2011年7月31日 聖霊降臨後第7主日 「種蒔きのたとえ」

マタイによる福音書13章1〜9節
説教:高野 公雄 牧師

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

マタイによる福音書13章1〜9節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

最初に、きょうの福音が置かれている聖書の流れを見ておきましょう。

先週はマタイ福音書11章の結びの部分を読みました。そこでは、知恵ある者や賢い者はイエスさまを受け入れなかったけれども、幼子のような者がイエスさまの宣べ伝える神の国の福音を受け入れたこと、そしてそれはイエスさまの伝道の失敗ではなく、それが神さまのみ心であったのだということが語られました。今週の朗読個所はマタイ13章でして、12章が省略されていますが、そこには、安息日に病人をいやし、悪霊を追い出すなどのイエスさまの活動と、それに対する人々の反応が伝えられています。

きょうの13章はたとえ話集で、7つないし8つのたとえを収めていますが、イエスさまのメッセージが簡単には受け入れられなかった「今の時代」(マタイ11章16)の人々の現実の中で、それでも神の国は力強く成長している、神の働きは成果を必ず生み出すと語ります。

きょうの福音はその最初のたとえで、「種を蒔く人のたとえ」と呼ばれます。「種を蒔く人」と言えば、フランスの画家ミレーの作品が有名ですが、この絵を題材にした彫刻家・詩人の高村光太郎の銅版画が岩波文庫のシンボルマークとして使われています。

では、きょうの福音を聞いていきましょう。

《その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた》。

13章に集められたたとえ話は、ガリラヤ湖の岸辺に集まった大勢の群衆に対して、漕ぎ出した舟の上から語られたものです。ここで群衆は立って聞き、イエスさまは座って語ったとありますが、教師が座って語り、学ぶ者たちは立って聞くというのが当時の普通の姿勢でした。

さて、種を蒔く人のたとえですが、種を蒔く人は、道端や石だらけの所や茨の茂った所にも種を蒔いたというのです。この農夫の蒔き方は奇妙です。日本のやり方なら、種が無駄にならないように、まず畑をよく耕して、石ころや雑草をとりのぞき、「良い土地」にしてから蒔くのが普通でしょう。耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるのが、ふつうの種まきです。

ところが、聖書の学者たちによれば、パレスチナの農民の種まきは私たちになじみのそういうやり方ではありませんでした。彼らは耕す前に、まず土地一面に種を蒔いてしまい、そのあと土地を掘り起こすように耕していったそうです。蒔くときに、石ころがあろうと、茨が生えていようと、どうせ後で掘り起こすので問題にはならないのです。なぜこのようにするかと言えば、パレスチナでは日差しが強く、種を地中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからなのだそうです。

《イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた》とあるとおり、イエスさまは神の国の福音を人々に語るときに、聞く人になじみのあるたとえを用いて話されました。私たちには奇妙に見える種まきですが、イエスさまの聴衆にとっては身近な「たとえ話」だったわけです。

では、このたとえ話は何を伝えようとしているのでしょうか。農夫は麦が刈り取られたあと人の通り道になって固くなってしまった土地、石だらけの土地、茨の生えている土地にも種を蒔きました。次には深く耕されるはずなのですが、そうされなかったのでしょうか。土地それぞれの事情のゆえに実をつけるまでに育つことができませんでした。良い土地にまかれた種はさいわいです。100倍、60倍、30倍の実をつけました。悪い土地に落ちた種が実を結ばないように世の中には苦労に遭うばかりの不運な人もいれば、良い土地に落ちた種がたくさんの実りを産むように幸運な人もいる、と言っているのでしょうか。そんなことではないようです。このたとえ話のポイントはどこにあるのでしょうか。イエスさまは話の結びに、人々にこう言います。《耳のある者は聞きなさい》。まるで、イエスさまは「なぞなぞ」を話して、これを解いてみなさいと人々に問いかけているかのようです。

ここで、ちょっと立ち止まって、礼拝では読まれませんでしたが、このたとえに続くマタイ11章10以下に、イエスさまがなぜ「たとえ」を使って話すのか、その理由が語られていますので、そこで言われていることを見ておきましょう。そこでは、こういうことが言われています。イエスさまの言葉のうちに「天の国の秘密」(マタイ11章11)を見出した者には、「天の国の秘密」は次々に明かされ、「いよいよ豊かになる」けれども、そうでなければ閉じられたままとなるとあります。「天の国の秘密」とは、イエスさまの活動において神が最後的な支配を開始しておられるということであり、そのことを認識する特権を神はイエスさまの弟子たちに許されたのです。弟子たちはイエスさまに聞くことによって、このことが何を意味しているのかということに関する知識を、さらに深く悟ることになります。

つまり、イエスさまは弟子にも弟子以外の者にも同じように「たとえ」を語りますが、「天の国の秘密」に心を開いた弟子には、それは単なる「たとえ」ではなく、秘義を明かす真理の言葉となりますが、心を閉ざす者には「たとえ」にしかすぎません。結果として「だから、彼らにはたとえを用いて話す」(マタイ11章13)こととなるのだ、というのです。

実は、聖書で使われている「たとえ」という言葉は、「格言・比喩・なぞ」など広い意味を持つ言葉です。ここでは、「なぞ」の意味をも含んだ「たとえ」を指しています。「なぞ」とは隠しもするし明かしもするような謎のような言葉です。実話によって単純な考えを伝えるのではなく、「なぞ」は、心をじらすことで洞察へと至らせようとするのです。イエスさまの言葉は、弟子たちには「なぞ・たとえ」ではないが、弟子以外の者には「なぞ・たとえ」に終わってしまうのです。

では、あらためて、この「種を蒔く人のたとえ」が意味することに注目しましょう。

11章18以下にこのたとえの説明が書かれています。それによると、このたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が良い土地かどうかではなく、むしろ、大きな収穫に信頼し、希望を持って、忍耐して種を蒔く人のほうにあるようです。

4~7節は別々の事柄をたとえているのではなく、全体が種まきに伴う無駄の多さを強調しているのです。それに対比されるのが、実りの豊かさを述べる8節です。農夫は多くの種が無駄になるかもしれないと知っていても、あらゆる所に種を蒔き、実りを待ちます。そのように、イエスさまも人間的な反対や抵抗にあっても、あきらめずに神の国について語り続け、父である神のみ旨を行い続けます。このたとえは、神は希望の持ちにくい所からも、見事な実りをもたらすことができる、ということを私たちに語っているのです。当時の麦畑は普通の出来が7.5倍、豊作で10倍だったそうです。100倍、60倍、30倍というのは、神さまの働きの力がそれだけ大きいことを示しています。

そしてまた、私たちは《艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしま》いますし、《御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで》しまう者です。先週はコラジン・ベトサイダ・カファルナウムの人たちが、こうしたことで熱意を失ってしまったことで叱られたこと自戒の言葉として聞きましたが、この説明の言葉も私たちによくあてはまる事柄です。神のみ旨の確かさを信じましょう。そして、艱難に遭ったとき、誘惑に誘われたときにも、しっかりとイエスさまから手を離さず、しっかりとつかまっていましょう。

いま「しっかりとつかまっていましょう」と言いましたが、その真意は、「イエスさまが私たちをしっかりとつかまえていてくださることをいつも忘れないでください」ということです。イエスさまがしっかりと手を握っていてくださることを知るがゆえに、その応答として、感謝の心で、私も喜んでその手をしっかりと握り返すことができるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年7月24日 聖霊降臨後第6主日 「安らぎを見出す」

マタイによる福音書11章25〜30節
説教:高野 公雄 牧師

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

マタイによる福音書11章25〜30節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

最初に、きょうの福音が置かれている聖書の流れを見ておきましょう。

マタイ福音書11章では洗礼者ヨハネやイエスさまを受け入れなかった人々のことが語られています。まず2~19節では、投獄されたヨハネが自分の弟子たちを遣わして、イエスさまに「来たるべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせます。イエスさまはその質問に対して直接には答えず、こう事実を指摘します。《行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである》(4~6節)。イエスさまが来て、こういう事態を作り出しているのに、人々はその意味を理解できずにいます。神に立ち帰り、神の国の福音を信じることをしません。そのような「今の時代」をイエスさまはとがめて、こう評しています。《今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』。ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う》(16~19節)。

それだけではありません。続く箇所では、イエスさまのガリラヤ伝道の中心地であった町々、コラジン・ベトサイダ・カファルナウムを名指しして、そのかたくなな態度を非難します。《それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」》。

ガリラヤ湖畔の町カファルナウムは、イエスさまがガリラヤ湖の漁師であった兄弟のペトロとアンデレ、それともう一組の兄弟ヤコブとヨハネを最初の弟子として召した町であり、またイエスさま自身がガリラヤ伝道の拠点とされた町でもありました。この町の大多数もまた、病気の治療などの御利益(ごりやく)だけをありがたがり、自らの生き方を変えることはかたくなに拒む、といういつの時代の人々にも通じる宗教との付き合い方だったのです。

実際、イエスさまを受け入れた人々と受け入れなかった人々がいました。しかも、受け入れない人の方が圧倒的な多数だったのでしょう。きょうの福音は、そのような状況の中でのイエスさまの祈りと、人々に対する大きな招きとして読むことができます。

イエスさまはこう神さまをほめたたえて祈ります。《天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした》。「これらのこと」とは、イエスさまが言葉と業とで人々に告げ知らせた神の国の福音です。ここでは「知恵ある者や賢い者」がイエスさまを受け入れなかった。しかし、「幼子のような者」がイエスさまを受け入れた、と言われています。「知恵ある者や賢い者」とは、学のある人、当時においては、律法についての知識を持っている人のことでした。「幼子のような者」とは、貧しい無学な人のことです。つまり、当時、世間的な評価の高かった祭司長や律法学者たちは、自分たちの知識や力を頼みとし、そのためにイエスさまの福音を理解できなかったけれども、世の評価が低く、社会の片隅に追いやられていた人たちがかえって、イエスさまの福音を受け入れたのです。そして、そのことは神さまのみ心にかなうことなのだというのです。「知恵ある者や賢い者」が心を閉ざし信じないことも、「幼子のような者」、世間的な評価を受けない人々がかえって心を開いてイエスさまを迎え入れ、神に頼ることも、神のみ心であるとして、そういう神さまをほめたたえます。これは、イエスさまが神の国を宣べ伝えても聞かれない事態、人間的に見れば伝道の失敗ともいえる厳しい現実に直面して、深い祈りの中で聞き取った神さまのみ心だったのです。

イエスさまは、以上の賛美の言葉に続けて、祈りで得た確信をこう言い表します。《父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません》。ここで「子」とはもちろんイエスさま自身のことであり、「子が示そうと思う者」とは、前出の「幼子のような者」のことです。神のみ心と一致して、ご自分の思いもこれら社会の片隅に追いやられている人びとに向けられていることを言い表しています。

この確信にもとづいて、イエスさまは人々に対して大いなる招きの言葉を発します。《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう》。なんと慰め深い呼びかけでしょう。一体、誰か疲れていない人、重荷を負っていない人がいるでしょうか。私たちは皆、どれほどこの招きの言葉を必要としていることでしょう。

当時の人々は、宗教指導者に重い荷を負わされ、疲れ果てていました。このことについて、イエスさまは後にこのように言っています。《律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。》(マタイ23章2~4)。当時の人々の負っていた重荷は、単なる仕事上の重荷ではないし、単なる罪の重荷のことでもありません。律法学者たちやファリサイ派の人たちが、人々に課した戒律という重荷です。人々は貧しい生活のゆえに彼らの課した戒律を守ることができず、劣った者と見なされ、社会の片隅に追いやられていたのです。《彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない》のでした。

しかし、イエスさまは律法学者たちとはちがいます。イエスさまは「あなたにわたしの手を貸しましょう。あなたの重荷をわたしが共に担いましょう」と言って呼びかけておられます。《わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである》。

軛(くびき)とは、荷車や犂(すき=畑を耕す農具)を引かせるために、二頭の牛またはロバを横につなぐものです。「わたしの軛」も「わたしの荷」も、負うべき荷であることは変わりありません。宗教指導者たちの重荷を降ろしたとしても、今度はイエスさまの軛または荷を負うのであれば、同じことだと思うでしょうか。キリスト教に好意的と見られる人でも、よくこう言うのを聞きます。「キリスト教にもいろいろ戒律があるのでしょう?私はとうていそういう戒律を守れるような人間ではありません。私にはキリスト教は無理です」と。

そういう人たちは、この軛が二頭立てであることに気づいていないようです。この軛が二頭立てであることの意味合いについては、パウロがコリントの信徒への手紙で、こう書いていることが参考になります。《あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか》(Ⅱコリント6章14)。これでお分かりのように、軛が二頭立てであるということは、自分と誰かが一対となって軛につながれるということです。そして、イエスさまが「わたしの軛」と言ったら、それは一つの軛に、イエスさまと私が一対となってつながれて重荷を引く、すなわちイエスさまが私の重荷を私と一緒になって担ってくださるということを意味しているのでした。ですから、イエスさまを拒み、自分はどんな軛からも自由でいたいという人は、決して重荷を負わずに「安らぎ」を得ている、ということにはならず、旧態依然として自分ひとりでは負いきれない過大な荷を負い続けるということになるのです。

《だれでもわたしのもとに来なさい》という招きに応えて、イエスさまにお願いして、私と一緒に歩んでもらいましょう。私の重荷を一緒にを担いでいただき、荷を軽くしていただき、安らぎを得させてもらいましょう。そして、《わたしの軛を負い、わたしに学びなさい》と言われているように、共に荷を負ってくださるイエスさまから、荷の負い方、人生の歩み方を学びましょう。イエスさま自らが《わたしは柔和で謙遜な者だ》とおっしゃっておられるように、荷も軽く柔和で謙遜な歩みをできますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年7月17日 聖霊降臨後第5主日 「平和ではなく剣」

マタイによる福音書10章34〜42節
説教:高野 公雄 牧師

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

マタイによる福音書10章34〜42節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音書も、マタイ福音書10章の、12使徒を派遣するにあたってイエスさまが語った長い説教の続きで、その結びの部分です。先週の箇所では、迫害が予告されましたが、この個所も迫害下の宣教という状況を引き継いでいます。

きょうの福音書は、《わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ》という、意想外の言葉から始まります。イエスさまは《平和の君》(イザヤ書9章6)と称えられる方であり、《キリストはわたしたちの平和》(エフェソ2章14)であると信じられる方です。また、ご自身が山上の説教で《平和を実現する人々は、幸いである》(マタイ5章9)と教えられたのですが、きょうの言葉は、それとは反対のことを言っているように見えます。きょうはまず、このことからよく見ていきましょう。

イエスさまは初めに引用した言葉に続けて、《わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない》と話しています。どうやら、イエスさまはキリスト教の伝道活動が、家族間の平和を壊すことにもなるであろうと、家族の平和を問題にしているようです。

イエスさまの預言のとおり、マタイたち使徒の時代から現代にいたるまで、ユダヤ人がクリスチャンになることは家族との別離、ユダヤ人社会からの追放を意味することになりました。

日本でも同じようです。先週は、江本真理牧師の父親である江本正幸牧師の葬儀について報告したとき、彼が長野県の農家の長男であって、家業の跡を継がずに牧師になる決心をしたことで、親から勘当されたということを話しました。私自身は三男でしたからどうなっても構わなかったのですが、それでも熱心に教会に通い始め、日曜日に家族と一緒に行動しなくなると、母から「きみちゃん(私は大学生でしたが、家族からそう呼ばれていました)、家族がばらばらになって良いものなのかねえ」と心配そうに訴えられました。そのことは、洗礼を受けるときにはある意味で出家する腹が必要な大きな決断なのだと悟らされました。私の生家の周りには高野姓の家がたくさんあったのですが、天理教の家がいわば村八分になっていました。また後に、牧師になってから、家族で自分ひとりがクリスチャンである女性が年を取って家族の世話になったとたんに、教会に通うことを禁じられた例を経験しています。

聖書に《あなたの父母を敬え》(出エジプト20章)という戒めがあり、また《あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい》(申命記6章5)という戒めもあります。余程のことがなければ、この二つの戒めは両立するはずです。でも、「イエスさまを信じるのか、肉親を取るのか」と二者択一を迫られる時が来るかもしれない。そのときには、イエスさまを固く取って離さないように願い、勧めておられるのです。でも、《わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない》だなんて、まるでカルト宗教の言い分のようではありませんか。

では、二者択一の矛盾はどうして起きるのでしょうか。それは、イエスさまの教える「愛」が「肉親の情」を超える広さをもっているからです。《「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」》(マタイ12章48~50)。この言葉に示されたような、家族の絆よりももっと大切な真実に目覚めたとき、新しい生き方のもとで本当の意味で家族を愛せるようになるのではないでしょうか。

しかしまた、「平和」という言葉は、肉親という身の回り範囲のことだけでなく、もっと広い国家の問題、またもっと深い個人の魂の問題をも含んでいます。そのことをきょうの旧約聖書の日課(エレミヤ書28章5~9)は示していました。

この箇所には、旧約時代の預言者エレミヤと偽預言者のハナヌヤという人が出てきます。エレミヤは自分で首に木の枷(かせ)をつけた姿でいました。この首の枷は、ユダ王国は強大なバビロニア帝国に降伏して、バビロンに捕虜として引かれていくことを表します(これは「バビロン捕囚」と呼ばれます)。神はユダの人々の背信行為のゆえに災いを降しますが、70年の後にはまた約束の地に帰らせてくださるつもりだ、とエレミヤは言うのでした。反対に、偽預言者ハナヌヤは、70年ではなく2年で自分たちを苦しめているバビロンのネブカデネザルを追い払い、連れて行かれたエホヤキン王と奪われた宝は全部返ってくると言うのです。これはユダの人々が喜ぶ言葉です。この二人の預言のどちらを民衆が信じたでしょうか。もちろん偽預言者ハナヌヤです。

イスラエルの人々は互いに「シャローム」とあいさつを交わします。「あなたに平和があるように」、との祈願と祝福の言葉です。「平和」という言葉は、聖書の基本的な観念のひとつです。それは、単に国と国との間に戦いのないことではありません。神と人との間、人と人との間、人の心の中、人と自然の間に充実した平和・平安をもち、人が人として本来の姿をかちうることなのです。預言者エレミヤは人々の平和を願って、そのためには神に背信したことを認め、悔い改めなければならないと説くのですが、偽の預言者は偽りの平和を預言しています。《彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う》(エレミヤ書6章14)。私たちは人々の歓心を買おうとする偽預言者の言葉に惹かれ、本物の預言者の耳に痛い言葉を遠ざけるのです。《わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ》というイエスさまの真実の言葉に耳を傾けましょう。パウロも、《人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです》(Ⅰテサロニケ5章3)と警告しています。

《平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ》というイエスさまの使徒たちに対する、そして私たちに対するチャレンジはまだ続きます。それは、《また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない》という言葉です。

「十字架」つまり「磔刑」は、ローマ帝国の極刑でして、皇帝への反逆罪に対して課されるものでした。ローマ総督のピラトにとって、イエスさまが「ユダヤ人の王」つまりローマの支配を排除し、ユダヤの独立を図る者であることが罪状でした。イエスさまの左右に十字架に上げられた二人の強盗も、単なる物取りの強盗ではなく、独立運動に献身したゲリラ兵たちでした。「自分の十字架を担う」とは、弟子たちが、このゲリラ兵たちのように身命を賭してイエスさまに従うことを求めておられるのです。

ここで、「命あってのものだね」とばかり、保身に走ろうとする者に対しては、《自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである》と警告しておられます。自分を守ろうとする人、何ものからも自由であろうとする人は、玉ねぎのようにいくら皮をむいても芯に至らず、結局は守ろうとする自分が空であることに気付くことになろう。むしろそういう己を捨てて、イエスさまの福音に献身することによってこそ、本当の自分を見出すであろう。これは警告であると同時に、約束でもあります。

40~42節は結びの結びになります。ここに出てくる「預言者」、「正しい人」、「この小さな者」は、皆イエスさまの弟子のことです。ユダヤ教の思想に「使者は、遣わした者自身である」というのがあります。誰であれイエスさまによって福音宣教のために遣わされた者は、遣わした方自身と見なされます。リベリアの大使であるヤンガーさんは、リベリアという国またはリベリアの大統領を代表する方として受け入れられるのです。《あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである》とは、そういうことです。あなたがたは小さな者、弱い者であってもイエスさまの使者である。だから、あなたがたに《冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける》。別の箇所でイエスさまは、《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》(マタイ25章40)とおっしゃっておられますが、イエスさまはあなたたちを、私たちをご自分の代理、いやご自分自身と見なすほどに大切に見ていてくださる。だから、不信仰な世にあって恐れずに宣べ伝えなさい、と私たちを励ましておられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年7月3日 聖霊降臨後第3主日 「弟子を派遣する」

マタイによる福音書9章35〜10章15節
説教:高野 公雄 牧師

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

マタイによる福音書9章35〜10章15節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、《イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた》という、要約記事から始まります。ところで、これと同じような言葉は4章23にもあって、そこでは《イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた》と書かれています。マタイによる福音書の5章~7章では山上の説教と呼ばれるイエスさまの教えの言葉がまとめて集められており、8章~9章ではイエスさまが行ったさまざまな奇跡や癒しの業がまとめて書かれているのですが、4章の言葉は、これから語られるイエスさまの言行を導入する言葉として置かれており、きょうの9章の言葉は、5章から9章まで語られてきたイエスさまの言葉と業のまとめの言葉として置かれているのです。

イエスさまが町々村々を巡り歩いて、福音を解き明かし、民衆をいやしたのは、《群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた》ためでした。群衆が弱り果て、打ちひしがれている様子を《飼い主のいない羊のよう》と言い表していますが、このような比喩は、福音書を書いたマタイの独創ではなくて、旧約聖書の時代の預言者たち以来の伝統的表現なのです。たとえばエゼキエル書34章です。預言者エゼキエルの時代、ユダヤ人は今のイラクに栄えたバビロニア帝国と戦って敗れ、エルサレム神殿は廃墟と化し、バビロン捕囚と呼ばれますが、多くのユダヤ人が帝国の都バビロンに捕虜として引かれていったのです。

《人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない》(エゼキエル34章2~6)。

つまりエゼキエルは、一方で、指導者たちが良い羊飼いではなく、本来なすべき務めを果たさなかったから、このような災いが起きたのだと責めますが、他方で、悲惨な状況におかれて弱り果てている羊の群れ、すなわち民衆を主なる神は憐れんでくださると預言します。

《わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る》(エゼキエル34章23~24)。

神さまが将来良い羊飼いとしてダビデを立ててくださると言うのですが、歴史上のダビデ王自身は預言者エゼキエルよりも300年も前の人です。では、ここで言われている「わが僕ダビデ」とは誰のことでしょう。マタイは、イエスさまが《群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた》と書いています。つまり、マタイはイエスさまこそが「わが僕ダビデ」として神から立てられた、イスラエルの待望したメシア、良い羊飼いであると言っているのです。ここに、私たちはイエスさまが旧約聖書のメシア預言を成就されるお方であることを見ておきたいと思います。

《そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」》。

5章~9章でイエスさまの言葉と行いによる福音宣教が描かれた後、10章に移ると、いよいよ弟子たちもまた宣教活動に送り出されることになります。これから、イスラエルの12部族を象徴する12人の弟子を福音を宣べ伝える者として送り出そうとしている場面で、その弟子たちに《働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい》と命じるのは、不自然な感じがしないでもありません。しかしここでマタイは、イエスさまが弟子たちを派遣したという過去の歴史を記録するだけでなく、これを読む自分たちの教会の人々への呼びかけをも意図しているのです。21世紀のいま、日本ルーテル教団だけでなく、世界中の教会が司祭や牧師のなり手が少なくて、牧者のいない教会が増えている実情があります。私たちの教会では、礼拝の終わりに祈る「教会の祈り」の中で、月の第一日曜には必ず「牧師・宣教師を召し出してください」と祈っています。私たち自身がイエスさまの弟子として招かれ、派遣されるにあたって、自分たちの数も力も足りないことを痛感しながらこう祈るのです。イエスさまが目の当たりにしている群衆も、そしてこの教会に集う私たちも、無力で価値がないように見えるかもしれませんが、「飼い主」と「収穫のための働き手」がいれば、豊かないのちを得、大きな実りとなるはずなのです。

《十二使徒の名は次のとおりである》と、ここで初めて「弟子」ではなくて「使徒」という言葉が出て来ました。使徒という言葉は、イエスさまの生前には使われていなかったのですが、初代のキリスト教会の指導者に対して与えられた称号となりました。ギリシア語ではアポストロスですが、特別な使命を委託され、代表者として「派遣された者」とい意味です。イエスさまの十二人の弟子たちのほか、パウロやバルナバまた主の兄弟ヤコブが使徒と呼ばれています。

ここで十二人の名が二人一組で挙げられているのは、《(イエスは)十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた》(マルコ6章7)ということが背景にあるのでしょう。皆さまもエホバの証人の戸別訪問とかモルモン教会の伝道者たちが二人組で活動しているのに出会ったことがあると思います。十戒の中に《隣人に関して偽証してはならない》(出エジプト20章16)という戒めがありますが、公正を期するために、証人は必ず2人以上でなければならないと定められていました(民数記35章30、申命記19章15)。

《イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい》。

イエスさまご自身が「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(15章24)と言われますから、地上のイエスさまの目は、まず第一にユダヤ人同胞に向けられていました。この限定は、復活後の派遣命令《あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい》(28章19)で取り払われます。マタイは救いの段階を考えていました。福音はまずイスラエルに宣べ伝えられるけれども、彼らはイエスさまを否定する。そのあとで異邦人への宣教が開始されるとしています。8章11~12にこうあります。《言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう》。

神の憐れみは、それを心から受け入れる器を求めて、ユダヤの村から遠く地の果てまで歩き回っています。教会は自分たちのためにではなく、全世界のためにあるのです。「失われた羊」は群れから離れ、孤立してしまっている人と言ってもいいでしょう。わたしたちのごく身近にも「失われた羊」がいるのではないでしょうか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン