

 

「畑の中の宝」と「真珠」のたとえが示すことは、神さまの愛の働きを前提としていますが、神の愛は畑の中、または「アコヤ貝」の中のように人の目に隠されているので、人がその現実に対して心の目を開くこと、そしてその神の真実を見出したならば、それを自分のものとして体得すべく努力をしていくという、人間の反応が強調されています。

しかし、そのことは、天の国に入る条件として、全財産を捨てる覚悟が必要だとか、神の救いは代価を払って買い取ることができるものだなどと誤解してはいけません。聖書の中心は、あくまでも天の国すなわち神の愛の真実は恵みとして賜物として受け取るべきものだということです。私たちは、このことをきょう三番目の「網のたとえ」で聞くことができます。

《また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める》。ここで漁をするのは神、集められる魚は人間でしょう。神はいろいろな魚を集められます。神の愛の支配を見つけた人も見つけてない人も招いておられますし、善人だけでなく、悪人をも漏らすことなく救いに招いておられます。神は、生真面目な兄をも放蕩に身を持ち崩した弟をも、分け隔てなく愛した父のように慈悲深いお方です。放蕩息子がまだ遠くにいるのに、もう駆け出していって抱きしめた父です。そう考えると、宝や真珠は神ではなく私たちのことで、《出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う》農夫や商人が神のことだというふうにも読めてきます。神は私たちを救うためにすべてを犠牲にしてくださいました。実に、《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(ヨハネ3章16)。

このたとえの後半はこう続きます。《網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け》る。今はすべての人が招かれています。そしてそれと同時に人はその招きにふさわしい応答をすることを求められています。

自分の生活の中に神の働きを見ていない人の人生は、暗闇の中を歩いている人のようです。しかし、イエスさまは言います。《あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている》(マタイ13章11)。そしてこう尋ねます。《「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った》。私たちもまた、神の真実・神の愛による支配という「宝」が、日々私たちに臨んでいることにいつも気づき、また互いに分かち合うことができるように祈りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年8月7日 聖霊降臨後第8主日 「毒麦たとえ話」

マタイによる福音書13章24〜35節
説教:高野 公雄 牧師

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

マタイによる福音書13章24〜35節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、先週の「種を蒔く人」のたとえに続く箇所です。このマタイ福音書13章には「天の国のたとえ」が集められていますが、きょうはその中から「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」の三つを読みます。最初の「毒麦のたとえ」はマタイ福音書にだけ見出されるたとえです。

「天の国のたとえ」といいますのは、これらのたとえは《天の国は次のようにたとえられる》というような出だしで始まるので、そう名付けられています。この福音書を書いたマタイ先生は「神」という言葉を大事にとっておくために、ふつうは「神」と使われるところを「天」と言い換えるという特徴があります。ですから、ふつうは「神の国のたとえ」と呼ばれます。

身近な物事を例にとって、よく知られていることにたとえて、神の国のことを伝えようとするのですが、イエスさまのたとえは、神の国と言っても、将来の天国の楽園状態を教えようというわけではありません。いま現在、イエスさまご自身がこの世に来られたことによって神のこの世に対する働きかけが始まっているということを伝えようとしています。きょうの福音の最後に《わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる》とありますが、この《天地創造の時から隠されていたこと》とは、イエスさまを通して神の救いの働きが始まっていることを指しています。「神の国のたとえ」を聞いて、そのことを悟るかどうかがカギになります。

さて、「毒麦のたとえ」です。毒麦とは、外見が小麦そっくりの雑草で、麦畑にはびこります。それ自体が毒をもっているわけではありませんが、毒をもった菌が付着するので毒麦と呼ばれます。このたとえ話の筋は、こうです。ある人の畑に、敵が毒麦をこっそりと蒔きます。僕(しもべ)たちが気づき、すぐに抜き取ろうとしますが、主人は《いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい》と、収穫の時期を待つよう指示します。すぐに抜けば根が絡んでいるので良い麦も抜いてしまうおそれがありますし、あまりよく似ているので毒麦のつもりで間違って麦を抜いてしまうかもしれません。しかし、生長しきったときなら穂の形で見分けがつくので完全に選り分けることができるのです。

麦と毒麦が共存している畑、これは私たちの暮らす社会の現実そのものです。どうにかしなければなりませんが、世の中は善と悪が白と黒にはっきりと分かれているわけではなく、グレーゾーンが幅広く占めています。それにそもそも、他人を善か悪か判断しようとする自分自身が麦と毒麦が混ざった畑であることも考えなくてはなりません。ある人を悪と決めつける私の視点は果たして正しく公平なものでありうるでしょうか。また毒麦は育つあいだに良い麦に変身することはありませんが、人は育つあいだに悔い改めて本心に立ち帰ることができます。人は変わりうるのです。ことわざにも「角を矯(た)めて牛を殺す」とあります。牛の角を直そうとしてあまりいじり回すと、牛自身を殺してしまうことになりかねません。西洋にも「産湯と一緒に赤ん坊を流すな」というのがあります。趣旨は同じで、あまりに熱心に改革や組織の改変や行動をしすぎると、不必要な要素を取り除くうちにどうしても必要な要素までもとりのぞいてしまうことになりがちです。

たとえの最後に、主人が《刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう》、と言っているように、最後には神さまの審判があることは確かですが、イエスさまの関心は、この主人の取る姿勢を述べることによって、ご自分の身を通して始まったいま現在の神の国の働きを伝えることにあります。いまは裁きの時ではない、いまは寛容の時、忍耐の時だと言っているのです。ここに、誰をも切り捨てない神の国のあり方、そして《徴税人や罪人の仲間だ》(マタイ11章9)と非難されたイエスさまご自身の生きる姿勢を見ることができます。私たちはどうしたら世の中を良くしていくことができるのか、いつもイエスさまの生き方の中にその答えを探していく者でありたいと思います。

ところで、このたとえは、教会を考えるときにも適用されて、500年ほど昔の宗教改革の時代には改革者たちを二分することにもなりました。一つのグループは、当時の社会と教会の道徳的堕落ぶりを否定し清めようとするあまりに、教会を否定し、幼児洗礼を否定して、自分たち真の信仰者だけからなる新しい教会を作ろうとしました。他のグループは、道徳よりも信仰の質の改革を目指しました。改革の旗印は「恵みのみ・信仰のみ・聖書のみ」ということでした。そして現世にある教会つまり目に見える教会は、麦と毒麦の、信仰者と不信仰者のまじりあった群れである現実に耐えていくべきと考えました。なぜなら、誰が信仰者であり、誰がそうでないのかは、神のみが知ることであるからです。《主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ》(エフェソ4章5)です。教会を割ることには反対でした。これがルーテル教会の立場です。

イエスさまの神の国運動に加わった人々は、世の権力者や金持ちではありませんでした。むしろ彼らはイエスさまの運動をつぶしにかかったのです。イエスさまと弟子たちは、貧しく小さな群れに過ぎず、神の国からほど遠い姿でした。そんなグループの運動が果たして世の中を改善することができるでしょうか。このような疑問に答えるのが、次の二つのたとえです。

《天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる》。からしは地中海沿岸原産で荒れ地などに自生している野草ですが、栽培もされています。種子を挽いて粉にしたものを料理用のマスタードとするほか、野菜またはハーブとしても利用されます。このたとえでは実際のからしよりも誇張されていますが、始まりの小ささと結果の驚くほどの大きさが対照されています。「空の鳥」は異邦人、異教徒を指しています。ガリラヤの片隅で始まった小さな運動を神さまは将来かならず外国人もが参加するように大きく育てるというイエスさまの確信、弟子たちへの激励です。

次のたとえも同じです。《天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる》。パン種とは、パンの製造に使用する酵母、イーストのことです。小麦粉にイーストを混ぜたならば、イーストは消えてなくなってしまうかのようです。私たちは吹けば飛ぶような小さな群れにすぎません。しかし、ほんの少量のイーストが粉に働きますとパン生地全体が膨らみます。3サトンは換算すると38.4リットルですから、ずいぶん大量のパンができあがることになります。これはたぶん、世界の東西南北から集まった救われた者たちの、天国における大祝宴に供されるパンを象徴しているのでしょう。

東日本大震災のような途方もない大きな出来事に直面したら、私たちの愛の業、募金や援助はまったく無力に感じられます。しかし、神さまが私たちの小さな努力を、神の国が成長していくことの中に用いてくださると信じてよいのです。イエスさまの「神の国のたとえ」は、そう私たちを励ましてくれているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン