2010年11月14日 聖霊降臨後第25主日 「生きるとは・・なにに対してですか」

ルカによる福音書20章27〜40節

説教:五十嵐 誠 牧師

◆復活についての問答

さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン


サドカイ派のグループがイエスと問答をしているところが出ています。サドカイ派とはイエスと論争をしたユダヤ教の一派です。新約聖書では14回出てきます。サドカイ派は紀元前・BC6世紀の第二神殿の再建から紀元・AD70年の神殿崩壊するまでの間、神殿でのユダヤ教の祭儀を執行していたグループで、社会的、宗教的な地位を持っていました。神殿での権益を持っていました。また、ユダヤ人の国会に相当する「サンヘドリン」(最高法院)の大祭司と多くの議員を持っていました。彼らは復や天使の存在を否定していた。(マタ22:23、 ルカ20:27)。

 

*◆最高法院(さいこうほういん) ユダヤ人の自治機関。イエスの時代には,大祭司を議長とする71人の議員で構成され、行政と司法の権限を持つ会議であった。ユダヤ教の律法に関する最高法廷として、死刑を含む判決を下す権限を持っていたが、最終的にはローマ総督の裁断を仰がなければならなかった(マタ26:57~27:26,使5:17-42,22:30~23:3。

*◆サドカイ派(Sadducees)・イエス時代のユダヤ教の三大教派の一つ。モーセ五書だけを正典とし、復活や天使を否認。祭司層が多かった。

復活を否定するサドカイ派は結婚制度を取り上げています。これはかっては日本でも、農村にありました。普通「レビレート・levirate」と言いますが、寡婦・未亡人・やもめの処遇に関する慣行の一つで、夫が死んだ後、その妻が夫の兄弟に引き取られる制度。財産と家名をも守る役目を持っていた。(申命記25:5-10,創世記38:8-9)昔は戦争中にありました。

◆申命記・25:5 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、(家名の存続)。*この逆を「ソロレート・sororate」と言い、妻が死んだ後、その夫が妻の姉妹と再婚する制度になる。

サドカイ派の想定は、七人兄弟の兄が死んで、その後そのやもめが、次々と夫を亡くし、その兄弟と次々と結婚していきます。あまりないことですが、イエスを試すためにしたと思います。一人の妻と七人の夫がいることになります。当然、復活を信じる者にとっては復活が生じたら、どうなるかは興味があります。サドカイ派のようなためにするような興味ではなくてです。クリスチャンは時には、からかわれて質問されます。学生の頃に「泥棒が捕まらないように祈ったら、神は聞くか」とか、「戦争で敵味方が、お互いに勝利を神に祈るがどうなるか」なんて言うのがありました。質問する方は真剣でなく、自分の答えを持っているのです。私は逆襲して、同じように聞き返したことを覚えています。

私はイエスの答えに、一種のユーモア、皮肉を感じます。サドカイ派の質問そのものが愚かしいものです。確かに聖書に関する質問しましたが、同じ話のマタイの福音書(22:29)では、イエスはきっぱりと「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」言っています。彼らなりに聖書を学んで質問をしたが、イエスは一言で彼らを撃退しました。サドカイ派のうろたえた姿があるようです。イエスは笑ったのではと思います。ルカはそれを省いていますが、イエスは単刀直入に答えています。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」。

イエスは「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」。イエスは、私たちは神の力により、復活の時には天の御使い(天使)のように、霊の体に変えられるので、子孫を残す必要がないから、もはや結婚する必要はないと言う。サドカイ派は常識の範囲で復活を考えていたのであり、復活は常識を越えた超自然的な力・神の力であることを知らなかった。そこに彼らの誤りがあった。

かつてイエスはこんなことを言っていました。「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」。(ヨハ 3:12)。これはこうも言えると思います。「私が常識的なこと(人間的には普通に見えること)を話しても信じないなら、どうして常識を越えたことを話して(人間的に非常識に見えることを話たこと)信じないだろう」です。

イエスの答えは一見して言い逃れのように取れますし、上手い返答だなとも言えます。「あっと」いうような答えです。同じような、こんなことがありました。それはローマ皇帝への税金に関するものでした。律法学者やサドカイ派のものたちが、イエスに「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」とたずねました。イエスは「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。(ルカ 20:22-25)。聞いた連中は「その答えに驚いて黙ってしまった」のです。イエスというのは頭の回転が速い方のようです。肯定・否定に答えても問題が起こるので、鮮やかに回避したからです。肯定と律法違反、否定するとローマへの反逆です。

イエスは揚げ足を取られないようにとか、問題のすり替えで答えたりしているわけではありません。きちんと正しい答えをしています。少し分かりにくいですが。イエスはこう言っています。旧約聖書の背景を知っていないと分かりにくいので説明します。

このイエスの「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」。

モーセの「柴」の個所とは出エジプト記の出来事です。イスラエル人がエジプトで奴隷のような過酷な境遇に苦しんでいました。そこから神の民を救うために、神はモーセを選びました。詳しいことは出エジプト記3:1-14を読んで下さい。以下にあります。

◆モーセの召命

3:1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。3:2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。3:3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、3:5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトかき出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

モーセはある日、羊を追って行き、ホレブ山で柴が燃えているのを見て、不思議に思い近づくと神の声が彼に掛けられる。神は燃える柴の炎として現れています。神はモーセを奴隷として苦しんでいる民を、エジプトから助けるべく呼ばれる。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と。その時、神の「名前」が出てきます。エジプトでモーセが行った時、だれがモーセを遣わしたかと、「彼らは、「その名は一体何か」と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。神の自己紹介があります。英語で言うと「Iam」です。ここからユダヤ人の神は「ヤハウェ」と言われます。ユダヤ人は神の名を呼ぶのを恐れて、「主・アドナイ」と呼びました。余り恐れたので正しい神の名を忘れたと言われます。エホバというのがあります。今、町で見かけますし、訪問伝道しています。それは神を表すヘブル語の四文字(YHWH・ヤハウェ)にアドナイの母音を付けて16世紀から使われています。この「ヤハウェ」の神は御自身を永遠の自存者、不変の絶対的存在として啓示しています(出6:2)。神は独立自存者であって、現在も生きており、人間を救い、助け、祝福し、契約を守られる方であることを意味しています。

イエスはサドカイ派に聖書から、復活の存在を示しました。モーセが・・ユダヤ人が尊敬する・の言葉を取り上げています。少し分かりにくい点があります。イエスの独特のレトリック・rhetoric・ 巧みな表現をする技法・があります。イエスという方はディベイトにたけていたと思います。今ではそういうテクニックを教える所があると言います。

イエスは「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と言いました。

中心は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」にあります。その証拠に「主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」です。これは旧約聖書出エジプト記3章の柴が燃えているところを見ないと分かりにくいです。そこでは、神はご自身のことを「わたし(神)はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。(出エジプト3:6)とモーセに告げているのです。(出エジプト記はモーセによって書かれたというのが、ユダヤ人の伝統です。だから、権威があるのです。モーセの五書ともいい、創世記、出エジプト記、民数記、申命記、レビ記はモーセが書いたという)。ですから、少し分かりにくいので、これは次のように言い換えると分かります。「主はアブラハムの神である、イサクの神である、ヤコブの神である」とモーセは書いて示しているのであって、「主はアブラハムの神であった、イサクの神であった、ヤコブの神であった」と過去形で、つまり、墓の中の彼らを懐かしんで言っているのではないのです。彼らを過去に死んだ人ではなく、「主はアブラハムの神である、イサクの神である、ヤコブの神である」と現在形で言い、「彼らは今も生きている、今も神は彼らの神である」。だから、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なの」です。今も彼らは復活を待っているのだと、イエスは言ったのです。すごい論理です。イエスはサドカイ派が最も信頼するモーセの書・・彼らの権威の書から回答しました。サドカイ派は聖書への無知を露呈しました。だから、「彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」のです。「聖書読みの聖書知らず」です。

イエスは生きていると言いましたが、大事なことは「なにに対して生きているか」なのです。今朝の聖書は「神によって生きている」と訳していますが、別の新改訳聖書は「神に対して生きている」と訳しています。そうすると、イエスは「神に対して」(新改訳)と言われたのです。

この言葉は大事です。今の私たちにとってもです。それは生きると言うことの根源的な、おおもとの意味が明らかにされているからです。人が生きる、生きているとは、自然に対してでも、金銭や物のためでもなく、まして人のためでもなく、神に対して生きるためです。これ抽象的ですから、易しく言うと、「神を愛して、神に愛されて生きる」ことです。私たちはどうでしょうか。なにに対して、今、生きていますか?それが今朝の問になります。

私はこの説教を書いていて、思ったのは、私たちの神は私たちを墓の中に安らかに導く神ではなく、私たちを今も後も、信じる私たちの神として、神の傍で、神を仰いで、喜びで充たされて生きる者としてくださり、終わりの日、イエス・キリストが来られるとき、復活の命、そして永遠の命を私たちにくださる神だと確信しました。真に「私たちの神は、今も後も、ずーと私たちの、私の神である」のです。そう信じて生き、そう信じて死を迎えたいと思います。            アーメン

2010年11月7日 聖霊降臨後第24主日 全聖徒主日 「帰る家がありますか」

ヨハネによる福音書16章25〜33節

説教:安藤 政泰 牧師

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」


今日は全聖徒の主日です。自分が生きること、死ぬことを共に考える時でもあります。

 

同時に、この世の命を終わった者の事を「思い起こす」主日でもあります。

「思い起こすとき」、聖書的には、思い起こしたことが、実際に現実に再現される事でもあります。それが 今日聖餐式で行われます。聖餐式は最後の晩餐の再現とも 復活後のイエスと弟子とのエマオへの道での食事の再現とも言われています。その事を行ったとき、弟子たちはキリストとは意識しなかったが、食事を共にしたときに「キリスト」だと認識したのです(ルカによる福音書24章13節以下)

今日 私たちは、主のもとにある全ての人々(聖徒)と共に、天国での主の食卓に招かれるです。

16:25節 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」

キリストの弟子への別離を前提に言われていることです。イエスは今、たとえではなく、直接に弟子に話そうとしています。何を話そうとしているのでしょうか?その話しが、これからの関係を暗示しているのです。喩えでは、このことは 決して話すことが出来ない内容です。それは 弟子とイエスの関係が変化することだからです。同時に 私たちと、イエスとの現在の関係でもあります。

16:26節 「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。」

キリストは もやは 一人一人を思いやり、各自の願いを推測して、父なる神に願う事はされないと、言われています。それは イエスの十字架の死を前提しているからです。

その代わり、直接、父なる神に、キリストの名によって願うように、指示されています。

これは 当時の弟子とイエスとの関係の性格の変化です。今まで、弟子たちはイエスに父なる神への祈りをしてもらっていたのです。しかし、これからは、イエスに自分に代わって祈っていただくという、イエスの文字通りの仲介は必要がない、と宣言されているのです。

その理由は

16:27節 「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」

私たちがイエスを愛し、イエスが神から来たことを信じたので、神の愛の中に抱きいれられるのです。イエスを神の御子と信じるから、神は信じるあなたの願を直接聞いて下さるのです。

16:28節 「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

イエスは神のもとに帰られるが、神と人との関係は継続するのです。もはや 神と私たちの関係は、イエスの直接的な仲介なしに、その関係が復活することを予言されているのです。それは あたかも 創世記のアダムのイブの楽園追放以前の神と人間の関係に戻るということで、イエスの仲介により イエスの十字架の死と復活により完成するのです。

父なる神のもとに、帰られたキリストがおられるから、私たちは、父なる神との直接的な関係があるのではなく、父なる神ご自身がキリストの十字架の死と復活により、神ご自身があなたを愛してくださり、そのふところに迎い入れて下さるのです。

だから キリストは死に勝ったのだ、と私たちは証することが出来るのです。

このキリストは死に勝たれたからこそ、今日私たちは全聖徒の主日を祝うことができるのです。「死」は、私たちに取りこの世の生命の終わりであって、それは新しい世界の、生命の始まりを意味しています。悪魔とその力、死に勝利れたキリストのゆえに、今、私たちは 天使とその軍勢と共に先に召された方々と共に、今日ここで 再会し、共に天国の食卓につくのです。

2010年10月31日 宗教改革記念日 「真理はあなたを自由にする」

説教: 五十嵐 誠 牧師

ヨハネによる福音書8章31〜38節

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

真理はあなたたちを自由にする」は国会図書館の銘板に書かれています。この図書館の「真理」とは「存在と思惟の一致としての普遍妥当的知識,あるいは存在と行為の一致としての真実の」ことを言います。哲学的な真理です。アリスとテレスは「在るものを在ると言い、在らぬものを在らぬと言うことが真理である」と言っています。。

しかし、聖書では・・旧約聖書では、ヘブル語では「真理」または「真実」「まこと」などと訳されています。真実であられる神の御性格(詩57:10,117:2)を表し、また、神のみことば(詩119:160)、神の戒め(または仰せ)(詩119:151)、神のさばき(詩19:9)の真理性、真実性を表現しています。新約聖書では、ギリシャ語ですが、・・真理は救いのために啓示された神のみこころとしての「福音そのもの」を意味しています。「福音の真理があなたがたの間で常に保たれる」(ガラ2:5)ように書いています。また、「真理はイエスにある」(エペ4:21)。真理はイエスの中にあるのです。さらに、このイエスにある真理に私たちを導いてくださるのは「真理の御霊」(ヨハ14:17,15:26,16:13)である聖霊でもあります。さらに,この救いを宣べ伝える教会の正しい教義が真理と呼ばれています。(ヘブ10:26,Ⅱペテ1:12)、教会が「真理の柱また土台」(Ⅰテモ3:15)とも呼ばれています。所で、イエスの言う真理とは何かです。

私はイエスの「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」から、私は「イエスご自身とその言葉」であると思います。それが人々を自由にすると言うのです。

自由とは何か。自由を巡って議論があります。哲学、社会、政治、経済、文学、宗教での論議もあります。辞典を引きますと、勝手気まま、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと、個人の権利(人権)が侵されないこと、自身の立てた規範に従って行動すること、自分の思いどおりにできることなどです。私たちの自由とは、何ものにも束縛されないで、自分の思い通りに出来ることが大きいと言えます。中世から近代へは人間の束縛から自由でした。宗教的な束縛からの自由でした。近代人とは神を脇に追いやるものでした。人間中心です。イエスの譬えの、あの放蕩息子のように、自分の思う通りに生きるのが自由と思います。いわゆる、自主独立を果たした人間が、自由人だと言います。

イエスの言う自由とは・・「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」・・イエスが、イエスの言葉が与える自由とは何であろうか。ユダヤ人たちは誤解して、自分たちはアブラハムの子孫だ、神に選ばれた民だ、律法や儀式制度もある、自分たちはイスラエルの民で、神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は自分たちものである」(ロマ9:4)と言って、「今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」と言う民族的な誇りが、イエスの言葉に耳をふさがせる結果になりました。

*アブラムという意味については,アブは「父」を意味し,アブラハムとは「多くの国民の父」という意味で、カナンの地目指して生れ故郷であるカルデヤのウルを出発した。ユダヤ人の祖先で、信仰の父として尊敬されていた。

イエスの言う自由とは、そういう「 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢(ごうまん)、誇りと言う「罪」・・人間に巣くっている強力な、支配の力からの・・からの自由・解放」

を意味しています。この罪の束縛からの解放をもたらす方としてイエス・キリストが示されています。

パウロという使徒は罪についての自覚を語っています。私たちはそれほどには感じない点があります。彼は「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。「自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。彼は叫びます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。そして、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。と言い、救いがイエス・キリストから来ることを確信して、神に感謝を表しています。(ローマ7:14ー25)。

今日は教会暦では「宗教改革記念日」です。世界のプロテスタントの教会の、そして特別に、ルーテル教会の記念日です。世界史で学んだと思いますが、プロテスタント教会がローマ・カトリック教会と、教義の相違から、分かれたことを覚えて守ります。主人公はマルチン・ルター(ルーテル)というドイツの神学者で牧師でした。時は1517年10月31日ヴィッテンベルクの城教会の扉に、あの有名な「95箇条の提題・・贖宥(しよくゆう)の効力を明らかにするための討論」を張り出しました。その日がルターの改革の第一歩になりました。ルターは「免罪符」の発売を取り上げて、真のキリストの救いの福音を回復しようとしたのでした。

*しょくゆう・贖宥(indulgence)。カトリック教会で、すでにゆるされた罪の長期的な償いを、教会の権能をもって免除すること。

*免罪符・・贖宥しょくゆうのしるしとして中世カトリック教会が発行した証書。ローマのバチカンの大聖堂を修理するために売り出されたのが免罪符。贖宥状。賽銭箱にお金が入り、チャリーンと音がした瞬間、死者の魂は直ちに、天国に入るという宣伝文句が有名。

世界中におおくの宗教と信仰があります。千差万別・いろいろな種類があって、その違いもさまざまです。しかし、ただ、二つの宗教・信仰しかありません。世界の聖典・教典を翻訳したマックス・ミュラーという学者はこう言いました。それは「これこれを行いなさい。そうしたら救われます」と、「信じなさい。そうしたら救われます」だと。前者を「律法の宗教・業の信仰」といい、後者を「福音の宗教・信仰の宗教」と言います。つまり、「律法」と「福音」です。もちろん、キリスト教は唯一の福音・信仰の宗教です。じゃ、なぜ宗教改革が生じたかですが、当時のカトリック教会が福音を変えてしまったからです。問題は、どうしたら、その恵みの神を持つことが出来るかですが、・・この問は今月の31日の「宗教改革記念日」の中心テーマでした。マルチン・ルターは「如何にして私は恵み深い神を見いだすこと出来るであろうか」(Wie Kriege ich einen gnadigen Gott?)と言う問を抱いていました。ルターは修道院で、救われるためにはキリストのようになるように努力し、夜も眠らず、断食をし、祈り、自分の体を折檻し苦しめて、自分が忠実にかつ簡素に生き続けるように努めた」のでしたが、こんな方法ではキリストを見いだすことが不可能であり、キリストは、なおも、「あなたは罪と死に留まっている」と言われることに気がついたのでした。ルターは苦しみました。

*マックス・ミュラーという宗教学者は「東洋聖典全集」51巻)と言う東洋の宗教の教典を翻訳した本を出しました。彼は教典を訳して分かったことは、宗教には「これこれをせよ!そうしたら救われる」というのと「信じなさい、そうしたら救われる」とう二つしかないことだと。つまり、「律法」と「福音」です。

16世紀のカトリック教会は救いの道をコンクリートできっちりと固めていました。天国への階段を整えて、救いのシステムを作りました。信者の天国への保証を三つ階段で設けました。難しくなりますか簡単に言いますが、第一段は自助・selfhelp・すなわち善行による救いでした。「天は・神は自ら助ける者を助ける」です。第二段は「聖人の功績」でした。聖人とはカトリックでは特に信仰と徳にすぐれた信徒として崇敬され、自分の救いに必要以上の善行を果たした者で、その余得は教会で管理し、必要に応じて分配されるものでした。第三段は神と人が神秘的に合一することでした。日本にも「われ主に、主われに ありてやすし」という賛美歌があります。(旧賛美歌361)。これ以上のさいわいはない。

しかし、ルターはこの三段で悩みました。第一はどれだけ善行・よい業を充分に積まねばならないかでした。ルターは厳格に戒律を守ったので「自分は天国に入れただろう」と言いましたが、しかし、彼は充分な善行を確信できなかった。だから、彼は「キリストは恐ろしい方」と言っています。第二は聖人の余禄を受けるためには「懺悔」をすることが必要でした。しかし、ルターは人は果たして、自分の罪を全部知ることが出来るか、そうすると「懺悔」から「赦し」の道は閉ざされてしまいます。救いの保証はありません。絶望です。第三は「果たした罪深い被造物の人間が、全能の神と一つになれるか」という疑念でした。ルターは絶望した。ルターは良心的な人間で、罪に対して鋭い感受性を持っていました。そんなかで彼は、教会が失っていた宝を・・福音を再発見することになります。それは何処に?

福音の再発見。それは聖書でした。彼は聖書を深く学び、遂に「イエスを信じる信仰」と言う宝を回復しました。その中で、一つの出来事が起きました。それは「免罪符」問題

でした。聞いた言葉でしょう。免罪符は正式には「贖宥状(しょくゆうじょう)」と言います。英語では(indulgenc・ラテン語indulgentia)です。それはシステムの第二段の「聖人の功績・余得」から考えられました。ローマのヴァチカン・聖ペトロ大聖堂の増改築と修理で発行されました。その余得を原資に売り出されました。「贖宥状」とは「罪を赦す札・書面・証明書」です。ルターがこれを批判して「宗教改革」が始まりました。ルターは95箇条27条に当時のカトリック教会の「あなたの金が、賽銭箱に入り、“チャリン”と音がしたとき、煉獄(天国の手前で苦しんでいる)の魂は天国に入る、さー、さー買った」という宣伝文句を書いています。驚くべきことです。さらに、今までの罪ばかりか、これからの罪も、全部帳消しになるのだと説教しました。お金が救い主です。これは売れますね!

ルターが聖書から(再)発見し、ルーテル教会が宗教改革の精神としている三大原理があります。「信仰のみ」、「恵みのみ」、「聖書のみ」ですが、この教会の正面の壁面にあります。イスの背中のタイルにもあります。ラテン語で「Sola Fide」、「Sola gratia」、「Sola Scriputura」です。英語では「Only Faith」、「Only grace」、「Only Scripture」です。ルターは「律法の行いか信仰か」に対して、律法の行いでなく、信仰によるというのは、「信仰のみ、恵みのみ」ということであり、それは「聖書」しかも「聖書のみ」に由由来すると言ったのです。

ルターはキリストを小さくしたり、キリストを無視することに反対しました。ルターは聖書から見い出した教会の宝・福音を示しました。それが今朝の第二聖書日課のパウロの言葉「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義・神の愛と救いです。わたしたちは、人が義とされるのは(救われるのは)律法の行いによるのではなく、信仰による」の福音です。福音とは喜びの知らせです。パウロはローマ人への手紙3:22以下でも同じように書いていますが、今日は分かりやすい意訳(原文の一語一語にこだわらず、全体の意味に重点をおいて訳す)した文章を紹介します。リビングバイブルという翻訳ですが。「しかし今や、神は、天国へ行く別の道を示してくださいました。その新しい道は、「善人になる」とか、神のおきてを守ろうと努力するような道ではありません。神は どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです」。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義(救い)であって、すべて信じる人に与えられるものである」私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、恵みにより、無償(無料・信仰)で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです」。この福音をルーテル教会は受け継いでいます。それで、宗教改革記念日を守るのです。

ルターの再発見した福音は救いのシステムを簡略化したと言えます。ローマカトリック教会が築いた救いのシステムを破壊しました。イエスは救いの近道を造りました。カトリック教会はイエスを非難しました。パソコンでショートカットというアイコンがあります。それはそのアイコンをクリックするだけで、ソフトが立ち上がります。イエスは救いの近道・ショートカットを・・信仰による救いという道でした。それは証拠があります。

イエスが十字架に」付けられた時、二人の犯罪人も一緒に付けられていました。「ルカ24:39-43」です。十字架は三本です。状況は以下のようでした。

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた」。

イエスが同僚をたしなめた犯罪人に「今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いましたが、そのことによって「救い」を直ちに保証したのです。犯罪人は「御国においでになるとき」という言葉で、イエスがメシア・救い主であることを認めていたからです。(*「み国と「神の国」です)。このイエスを弁護した犯罪人は、心を入れ替えて善行に励んだから、救いを保証されたのではないのです。この犯罪人は証人です。人間は神に立ち帰る時、それは悔い改めてですが、罪が赦され救いに招き入れられることを、彼は証ししているのです。美しい場面です。その証し聞きたいと思います。

今朝、イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われています。自由にする・・自分は思い通りに生きていると思っています。信仰なんか関係ないとも。在る学者は宗教は要らないとさえ言います。しかし、宗教が示す人間の生き方・人間を人間として生かす宗教は必ず必要なのです。生きると言うことは実に多種多様な経験をするものです。信じる宗教を持つことは、どんな時でも、恐れず、真実な生き方が出来ると思います。

難しいことは言いませんが、人生を生きるとき、どんなときでも、信仰を持ち、信じて生き、希望を持って、自由な喜びを与えるのは「律法」か「福音・イエス」かを、見つめる日としていただきたいと思います。イエスは「真理はあなたたちを自由にする」と言われました、その真理をどこにみいだすでしょうか。

「真理」を考え、見いだす日となるように祈ります。

アーメン

2010年10月24日 聖霊降臨後第22主日 「人間の悩み、痛み、涙を・・全てを受け止める愛を・・」

説教: 五十嵐 誠 牧師

ルカによる福音書18章9〜14節

「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ころが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

 

久しぶりに講壇を担当しました。約二月ぶりです。あの夏の猛暑で体調を崩し、また、入院・手術などをいたしました。皆さんのお祈りとお見舞いの言葉を感謝します。有難うございました。完全ではありませんが、お会いできて幸いです。

さて、今日は先ほど読みました、イエスの譬えを学びたいと思います。有名ですから今さらという点もありますが、一緒に考えたいと思います。

今日の説教を理解するために二つの言葉を説明します。譬えに登場していた人物です。ファリサイ派と徴税人です。前者の言葉は日本語でも通用しています。よく「ファリサイ的人間」と使われます。むかしは「パリサイ的人間」でした。自分のことはさしおいて他人を厳しく批判する人を言います。

*ファリサイ派は「分離する者」の意。イエスの時代に盛んだったユダヤ教の一派。紀元前2世紀の後半に起こり、モーセの律法の厳格な遵守を主張、これを守らない者を汚れた者として斥けた。イエスはその偽善的傾向を激しく攻撃した。パリサイ派とも言う。

宗教というものは、時が経つと内容が変質して来ます。純粋な精神が薄れて・・中心がスポイル・俗化させる、失われて・・されて、形骸化します。ですから、時々、宗教改革が起きます。キリスト教にかぎらず、ユダヤ教や仏教やイスラム教にも起こります。日本の場合は「新~~~派」とか「~派~~~」となります。京都のお寺に行くと解ります。寺院の山号(寺院の名に冠する称号)でも理解出来ます。

ファリサイ派はイエスと強く対立したユダヤ教の一派で、偽善者というレッテルを貼られました。マタイの福音書の23章で、イエスは「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」、「薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである」、「あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓だ」。「外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」と言いました。聞いたら目をむくような批判です。

また、その生活もこう言われています。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」。「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」。要約すれば、宗教・信仰と生活が一致していなかった。信仰の形骸化になります。

 聖句の入った小箱とは「経札」といい、一辺が3センチのものから45センチのもの。ユダヤ人はこれをテフィッリーン(祈祷ひも)と呼び、身につける慣習を持っていた。出13916)。

「頭の経札」と「腕の経札」の2種類があった。子供は13歳になるまでこれをつけることは許されなかった。「シェマー・聞け」(申命記6:4)という聖句が入っていた。

偽善者と言うのは人にめったに言ってはならない言葉ですが、ギリシャ語・uJpokrithv”・フポクリテス・では「芝居をする人・俳優」を意味します。イエスは、外面的には敬虔に振舞いながらその実のない律法学者,パリサイ人などをきびしく戒められ、そう呼ばれた。(マタ23:27‐28)。彼らは、時には慈善家を気取り,またひたすら祈りに打ち込む姿を演じて、人々の賞賛を得ようとした(マタ6:2‐5)。しかし、全てのファリサイ派が偽善者で、型式主義者ではなかった。中には真面目なファリサイ派もいました。しかし、おちいりやすい弊害として、自画自賛・自己讃美や自己義認になります。今日のファリサイ人のようにです。

「徴税人・取税人」とは税金を集める者、今の税務署の役人です。当時の税金の徴収事務は請負制でした。請負とは一定の仕事の完成に対し一定の報酬をもらう約束で、仕事を引き受ける制度です。私が入った病院は手術は出来高払いでなく、請負制でした。健康保険ですが、ビックリしました。ローマ帝国は占領地の支配を、不必要な刺激を避けて、ユダヤ人の場合は比較的自由にしました。植民地からも税金は二つありました。直接税と間接税です。直接税は男子一人に付きいくらという「人頭税」です。ルカの福音書では、人口調査のために、マリアとヨセフは、ベツレヘムに行き、イエスを生みました。

もう一つは通行税でした。主な道路に収税所を置き、通行する者から税金を徴収しました。この時代、その徴税事務をしていたのはローマの官吏でなく、「徴税人」と呼ばれるユダヤ人でした。ユダヤ人は収税所の権利を金で買い取りました。多額の投資をしましたから、その多額な投資金を何とかして回収しようとして、誤魔化したりして、規定以上の税金を手にしたようです。そのため、同じユダヤ人からは「罪人」というレッテルを貼られました。彼らの不正行為ばかりでなく、同じユダヤ人から、占領者のローマ帝国のために働いて、私腹を肥やしているとう理由で、人々からは嫌われ、ファリサイ派からは背教者と言われ、差別されました。

ある日、この二人が神殿に来ました。国中、エルサレムには多くの会堂・シナゴーグがありましたが、徴税人は入る勇気はなかった。彼は邪魔されずに入れる神殿の外側の、端にある庭に来たようです。そこは神殿に来る人達からも遠く離れた場所でした。

神殿とはユダヤ教の礼拝・祭儀の中心聖地です。祈るためですが、祈りは規定では朝の九時と午後の三時でした。ファリサイ人は意気揚々と胸を張って神殿に入り、堂々と祈りを始めました。「心の中で祈った」とありますが、彼は本当は全知の神の耳に聞こえるように、また周りの者にも聞こえるように、祈り・・いやしゃべったと言えるのです。自己義認と周囲の人達を見下す気持を持って祈りました。

祈りは短かった。前置きがあり、否定的な要素・・自分が他の人のようでないことを・

罪人でないことを感謝しています。次に自信過剰の要素・・自分の功徳(くどく)を列挙しています。

自分は必要以上のことをしている・・週二回・月と木に断食・・年に一回でいいのにです。(贖罪の日)。十分の一の献げ物・・信仰深いユダヤ人の義務でした。それ以上していたと思います。恐らく他にも多くしていたと言えます。「私」はと言う代名詞が輝いています。(前期のファリサイ人の祈りと同じく、日本語では代名詞I(私)は訳されません。原文や英文では、はっきりします)。

このファリサイ人の祈りの背後には、ある詩編の言葉がありました。詩編24:3-4です。イスラエルの王ダビデが歌いました。

「どのような人が、主の山に上り、聖所・神殿に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる」

どうして徴税人のような悪党が、あえて神殿地域に入ってくることが出来るのか。ダビデのこの言葉は、この徴税人を非難しないだろうかです。

一方、徴税人は全く違っていました。彼は、遠く離れて立ち、自分の目を天に上げようともせず、無価値な自分を知って、胸を打ちながら・・申し訳ないという心を持って・・祈りました。彼はたった一言「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とだけ祈りました。この言葉は。あの有名なダビデ王が祈った言葉でもありました。(詩編51:1)。

*(ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たときに発した言葉)。

彼は「罪人」と言いました。英語では「The sinner」ですが、単なる「A sinner・罪人」ではなくて、Theが付くと用法で強勢が置かれて、本当の、最高の罪人と言う意味です。「遠くに離れて立ち」とは彼が罪の贖いの犠牲の献げ物をもって、祭司の所にいく勇気がなかったことを示しています。で、彼は「神よ、罪人のわたしを憐れんでください」と。

ある牧師はこう言いました。二人の人が祈りに行った。否、むしろ、一人はほらを吹きに行き、もう一人は祈りにいった。的を突いて射ます。

結論に行きましょう。明白です。「義とされて家に帰ったのは、この人・徴税人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。つまり、「自分の罪が赦されて帰ったのは、この徴税人であって、他の者ではなかった」です。

イエスは何をこの譬えで教えようとしたのかです。ある牧師は救いは行いでなく、自分は罪人であるという謙遜な心を持つことだと言いました。人間は功徳主義(くどくしゆぎ)・・自分は神の恩恵を受けるに必要以上の敬虔な行為・余徳があるという考えを捨てきれません。キリスト教の業によらず、無代価の救い・恵みによる救いを信じません。一人は聖徒として家に帰りました。一人は罪人として家に帰りました。立場が反転しています。

別の牧師は哲学者のキルケゴールの言葉を引用して、「この言葉はイエスが譬えを通して私たちに語っている永遠の言葉である」と言います。ファリサイ・パリサイ的な精神・自己義認・自己本位は、イエスの時代から今にいたるまで教会の中に陰に陽に続いているからであるという。そして、私たちはそれが危険だとは気づいていない。私たちは自分自身の小さなシオンに安住する教会人になる危険があります。神の言葉を鏡として見るならば、私たちは自分の生の中に、徴税人とファリサイ人を、垣間見ることが出来るのです。「神よ、精神的自己満足を取り去って下さいと祈りたい」と。

*キルケゴール:デンマークの思想家。人生の最深の意味を世界と神、現実と理想、信と知との絶対的対立のうちに見、個的実存を重視、後の実存哲学と弁証法神学とに大きな影響を与えた。「不安の概念」「死に至る病」が有名。

知人の牧師は言いました。「義とされて帰ったのは徴税人だった」と言う「義」は聖書では大事な言葉で、意味は神と親しい関係とか神のみ手に迎えられる、愛される、救われるという意味です。イエスはそう言う意味で言われたのです。牧師は、神は愛であるという福音を述べ伝えることを勤めとしています。神は悔い改める者を赦される方ですから、徴税人が赦されるのは分かると。

しかし、ファリサイ人の祈りは、ただ一点・・徴税人とは違うと言ったこと・を除けば、他は立派です。ファリサイ派の代表みたいです。

ではイエスは何を言いたいのかですが、イエスは「何を一番大事にされたか」だと思います。この譬えでは、当時の社会の価値観が逆転しています。いや現在の価値観とも反対です。普通は、徴税人のような者よりはファリサイ人は立派であると考えるのは当然です。

イエスは律法とか倫理でもって、人を判定する考え方・・ファリサイ派の信念です。それをイエスは否定したのです。イエスは人々が持っている・・持つように至った・・悲しみ、悩み、憂い、痛み、涙を踏みにじる方ではありませんし、裁く方でも、石を投げつける方ではありません。イエスは神の愛・・人間の悩み、痛み、悲しみ、涙を受け止める愛を・・アガペーを一番大切にしました。そういう愛の心がファリサイ派には欠けていたのです。いくら立派に生きていても、アガペーの姿勢を欠いては意味がない。それを教えるために譬えを話したと知人の牧師の言葉です。読みが深い。

私は50年前の神学校の小礼拝室の一枚の絵を思い出しています。それは大きな教会の礼拝風景でした。前方の祭壇は明るく、美しく整えられ、正面には十字架の像が掛けられています。大勢の出席者が礼拝をしていました。しかし、よく絵を見ると、礼拝堂の最後尾の薄くらい席に、遠く離れて座っている人の側に、一人の人物がいます。それは主イエスでした。私は、主は何処に居られるかを示していると思っていました。この譬えも同じだと思います。

イエスは私たちを、あるがままの姿で、状況で、受け止めて、愛して下さるのです。この譬えはそんなイエスを示しています。皆さんは、罪人として家に帰りますか、聖徒・赦された者として家に帰りますか。どちらでしょうか。

アーメン