2013年4月21日 復活後第3主日 「宮清めの祭り」

ヨハネによる福音書10章22〜30節
藤木 智広 牧師

そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

ヨハネによる福音書10章22~30節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

昨日の土曜日から、関東地区が主催する「信徒塾」が始まり、六本木教会からは、私とKさんが受講してまいりました。教職を含めての参加者は、全部で25名近くもいますので、かなりの反響を呼んでいます。これは大変うれしいことではあります。皆さんは、この信徒塾について、どのような想いを持たれているでしょうか。単なる勉強会というイメージを持っておられる方もいるかも知れません。また、奉仕者訓練の場というイメージも持っているでしょう。参加者の皆様の中にも、勉強目的で参加された方もいるでしょうし、実際に奉仕者として活動するために、卒業を目指して、認定者となるべく、参加されている方もいます。

授業を始める前に、開会礼拝がありました。大宮教会の梁先生が司式を務められ、メッセージをされたのですが、その礼拝の中で、梁先生は参加者の皆さんに対して、この信徒塾にはビジョン、つまり夢があると言われました。明確なビジョン、夢があるということ。希望があるということに思えます。この信徒塾が単なる勉強会や奉仕者訓練の場だけではないということ。目的がある。それも大いなる目的。つまり神様のビジョンにあなたたちが参与するということです。このビジョンを持てることはすばらしいことであると、先生は力強く語られていました。とても私は印象に残っています。

ビジョンを描くということ。会社や学校という組織体だけではなく、一人一人が人生のビジョンを持ち、それを描いていることでしょう。それは期待や願望だけで潰えるのか、実現するだけの実行力と決断力を持っているのか、人によって違います。ビジョン、そこには熱い思いがある。確固たる確信がある。決して大げさな言葉ではありません。なくてはならない指針であります。もはや私の口を通して言うまでもないのですが、六本木教会も、六本木教会のビジョンがある。4月から新しい牧師、役員が与えられ、奉仕者が与えられました。初の役員会も先週いたしました。新しさの中で、慣れないことも多く、戸惑うことも多くありますが、常に前向きにチャレンジしていきたいという皆さんの熱意が伝わってきます。ビジョンが描かれている。しかし、それは私たちだけの思いではないということ、神様の御用にお仕えするという絶大なビジョンの中で、私たちの歩みがあるということ、それに参与させていただいているということなのです。神様が描くビジョンに私たちはお仕えするのです。そのビジョンとは何か、それこそが主イエスを通して働かれる神様の愛、全き愛と、永遠の命を与えられる救いのビジョンなのです。

今日の福音書でありますヨハネによる福音書10章には、主イエスが門であり、良き羊飼いであるという有名な譬え話が記されています。羊たちは、主イエスという門を通って羊の囲いに入って牧草を見つけることができるのですが、その羊たちを導く羊飼いも主イエスであります。しかし、そこには盗人や強盗も同時に入り込んでくる。羊たちを襲うためです。羊飼いは羊たちを守るために命をかける、いやそれ以上に命を捨てるのです。羊たちが豊かに命を得るためです。羊飼いである主イエスはそのために来られたというのですが、17節と18節でさらにこう言われるのです。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」。命を捨て、命を得る。そのどちらも成し遂げられるということが、父なる神様の掟、強いて言えば、御心なのだと証しされる主イエス。この言葉を語られる主イエスのお姿の中に、十字架と復活の主イエスがおられるのです。神様のビジョンを成し遂げるために来られた主イエス。今、苦難のメシアとして、私たちの前におられるのです。

さて、それでは羊を襲う盗人や強盗は何を顕すのでしょうか。文字通り受け止めれば、害をなす者たちです。傷害となる存在。しかし、それは目に見える害だけではなく、痛み、悲しみ、嘆きを与える存在、闇そのものに他なりません。羊である私たち人間にもたらす闇、この闇の只中に生きている私たちの人生があります。この闇から救われたい、光を照らして欲しいと私たちは願う者であります。今日の福音書に出てくる、ユダヤ人たち。彼らも今、ローマ帝国という圧政者、闇を取り払ってくれる光なるメシアを求めているのです。主イエスにその姿を見いだせない彼らは、10章24節で主イエスに詰め寄ってこう言うのです。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」気をもませる、つまり不安に陥っているということです。浮き足が立ち、不安の只中にある。メシアなのか、そうでないかはっきりしてほしい。不安だけでなく、いらだっているようにも見えます。

彼らユダヤ人たちは今、22節に記されています「神殿奉献記念祭」、口語訳では今日の説教題であります「宮清めの祭り」という祭りを祝っている最中にあります。これはヘブル語で「ハヌカ」と言われるユダヤのお祭りで、「ハヌカ」とは「奉献」という意味を指します。また、このお祭りは「光の祭り」とも言われています。光の祭りと言えば、私たちはまず燭台に火を灯すクリスマスを思い浮かべるかと思いますが、ハヌカもまた、燭台に火を灯す光のお祭りなのです。それは、彼らユダヤ人たちが、過去に、自分たちの国がギリシャに支配されていた時代に、このギリシャを追い出し、首都エルサレムを救った出来事に由来します。ギリシャの支配者たちは、ユダヤ人たちに、神様への信仰を捨てさせるために、エルサレム神殿に豚や偶像を持ちこんで、それらを納めさせ、神殿を汚しました。エルサレム神殿を清めるために、ユダヤ人たちは立ち上がりますが、その反乱軍を指揮したのが、マカベヤ一家のマタテヤという人物。そう、あの「ユダヤのマカべウス」です。ヘンデルが作った「ユダス・マカベウス」という凱旋の歌はこの人物に由来します。彼らは、ギリシャと戦い、見事にエルサレム神殿を奪還することに成功しますが、その時、神殿は完全に荒れ果てていました。彼らは豚や偶像を取り除いて神殿を清めますが、燭台に火を灯そうにも、1日分しか油が見つからず、油の補充には8日間もかかるという状況でした。しかし、火は1日のみならず、補充に必要な日数である8日間も燃え続け、火は途絶えることなく、永遠の火を灯すことができたのです。彼らは神様が奇跡を起こして、8日間も油が尽きないにされたと信じ、神殿の再奉献ということで、ハヌカと呼ばれる祝典を祝うようになりました。そして、このお祭りは、「ハヌキヤ」と呼ばれる特別の燭台に8日間にわたって火を灯すため、「光の祭り」と呼ばれるようになったそうです。

主イエスの時代のユダヤ人たちが、ユダヤのマカベウスを、国を救ったメシア的な英雄として讃えていたことは目に映ります。このお祭りを祝うたびに、今の支配者であるローマ帝国を倒してくれるメシアを彼らは求めていた、そして主イエスがそのメシアなのかどうか、彼らははっきりさせたいのです。しかし、主イエスは彼らに言われるのです。25「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。26しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

彼らユダヤ人たちは、主イエスを信じず、その声を聞くことができない。自分たちの描いているユダヤのマカベウスといったメシア像を、主イエスに見出すことができないからです。そして、28節で、主イエスは永遠の命を与えると言われるのです。武力をもって命を削る方ではなく、命を造りだす者、尽きることのない永遠の命を与える方なのです。尽きることのない、永遠の命という灯を照らされるのです。ユダヤのマカベウスたちが、神殿を清めた際、8日間も火が燃え続いて、途絶えることのなかったあの灯のように。主イエスはその永遠の灯を照らされる光のように、今、真の良い羊飼いとして、救いの門として、おられるのです。永遠の命が与えられ、そこに生きるとは、主イエスという光に照らされて、歩むことなのです。その恵みの中で、生き続けられるように、主イエスはあなたを招き、あなたに声をかけています。永遠の命を与えられる主イエスという永遠の灯を照らす光は、私たちの闇の只中で照らされているのです。目の前の困難や痛み、悲しみから逃れるということでなく、たとえそのような状況の只中にあったとしても、それは絶望のままで終わりはしない。あなたはこの光に照らされて、希望を持って歩むことができる。神様はその私たちへの愛、救いのビジョンをもって、愛する御子をこの世界に、私たちの闇の只中に、永遠の灯、光として遣わされたのです。ユダヤのマカベウスが死に、ローマ帝国が支配しようとも、この光は潰えない。私たちの人生の只中においてもそうです。主イエスは復活して、今も私たちと共におられる。永遠の命を与えるために、私たちに呼びかけられています。この命に生きるということは、闇の只中にあっても、もはや恐れることはないということです。

「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」詩編23編の作者はこのように歌います。恐れることはない、それは主が共におられるからに他ならない。迷い悩み多き、羊である私たちであっても、良き羊飼いは私たちを導くとこしえの光として輝いています。この光の道は途絶えることがないのです。

ここに復活のロウソクが灯されています。この復活のロウソクは、礼拝が終わっても、ずっとつけておくということが、教会の習慣としてあるそうなのです。今は礼拝後、この礼拝堂には誰もいなくなりますので、防犯上消しますが、このロウソクの灯が消えないということは、まさに復活の主イエスの光そのものを表わしていると言えるでしょう。この永遠なる灯、燃え続ける灯としての命に与るものとして、私たちの内に、この光を受け入れ、光の道を、共に歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年4月14日 復活後第2主日 「主の復活顕現」

ルカによる福音書24章36〜43節
藤木 智広 牧師

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

ルカによる福音書24章36~43節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

皆さん、先週の日曜日は、私の按手、就任式にご参列いただき、全面的にご奉仕してくださいまして、誠にありがとうございました。本当に祝福されたすばらしい式でした。ご参列いただきました皆様からお祝いのお言葉をいただき、牧師としての心構えを改めて身に着けさせていただきました。私はこの出来事を生涯忘れるわけにはいきません。そして、六本木教会の皆さんおひとりおひとりは、私が正式に牧師となり、この教会の牧師として就任されたことの証人であります。証人となってくださった皆様と共に私は、この六本木ルーテル教会で復活のキリストを宣べ伝えながら、共に生きていくという確固たる指針を抱いております。六本木という地で、聖霊の働きに満たされながら、神様の御用にお仕えしていくのであります。そして、この六本木の地から、どこまでも、どこまでも、それは地の果てに至るまで、神様の福音を宣べ伝えていく、その使命に生きる者たちの群れであるこの六本木教会は、神様によって建てられたキリストの御体であるのです。

六本木教会では本日また、新たな一歩を踏み出します。今日の礼拝の中で、新しい役員の方々が与えられるのです。新たなるリーダーたちを迎えて、教会の秩序がこのように整えられていくということに、生まれ変わった新しさに生きる教会の姿を描きますが、それは全くの新しい姿ではありません。教会が辿ってきた信仰の歩みを、今の私たちが継承していくということに他ならないからです。遡れば、ペトロ、パウロの時代、初代教会から続く、使徒的な公同の教会の歩みを私たちは引き継いでいるのです。もちろん、時代も国も、文化も生活形態も全然異なりますが、彼らの歩みは今の私たちの歩み、復活の主と出会った出来事を証する彼らの姿は、今の私たちの姿と変わらないということなのです。なぜなら、パウロがエフェソの信徒への手紙で「主は1人、信仰は1つ、洗礼は1つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して、すべてのものの内におられます」と言いっているとおり、多様なあり方においても、本質は1つであるということだからです。時代も国も文化も生活習慣もすべてを越えて、神様はすべてのものの中におられ、すべてのものを通して働かれているのです。私たちもこの神様のご支配の中にあって、今この時を歩むことが許されている者のひとりひとりなのです。様々な事情を抱えて、問題と向き合いつつも、私たちの心と思いはひとつであるということ、そのことを信じて歩む私たちの信仰の姿が、ペトロやパウロたちの時代から引き継がれているということを覚えたいのであります。

今日の福音書は、主イエスが真の肉体を持って、弟子たちの前に現れたという復活の出来事の核心を描いております。婦人たちは主イエスのご遺体が納めてあるはずのお墓に行きましたが、ご遺体は見つからず、その時、彼女たちの前に現れた2人の天使から主イエスが復活したことを聞きます。そして、生前の主イエスの言葉を思い出し、復活を信じました。弟子たちは婦人たちの証言を信じませんでしたが、エマオへの途上で、クレオパともうひとりの弟子は、主イエスに出会います。しかし、主イエスであるとわかって、そのお姿をはっきりと見ることはできませんでした。時を同じくして、シモン、すなわちペトロたち11人の弟子たちの前にも、主イエスは現れたのでしょう。24章の33節から35節を見ても、福音書はその時の出来事を詳しく描いてはいませんが、おそらく彼ら11人も、主イエスのお姿をはっきりと見ることはできなかったのではないでしょうか。ですから、今聖書の御言葉を聞く私たちは、婦人たちや弟子たちの証言を通して、主イエスの復活の出来事を聞くのですが、いづれもこの出来事の詳細が断片的であるということに気付かされます。皆が皆バラバラの証言をしており、彼らは話し合っているのですが、彼らが共に主イエスの復活を「共に喜んでいる」という場面が、今までの箇所では描かれていないのです。婦人たちやクレオパともうひとりの弟子、ペトロたち11人の弟子、聖書には記されていませんが、その他の弟子たちも、主イエスの復活を知る体験をしたことかと思われますが、彼らの証言は、ひとつにならないのです。

彼らの証言がひとつとなった出来事を描いているのが、まさしく今日の福音書の出来事なのです。今日の福音書は、主イエスが真の肉体をもって復活されたという出来事を伝えているだけでなく、彼らが一致して、主イエスの復活を共に喜んでいる出来事を私たちに伝えているのです。冒頭の36節に、「こういうことを話していると」とありますから、すぐ前の箇所の出来事から続いていることがわかります。ここにはクレオパともうひとりの弟子、ペトロたち11人の弟子たち、おそらく婦人たちもいたでしょう。他の弟子たちもいたかも知れない。その大勢の弟子たちの真ん中に、主イエスが突然現れ、「あなたがたに平和があるように」と彼らを祝福されたのです。主イエスが彼らの真ん中に立たれて祝福されたということが、何よりもバラバラだった彼らの思いをひとつにしてくださる主イエスの愛の招きに他ならないのです。私たちはここに教会の姿を見ます。様々な思いを抱えて、私たちは集められますが、主イエスは私たちの真ん中に立たれて、私たちを祝福される。この祝福のもとに、共に交わり、共に生きよとそのように語られる主イエスのお姿があるのです。

ところが、復活の主イエスを目の当たりにして、弟子たちは恐れおののき、うろたえ、心に疑いを起こし、亡霊を見ているのだというのです。亡霊だと思った、すなわち主イエスのお姿に、生ける者として、その命を見出すことはできなかったのです。亡霊、それは単にオカルトチックな表現には留まりません。真の恐怖です。恐れおののき、うろたえ、心に疑いを起こすもの。あいまいな存在にすぎませんが、しかし、この存在が弟子たちに、そして私たちにも確固たる疑いを引き起こすのです。疑い、そう彼らは信じていなかった。彼らは各々が復活の証言をしていたにも関わらず、信じるには至っていなかったのです。主イエスのお姿を通して、彼らの復活証言、そこには同時に疑いがあったということを伝えているのです。

彼らのこの疑いの出来事、かつて彼らは湖の上を歩く主イエスのお姿にも同様の反応をしているのです。船に乗っていた彼らは、湖の上を歩く主イエスのお姿を見て、「幽霊だ」と叫びます。亡霊と同じように、彼らは主イエスだとはわからなかった。心に疑いを起こし、うろたえていたのです。しかし、その時、主イエスは弟子たちに言われるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。「わたしだ」と自らを現される主イエス。あながたの知っている私であると、御自身を顕される主が彼らと共にいる。ひどく怯え、恐怖のあまり自分の心を閉ざしていた彼らの心を、主イエスは開かれるのです。

復活の主イエスは今また弟子たちにご自身を顕されるのです。手と足を彼らに見せ、尚も疑う彼らの前で、魚を食べたのです。真の肉体があるということ。主イエスが真の肉体を持ち、復活したことの証明に他ならないということ以上に、主イエスが自らを顕し、彼らの疑いの心を開かれようとしておられるそのお姿の中に、弟子たちとの関わり、弟子たちへの愛がここに示されているのです。婦人たち、弟子たちの証言は真実であれ、やはり断片的であった。主イエスはエマオへの途上で、ふたりの弟子と共に歩まれたが、彼らは主イエスだと気付かなかったのです。気付いて、そのお姿を見ることはできなかった。弟子たちは、証言しますが、そこに復活の主イエスとの関係は見いだせなかったのです。

主イエスは弟子たちの真ん中に現れて、彼らを祝福しました。真ん中ということは、誰にでもわかるように、見えるようにご自身を顕し、一人一人との関係において向き合ってくださるということです。私は先ほど、この場面の中に、教会の姿があると申しました。復活の主イエスのもとで、弟子たちが祝福されている場面に、主イエスを頭とした彼らの交わり、結びつきをも見出します。彼らは真に肉体をもった主イエスの御許で、ひとつとされているのです。主イエスの復活の御体としての教会。そこには当然、手もあり、足もある。ペトロの時代から継承されてきた使徒的な教会を受け継ぐ私たちも、この復活の主と出会い、互いに交わり、関わりをもつ者たちの群れであります。それでは、私たちはどこに復活のキリストの手と足を見出すのでしょうか。

私が卒業したルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の校舎には、手と足のないキリストの像があります。学生たちはなぜ、このキリスト像に手と足がないのかと疑問を浮かべていました。復活の御体を顕してはいないと言う人もいました。この像がどこから来て、どのような由来があるのかということは詳しくわかりませんが、ある先生がこう言ったのです。「私たち一人一人がキリストの手であり、足である」と。私たち一人一人がキリストの手となり、足とされている。手と足がないというわけではない。それらは確かにある。弟子たちの前に顕れた復活のキリストがまさしくそうでありますが、この復活の、手も足もあるキリストの御体は教会であるということ。この教会に集う私たち一人一人がキリストを証する手であり、足であるいうことに他ならないのです。私たち一人一人が、キリストの御用のために、手となり、足となって、福音を宣べ伝えるべく、用いられているということ。私たち一人一人がかけがえのない存在であり、主イエスに愛される存在であります。亡霊なるあいまいな存在としてではなく、真の肉体をもち、復活された主イエス、かつて弟子たちに「安心しなさい、わたしだ。」と言われ、御自身を現されたこの主イエスと共に私たちは歩み続けるのです。

主イエスは確かに生きて、今も私たちと共におられます。復活の御体、それは私たちの目に直接見えなくとも、この御体の中で生き、歩む私たち一人一人が、キリストの手足となって、用いられる姿に見出されるのです。新しさばかりに目を奪われるのではなく、継承されてきた信仰の旅路を更に一歩一歩と前進していくことができるように、共に歩んでいきましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年4月7日 復活後第1主日 「エマオへの旅人」

ルカによる福音書24章13〜35節
藤木 智広 牧師

24:13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 24:14この一切の出来事について話し合っていた。 24:15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 24:16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 24:17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 24:18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 24:19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 24:20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 24:21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 24:22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 24:23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24:24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 24:25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 24:26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 24:27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 24:28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 24:29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 24:30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 24:31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 24:32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 24:33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 24:34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 24:35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

ルカによる福音書24章13~35節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

皆様、改めまして、イースターおめでとうございます。先週の復活祭は3月31日、2012年度最後の主日の日でした。その日、私は母教会である池上ルーテル教会に行き、復活祭の礼拝に与り、教会員の皆様と主の復活の喜びを分かち合うことができました。復活祭の礼拝ですけど、礼拝に来られたのは、10人にも満たなかったです。新来者も誰もいませんでした。本当に小さい群れで、この復活祭をお祝いしました。ですから、復活のお祭りという活気にあふれた雰囲気はまったくありませんでしたけど、私自身、本当に嬉しかったです。遠方におられて、中々教会に来ることができない方とも、何年振りかに再開することができました。一緒に礼拝を守り、一緒に復活を喜び、一緒にお話をしました。離れていても、私たちは神の家族として互いに結ばれている、繋がっている、喜びを共にすることができるという尊い恵みが与えられているということを改めて実感することできた、祝福されたひと時でした。

この日は牧師として仕事を始める一日前に、私の信仰生活の礎となった場所、母教会の池上教会に行ったことに、導きを感じます。池上教会に通い始めたことを思い返しました。私がこの池上教会に通い始めたのは、今から約9年前です。その時は牧師になろうなどとは全く考えつきませんでした。当時はキリスト教に関心があっただけでしたから。しかし、9年の道のりを経て、今私は牧師として、この説教壇に立っています。六本木教会のホームページにある、牧師紹介の項目のところでも少し書かせていただきましたが、この9年間、本当にいろいろなことがありました。いろいろあったけど、常に自分は生かされてきた、神様の愛のご支配の中で、歩み続けることができたということを実感いたします。なぜなら、自分でも気づいていないところで、キリストが共にいて、共に歩んできてくださったからだと、その一言に尽きるからです。そして、私はどれだけこのキリストを見失っていたことであろうか、自分の思いばかりが全面に出て、意固地になっていた私の姿を思い返します。いや、今でもそうです。でもキリストは一歩一歩、着実に私を変えてくださっています。いろんな人との出会いを与えて下さり、様々な視点が与えられ、私を養い育ててくださったのであります。六本木教会の皆様との出会いもそうです。今から約4年前に、この教会で実習をさせていただきました。今皆さん一人一人とこう向き合っていますと、あの時はこうでしたねと、たくさんの思い出を語りたくなります。一緒に過ごさせていただきました。そして今も、これからも、私たちの只中にキリストがおられ、キリストと歩み続けられることを願います。

このように願うことができる根拠は、キリストが復活し、今も生きて私たちと共におられると信じる事にあります。

教会はキリストの復活の御体であります。キリストの御体に連なる者として、キリストと共に歩む時、私たちの思いと心はひとつとなり、一致の信仰を告白し、祈る者たちの群れとなるのです。

キリストの復活なくして、私たちの群れは存在しません。弟子たちもそうでした。婦人たちの証言を信じることができなかった彼らの思いはバラバラだったのです。

今日の福音書に出てくるエマオへの旅路にあったふたりの弟子たちも同じような心境にあったでしょう。彼らは一切の出来事について、つまり主イエスの十字架と婦人たちの証言である空の墓の出来事について、あれこれと論じ合っていたとあります。いろんな憶測が飛び交ったでしょうが、その時2人は暗い顔をしていたのです。彼らもやはり主イエスの復活を信じてはいませんでした。

エルサレムからエマオまでの60スタディオン、これは約11キロ半という距離だそうですが、この帰郷の道のりを彼らはさぞかし憂鬱な心境で持って、歩いていたことでしょう。自分たちの教師である主イエスは、イスラエルを救うメシアであると信じていたけど、主イエスは死んでしまった。かつてはこのような長い道のりも、主イエスと共に歩いてきたけど、今はもう自分たちしかいない。全てが終わってしまった。また元の暮らしに戻るために、彼らは神の都エルサレムから離れていく、つまり神様の宮から離れていく途上にあるのです。掘り下げて言えば、神様から離れていくということです。自分たちの期待は潰えてしまった。彼らの暗い顔は暗い道を造りだしているのです。

しかし、主イエスは彼らと、彼らの心境が造りだしているこの暗き道を共に歩まれるのです。その主イエスに気付かないほど、彼らの目はさえぎられていた、暗い闇しか見えてはいなかったのです。

そのような彼らの闇の深さを見る時、私たちもまたこの現実世界の闇の深さ、また人生において遭遇する自身の闇の深さに目を向けます。救いの手は差し伸べられているのに、それに気付かないほどの闇の深さに絶望します。どんな慰めや励ましも全く届かない、人に対しても自分に対しても。そういう経験を私たちはするでしょう。目の前の事実という普遍的な代わり映えのない思いだけに縛られるなら、この闇は闇のままなのです。私たちは理想や願望を追い求めれば求めるほど、挫折や裏切りにあったとき、目の前は真っ暗闇に覆われてしまうのです。

主イエスはイスラエルを、敵国のローマ帝国の圧政から解放してくれるメシア(救い主)として、人々から期待されていました。弟子たちにとっての希望でした。主イエスは彼らにとっての、行いにも言葉にも力のある預言者としてのメシア像だったのです。このメシアである主イエスに希望を抱きつつ、共に過ごした日々を彼らは忘れることはなかったでしょう。主イエスのご生涯の歩みに、自分たちの人生を重ねていた。主イエスとの出会いによって、自分たちは変えられていった。真のメシアに出会い、自分たちは救いの道を歩むことが約束されたと、主イエスのお姿の中に、彼らはその希望を抱いていました。しかし、彼らは主イエスの受難と十字架に従うことができませんでした。世の権力の前に、無力であった主イエスを前にして、自分たちの弱さ、もろさをさらけだして、彼らは逃げ出していったのです。主イエスの死によって、全てが終りだという心境へと突き落とされた彼らは、婦人たちの証言を信じることができず、エマオへの途上にあるこの弟子たちは、復活の主イエスにすら気づかないほどの絶望を経験しているのです。

しかし、その絶望の只中にある彼らに、主イエスは聖書全体の御言葉を通して、自らのメシア像を彼らに解き明かすのです。2人の弟子に、主イエスは言われます。物わかりが悪く、心の鈍い者たちだと。物わかりが悪く、心の鈍い者。それは単に要領の悪さや頭の悪さを言っているのではなく、根本的な真理から目を背け、目の前の事実だけに目を留めて、自分たちの思いだけに踏みとどまろうとすることです。こうこう、こうでなくてはいけないという善悪の判断基準を、人間の価値観において捉えようとする。生きる者にとって、その判断基準は大切かもしれないけど、その基準には必ず欠点があるのです。死角が存在するのです。それこそ、彼らの目がさえぎられて、物わかりが悪く、心の鈍い状態を表している人間の思いそのものなのです。

主イエスが示されるメシア、それは「メシアとはこういう苦しみをうけて、栄光に入る」と語られた苦難のメシア、すなわち十字架のメシアに他なりません。こういう苦しみとは私たちの苦しみ、痛み、悲しみ、嘆きに他ならない。それらを担い、私たちと共にいてくださる主イエスは、力ではなく、苦しみの中にこそ、神の栄光を表わしたのです。そして、その苦難のメシアである主イエスは、もはや死の只中におられず、墓を打ち砕き、死を打ち滅ぼし、復活のメシアとして、この弟子たちと共におられる。復活という永遠の命に生きる者として、彼らと共に歩んでいたのです。

皆さんはFootprints(あしあと)という賛美歌をご存知でしょうか。ワーシップソングとして知られる、大変有名な賛美歌で、一度は聞いたことがある賛美歌かと思います。Footprintsというのは「あしあと」という意味です。こういう歌詞です。

主と私で歩いてきたこの道
あしあとは ふたりぶん
でもいつの間にかひとりぶんだけ
消えてなくなっていた
「主よ あなたはどこへ行ってしまったのですか?」
「わたしはここにいる あなたを負ぶって歩いてきたのだ
あなたは何も恐れなくて良い わたしが共にいるから」

私も大学生の時、学校の聖歌隊でよく歌った賛美歌でした。ある人は、この歌を聞いて、寂しくなるから、この歌は好きじゃないと言っていました。共に歩んできた主のあしあとがいつのまにかなくなって、自分のあしあとしかなかったという寂しさを感じるからと言っていました。今まで一緒に歩いてきたのに、いつの間にかいなくなってしまった。「どこへ行ってしまったのか」という歌詞だけを見れば、確かにこの歌のせつなさ、悲しさ、寂しさだけが伝わってまいります。自分たちの目にはもう見えないところに主は行ってしまった。もう会えない。主イエスがもう共におられないと感じるかのように、悲しさだけがただ自分を支配しているのです。しかし、この歌詞の後半に私たちは慰めを受けます。「わたしはここにいる、あなたを負ぶって歩いてきたのだ」わたしは確かにここにいるのだと。あしあとがひとつしかないのは、あなたを負ぶってきたのだからと。あなたを負ぶる、主が私を負ぶってくださるということです。もう辛くて歩けない、人生という道の途上で、屈みこみ、苦しみの中にあったあなたを、私は抱えて、負ぶってきたんだよという主の愛が示されています。あなたを負ぶるということは、私の苦しみ、痛み、悲しみ、嘆きを負ってくださるということ。十字架のメシアとして、あなたを救うために、あなたを負ぶって、どこまでも歩むことができるんだよと。だから恐れなくて大丈夫だ。こう語りかける主。そしてまた最後に「わたしが共にいる」と言われるのです。

私が共にいる、それは何よりも、十字架の死から復活を遂げた主イエスが今も生きておられるということの言葉に他なりません。弟子たちの目はさえぎられ、物わかりが悪く、心にぶくとも、暗い顔をしている彼らと確かに共におられる。エマオへの村に近づいた彼らは、主イエスを引き留め、一緒に食卓につきました。パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて彼らに渡すと、彼らの目は開け、そこでやっと主イエスだと分かったが、その時には既に主イエスの姿は見えなくなっていたのです。彼らは復活の主イエスと出会い、復活を信じました。主は生きておられると、もはや暗い顔ではなく、確信に満ちた顔で他の弟子たちに告げていったことでしょう。

主イエスはどこまでも私たちと共に歩んでくださる。苦しみの只中にあり、もう前に進めないと思って、屈んでいる時でも、主イエスは私たちの苦しみを担われ、私たちを導いてくださる。復活、この言葉には「立ち上がる」という意味があります。そう、立ち上がるのです。あの徴税人のマタイが主イエスと出会い、立ち上がって主イエスに従っていったように、主の復活によって、私たちも立ち上げられたのです。

苦しみや痛み、悲しみ、嘆きを経験しなくてはいけない私たちの人生です。その人生の歩みの中で、救いなどないと思えてしまうほどの闇が、この世界を覆っています。しかし、主イエスはこの闇の中に来られ、私たちを救うために十字架にかかって死に、三日目に復活して、死という最大の苦しみ、痛み、悲しみ、嘆きに打ち勝ちました。今、この復活の主は私たちと共におられます。主を見失いかけてしまう時もあるでしょう。でも、主はいつまでもあなたの傍らにおられ、御言葉を語り、聖餐の恵みを通して、私たちに神様の愛を示してくださいます。

主の復活の喜びを知る時、私たちの目に遮るものは、もはやないのです。主が私たちの目を開いて下さり、御自身を顕されました。本当に主は復活したのです!

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年3月31日 復活祭 「キリストの復活」

ヨハネによる福音書20章1〜18節
高野 公雄 牧師

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

ヨハネによる福音書20章1〜18節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

主イエスさまご復活の祝日です。おめでとうございます。まずは、今日の福音によって、復活日に起こった出来事をたどって行きましょう。

金曜日の正午ころに十字架に架けられたイエスさまは3時ころに息を引き取ります。ユダヤの最高法院の議員であるアリマタヤのヨセフがローマの総督ピラトに願い出て、その日のうちに遺体を引き取り、新しい墓に葬ります。ゴルゴタの丘まで着いて来た女性たちが、磔刑の様子も埋葬の様子も見つめていました。ルカ福音によると、《婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った》(ルカ23章56b~24章1)と書いています。きょうの福音は、ここから始まります。

《週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。》

土曜の安息が終わり、週の初めの日、すなわち日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行きました。墓に行ったのは彼女ひとりではなかったようですが、ヨハネ福音はイエスさまとの個人的な出会いを描くという特徴があり、ここでも他の女性のことには触れません。

このマグダラのマリアについてルカ福音はこう記しています。《七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた》(ルカ8章2~3)。彼女は七つの悪霊が憑いていたと言われるくらい、精神的にも肉体的にも深い苦悩を負っていたのでしょう。ガリラヤでイエスさまに救われると、一行にずっと従って献身的に奉仕してきた女弟子です。

ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。》(ヨハネ14章1~3)

ご自身の犠牲によって、罪を取り除いて下さった。そういうお方として現れてくださった。それが復活なのです。ただ、死んだ人間が復活したということではないし、そのことを信じるのが復活信仰ではありません。少なくとも、それだけではイエス様の復活を正しく理解しての信仰ではない。イエス様の復活は、私たちの罪を取り除くため、赦すためです。そのためにイエス様は十字架にお掛かりになり、そして墓に葬られ、そして日曜日の朝早く、暗い内に復活されたイエス様は、マグダラのマリアに現れ、その日曜日の夕方には隠れていた弟子たちに現れてくださったのです。そして、聖霊を吹きかけてくださった。その時、彼らは、イエス様の復活を見て信じました。罪の赦しが与えられたことを信じることが出来たのです。

イエス様は甦られましたけれど、それはイエス様の肉体が蘇生した訳ではありません。蘇生しただけならば、そのイエス様はまた何年かすれば死ぬイエス様です。イエス様は復活されたのです。そして、その復活とは神のところへ上ることです。そして、それは実は聖霊において世に降り、マリアや他の弟子たちの罪を赦し、新たな命を与え、共に生きることです。そして、その「主」は世界中の人々の罪を取り除き、新たな命を与える世界の主であって、マリアだけの主ではないのです。

《そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」》

当時のエルサレム付近の墓は、岩をくり抜いた洞窟です。入口を入ったところは人が立てるほどの高さの天井をもつ小部屋になっています。その小部屋に、さらにいくつか細長い横穴が掘られていて、そこに亜麻布で包まれた遺体は安置されます。もちろん、洞窟の入り口は大きな石でふさがれます。「身をかがめて中をのぞくと」という表現が5節と11節に出てきますので、入り口の穴は小さくなっていたようです。

ところで、十字架刑という極刑を受けた遺体は、ふつうは引き取られることもなく、死体捨て場に捨てられるだけです。アリマタヤのヨセフの勇気ある行動によって、イエスさまは《ユダヤ人の埋葬の習慣に従い》(ヨハネ19章40)手厚く葬られることができたのです。

マリアは朝早く、まだ暗いうちに墓に着いて、墓から石が取りのけてあるのを見ました。墓の中をのぞいても暗くて何も見えなかったでしょうが、彼女は墓穴が開いていることから、イエスさまの遺体が移されたと考えました。急いでペトロともう一人の弟子に知らせます。二人の弟子は走って行って、まずペトロが墓の中に入ります。《彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。》亜麻布や顔覆いが残されているということは、遺体は盗まれたのではないことを示しています。《もう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。》彼は残された布を見てイエスさまの復活を信じます。しかし、ペトロはそれだけでは信じられません。あとで復活のイエスさまにお会して、はじめて信じます。《イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。》これで、 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と泣きながら天使たちに訴えたマリアは、いまや「わたしは主を見ました」と仲間たちに伝える者に変えられました。どうか、私たち一人ひとりがきょうの福音を通してそれぞれにイエスさまを見、その呼びかけの声を聴き、「わたしは主を見ました」と、愛する人々に証しすることができますように。そして、これからの人生をイエスさまと共に歩めますようにお祈りします。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

父なる神、マグダラのマリアは、「わたしは主を見ました」と弟子に告げ、また主から言われたことを弟子たちに伝えました。この地上を歩まれたナザレのイエス様が、神の御子、救い主キリストであることを、おそらく最初に理解したのはマグダラのマリアであったでしょう。主を愛する人だけが感じ取れる真実があります。わたしたちがイエス様のご復活を喜べることを感謝します。イエス様の父である神が、わたしたちの父でもあることを、また、イエス様がわたしたちを兄弟と呼んでくださることを感謝します。イエス様と共に、これからの人生を歩ませてください。

主のみ名によって願い、祈ります。アーメン。

復活の出来事は、福音書記者ヨハネにとっては、天の父のもとから遣わされること、十字架の死、十字架にあげられること、そして、三日目のご復活、そして、天の父のもとにあげられることと、切り離すことのできない大事な、一体のこととして考えられるべきことであります。

《心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行二人の弟子の話は終わりで、話は二人から遅れて墓に着いたマグダラのマリアに戻ります。

墓の外に立って泣いていたマリアが墓の中に入ってみると、二人の天使がいて、《婦人よ、なぜ泣いているのか》と言います。泣く訳を尋ねているのではなく、もう泣く必要も理由も無いことを知らせているようです。マリアが《わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません》と答えながら後ろを振り返ると、そこにイエスさまが立っておられます。しかし、イエスさまだと分かりません。彼女はそれを園丁つまり墓所の管理人だと思って、《あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります》、と語りかけています。「わたしの主」とか「わたしが引き取ります」という言葉に、イエスさまに対するマリアの親愛の情がにじみでています。

イエスさまが「マリアよ」と呼びかけると、彼女は即座に「ラボニ(先生)」と答えます。ヨハネ10章3~4に、《門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く》とあるように、マリアは善き羊飼いイエスさまの声を聞き分けたのです。

《イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。》

ところで、マタイ28章8~9には、こうあります。《婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。》女性たちはひれ伏してイエスさまの足をかき抱いています。マリアもイエスさまにすがりついたのでしょう。また、ヨハネ20章27~28でイエスさまは、《トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った》とあります。復活の姿を現わされたイエスさまは、体をもっておられ、触ることも抱くこともできたし、それを弟子たちに許されたことが記されています。

では、「わたしにすがりつくのはよしなさい」という言葉は何を意味しているのでしょうか。《まだ父のもとへ上っていないのだから》という言葉や、《イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」》(ヨハネ20章29)という言葉から考えると、いつまでも復活のイエスさまの声を耳で聞く、目で見る、手で触るということに依りすがっていてはいけない。イエスさまは間もなく天に上ってしまう。これからは天から聖霊を、すなわちイエスさまの復活の霊を送るという仕方で、私たちと共にいることになる。マリアも私たちも、そのことを理解し、受け入れなければならないのです。

イエスさまはマリアにこう諭されると、彼女をご自分の昇天を知らせる使者とされます。《わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」》「わたしの兄弟たち」とは、ご自分を裏切った弟子たちです。ご自分を捨てた弟子たちを、イエスさまは「わたしの兄弟」と呼んでくださいます。そして、天の父は、わたしの父であり、そして、わたしを裏切って逃げた弟子たち、つまり「あなたがた」の父でもいてくださる。その神の信実のみ心、愛と赦しを伝えるようにと、イエスさまはマリアに語るのです。

《マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。》