2010年11月28日 待降節第1主日 「ろばに乗る・・主イエス・・・」

マタイによる福音書 21章1-11節

説教:五十嵐 誠牧師

◆エルサレムに迎えられる

21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン

 

ご承知と思いますが、今日から教会の暦が新しくなります。教会はイエスの生涯を巡って生活をしていますから、クリスマス、復活祭・イースター、聖霊降臨祭を中心に暦が作製されています。クリスマスを迎える準備が始まりです。クリスマスの四週間前が新らしい暦になります。

クリスマスはイエスの来臨を・・この地上への降臨・・来ることを三重の意味で考えます。過去、現在、未来の来臨です。Jesus came。 Jesus come。

Jesus shall come。クリスマスにイエスは来られた。イエスは来ている。イエスは来るだろう。この三つです。これは大切な事です。余り気が付かないのですが。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵と平安なあるように  アーメン

教会の暦はクリスマスを迎える準備をする季節に入りました。町中クリスマス的な雰囲気があります。教会のお株を奪ったようです。伝統的な習慣を守るところでは、準備をします。クリスマス‐ツリーをかざります。多くは樅もみの木です。クリスマス‐リース(リースは花輪の意) 蔓などを輪形に編み、ひいらぎの葉や松ぼっくりなどをつけたクリスマスの飾り。ドアや壁などに掛ける家があります。クリスマスクランツは花輪の周りに四本のローソクを立てて、毎週一本ずつ点灯して行きます。四本点灯の後の主日がクリスマスになります。

現在はクリスマスが盛んですが、最初はキリストの十字架と復活が重んじられました。それは教会の暦の最初から覚えられ、祝われて来ました。それに対してクリスマスは、教会はこれを覚えて礼拝をする、教会の暦の中で特別にこれを重んじることはありませんでした。クリスマスが祝われたのは四世紀からです。だから、クリスマスは四世紀にはじめて出来たと言うことではありません。というのは、マタイの福音書、ルカの福音書などは、明らかに紀元一世紀、70年代、80年代には成立していますが、そこにはイエスの誕生にまつわる様々なことがら、東方から来た博士、マリヤへの受胎告知などがあります。それらが福音書に書かれたのが、イエスの死後30年か40年後ですから、いえすの誕生にまつわる言い伝えは、ごく古い教会のから、口から口へと伝えられていたものが、マタイとルカによって書かれたと言えます。

従って、イエスの誕生は教会の歴史の中で、後になって、非常に重んじられ、祝われるようになりましたが、イエスの誕生の意味は、最初の時代においては、余りにも強烈な十字架と復活の光りに覆われていた、それが時代を経るにしたがって、正当な重みを評価されるようになったと言えます。で、クリスマスが盛大になったと言えます。

イエスの誕生の様々な言い伝えを見ると、二つの特徴があるようです。一つはイエスがかってのイスラエルにおいてもっとも偉大であったダビデ王の子孫であると言うことです。イスラエルの歴史においては、ダビデの王国は非常に大きな意味を持っていましたから、ダビデの王国が再び実現することがるとするならば、それはダビデの再来のような王よってであるという期待が強くありました。イエスがダビデの血統・血筋から生まれた方

であると言うことが強調されています。

二つ目の強調点はイエスは父ヨセフ、母マリアから生まれたが、イエスの誕生の背後に決定的に働いているのは、神の意志、配慮、計画、神の力であるという事です。聖書は

「聖霊」によってと言いますが、「聖霊」とは「神の力」です。神の力、非常に不思議な人間を超えた力によって、このイエスという方が誕生せしめられたのだ、それは人間の意志や、人間の可能性、人間の力の限界を超えたものだということです。それをイエスの誕生にまつわる言い伝えは強調していると言えます。

マリアや婚約者ヨセフがイエスの誕生で悩んでいますが、それは彼らのような人間・罪深く、醜い人間を通して・神の力が働くと言うことを受け入れ難かったからです。それを彼らの言葉、祈りが示しているのです。でも、彼らは惑い、恐れ、疑いながらも、最後には神の意志に従っていく、そして神の御心、計画を受け入れていくのです。それを見ることが、クリスマスのポイントでもあります。

今朝は、今述べた二つの特色のはじめの、第一の意味を伝えています。イエスのエルサレム入城です。「入場」(単に会場・式場・競技場などにはいること)ではなく、「入城」(王として、征服者として城に入ること)です。イエスのエルサレム入城として知られているところです。このところは教会暦ではイエスの最後の週の「受難週」のはじめの日曜日に読まれます。やはりイエスがエルサレムに入る場面です。本来はこれが正しいのですが、それが「降臨節第一主日」に読まれるのは、クリスマスに生まれたイエスは王であり、その王を迎える意味で読まれます。それは旧約聖書の預言書ゼカリヤ書に見られます。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」。(9:9)。*「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」。

あなたの王がくる・・・それがクリスマスの意味です。喜んで迎えよう!です。ちなみにクリスマスは三重のイエスの意味を考えると言います。1は王としてのイエス。2は預言者としてのイエス。3は祭司としてのイエスです。イエスは洗礼を受けたとき、この三重の務めに任命されたと理解されています。旧約の預言者は神の言葉を語りました。同じく、預言者としてイエスはかみの言葉を語りました。旧約時代の祭司は「生け贄」を備えて、民のために仲介をしましたが、祭司としてのイエスは牡牛や羊ではなく、ご自身を神に対する「生け贄」として捧げられました。1の王としての今日の所です。

当時の民衆は誤てるメシア待望がありました。イエスは神の国を述べ伝えました。それは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。「その評判が周りの地方一帯に広まった、イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。イエスの神の国運動は民衆に強烈な衝撃と喜びをあたえました。特にそれが眼に見える形で・・癒しの奇跡という活動によって、また権威ある新しい教え(マルコ1:27平行)という言葉によって媒介されたために、イエスが伝えようとした神の国の到来とは異なった意味で理解されました。民衆の素朴な、しかし根強い神の国待望・メシア待望に結びつけられて行くという結果になりました。マルコの福音書の同じにゅうじょうで民衆は「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように、いと高きところにホサナ」(ホサナとは今救い給えですが、万歳!です)(11:10)とありますのは、やはり人々が地上王国を期待していた事を表しています。(ヨハネは書いています。「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」。イエスが「山に退かれた」とは地上の王としての考えを否定した事です。

イエスが意味した神の国とは何でしょうか。イエスの奇跡や癒しは神の赦し、神のに愛のしるし、神の支配実現の目に見えるしるし似すぎなかったのです。民衆は目に見えるも

のとしてとられ、目に見えるものに重きを置くという人間のから、イエスを奇跡を行う人して、天使の大群を天から率いてきて、ローマ帝国を滅ぼしてくれるのではないか、宗教的な人物が軍事的・政治的のも指導性を発揮して、かってのダビデ王国のような栄華をもたらしてくれるのではないか、そう言う意味でのメシア期待をイエスに当てはめて、押しつけようとしたのです。ですから、その期待が無く、失望した民衆は。また、一旦イエスを受け入れた人たちも、イエスを離れていったし、最後にはイエスを死に追いやったのです。ではイエスのいう「時は充ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」とは何か。それは「一方的な罪の赦しの宣言・招きを喜んで受け入れなさい」という事なのです。その招待状を受け入れる人には神の国は開かれており、受け入れない人には閉ざされたままで残るのです。

イエスのエルサレム入城をよく見ると、イエスは民衆が期待した王でないことが分かるのです。預言者ゼカリヤはイスラエルの救いを予言します。エルサレムに神に従う「王が来る」と言うのですが、この王の特徴を「ロバに乗ってくる」と言いました。当時は王は馬に乗って来るのが普通でした。王がロバに乗って来るということでゼカリヤは特別な性格を示しています。「柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」です。「柔和な方」と言います。ヘブル語の「高ぶる」をギリシャ語は「柔和」と訳しまし

た。(ヘブル語ynI[‘ ・アニ)、ギリシャ語ではprau?”(プラユス)。意味は「柔和」から受ける感じと違って、本来は腰をかがめた姿勢を表しました。押しつぶされ、虐げられて苦しんでいる様子、また、進んで自分を低くする(へりくだる)という意味になります。

馬に乗るのが、富や権威の象徴であれば、ロバに乗るのは貧しさとへりくだりの象徴です。

私たちはイエスを「素朴で、柔和で人」という感じを持ちますが、「柔和」は重荷を負って背中が曲がる様子を示すとすると、そこに見えるのは「苦しんでいる人々の苦難のすべてをその背に担え耐える姿、そしてそれによって、すべての人を解放する力を発揮するメシアとしてのイエスの姿なのです。今の私たちは理解できます。そう理解したら、歓呼の声を上げて、イエスを歓迎できるでしょう。その日が今日でもあるのです。

また、ロバは平和のシンボルでした。軍馬と戦車は戦争の乗り物ですが、ロバは平和の乗り物です。

クリスマスになると私はパウロの言葉を思います。それはコリントⅡ・8:9節です。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。クリスマスは正にこのことが起きた日です。

イエスは私たちを豊かにするために貧しくなられたと言います。少し分かりにくいので、同じ事を言っているパウロの言葉を見ます。フィリピ2:6以下です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。

キリストは豊かで有るのに・・神の身分であり、等しい者であるのに、貧しく・・人間の姿をとり、宿屋ではなく、馬小屋で生まれ、苦難の生涯をおくり、十字架上で死ぬほどに低くなりました。しかし、それは私たちがを豊かにするためだというのです。豊かとは素晴らしい恵みを受けると言うこと、受けたと言うことです。考えてみましょう。私たちは貧しい者でした。私たちは神の前では罪深く、汚れに充ちた者でした。今、私たちは救われて、神の子として愛を受けています。そして、新しい命、永遠の命と復活の約束を頂いています。それは何ものにもまして、素晴らしい事です。ヤコブは書いています。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」。

ですから、パウロはクリスマスを「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」と言っているのです。(テトス2:11)。

イエスは王ですが、それは人々を支配し、専制的に振るまい、戦争で勝利を得る王ではなく、貧しく、へりくだり、人々に仕え、人々に平和をもたらす王なのです。また、罪と死と悪魔の力から、私たちを解放した王なのです。

この王の元で生きたいと思います。                     アーメン

2010年11月21日 聖霊降臨後最終主日 「明日の生命の心配は無用」

ルカによる福音書21章5〜19節

説教:安藤 政泰 牧師

ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石 も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こ るときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と か、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっている が、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や 疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡 し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決 めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで 裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくなら ない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」


私達にとって終末について考える事はなかなか難しい事のように感じます。

 

それは、自分の今の問題として考えにくい、と言う点があるからです。

21:06  「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

さてキリストの6節の言葉は、紀元70年に起こったエルサレム神殿の崩壊の予告とされています。それまではエルサレムに神殿を持ち、ユダヤ人社会、 国家を曲がりなりにも形勢していましたが、神殿の崩壊と共に国家も崩壊していくのです。その後約2000年の後にイスラエル共和国が誕生する事はよくご存 じの事です。

しかしこのイエス・キリストの予言は単に、エルサレム神殿の崩壊だけを述べているのでは在りません。そうではなく、終末の前兆とその危険のなかで、 それは現在も継続しているが、総てのクリスチャンへの警告と祝福なのです。

それでは、具体的に私達はどのように終末を自分の生活の中で考え受け止めているでしょうか。私達の姉妹教会であるアメリカのミズリー派ルーテル教会 の一部の人達は決して、火葬に伏す事を良しとしません。それは、蘇りの時に自分の戻る身体の事を考えるからです。葬る時は、足を十字架の根元に向けていた します。それは、蘇りの時に十字架を見上げるようにな姿勢になる事を意図してのことです。

私達はこの事の善悪を論じる必要はありません。しかし、甚だ具体的に自分達の問題として、身体の蘇りを考えて居る、と言うことには注目する必要があ ります。礼拝毎に告白する私達の使徒信条では、その最後の条項で「我は聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、身体のよみがえ り、限りなきいのちを信ず」と言っています。この、信条は単なる題目ではありません。私達が告白する内容がどのように自分自身の中で具体的になっている か、が問われるはずです。

21:07  そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」

7節の弟子の質問、「終末の前兆について」は誰でも関心を持っています。聖書によれば、偽キリストの出現、戦争、暴動、大地震、疫病、飢餓、天地異 変があると言っています。

私達の世界を考えると、聖書で述べている終末の前兆は起こり続けて居るように思えます。中東では利害関係とイデオロギーを交えた、宗教戦争が起こっ ている、と言ってよいでしょう。テロ活動が今でも続発し、子供達の間では生命に付いての価値観が混乱し、いじめなどが起こっています。

気候の不順は作物に影響を与え、深刻な食糧問題ともなってきています。

このような事はいつの時代にも起こったはずです。ただ現代は情報がよく伝わるので世界の出来事がまるで自分の出来事のように感じてしまうということ でしょう。

紀元51年ごろすでに偽の終末についての情報が流されています。(第2テサロニケ2章2節)

私達は偽の、みせかけのものに惑わされてはなりません。キリスト教と言う名のもとに、キリスト教でないものがそれらしく振る舞っています。

終末、再臨の前兆、といったものは、私達人間が自分勝手にそのように解釈してでっち上げているものが大部分です。その前兆は、終末や再臨の本質的意 味から考えるとほんの枝葉の事です。そのような前兆に惑わされて主イエス・キリストから離れてしまう事、に警告を発しているのです。

変わった何かに、新しい何かに飛び付くのではなく、今の与えられた自分の場所で、自分の信仰をよく見詰めて行くことが大切です。

「21:19  忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

19節、自分勝手にその前兆を解釈せず、主の約束を信じて耐え忍ぶ事が勧められています。それは又、今日の生活を大切にする事が、具体的には主の再 臨に備える事でもあります。それは16~18節 たとえ肉体は殺されても、「しかし、あなたがたの髪の毛ひとすじも失われる事はない」ほど私達の魂の平安は必ず守られる、と言う約束があるからです。

先の事を心配のあまり、色々労して元のものをなくしてします、そのような誘惑に強く立ち向かいたい。

2010年11月14日 聖霊降臨後第25主日 「生きるとは・・なにに対してですか」

ルカによる福音書20章27〜40節

説教:五十嵐 誠 牧師

◆復活についての問答

さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン


サドカイ派のグループがイエスと問答をしているところが出ています。サドカイ派とはイエスと論争をしたユダヤ教の一派です。新約聖書では14回出てきます。サドカイ派は紀元前・BC6世紀の第二神殿の再建から紀元・AD70年の神殿崩壊するまでの間、神殿でのユダヤ教の祭儀を執行していたグループで、社会的、宗教的な地位を持っていました。神殿での権益を持っていました。また、ユダヤ人の国会に相当する「サンヘドリン」(最高法院)の大祭司と多くの議員を持っていました。彼らは復や天使の存在を否定していた。(マタ22:23、 ルカ20:27)。

 

*◆最高法院(さいこうほういん) ユダヤ人の自治機関。イエスの時代には,大祭司を議長とする71人の議員で構成され、行政と司法の権限を持つ会議であった。ユダヤ教の律法に関する最高法廷として、死刑を含む判決を下す権限を持っていたが、最終的にはローマ総督の裁断を仰がなければならなかった(マタ26:57~27:26,使5:17-42,22:30~23:3。

*◆サドカイ派(Sadducees)・イエス時代のユダヤ教の三大教派の一つ。モーセ五書だけを正典とし、復活や天使を否認。祭司層が多かった。

復活を否定するサドカイ派は結婚制度を取り上げています。これはかっては日本でも、農村にありました。普通「レビレート・levirate」と言いますが、寡婦・未亡人・やもめの処遇に関する慣行の一つで、夫が死んだ後、その妻が夫の兄弟に引き取られる制度。財産と家名をも守る役目を持っていた。(申命記25:5-10,創世記38:8-9)昔は戦争中にありました。

◆申命記・25:5 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、(家名の存続)。*この逆を「ソロレート・sororate」と言い、妻が死んだ後、その夫が妻の姉妹と再婚する制度になる。

サドカイ派の想定は、七人兄弟の兄が死んで、その後そのやもめが、次々と夫を亡くし、その兄弟と次々と結婚していきます。あまりないことですが、イエスを試すためにしたと思います。一人の妻と七人の夫がいることになります。当然、復活を信じる者にとっては復活が生じたら、どうなるかは興味があります。サドカイ派のようなためにするような興味ではなくてです。クリスチャンは時には、からかわれて質問されます。学生の頃に「泥棒が捕まらないように祈ったら、神は聞くか」とか、「戦争で敵味方が、お互いに勝利を神に祈るがどうなるか」なんて言うのがありました。質問する方は真剣でなく、自分の答えを持っているのです。私は逆襲して、同じように聞き返したことを覚えています。

私はイエスの答えに、一種のユーモア、皮肉を感じます。サドカイ派の質問そのものが愚かしいものです。確かに聖書に関する質問しましたが、同じ話のマタイの福音書(22:29)では、イエスはきっぱりと「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」言っています。彼らなりに聖書を学んで質問をしたが、イエスは一言で彼らを撃退しました。サドカイ派のうろたえた姿があるようです。イエスは笑ったのではと思います。ルカはそれを省いていますが、イエスは単刀直入に答えています。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」。

イエスは「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」。イエスは、私たちは神の力により、復活の時には天の御使い(天使)のように、霊の体に変えられるので、子孫を残す必要がないから、もはや結婚する必要はないと言う。サドカイ派は常識の範囲で復活を考えていたのであり、復活は常識を越えた超自然的な力・神の力であることを知らなかった。そこに彼らの誤りがあった。

かつてイエスはこんなことを言っていました。「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」。(ヨハ 3:12)。これはこうも言えると思います。「私が常識的なこと(人間的には普通に見えること)を話しても信じないなら、どうして常識を越えたことを話して(人間的に非常識に見えることを話たこと)信じないだろう」です。

イエスの答えは一見して言い逃れのように取れますし、上手い返答だなとも言えます。「あっと」いうような答えです。同じような、こんなことがありました。それはローマ皇帝への税金に関するものでした。律法学者やサドカイ派のものたちが、イエスに「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」とたずねました。イエスは「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。(ルカ 20:22-25)。聞いた連中は「その答えに驚いて黙ってしまった」のです。イエスというのは頭の回転が速い方のようです。肯定・否定に答えても問題が起こるので、鮮やかに回避したからです。肯定と律法違反、否定するとローマへの反逆です。

イエスは揚げ足を取られないようにとか、問題のすり替えで答えたりしているわけではありません。きちんと正しい答えをしています。少し分かりにくいですが。イエスはこう言っています。旧約聖書の背景を知っていないと分かりにくいので説明します。

このイエスの「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」。

モーセの「柴」の個所とは出エジプト記の出来事です。イスラエル人がエジプトで奴隷のような過酷な境遇に苦しんでいました。そこから神の民を救うために、神はモーセを選びました。詳しいことは出エジプト記3:1-14を読んで下さい。以下にあります。

◆モーセの召命

3:1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。3:2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。3:3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、3:5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトかき出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

モーセはある日、羊を追って行き、ホレブ山で柴が燃えているのを見て、不思議に思い近づくと神の声が彼に掛けられる。神は燃える柴の炎として現れています。神はモーセを奴隷として苦しんでいる民を、エジプトから助けるべく呼ばれる。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と。その時、神の「名前」が出てきます。エジプトでモーセが行った時、だれがモーセを遣わしたかと、「彼らは、「その名は一体何か」と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。神の自己紹介があります。英語で言うと「Iam」です。ここからユダヤ人の神は「ヤハウェ」と言われます。ユダヤ人は神の名を呼ぶのを恐れて、「主・アドナイ」と呼びました。余り恐れたので正しい神の名を忘れたと言われます。エホバというのがあります。今、町で見かけますし、訪問伝道しています。それは神を表すヘブル語の四文字(YHWH・ヤハウェ)にアドナイの母音を付けて16世紀から使われています。この「ヤハウェ」の神は御自身を永遠の自存者、不変の絶対的存在として啓示しています(出6:2)。神は独立自存者であって、現在も生きており、人間を救い、助け、祝福し、契約を守られる方であることを意味しています。

イエスはサドカイ派に聖書から、復活の存在を示しました。モーセが・・ユダヤ人が尊敬する・の言葉を取り上げています。少し分かりにくい点があります。イエスの独特のレトリック・rhetoric・ 巧みな表現をする技法・があります。イエスという方はディベイトにたけていたと思います。今ではそういうテクニックを教える所があると言います。

イエスは「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と言いました。

中心は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」にあります。その証拠に「主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」です。これは旧約聖書出エジプト記3章の柴が燃えているところを見ないと分かりにくいです。そこでは、神はご自身のことを「わたし(神)はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。(出エジプト3:6)とモーセに告げているのです。(出エジプト記はモーセによって書かれたというのが、ユダヤ人の伝統です。だから、権威があるのです。モーセの五書ともいい、創世記、出エジプト記、民数記、申命記、レビ記はモーセが書いたという)。ですから、少し分かりにくいので、これは次のように言い換えると分かります。「主はアブラハムの神である、イサクの神である、ヤコブの神である」とモーセは書いて示しているのであって、「主はアブラハムの神であった、イサクの神であった、ヤコブの神であった」と過去形で、つまり、墓の中の彼らを懐かしんで言っているのではないのです。彼らを過去に死んだ人ではなく、「主はアブラハムの神である、イサクの神である、ヤコブの神である」と現在形で言い、「彼らは今も生きている、今も神は彼らの神である」。だから、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なの」です。今も彼らは復活を待っているのだと、イエスは言ったのです。すごい論理です。イエスはサドカイ派が最も信頼するモーセの書・・彼らの権威の書から回答しました。サドカイ派は聖書への無知を露呈しました。だから、「彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」のです。「聖書読みの聖書知らず」です。

イエスは生きていると言いましたが、大事なことは「なにに対して生きているか」なのです。今朝の聖書は「神によって生きている」と訳していますが、別の新改訳聖書は「神に対して生きている」と訳しています。そうすると、イエスは「神に対して」(新改訳)と言われたのです。

この言葉は大事です。今の私たちにとってもです。それは生きると言うことの根源的な、おおもとの意味が明らかにされているからです。人が生きる、生きているとは、自然に対してでも、金銭や物のためでもなく、まして人のためでもなく、神に対して生きるためです。これ抽象的ですから、易しく言うと、「神を愛して、神に愛されて生きる」ことです。私たちはどうでしょうか。なにに対して、今、生きていますか?それが今朝の問になります。

私はこの説教を書いていて、思ったのは、私たちの神は私たちを墓の中に安らかに導く神ではなく、私たちを今も後も、信じる私たちの神として、神の傍で、神を仰いで、喜びで充たされて生きる者としてくださり、終わりの日、イエス・キリストが来られるとき、復活の命、そして永遠の命を私たちにくださる神だと確信しました。真に「私たちの神は、今も後も、ずーと私たちの、私の神である」のです。そう信じて生き、そう信じて死を迎えたいと思います。            アーメン

2010年11月7日 聖霊降臨後第24主日 全聖徒主日 「帰る家がありますか」

ヨハネによる福音書16章25〜33節

説教:安藤 政泰 牧師

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」


今日は全聖徒の主日です。自分が生きること、死ぬことを共に考える時でもあります。

 

同時に、この世の命を終わった者の事を「思い起こす」主日でもあります。

「思い起こすとき」、聖書的には、思い起こしたことが、実際に現実に再現される事でもあります。それが 今日聖餐式で行われます。聖餐式は最後の晩餐の再現とも 復活後のイエスと弟子とのエマオへの道での食事の再現とも言われています。その事を行ったとき、弟子たちはキリストとは意識しなかったが、食事を共にしたときに「キリスト」だと認識したのです(ルカによる福音書24章13節以下)

今日 私たちは、主のもとにある全ての人々(聖徒)と共に、天国での主の食卓に招かれるです。

16:25節 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」

キリストの弟子への別離を前提に言われていることです。イエスは今、たとえではなく、直接に弟子に話そうとしています。何を話そうとしているのでしょうか?その話しが、これからの関係を暗示しているのです。喩えでは、このことは 決して話すことが出来ない内容です。それは 弟子とイエスの関係が変化することだからです。同時に 私たちと、イエスとの現在の関係でもあります。

16:26節 「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。」

キリストは もやは 一人一人を思いやり、各自の願いを推測して、父なる神に願う事はされないと、言われています。それは イエスの十字架の死を前提しているからです。

その代わり、直接、父なる神に、キリストの名によって願うように、指示されています。

これは 当時の弟子とイエスとの関係の性格の変化です。今まで、弟子たちはイエスに父なる神への祈りをしてもらっていたのです。しかし、これからは、イエスに自分に代わって祈っていただくという、イエスの文字通りの仲介は必要がない、と宣言されているのです。

その理由は

16:27節 「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」

私たちがイエスを愛し、イエスが神から来たことを信じたので、神の愛の中に抱きいれられるのです。イエスを神の御子と信じるから、神は信じるあなたの願を直接聞いて下さるのです。

16:28節 「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

イエスは神のもとに帰られるが、神と人との関係は継続するのです。もはや 神と私たちの関係は、イエスの直接的な仲介なしに、その関係が復活することを予言されているのです。それは あたかも 創世記のアダムのイブの楽園追放以前の神と人間の関係に戻るということで、イエスの仲介により イエスの十字架の死と復活により完成するのです。

父なる神のもとに、帰られたキリストがおられるから、私たちは、父なる神との直接的な関係があるのではなく、父なる神ご自身がキリストの十字架の死と復活により、神ご自身があなたを愛してくださり、そのふところに迎い入れて下さるのです。

だから キリストは死に勝ったのだ、と私たちは証することが出来るのです。

このキリストは死に勝たれたからこそ、今日私たちは全聖徒の主日を祝うことができるのです。「死」は、私たちに取りこの世の生命の終わりであって、それは新しい世界の、生命の始まりを意味しています。悪魔とその力、死に勝利れたキリストのゆえに、今、私たちは 天使とその軍勢と共に先に召された方々と共に、今日ここで 再会し、共に天国の食卓につくのです。