2004年8月8日 聖霊降臨後第10主日 「今夜命が与えられる」

ルカ12章13~21節

 
説教  「今夜命が与えられる」  大和 淳 師
 今日は、ある金持ちの譬えからみ言葉を聴きたいと思いますが、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」一人の人のこの願いから始まります。ところが、それに対して、主イエスは「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」、そうお答えになった。これは実にとりつくしまもない程厳しい拒否です。主イエスがこれほどまでに厳しく拒否なさったのは実に珍しいことです。そして「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」、そのように警告され、この金持ちの譬えを話されるわけです。
  ここで、「貪欲」という言葉が出てきます。貪る欲と書いて貪欲、必要以上に欲しがることと辞書には出ていますが、そのような貪欲、しかも「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と主イエスは言われています。そうすると、主イエスは、わたしどもの貪欲さ一切を誡めるために、つまり清貧の生活、禁欲的生活を勧めるためにこの譬えを語られ給うのでしょうか。
  それで、この譬えを見ていきますと、この譬えは非常に分かり易い、いわばすっと読める、分かる気がするのですが、しかし、あらためてよく読みますと、もし、主イエスが単にここで、ただ単に貪欲さを誡めるためにこの譬えを話されたと考えますと、この譬えの結末は非常に不自然なことに気が付きます。
  この譬えでは、最後に神さまが登場します。そもそも、主イエスの話されたたくさんの譬えの中で、神さまが父とか主人とかではなく、神そのものとして直接登場してくる、介入してくる譬話は、この譬えだけです。第一、神さまが父とか主人に、旅人にたとえられるから、<たとえ>話なのであり、直接、神が神として登場してきたら、<たとえ>話とは言えないわけですけれども。

  けれども、もし単に貪欲への、道徳的な戒めであったら、あえてこのように直接神が登場し、語りかける必要はないでしょう。つまり、もし、貪欲さへの警告だけを主イエスがここで語ろうとされていたのなら、この金持ちが、たとえばその晩、火事に遭い、すべて焼けてしまったのだとか、天災が起きたとか、と言うように、そう言う災害や思いがけない事故の方がこれを聴いている当時の人びとにとってもはるかにリアリティーがあるでしょうし、貪欲な生き方の空しさがはるかによく伝わるでしょう。
  そして、更に細かいことを言いますと、「神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」(20節)、譬えはここで終わっているのですが、この結末は、何と言っても、決して、彼への罰、報いとして語られていません。「今夜、お前の命は取り上げられる」、それは彼の思いや、あるいはしたこととは関係なく、ただまったくいわば寿命が尽きることになっていた、言ってみればそういうことなのです。
  なるほど聖書の中には、貪欲は確かに罪のひとつです。むさぼりの罪です。しかし、ここで彼は「愚かな者」と呼ばれるのであり、決して罪人、悪人、神に逆らう者とは呼ばれていないのです。つまり、この金持ちが、考えたことが、あるいは彼がともかく大金持ちだったからとか、それを貧しい人に施そうとしなかったからだとか、いわば彼への罰として命が今夜取られるということを(倫理、道徳を)イエスは語っているのではなく、ただ命が今夜取られることになっていると言うのであり、そして「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」という問いかけで終わり、実際、この金持ちがどうなったかは一切語られていないのです。これは人生、生き方、その根に迫る言葉なのです。
  そうすると、ともかく言えることは、あえて主イエスは神さまを登場させた、ここは直接神でなければならないからだ、そう言っていいでしょう。何故なら、ここでまさに問題は死、死の宣告、しかもいつかではなく、まさに今夜、今の死だからです。「今夜、お前の命は取り上げられる」、それはまことに神にしか言えないことだからです。しかも、全くそれまでのこの金持ちの生き方をことごとく打ち砕くように、神の突然の介入が起きてくる。人生がぶち壊しになるかのように。
  それ故、ともかく何よりこの主イエスの言葉を理解する鍵は、この異常な神の介入の言葉にあります。これをわたしたちがどう受け止めるのか。この一点です。この一点を、わたしの人生においてどう受け止めるのか。然り、というのか、あるいは否(もちろん否と言っても、否とならない、事柄から言えば、最早然りしかないのですが)、それでも否を言うのか。つまり、それでもわたしたちは希望があるのか、あるとすればどこにあるのか、ということ。

 それで、まず「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」。この「愚か者よ」と言われる、わたしたちはさしあたって、その愚かさとは、何にあるのか?何故、主イエスは愚かと言われるのか、そのことから考えていきましょう。
  実はその神の宣告、「今夜、お前の命は取り上げられる」と訳されたその「命」の元の言葉は、プシュケーという言葉なのですが、「今夜、お前のプシュケーは取り上げられる」、そう言っていますが、この「命」と訳されているプシュケーという言葉は、既にこの金持ちの台詞の中にも出てきているのです。
  新共同訳は大変読みやすくならして訳していて、同じ言葉、プシュケーだとは分かりにくいのですが、19節に「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と」は、直訳すると「そしてわたしは、わたしのプシュケーにこう言ってやるのだ。『プシュケーよ、お前は多くのものを長年に渡って得ている。さぁおまえは安らげ、食べよ、飲め、そして喜べ』」、そのようにわざわざ「プシュケーよ」と自分が自分のプシュケーに呼びかけているのです。ともかくこの金持ちは、まったく自分で自分に言う、自分で自分に言ったという構図がとてつもなく強調されているのです。おおよそ不自然な位、この金持ちは一人芝居を始め、一人舞台で幕を閉じようとする。そして彼はその自分のプシュケー、すなわち自分の命、魂に、つまりまるで神のごとく、「さあ、・・・楽しめ」と命令した、しかしその「プシュケー」こそが今まさに取り去られるのだと。
  それで、ある人がこういうことを言っています。「(この金持ちが愚かと呼ばれるのは)、それは彼は彼の熟慮のためのパートナー、神も人も持たないが故に、それ故に、あたかも彼が彼自身を自由に処理し得るかのように、自分自身のまわりを巡り回っているだけなのである」(E.シュヴァイツァー)。
  つまり、この金持ちが考えたことそのもの、それは貧しい人に施そうとしなかったから、いわば罰として命が今夜取られるということを主イエスはおっしゃっているのではなく、この金持ちは、自分で自分のプシュケー ― プシュケーはそのように命とか、魂などと訳される、いわば肉体的存在を除いた人間の心というか、つまり自分自身ということ、自我、哲学的に言えば主体とも訳す言葉ですが ― その自分自身について一人ですっかりお膳立てしてしまって、主イエスが「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(11章9節)、そうおっしゃった、そのような自分・自我ではない他なる存在、神、自分の真の主に願い求める必要は彼の人生に最早あたかも一切必要ないかのようになってしまっている。つまり彼はもう自分の人生に神様の出番の余地がなくなってしまった。そういう風に自分で自分をふるまっている。真に問題はすっかり自分で自分を用意してしまったことにあるのではないでしょうか。
  つまり、こういうことです。それなら、もう神さまの出番は、この「命が今夜取られる」、死ということしか残っていないではないか、そう主イエスは問いかけているのです。そのような生き方に対して、それなら最早神とは、命を今夜取る、そのような冷酷、無慈悲な暴君のような役割しか残されていないではないか、と。確かに自分が自分の主人となってしまった人間に対して、神は、そのような自分と真っ向から対立してくる。それどころか、その自分、わたしを砕くように登場するのです。汝、忘れるな、汝は有限なり、と。
  ともかく、一人芝居を演じている、自分が自分の主人公になってしまっているが故に、この金持ちは愚かなのです。ところが、これはわたしたちの眼から見れば、本来賢い生き方に見えるのではないでしょうか。むしろ、賢い生き方とはこういう生き方だというように。
  それで18節で共同訳が「思い巡らし」と訳している元々の言葉は、よーく考える、熟考する、つまりこれは本来賢い行為です。そういう風に、人生を熟慮する ― もっともその人間の熟慮の目的が、要するに「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」という「怠け」であるところに、主イエスの鋭いユーモアがあると思うのですが、しかし、これは実にそうで、わたしなどはまことに耳が痛いわけでして、わたしたちも人生をよーく考える、そして計画を立て実行していく、これは大変大切なこと、欠くことに出来ないことなのですけれど、でもその目的が、うかうかするとただ老後を楽に過ごすためとか、ただ好きなことをして過ごすというような、この金持ちのような単なる怠けになっていってしまう・・・。これは実によくあることで、あえて言えば、個人のことのみならず、たとえば教会の将来計画などというものも、「よーく考えないと」、自分たちが楽をしようとするものになってしまう。
  つまり、貪欲というのは、何も眼をギラギラさせてモノや何かに執着していく様だけを言うのではなく、むしろ、全くそう気づかずになっていく、うかうかすると結局気が付いたときには貪欲というしかない、そういうものになってしまう、そう言っていいでしょう。だから、本当によーく考える、よくよく考える、今を自覚して真剣に考える、主イエスの語られていることは、まさにそこにかかっていると言える。ぬるま湯につかって、のんべんくだりと人生を考えていいのか、一方でそう言うことな訳です。汝は有限なり、ということ。
  ともかく先々をよく考え、計画・準備する、これは本来賢い生き方なはずです。ところが、わたしどもにとっては、先々をよく考えるとなると、確かに神を信じるという生き方より、神なんて信じない、あるいは信じられないもの、その方が実に賢く思える(あるいは楽だと言う方が合っていますが)、そうなるわけです。しかし、主イエスはそれが愚かだ、と言われる。何故なら結局、ただ独り芝居を演じてしまっているからだ、と。「パートナー」がいない。全く独り芝居、独り舞台を演じている。あなたの人生に真の「パートナー」を持っているのか、そう問うている。
  それで、ここで最初の「あるの人」の願いに対するあのイエスの拒否、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」にかえりたいのですが、それは実は単なる拒否ではなく、主イエスは、まさにわたしたちの「裁判官や調停人」ではなく、人生のパートナーとして立っておられたからではないかということ。つまり、主イエスは遺産相続なぞの次元の低い問題に巻き込むな、と言うのではなく、この金持ちのように人生の独り舞台を演じて、そうして最後には暴君のようにしか神を感じなくなってしまう、そうした人生ではなく、そうしてビクビクして暮らす ― それ故、人は貪欲になってしまう訳ですが ― そうではなく、言ってみれば、「命が今夜取られる」、たとえそうでも、いわばどうどうと生きる、限りあるわたしの生を生きることができる、つまり本当の自由への招きを語られようとされている。
  そもそも自由とは、自分独りでなれるのではなく、いつも必ず誰かと、自分を愛し、また自分も愛する人、存在と共になるものです。つまり自分一人が望むように、人生、事が進む、自分の思いが実現する、つまり人生の一人芝居を演じる、それが自由なのではなく、それはむしろ、いわば欲望の奴隷に過ぎない、まさにそれが「貪欲」ということなのだ、と。ですから、ここで言われる「貪欲」とは、繰り返し申しますがモノや何かへの執着ではなく、いわば自分で自分の人生の一人芝居を演じることです。パートナーのいない、したがって喜びのない人生のことです。これが聖書のいう「罪」なのです。
  でも、それに対して神さまは「命が今夜取られる」、ただそこで単なる暴君なのか、冷たい運命や宿命のようなものしか、あなたの人生に登場しないのか、そういう風にしか神さまの出番がなくなってしまっていいのか、主イエスは、そうわたしたちに問いかけておられる。
  確かに心配事、厄介ごとの中で、いつのまにか自分ひとりで、わたしの人生を演じてしまって、本当の神さまの出番、パートナーをなくしてしまっている人生、それをうかうかと歩んでしまう、隙間だらけのわたしどもになってしまうのです。そうして結局そこでは全く暴君のように、冷たい運命のようなものしか、神を考えられなくなる。本当の人生のパートナーが、わたしの傍におられることを忘れてしまうのです。
  だが、たとえ今どんなに素晴らしい、恵まれた人生を歩んでいると思えても、一瞬にして一切が愚かとなる、あの一点が誰にもあるのです。わたしどもは性懲りもなく、この金持ちのように一人芝居を演じてしまう、そのようなとき、まさに神は敵として登場してくるのです。しかし、この譬えの後、主イエスのこのような言葉が後に続きます。「・・・あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」(29-32節)つまり、こういうことです。なるほど、神と相容れない、神の介入の余地のない、そのようにまさに神に敵対してい歩むわたしどもには、だから思い悩みがある。今どんなに素晴らしい、恵まれた人生を歩んでいると思えても、一瞬にして一切が愚かとなるあの一点!だが、その一点、それは、全く逆から見れば、つまり、この主イエスから見れば、この信じるという生き方からは、それは今どんなに惨めで、辛い困難な人生を歩んでいるのだとしても、そのわたしの惨めさも辛さも本当に喜びに満ちた、豊かな人生となる一点があるのです。その一点を主イエスは指し示すのです。神からわたしに歩み寄り、和解し、わたしを伴っていく一点を。すなわち、十字架を!
  十字架とは、この一人芝居をしてしまう、自分で自分の主人になろうとするわたしが砕かれることです。ルターはもっと端的に、我々は日々死ななければならない、と言うのです。死ぬ者、神に、キリストに打ち砕かれた者こそ生きるのだ、と。つまり、このわたしが打ち砕かれた時、つまり、神がわたしの敵となる時、そうしてわたしが死ぬ、死ななければならない時、つまり、一人芝居をいやでも止めなければならない時、しかし、そこでこそ真に暴君、情け容赦のない「裁判官や調停人」ではない、真の神、憐れみの神、このキリストが、わたしと共にいる神が、わたしの命がそこにこそある、おられる。「必要なことをご存じである」神、わたしの「裁判官や調停人」ではない、愛する神が!このキリストに実は本当にわたしが生かされている、わたしが生きているのではなく、わたしは生かされている。
  主は、こうわたしたちに呼びかけてい給うのです、「そんな無意味な人生は愚かだと思わないか。あなたのプシュケー、人生、魂、命はそんな無意味なものではない、あなたの人生はそんな無駄なものではない。死を貫いて、あなたと共にあるものがあなたにあるのだから・・・・・・」。だから、まさに「今夜、お前の命は取り上げられる」、だが絶望しない、いやそれどころか、そのような限りある人生だからこそ、そのままに、あるがままにこのお方にことごとく生かされる、まさに全能の神がわたしの全てを支配しておられることに委ねて、信頼して生きていくことができる、そのような一点、真の命が誰にもある、このキリストにおいて、全ての人に今やある。「今夜命が取られる」、だが「今夜命が与えられる」!限りあるこのわたしが、そのままに、あるがままに生かされる!何故なら、ことごとく、この命、このわたしのプシュケー、わたし自身は一切、主のものだから!主イエスをわたしの人生のパートナーとしていくとは、そいうことなのです。そのような力が、わたしの力ではなく、主イエスの十字架を通して、わたしの中に必ず起きてくるのです。

2004年8月1日 聖霊降臨後第9主日 「目覚めよ」

詩篇第2篇

 
説教  「目覚めよ」  大和 淳 師
 「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち 人々はむなしく声をあげるのか」。この詩編第2篇は、そのように国々が「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らう」と語っています。それは、まさしく人間の歴史が繰り返してきたことです。「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」、わたしたちは、歴史の至るところで、こういう声を聞いてこなかったでしょうか。そして、それはまた今のこの時代にもあがる声でもある、そう言っていいでしょう。それは単に「地上の王」、「支配者」と呼ばれるような人だけではない、「人々は」とまた言われているように、「地上の王」「支配者」でもない者もまた、この地上での生活、自分の生そのものに「かせ」を感じ、「縄目」を負っている、と、いや、むしろ、そのように力のない者、弱者であれば、あるほど、その「かせ」は、その「縄目」は重く、二重、三重にのしかかってくる、それがわたしたちの実感です。この詩篇が聞く「国々の騒ぎ立ち」、「むなしい声」とは、まさしくそのようなわたしたちの声なのです。
  そのわたしたちの「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」、そこにあるのは、こういうことです。ただ、その支配者と、弱者である者との違いは、それを「はずし」、「投げ捨てる」ことができるか、否かである。力を得る、力を持っているとは、その「かせ」が軽くなっていくこと、はずれていくこと、「縄目」がほどけていくことであるかのように、あたかもそうであるかのように、わたしたちは考えている。そのように、この世は成り立っていると。だから、この世の底の中に生きている人ほど、下にあればあるほど、その「かせ」は重くなり、「縄目」はますますきつくなる、全くそのようである、と。したがって、人々は、あいもかわらず、「下」から「上」へ、力のために、「王」、「支配者」へと、その目を向けていくのです。何故なら、わたしたちには、絶えず、

この生に対する「かせ」、「縄目」があるからです。
  ある人はとっては、現実の「貧しさ」が「かせ」となる。その「かせをはずす」ことは、したがって、富を得ること。地位のない者は、それは、地位であり、したがって、かせをはずすことは地位を得ることに他なりません。病気もまた、そのような「かせ」、「縄目」として、わたしたちを縛ってきます。不幸であること、能力に欠けることも。いや、富に恵まれ、地位もあり、健康であり、幸福であったとしても、たとえば、人間関係の煩わしさが、「かせ」になり、「縄目」にもなります。時には、私たちの安らぎであるはずのもの、家族や友人さえ「かせ」になり、「縄目」にもなる。本当に自分の生きがいに感じていることさえ「かせ」「縄目」になってしまう。そのように二重に三重に「かせ」がはめられ、「縄目」に縛られている、その最大の「かせ」、「縄目」とは「死」であることは言うまでもありません。死の「かせ」がある限り、わたしたちが所有していく一切のものも、また「その「縄目」となるのです。聖書は言います、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6章23節)、すなわち、罪の「縄目」は死であると。死は、わたしたちから、一切を奪う。それ故、死は、それまで結んでいた生のきずな、親子であれ、夫婦であれ、友人であれ、そのように、わたしの支えであったはずのものを一切切り離し、わたしたちを不安と孤独に陥れます。だから、頂点に立つ「地上の王」、「支配者」さえ、「かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」とするのです死、わたしたちの最大の「かせ」、「縄目」、たとえ、どれほど、偉大な王であれ、支配者であれ、この死の「かせ」、「縄目」からのがれることができない、詩編はそこに立っているのです。
  この詩篇は繰返し、二度も「なにゆえ」「なにゆえ」と問いかけています。この死の現実を見ないこと、そのことの「むなしさ」、愚かさ、「なにゆえ」それに気付かないのか、と。何故なら、それは、まさしく「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らう」ことに他ならないのだ、と。わたしたちは、この詩篇の冷めた眼に驚かずにはいられないのではないでしょうか。そのような「かせ」、「縄目」を前にして、彼は落ち着いています。いわばこの詩編は、まさしく死を前にして、独り立ち、目覚めています。そして、「目覚めよ」と呼かけています。
  わたしたちが「騒ぎ立つ」、「構え」「結束する」、それは、その「かせ」、「縄目」を恐れているからです。わたしたちの眼には、それはわたしたちを圧倒し、打ちのめす、恐るべきもの、忌まわしきもの、そのようにしか見えないのです。いや、その「かせ」、「縄目」が、そのようにわたしたちの眼を塞ぐと言っていいでしょう。しかし、この詩人はひとり目覚めて、そのわたしたちの眼が決して見ない、見えないものを、その「かせ」、「縄目」の中に見ているのです。それは、「天を王座とする方」です。詩篇は、その冷めた目で「かせ」、「縄目」の中に「天を王座とする方」を見るのです。そのお方とはどんな方なのか。詩編は言います、「天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り/憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。」(4-5節)
  それは、わたしたちの「かせ」、「縄目」、即ち、「死」を前にして、笑い給う「神」、死を嘲り給う神、死に対し、憤り、怖れさし、怒り給う神なのです。したがって、既に死に対して勝利し給う神です。それが、わたしたちの神、主であり給うのだ、と言うのです。そして、それこそ、わたしたちが最も驚き、そして畏れなければならないと言うのです。それ故、この神が宣言し、なし給うことを、わたしちは聴き、そして従わねばならない、と。
  その神の宣言し給うこと、そして、なし遂げ給うことを、彼は7節以下に記していきます。そして、この7節で、突然「主語」が「わたし」に変わります。詩篇が、そのように落ち着いている、冷めている、目覚めている、それは、このように、まことにこの「わたし」と言われる方、「主の定めたところに従う」、「主が告げられる」、「わたし」、その方が、彼と共に立っているからです。この神が宣言し給う、それ故、ご自分の意志をなし給うとき、その時、この「わたし」と言われる方がおられる、その「かせ」、「縄目」の中に。そのお方が、わたしたちの代わりに、笑い給う「神」、嘲り給う神、憤り、怖れさし、怒り給う神の前におられ給うのです。そのようにして、この方は、神と共にあり、そして、そのようにして、我らと共にい給うのです。
  その「わたし」というこの方に向かって、主は「お前はわたしの子 今日わたしはお前を生んだ」と言われます。これは、もともと王の即位の言葉です。主なる神は、この方に、その全権を与え、委ねたということです。そのようにして、今や、この方が、主なる神の代わりに、わたしたちの前に立っておられます。「主なる神の代わりに」です。わたしたちの主として、です。そして、「求めよ、わたしは国々をお前の嗣業とし 地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く」。しかし、わたしたちがここで忘れてはならないことは、たとえわたしたちの眼に、あの「かせ」、「縄目」がどれほど大きくうつろうとも、この方が、その真実の支配者であるということは、その「かせ」、「縄目」からまたわたしたちを解き放つ方であるということです。死の「かせ」、その「縄目」から、わたしたちを解放するお方であるということです。この「わたし」、そのお方、即ち、イエス・キリスト、主イエスがどのようにして、その「かせ」から、わたしたちを切り離し、「縄目」をほどいて下さったのか。それは、この方ご自身が、自らその「かせ」を負い、「縄目」につかれたのです。わたしたちのために。そのようにして十字架につかれた方、この方は、自ら、その「かせ」を負い、「縄目」につかれ、苦しみ痛んでわたしたちの代わりにこの神のみ前に立って下さっている。そのようにして、この方は、ご自分の支配を確立されたのです。
  それは、こういうことです。わたしたちが、最早どうにもならない「かせ」、束縛する「縄目」、その中で、即ち、死を前にして、本当に孤独であるとき、しかし、そこにも、この方の支配は及ぶのです。どのように、死が、わたしに「かせ」をはめ、どれほど、頑丈に「縄」をもって、縛りつけようとも、わたしは、最早独りではないということです。その「かせ」、「縄目」はわたしを縛ったままではないということです。最後に笑うのは死ではなく、この方、そしてこの方と共にいるわたしたちであるということです。それ故、騒ぎ立つことなく、虚しい声をあげることなく、本当に落ち着いている、冷めている、目覚めていることができる。
  何と言っても、この方において、主なる神は、その死に対して笑い、嘲り、憤り、怖れさせ、怒り給うのです。この方をよみがえらせ給うのです。そのようにして、十字架と復活によって、「鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕」き給うのは、わたしたちの「かせ」、「縄目」、死です。それ故、パウロは叫びます、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15章55節)と。
  同じようにこの詩篇は呼かけます、「目覚めよ」と。勝ちどきの声を挙げます、「喜び躍れ」と。わたしたちを今も苦しめる「かせ」、「縄目」、しかし、それは、最早わたしから何も奪うことはないのだから、と。詩編は呼びかけます。目覚めよ、と。それは言い換えれば、こういうことです。自分を苦しめる「かせ」、「縄目」がある、しかし、それらによって決して自分自身を失ってはならないし、またあなたは失うことはないのだ、ということ。それ故、パウロと共にわたしたちもまたこう言うことができるのです、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(フィリピ4章2節)そうです、わたしたちは大胆にこういうことができるのです、自分を苦しめる「かせ」、「縄目」、そして、死!だが、見よ、キリストこそが今やわたしである。わたしが苦しめば苦しむほど、わたしの中のキリストは生きる、生きているのわたしではなく、わたしの中のキリストである!
  みなさん、たとえ、どんなに重い「かせ」、きつい「縄目」を負っても、今日の「主日の黙想」にも書きましたが、不如意、まったく自分の思いどおりにならない中にあってもわたしは自由であるということ。むしろ、「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」とすることは、ただ自分中心・自分だけの世界、他者不在、わたしだけの世界、他者をはずし、隣人を投げ捨てるのです。そうしてわたしどもは、またわたし自身そのものを失っていくのです。わたしを支えるものを。
  確かにみなさんはそれぞれ実際に様々な「かせ」、「縄目」を負って、その中にいます。その中で痛み、時に大きな心の傷を受けているのです。悲しい、つらいことでしょう。しかし、その傷が本当に癒されるには、ただ一つの方法しかありません。それは自分の「かせ」、「縄目」の中で、ただわたし自身は無力になって、他の人の「かせ」、「縄目」を、他者の痛みを、他者の傷を知る、ただそのことを通してのみです。自分の「かせ」、「縄目」の中で、他の人の悲しみに目を向けることのよってのみ、わたしたちのその悲しみ、痛みは癒されていくのです。
  (週報にもお断りしましたが今日は本来「平和の日」としてまもろうとしたのですが)アメリカの平和運動を続けている9・11犠牲者遺族の会「ピースフル・トモロウズ」のディビット・ポトーティさんという方、彼もまたあのビルで肉親を失ったのですが、来日し、各地で講演されました。そのポトーティさんはこういうことを語っているのです。「9・11で死んだ私たちの愛する人々の死は世界で毎日殺されているたくさんの人々の一部に過ぎないと思います。軍隊は私たちを守ってくれない。そうであるなら、私たちはともに生きるしかありません。私たちは『米国は善良で強大な国家だ』という妄想を捨てなければならない。米国人の多くは恐怖に支配されているために、こうした考えに立てませんでした。そしてアフガンへの爆撃を支持し、『愛国法』を支持し、不法なイラク爆撃を支持しました。恐怖と不安による暴力で報復することで、更なる恐怖と不安、暴力を生み出しました。
  しかし、この間、私たちの言葉と思想には力があることも学びました。人間的になることで、弱さをさらけ出し、手を取り合うことで、大きな力が生まれることも知りました。私の母は事件の直後に『息子の死で、私がいま味わっている悲しみを世界の他の人々に決して味あわせたくない』といいました。彼女は世界の人びとの悲しみに目を向けることで、自分の悲しみを癒したのです。この訴えを広げる中で、同じように考えるピースフル・トモロウズの他のメンバーと知り合いました。私たちは、どんなときでも、どんな理由があっても、殺戮はいけないということを学びました。私の国がアフガニスタンやイラクにやっていることはあの国にも、また攻撃した側の米国の兵士にも10年も、20年も後遺症を残します。彼らは怒りを体の中に抱え込んで生きていくのです。
  ・・・テロは本当の問題の現象にすぎません。私たちが本当に闘うべきものはテロではなくて、帝国主義だとか、物質主義だとか、軍事主義、愛国主義、そして自分の命は他のものよりずっと価値があると考えるような思い込み、それらと闘わなくてはなりません。」
  ポトーティさんたちは、いわば自らの「かせ」、「縄目」を負うことで、「人間的になることで、弱さをさらけ出し、手を取り合うこと」によって、共に生きる喜びを得、そしてその喜びを分かち合うために闘っておられるのです。パウロは言います、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテア5章1節)。「軍隊は私たちを守ってくれない」!そうです、力によって自分を失ってはならない。いや、あなたはどんな「かせ」、「縄目」の中にあろうと、自分を失うことはない。自らの「かせ」、「縄目」の中にこそ、主イエス・キリストはおられるからです。

2004年7月25日 聖霊降臨後第8主日 「<だけ>から<も>のわたしへ」

ルカ10章38~42節

 
説教  <だけ>から<も>のわたしへ  大和 淳 師
  今週もルカ福音書の物語の中ではよく知られているマルタとマリアの姉妹の話です。自分の家に来られた主イエスの「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」姉のマルタが、何もせず主イエスの「話に聞き入っていた」マリアに腹を立て、「主よ、わたしの妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」、そう主イエスに訴えた。訴えたと言うより、マルタは明らかに主イエスに対しても腹を立て、非難しているわけですけれど、しかし、主は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とお答えになったという大変短いこの物語ですが、それで、ここで主イエスがおっしゃった「必要なことはただ一つだけ」ということ、これはよく奉仕と御言葉を聞くことを対比して、御言葉を聴くことが無くてはならないことだ、と、イエスはそう言っている、そう解釈される訳です。つまり、主イエスはご自分の「話に聞き入っていた」マリアをかばい「立ち働いていた」マルタを諫めた、そういう風に。でも、ことをそう単純に理解してしまっていいのでしょうか?むしろ、問題は、御言葉を聞くことか、奉仕かということにあるのではなく、ここで大事なのは、何よりマリアに、そして主イエスに対しても不満をぶちまけざる得なかったこのマルタを、主イエスがどう受け止めておられるか、見ていらしたかでしょう。  とは言え、そもそも、10章1節に「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあり、その72人は17節で帰ってきていますから、そうすると、主イエスの一行は少なくとも百人近い人たちがいたことになります。つまり、限度を超えた数の人びとを客として迎え入れたマルタは、決して心の狭い、利己的な人であったので

はありません。わたしは4月に行ったおこなった献堂式のことを想い出します。たくさんの来客をもてなす、迎えるために婦人会の方々が、まことに、まさに「せわしく立ち働いて」いました。そうした苦労を、また奉仕を主イエスがお分かりにならない、お認めにならないでしょうか。ところが、マルタは、「接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った」(口語訳)、、マルタは忙しさに心をとりみだしてしまった訳です。
  それで、あらためて、このマルタの言っていることをみますと、彼女は「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。」、まず、そう主イエスを非難するのですが、ここで「わたしだけにもてなしさせて」と<わたしだけ>と言う訳です。
  それで、この<わたしだけ>、これは等しくわたしたち一人ひとりにもあることではないでしょうか。わたしだけ、わたしひとりがやっている、わたしひとりだけにやらせておいて、あの人は、この人は・・・・・、家庭の中で、仕事場や、学校で、そして教会の中で、そう思って憤ってしまう。しかし、そもそもそういうわたしどもがしている奉仕、働き、それは、わたしどもが最初はほとんど<わたしも>したい、させて欲しい、そういう思いではじめるわけです。わたしも何かしたい、わたしもできることがあれば、と。マルタも、<わたしも>主イエスや、その一行のためにもてなしたい、そういう思いで働き始めたのでしょう。しかし、まことにせわしく立ち働くうち、何で<わたしだけ>が、そうなってしまう。<も>から<だけ>に<わたし>がなってしまう。もっと正確に言えば、<わたしも>したいから、<わたしが>した、している、そうしてこの<わたしだけ>となってしまう、そういうこと。
 
  それで、ちょっと横道にそれることになりますが、旧約聖書の列王記上19章にこういうことが記されています。そこは、預言者エリヤの異教バアルの預言者たちとのすざましい最後の戦いが記されているのですが、異教バアルの預言者をことごとくやっつけたエリヤは、しかし、そのバアル神を信じるイスラエルの王アハブの妻イゼベルの怒りに触れて、荒野に、そして山の中にひとり逃げ込みます。そうして、エリヤは精根尽き果ててしまうのですが、そのとき、主なる神が「エリヤよ、ここで何をしているのか」(列王上19章9節)、そう彼に問いかけた。そして、エリヤはこう答えるのです。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」(〃10節)。つまりエリヤもそこで「わたし一人だけが」と、<わたしだけ>しかいない、と言ったというのです。確かに彼はただ一人と言っていい、孤独の戦いをしてきたのです。たとえば、列王記上18章22節には、「エリヤは更に民に向かって言った。『私はただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる・・・・』」と、そう言っています。エリヤはまさにそういう戦いを生涯してきた人でした。しかし、ここでそのさしものエリヤも遂に疲れ果て「・・・自分の命が絶えるのを願って言った。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。』」(列王上19章4節)、そう言うのです。
  しかし、そのエリヤに対する神の答えはいささか厳しいのです。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と。神は、お前一人ではない、わたしは七千人も残してある、と言うのです。それはこういうことです、エリヤよ、おまえはそういうが、おまえは七千分の一だ、と。これはある意味で厳しい言葉です。つまり、あなたはその七千分の一に過ぎないのだということになります。しかし、けれども、それは本当は真に神のユーモアに満ちた、エリヤへの励まし、慰めの言葉なのです。と言うのは、聖書の七は完全数で、また千という数は膨大な数を象徴するのですが、そして、その後、列王記には、いよいよそのような七千人が実際に登場したという訳でもないので、それは完全なる圧倒的多数が働く、したがって七千とは、途方もない膨大な力という意味ですから、この七千とは、まさしく神の力に他ならない、したがって、お前はわたしの七千分の一に過ぎないという以上に、エリヤは確かに七千分の一という圧倒的小さき、いわば七千からみれば取るに足らないような存在である、しかし、そのエリヤが小さければ小さいほど、しかし、あなたは七千分の一、その神の圧倒的力の中の一、その神の力の中の一人だ、あなたはあなたの七千倍の力の中にあるということです。それ故、エリヤ ― そこで「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と絶望しきっていたそのエリヤは、再びそこから立ち上がるのです。一人最後の戦いに出ていきます。彼は本当に、この主の言葉によって、ひとりに立てた。七千分の一、神の七千と共にある一として立っていったわけです。
 
  さて、今日の福音書に戻りますが、「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。・・・・」(41節)。イエスは、そうマルタに呼びかけています。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と。つまり、それはこういうことです。マルタよ、おまえは<わたしだけ>というが、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱しているに過ぎないのだ。おまえ自身を失っている。たったひとり、ただ一つの自分を受け入れられなくなっている」と。そして「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(42節)。この「必要なことはただ一つだけ」と主イエスがおっしゃている。それは、必要なものはただ一つ、失ってはならないただ一つのこととは、それはマリアから取り上げてはならないように、マルタよ、それはあなたも失ってはならないあなた自身なのだ、ということではないでしょうか。あのエリヤの七千分の一のその一であるということ。神、主のみ前でその一である「汝自身であれ」「あなたはあなたであれ」と。
  そして、この「マリアは良い方を選んだ」は、「マリアは」自分にとって、彼女にとって「良い方を選んだ」ということです。イエスは、マルタにそう語りかけている。マリアはマリア、あなたはあなた、かけがえのないあなたなのだ、と。イエスは、もてなし、奉仕に追われているマルタをしっかりと見ておられるのです。つまり、あのエリヤへの七千分の一というように、何よりこの方イエス・キリストが、わたしの七千なのです。<わたしだけ>ではない、<わたしも>なのです。
  だから、奉仕より御言葉だ、と主イエスはおっしゃっていない。つまり、どっちが大事かという問題ではないのです。あなた<も>このイエス、主と共にある。それは言い換えれば、わたしたちが日々選び取ること、わたしがなす一つのこと、わたしたちはいつも一つしかなし得ない。しかし、それはいつも神の七千分の一、そうたった七千分の一、でも神さまの七千分の一なのです。決して<わたしだけ>、<だけ>なのではない。そこから御言葉を聞くことも、奉仕、活動も生まれるのです。だから、むしろ、この主イエスのおっしゃっていることから言えば、マリアとマルタに優秀をつけるな!自分と他者を比べるな。他者を自分と比べるな。主イエスの前であなたはあなたであれ!あなたはわたしの七千分の一だ、ということ。わたし<も>七千分の一!
  だから、まことにわたし一人、そういときもある。誰からも顧みられないわたしであり続けなければならないときもあるのです。たとえそうであっても、あなたは、いえあなたも主の七千分の一なのです。何故なら、実際、このマリアもやがて御言葉を聞けない日が来るのです。マルタももてなしが出来ない日が来るのです。二人はどうしようもなくさめざめとその下、十字架の下で泣かなければならない日が来る。もう来ているのです。そのとき、この方、主イエスは弟子たちにこう言われたことを、ヨハネ福音書は記しています、「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(ヨハネ16章32節)。主イエスは「あなたがたが<わたしだけ>にする時が来る。いや、既に来ている」と端的にそう言われます。それは、まさに弟子たち自身が、<わたしだけ>、自分だけ、そのような姿をさらした時ではないでしょうか。それは、またこのマルタが<わたしだけ>、そう言う人間になった時なのです。しかし、それは何より、主イエス・キリストご自身をわたし<だけ>に、「あなたがたが<わたしだけ>にする」のです。しかし、このお方はその中で、何よりご自身この<わたしも>に、神さまの七千分の一になられ給うのです。
  それ故、「しかし、必要なことはただ一つだけである」、それは御言葉を聞くことか、奉仕か、そのように主イエスは問うているのではないのです。あるいは、マルタを否定しているのではないのです。むしろ、マルタを積極的に肯定しているのです。あのエリヤへの神さまの答えのように。マリア<だけ>、マルタ<だけ>でない。マリア<も>、マルタ<も>なのです。多くの人が、ここで、この物語を読むと忘れてしまうことがあります。気づかずに思ってしまうことがあります。それはマリア<だけ>があたかも主イエスのみ言葉に耳を傾けたかのように考えるのです。しかし、マルタ<も>その奉仕のただ中で、主イエスのこのお言葉を聞いているのです。「マルタよ、マルタよ」(ただ一回マルタよ、ではなく、二度彼女に呼びかけている ― それはすでに、主イエスがマルタに対してどんなにいたわっておられたか、そして、決して彼女を忘れ去ったり、ないがしろにしていなかったことを物語っています)、そのように呼びかけられているのです。マリア<も>マルタ<も>、主イエスのもとにいるのです。
  あるいは、こう言えるかも知れません。マリアのように主イエスのみ言葉に耳を傾ける時がわたしにも、<わたしも>あるのです。必要なのです。礼拝です。「主の足もとに座って、その話に聞き入」る必要がある<わたしも>あるのです。だが、「せわしく立ち働」くことが必要な<わたしも>あるのです。キリストは、そのように常にわたしの<も>になってくださる、そう言っていいでしょう。つまり、わたしが、いや<わたしも>常に神さまの七千分の一であるということは、つまり、決して、<わたしだけ>になさらないということは、一切は必要なこととして、神さまがお与えになってくださるということです。そのことをパウロはもっと端的にこのように言います、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8章28節)と。「万事が益となるように共に働く」 ― そのために主イエスは立っておられ、何より働いて、あなたにも仕えてくださったのです。
  あなたも<わたしだけ>人間になっていませんか?いえ、<わたしだけ>、これが絶えず、わたしたちを孤独にし、あたかも自分のしていること、いえ、自分自身が無意味であるかのようにするのです。しかし、<わたしも>、そうあなたも、主イエスはそのようにわたしを支え、導いてくださるのです。<わたしだけ>人間になることは寂しい、いや辛いことです。マルタも<わたしだけ>と言いつつ、しかし、心の奥底では<わたしも>と叫んでいたのです。その叫びを聴いてくださる神、主イエス。だから、主イエスは決して、マルタを心の狭い人間だ、と決めつけたり、たしなめたりはなさらないのです。誰でも<わたしだけ>、この<だけ>にとりつかれる、自分を失うときがある。わたしどももつい忙しい、あるいは一度にあれもこれもしなくてはならない、そう考えると、何で<わたしだけ>、なんであの人はしないの、そうなってしまう。でも主イエスは、そんなわたしどもに、お前は心の狭い人間だ、駄目な人間だと言われるのではなく、そんなわたしたちに、あなたに<も>がある、そう言ってくださる。<わたしも>であり続けること、どんな小さなこと、いや、何もなし得ないときでも、<わたしも>がわたしにある。こんなわたしに<も>なし得ることがある、<わたしも>としてくださる。そして、それは言うまでもなく、たとえわたしの眼にどのように映ろうともあの人に<も>、この人<も>であるということ。だから、いつもあの人に、この人に<あなたも>と語りかけること。それはどんなにわたしの生活を、その一つひとつを豊にすることでしょうか。この神さまの、主イエスの<も>を携えていきましょう。そして、あなた<も>、と出会う人に、この神さまの<も>を伝えていきましょう。

2004年7月18日 聖霊降臨後第7主日 「先立つのは愛」

ルカ10章25~37節
大和 淳 師

この「よきサマリア人の譬」は、イエスさまの譬えの中でよく知られた譬えのひとつですが、一人の「ある律法の専門家」がイエスに質問したことから、今日の譬は始まっています。この人は「イエスを試そう」とした。その「イエスを試そう」とした、ということが、既にこの人が、その律法・聖書をどのように受け止めていたのかを告げています。彼は「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と、「永遠の命を受けるために何をすべきか」と問います。ところが、主イエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と、逆に問い返された。そして、「彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」しかし、それに対して、「イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる』」、そうお答えになる。ここで共同訳聖書では「そうすれば命が得られる」、そう訳されています。しかし、これは、原文を直訳すると、「適切にあなたは答えた。それを実行しなさい、そうすればあなたは生きるであろう(実際、英訳聖書では”You have answered correctly; DO THIS AND YOU WILL LIVE.”)」となります。つまり、この人は、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いましたが、イエスはそれに対して、「それを行えば、永遠の命を受ける」と言うよりも「そうすれば、生きるであろう」、まるで、今主イエスの目の前にいるその人が死にかかっている病人であるかのように、つまり、この譬の中の「追いはぎ」に出会って「半殺し」にされた人であるのように、そう言われるのです。ともかく、この「生きる」、生きるため、イエスの語り給うことは、そこに向けられています。

さて、そのように主イエスに言われて、この人は、「彼は自分を正当化しようと」、「では、わたしの隣人とはだれですか」と再び問います。隣人を愛する、それが実に正しい答えだと、彼は主イエスにそう評価してもらったわけですが、ともかくそれで彼は喜べなかった。尚彼は問わねばなりませんでした、「わたしの隣人とはだれですか」と。主イエスは無条件で、彼の答えを正しいとし、無条件でそれを行え、と言ったからです。彼は主イエスによって根本から揺り動かされます。それ故、彼は言うのです、人間の愛には限度、限界がある、いや、限界をひかねばならない。「イエスよ、そうは言っても、隣人を愛するということにも限度・限界はあるでしょう?」、イエスの前で、彼はそう自分を正当化しようとするのです。イエスは、その彼を見つめておられます。
それで、ここで全く正面から語られてないことがあります。最初に主イエスに、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問われて、この人は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」(27節)と、神を愛すること、そして隣人を愛すること、この二つのことが最も大事なことなのだ、ということを答えたわけです。そうして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と再び問うのですけれど、しかし、彼にとって、第一のこと、神を愛することは問題にならず、ただ、第二のこと、隣人を愛することだけを問題とするわけです。つまり、「では、わたしの神とはだれですか」とは問わない。それは分かりきったことだったからと言えば、そうかも知れません。でも「では、神を愛するとはどういうことですか」、本当は、このことは決して分かりきったことではない。むしろ、この人は本当には神を愛することが分かっていない。いや実は、彼は神を知らない、「神を愛する」ことを欠いている人間なのだ、福音書はそれを描いている。だから、真っ先に「では、わたしの隣人とはだれですか」と問うのだ、と。何故なら「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」 (1ヨハネ4章8節)。つまり、「自分を正当化しようとして・・・・」という、このことが、実は、「神を愛する」ことを欠いている人間であることのしるしである、と言っていいでしょう。「神を愛する」ことを欠いているが故に「自分を正当化しようと」する人間なのです。
それで、このイエスの前で、自分を正当化しようとする人間、それはまた生身のわたしたちであると言えるかもしれません。わたしたちが、隣人を愛せない、なかなか愛せない、そう思っている、それは自分を正当化する、そのことに関わっていると言っていいでしょう。つまり、これで結構人前では隣人を愛する、そういうこともする人間である。困った人を助けたり、配慮する、そういうこともできる人間、そんな風に自分を正当化している、英語では、この言葉はjustify himselfと訳されているように、自分で自分を正しいとする、義とする、そう言う言葉ですけれど、もっと砕けて言えば、自分で自分を良い人間とする、そういうことだと言っていいでしょう。これで自分は結構良い人間なのだ、そう自分で思っている、あるいはそうふるまうこと。それ自体、別にそれほど罪なことではない、大した問題ではないように思えるかも知れません。けれど、先ほど述べた神を知らない、「神を愛する」ことを欠いている、そのとき、この自分を正当化することが起こる。そして、それはあなたは気づいていないけれど、実に本当は深刻な事態なんだということ、それが明らかにされていきます。何故なら、自己正当化は、結局自分が傷つくことを恐れている、そんなことをしたら「生きられない」、そう思うからです。失われることを恐れる人間、だが主は言われます、あなたは生きる!
そもそもこの物語が、どういう背景にあるのか、はっきりしませんが、いろんな人がいる前で、この人はイエスに問いかけたのだろうと思います。つまり人前で、神ではなく、あの人、この人の前で良く思われたい、そういうことで、結構人間は一生懸命になれる。人に良く思われたい、そう言う一心で、結構これで人間は人に親切になれる。でも「誰も見ていないところではどうなのか」、つまり、神のみが見ておられる、隠されたところを見ておられる神。イエスのこの話は実はそこに向けられているものなのです。つまり、「神を愛する」、そのことが問われる場所を示すのです。
つまり、まさに一対一で、誰も見ていない、そう言う意味では、この祭司やレビ人のように、傷ついた人を見て、まさに「道の向こう側を通って行った」、通り過ぎていくことができる場所、そういうところです。この「エルサレムからエリコへ下って行く」道というのは、その間にはワデ・ケルトの峡谷があり、大変険しく、また人通りのない寂しい道なので、そういう道ですから、実際しばしば強盗も出没したと言います。ともかく、そういうところでは見て見ぬふりをしても、相手も気づかないし、誰にも分からない、まさにそういうところで、のことです。更には、彼らが祭司やレビ人であったということは、たとえば、彼らは神殿に仕える者として、レビ記21章1節の戒めにあるのですが、死人に触れて身を汚してはならないという掟もあったのですから、それを理由にして、「道の向こう側を通って」行った、そう抗弁することもできるのです。そういう風に、誰も見ていないところで、誰も見ていないと思うからこそ、自分で自分を正当化し得る、していく。つまり、人間いくらでも言い訳、自己正当化できるのです、神をぬきにすれば。この「道の向こう側を通って行った」、祭司もレビ人にも、「道の向こう側を通って行った」、としつこいように繰り返されています。何より、それは、あの「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、その神への愛を避けて通っていく道、神を通り過ごしていく道なのです。それが「自己正当化」の道なのです。
それでこのサマリア人について見てみましょう。ここで主イエスは非常に具体的に事細かにサマリア人がしたことを描いています。それは確かに、隣人愛そのものの行為です。しかし、それは何より、あの「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」を思わせます。サマリア人は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして」、この追いはぎにあって死にかかった人を助けるのです。更にもう一つ大事なのは、このサマリヤ人は、宿屋の主人にお金を渡してこう言っていることです。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」つまり、このサマリヤ人は、彼が癒えるまで、自分の仕事を放り出して、つきっきりで看病したと言うのではないのです。彼は、むしろ翌日、自分の仕事、商いに戻っていきます。彼はただなし得ることをなし得るままにしたに過ぎないのです。「隣人を自分のように愛する」、つまり、わたしたちが、この自分を離れて、なくして、いわば神のごとくなって、今より向上した人間になって愛するのではないのです。まさに「自分のように」、この不完全なわたし、この「自分のように」、したがって、わたしがわたしであるがままに、この限界そのものの中でなすことなのです。完全な愛、完璧な愛が要求されているのではないのです。だから、その限界のある「自分のように」であることを正当化する必要はないのです。
ですから、大事なことはただ一つです、「道の向こう側を通って」行かない、ただそれだけです。わたしどもは、このサマリア人の至りつくせりの行為に眼を止めてしまいます。そうして、「行って、あなたも同じようにしなさい。」というイエスさまのお言葉にひるむ、自責の念にかられていくのです。しかし、先に見たように、その彼も、自分のなしえることをしたに過ぎないのです。「あなたも同じように」、というそれは、「道の向こう側を」通り過ぎない、ただそのことだけ、「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると・・・・・」、傍に寄ったことだけです。そして、彼は寄り添えるだけ、その人に寄り添ったのです。もちろん、傍を通り過ぎない、そのことも決して簡単なことではないかも知れません。なぜなら、人間は本来、自己中心的に、自己正当化して生きようとするものだからです。愛とは、自分が求めているものを、あえて相手に差し出すことです。
ここでふと気づいたことがあります。「行って、あなたも同じようにしなさい。」というこの主イエスの言葉を、わたしは何の疑問もなく、あなたも行って、このサマリア人と同じようにしなさい、ただそのようにだけ理解していました。もちろん、それが第一の意味であると言っていい。でも、あえて、ここで<サマリア人と同じように>と言わずに、ただ「同じように」と、そうおっしゃっている。そこには、そのように傷つくことを恐れているわたしたちに、あえて、傷つくことを恐れるな、あなたは何も失われない、あなたは生きるだろう、そのような招きが含まれているのではないか。傷つくわたしたちを待っているのは、恐ろしい孤独ではない、わたしたちは傷ついたら見捨てられてしまうのではなく、そこでこそ、わたしたちは真のよきサマリア人に出会う、わたしに寄り添い、傷を癒し、手厚く包帯を巻いてくるサマリア人、すなわち、主イエス・キリストと出会うのだ、そういうことではないか、と。すなわち、あなたは生きる!主はそう言われ給うのです。それは、だから、あなたはわたしと共に生きる!そういうことです。
それで、最初に、主イエスに質問した「ある律法の専門家」は、神を愛すること、そして隣人を愛すること、この二つのことが最も大事なことなのだ、ということを言い、それに対して、主イエスは「適切にあなたは答えた。それを実行しなさい、そうすればあなたは生きるであろう」、そう言われた。けれども、この人は「神を愛する」ことを欠いて「では、わたしの隣人とはだれですか」と問うたということをお話ししました。ここで、この何よりその「神を愛する」、そのことが語られてくるのです。
それは何よりこのサマリア人を通して示されます。先も言いましたように、このサマリア人は、傷ついた人に何も言わず、後は宿屋の主人に託して去っていきます。自分がこの人を救うのだ、救わなければならない、そういうことから自由なのです。ただなし得ることをした上で、誰にもありがとうを言われることなく、自分の仕事に帰って行く。委ねていく。自己正当化することなく、まるで後は神に委ねるように、自分のなし得ること、自分の限界に留まる。そこに神を愛する姿がある。いや、本当にそこで、一対一で神さまに愛されている、支えられているからです。ここでもう一度、今日第一朗読で読んだ申命記の言葉に耳を傾けたいのです。「それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30章12-14節)
だから、この主イエスの招きを心に留めてここから出て行きましょう。「行って、あなたも同じようにしなさい。傷つくことをもう恐れなくてもよい。あなたは何も失われない、あなたは生きるだろう!」