2012年11月18日 聖霊降臨後第25主日 「貧しいやもめの賽銭」

マルコによる福音書12章41〜44節
高野 公雄 牧師

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
マルコによる福音書12章41~44節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、その前の段落でイエスさまが律法学者たちは「やもめの家を食い物にし」ていると非難している、その実例として記されていると見なされています。それで、他の教会では、きょうの福音を私たちよりも長く38~44節と、前の段落を含めています。きょうの福音が置かれている文脈を理解するために、前の段落の言葉を読んでおきましょう。

《イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」》(マルコ12章38~40)。

イエスさまは、律法学者がやもめの家に行って、見せかけの長い祈りをして、謝礼金を巻き上げている、と律法学者の振る舞いを厳しく批判しています。しかし、イエスさまの批判は単に道徳のレベルにとどまりません。その批判はきょうの福音の次の段落を読みますと、神殿の崩壊を予言するまでに、ユダヤ教のあり方そのものを根本的に批判するものでした。こう言っておられます。

《イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」》(マルコ13章1~2)。

前後にこういう聖書個所があるのを知った上で、もう一度、きょうの福音を注意深く読んでみましょう。

《イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」》。

一人の貧しいやもめが神殿に来て、小銭二枚、金額にすると一クァドランス、つまり100円ほどを賽銭箱に投げ入れたのですが、イエスさまの見るところ、それは彼女の有り金のすべてであったということです。

前後の脈絡を頭において読みますと、この物語は、ふつうそう読まれているように、有り金全部を神殿に捧げた信仰深いやもめを称える美談であるというよりも、イエスさまはここに宗教が人間を疎外する悲劇を見ているようです。

やもめは有り金のすべてを神殿に献げました。それは死を覚悟してのことでしょう。その献金が何か有益なことに生かして用いられると良いのですが、イエスさまの見るところ、この神殿は間もなく滅びます。ならば、この献金は死に金、彼女の死は犬死です。イエスさまは彼女の行為を悲劇と見て嘆いているのであって、弟子たちに彼女のしたことを見習いなさいとは言っておられません。彼女は敬虔な振る舞いでもって生活に必要なお金を失いました。イエスさまは、彼女にこのようなことをする信仰を植え付けたユダヤ教の指導者たちを批判しておられるのです。

私たちは新聞やテレビの報道をとおして、繰り返して、宗教家に騙されて大金を奪われた人々の悲劇について聞きます。そのたびに、宗教っておそろしいものだな、宗教ってうさんくさいものだなという印象を深めています。にもかかわらず、人生に生・老・病・死の苦難があるかぎり、人は宗教に救いを、益を求めることを止めることができません。そして悲劇は繰り返されます。

聖書に描かれたイエスさまは、宗教よりも人間性を優先しておられます。信者から生活費を搾取するような宗教指導者ではありません。いくつかのエピソードを思い出してみましょう。

安息日(の律法)は人のために定められた、人が安息日のためにあるのではない、と宣言されました(マルコ2章27)。イエスさまは安息日に病人を癒されました。安息日の律法を破ってでも人道的な援助を優先させました(マルコ3章1~6)。善きサマリア人のたとえでも、宗教上の掟を守る同胞のユダヤ人よりも、傷ついた旅人を介抱する異教徒を弟子たちの身習うべき者とされました(ルカ10章25~37)。コルバン(神への供え物)の掟を優先させて両親の必要に答えない人々を非難しました(マルコ7章10~13)。

《とこしえにまことを守られる主は、虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち、主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し、主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる》(詩編146編6~9)。

これは、きょうの賛美唱の一節です。人を救うはずの宗教が、往々にして、人を抑圧する、人間性を阻害する原因となります。イエスさまはそういう宗教を改革しようとしたお方です。イエスさまはその言葉と行いにおいて、弱い人々に対する神の信実を証しされました。みなし子、やもめ、寄留の難民は、弱い人々の代表です。

貧しい人々は幸いだ、今飢えている人々は幸いだ、今泣いている人々は幸いだ、とイエスさまは神が彼らと共におられることを説かれます(ルカ6章20~23)。あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は必ず報われる、と弱者への愛を高く評価します(マルコ9章41)。何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと言って思い悩むな、天の父はその必要をよくご存じでお与えくださる(マタイ6章25~34)。あなたがたは神と富とに仕えることはできない、と神のみを愛する生き方を示されました(マタイ6章24)。

この物語を読むについては、以上のイエスさまの宗教改革の心をしっかりと受けとめ、私たちが人を軽んじるような間違った方向に引っ張られないように、その信仰を聖書のみ言葉の上にしっかりと立てる必要を確認したちと思います。

その上で、次に、この貧しいやもめの姿は、これから起こるイエスさまの死を賭した献身、十字架への道を前もって示すものでもあることに目を留めましょう。

この貧しいやもめは、その動機が絶望からか、何かの償いであったのか、注目されたいからか、または深い献身であったのか、何が本当の動機であったかは書かれていませんが、ともかく、彼女は持てる物のすべてを、生活のすべてを神殿に献げました。しかも、それはまったくの無駄になったように見えます。

イエスさまの場合も同じようです。イエスさまの動機は、人間に対する神の愛を極限までの実践で示すためでした。そして、それは十字架刑による死に極まり、すべては無に帰したように見えました。しかし、神は三日目にイエスさまを復活させて、人々にイエスさまの証しが真実であることを示されました。

このイエスさまの生き方をとおして、私たちは弱い者に配慮してくださる神を知りました。この神に私たちのすべてを委ねることができることを知りました。イエスさまが共に歩んでくださることを信じて、自分を神に委ね、神に献げて生き者となりたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年11月11日 聖霊降臨後第24主日 「最も重要なおきて」

マルコによる福音書12章28〜34節
高野 公雄 牧師

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。

もはや、あえて質問する者はなかった。
マルコによる福音書12章28~34節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン

地上におけるイエスさまの生涯最後の週、日曜日にエルサレムに到着してから、金曜日に十字架に付けられるまでの六日間は、日付が書き入れられています。三日目の火曜日の出来事がマルコ11章20~13章31に描かれていますが、きょうの福音である律法学者とイエスさまの対話個所もこの日の出来事とされています。

《あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか》。一人の律法学者がイエスさまにこう尋ねることから、きょうの話は始まります。「最も重要なおきて」は何かとい問題は、当時のユダヤ教において大いに論じられていたものでした。これはキリスト教徒にとっても重要な問題であって、この出来事はマタイ22章34以下とルカ10章25以下にも書かれています。これらの個所は礼拝において毎年交代に読まれます。

《第一の掟は、これである。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない》。

これが律法学者の問いに対するイエスさまの回答です。第一のおきてとされたのは、きょう旧約聖書の日課として読まれた個所の引用であり、第二のおきてとされたのは、レビ記19章18です。律法学者は「どれが第一でしょうか」と一つのおきてを求めたのですが、イエスさまは神を全身全霊でもって神を愛すべきことと、隣人を自分のように愛すべきことという二つのおきてでもって答えています。神への愛は「信仰」、そして、隣人への愛は「倫理」と言い換えることができるでしょう。イエスさまは、信仰とその具体的な生き方である倫理とは、次元の異なることではあるが、深く関係することであると見ておられます。

《わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です》(Ⅰヨハネ4章19~21)。このように、神への愛と隣人への愛は互いに別々の愛ではなくて、二つの愛は一つと言えるほどに深く関わり合っている。これが聖書の見方です。

そして、結びとして、「この二つにまさる掟はほかにない」と言います。聖書には、これこれをしなさい、あれそれをしてはいけないという教えがたくさん記されていますが、それらはみな、神と隣人への愛の下位にあるものであって、すべては二つで一つの愛のおきてのもとにあることを、イエスさまは明らかにしておられます。愛は、キリスト者の生活の本質であって、それなくしてはキリスト者でありえない必須の条件です。

第一のおきては申命記6章4~5節の引用ですが、第一朗読ではこれに続いて次の言葉を聞きました。《今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい》(申命記6章6~9節)。これでこのおきてがいかに大切にされていたかが分かります。これが最も重要なおきてであることは、ユダヤ人の誰もが認めていたことでしょう。

ところで、「愛しなさい」と言われていますが、神への愛は義務ではありません。神に愛されていることを知った者が、感謝して返す自発的な応答の愛です。聖書に証しされている神は、《わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない》(出エジプト記20章2~3)、と人々に自己紹介をしています。神は、エジプトで奴隷として苦しんでいるイスラエルの民を憐れみ、強い力で救い出してくださいました。民は喜びと感謝をもって神への信頼をはぐくみました。そして、新約の時代になると、《実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました》(ローマ5章6~8)とあるように、神はイエスさまの言行において、とくにも十字架の死において人に対する愛と信実を明らかに示してくださいました。人はこの福音を信じることを通して自分の救いを手にすることができます。その信仰は神に対して自分の愛と信実をもってする感謝の応答です。そして、その感謝が私たちを神のおきてを喜んで果たすことへと導き、神を愛するだけにとどまらず、隣人を愛すること、神のおきてを喜んで果たすことへと導きます。

次に、第二のおきて「隣人を自分のように愛しなさい」について学びたいと思います。このおきてはレビ記19章18の引用ですが、この章には自分の隣人をどのように愛すべきかという実例がいろいろと示されています。その中心となる考え方は、《主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である》(レビ記19章1~2)というものです。

このおきてについては、自分自身への愛をどう考えるかによって、二つの考え方があります。

ひとつは、宗教改革者たちが支持しており、いまでも有力な考え方なのですが、このおきては隣人愛だけを命じているのであって、自己愛は命じられていないと理解します。この場合、「ように」というのは、「同じ仕方で」という意味ではなくて、「同じ程度に」という意味だとされます。人は自分を深く愛して関心を持続し、熱心に幸せを求めます。自分には寛容であり、たくさんの言い訳をし、自分に多くの時間を費やします。このような自己愛は、愛の堕落した姿なのですが、このおきてはこの自己愛と同じほどの熱心さで隣人を愛することをと求めているという理解です。

もうひとつの考えは、これも昔からあった考えではあるのですが、とくに現代心理学の発達に後押しされて、現代人には受け入れやすい考え方です。隣人を正しく愛するためには、まず自分自身を正しく愛することを身に付けなければならない、という理解です。口語訳聖書の《自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ》という翻訳は、こういう考え方にもとづいています。この場合は、「ように」は、先ほどの場合と違って、「同じ程度に」ではなく、「同じ仕方で」という意味に理解します。このような「ように」の使い方はイエスさまもしておられます。《だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい》(マタイ5章48)。この「ように」は、「同じ仕方で」という意味だと考えられます。

どちらの考え方を選ぶにしても、イエスさまは、人は神と隣人とを愛する生き方においてこそ、自尊心を正しくもち、自己実現を成し遂げられると教えておられることは明らかです。

このおきてについては、パウロも《律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです》(ガラテヤ5章14)と述べていますが、イエスさまにはこれとは別に、黄金律(おうごんりつ Golden Rule)と呼ばれるイエスさまの言葉があります。《だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である》(マタイ7章12)。この言葉の場合、「人にしてもらいたいと思うこと」つまり、人として何を本当に欲するべきことなのかを、イエスさまに従う歩みの中で見出していくことが前提となります。それが明らかになった上ではじめて、そのことは「何でも、あなたがたも人にしなさい」という言葉が、本当に意味ある教えとなります。私たちが独りよがりで自分勝手でわがままな願いを抱いたまま、この言葉を実行したとしても、それは決して本当に他者を生かし、共に生きていく救いの道にはつながりません。私たちは、イエスさまに聞き従う歩みを続ける中で、本当に欲するべきものを見定めていきたいと思います。

「正しく自分を愛する」ということについても同じことが言えます。イエスさまは弟子たちに《それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか》(マルコ8章34~36)と諭されました。私たちは本当に私たちを生かすことの出来るお方、イエスさまと共に歩んで参りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年11月4日 全聖徒主日 「今、分かりました」

ヨハネによる福音書16章25〜33節
高野 公雄 牧師

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」

イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書16章25~33節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうは教会の暦で「全聖徒主日 Sunday of All Saints」といいます。聖徒 Saints という言葉は、聖書ではキリストの贖いを受け取って罪を清められた者という意味であって、すべてのキリスト信徒を指していました。それが迫害の時代に次第に殉教死した人々を指し、迫害が終わると、信徒の模範となるような偉い人を指す言葉となりました。そして、11月1日がそれらの人々を崇敬して記念する日となりました。その日は、全聖徒の日 All Saints’ Day と呼ばれます。

宗教改革者マルチン・ルターは、この日に大勢の人々が教会に集まるので目につくようにと、その前日10月31日に教会の扉に「95か条の提題」を貼り出して、議論を呼びかけたのでした。のちにこれが宗教改革の始まりと見なさます。それで宗教改革記念日は10月31日なのです。

プロテスタントの教会は、カトリック教会が聖人として特別に定めた人々を崇敬する習慣を否定し、この日を信仰の先輩たちを記念して、彼らを私たちに送ってくださった神の恵みに感謝し、信仰弱い私たちも彼らのように信仰の生涯をまっとうできるように祈る日としました。聖徒という言葉の意味が聖書で使われていた意味に戻ったわけです。

その後、近代になって人々の生活が忙しなくなってくると、ウィークデイに礼拝に集うことが難しくなり、11月の第一日曜にこの日の礼拝を守るようになりました。

ちなみに、アメリカでは四年ごとの大統領選挙は全聖徒主日の週の火曜日に行うと決まっています。それで、あさってその投票が行われます。

きょうは、キリストを信じて神の御許に召された信仰の先輩と何らかの形でかかわった方たちが礼拝に招かれ集まってまいりました。本日私たちに与えられたみ言葉は、ヨハネ福音16章からの一節です。これは、イエスさまが十字架に掛けられる聖金曜日の前日、最後の晩餐の席で行われたイエスさまと弟子たちとの対話です。

《わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く》。

弟子たちにとっても、私たちにとっても、問題は、イエスさまとは誰なのかということです。私たちが神に出会うこと、神に救われることに、イエスさまがどう関わっているのかということです。ここでイエスさまはご自身について謎めいた言い方をやめて、はっきりと「わたしは父すなわち神のもとから出て、この世に来た」と言っています。イエスさまはもともとは神の御許におられたのですが、私たちを救うためにこの世に遣わされたのでした。そしてガリラヤ地方を中心に神の国の福音を宣べ伝えました。ニケア信条はこれを「私たち人間のため、また私たちの救いのために天から下り、聖霊により、おとめマリアから肉体を受けて人とな」ったと定式化しています。

そして、「今、世を去って、父のもとに行く」と言います。今は弟子たちと会食をしていますが、もう間もなく逮捕され、大祭司と総督ピラトの裁判に付され、翌日には十字架につけられて息を引き取ります。しかし、それで終わりではありません。イエスさまは三日目に復活し、父の許へと帰って行きます。ふたたびニケア信条によると、イエスさまは「ポンテオ・ピラトのもとで私たちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書のとおり三日目に復活し、天に上られました」。

このように、イエスさまは、ご自分の地上における生涯の使命、その言葉と振舞いの意味を弟子たちに語ります。弟子たちはイエスさまに応えて言います。

《あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます》。

イエスさまのご自分についての言葉を聞いて、弟子たちは、イエスさまがすべてをご存じであって、彼になにも質問をする必要がないことを今理解したと答えます。そして、イエスさまが神の御許から来たことを、つまりイエスさまは神の子であることを信じます、と告白します。

人が洗礼を受けるとき、信仰に入るとき、聖書の知識は乏しく、教義の詳細を理解できていないでしょう。しかし、イエス・キリストが誰であるかを理解し、イエス・キリストを愛し敬い信頼すること、このことだけは信仰にとって欠かすことはできない大事なポイントです。イエスさまは二千年前のパレスチナにおとめマリアから生まれ、すべての人のしもべとなって、人々に仕えて、人々の重荷を担い、人々の罪の汚れを負って十字架刑で死にました。彼はそういう歴史上の実在人物です。イエスさまは人としての地上の歩みをとおして、神がすべての人一人ひとりを愛し、守り、救いへと導いてくださることを身をもって証しされました。ここまでは、現代人も理解し、受け入れることができるだろうと思います。

現代人である私たちの問題はここからです。今述べたことを視点を天に移して見てみます。すると、こうなります。神はイエスさまの言葉と行いを通して、ご自身を、そしてご自身の人に対する信実の心を明らかに現わしてくださいました。神は自らイエスという人となって地上に降り立ち、ご自身の愛と信実を人々に啓示されました。イエスさまは人となった神なのです。イエスさまは私たちと変わらぬ歴史上の人物であると同時に、イエスさまは神が人となった方であって、歴史を越えた永遠の神ご自身であります。これが、イエス・キリストは誰であるかという問いに対するキリスト教会の見出した答えです。私たちは祈りの度ごとに、その結びで「あなたは聖霊と共に、ただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります」と唱えます。そのとおり、イエスさまは私たちの主であり、永遠に生きて治められるみ子なる神でありますが、このイエス・キリストの神性ということが近代的な教育を受けた人は受け入れられなくなってきているのです。私たちは頭の中からも心の中からも神の働く余地を閉めだしています。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12)。現代人は、イエスさまについて、こうはっきりと言えなくなっています。キリスト者であっても例外ではなく、この信仰が崩れる危険をつねに抱えて生きています。しかし、イエスさまは、このことをもご存じです。

《だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている》。

「今、分かりました」「わたしたちは信じます」と答えた舌の根も乾かぬうちに、弟子たちはイエスさまを見棄てて逃げ去り、イエスさまはひとり苦難の道を歩かれることになります。しかもイエスさまはそういう弱い弟子たちを責めるどころか、「あなたがたには世で苦難がある」と弟子たちの負うべき労苦、困難を気遣い心配してくださっています。イエスさまは十字架上でも「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているか知らないのです」(ルカ23章34)と言って、「十字架につけよ」と叫ぶ群衆、逮捕し裁き処刑するユダヤ人とローマ人の罪の赦しを父なる神にとりなしておられます。

このように、最後まで徹底して罪人を愛し赦し、彼らの救いのために命を差し出されるこのイエスさまのあがないの業において、人に対して慈しみ深い神の思いが明らかに現わされています。この事実こそが、「わたしは既に世に勝っている」とおっしゃる言葉の内実です。イエスさまの神の子としての強さは、あらゆる誘惑を退けて、死にいたるまで人のために仕え尽くした、人にご自分を与え尽くしたことになるのです。そして、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」と言われます。私たちはみな弱いです。けれども優しく強いお方が共におわれるから、私たちは心強いのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」とあるとおりです。

イエスさまからいただくこの平和のゆえに、私たちもまたイエスさまと共に「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と言うことができるのです。そう言うことができるように、私たちの頭と心のうちに信仰の余地を、神が働かれる余地を開けているように心がけましょう。私たちがきょう記念している信仰の先輩たちにならって、遺された私たちも、こういう信仰に生きたいものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年10月21日 聖霊降臨後第21主日 「天に富を積む」

マルコによる福音書10章17〜31節
高野 公雄 牧師

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
マルコによる福音書10章17~31節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

場面は先週に続いて、ガリラヤ地方から都エルサレムに向かう旅の途上のできごとです。金持ちの男がイエスさま一行に走り寄って、ひざまずいて尋ねました。《善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか》。この男との会話のテーマは、イエスさまの弟子の生き方についてです。

「永遠の命を受け継ぐ」は、「神の国に入る」とか「救いを得る」と同じ意味です。「受け継ぐ」つまり「相続する」という表現は、永遠の命は昔からユダヤ人の先祖たちに約束されていたものですから、それを自分たちは遺産相続するように受け継ぐのだという感覚です。イエスさまは、何をすればよいかという掟についてならばあなたは知っているはずだと言って、十戒の後半を数え上げます。すると彼は《先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました》と答えます。彼が言うとおり、彼はユダヤ教の倫理をまじめに守って生活してきたし、人々からも善い人として高い評判を得ていたのでしょう。

だったら、なぜ彼はイエスさまに教えを乞うのでしょうか。たぶん彼は何か善い行いをもう一つプラスして、相続者の資格を確かなものにしようと願っているのでしょう。イエスさまは答えます。《あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい》。金持ちの男が予感していたとおりです。十戒を守っていても、まだ欠けているものがあったのです。「持っている物を売り払って、貧しい人々に施しなさい。そして、わたしに従いなさい」。この言葉を、《イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた》とあります。「慈しんで」は神の愛を指す言葉アガペーの動詞形が使われています。イエスさまは厳しいことを言いますが、それは彼を拒否したり軽んじたりしてのことではないことは明らかです。しかし、彼は《この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである》。彼に欠けている一つのこと、それは財産を手放すことができなかったことでした。

ルターは、神を信じるとは何ものよりも神を畏れ、愛し、信頼することだと言いました。そして、唯一のまことの神よりも、畏れ、愛し、信頼する人や物、それが当人にとっての他の神々つまり偶像だ、とルターは言います。きょう登場した金持ちの男にとっては、財産が、律法を守ってきたことが、良い評判が最終的な信頼を置く彼の神または偶像ということになります。彼はイエスさまの言葉を聞いて、今初めて自分の内面を見ることになりました。そして、今初めて彼は自分が頼りにしてきたものが実は神ご自身ではなく偶像であることを悟ったことでしょう。この人に限らず、私たちは神の救いは善行の報酬として与えられるものだと考えがちです。そうすると、この人のように、神の救いを確かにするために、自分の側の拠り所をその保証としてしっかりと握っていることが大事だと考えてしまいます。しかし、自分が持っているものを救いの拠り所にすることは、本当の神信仰ではありません。救いを神の恵みとして、人に対する神の信実から出た無償の賜物として待ち望むこと、それが真の神を信じることであり、また神の信実にのみ救いの確かさがあるのです。

ですから、仮に彼が持っている物を売り払うことができたならば、その善行のゆえに永遠の命の相続人の資格を得ることができるのでしょうか。そうではありません。その場合でも、イエスさまの招きに応えて、空の手でもって神の救いをいただく信仰をもってイエスさまに従うことが求められるのです。その場合、従うことは自分の資格や能力によるのではなく、従うこと自体がすでにイエスさまの招きの力、イエスさまの恵みです。このことに気づくことによって、人ははじめて持ち物を手放すことができるようになるのです。手放すことができないのは、貪欲のためだけではありません。他に拠り所となるものを知らないから、神の恵みを知らないからです。

弟子たちもこの金持ちと似たような状態だったようです。《ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした》。マルコ福音ではこれだけの文章ですが、マタイ福音ではペトロがこう言い出した訳がもっと露骨に書き込まれています。《すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」》(19章27)。これに対して、イエスさまはご自分に従う者への報酬を約束なさいます。しかし、ほんとうは人の功績が問題でなく、ここでもイエスさまはすべての人に対する神の愛を説いているのです。使徒のパウロはこう書いています。《あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです》(Ⅱコリント8章9)。

この金持ちが悲しみながら立ち去ったあとのことに、話を少し戻します。イエスさまは弟子たちに言われます、《財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか》。山上の説教でも《あなたがたは、神と富とに仕えることはできない》(マタイ6章24)と言っておられます。神さまを信じることと、神ならざるもの(この世の人や物)を頼りにすることとは両立できません。

しかし、神と富とは両立するという考えもあります。事実、イエスさまの時代、富みは神の祝福だという見方もありました。むしろ、それが一般的な見方でした。弟子たちの中に金持ちは少なかったと思いますが、やはりそのように考えていたようです。イエスさまの言葉に驚いて《それでは、だれが救われるのだろうか》と互いに言ったと書かれています。

日本のことわざに「衣食足りて礼節を知る」とあります。生活に余裕ができて初めて礼儀や節度をわきまえることができる、という意味です。その反対に、「貧すれば鈍する」、貧乏すると生活の苦しさのために精神の働きまで愚鈍になる、という言葉もあって、貧乏を貶める見方がある一方で、少数派ではありますが、清貧の思想というのもあって、金の有る無しにかかわらず私欲を捨てて質素な生活を理想とする見方もあります。心豊かに暮らすためには、金品に固執しない生活をすることが必要だという考えです。物質的な生活が安定すると、神への感謝の心を失う危険が増大するのは事実ではないでしょうか。これが人の現実ですから、イエスさまの言葉にこういうのがあります。《人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる》(マタイ4章4、申命記8章3)。また、《どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである》(ルカ12章15)。

《弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」》。これらの聖句はすべて、救いの根拠は、「人間にできること」ではなく、人に対する神の信実、一人ひとりの人を大切に配慮する神の大いなる愛にあることを強調するものです。イエスさまの言行のすべてはそのことを証ししています。イエスさまを信じることによって、確かな救いを得られることを、それが心豊かに生活する基であることをしっかりと受けとめたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン