2011年10月30日 聖霊降臨後第20主日 「皇帝への税金」

マタイによる福音書22章15〜22節
説教:高野 公雄 牧師

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

マタイによる福音書22章15〜22節


今週の説教録については、「説教録の体裁」と「教会暦の名称」についておことわりすることがあります。
第一点は「体裁」についてです。今週は「説教」に代えて、礼拝で朗読した福音書の個所の「解説」を高野牧師が書くことにしました。次のような事情によります。
10月の最後の日曜日は、宗教改革を記念する恒例の行事として、日本ルーテル教団を形成している都内の六つの教会による合同礼拝が行われます。今年は、高野牧師も司式の補助を務めました。しかし、六本木教会でも礼拝を行なって欲しいという希望があり、安藤政泰先生に司式と説教を引き受けていただきました。安藤先生はアメリカで開かれた被災者支援に携わるルーテル教会の国際会議から戻ったばかりの多忙の身であり、説教録を書いていただくのははばかられました。
第二点は、「暦名」についてです。六本木教会でも「宗教改革主日」として礼拝を守りましたが、この説教録では「聖霊降臨後第20主日」としました。これは安藤先生と相談して決めたのですが、礼拝で朗読した聖書個所は先週の教会の暦に続く聖霊降臨後第20主日に配分されている個所を選んだからです。その理由ですが、一方で「宗教改革主日」の朗読個所は毎年同じ個所をくりかえし読んでいることと、他方で「宗教改革主日」と次週の「全聖徒主日」に指定の個所を読むと、今まで読み継いできた福音書の物語が途切れてしまいます。それで、マタイ福音の続きを読むことにしました。私は、この解説ではとくに宗教改革に触れないことにしました。

マタイはファリサイ派に偽善者と呼びかけるのが好きで、次の23章では6回もこの言葉を使っています。「偽善者」とは、もともと演劇用語で「役者」を意味したのですが、マタイ15章7~8では《偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』」》とあります。マタイはたんなる偽善を言っているのではなく、神から離れた者を指して偽善者と言っているのです。
ファリサイ派の人々は、《皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか》と問います。イエスさまが納税に反対するならば、彼らはイエスさまを皇帝に逆らう者としてピラトのもとに告発することができます。納税を支持すれば、イエスさまは一般大衆の支持を失うことになるでしょう。ユダヤ人大衆にとってローマへの納税は、単なる経済的負担ということだけでなく、失われた自由の象徴として嫌悪の対象であったのです。

このように、この問いは相当に政治的な意図をもっているのですけれども、「律法に適っているでしょうか」と宗教的な用語を用いて迫ってきます。ところがイエスさまは、律法問題として論じてわなにかかる代わりに、ローマの通貨を示すよう求め、《これは、だれの肖像と銘か》と尋ねます。この通貨の表には皇帝の顔が浮き彫りされており、裏には「ティベリウス・カエサル(皇帝)、神聖なるアウグストゥスの子、最高の大祭司」、つまり異教のローマの宗教の大祭司とする銘が刻まれていたと言われます。税金はローマの通貨で支払うことになっているのですが、偶像が刻まれているその通貨をユダヤ人たちは神殿においてさえも使っていることをイエスさまはご存じだったのです。

《では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい》、こうイエスさまは答えます。これはどういう意味でしょうか。さまざまな解釈が可能性ですが、「イエスさまは政治と宗教の領域を分け、政治問題には関わらないようにされた」というのもその一つです。しかし、「政治の領域」と「宗教の領域」を分ける考え方は近代になってから現れたものであって、それ以前は、人間の現実すべてが神との関係の中にあると考えるのが当然でした。現代の教会も、人間の現実には何一つわたしたちの信仰と関係ないものはないと考えています。
つまり、異邦人の王でさえ、神から許可を得てはじめてイスラエルに権力を及ぼすことができた。皇帝の支配も神の意志によるのだから、税金を払うこともあるでしょうが、神が民を解放することを望まれるときには、皇帝の権力はなんの役にも立たなくなる、と言っているかのようです。
納税だけが問題なら、前半の《皇帝のものは皇帝に》だけで十分です。後半の言い足し《神のものは神に返しなさい》にイエスさまのねらいがあります。もしも「皇帝のものは皇帝に」とだけ言ったのであれば、単純に皇帝への納税を認めただけのことです。しかし「神のものは神に」と付け加えることによって、イエスさまはもっと根本的なことに人々の目を向けさせているに違いありません。

ところで、皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨は、皇帝のものと考えられていました。では神の像はどこに刻まれているのでしょうか。それは一人一人の「人間」だという考え方があります。2世紀の神学者テルトゥリアヌスは、人間を「神の硬貨」と言って以来の解釈です。創世記1章27に《神は御自分にかたどって人を創造された》とあり、エレミヤ31章33に《わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す》とあります。つまり、イエスさまは「皇帝の像が刻まれた硬貨は皇帝に返せばよい。しかし、神の像が刻まれた人間は神のものであり、神以外の何者にも冒されてはならない」と言っているのではないでしょうか。《神のものは神に》。あなたは何が神のもので、何を神に返すべきだと思っているのか。イエスさまは私たち一人ひとりにそう問いかけているのではないでしょうか。

2011年10月23日 聖霊降臨後第19主日 「婚宴のたとえ」

マタイによる福音書22章1〜14節
説教:高野 公雄 牧師

イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

マタイによる福音書22章1〜14節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

《イエスは、また、たとえを用いて語られた》とあるように、きょうの福音「婚宴のたとえ」は、21章の「二人の息子のたとえ」(28~32節)と「ぶどう園と農夫のたとえ」(33~43節)と三つ組をなすたとえ話です。
マタイは21章からイエスさまの最後の一週間を描き始めます。この一週間は、聖週 holy week または受難週 passion week と呼ばれます。まず「エルサレムに迎えられる」(1~11節)でイエスさま一行が日曜日にエルサレムに到着した模様が描かれます。月曜日にはイエスさまはふたたび神殿に出向き、「神殿から商人を追い出す」(12~17節)事件を引き起こします。この出来事はふつう「宮清め」といいます。事件翌日の火曜日に三度神殿に上ると、エルサレムの指導層の人々が「権威についての問答」(23~27節)を仕掛けるのですが、それに対するイエスさまの応答が、これら三つのたとえでした。

《天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった》。
長い引用になりましたが、これがきょうのたとえ話の本体でして、たとえ、すなわち比喩を用いて「神の救いの歴史」を語っています。王は神を、王子はキリストを、王子のための婚宴とはキリストと共に連なる晩餐会つまり「救い」を表しています。招待客たちを招くために遣わされたしもべたちは、最初が旧約の預言者たち、次がキリスト教の宣教師たちです。前もって招かれていた人たちとは、イスラエルの人々、とくにもその指導者たちのことでしょう。彼らは《来ようとはしなかった》(3節)のですが、いろいろ言い訳するだけではなく、彼らは王の招きを伝えに来たしもべたちに乱暴して殺してしまいます(6節)。婚宴への招待を断るために、そこまでするのは異常です。しかし実際に、彼らはその昔、預言者たちの言うことを聞き入れず、殺しました。そしてマタイの当時にもまた、彼らはキリスト教の宣教者たちの証しを受け入れず、旧約の預言者たちやイエスさまにしたと同じように、殺しました。そこで、王は軍隊を送って、反逆者たちの町を焼き払ったというのです(8節)。これではもう婚宴のたとえはすっかり壊れてしまいますが、これは、マタイがたとえ話の中に現実の歴史的出来事を織り込んだことによります。この描写は、ローマ人による紀元70年のエルサレム破壊のことを言っているのです。キリスト信徒たちはこの神殿崩壊を、イスラエルがイエスさまとその福音を拒絶したことに対して神がイスラエルに下した罰であった、と見なしていたのです。そして《招いておいた人々は、ふさわしくなかった》ので、こんどは《善人も悪人も皆》招待された(8~9節)というのは、教会がユダヤ人伝道から異邦人伝道へと対象を切り替えたことを示しています。
なお、《食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください》という招きの言葉は、キリストが犠牲の子羊として屠られたこと(すなわち十字架の死)によって私たちの救いのための業が神の側によって完全に成し遂げられたこと、したがって私たち人間の側のなすべきことは、ただ信仰によって救いへの招きを自分のものとして受け取るだけであることを暗示しています。

《王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない》。
この部分(11~14節)は、マタイによる付け足しです。付け足しと言っても、マタイにしてみればこの部分をこそ強調したかったのです。最初に招かれていたユダヤ人がふさわしくなかったので見捨てられ、代わりにキリスト信徒が招かれるようになったというだけでは、マタイは話を終わりにしたくなかったのです。キリスト信徒の中にもふさわしくない人がいるからです。
王のしもべたちは大通りに出て行って、《見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった》のでした。この人たちが披露宴の席に着くと、いよいよ王のお出ましになるのですが、王は町の大通りからたまたま連れてこられた人を《どうして礼服を着ないでここに入って来たのか》と責めて、《この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ》と命じます。これはどう考えても不自然です。不自然ですけれど、これは普通の物語ではなく、比喩的なたとえ話ですから、仕方ありません。
このたとえで王のしもべたちが善人も悪人も集めているのは、マタイの教会についての見方が反映しています。教会とは「良い麦と毒麦」が共存している場(マタイ13章24~30)であり、「良い魚と腐った魚が集められる大きな網」(13章47~50)なのです。ですから、マタイにとって「罪びとも招かれている」ということもちろん素晴らしいことなのですが、同時に「この素晴らしい招きにいかにふさわしく応えるか」ということも、決して忘れてはならないもう一つの大きなテーマなのです。マタイは私たちに、キリスト信徒も最後の審判から決して除外されることはないと警告しているのです。
教会にはだれでも入れます。けれども、「王子の婚宴」とは、教会のことではなくて、来たるべき時代のことです。そこで求められている「礼服」とは、「義」すなわちイエスさまの教えに一致した振る舞いのことだと考えられます。マタイはイエスさまの最後の説教の中でそのことをはっきりと示しています。《さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ》(マタイ25章35~36)。《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》(マタイ25章40)。

きょうの福音の最後の言葉《招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない》は、救われる者の確率が小さいということを言おうとしているのではありません。そうではなくて、私たちがキリスト信徒としてふさわしい生活を送るために、生き生きと努力するよう励ましているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年10月16日 聖霊降臨後第18主日 「ぶどう園のたとえ」

マタイによる福音書21章33〜44節
説教:高野 公雄 牧師

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

マタイによる福音書21章33〜44節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音「ぶどう園の農夫のたとえ」は、《もう一つのたとえを聞きなさい》というイエスさまの言葉で始まります。このたとえがどんな状況で何のために話されたかということを、最初に見ておきましょう。
マタイは21章からイエスさまの最後の一週間を描きます。まず「エルサレムに迎えられる」(1~11節)で、日曜日にイエスさま一行がエルサレムに到着したことが告げられます。月曜日にはイエスさまは「神殿か商人を追い出す」(12~17節)事件を引き起こします。そして事件翌日の火曜日、エルサレムの指導層の人々はイエスさまと「権威についての問答」(23~27節)を闘わします。それに対して、イエスさまは三つのたとえ話でもって答えます。「二人の息子のたとえ」(28~32節)と、きょうの福音である「ぶどう園の農夫のたとえ」(33~43節)と、「婚宴のたとえ」(22章1~14)です。

イエスさま当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマの貴族ピラトが総督(現地の支配者)として派遣されていました。しかし国内問題については、ユダヤ人による70人の議員からなる最高法院(つまり国会)が認められていました。その最高位(つまり首相)が大祭司です。その下に10人程度の祭司長(つまり大臣)がおり、その他に60人ほどの議員(つまり国会議員)がいました。それが、民の長老たちと律法学者たちです。23節に《祭司長や民の長老たち》とあり、45節に《祭司長たちやファリサイ派の人々》とありますが、彼ら最高法院の議員こそが宗教の権威だったのであり、彼らはイエスさまの権威について尋問するのです。イエスさまはたとえ話によって彼らと対決します。

《ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。》
この言葉は、主人(神)がすべてを配慮し、はじめから整えてくださっていたことを示しています。また、主人が旅に出るというのは、その人は地方に広大な農地をもつ不在地主であって、普段は都エルサレムに住んでいるという当時の状況を想像させます。25章に出てくる有名な「タラントンのたとえ」でも、主人は僕たちそれぞれにタラントンを預けて、旅に出ます。これは、聖書特有の考え方を表しています。つまり、この世は、人の目には、神なしに、人間の力と思いで動いているように見えますが、実は神からゆだねられた世界であって、神に守られているのであり、やがて精算を迫られる日が来るように、世界は、神の前にその歩みの責任を問われる日が必ず来る。そういう考え方にもとづくたとえ話です。

《さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。》
このたとえを寓話として読むと、家の主人は神を、ふどう園はイスラエル民を、農夫たちはイスラエルの宗教指導者を、僕たちは神が遣わした預言者たちを、息子はメシアであるイエスさまを表していると理解できるでしょう。
主人が長い間不在であったために、農夫たちはいつの間にか、主人から与えられたものを自分の力で得たもののように思い、主人からゆだねられ、管理をまかされたものを、自分の所有物だと思い違いをして、収穫の分け前を受け取りに来る主人の僕や息子のことを、自分たちの物を奪いに来る者としか思えなくなったのでしょう。それは、私たちにとっても他人事ではありません。私たちが「神から貸し与えられたもの」「管理をゆだねられたもの」とは、地球の資源や環境、それに自分のお金や持ち物、力や才能、地位や立場などが考えられます。それらは皆、神が私たちにゆだねたものです。それを私たち人間は、自分勝手に使ってよいものと思い込んでしまっているのではないでしょうか。
でも、神はこの世を長い間、黙って放置していたのではありません。次々と預言者を遣わして、民に神さまのみ心を伝えようとしています。ところが、イスラエルの民も指導者たちも預言者の言葉をうるさがり、迫害し、殺したりもしました。洗礼者ヨハネもそのような迫害のすえに殺されました。そこで神は最後の手段として、人々の間にご自分の一人息子イエスさまを遣わします。彼らはその方をも殺してしまいます。
《さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう》、農夫たちはそう言いますが、当時の法律では、遺産の相続者がいない土地は小作人が受け継ぐことができたそうです。イエスさまがエルサレム城外のゴルゴタの丘で処刑されるようになることを暗示します。

しかし、旧約聖書に《家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える》(詩編118編22~23)と書かれている通り、《家を建てる者》すなわち当時の権威である最高法院の議員たちに捨てられた(捨てられようとしている)イエスさまは、まさに捨てられることにより、すなわち十字架の死と復活を通して、私たち人類の救いの礎となってくださったのです。イエスさまは人に捨てられましたが、神に選ばれました。それはまことに《これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える》ことでした。
イエスさまが隅の親石となられたとは、イエスさまの十字架の死が人類の救いのための贖罪死であったのであり、その救いを信じる者は、その行為や善行によってではなく、イエスさまの恵みと愛を受け入れる信仰によって救われるということを意味しています。イスラエル人であっても、異邦人であっても、ただ神を信じる信仰によって、すべて神の国に入れられるのです。イエスさまこそが、救いの土台であり、教会の土台であり、私たちの信仰生活の土台です。時代が変わり、価値観がゆれ動き、なにが確かなものなのか迷いますが、イエスさまは私たちのゆるぎない土台です。

このようなイエスさまの主張は、エルサレムの権威たちに対する真向からの挑戦であり、否定です。彼らとその指導に従う民衆によるイエスさまの受難は避けられないものとなりました。彼らの反応は間違っています。《だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる》(43節)と、彼らは断罪されます。そして、神の国はイエスさまを信じる者たちに与えられると約束されます。しかし同時に、イエスさまを信じる者たちには《ふさわしい実を結ぶ》ことが求められています。私たちは本当に実をつけていますか、と問われてもいるのです。イエスさまというゆるぎない土台の上にしっかり立って生きる者でありたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年10月9日 聖霊降臨後第17主日 「報酬と恩恵」

マタイによる福音書20章1〜16節
説教:高野 公雄 牧師

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
マタイによる福音書20章1〜16節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

きょうの福音の「ぶどう園の労働者のたとえ」は、マタイ福音書だけが伝えるマタイの特ダネ記事ですが、マタイはこのたとえをお気に入りの言葉《しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。(19章30)と《このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》(20章16)とで囲むことによって、マタイ福音の基調に則った意味合いを持たせました。そこで、私たちはまず、たとえそれ自体が何を述べているかを読み、その後でマタイがそれによって何を言おうとしているのかを考えることにしましょう。

《天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った》。
この7節までがたとえ話の場面設定です。パレスチナ地方のぶどう園では、収穫は霜の降りる前に終わらせなければならないので、一週間くらいで、一挙にすべてのぶどうの実を収穫するのだそうです。それで、この時期だけ大勢の日雇い労働者を必要としたのです。主人は、夜明けつまり午前6時ころ、続いて午前9時ころ、正午ころ、午後3時ころ、午後5時ころと、五回も広場に出かけています。12節に《最後に来た連中は、一時間しか働きませんでした》とありますから、仕事を終えた夕方は午後6時ころということになります。

《夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」》。
さて、夕方になり、きびしい一日の労働もやっと終わりになりました。《このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》、とある通り、主人は監督に最後の人から順番に賃金を渡すよう指示します。こうして、後から雇われた他の人たちが1デナリオンずつもらっているのを、朝早くから働いた人たちが、見ていたことになります。もし彼らが先に賃金をもらえば、初めから1日1デナリオンの約束だったのですから、それをもらって満足して帰ったことでしょう。しかし、彼らは、たった1時間しか働かない人が1デナリオンもらうのを見ていました。そこで自分たちは当然もっと多くもらえるだろうという期待を抱くことになり、不満を訴えることになったのです。
ところで、ぶどう園の主人が1日に5回も働き手を探しに行くのはいかにも無計画です。現実には、ありそうもない話です。このように異例の求人活動を述べるのは、別に目的があるからです。3~4節と6~7節のどちらにも《何もしないで立っている》と《あなたたちもぶどう園に行きなさい》とがあります。「何もしないで」いるのは、怠惰だからではありません。7節にあるように、だれも雇ってくれなくて仕事がないからです。しかし、「何もしないで」いるのは人間にとって望ましい状態ではありません。労働は無為な生活から人を救い出します。ただ1時間だけ働く人にも「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言ったのは、雇用が贈り物であることを強調するためです。マザーテレサは「現代の最大の不幸は、病気や貧しさではなく、いらない人扱いされること、自分はだれからも必要とされていないと感じることだ」と言いました。「だれも雇ってくれない、だれからも必要とされていなかった」という人の立場からこのたとえ話を読めば、これはまさに「福音」です。日当1デナリオンは、「人が1日生きていくために必要なもの」でした。この主人は、1時間しか働かなかった人にも《同じように払ってやりたい》と言うのです。ルカ15章の「放蕩息子のたとえ」で、父親が帰ってきた弟息子のために宴会を催したのを見て、兄のほうが不平を言ったとき、その兄息子に向かって父が言う言葉も良く似ています。神はすべての人が生きることを望まれ、すべての人をいつも招いてくださる方なのです。
ところが、早朝から働いた人には雇用のありがたさが分からず、それは賃金を得る手段にすぎませんでした。たった1時間しか働かない人が1デナリをもらったのだから、《まる一日、暑い中を辛抱して働いた》者がそれ以上をもらうのは当然だと主張します。一生懸命働いてきたことが問題なのではありません。ただ《わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ》というぶどう園の主人(神さま)の心を分かってほしい、と語りかけているのです。
ぶどう園の主人は、労働者たちに対して、彼らの功績に基づいてではなくて、自分自身の憐れみの念に基づいて支払うという権利を主張します。《父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる》(マタイ5章45)。このような気前の良さを、どうして不公平と非難できるでしょうか。イエスさまは「神はどんな人にも必要な恵みを与えてくださる」ということを強調しています。このような神を礼拝する私たちは、神の寛大さを模倣すべきなのであって、それに対して不平を言うべきではありません。このような不平は、すべての人々に気前良くしたもう神の良さにしっかりと私たちの目をすえることによってのみ、克服することができるのです。

《このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》。
このたとえは、もともとは貧しい労働者を思う話だったのでしょうが、マタイはこの句を付けることによって、話しの趣旨を変えました。マタイ福音全体の基調の一つは、最初にユダヤ人が招かれ、キリスト信者は最後に招かれたのだが、いまはその順序が逆転してしまっているとい理念があります。マタイは、同じキリスト者の間でも、これと同じことが起こりうると説きます。
実際、イエスさまはファリサイ派であれ、自分に忠実な弟子たちであれ、「自分はこんなに苦労して働いてきた」と思っている人に向けてこのたとえを語ったはずです。彼らは、神さまに称賛されるだろうけれども、その報酬は、払った犠牲をはるかに凌駕しているので、まったくの恩恵であると見なければなりません。
「神は人の働きに応じて報いを与える」という考え方(応報思想)は間違いではありません。しかし、イエスさまは当時の人々が持っていたそういう応報的な考え方は問題をはらんでいます。人間の働きばかりに目が行ってしまい、人を生かす神の大きな愛を見失うからです。また、人と人との比較にばかり目が行ってしまい、人をさげすんだり、逆に人に嫉妬する世界に落ち込むからです。朝早くから働いた人の陥った問題はまさにこれでした。そして、私たちもまた、他人と自分を比較して「自分のほうがよくやっているのに認められない」とか、「あの人は自分より怠けているのにいい思いをしている」というようなことをいつも気にしてしまいます。きょうの福音は、そういうところから私たちを解放し、もっと豊かな生き方へと私たちを招いているます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン