2013年12月1日 待降節第1主日 「救いの創始者」

マタイによる福音書21章1〜11節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

教会の新年とも言えます、教会暦の始まりの時が私たちに与えられました。教会暦は救い主イエスキリストのご降誕を待ち望む待降節、アドベントから始まります。アドベントとは、アドベントゥスというラテン語から来た言葉で、「~に向かって接近する、近づくという意味です。」それは私たちの救いのために、神様が接近してくださる、近づいてくださるということです。その神様の御心を顕すために、御子イエスキリストがこの世に遣わされる、その時を待ち望むのがアドベントです。

この教会暦の始まり、待降節の第1主日に毎年私たちは主イエスのエルサレム入場の場面から御言葉を聞きます。福音書全体の後半部分、それはエルサレムでの伝道が展開されていく場面ですが、その旅路は十字架に向かっています。死への旅路であります。十字架へと赴く、この主のみ姿に、救いの始まりをもたらす、救いの創始者としてのキリストを見出す、教会暦の始まりに私たちが聞くべき大切な御言葉であります。

主イエスのエルサレム入場を迎える人々は活気に溢れていました。人々は主イエスのエルサレム入場を、歓呼の声を持って、歓迎したのです。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
(21:9)ホサナ、それは「主よ救ってください」という言葉、今すぐに救ってくださいという人々の期待が込められた声でした。主イエスご自身のことは既にエルサレム中に広まっていました。待ちに待った救い主がやっと自分たちのところにやってきた、人々は「自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。」とありますように、旧約聖書に描かれている新しい王様を迎えるようにして、主イエスを、期待を持って迎え入れたのです。そして、その王様としての姿は、かつてのイスラエルの英雄であるダビデ王に重ねていました。ダビデ王がもたらしたかつての繁栄を再び垣間見ることができる。神様が約束してくださった救いとはこういうことだ、彼らはそう信じて疑わなかったはずです。しかし、期待の声は、数日後に裏切りの声に変わってしまうのです。「十字架につけろ」と。それは憎しみの叫びだけではありません。失望の叫びでもあり、諦めの叫びでもあります。こんなはずではなかったのに。あれだけ歓呼の叫びをあげた自分自身に失望する、後悔する、期待を裏切られるという体験をしたものの叫びです。現実を受け入れたくない叫びだけがむなしく木霊しているのです。

彼らは主イエスを王様として迎えた、そのイメージはダビデ王と重なりました。しかし、ダビデ王の繁栄の先には国の分裂、滅びが民に待ち受けていたのです。国も家族も財産も失い、彼らの祖先は囚われの身となったのでした。その最大の原因は、「偶像崇拝」という彼らの思い、心にありました。神様を信頼できなかったのです。力強く、豊穣をもたらす神様を求めた、期待が持てる神様を求めた。すぐにでも自分たちの苦しみを解き放ってくれる期待通りの存在を頼みとしたのです。しかし、それは自分たちの「期待」という枠にはめた制限された神様、ようするに人間が造った神様です。突き詰めれば、そこで立場は逆転している、人間が神様となっている、そういうことです。

自分の期待通りにことがはこぶ、それは喜び、楽しみだけがあるということでしょう。それだけが私たちの人生でしょうか。いやでも私たちは苦難や困難を経験しなくてはなりません。されど、その只中にあるからこそ、人生の意味が見えてくる、生きるという活力が生まれるのではないでしょうか。それを示してくださるのが、今まさに人々の前を行かれる、十字架へと向かわれる主イエスのみ姿にあります。ここに旧約の預言が記されています。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(21:5)そして、この預言が実現します。弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(21:6-7)馬ではなく、ろばに乗って、主イエスは入場しました。荷を負うろばです。馬に跨って、華麗に駆け巡ったのではなく、ろばに跨って、とぼとぼと歩まれた。馬に跨って、王としての威厳を人々に示したのではなく、ろばに跨って、荷を負うろばのように、重荷を背負われた。馬に乗り、爽快に駆け抜けるかのように、順風満帆な人生を歩んでいくということではなく、ろばに乗り、とぼとぼと一歩一歩歩む。それは様々な問題とぶつかり向き合いながら、決して思い通りにはならなくとも、その時その時に新しい発見があり、視点が与えられ、今までに見えなかった美しさが備えられていることに気づかされるということ。神様を受け入れられる始まり、それは期待通りの自分が造った神様ではなく、困難や苦難の中で、全てを失い空っぽになった自分の中に、受けいれられる隙間ができるから、その方を受け入れることができるということです。期待で胸がいっぱいだと、どこにも隙間がない、受け入れられる隙間がないのです。

今日は12月1日です。日本人の学生にとってはとても重要な日です。それは就活解禁日という日だからです。2015年の内定が決まる就職活動(就活)が始まった日です。そんな中、株式会社マイナビが「2014卒の学生を対象に就活時に受けたプレッシャーについてアンケート調査をした」というニュースの記事がありました。実に8割以上の人が就活にプレッシャーを感じたそうです。他にいろんな声がアンケートに載せられていましたが、その中で、「就活の失敗は人生の失敗」、「内定が取れないということは、自分は社会から必要とされていない、自分を否定されたと」いうアンケートの答えがありました。例年景気の悪化という状況の中で、就職活動に関する苦労話というのは日常茶飯事に聞きますが、この答えからして、自体は相当に深刻であるということを受け止めざる得ません。肉体的にも精神的にもきつい中で、頑張って就活しているのに、全然報われない、全く期待通りの結果にならない、就活生は全員というわけではありませんが、ほとんどの方がいやでもそのことを体験します。そして人生の挫折以上に、自分の人生全体に亀裂が走る、自分の存在すら危機的な状況を迎えるという深刻さを味わう。決してそれは大げさな声、思いではありません。本当に助けて欲しい、救って欲しいという切実な願いです。しかし、それは果たして仕事が得られれば、問題が解決する、救われるのかというと、そうではないということを私たちは知っています。そこで働いていけるという保証はどこにもないし、必要とされていたのではなくて、実は利用するために過酷な労働をさせるという話はいくらでもあるからです。そこでは人生の失敗では済まされない、人生の滅びという状況に遭遇するかもしれない、また自己否定ではすまされない、自己の消滅を招くかもしれないのです。ルカによる福音書9章25節に「人はたとえ、全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては何の得があろうか。」という主イエスの言葉がありますように、たとえ期待通りの、順風満帆な就活ができても、現場に行って働いてみないとわからない、働く、働いていくという実存的な自分の土台を築いていけるという確証はないのです。されど、就職活動に限らず、人生の失敗、自己が否定されない安全な生き方などあるのでしょうか。むしろ、私たちは常に、そういった状況の中で、人生を歩んではいないだろうか、その只中でしかやり遂げられないことだってたくさんある、気づかされることはたくさんあるのです。

主イエスはろばに跨り、静かにゆっくりと、みすぼらしく十字架への道を歩んで行かれます。そして人々から罵られます。救い主としてのご自身の存在を否定され、歪められます。彼らの手によって、十字架につけられ、死を迎えます。彼らへの伝道が失敗したかのに、無駄であったかのように、壮絶な最期を迎えるのです。しかし、それで終わったわけではない。三日後に復活したのです。それは彼らの期待が答えられたのではなく、全世界の人が救われるという出来事が起こったということ、人生の終着点だと思われていた「死」が滅ぼされたのです。私たちの期待とか願望といった枠を破って、神様の御業が成就した。完成したのです。救いの完成です。死が否定され、生が、存在が根本的に肯定されたのです。その救いをもたらすために、救いの創始者として、主イエスは子ろばにまたがり、人生の失敗や困難、苦労を担いつつ歩む私たちと共に歩んでくださるのです。神様は近づかれた、救いは近づいているのです。

だから、救い主イエスは私たちの、まさにろばに跨り期待通りの順風満帆な人生ではない私たちの歩みの中にこそ来てくださったのであります。人生の失敗、自己を否定されつつも、神様は御言葉を通して、あなたに語り続けます。この価値観に縛られ、奴隷にならないようにと、新しい命、歩みに私たちを立たせて下さる。

旧約の預言は「ろばに跨る柔和な王」を記しています。マタイ福音書11章28~30節に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」という主イエスの言葉、招きの言葉があります。主イエスは柔和な方です。私たちを受け止めてくださる柔和、包容力のある方です。そしてわたしのもとに来なさい、わたしに学びなさいと私たちを招かれる。主イエスの軛を共に負わせていただく人生。その荷は軽いと言われます。苦労が減るとか楽な人生が歩めるとか、そういうことではありません。わたしたちが背負う重荷、困難、苦労です。しかし、私たちの重荷を真に重荷にしているのは、私たちが抱いているもの、期待するものです。それ故に、重たくなる重荷という重荷を背負う人生。その重荷からこそ主イエスは軽くしてくださるというのです。それらの縛りから開放してくださるからです。

日々忙しさの中に私たちの歩みがあります。重荷に押しつぶされてしまうほどのプレッシャーを感じます。結果だけを見つめて、真実を見失います。理想や期待の果てに疲れを経験します。そんな私たちを主イエスは招かれるのです。休ませて下さり、真実を語ってくださる。よけいな重荷を降ろして、生きるために必要な重荷を共に背負って下さる。御言葉を通して私たちにそう神様は語られる。少し荷が軽くなりませんか。期待通り、理想通りにいかないという重荷を手放して、主イエスという軽いくびきを共に背負い、共に歩んでまいりましょう。神様は近づいておられる。だから、あなたの救いのドラマはもう始まっているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年11月24日 聖霊降臨後最終主日 「キリストを迎える」

ルカによる福音書21章5〜19節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

先週の木曜日、私と山口さんと、澤田さんの3人で、元村さんのご自宅を訪ねました。退院されてから初めて元村さんとお会いすることができ、至ってご本人はお元気な様子で、交わりのひと時を過ごし、聖餐の恵みに共に与ることができました。この時に、また入院されている時も元村さんはこういうことを言っていました。「まさか自分がこんなにも早く、このような病にかかり、不自由な状態になるなどとは夢にも思いませんでしたよ。それに自分だけがそう思っていたわけではなく、周りの人からも、私は人一倍健康で、病とは縁がないのだろうと言われていましたから、尚更今の状態が信じられませんでした。健康な内は、自分はいつまでも健康で、何でもできて、好きな所に、好きな時に行ける。そんな自由があった。自分の肉体が思い通りになると思い込んでいました。しかし、今回このように病を患って、苦しみを経験して、自分の肉体を初めて知りました。いつまでも健康でいられると思っていたけど、それ故に、かなり無理をしていたのだと振り返れば思い起こしますね。今思うことは、今まで自分が守られ、支えられてきたのは、信仰のおかげだと思います。」元村さんが言われた信仰のおかげというのは、神様との関係において、その交わりにおいて自分が生かされてきたという感謝の思いから出た言葉だと思います。元村さんのこの言葉を聞いて、私は、自分の力でなくして、他者のおかげ、他の力において生かされている自分の存在というものに改めて気づかされました。自分の思い通りになっていると思える自分の肉体、自分の人生が、どれほどはかなく有限なものであるか。病を患ったり、傷ついて初めて知ることができる自分の欠けというもの。私たちは普段そういうことをあまり認識しません。認識できないのかも知れません。そうすると、感謝をしなくなる、祈らなくなる、物事の結果だけを見つめて、損得勘定に縛られる。うまくいかないと、そこに生じるのは不平不満が多く、理不尽さにばかり目が行き、なかなか自分を顧みようとすることができなくなってしまう。自分の欠けというものに気付くことができないものです。

どんなに立派で、どんなに美しく、どんなに力強く雄々しいものでも、形あるものはいずれ崩れ落ちる。私たちの目に見えるこの世界は有限なるものに満ちています。私たちはそのことを知っているようで、知らない。知る機会が非常に少ないのかも知れません。

今日の福音の冒頭で、ある人たちが、見事な石と奉納物で飾られている神殿について話し、それに見とれている場面があります。この神殿とはエルサレムの神殿です。彼らが見とれていたその時代の神殿は、クリスマス物語に登場するあのヘロデ大王が増築し、立派なものにしたものだと言われています。イスラエルの王様としての立場と、その自らの権力と繁栄を象徴しているのが美しく装飾されているこのエルサレム神殿です。その神殿に見とれている人々に対して、主イエスの言葉は手厳しいものです。この立派な神殿も、あとかたもなく、崩れ去る日が来るだろうと予告するのです。この神殿も人間が造った有限なものの一部に過ぎないと言うことです。

彼らは戸惑いを隠せなかったでしょう。ただ事ではない、大変なことが起こる、そういった不安な思いから、主イエスに尋ねたことでしょう。「そのことはいつ起こり、どんな徴があるのですか」と。主イエスは予告します。天変地異があり、戦争があり、人々の間に混乱がると。だから、惑わされるな、怯えるなと言われます。しかし、主イエスがここで語っているのは「世の終りとはこういうことだ」ということではありません。世の終りはすぐには来ないというのです。世の終り、終末と聞けば、私たちは全てのものの滅びを想像します。それが天変地異や戦争などによって引き起こされるかと考えます。主イエスの言われる「終わり」とはそういうことではない、それらは世の終りに来る前の徴に過ぎないというのです。ですから、完全な滅びが「終わり」ではない、その先があるということです。

「終わり」という言葉ですが、英語ではEND。誰でも知っている簡単な英単語ですが、このENDは他にも「目的」という意味があります。ここで使われている「終わり」という言葉も、元の原語では「テロス」という言葉ですが、この言葉も「終わり、目標、目的」という意味があります。目標、目的があるのです。物事には終わりがある。終わりがあるのは始まりがあるからです。その目的は始まりからあります。どんな目的を持って、物事を終えるのか。様々です。世の終りという主イエスが言われる目的は何でしょうか。神様が創ったこの世界、そこに終わりが来る。神様が目的を持って、この世を愛するためにこの世界を創られたのですから、終わりにも意味があります。それは完全な救いです。主イエスキリストが再びこの世に来られて、死者が復活する。ようするに死が滅ぼされるのです。その救いが完成される、成就するということ、それがこの世の終わりです。神様の全き愛の内に、この世界にはじめと終りがある。ですから、終わりには希望が示されているのです。その希望を見据えて、今の私たちの生き方が問われています。しかし、先に希望があるから、もう安心だ、何もしなくていいとは、聖書は言わないのです。12節以降で語っている主イエスの言葉は、そういうことです。

世の終り、終末の徴の前に、迫害が起こる、牢に投獄される。家族と言う身近な人にさえ裏切られ、殺される者も出てくる。そんな嵐の只中に置かれている現状で、主イエスは19節で言います。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」世の終り、終末の徴の前に、今の私たちに主イエスはこう語ります。忍耐するということ。私たちは忍耐を教えられます。忍耐を経験します。そういう時がある、でもそれは一時的なこと、特別なことで、普段は忍耐しない、そもそも忍耐なんて出来れば誰しもしたくないと感じるのではないでしょうか。重荷を背負いたいと思いますか。忍耐することを教えられたって、理不尽なことに遭遇すれば、忍耐するどころか不平不満がまず出る。なんで自分がこんな目に合わないといけないのかという本音が出る。今遭遇している環境を嘆き、自分の苦しみを知ってほしいと訴えたくなる。そういうことはよくあります。そして、忍耐できるとすれば、その先に希望があるという確信を抱くという理解があります。「忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」というパウロの言葉を聞いたことがあるかと思います。希望があるから、忍耐できる。教会も激しい迫害下の中にあって、彼らを支え、希望を与えたのは、主イエスキリストが再びこの世に来られるという希望を抱き続けたという側面もあるからです。

「忍耐」という言葉ですが、主イエスは19節で「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と言いました。忍耐してとは言わず、~によってという手段です。逆説的に言えば、忍耐しないと、命はかち取れないということです。「忍耐」という言葉を原語で調べますと、ふたつの言葉から成り立っていることがわかりました。ひとつは「重荷の下で」、もうひとつは「とどまる」という言葉です。合わせて「重荷の下で留まる」ということです。主イエスがぶどうの木のたとえ話で、「私にとどまりなさい」と言う招きの言葉を私たちに語っています。ぶどうの木である主イエスに、枝として私たちが結びつく、そこに留まるということです。主イエスが共におられるということは、忍耐するということです。忍耐するということは、重荷を背負います。主イエスの名によって、王や総督の前に引きずり出されるということは、主イエスに名に留まる、忍耐するということです。

「命をかち取りなさい」、この命は「魂」とも訳せます。単なる肉体的な命のことだけを指しているわけではなく、私たちの生き方、人生そのものと言えるかもしれません。忍耐する、主イエスの御許に留まるということは、主イエスの復活の命に与るとも言えるでしょう。復活の命に与るということは、古い自分を殺すと言うことです。古い人に死に、新しい人に生きる。そうしますと、忍耐するということがどういうことなのか、具体的になってくる気がいたします。

昨日、私は、山口さんと一緒に、渡辺和子先生という、カトリックのシスターの方の講演を聞きに、立教大学まで行ってまいりました。以前説教の中でも、渡辺先生の本をご紹介したことがありましたが、渡辺先生は岡山県にあるノートルダム清心学園の理事長をされている方で、かなりの高齢の方ですが、未だに週4回ほど学校の授業を受け持ち、さらに年に50回ほどの講演をするために、全国を回っておられるお忙しい現役の先生です。昨日初めて先生の講演を聞く機会が与えられました。昨日の講演のテーマは「幸せのありか」という題でした。「幸せ」、一生をかけて模索する大きなテーマだと思います。また人の数だけ定義があるテーマだと思いますが、先生は御自身の体験を語られつつ、幸せになるということは、自分が変わることだと話されました。幸せになりたいと思うことは、今の境遇に満足できない、今の自分が不幸であると思う時かも知れません。自分の不幸を周りのせいにする、他人のせいにする。理不尽だと思い続けて、それさえなければ、その境遇から抜け出すことができれば幸せになれるという思いを抱くものです。先生も周りの環境における自分の立場に関して、不平や不満、理不尽さを抱いていたとご自分で話されていました。そんな時に、ある修道院の方から、「自分が変わらなければ、どこへ行っても同じだ」と言われ、そこで気付かされたと話されていました。自分から変わり、相手を幸せにするということは難しいことだと思いますが、周りに期待して、自分の幸せを待ち望むということを抱き続けることには先がないように思えます。幸せな生き方というのは何を持ってして幸せだと言えるのかはわかりませんが、やはりその与えられた境遇で自分自身が積極的に変わっていく、相手を受け入れるということにおいて、そこに留まることができるのではないでしょうか。

忍耐するということも、ただひたすら我慢して留まることではなく、欠けたる自分自身に気づき、変わる事だと言えます。自分のまわりは迫害だらけ、自分を傷つける人ばかり、そんな嵐の只中に私たちの人生があります。その嵐が過ぎるのを期待する以前に、既に自分がその只中で変えられていく。傷つけられ、困難を経験し、悲しみを担い、思い通りに行かない中で、自分を見出す。普段気付かない真の自分と言う存在。そして自分の欠けを見出すのです。主イエスの御許に留まり、新しい命に生きるようにと、私たちは招かれています。その新しい命に生きるということは忍耐すること、自分自身が変えられていくことです。

主イエスは世の終りにおける、救いの完成という希望を私たちに告げています。同時に、迫害の只中、人生の嵐の只中に生きる私たちに「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と語られます。この言葉もまた希望の言葉として受け取れるのではないでしょうか。忍耐する、不平不満、理不尽だらけの只中でこそ、自分が変えられていく、真の命を生きられるようにと、主は招かれる。主イエスキリストの再臨という世の終りにおける未来においてのみ主イエスがおられるということではなく、私たちの御許に留まり、忍耐できるその確信は「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節)と主イエス御自身が言われた御言葉に見出されます。

本日は教会の大晦日と言われる聖霊降臨後最終主日。来週から新しい教会暦になり、主イエスを待ち望むアドベントに入ります。本日はその準備のために、教会の大掃除を致します。教会をきれいにするということは、救い主をお迎えするという新たな思いと重なりますが、この掃除のことで小杉さんとお話をしているときに、小杉さんはこうおっしゃってくださいました。「先生、今日の大掃除は普段私たちができない、見落としている箇所を重点的にやりましょう」。見落としている箇所、気付かないところの清掃。自分の欠けになかなか気付けない私たちも、御言葉を通して、普段気付かない自分と言う存在に気付かされます。自分を知るということ、しかしなかなか自分は変えられない、そして自分を清めることはできない。自分だけでは・・・。だから、私たちのところに救い主が来て下さる。世の終りまで共にいてくださるキリスト、この方を自分の中に迎え入れ、日毎に私たちを変えて下さり、清めて下さる。そのキリストに信頼して、終末に向けて、今を生きていく。キリストと共に、私たちは古い人(自分)に死に、新しい人(自分)に生きるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年11月17日 聖霊降臨後第26主日 「生きている者の神」

ルカによる福音書20章27〜40節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音は、サドカイ派と言われる、ファリサイ派とは異なるイスラエルの宗教的権威者たちが「復活について」主イエスに尋ねるところから始まりますが、彼らは復活について関心があり、知りたい、学びたいという意図をもっていたわけではなく、復活を「否定」していたのでありました。彼らは尋ねます。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』彼らが持ち出した内容は、結婚についての掟ですが、どちらかと言えば、家を存続させるということに焦点が当てられています。そして、サドカイ派の人たちは、7人の兄弟のお話をします。お話の結論は、ひとりのお嫁さんがこの7人の兄弟全員と結婚しますが、結局どの兄弟の夫との間にも子宝に恵まれず、その後7人の兄弟とお嫁さんは死んで、その後もし全員復活したら、このお嫁さんは誰の夫になるのかということです。お話の内容から見て分かるように、彼らにとっての復活とは、現世における掟や常識、価値観といったものを判断基準として、考えていることです。ですから、当然矛盾が生じてくるわけです。この矛盾をイエスよ、あなたはどう答えるかと、彼らは訪ねているのです。そもそも彼らは復活を否定しているのですから、7人の兄弟とお嫁さんがもし復活すれば、矛盾が生じてくると考えるわけです。Read more

2013年11月10日 聖霊降臨後第25主日 「あなたが必要だ」

ルカによる福音書19章11〜27節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「ムナ」のたとえ話が本日の福音として与えられました。主イエスがこのたとえ話を話された理由は、「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」と11節で言っています通り、神の国がすぐにでも現れるという人々の思いが根底にあったからです。彼らは神の国という救いを、主イエスのお姿とその行為に期待していた人たちでした。具体的に言えば、自分たちの国を支配していたローマ帝国を、メシア、すなわち救い主として来られた主イエスが力と知恵を持って滅ぼし、ローマ帝国からの圧政から解放をもたらしてくれるという期待を抱いていたということです。それは目の前にある困難、労苦から解放してくれる者への期待、私たちも抱く期待であります。そして思惑通りに事が進み、解決すれば良いのですが、それが期待していた結果とは大きく異なりますと、期待が裏切りに変わり、果てには憎しみを抱いてしまうことでしょう。

主イエスがこの地上に来られた目的は、今日の福音の前の箇所であります10節の言葉に「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と主イエス御自身が言われている通りです。人の子は救い主、主イエス御自身です。そしてここでは、徴税人ザアカイの物語が記されています。神の国がすぐにでも現れることに期待していた人々は、徴税人ザアカイのことを「罪深い者」であると認識していました。罪人として、人々の前に出ることが出来ず、木に登っていたザアカイは、主イエスにお声をかけられ、木から降りて主イエスの御許に行き、主イエスの要望(ザアカイの家に泊まる)に応えて、自分の家に主イエスを迎え入れました。主イエスは彼の家に救いが訪れたことを宣言します。ザアカイも「失われたもの」でした。ですから、この主イエスの救いの宣言が物語っていることは、彼が神の愛を体験し、自分と言う存在が受け入れられ、自らを必要としてくれたという思いに立つことができたことであると言えるでしょう。失われたものを彼は取り戻したのです。ローマ帝国からの解放を期待する人々の価値観は、この世の価値観、彼らから見れば、律法に生きる価値観、神様の前に信仰深く正しく生きる価値観であります。それは自分たち人間を基準とした価値観、すなわち、勝ち負けがあり、優劣における人としてのステータス、結果ありきの世界、実力のある者が生き、無き者は死ぬというこの世の常であります。私たちもその世界に生きているのです。そして私たちも、この世界で時に自分を失います。愛されない、受け入れられない、必要とされない、そういったことを経験しますし、今そういう状況にある人との出会いが与えられているのです。主イエスは私たちを、そういった人たちを尋ね求めます。力でも知恵でも理屈でもない、それらを越えた真の価値、生きる価値に救い主は私たちを招くのです。

さて、たとえ話に入りますが、ある立派な家柄の人、貴族とでも言いましょうか、彼は王様のくらいを受けるために、他国に旅立ちます。その時、10人の僕に留守を任せると同時に、10ムナというお金を彼らに託して、その利益、成果を期待しながら、旅立ちました。僕たちは10ムナを10人で、一人1ムナを預かります。しかし、この貴族は国民からひどく嫌われていました。彼が王様になることを拒んでいたというほどの拒絶感、嫌悪感を人々は抱いていたのです。わざわざその大きな国に遣いを出して、王位の称号を与えないでほしいと懇願するほどでありました。そして貴族が嫌われていたので、当然この10人の僕たちも嫌われていたでしょう。

国民の期待とは裏腹に、王様の称号を与えられた貴族が帰ってきました。僕たちが早速報告します。1人目、2人目は利益を生み出したことを報告し、王様から良い僕として認められ、褒美が与えられますが、3人目は違いました。彼は与った1ムナを布に包んでしまっておいたというのです。その理由として、彼はこの王様を恐れていたからだと弁明するのですが、王様は逆に問い返します。「本当に恐れていたなら、何でそんなただの布きれに包んでいるだけなのだ、銀行に預ければ利子を得ることができたのに」と。そしてその僕の1ムナは、10ムナもうけた僕に行き渡り、最後に王様は、自分を拒絶していた国民を打ち殺そうとするのであります。なんとも後味の悪いお話という印象を持ちますが、王様が出てくるこの譬え話の後に、28節からは、主イエスのエルサレム入場のお話が続きます。ここでも王様が描かれています。それは立派な馬に乗っている王様としての主イエスのお姿ではなく、みすぼらしい子ロバに乗った、とても王様とは思えないような姿として描かれている主イエスのお姿がそこにあります。マタイ福音書では、この主イエスのお姿を「柔和な王」という表現が預言者の言葉から取られています。ですから、一見すると、続くふたつの物語に出てくる王様は別々の人と言うイメージがあるのですが、ルカ福音書がなぜ、このエルサレム入場の前に、このムナのたとえ話を記しているのかということを考えますと、このたとえ話に出てくる王様もまた、主イエスのお姿と重なってくるからであります。しかし、国民から嫌われ、3人目の僕を叱責して与えた1ムナを没収し、挙句には自分を嫌っていた国民を打ち殺そうとする王様の姿の中に、主イエスと言う救い主、柔和な王様というイメージをどこに彷彿とさせるのでしょうか

主イエスのエルサレム入場を、歓呼の声で迎えた人々は、後に主イエスの教え、行為に失望を抱いて、主イエスを憎みます。主イエスは捕えられ、茨の冠を被せられ、その頭の上には「これはユダヤ人の王」という皮肉を込めた札が掲げられました。そして十字架につけられ、殺されます。たとえ話に出てくる王様も国民から憎まれていました。しかし、最後の27節で、王様は彼を憎んでいた人々を打ち殺そうとするのです。主イエスとはやはり違う王様だと思うのですが、27節の王様の言葉が人々に対する神様の裁きを現すならば、主イエスの十字架はその神様の裁きを、人々の代わりにご自身が受けられたということです。主イエスはこの裁きの言葉を語ると同時に、自ら身をさらけだして、十字架につかれるのです。この十字架を背景にして、たとえ話は描かれているのです。

王様は僕たちにムナという賜物を与えました。国民の憎しみの目、拒絶感、嫌悪感という鋭い眼は、僕たちにも向けられています。迫害という目を向けています。与えられたムナで利益をあげるということは、迫害の目を向けている国民たちに、この世に出て行くことです。挫折、失敗、困難の連続、そして殉教を経験したことでしょう。しかし、3人目の僕はこの世に出て行きませんでした。国民から憎まれていた王様を恐れたというよりは、それはあたかもペトロが人々の目を恐れて、主イエスを見捨てたかのように、この僕もまた、自分に対する国民たちの目、この世を恐れた故に、ムナ(賜物)を隠し、王様の僕としての姿を隠していたのかもしれません。3人目以降の僕にも、そういう人がいたのかもしれませんし、私たちもまた、この僕の姿と重なるのかもしれません。しかし、王様は10人の僕全員にムナを与えられました。3人目の僕に対しても同じように与え、この僕が王様にどんな思いを抱いていたとしても、王様はこの僕を必要とされたのです。

主イエスは失われたものを捜し求めて救われる方です。様々な動機がありますが、この教会に導かれ、この礼拝に招かれた私たちもまた、うしなわれたものであり、主イエスによって捜し求められ、見出されたものであると言えましょう。主イエスもこの王様と同じく、私たちに「ムナ」という賜物を与えられます。このムナを用いて、この世に出て行くことを命じます。このムナという賜物は人それぞれの「才能」とも言えますが、このムナは、もともとは10人の僕全員に、そのまま与えられたのです。1人1人というより、10人の群れに与えられたのです。僕たちはそれを分け与え、ある者は利益を生み出し、ある者はそれを損失したのではありませんが、無駄にしました。しかし、それが10人の群れに与えられた共通の「ムナ」という見方からすれば、このムナをどのように用いるかということは、1人目、2人目の僕と3人目の僕、どちらの姿の可能性にも見てとれることなのであります。

私たち全員に与えられたムナという賜物、そう、これは「教会」であります。教会という共通の賜物、神様から与えられた教会を通して、私たちの群れは繋がっているのです。失われた者を捜し求め、救いの御手を主イエスが指しのばされたように、教会もまた主イエスキリストの御体として、救いの御言葉を伝える、伝道していく群れであります。神の愛を伝え、この世を愛し、この世に価値観に縛られている者と寄り添い、どんな境遇の中を歩んでいようとも、神様がありのままのあなたを受け止められる、あなたを必要とされる、その御心を伝えるために、教会が与えられた、教会に与えられたミッションに生きる私たちの姿が、このたとえ話に顕されているのです。1人目、2人目の僕の姿、教会の姿は、教会伝道の発展を告げているものかも知れませんが、3人目の僕の姿、教会の姿は、神様を恐れると言いつつ、教会内部の組織、伝統に固執し、自分たち人間の笏で教会の秩序を定め、この世の教えに妥協しているというものなのかも知れません。はたまた、伝道の困難さを、時代のせいにしたり、牧師のせいにしたり、信徒のせいにしたりなど、どこかに逃げ道を作ってしまっている教会の姿があるということも受け止めなくてはならないでしょう。ムナという与えられた教会を布でくるんでしまうかのように、教会が教会としての姿に立てなくなるという出来事を、私たちは歴史から学んでいます。「銀行に預けて、利子を得なさい」というこの王様の言葉、主イエスの言葉は、どんな状況にあっても、私たちの教会を必要とされ、広い視野を私たちに与えます。誤解を受けやすい極端な例でありますが、この言葉は収益事業についても考えさせられることであります。決して収益事業を奨励するということではありませんが、それを真っ向から否定するのではなく、例えば、その利益を献金するという用い方も考えられますし、その利益で、いずれは新しい会堂を建てて、新たな伝道の基軸とするという可能性も考えられるわけです。

主から与えられたムナという教会は2000年の歴史を歩んでいます。私たちはその限られた時代で教会に生きています。教会のミッションを背負っています。しかし、この礼拝に招かれるごとに、思い越してください。あなたと主イエスとの出会いを。主に信仰告白された御自分の揺るがない決断は、主があなたを捜し、必要とされ、あなたを救いに招き入れたという神様の恵みに先行するということです。そして、今も絶えることなく、あなたに注がれているということ、そして私たちの群れを結びつける教会に注がれているということを。そして、主イエス自ら投げかけられた神様の裁きの言葉を、御自身の身に受けられた主イエスの十字架の救いに生かされているという真実に生きる私たちの群れである教会は、キリストという真の王の再臨を、希望をもって待ち望む群れであるということを祈り願います。私たちはこの真の王様を、真に恐れつつ、喜びを抱き、恐れを抱かず、柔和な方であるという信頼をもって、心を開いて、このキリストを迎え入れれば良いのです。たとえこの世が求めている教会の姿でなくとも、その求めにただ妥協するのではなく、主は教会を、私たちを必要とされるが故に、主はムナという賜物を日ごとに与え続けてくださる、その信頼に立ちづけていくことができることを願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。