2011年10月23日 聖霊降臨後第19主日 「婚宴のたとえ」

マタイによる福音書22章1〜14節
説教:高野 公雄 牧師

イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

マタイによる福音書22章1〜14節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

《イエスは、また、たとえを用いて語られた》とあるように、きょうの福音「婚宴のたとえ」は、21章の「二人の息子のたとえ」(28~32節)と「ぶどう園と農夫のたとえ」(33~43節)と三つ組をなすたとえ話です。
マタイは21章からイエスさまの最後の一週間を描き始めます。この一週間は、聖週 holy week または受難週 passion week と呼ばれます。まず「エルサレムに迎えられる」(1~11節)でイエスさま一行が日曜日にエルサレムに到着した模様が描かれます。月曜日にはイエスさまはふたたび神殿に出向き、「神殿から商人を追い出す」(12~17節)事件を引き起こします。この出来事はふつう「宮清め」といいます。事件翌日の火曜日に三度神殿に上ると、エルサレムの指導層の人々が「権威についての問答」(23~27節)を仕掛けるのですが、それに対するイエスさまの応答が、これら三つのたとえでした。

《天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった》。
長い引用になりましたが、これがきょうのたとえ話の本体でして、たとえ、すなわち比喩を用いて「神の救いの歴史」を語っています。王は神を、王子はキリストを、王子のための婚宴とはキリストと共に連なる晩餐会つまり「救い」を表しています。招待客たちを招くために遣わされたしもべたちは、最初が旧約の預言者たち、次がキリスト教の宣教師たちです。前もって招かれていた人たちとは、イスラエルの人々、とくにもその指導者たちのことでしょう。彼らは《来ようとはしなかった》(3節)のですが、いろいろ言い訳するだけではなく、彼らは王の招きを伝えに来たしもべたちに乱暴して殺してしまいます(6節)。婚宴への招待を断るために、そこまでするのは異常です。しかし実際に、彼らはその昔、預言者たちの言うことを聞き入れず、殺しました。そしてマタイの当時にもまた、彼らはキリスト教の宣教者たちの証しを受け入れず、旧約の預言者たちやイエスさまにしたと同じように、殺しました。そこで、王は軍隊を送って、反逆者たちの町を焼き払ったというのです(8節)。これではもう婚宴のたとえはすっかり壊れてしまいますが、これは、マタイがたとえ話の中に現実の歴史的出来事を織り込んだことによります。この描写は、ローマ人による紀元70年のエルサレム破壊のことを言っているのです。キリスト信徒たちはこの神殿崩壊を、イスラエルがイエスさまとその福音を拒絶したことに対して神がイスラエルに下した罰であった、と見なしていたのです。そして《招いておいた人々は、ふさわしくなかった》ので、こんどは《善人も悪人も皆》招待された(8~9節)というのは、教会がユダヤ人伝道から異邦人伝道へと対象を切り替えたことを示しています。
なお、《食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください》という招きの言葉は、キリストが犠牲の子羊として屠られたこと(すなわち十字架の死)によって私たちの救いのための業が神の側によって完全に成し遂げられたこと、したがって私たち人間の側のなすべきことは、ただ信仰によって救いへの招きを自分のものとして受け取るだけであることを暗示しています。

《王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない》。
この部分(11~14節)は、マタイによる付け足しです。付け足しと言っても、マタイにしてみればこの部分をこそ強調したかったのです。最初に招かれていたユダヤ人がふさわしくなかったので見捨てられ、代わりにキリスト信徒が招かれるようになったというだけでは、マタイは話を終わりにしたくなかったのです。キリスト信徒の中にもふさわしくない人がいるからです。
王のしもべたちは大通りに出て行って、《見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった》のでした。この人たちが披露宴の席に着くと、いよいよ王のお出ましになるのですが、王は町の大通りからたまたま連れてこられた人を《どうして礼服を着ないでここに入って来たのか》と責めて、《この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ》と命じます。これはどう考えても不自然です。不自然ですけれど、これは普通の物語ではなく、比喩的なたとえ話ですから、仕方ありません。
このたとえで王のしもべたちが善人も悪人も集めているのは、マタイの教会についての見方が反映しています。教会とは「良い麦と毒麦」が共存している場(マタイ13章24~30)であり、「良い魚と腐った魚が集められる大きな網」(13章47~50)なのです。ですから、マタイにとって「罪びとも招かれている」ということもちろん素晴らしいことなのですが、同時に「この素晴らしい招きにいかにふさわしく応えるか」ということも、決して忘れてはならないもう一つの大きなテーマなのです。マタイは私たちに、キリスト信徒も最後の審判から決して除外されることはないと警告しているのです。
教会にはだれでも入れます。けれども、「王子の婚宴」とは、教会のことではなくて、来たるべき時代のことです。そこで求められている「礼服」とは、「義」すなわちイエスさまの教えに一致した振る舞いのことだと考えられます。マタイはイエスさまの最後の説教の中でそのことをはっきりと示しています。《さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ》(マタイ25章35~36)。《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》(マタイ25章40)。

きょうの福音の最後の言葉《招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない》は、救われる者の確率が小さいということを言おうとしているのではありません。そうではなくて、私たちがキリスト信徒としてふさわしい生活を送るために、生き生きと努力するよう励ましているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年10月16日 聖霊降臨後第18主日 「ぶどう園のたとえ」

マタイによる福音書21章33〜44節
説教:高野 公雄 牧師

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

マタイによる福音書21章33〜44節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音「ぶどう園の農夫のたとえ」は、《もう一つのたとえを聞きなさい》というイエスさまの言葉で始まります。このたとえがどんな状況で何のために話されたかということを、最初に見ておきましょう。
マタイは21章からイエスさまの最後の一週間を描きます。まず「エルサレムに迎えられる」(1~11節)で、日曜日にイエスさま一行がエルサレムに到着したことが告げられます。月曜日にはイエスさまは「神殿か商人を追い出す」(12~17節)事件を引き起こします。そして事件翌日の火曜日、エルサレムの指導層の人々はイエスさまと「権威についての問答」(23~27節)を闘わします。それに対して、イエスさまは三つのたとえ話でもって答えます。「二人の息子のたとえ」(28~32節)と、きょうの福音である「ぶどう園の農夫のたとえ」(33~43節)と、「婚宴のたとえ」(22章1~14)です。

イエスさま当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマの貴族ピラトが総督(現地の支配者)として派遣されていました。しかし国内問題については、ユダヤ人による70人の議員からなる最高法院(つまり国会)が認められていました。その最高位(つまり首相)が大祭司です。その下に10人程度の祭司長(つまり大臣)がおり、その他に60人ほどの議員(つまり国会議員)がいました。それが、民の長老たちと律法学者たちです。23節に《祭司長や民の長老たち》とあり、45節に《祭司長たちやファリサイ派の人々》とありますが、彼ら最高法院の議員こそが宗教の権威だったのであり、彼らはイエスさまの権威について尋問するのです。イエスさまはたとえ話によって彼らと対決します。

《ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。》
この言葉は、主人(神)がすべてを配慮し、はじめから整えてくださっていたことを示しています。また、主人が旅に出るというのは、その人は地方に広大な農地をもつ不在地主であって、普段は都エルサレムに住んでいるという当時の状況を想像させます。25章に出てくる有名な「タラントンのたとえ」でも、主人は僕たちそれぞれにタラントンを預けて、旅に出ます。これは、聖書特有の考え方を表しています。つまり、この世は、人の目には、神なしに、人間の力と思いで動いているように見えますが、実は神からゆだねられた世界であって、神に守られているのであり、やがて精算を迫られる日が来るように、世界は、神の前にその歩みの責任を問われる日が必ず来る。そういう考え方にもとづくたとえ話です。

《さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。》
このたとえを寓話として読むと、家の主人は神を、ふどう園はイスラエル民を、農夫たちはイスラエルの宗教指導者を、僕たちは神が遣わした預言者たちを、息子はメシアであるイエスさまを表していると理解できるでしょう。
主人が長い間不在であったために、農夫たちはいつの間にか、主人から与えられたものを自分の力で得たもののように思い、主人からゆだねられ、管理をまかされたものを、自分の所有物だと思い違いをして、収穫の分け前を受け取りに来る主人の僕や息子のことを、自分たちの物を奪いに来る者としか思えなくなったのでしょう。それは、私たちにとっても他人事ではありません。私たちが「神から貸し与えられたもの」「管理をゆだねられたもの」とは、地球の資源や環境、それに自分のお金や持ち物、力や才能、地位や立場などが考えられます。それらは皆、神が私たちにゆだねたものです。それを私たち人間は、自分勝手に使ってよいものと思い込んでしまっているのではないでしょうか。
でも、神はこの世を長い間、黙って放置していたのではありません。次々と預言者を遣わして、民に神さまのみ心を伝えようとしています。ところが、イスラエルの民も指導者たちも預言者の言葉をうるさがり、迫害し、殺したりもしました。洗礼者ヨハネもそのような迫害のすえに殺されました。そこで神は最後の手段として、人々の間にご自分の一人息子イエスさまを遣わします。彼らはその方をも殺してしまいます。
《さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう》、農夫たちはそう言いますが、当時の法律では、遺産の相続者がいない土地は小作人が受け継ぐことができたそうです。イエスさまがエルサレム城外のゴルゴタの丘で処刑されるようになることを暗示します。

しかし、旧約聖書に《家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える》(詩編118編22~23)と書かれている通り、《家を建てる者》すなわち当時の権威である最高法院の議員たちに捨てられた(捨てられようとしている)イエスさまは、まさに捨てられることにより、すなわち十字架の死と復活を通して、私たち人類の救いの礎となってくださったのです。イエスさまは人に捨てられましたが、神に選ばれました。それはまことに《これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える》ことでした。
イエスさまが隅の親石となられたとは、イエスさまの十字架の死が人類の救いのための贖罪死であったのであり、その救いを信じる者は、その行為や善行によってではなく、イエスさまの恵みと愛を受け入れる信仰によって救われるということを意味しています。イスラエル人であっても、異邦人であっても、ただ神を信じる信仰によって、すべて神の国に入れられるのです。イエスさまこそが、救いの土台であり、教会の土台であり、私たちの信仰生活の土台です。時代が変わり、価値観がゆれ動き、なにが確かなものなのか迷いますが、イエスさまは私たちのゆるぎない土台です。

このようなイエスさまの主張は、エルサレムの権威たちに対する真向からの挑戦であり、否定です。彼らとその指導に従う民衆によるイエスさまの受難は避けられないものとなりました。彼らの反応は間違っています。《だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる》(43節)と、彼らは断罪されます。そして、神の国はイエスさまを信じる者たちに与えられると約束されます。しかし同時に、イエスさまを信じる者たちには《ふさわしい実を結ぶ》ことが求められています。私たちは本当に実をつけていますか、と問われてもいるのです。イエスさまというゆるぎない土台の上にしっかり立って生きる者でありたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年10月9日 聖霊降臨後第17主日 「報酬と恩恵」

マタイによる福音書20章1〜16節
説教:高野 公雄 牧師

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
マタイによる福音書20章1〜16節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

きょうの福音の「ぶどう園の労働者のたとえ」は、マタイ福音書だけが伝えるマタイの特ダネ記事ですが、マタイはこのたとえをお気に入りの言葉《しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。(19章30)と《このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》(20章16)とで囲むことによって、マタイ福音の基調に則った意味合いを持たせました。そこで、私たちはまず、たとえそれ自体が何を述べているかを読み、その後でマタイがそれによって何を言おうとしているのかを考えることにしましょう。

《天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った》。
この7節までがたとえ話の場面設定です。パレスチナ地方のぶどう園では、収穫は霜の降りる前に終わらせなければならないので、一週間くらいで、一挙にすべてのぶどうの実を収穫するのだそうです。それで、この時期だけ大勢の日雇い労働者を必要としたのです。主人は、夜明けつまり午前6時ころ、続いて午前9時ころ、正午ころ、午後3時ころ、午後5時ころと、五回も広場に出かけています。12節に《最後に来た連中は、一時間しか働きませんでした》とありますから、仕事を終えた夕方は午後6時ころということになります。

《夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」》。
さて、夕方になり、きびしい一日の労働もやっと終わりになりました。《このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》、とある通り、主人は監督に最後の人から順番に賃金を渡すよう指示します。こうして、後から雇われた他の人たちが1デナリオンずつもらっているのを、朝早くから働いた人たちが、見ていたことになります。もし彼らが先に賃金をもらえば、初めから1日1デナリオンの約束だったのですから、それをもらって満足して帰ったことでしょう。しかし、彼らは、たった1時間しか働かない人が1デナリオンもらうのを見ていました。そこで自分たちは当然もっと多くもらえるだろうという期待を抱くことになり、不満を訴えることになったのです。
ところで、ぶどう園の主人が1日に5回も働き手を探しに行くのはいかにも無計画です。現実には、ありそうもない話です。このように異例の求人活動を述べるのは、別に目的があるからです。3~4節と6~7節のどちらにも《何もしないで立っている》と《あなたたちもぶどう園に行きなさい》とがあります。「何もしないで」いるのは、怠惰だからではありません。7節にあるように、だれも雇ってくれなくて仕事がないからです。しかし、「何もしないで」いるのは人間にとって望ましい状態ではありません。労働は無為な生活から人を救い出します。ただ1時間だけ働く人にも「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言ったのは、雇用が贈り物であることを強調するためです。マザーテレサは「現代の最大の不幸は、病気や貧しさではなく、いらない人扱いされること、自分はだれからも必要とされていないと感じることだ」と言いました。「だれも雇ってくれない、だれからも必要とされていなかった」という人の立場からこのたとえ話を読めば、これはまさに「福音」です。日当1デナリオンは、「人が1日生きていくために必要なもの」でした。この主人は、1時間しか働かなかった人にも《同じように払ってやりたい》と言うのです。ルカ15章の「放蕩息子のたとえ」で、父親が帰ってきた弟息子のために宴会を催したのを見て、兄のほうが不平を言ったとき、その兄息子に向かって父が言う言葉も良く似ています。神はすべての人が生きることを望まれ、すべての人をいつも招いてくださる方なのです。
ところが、早朝から働いた人には雇用のありがたさが分からず、それは賃金を得る手段にすぎませんでした。たった1時間しか働かない人が1デナリをもらったのだから、《まる一日、暑い中を辛抱して働いた》者がそれ以上をもらうのは当然だと主張します。一生懸命働いてきたことが問題なのではありません。ただ《わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ》というぶどう園の主人(神さま)の心を分かってほしい、と語りかけているのです。
ぶどう園の主人は、労働者たちに対して、彼らの功績に基づいてではなくて、自分自身の憐れみの念に基づいて支払うという権利を主張します。《父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる》(マタイ5章45)。このような気前の良さを、どうして不公平と非難できるでしょうか。イエスさまは「神はどんな人にも必要な恵みを与えてくださる」ということを強調しています。このような神を礼拝する私たちは、神の寛大さを模倣すべきなのであって、それに対して不平を言うべきではありません。このような不平は、すべての人々に気前良くしたもう神の良さにしっかりと私たちの目をすえることによってのみ、克服することができるのです。

《このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》。
このたとえは、もともとは貧しい労働者を思う話だったのでしょうが、マタイはこの句を付けることによって、話しの趣旨を変えました。マタイ福音全体の基調の一つは、最初にユダヤ人が招かれ、キリスト信者は最後に招かれたのだが、いまはその順序が逆転してしまっているとい理念があります。マタイは、同じキリスト者の間でも、これと同じことが起こりうると説きます。
実際、イエスさまはファリサイ派であれ、自分に忠実な弟子たちであれ、「自分はこんなに苦労して働いてきた」と思っている人に向けてこのたとえを語ったはずです。彼らは、神さまに称賛されるだろうけれども、その報酬は、払った犠牲をはるかに凌駕しているので、まったくの恩恵であると見なければなりません。
「神は人の働きに応じて報いを与える」という考え方(応報思想)は間違いではありません。しかし、イエスさまは当時の人々が持っていたそういう応報的な考え方は問題をはらんでいます。人間の働きばかりに目が行ってしまい、人を生かす神の大きな愛を見失うからです。また、人と人との比較にばかり目が行ってしまい、人をさげすんだり、逆に人に嫉妬する世界に落ち込むからです。朝早くから働いた人の陥った問題はまさにこれでした。そして、私たちもまた、他人と自分を比較して「自分のほうがよくやっているのに認められない」とか、「あの人は自分より怠けているのにいい思いをしている」というようなことをいつも気にしてしまいます。きょうの福音は、そういうところから私たちを解放し、もっと豊かな生き方へと私たちを招いているます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年10月2日 聖霊降臨後第16主日 「無限の赦し」

マタイによる福音書18章21〜35節
説教:高野 公雄 牧師

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
マタイによる福音書18章21〜35節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、「赦し」ということが主題となっています。
クリスチャンであろうがなかろうが、私たちは日常ほとんど毎日、赦しを求めたり、赦しを与えたりして生活しています。人の罪と言っても、たいていの場合、それは単なる過失であって、故意のものでも大したものでもありません。したがって、「赦し」が問題になるときというのは、その罪がもっと大きなもの、それらが意図的なもの、そしてとくにそれらが繰り返される場合だということになります。
その場合には、「人に対して寛容であれと言われるけれど、被害を受けた者の忍耐にも限界があるはずではないか。どうしてもあの人だけは赦せない」。また、「人に罪を犯した者はこころから反省と謝罪をしているのであろうか。赦してはいけないことだってあるはずだ」。こういう思いを抱くことがあります。それは当然のことではありますが、被害者の側、また加害者の側についての、こうした問題は、先週の礼拝でこの前の段落つまりマタイ18章15~20で扱いました。きょうの段落では、ふつうの人間関係とは別の問題を扱うことになります。

《そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」》。
マタイによる福音書18章は、教会における兄弟姉妹の交わりのあり方についての教えがまとめられていますが、きょうの箇所はその結びになります。弟子のペトロが、兄弟が罪を犯したときは、何回赦すべきでしょうか、と質問すると、イエスさまが答えます。7の70倍。「7」という数は「完全さ」を表す数だと言われます。「7の70倍」はもちろん「490回まで」という意味ではなく、「無限に赦せ」という意味です。
また、この表現は創世記4章23~24のレメクが妻たちに得意になって語った言葉《アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍。》を思い起こさせます。イエスさまは、ここで弟子たちに復讐の放棄を求めておられるとも言えるでしょう。

《そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった》。
続く23節以下でイエスさまは「仲間を赦さない家来のたとえ」でもって「赦し」のキリスト教的根拠を語ります。「赦し」は神さまの本性と深く関わることです。そのことが、《そこで、天の国は次のようにたとえられる》という始めの言葉で表されています。
たとえは、大きな国の王と、その国の州や属州を任された役人との決算処理の場面を描いています。王と役人はたとえでは「主君」と「家来」と呼ばれていますが、「主君」と訳された言葉は、神さまやイエスさまを指す「主」と、また「家来」と訳された言葉は、信者を指す「僕」と同じ言葉であり、これが神さまと私たち人間をたとえていることが分かります。
大きな税収のある大きな州の総督(役人)が王に納める莫大な額のお金一万タラントンを横領していたことが発覚しました。一タラントンは6000デナリオン、一デナリオンは労働者の一日の賃金ですから、日雇い6000万人分です。仮に日当一万円としますと、彼は王に6000億円を負ったわけです。返せと言われても返せません。王は立腹してその家来に、自分も妻も子供たちも持ち物も全部売って返せと命じます。全部売っても間に合うはずはありません。王は家来に屈辱的な罰を与えようとしているのです。家来は必死で「どうか待ってください」と懇願します。すると、《その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった》とあります。王は家来の「きっと全部お返しします」という言葉を信用したのではありません。王はその家来を「憐れに思って」赦してやったのです。王はこの家来から莫大な金額の損害を受けましたが、より大きな損害はこの家来との信頼に満ちた主従関係が損なわれたことです。王は損害を取り戻すことよりも、その負債を棒引きにして、それまで共に歩んできたこの家来との親密な関係を維持することを優先させました。このように、「赦し」とは損害を我慢することよりも、人と人との絆を大事にすることなのです。

《ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した》。
たとえの第二幕では、あの横領を働いた家来が仲間に貸した100デナリオンの返済を迫って、乱暴にも投獄してしまったというのです。日当1万円として100万円です。これは王に赦された金額の60万分の1です。彼も王の役人であってみれば返せない金額ではありません。これを知った仲間たちは非常に心を痛めて、王に告げます。王はその横領した家来を呼びつけて、恩赦を取り消し、投獄した、という話です。
このたとえの王は三度、心を変えますが、そのように神さまは気紛れだと言っているのではありません。たとえの中心は、あくまでも王の異常に寛大な行為であり、私たちもその忍耐と寛容に学ぶべきだというところにあります。
また、イエスさまは「無限に赦せ」と教えたのに、王はあの横領した家来を一度しか赦さないのでは、話が違うではないかと思われるかも知れません。でも、あの王に赦された家来が、仲間の窮状に同情せず、金を惜しんだことは、王が絆を大事にしたことをまったく理解していないことを示しています。それは彼が王との交わり、また仲間との交わりを無用のこととして交わりの外に出ていくに等しい行為です。たとえの第二幕は、主君の家来として留まろう、天の国に連なる者であろうとするならば、自らその絆を断つようなことをしてはいけないと語っているのです。それゆえ、きょうの福音は、この言葉で締めくくられます。《あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう》。

《主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか》、私たちにもこう言いたいときがあると思います。人の罪を赦すことは容易なことではありません。そのときには、イエスさまとの愛の絆、大いなる赦しのありがたさを思い起こして、その絆と共に兄弟姉妹の絆をも大事にするために、この絆を壊さないために、いま一度赦すことができないものか、自分自身に問うてみようではありませんか。そのとき、神の大いなる赦しの愛の中で、人を赦そうとしない自らの醜い罪の魂をはじめて知るようになるのです。
《わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように》(マタイ6章12)。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン