2004年8月1日 聖霊降臨後第9主日 「目覚めよ」

詩篇第2篇

 
説教  「目覚めよ」  大和 淳 師
 「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち 人々はむなしく声をあげるのか」。この詩編第2篇は、そのように国々が「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らう」と語っています。それは、まさしく人間の歴史が繰り返してきたことです。「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」、わたしたちは、歴史の至るところで、こういう声を聞いてこなかったでしょうか。そして、それはまた今のこの時代にもあがる声でもある、そう言っていいでしょう。それは単に「地上の王」、「支配者」と呼ばれるような人だけではない、「人々は」とまた言われているように、「地上の王」「支配者」でもない者もまた、この地上での生活、自分の生そのものに「かせ」を感じ、「縄目」を負っている、と、いや、むしろ、そのように力のない者、弱者であれば、あるほど、その「かせ」は、その「縄目」は重く、二重、三重にのしかかってくる、それがわたしたちの実感です。この詩篇が聞く「国々の騒ぎ立ち」、「むなしい声」とは、まさしくそのようなわたしたちの声なのです。
  そのわたしたちの「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」、そこにあるのは、こういうことです。ただ、その支配者と、弱者である者との違いは、それを「はずし」、「投げ捨てる」ことができるか、否かである。力を得る、力を持っているとは、その「かせ」が軽くなっていくこと、はずれていくこと、「縄目」がほどけていくことであるかのように、あたかもそうであるかのように、わたしたちは考えている。そのように、この世は成り立っていると。だから、この世の底の中に生きている人ほど、下にあればあるほど、その「かせ」は重くなり、「縄目」はますますきつくなる、全くそのようである、と。したがって、人々は、あいもかわらず、「下」から「上」へ、力のために、「王」、「支配者」へと、その目を向けていくのです。何故なら、わたしたちには、絶えず、

この生に対する「かせ」、「縄目」があるからです。
  ある人はとっては、現実の「貧しさ」が「かせ」となる。その「かせをはずす」ことは、したがって、富を得ること。地位のない者は、それは、地位であり、したがって、かせをはずすことは地位を得ることに他なりません。病気もまた、そのような「かせ」、「縄目」として、わたしたちを縛ってきます。不幸であること、能力に欠けることも。いや、富に恵まれ、地位もあり、健康であり、幸福であったとしても、たとえば、人間関係の煩わしさが、「かせ」になり、「縄目」にもなります。時には、私たちの安らぎであるはずのもの、家族や友人さえ「かせ」になり、「縄目」にもなる。本当に自分の生きがいに感じていることさえ「かせ」「縄目」になってしまう。そのように二重に三重に「かせ」がはめられ、「縄目」に縛られている、その最大の「かせ」、「縄目」とは「死」であることは言うまでもありません。死の「かせ」がある限り、わたしたちが所有していく一切のものも、また「その「縄目」となるのです。聖書は言います、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6章23節)、すなわち、罪の「縄目」は死であると。死は、わたしたちから、一切を奪う。それ故、死は、それまで結んでいた生のきずな、親子であれ、夫婦であれ、友人であれ、そのように、わたしの支えであったはずのものを一切切り離し、わたしたちを不安と孤独に陥れます。だから、頂点に立つ「地上の王」、「支配者」さえ、「かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」とするのです死、わたしたちの最大の「かせ」、「縄目」、たとえ、どれほど、偉大な王であれ、支配者であれ、この死の「かせ」、「縄目」からのがれることができない、詩編はそこに立っているのです。
  この詩篇は繰返し、二度も「なにゆえ」「なにゆえ」と問いかけています。この死の現実を見ないこと、そのことの「むなしさ」、愚かさ、「なにゆえ」それに気付かないのか、と。何故なら、それは、まさしく「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らう」ことに他ならないのだ、と。わたしたちは、この詩篇の冷めた眼に驚かずにはいられないのではないでしょうか。そのような「かせ」、「縄目」を前にして、彼は落ち着いています。いわばこの詩編は、まさしく死を前にして、独り立ち、目覚めています。そして、「目覚めよ」と呼かけています。
  わたしたちが「騒ぎ立つ」、「構え」「結束する」、それは、その「かせ」、「縄目」を恐れているからです。わたしたちの眼には、それはわたしたちを圧倒し、打ちのめす、恐るべきもの、忌まわしきもの、そのようにしか見えないのです。いや、その「かせ」、「縄目」が、そのようにわたしたちの眼を塞ぐと言っていいでしょう。しかし、この詩人はひとり目覚めて、そのわたしたちの眼が決して見ない、見えないものを、その「かせ」、「縄目」の中に見ているのです。それは、「天を王座とする方」です。詩篇は、その冷めた目で「かせ」、「縄目」の中に「天を王座とする方」を見るのです。そのお方とはどんな方なのか。詩編は言います、「天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り/憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。」(4-5節)
  それは、わたしたちの「かせ」、「縄目」、即ち、「死」を前にして、笑い給う「神」、死を嘲り給う神、死に対し、憤り、怖れさし、怒り給う神なのです。したがって、既に死に対して勝利し給う神です。それが、わたしたちの神、主であり給うのだ、と言うのです。そして、それこそ、わたしたちが最も驚き、そして畏れなければならないと言うのです。それ故、この神が宣言し、なし給うことを、わたしちは聴き、そして従わねばならない、と。
  その神の宣言し給うこと、そして、なし遂げ給うことを、彼は7節以下に記していきます。そして、この7節で、突然「主語」が「わたし」に変わります。詩篇が、そのように落ち着いている、冷めている、目覚めている、それは、このように、まことにこの「わたし」と言われる方、「主の定めたところに従う」、「主が告げられる」、「わたし」、その方が、彼と共に立っているからです。この神が宣言し給う、それ故、ご自分の意志をなし給うとき、その時、この「わたし」と言われる方がおられる、その「かせ」、「縄目」の中に。そのお方が、わたしたちの代わりに、笑い給う「神」、嘲り給う神、憤り、怖れさし、怒り給う神の前におられ給うのです。そのようにして、この方は、神と共にあり、そして、そのようにして、我らと共にい給うのです。
  その「わたし」というこの方に向かって、主は「お前はわたしの子 今日わたしはお前を生んだ」と言われます。これは、もともと王の即位の言葉です。主なる神は、この方に、その全権を与え、委ねたということです。そのようにして、今や、この方が、主なる神の代わりに、わたしたちの前に立っておられます。「主なる神の代わりに」です。わたしたちの主として、です。そして、「求めよ、わたしは国々をお前の嗣業とし 地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く」。しかし、わたしたちがここで忘れてはならないことは、たとえわたしたちの眼に、あの「かせ」、「縄目」がどれほど大きくうつろうとも、この方が、その真実の支配者であるということは、その「かせ」、「縄目」からまたわたしたちを解き放つ方であるということです。死の「かせ」、その「縄目」から、わたしたちを解放するお方であるということです。この「わたし」、そのお方、即ち、イエス・キリスト、主イエスがどのようにして、その「かせ」から、わたしたちを切り離し、「縄目」をほどいて下さったのか。それは、この方ご自身が、自らその「かせ」を負い、「縄目」につかれたのです。わたしたちのために。そのようにして十字架につかれた方、この方は、自ら、その「かせ」を負い、「縄目」につかれ、苦しみ痛んでわたしたちの代わりにこの神のみ前に立って下さっている。そのようにして、この方は、ご自分の支配を確立されたのです。
  それは、こういうことです。わたしたちが、最早どうにもならない「かせ」、束縛する「縄目」、その中で、即ち、死を前にして、本当に孤独であるとき、しかし、そこにも、この方の支配は及ぶのです。どのように、死が、わたしに「かせ」をはめ、どれほど、頑丈に「縄」をもって、縛りつけようとも、わたしは、最早独りではないということです。その「かせ」、「縄目」はわたしを縛ったままではないということです。最後に笑うのは死ではなく、この方、そしてこの方と共にいるわたしたちであるということです。それ故、騒ぎ立つことなく、虚しい声をあげることなく、本当に落ち着いている、冷めている、目覚めていることができる。
  何と言っても、この方において、主なる神は、その死に対して笑い、嘲り、憤り、怖れさせ、怒り給うのです。この方をよみがえらせ給うのです。そのようにして、十字架と復活によって、「鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕」き給うのは、わたしたちの「かせ」、「縄目」、死です。それ故、パウロは叫びます、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15章55節)と。
  同じようにこの詩篇は呼かけます、「目覚めよ」と。勝ちどきの声を挙げます、「喜び躍れ」と。わたしたちを今も苦しめる「かせ」、「縄目」、しかし、それは、最早わたしから何も奪うことはないのだから、と。詩編は呼びかけます。目覚めよ、と。それは言い換えれば、こういうことです。自分を苦しめる「かせ」、「縄目」がある、しかし、それらによって決して自分自身を失ってはならないし、またあなたは失うことはないのだ、ということ。それ故、パウロと共にわたしたちもまたこう言うことができるのです、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(フィリピ4章2節)そうです、わたしたちは大胆にこういうことができるのです、自分を苦しめる「かせ」、「縄目」、そして、死!だが、見よ、キリストこそが今やわたしである。わたしが苦しめば苦しむほど、わたしの中のキリストは生きる、生きているのわたしではなく、わたしの中のキリストである!
  みなさん、たとえ、どんなに重い「かせ」、きつい「縄目」を負っても、今日の「主日の黙想」にも書きましたが、不如意、まったく自分の思いどおりにならない中にあってもわたしは自由であるということ。むしろ、「我らは、かせをはずし 縄を切って投げ捨てよう」とすることは、ただ自分中心・自分だけの世界、他者不在、わたしだけの世界、他者をはずし、隣人を投げ捨てるのです。そうしてわたしどもは、またわたし自身そのものを失っていくのです。わたしを支えるものを。
  確かにみなさんはそれぞれ実際に様々な「かせ」、「縄目」を負って、その中にいます。その中で痛み、時に大きな心の傷を受けているのです。悲しい、つらいことでしょう。しかし、その傷が本当に癒されるには、ただ一つの方法しかありません。それは自分の「かせ」、「縄目」の中で、ただわたし自身は無力になって、他の人の「かせ」、「縄目」を、他者の痛みを、他者の傷を知る、ただそのことを通してのみです。自分の「かせ」、「縄目」の中で、他の人の悲しみに目を向けることのよってのみ、わたしたちのその悲しみ、痛みは癒されていくのです。
  (週報にもお断りしましたが今日は本来「平和の日」としてまもろうとしたのですが)アメリカの平和運動を続けている9・11犠牲者遺族の会「ピースフル・トモロウズ」のディビット・ポトーティさんという方、彼もまたあのビルで肉親を失ったのですが、来日し、各地で講演されました。そのポトーティさんはこういうことを語っているのです。「9・11で死んだ私たちの愛する人々の死は世界で毎日殺されているたくさんの人々の一部に過ぎないと思います。軍隊は私たちを守ってくれない。そうであるなら、私たちはともに生きるしかありません。私たちは『米国は善良で強大な国家だ』という妄想を捨てなければならない。米国人の多くは恐怖に支配されているために、こうした考えに立てませんでした。そしてアフガンへの爆撃を支持し、『愛国法』を支持し、不法なイラク爆撃を支持しました。恐怖と不安による暴力で報復することで、更なる恐怖と不安、暴力を生み出しました。
  しかし、この間、私たちの言葉と思想には力があることも学びました。人間的になることで、弱さをさらけ出し、手を取り合うことで、大きな力が生まれることも知りました。私の母は事件の直後に『息子の死で、私がいま味わっている悲しみを世界の他の人々に決して味あわせたくない』といいました。彼女は世界の人びとの悲しみに目を向けることで、自分の悲しみを癒したのです。この訴えを広げる中で、同じように考えるピースフル・トモロウズの他のメンバーと知り合いました。私たちは、どんなときでも、どんな理由があっても、殺戮はいけないということを学びました。私の国がアフガニスタンやイラクにやっていることはあの国にも、また攻撃した側の米国の兵士にも10年も、20年も後遺症を残します。彼らは怒りを体の中に抱え込んで生きていくのです。
  ・・・テロは本当の問題の現象にすぎません。私たちが本当に闘うべきものはテロではなくて、帝国主義だとか、物質主義だとか、軍事主義、愛国主義、そして自分の命は他のものよりずっと価値があると考えるような思い込み、それらと闘わなくてはなりません。」
  ポトーティさんたちは、いわば自らの「かせ」、「縄目」を負うことで、「人間的になることで、弱さをさらけ出し、手を取り合うこと」によって、共に生きる喜びを得、そしてその喜びを分かち合うために闘っておられるのです。パウロは言います、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテア5章1節)。「軍隊は私たちを守ってくれない」!そうです、力によって自分を失ってはならない。いや、あなたはどんな「かせ」、「縄目」の中にあろうと、自分を失うことはない。自らの「かせ」、「縄目」の中にこそ、主イエス・キリストはおられるからです。

2004年7月25日 聖霊降臨後第8主日 「<だけ>から<も>のわたしへ」

ルカ10章38~42節

 
説教  <だけ>から<も>のわたしへ  大和 淳 師
  今週もルカ福音書の物語の中ではよく知られているマルタとマリアの姉妹の話です。自分の家に来られた主イエスの「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」姉のマルタが、何もせず主イエスの「話に聞き入っていた」マリアに腹を立て、「主よ、わたしの妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」、そう主イエスに訴えた。訴えたと言うより、マルタは明らかに主イエスに対しても腹を立て、非難しているわけですけれど、しかし、主は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とお答えになったという大変短いこの物語ですが、それで、ここで主イエスがおっしゃった「必要なことはただ一つだけ」ということ、これはよく奉仕と御言葉を聞くことを対比して、御言葉を聴くことが無くてはならないことだ、と、イエスはそう言っている、そう解釈される訳です。つまり、主イエスはご自分の「話に聞き入っていた」マリアをかばい「立ち働いていた」マルタを諫めた、そういう風に。でも、ことをそう単純に理解してしまっていいのでしょうか?むしろ、問題は、御言葉を聞くことか、奉仕かということにあるのではなく、ここで大事なのは、何よりマリアに、そして主イエスに対しても不満をぶちまけざる得なかったこのマルタを、主イエスがどう受け止めておられるか、見ていらしたかでしょう。  とは言え、そもそも、10章1節に「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあり、その72人は17節で帰ってきていますから、そうすると、主イエスの一行は少なくとも百人近い人たちがいたことになります。つまり、限度を超えた数の人びとを客として迎え入れたマルタは、決して心の狭い、利己的な人であったので

はありません。わたしは4月に行ったおこなった献堂式のことを想い出します。たくさんの来客をもてなす、迎えるために婦人会の方々が、まことに、まさに「せわしく立ち働いて」いました。そうした苦労を、また奉仕を主イエスがお分かりにならない、お認めにならないでしょうか。ところが、マルタは、「接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った」(口語訳)、、マルタは忙しさに心をとりみだしてしまった訳です。
  それで、あらためて、このマルタの言っていることをみますと、彼女は「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。」、まず、そう主イエスを非難するのですが、ここで「わたしだけにもてなしさせて」と<わたしだけ>と言う訳です。
  それで、この<わたしだけ>、これは等しくわたしたち一人ひとりにもあることではないでしょうか。わたしだけ、わたしひとりがやっている、わたしひとりだけにやらせておいて、あの人は、この人は・・・・・、家庭の中で、仕事場や、学校で、そして教会の中で、そう思って憤ってしまう。しかし、そもそもそういうわたしどもがしている奉仕、働き、それは、わたしどもが最初はほとんど<わたしも>したい、させて欲しい、そういう思いではじめるわけです。わたしも何かしたい、わたしもできることがあれば、と。マルタも、<わたしも>主イエスや、その一行のためにもてなしたい、そういう思いで働き始めたのでしょう。しかし、まことにせわしく立ち働くうち、何で<わたしだけ>が、そうなってしまう。<も>から<だけ>に<わたし>がなってしまう。もっと正確に言えば、<わたしも>したいから、<わたしが>した、している、そうしてこの<わたしだけ>となってしまう、そういうこと。
 
  それで、ちょっと横道にそれることになりますが、旧約聖書の列王記上19章にこういうことが記されています。そこは、預言者エリヤの異教バアルの預言者たちとのすざましい最後の戦いが記されているのですが、異教バアルの預言者をことごとくやっつけたエリヤは、しかし、そのバアル神を信じるイスラエルの王アハブの妻イゼベルの怒りに触れて、荒野に、そして山の中にひとり逃げ込みます。そうして、エリヤは精根尽き果ててしまうのですが、そのとき、主なる神が「エリヤよ、ここで何をしているのか」(列王上19章9節)、そう彼に問いかけた。そして、エリヤはこう答えるのです。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」(〃10節)。つまりエリヤもそこで「わたし一人だけが」と、<わたしだけ>しかいない、と言ったというのです。確かに彼はただ一人と言っていい、孤独の戦いをしてきたのです。たとえば、列王記上18章22節には、「エリヤは更に民に向かって言った。『私はただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる・・・・』」と、そう言っています。エリヤはまさにそういう戦いを生涯してきた人でした。しかし、ここでそのさしものエリヤも遂に疲れ果て「・・・自分の命が絶えるのを願って言った。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。』」(列王上19章4節)、そう言うのです。
  しかし、そのエリヤに対する神の答えはいささか厳しいのです。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と。神は、お前一人ではない、わたしは七千人も残してある、と言うのです。それはこういうことです、エリヤよ、おまえはそういうが、おまえは七千分の一だ、と。これはある意味で厳しい言葉です。つまり、あなたはその七千分の一に過ぎないのだということになります。しかし、けれども、それは本当は真に神のユーモアに満ちた、エリヤへの励まし、慰めの言葉なのです。と言うのは、聖書の七は完全数で、また千という数は膨大な数を象徴するのですが、そして、その後、列王記には、いよいよそのような七千人が実際に登場したという訳でもないので、それは完全なる圧倒的多数が働く、したがって七千とは、途方もない膨大な力という意味ですから、この七千とは、まさしく神の力に他ならない、したがって、お前はわたしの七千分の一に過ぎないという以上に、エリヤは確かに七千分の一という圧倒的小さき、いわば七千からみれば取るに足らないような存在である、しかし、そのエリヤが小さければ小さいほど、しかし、あなたは七千分の一、その神の圧倒的力の中の一、その神の力の中の一人だ、あなたはあなたの七千倍の力の中にあるということです。それ故、エリヤ ― そこで「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と絶望しきっていたそのエリヤは、再びそこから立ち上がるのです。一人最後の戦いに出ていきます。彼は本当に、この主の言葉によって、ひとりに立てた。七千分の一、神の七千と共にある一として立っていったわけです。
 
  さて、今日の福音書に戻りますが、「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。・・・・」(41節)。イエスは、そうマルタに呼びかけています。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と。つまり、それはこういうことです。マルタよ、おまえは<わたしだけ>というが、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱しているに過ぎないのだ。おまえ自身を失っている。たったひとり、ただ一つの自分を受け入れられなくなっている」と。そして「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(42節)。この「必要なことはただ一つだけ」と主イエスがおっしゃている。それは、必要なものはただ一つ、失ってはならないただ一つのこととは、それはマリアから取り上げてはならないように、マルタよ、それはあなたも失ってはならないあなた自身なのだ、ということではないでしょうか。あのエリヤの七千分の一のその一であるということ。神、主のみ前でその一である「汝自身であれ」「あなたはあなたであれ」と。
  そして、この「マリアは良い方を選んだ」は、「マリアは」自分にとって、彼女にとって「良い方を選んだ」ということです。イエスは、マルタにそう語りかけている。マリアはマリア、あなたはあなた、かけがえのないあなたなのだ、と。イエスは、もてなし、奉仕に追われているマルタをしっかりと見ておられるのです。つまり、あのエリヤへの七千分の一というように、何よりこの方イエス・キリストが、わたしの七千なのです。<わたしだけ>ではない、<わたしも>なのです。
  だから、奉仕より御言葉だ、と主イエスはおっしゃっていない。つまり、どっちが大事かという問題ではないのです。あなた<も>このイエス、主と共にある。それは言い換えれば、わたしたちが日々選び取ること、わたしがなす一つのこと、わたしたちはいつも一つしかなし得ない。しかし、それはいつも神の七千分の一、そうたった七千分の一、でも神さまの七千分の一なのです。決して<わたしだけ>、<だけ>なのではない。そこから御言葉を聞くことも、奉仕、活動も生まれるのです。だから、むしろ、この主イエスのおっしゃっていることから言えば、マリアとマルタに優秀をつけるな!自分と他者を比べるな。他者を自分と比べるな。主イエスの前であなたはあなたであれ!あなたはわたしの七千分の一だ、ということ。わたし<も>七千分の一!
  だから、まことにわたし一人、そういときもある。誰からも顧みられないわたしであり続けなければならないときもあるのです。たとえそうであっても、あなたは、いえあなたも主の七千分の一なのです。何故なら、実際、このマリアもやがて御言葉を聞けない日が来るのです。マルタももてなしが出来ない日が来るのです。二人はどうしようもなくさめざめとその下、十字架の下で泣かなければならない日が来る。もう来ているのです。そのとき、この方、主イエスは弟子たちにこう言われたことを、ヨハネ福音書は記しています、「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(ヨハネ16章32節)。主イエスは「あなたがたが<わたしだけ>にする時が来る。いや、既に来ている」と端的にそう言われます。それは、まさに弟子たち自身が、<わたしだけ>、自分だけ、そのような姿をさらした時ではないでしょうか。それは、またこのマルタが<わたしだけ>、そう言う人間になった時なのです。しかし、それは何より、主イエス・キリストご自身をわたし<だけ>に、「あなたがたが<わたしだけ>にする」のです。しかし、このお方はその中で、何よりご自身この<わたしも>に、神さまの七千分の一になられ給うのです。
  それ故、「しかし、必要なことはただ一つだけである」、それは御言葉を聞くことか、奉仕か、そのように主イエスは問うているのではないのです。あるいは、マルタを否定しているのではないのです。むしろ、マルタを積極的に肯定しているのです。あのエリヤへの神さまの答えのように。マリア<だけ>、マルタ<だけ>でない。マリア<も>、マルタ<も>なのです。多くの人が、ここで、この物語を読むと忘れてしまうことがあります。気づかずに思ってしまうことがあります。それはマリア<だけ>があたかも主イエスのみ言葉に耳を傾けたかのように考えるのです。しかし、マルタ<も>その奉仕のただ中で、主イエスのこのお言葉を聞いているのです。「マルタよ、マルタよ」(ただ一回マルタよ、ではなく、二度彼女に呼びかけている ― それはすでに、主イエスがマルタに対してどんなにいたわっておられたか、そして、決して彼女を忘れ去ったり、ないがしろにしていなかったことを物語っています)、そのように呼びかけられているのです。マリア<も>マルタ<も>、主イエスのもとにいるのです。
  あるいは、こう言えるかも知れません。マリアのように主イエスのみ言葉に耳を傾ける時がわたしにも、<わたしも>あるのです。必要なのです。礼拝です。「主の足もとに座って、その話に聞き入」る必要がある<わたしも>あるのです。だが、「せわしく立ち働」くことが必要な<わたしも>あるのです。キリストは、そのように常にわたしの<も>になってくださる、そう言っていいでしょう。つまり、わたしが、いや<わたしも>常に神さまの七千分の一であるということは、つまり、決して、<わたしだけ>になさらないということは、一切は必要なこととして、神さまがお与えになってくださるということです。そのことをパウロはもっと端的にこのように言います、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8章28節)と。「万事が益となるように共に働く」 ― そのために主イエスは立っておられ、何より働いて、あなたにも仕えてくださったのです。
  あなたも<わたしだけ>人間になっていませんか?いえ、<わたしだけ>、これが絶えず、わたしたちを孤独にし、あたかも自分のしていること、いえ、自分自身が無意味であるかのようにするのです。しかし、<わたしも>、そうあなたも、主イエスはそのようにわたしを支え、導いてくださるのです。<わたしだけ>人間になることは寂しい、いや辛いことです。マルタも<わたしだけ>と言いつつ、しかし、心の奥底では<わたしも>と叫んでいたのです。その叫びを聴いてくださる神、主イエス。だから、主イエスは決して、マルタを心の狭い人間だ、と決めつけたり、たしなめたりはなさらないのです。誰でも<わたしだけ>、この<だけ>にとりつかれる、自分を失うときがある。わたしどももつい忙しい、あるいは一度にあれもこれもしなくてはならない、そう考えると、何で<わたしだけ>、なんであの人はしないの、そうなってしまう。でも主イエスは、そんなわたしどもに、お前は心の狭い人間だ、駄目な人間だと言われるのではなく、そんなわたしたちに、あなたに<も>がある、そう言ってくださる。<わたしも>であり続けること、どんな小さなこと、いや、何もなし得ないときでも、<わたしも>がわたしにある。こんなわたしに<も>なし得ることがある、<わたしも>としてくださる。そして、それは言うまでもなく、たとえわたしの眼にどのように映ろうともあの人に<も>、この人<も>であるということ。だから、いつもあの人に、この人に<あなたも>と語りかけること。それはどんなにわたしの生活を、その一つひとつを豊にすることでしょうか。この神さまの、主イエスの<も>を携えていきましょう。そして、あなた<も>、と出会う人に、この神さまの<も>を伝えていきましょう。

2004年7月18日 聖霊降臨後第7主日 「先立つのは愛」

ルカ10章25~37節
大和 淳 師

この「よきサマリア人の譬」は、イエスさまの譬えの中でよく知られた譬えのひとつですが、一人の「ある律法の専門家」がイエスに質問したことから、今日の譬は始まっています。この人は「イエスを試そう」とした。その「イエスを試そう」とした、ということが、既にこの人が、その律法・聖書をどのように受け止めていたのかを告げています。彼は「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と、「永遠の命を受けるために何をすべきか」と問います。ところが、主イエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と、逆に問い返された。そして、「彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」しかし、それに対して、「イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる』」、そうお答えになる。ここで共同訳聖書では「そうすれば命が得られる」、そう訳されています。しかし、これは、原文を直訳すると、「適切にあなたは答えた。それを実行しなさい、そうすればあなたは生きるであろう(実際、英訳聖書では”You have answered correctly; DO THIS AND YOU WILL LIVE.”)」となります。つまり、この人は、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いましたが、イエスはそれに対して、「それを行えば、永遠の命を受ける」と言うよりも「そうすれば、生きるであろう」、まるで、今主イエスの目の前にいるその人が死にかかっている病人であるかのように、つまり、この譬の中の「追いはぎ」に出会って「半殺し」にされた人であるのように、そう言われるのです。ともかく、この「生きる」、生きるため、イエスの語り給うことは、そこに向けられています。

さて、そのように主イエスに言われて、この人は、「彼は自分を正当化しようと」、「では、わたしの隣人とはだれですか」と再び問います。隣人を愛する、それが実に正しい答えだと、彼は主イエスにそう評価してもらったわけですが、ともかくそれで彼は喜べなかった。尚彼は問わねばなりませんでした、「わたしの隣人とはだれですか」と。主イエスは無条件で、彼の答えを正しいとし、無条件でそれを行え、と言ったからです。彼は主イエスによって根本から揺り動かされます。それ故、彼は言うのです、人間の愛には限度、限界がある、いや、限界をひかねばならない。「イエスよ、そうは言っても、隣人を愛するということにも限度・限界はあるでしょう?」、イエスの前で、彼はそう自分を正当化しようとするのです。イエスは、その彼を見つめておられます。
それで、ここで全く正面から語られてないことがあります。最初に主イエスに、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問われて、この人は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」(27節)と、神を愛すること、そして隣人を愛すること、この二つのことが最も大事なことなのだ、ということを答えたわけです。そうして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と再び問うのですけれど、しかし、彼にとって、第一のこと、神を愛することは問題にならず、ただ、第二のこと、隣人を愛することだけを問題とするわけです。つまり、「では、わたしの神とはだれですか」とは問わない。それは分かりきったことだったからと言えば、そうかも知れません。でも「では、神を愛するとはどういうことですか」、本当は、このことは決して分かりきったことではない。むしろ、この人は本当には神を愛することが分かっていない。いや実は、彼は神を知らない、「神を愛する」ことを欠いている人間なのだ、福音書はそれを描いている。だから、真っ先に「では、わたしの隣人とはだれですか」と問うのだ、と。何故なら「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」 (1ヨハネ4章8節)。つまり、「自分を正当化しようとして・・・・」という、このことが、実は、「神を愛する」ことを欠いている人間であることのしるしである、と言っていいでしょう。「神を愛する」ことを欠いているが故に「自分を正当化しようと」する人間なのです。
それで、このイエスの前で、自分を正当化しようとする人間、それはまた生身のわたしたちであると言えるかもしれません。わたしたちが、隣人を愛せない、なかなか愛せない、そう思っている、それは自分を正当化する、そのことに関わっていると言っていいでしょう。つまり、これで結構人前では隣人を愛する、そういうこともする人間である。困った人を助けたり、配慮する、そういうこともできる人間、そんな風に自分を正当化している、英語では、この言葉はjustify himselfと訳されているように、自分で自分を正しいとする、義とする、そう言う言葉ですけれど、もっと砕けて言えば、自分で自分を良い人間とする、そういうことだと言っていいでしょう。これで自分は結構良い人間なのだ、そう自分で思っている、あるいはそうふるまうこと。それ自体、別にそれほど罪なことではない、大した問題ではないように思えるかも知れません。けれど、先ほど述べた神を知らない、「神を愛する」ことを欠いている、そのとき、この自分を正当化することが起こる。そして、それはあなたは気づいていないけれど、実に本当は深刻な事態なんだということ、それが明らかにされていきます。何故なら、自己正当化は、結局自分が傷つくことを恐れている、そんなことをしたら「生きられない」、そう思うからです。失われることを恐れる人間、だが主は言われます、あなたは生きる!
そもそもこの物語が、どういう背景にあるのか、はっきりしませんが、いろんな人がいる前で、この人はイエスに問いかけたのだろうと思います。つまり人前で、神ではなく、あの人、この人の前で良く思われたい、そういうことで、結構人間は一生懸命になれる。人に良く思われたい、そう言う一心で、結構これで人間は人に親切になれる。でも「誰も見ていないところではどうなのか」、つまり、神のみが見ておられる、隠されたところを見ておられる神。イエスのこの話は実はそこに向けられているものなのです。つまり、「神を愛する」、そのことが問われる場所を示すのです。
つまり、まさに一対一で、誰も見ていない、そう言う意味では、この祭司やレビ人のように、傷ついた人を見て、まさに「道の向こう側を通って行った」、通り過ぎていくことができる場所、そういうところです。この「エルサレムからエリコへ下って行く」道というのは、その間にはワデ・ケルトの峡谷があり、大変険しく、また人通りのない寂しい道なので、そういう道ですから、実際しばしば強盗も出没したと言います。ともかく、そういうところでは見て見ぬふりをしても、相手も気づかないし、誰にも分からない、まさにそういうところで、のことです。更には、彼らが祭司やレビ人であったということは、たとえば、彼らは神殿に仕える者として、レビ記21章1節の戒めにあるのですが、死人に触れて身を汚してはならないという掟もあったのですから、それを理由にして、「道の向こう側を通って」行った、そう抗弁することもできるのです。そういう風に、誰も見ていないところで、誰も見ていないと思うからこそ、自分で自分を正当化し得る、していく。つまり、人間いくらでも言い訳、自己正当化できるのです、神をぬきにすれば。この「道の向こう側を通って行った」、祭司もレビ人にも、「道の向こう側を通って行った」、としつこいように繰り返されています。何より、それは、あの「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、その神への愛を避けて通っていく道、神を通り過ごしていく道なのです。それが「自己正当化」の道なのです。
それでこのサマリア人について見てみましょう。ここで主イエスは非常に具体的に事細かにサマリア人がしたことを描いています。それは確かに、隣人愛そのものの行為です。しかし、それは何より、あの「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」を思わせます。サマリア人は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして」、この追いはぎにあって死にかかった人を助けるのです。更にもう一つ大事なのは、このサマリヤ人は、宿屋の主人にお金を渡してこう言っていることです。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」つまり、このサマリヤ人は、彼が癒えるまで、自分の仕事を放り出して、つきっきりで看病したと言うのではないのです。彼は、むしろ翌日、自分の仕事、商いに戻っていきます。彼はただなし得ることをなし得るままにしたに過ぎないのです。「隣人を自分のように愛する」、つまり、わたしたちが、この自分を離れて、なくして、いわば神のごとくなって、今より向上した人間になって愛するのではないのです。まさに「自分のように」、この不完全なわたし、この「自分のように」、したがって、わたしがわたしであるがままに、この限界そのものの中でなすことなのです。完全な愛、完璧な愛が要求されているのではないのです。だから、その限界のある「自分のように」であることを正当化する必要はないのです。
ですから、大事なことはただ一つです、「道の向こう側を通って」行かない、ただそれだけです。わたしどもは、このサマリア人の至りつくせりの行為に眼を止めてしまいます。そうして、「行って、あなたも同じようにしなさい。」というイエスさまのお言葉にひるむ、自責の念にかられていくのです。しかし、先に見たように、その彼も、自分のなしえることをしたに過ぎないのです。「あなたも同じように」、というそれは、「道の向こう側を」通り過ぎない、ただそのことだけ、「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると・・・・・」、傍に寄ったことだけです。そして、彼は寄り添えるだけ、その人に寄り添ったのです。もちろん、傍を通り過ぎない、そのことも決して簡単なことではないかも知れません。なぜなら、人間は本来、自己中心的に、自己正当化して生きようとするものだからです。愛とは、自分が求めているものを、あえて相手に差し出すことです。
ここでふと気づいたことがあります。「行って、あなたも同じようにしなさい。」というこの主イエスの言葉を、わたしは何の疑問もなく、あなたも行って、このサマリア人と同じようにしなさい、ただそのようにだけ理解していました。もちろん、それが第一の意味であると言っていい。でも、あえて、ここで<サマリア人と同じように>と言わずに、ただ「同じように」と、そうおっしゃっている。そこには、そのように傷つくことを恐れているわたしたちに、あえて、傷つくことを恐れるな、あなたは何も失われない、あなたは生きるだろう、そのような招きが含まれているのではないか。傷つくわたしたちを待っているのは、恐ろしい孤独ではない、わたしたちは傷ついたら見捨てられてしまうのではなく、そこでこそ、わたしたちは真のよきサマリア人に出会う、わたしに寄り添い、傷を癒し、手厚く包帯を巻いてくるサマリア人、すなわち、主イエス・キリストと出会うのだ、そういうことではないか、と。すなわち、あなたは生きる!主はそう言われ給うのです。それは、だから、あなたはわたしと共に生きる!そういうことです。
それで、最初に、主イエスに質問した「ある律法の専門家」は、神を愛すること、そして隣人を愛すること、この二つのことが最も大事なことなのだ、ということを言い、それに対して、主イエスは「適切にあなたは答えた。それを実行しなさい、そうすればあなたは生きるであろう」、そう言われた。けれども、この人は「神を愛する」ことを欠いて「では、わたしの隣人とはだれですか」と問うたということをお話ししました。ここで、この何よりその「神を愛する」、そのことが語られてくるのです。
それは何よりこのサマリア人を通して示されます。先も言いましたように、このサマリア人は、傷ついた人に何も言わず、後は宿屋の主人に託して去っていきます。自分がこの人を救うのだ、救わなければならない、そういうことから自由なのです。ただなし得ることをした上で、誰にもありがとうを言われることなく、自分の仕事に帰って行く。委ねていく。自己正当化することなく、まるで後は神に委ねるように、自分のなし得ること、自分の限界に留まる。そこに神を愛する姿がある。いや、本当にそこで、一対一で神さまに愛されている、支えられているからです。ここでもう一度、今日第一朗読で読んだ申命記の言葉に耳を傾けたいのです。「それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30章12-14節)
だから、この主イエスの招きを心に留めてここから出て行きましょう。「行って、あなたも同じようにしなさい。傷つくことをもう恐れなくてもよい。あなたは何も失われない、あなたは生きるだろう!」

2004年7月11日 聖霊降臨後第6主日 「先立つのは愛」

ルカ9章51~62節
大和 淳 師

今日の日課は「サマリア人の村」での出来事、そして「別の村」での出来事の二つの物語を一緒に読むのですが、まずその書き出しは「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(51節)、そのように始まっています。この新共同訳聖書は丁寧に意訳されているのですが、ちなみに原文は直訳しますと、「彼が取り去られる日が近づいたとき、彼は、エルサレムに行くために彼の顔を向けた」、つまり、主イエスは、ご自身の十字架の日が近づいたことを意識され、それ故、「彼の顔をエルサレムに向けた」、顔を向ける、というのは、新共同訳が訳したとおり決意を固める、エルサレムに行く固い決心をしたことを意味する、実は大変強いヘブル語的表現なのですが、この「彼の顔」という言葉がこの後の文章でも繰り返されます。52節の「そして、先に使いの者を出された」も直訳すると、「彼の顔の前に使者を遣わした」であり、53節「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」は、「彼の顔がエルサレムに向けられていたから」。つまり、そうしてルカ福音書は、どれほどイエスがここで固い決心をされているかを読者に知らせているわけです。並々ならぬ決意だということ。だから、この最初の物語において、「サマリア人から歓迎されない」、新共同訳にはそう言う標題、小見出しがついていますが、ルカは、ここで、サマリア人がイエスが村にはいるのを拒んだのだけれど、それは「彼の顔がエルサレムに向けられていたから」だ、エルサレムに向かう決心、ご自身の死、十字架への固い決心をされていたからだ、そういうことを強調しています。つまり、サマリア人が拒んだのは、エルサレムに向かう、この主イエスの決心の故であったということ。そのことから、54から56節の弟子たちの発言が起きてくるのです。あらためて読みますと、「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。」(54-56節)

それでこの弟子たちが、ここでそういう風に主イエスに提案したということ、これは大変びっくりするような提案と言えます。ある意味で、この弟子たちは実に敬虔とも言えるほど、単純に神の、主イエスの力を信じています。イエスが望めば、自分たちは、こんな村の一つや二つ、滅び尽くすことが出来るんだ、と言うわけです。それで、この新共同訳聖書でははっきりしないのですが、原文を直訳しますと、ぎこちない文章になりますが「天からの火を降らせて、彼らを燃やし尽くすことをわたしたちが言うのを、それをあなたは望みますか?」、つまり、ここで弟子たちは「あなたは望みますか」とそのように主イエスの意志を問うているのです。

最初に申しましたように、ここで主イエスのお顔がエルサレムに向けられたということ、やがてはっきりするのですけれど、弟子たちは、それは主イエスがメシアとしてエルサレムで何か栄光の座に着く、その決心をされた、そういう風に思い込んでいたということでしょう。だから、それを阻む、拒んだこのけしからぬサマリヤの村、それは焼き滅ぼされてもいいのではないか、そういうことでしょう。ともかく、それがあなたのご意志でしょう、弟子たちはそう問うているわけです。しかし、主イエスはその提案を拒否します。55節「イエスは振り向いて二人を戒められた。」この「戒められた」という言葉も大変強い言葉で、叱りつけたと、実に厳しく戒められたという。つまり、ここでイエスの怒りは、サマリヤ人ではなく、この弟子たちに向けられたのです。

ともかく、サマリヤ人は非がある、悪である、弟子たちはをそう思っていたわけですが、しかし、主イエスはサマリヤ人を裁かない、サマリヤ人を悪としなかった、むしろ、他者を裁くご自分の弟子たちを悪としたということ。福音書は、それが、主イエスのご意志である、そのことが明らかにされます。わたしたちは、さしあたってここで正義ということを考えさせられると言っていいでしょう。そして、主イエスはわたしたちの持つ拠り所、その「正義」としてあらわれるものを厳しく戒められる、放棄することが求めているのです。何故でしょうか?

今日、丁度今日参議院選挙の日ですけれど、連日、新聞マスコミが取り上げる政治経済の混乱、無秩序、まさに正義の失われた社会のように言われます。そのこの国を救うものは一体何なのか。正しいことが正しいとされ、悪が悪として裁かれる、そのように私たちの間で正義が行なわれることである、多くの人がそう思っていると言っていいでしょう。それがない故に、わたしたちは怒り、憤る、あるいは、救いようのなさに絶望したり、また諦めたりしているだ、と。実に悪人が栄え、正しい者が見棄てられるかのように、この現実を感じてしまうわけです。悪を放置していいのか、ここで、弟子たちが提案していること、それは、まさしくそういう問題であると言えるでしょう。

そもそもそのような私たちの拠り所としている「正義」とは何か。私たちが、現実に、先のように、社会悪や不正に対して、悪に対して、正義を考える、そこでは、実は、正義を結局力の原理によって考えていると言えます。まさにこの弟子たちの提案、それは少々極端な提案ではありますが、実に、わたしたちは、正義を力の原理によってしか考えられない、そういうことを語っていると言えます。
ともかく、この弟子たちの提案が背景にしているのは、その極端さはともかく、力をもって報いるということに他なりません。主イエスよ、あなたはその力をもっているでないか、ということ。神の力の支配を望む。しかし主イエスは力に対して、力をもって報わなかった。それがイエスの固い決意であった。

正義とは、わたしどもにとってはそのように第一に力の問題となるのです。わたしどもが現実に感じている、悪に対する、正義に対する焦躁感、それは、悪を悪として裁く力に対する、正義を正義とする力に対する期待、待望です。力の原理によって考え、頼っているということ。この選挙でも、そう言う論理が、生き方がまさにむき出しになっています、あたかもそれだけが政治であるという風に。
そもそも、わたしの子ども時代のヒーローであったのは月光仮面ですが、月光仮面や鉄腕アトムから始まって、昔からあるこどものヒーロー、正義の味方は、端的に力でした。最近は、どんどんそのテレビなどのいわゆる「正義の味方」の力はエスカレートして、どっちが、悪だか正義たか分からないほど残虐な場面が展開されることがしばしばですが、それは、悪が、単に弱い悪であっては、現実にはこどもたちに訴えるものがないからでしょう。それ故、悪がますます力をつけていく、それに従って、当然、その悪を克服する正義も、それ以上に力を持たなければならない、そういう意味では、子ども番組というのは、大人社会のいわば縮図ですから、そうして正義が、より力を持つもの、力の権化と化していくわけです。つまり、正義と悪は、結局力の優劣の問題であるが故に、結局、最終的には、見分けがつかなくなるまで、エスカレートしていくわけです。だからそれは何も子どもの番組だけに限らない。時代劇とか、あるいは、いわゆる刑事を主人公とした大人の番組でも同様です。何故そうなるのか。もちろん、社会的な、われわれの時代の価値観の変容とか、そうした時代の反映と言えるのだけれども、しかし、いずれにしても、結局は、いつの時代も変わらないのは、悪も正義も、それは力の原理、本質的に、そこにあるということです。いつの時代も、この世はこの力の原理によってきたと言えます。力のない、無力な正義は考えられないのです。そのような現実主義。テレビの水戸黄門の印篭が端的に象徴するように、正義とは権力、力でなければならない。安心できないのです。もちろん、そのようなわたしたちも愛すること、互いに信頼し合い、愛することの大切さは知っています。しかし、悪に対してまず排除、裁き、それが先立たねばならない、そう考えるのです。それで非を認める、悔い改めるなら許してやっていい、と。力が先立つ正義です。

それで、一歩踏み込んで、このイエスの出来事を通して明らかにすることは、わたしたちは、今や、この聖書の前で、そのような力の原理ではなく、全く力の原理以外のものによって生きる、そのような生き方があるということです。イエスの決意とは、今や、そのような力の原理とは全く異なるものであるということ。しかし、私たちの眼からは、すなわち、力の原理によって考え、力の原理を拠り所として生きる私たちからは、このイエスの道は、まったく無力な、従って、愚かな、役に立たないものに見えるのです。
そのイエスの道 ― 力の原理によって生きる人間が、役に立たない、愚かしいものとして、侮り、見棄てたもの、それが、キリストの十字架です。聖書は十字架こそ、神の義であることを明らかにするのです。主イエスは、今やそこだけにはっきりとお顔を向けられているのだ、福音書はそう語るのです。

確かに、正しいことと悪とは、全く厳密に区別されなければならないし、裁かれなければならないでしょう。それ故に、キリストは、その悪を、御自分に担い、十字架において、人間の代わりに裁かれ給うのです。神は、十字架において正しさと悪を峻厳に区別し、悪を裁き給うのです。しかし、神は、十字架において最早正しい人間と悪き人間とを区別し給わないのです。何故なら、あの力の論理、力の原理は、決して人間を、正しいことをなす人間も、悪を行なう人間も救わないからです。力による正義は、決して人間を救わないのです。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26章52節)のです。先立つのは、力、裁きではなく、愛、愛すること。そのようにして悪に打ち勝つ方、それがキリスト、わたしたちの神。

何より主イエスご自身、その力ある方であり給うのに、最早、その力の原理によって、人間に臨まれないのです。それ故、主イエスは、この世からみれば、もっとも無力と、最も愚かになり給う。そのように力を放棄する力、それが端的にこのイエス・キリスト、すなわち愛なのです。この愛だけが、人間を悪から救い、罪から救うのです。
力としての正義を超える正義、神の義、それはただ愛のみなのです。イエスは愛によって悪に打ち勝ち給うのです。そして、それ故にこそ、この力の原理にでしなく、その力の原理以外の義、愛によってそ生きることを、イエスは促し給うのです。それは、私たちがいわば「正しい人間」になろうとすることではありません。そのような敬虔な人間になることではない、そう言っていいでしょう。と言うのも、実にあのヤコブとヨハネ、この二人は敬虔に、そして自分たちこそ「正しい人間」であるとして、そのように神の力、イエスの力を信じているからです。

1999年の春に、コロラド州カロンバイン高校、デンバー郊外のカロンバイン高校で起こった、2人の高校生が学校に爆弾を仕掛け、自動小銃などで生徒と先生13人を殺害し、自分たちも自殺をした事件が起き、全米のみならず、世界中に衝撃を与えました。マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「ボーリング・フォー・カロンバイン」のきっかけとなった事件ですが、その犠牲者の一人にレイチェル・スコットという女の子がいました。彼らの事件前に作成したビデオの中で、レイチェルは既に名指しで殺したい相手に挙げられていたということですが、それは彼女がクリスチャンであったからと言います。ある日、その2人がフィルムのクラスで学校でみんなが殺されるという内容の映画を作ろうと言い出した時、先生も、だれもそれを止めようとしなかったそうですが、彼女がただ一人穏やかに、しかしはっきりとした態度で、彼らを止めようとしたのだそうです。そして、彼女は彼らの怒りの犠牲となったのです。3発の銃弾が彼女の急所をはずした後、犯人の一人が彼女の髪の毛をつかんで、「これでもおまえは神なんか信じるのか?」と聞いたそうです。しかし、彼女は”You know that I do”と答えた瞬間、犯人は最後の一発を彼女の頭に撃ち込んだのです。

それで生前彼女は「わたしの倫理基準」という題でエッセイの宿題を書いていた。その中で彼女は自分の倫理基準を「正直であり、人の痛みがわかり、すべての人の中によいものを見出す」といっています。そしてこう書いています。「私の基準はみんなのとは全く違うかもしれない。私の基準なんて絶対に実現しないおとぎ話みたいなもんだと思えるかもしれない、けれども、あなたからはじめてみてください。そして、それがあなたの周りの人々の人生にどんな影響を与えるかを見てください。あなたは一つのchain reaction“連鎖”をはじめることになるかもしれないのです」その彼女の言葉どおり彼女は自分の死を通して人々に大きな影響を与えました。そして、今、彼女の両親をはじめ、彼女の教会の牧師や信徒の方々のみならず、そしてたくさんの人々が彼女のメッセージを携えて全米の中学高校を回っているそうです。

ここで今日の後半の物語を駆け足で見ていきたいのですが、デートリッヒ・ボンヘッファーは、ここについて、大事なことは、イエスはここで誰一人、あなたは従ってはならないともあなたは従えないともおっしゃっていないということだと言っています。そしてもっと言えば、ルカは、ここに出てきた三人の人々が結局従ったのか、従わなかったのか、その結果も記していないと。ただここで主イエスは今わたしが持つ、拠り所としているものをまず放棄することを求めているのです。主イエスに従う、それは自分を拠り所としては判断し得ないのです。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(57節)、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(59節)「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」(61節)、この三人に共通していることは、そういうことです。しかし、単にそれだけなら、たとえば「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(9章22節)、主イエスは誰に対してもそう答えればよかったのです。もちろん、結局は「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」いく、そのことが求められていると言っていいでしょう。しかし、主イエスはここでその一人ひとりに違った答え方をされます。それはそれぞれ一人ひとり、違ったイエスへの服従、従っていく道があるということ。何故なら、また人それぞれ違った葛藤を持つからです。力を求め、力のもとに生きている限り、イエスに従っていくことはわたしたちに常に葛藤をもたらすものです。しかし、もう一度繰り返せば、イエスはここで誰一人、あなたは従ってはならない、あるいは従えない、とはおっしゃっていない。むしろ、そういう葛藤の中で、イエスはわたしたち一人ひとりを召し出す。ご自身のchain reactionに召し出す。自分のこと、この世のこと、その狭間にぶつかるわたしたちに声をかけて下さると言うこと。ということは、わたしたちもまた葛藤の中で召し出されている。葛藤があるから従えないのではない、葛藤があるからこそ、イエスはエルサレムへと進み、そしてわたしたちを召し出すのです。レイチェルさんの言葉を借りれば、「けれども、あなたからはじめてみてください。そして、それがあなたの周りの人々の人生にどんな影響を与えるかを見てください。あなたは一つのchain reaction“連鎖”をはじめることになるかもしれないのです」ということ。

それ故、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」、この主イエスの言葉は、何より常に、わたしたちの葛藤、苦しみがこの地上にあるからです。わたしたちが苦しんでいる、悩んでいる、不安に脅えているからです。そこでまた、わたしたちが尚力の原理により頼もうとするから、まず裁きを、そう考え、行動するからです。言い換えれば、思うようにならない生をわたしたちは生きている、そのことを主イエスはよくご存じだ、ということです。したがって、思うようにならない人生を勇気をもって生きる。思うようにならない、そこにわたしたちの苦しみや悲しみがあります。つまり、わたしたちは、この世にある限り、つまりこうして生きている限り、眼に見えるものに縛られている、どうしても手放せないでいる。でも、それが本当にわたしを支えるか、確かなものなのか?
それ故「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」 ― それはこの方の行く道はただ単に十字架の道、苦難の道だというのではないのです。それは、この方は、この地上では、まさに復活の主であり給うということです。誰もが、それぞれに十字架の道、苦難の道を歩む、自分の生の分だけ重荷があるのです。だが、それはただ単に、わたしどもは苦しみを負えばいい、重荷を負うのだ、ただ単にそれだけのことではないのです。そのわたしの苦しみ、重荷がある、そこで、いやそこでこそ復活、この復活の主イエス・キリストに出会うのです。そこでこそ、この方の復活が、わたしの命となってくださるのです。

わたしたちが悲しみにあうのは、あるいは苦しむのは、今まで確かだと思っていた、あるいは、そういう風に頼りにしていたもの、先に正義ということで考えましたが、それだけでなく、たとえば健康であれ、財産であれ、また家族であれ、そういうものが確かではなくなるからです。本当に信じられるものではない、そのことがはっきりしてくるからです。だから、そこで苦しむ、怖れ、不安にかられる、憤ったり、諦めたりする。しかし、わたしたちは、そこでこそこの方と出会っているのです。復活の主、永遠の生命である方の声を聴くのです。何より、その苦しみ、怖れ、不安を、悲しみを、傷みをこの方自身が担われ給うからです。復活、キリストの復活、それは、そのあなたを神は決して見捨て給わない、ということです。この弟子たちのように、何一つ信じることのできないままに、何の条件もなく、そのままに担われてい給うのです。使徒ヨハネは言います、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(1ヨハネ4章18節)。だから、こんなわたしが従えるのか、もうそう考える必要はないのです。パウロも言います、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8章28節)と。勘定は、ちゃんと私の方でする、だから、お前は私だけを見よ、と。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」それは、わたしたちが、この主イエスによって伴われる生であり続ける約束なのです。だから、勇気をもって、このわたしの生を受け入れていきましょう。そう、「けれども、あなたからはじめてみてください。そして、それがあなたの周りの人々の人生にどんな影響を与えるかを見てください。あなたは一つのchain reaction“連鎖”をはじめることになるかもしれないのです」。

最後に、先日、北朝鮮による拉致家族の曽我ひとみさんが、ジャカルタで、北朝鮮に残された家族と再会されたことに触れたいのですが、あの再会の瞬間、家族を抱きしめる曽我さんがどんなに深く、夫を子どもを愛しているか、誰もが深く心打たれたと思います。わたしも涙を禁じ得ませんでした。一方でテレビ、マスコミは、それを引き起こした北朝鮮への憎悪をかき立てるかのように、ニュースを伝えます。でも、わたしは曽我さんが妻として、母として示してくれた、何ものにも消せない深い愛情、それこそ、いつか北朝鮮の人々の心をも動かす、いつか、この国と和解し得るのは、そのような行動だけである、そういうことを曽我さんは本当に教えてくれたと思うのです。愛とは勇気です。制裁、対抗、そのような力の論理が両国だけでなく、世界中に蔓延しています。でも、いつも静かに人を動かし、そして、人を救うのは・・・。みなさん、わたしが、あなたが「一つのchain reaction“連鎖”をはじめる」ために、このお方が「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もなく」今わたしの中で、あなたの中で生きておられるのです。