2013年6月9日 聖霊降臨後第3主日 「自分を知る」

ルカによる福音書6章37〜49節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

私が高校生の時、マザーテレサの特集がテレビで放送されていたのを見たことがあります。その特集の中で紹介されていたのですが、ある時、彼女はある人に こう語ったそうです。「人は私のことを聖人だとか敬虔深い人だと言いますが、私はただの罪人です」。「私はただの罪人です。」当時この言葉を聞いた私は、 彼女のような立派な人でも、このように謙虚な態度でおられるということに感銘を覚えたものでした。当時私自身はまだキリスト教に少し関心を持ち始めていた だけなので、「罪人」という意味をよく理解はしていなかった故にそう思ったことでした。しかし、彼女は謙虚な態度であの言葉を述べたのではなく、(もちろん謙虚さもあるでしょうが)他人から聖人と言われようと、自分は神様との関係において、自分自身は神様から離れている罪人に過ぎないという告白をしていた、強いて言えば悔い改めていたのだと、後になって私は理解致しました。Read more

2013年6月2日 聖霊降臨後第2主日 「敵を愛す」

ルカによる福音書6章27〜36節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「敵を愛しなさい、憎む者に親切にしなさい、悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」主イエスはこう言われました。包括して、「敵を愛しなさい」という教えです。キリスト教の「崇高な教え」として、まるで天然記念物を扱うかの如く、この教えが大事にされているというイメージを、まずは取り払い、御言葉に集中していただきたい。世間のイメージと重ね合わせますと、ますますこの教えの意味がわからなくなり、混乱するからです。そのイメージがこの教えをより「難解」なものに作り上げられてしまっている気が致します。これは御言葉を聞く私たちの問題なのです。そして、愛するということは好き嫌いではないということです。

さて、御言葉に聞いてまいりますが、ルーテル教会が発行している「聖書日課」の今日の箇所には、このような解説が記されています。「27節に敵を愛すと書かれています。直訳はあなたがたは愛しなさい、あなたがたの敵たちをです。敵というギリシャ語は憎しみという言葉から派生していて、憎まれているとか敵視されているという意味での敵です。あなたがたが敵視しているではありません。あなたがたが敵視されているのです。そのあなたがたの敵たちをあなたがたは愛せとイエスさまは言われます。」と解説しています。直訳の解説を含めて、「あなたがたが敵視されている」という解説は的を得ていることだと私も思います。その根拠は、この福音書が書かれた時の時代背景、特に教会をとりまく周囲の状況から察することができるからです。当時は、まだキリスト教が公認されていない、激しい迫害の只中にあった時代です。周りはキリスト教会を敵視、憎んでいる勢力だらけであった。ローマ帝国やユダヤ教は特にそうでした。自分たちを憎み、迫害する者たちが後を絶たない状態です。それはまた、外部だけに存在した問題ではありません。教会内部でもたくさんの問題があり、意見の違いなどから会員同士で敵視、憎み合うことはよくあったことでしょう。コリントの手紙などを読みますと、よくわかりますが、実にパウロは、生涯の宣教活動の中で、この外と内からの勢力、圧力に常に苦悩されていたことかと思います。

主イエスのこの教えを聞いた当時の教会の人々は、どのような想いにあったのでしょうか。今日の福音書の箇所は、主イエスの「平地の説教」と言われる場面です。マタイ福音書の山上の説教とは異なり、ルカ福音書では、主イエスは山から降りてきて、弟子たちと群衆に教えておられます。そしてすぐ前の6章20節の「幸いと不幸」の教えからは、特に弟子たちに目を向けて主イエスは話しておられます。群衆もたくさんいたでしょうが、まず何よりも初めに、弟子たちに語るのです。「敵を愛せ」と。当時の教会の人々は、自分たちの姿をこの弟子たちに重ね、この教えを聞いていたことでしょう。自分たちを敵視し、迫害するローマ帝国やユダヤ教の人々を愛せと。そう彼らは受け取ったはずです。そして、私たちと同じように、この教えを聞いて、彼らも戸惑ったかも知れないですし、困惑したかもしれません。でも、この教えを無視して、敵を憎み、武器を取って立ち上がろうとはしなかったのです。もちろん、ささいや小競り合いはあったかも知れない、しかし、彼らの信仰告白は、この主イエスの教えを土台としていたに違いないでしょう。その結果彼らは何をしたか、いやされたのか、それは殉教していったということです。殉教、それは単に「死」を意味することではなく、その人を通して、キリストを証ししたということです。殉教した人の姿を通して、キリストが真にそこにおられると人々は受け止めたことでしょう。あの敵を愛せと言われたキリストがそこにおられる。十字架を通して、とことん敵を愛し抜かれたキリスト、このキリストの十字架こそが私たちの救いとなった。赦しとなった。神に敵対していた私たちへの赦し、それが愛の実践となって、生きる活力となった。そう断言できるのは、キリストが復活したからです。敵を愛し抜き、敵から殺されてそれで終わったのではないということです。敵を愛すその「愛」は敗北し、死んでしまったのではない。最後に残ったのは、憎しみではなく、愛だからです。復活がまさにそのことを語っています。愛が憎しみに勝ったのです。人々は信じたことでしょう。そこに希望を抱いたことでしょう。敵を愛せと言われた主イエスの言葉の中に、人々は真理を悟ったはずです。

しかし、現代の私たちはキリスト教の歴史を知っています。それもキリスト教が公認されてから現代に至るまで、キリスト教が、教会がやってきた様々な問題と向き合わなければなりません。十字軍は掠奪と侵略の歴史を作りました。キリスト教国は互いに愛し合うどころか、戦争を繰り返してきました。今もそうです。敵を憎む歴史、その歩みそのものです。主イエスの教えと全く反対の歩みを成してきているではないかと、批判される。真にその通りです。罪の歴史があります。でも大切なことはその罪を知る事です。敵を愛せないという罪です。そう、私たちは真に敵を愛せない、人間の力では、その思いの中ではそうです。愛であられる方のとりなしなくして、愛の世界には生きれない、いやその愛の世界を見出すことができないのです。ここはエデンではない。エデンの園から追放された人たちが生きる世界です。憎しみに満ちている世界です。クリスチャンであろうと、なかろうと全て肉なる存在は、この世界に生きています。憎しみがあり、憎しみが増す世界。その勢力は偉大で、人間の心もそこに縛り付けられているのです。だから、自分を愛してくれる人を愛することで、精一杯なのです。さらに、精一杯どころか、自分がその人に愛されていると確認しなくては不安で不安でしょうがないという思いに苛まれることだってあります。さらにまた、時に自分を愛してくれる人でさえ、愛せなくなることがあります。その逆もあります。愛の領分というものを、自分のはかりではかってしまうからです。そこにはやはり、「憎しみ」という力が働くからでありましょう。憎む者をも自分のはかりで作ってしまうという現実があるのです。

改めて、考えさせられます。私たちは「敵を愛する」ことなど到底できないと判断してしまいます。だからと言って、「敵を憎む」ということを願っているのでしょうか。憎まずにはおられないということはわかります。その思いは私にもあるからです。しかし、「憎む」ということを心の底から願っているわけではない。「致し方なく」と言う思いがどこかにあるはずなのです。憎しみに歯止めが利かなくなり、敵を増やしてしまうという状況にあっても、それを決して望んでいるわけではない。むしろ、本当は敵を憎まざるえない、敵を愛せないという自分自身こそが、まず愛されたいという思いがあるのではないでしょうか。愛を受けたい、愛を知りたい。愛の只中に生きていきたい。敵を愛すなんて不可能だと一蹴してしまう自分の思いの中に、むしろ自分こそ愛されたいと思っている。自分も敵から憎まれている。そういった緊張関係を感じる中でこそ、神経を尖らせている時にこそ、真の愛をお互いが、憎み合う者同士が願っているのです。

私たちが生きる世界、憎しみが蔓延している闇の世界に、神の御子イエスキリストは光としてこの世界に降ってきてくださいました。その父なる神様の御心、ご意志を聞いてください。ヨハネによる福音書3章16節―17節です。「03:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 03:17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」この世界を愛されるがために、私たち一人一人を愛されるがために、愛する自分の子どもを送って下さった。大切な宝物を贈って下さった。罪故に神様から離れ、神様に敵対していた人間を愛するためにです。敵を愛する、それこそがこの世を救うことであると、父なる神様は愛のご意志を、主イエスを通して示されました。主イエスのご生涯、それは愛のご生涯とも言えるでしょう。パウロはフィリピの信徒への手紙2章6-8節でこう言います。「02:06キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 02:07かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 02:08へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」自分を無にして、へりくだって、死に至るまで、その道を歩まれた。誰のためにか、無論私たちのためにです。この信仰告白とも取れる御言葉の中に、主イエスの、神様の全き愛が示されているのです。そして、大切なことは、主イエスは「人となった」ということです。私たちと同じように。それどころか、何の力ももたない「無力な人」として。でも、主イエスはただ私たちに愛を携えに来られたということだけでなく、御自身が父なる神様から愛されているということを生涯語られるのです。主イエスはその愛に信頼していたと言えるでしょう。

またパウロは、コロサイの信徒への手紙3章14節でこう言います。「愛は全てを完成させるきずな」であると。この全てということの中に、敵への愛が込められています。主イエスのご生涯、それが愛のご生涯であるということは、御自身の十字架と復活によって明らかになるのです。愛だけが残り、愛が全てに勝る。好き嫌いはあっても、愛だけが真実を諭してくださいます。

主イエスは36節でこう言われます。「06:36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」父なる神様の憐れみ、その深さはこの方、キリストを通して私たちに示されています。愛に困窮し、憎しみに縛られる私たちを救われるために、キリストは同じ人となって、私たちに絶ええない愛を、御言葉と行いを通して、どこまでも憐れみを持って教えてくださるのです。その憐れみを知った者、弟子たちにまずキリストが語られているということに注目してください。あなたがたも憐れみ深い者となりなさいと言われます。主イエスは弟子たちに憎しみに縛られている人に、愛を示しなさいと言われるかの如く、弟子たちに語られます。弟子たちは愛を知っているからです。

敵を愛しなさい。どこまでいっても、私たち人間には到底守れそうにない教えです。自分の思いの中ではきっとそうかも知れません。しかし、主イエスは私たちを、敵を愛するという新しい愛の歩み、生き方を教えてくださいました。そう、新しい教え、新しい歩みです。それができるのは、すべてを完成させる愛のきずなに他ならない。自分自身がこの愛のご支配の中で生かされていると信じたい。敵を愛する、それができるのは、愛に信頼することです。憎しみに勝る愛を信じる時、私たちは敵を愛することができるのです。

主イエスの十字架と復活を通して、御自身が私たちのためにどこまでもへりくだってくださる御姿を通して、憎しみに勝る者を私たちは知っています。未だに、憎しみはあります。至る所であります。しかし、愛の灯はそれに勝る。主イエスの愛を知る私たちが、その愛の灯を灯し続けるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年5月26日 三位一体主日 「近き真理」

ヨハネによる福音書16章12〜16節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

三位一体主日を迎えました。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神の働きについて、私たちは使徒信条や二ケア信条などの信仰告白を通して、三位一体の神様の働きを覚えます。ルーテル教会で洗礼を受けられた方は、ルターの小教理問答書を勉強されたかと思います。私も勉強しました。この本の使徒信条の解説の中で、ルターは三位一体の神様の働きを3つのテーマに分けて述べています。父なる神様の創造の働き、子なるキリストの救いの働き、聖霊なる神のきよめの働きという3つのテーマです。そして、解説の中でルター自身は三位一体の神様の働きを要約して、こう告白します。「私を創り、私を贖い、私をきめてくださる」神様を信じますと。私は信じますという告白の中に、「私をも」と言う思いから、より具体的に神様の働きが絶えず、自分自身に向けられているという信仰者としての、彼の生の歩みが実に示されていると言えるでしょう。

神様が私を創り、私を贖い、私をきよめてくださる。それは私という存在が、私の人生全てが神様の御手の中に、すなわち神様の愛のご支配の中にあるということに他なりません。それらの神様の働きを改めて想起させられる三位一体主日を迎えて、私は自分の信仰生活を振り返る機会が与えられました。

今年の10月31日で、私は洗礼を受けて9年目を迎えます。この六本木教会もこの建物に変わって今年で9年目を迎えますね。今私が牧師としてこの教会で仕えさせていただいているということに導きを感じます。9年間の歩みを成してきました。9年前に洗礼を受け、5年前に牧師になる事を決意し、今牧師になりました。いや、正確には牧師として、神様に遣わされてまいりました。

言うまでもありませんが、9年間の信仰生活の中で最大の転機を迎えたのが、牧師になることを決めた時です。牧師になると決めた時、何とも無謀な挑戦をするものだなという思いしかありませんでした。そう、ひとつの「挑戦」として私は受け止めていたのです。とても傲慢で、自分勝手な思いだなと改めて感じるのですが、しかし、無謀だという思いがあったことも事実でした。自分の力や知識では無理だけど、こう決断したのは、挑戦だと思っていても、導き以外の何ものでもない。何かの助けが必要だし、神様が必要だと思わなければ、最初の神学院の面接で落ちるだろうと思っていました。今でも覚えていますが、私は神学院の入学試験の面接で、「私には召命観というものがよくわかりませんが、ただ導きがあったということ以外に、言えることは何もありません」と言いました。召命観とは神様からの召し(呼びかけ)をどのように聞き、受け止め、牧師を目指す者として自分自身がどこに立たされているかということを確認することです。牧師になろうと思っている者が、召命観がわからないと言うのは、本末転倒だとしか言いようがないのですが、そのように答えたのは、私が自暴自棄になっていたのではなく、それしか答えがなかったからです。今までの信仰生活から出た率直な答えでした。ただ自分は導かれたとだけ、その思いだけに立った。そこに立ち続けていただけです。しかし、よくよく考えてみますと、その後の神学校生活、また牧師になった今の自分以上に、この時の私は、自分自身が「オープン」であったと思えるのです。召命観を答えられないという以上に、それがわからないということですから、面接を受ける前から、私は落ちていたようなものです。しかし、面接は受かり、結果は逆転した、奇跡そのものだと、何か感動を生むようなエピソードとして思いを振り返っているのではなく、あの時の私は本当に自分自身に「オープン」だった。自分自身を開いていた、開放されていた、自由な者であったと思えることです。その思いに立てたのは、やはり私の口から出た「導いてくださった」方の御力であるということだけです。無謀な挑戦だと思いつつも、私に虚勢を張らせるようなことをその方はさせなかったのです。はたから見れば、召命観もわからず、牧師としてふさわしい器を何等見いだせないような者です。しかし、真の自分、オープンな自分という存在が、この導きなる方によって前面に押し出されました。結果的に、このことが私の召命観となったわけです。すなわち主イエスが言われるように、「あなたが私を選んだのではない、私があなたを選んだ」ということなのです。そして私をオープンにし、導いてくださった方こそ、聖霊なる神様であり、きよめの働きであると私は今も信じています。

さて、今日の福音も、主イエスの告別説教の場面です。私たちはペンテコステを迎え、聖霊の働きについて、主イエスのお言葉と、使徒言行録の弟子たちの体験を通して、聞いてまいりました。

ペトロたちはこの世で無学な者でした。しかし、先週の説教の中で、ルターのペンテコステの説教を紹介しましたが、その中で、ルターは告白していますが、神学博士の自分なんか到底及ばないようなペトロの説教に心打たれているのです。語っているのはペトロの口を通して語られる聖霊なる神様なのです。

この聖霊は私たちの弁護者、助け主、慰め主です。世の誤りを明らかにする、私たちへの約束の聖霊です。弟子たちは主イエスが自分たちのもとを離れ去っていくという悲しみの極みの中にありましたが、主イエスはそれが弟子たちのためになると言われました。16章7節で「実を言うと」という主イエスの言葉は、「真理を言うと」という意味です。主イエスは「真理」を語っておられる。あなたがたのためになることであると。しかし、今日の福音書の箇所、16章12節で主イエスは言われるのです。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」彼らに言いたいことはまだたくさんある、全てを語りつくしたのではないと言われます。しかし、それらのことを言ったところで、今はまだ、あなたたちには理解できないとも言われました。主イエスの遺言とも言える、この時の言葉を、弟子たちは真剣に聞いていたことでしょう。しかし、今の彼らには理解できない。この理解できないというのは単なる知識としての理解ではありません。口語訳聖書では「あなたがたには堪えられない」と訳されています。主イエスが彼らに語ろうとしていることは、今の彼らには堪えられない、受け止められないことなのです。悲しみの極みの中にあった弟子たちの心情をよく示している一言です。その堪えられない、受け止められないことが、「出来事」として起こってくるのです。すなわち主イエスのご受難と十字架の出来事であります。無残とも理不尽とも言える十字架の死、この世の敗北者として、惨めな主イエスのお姿の中に、彼ら弟子たちはそれが自分たちへの贖いの業、救いの業であるということを見出すことはできないのです。彼らはあの十字架から逃げ去ってしまうからです。

主イエス御自身は今、語らないのです。語られることは、語られるだけに留まらず、出来事として、彼らに、いや彼らだけでなく、イスラエルの人々に、さらに私たちに示さなくてはならないあの十字架の出来事だからです。子なるキリストの贖いの業を成就させるために、主イエスは今お語りになることが出来ない堪えざる真実を弟子たちに、私たちに示しておられます。しかし、それは耐えざる真実に留まらないのです。そう、堪えることではなく、それが救いの出来事として、喜びへと変えられる。それでも、この世の価値観が逆転するのではなく、堪えざることは耐えざるままです。現実は変わらない、自分たちでは変えられないのです。

しかし、彼ら弟子たち、そして私たちを変えて下さる方を主イエスは証しされる。それが「真理の霊」です。私たちを導いて、真理を悟らせる方。その方は「自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」その方は主イエスに栄光を与える、すなわちそれは、主イエス御自身に神様が顕されるということ、もっと、具体的に言えば、あのみすぼらしく、無残な十字架上の主イエスのお姿の中に、神様が、その愛が示されていると言うのです。弟子たちは、この神様の愛を、真理の霊によって受け止める。パウロがローマの信徒への手紙5章5節で「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と言っていることなのです。

今、弟子たちのもとを離れ、十字架、復活、昇天へと突き進まれる主イエスは、14章6節で御自身を真理であると示されました。そして同じヨハネ福音書の8章32節では「真理はあなたたちを自由にする」と言われます。真理、すなわちキリストが私たちを自由にしてくださるのです。

キリストは神の愛を、ご生涯の中で言葉と行動で私たちに示されました。それは私たちの価値観を覆す、ある意味では非常識な神の愛です。放蕩息子の譬え話にでてくる父親や、ぶどう園の主人の譬え話にでてくる主人の姿がまさにそうです。愛するに値しない者を、無条で愛するお方です。愛するに値しない者を造ってしまうのは私たち人間です。真理から目を遠ざけ、目に見える事実、その価値観に縛られ、他者の目からおが屑を取ろうと、他者を裁こうとしてしまう人間の罪があります。そして、人間の尊厳が奪われています。私たちも奪われ、奪ってしまうものです。日常生活の中で、社会の中で。私たちのかたくなな心が、そうさせてしまうからです。

神の愛は奪われた人間の尊厳を回復される大いなる愛です。自分が自分らしく、オープンに生きられる、いや生かされる人生。キリストは私たちに、神様の御心を顕された方、神様の愛をオープンに示してくださった方なのです。十字架の赦し、復活という永遠の命の約束は、この世の価値観では、虚無に等しいけれど、理解されないけれど、神はあなたを愛す、そのメッセージを、御身を持って示されたキリスト。その喜びを真に私たちに悟らせてくださるのが真理の霊、聖霊なるお方なのです。私たちのかくなな心をきよめてくださるお方。そのお方は弁護者であり、あなたの内におられるのです。

私を創り、私を贖い、私を清められる神様。このお方は唯一のお方です。それぞれの働きを通して、私たちは自由に生かされる、永遠の命に生きることができるのです。虚勢を張らず、自分をオープンにする生き方です。堂々と、希望をもって生きるのです。

改めて、私たちも自分の信仰生活を振り返り、伝道について考える機会が与えられたのではないでしょうか。「大胆に罪を犯し、大胆に福音を宣べ伝えよ。」ルターの有名な言葉です。そう、大胆にです。大雑把で雑なイメージを抱くかも知れない。でもオープンな姿です。神様の御名をまだ知らない私たちの隣人に、大胆に、自分をオープンにして、伝道していく。それでも私たちの伝道は失敗だらけかもしれない、すぐに成果が出ないことだらけかも知れません。しかし、聖霊にきよめられ、真理を悟った者たちはもはや恐れることはないのです。本当の自分を知ることができるからです。本当の自分を知り、大胆に、自分をオープンにして、豊かに神の愛である福音を伝える者として私たちは生かされるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年5月19日 聖霊降臨祭 「変わり続ける」

ヨハネによる福音書16章4b〜11節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

皆さん、ペンテコステおめでとうございます。教会の誕生を思い起こし、聖霊の御力によって、今、私たちはこの2013年のペンテコステを迎えることができました。毎年このペンテコステにおいて、第2日課は使徒言行録2章から御言葉を聞きます。

2章1節~4節を見て見ますと、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」という弟子たちの証言が記されています。弟子たちは、主イエスが語られた約束の聖霊を実際に見て、その音を聞くことができたのです。これは弟子たちにしかわからない感覚でしょう。私たちはこの弟子たちのように、実際に聖霊を見たり、聞いたりすることはないからです。

しかし、ペンテコステの出来事が私たちに伝えようとしていることは、聖霊の形や音がどうだったかということではなく、彼らが聖霊を受けて、その御力に満たされたということであり、そして彼らはどうなったかということです。彼らは霊が語らせるままに、他の国々の言葉で、話し出しました。(4節)そして、2章5節以下で、多くの外国の名前が記され、五旬祭に集まっていた人々は弟子たちの言葉を聞き、その出来事を「神の偉大な業を見た」と証言しています。戸惑い、驚く者もいれば、彼らはぶどう酒に酔っていると言って、あざわらう人々もいました。この時、本当に異様な空気に包まれていたのでしょう。神の業が働いているその時、私たち人間の理解、その感性を越えて、出来事として私たちに伝わってくるものがあるのです。

あざわらう人々に対して、最初に口火を切ったのはペトロでした。自分たちはぶどう酒に酔っているわけではないと弁明し、人々に語り出します。ペトロは預言者ヨエルの預言が成就したことを明らかにし、続いてダビデの歌を引用して、主イエスの十字架と復活を力強く証ししました。そして、このペトロの説教を聞いて、心を打たれ、洗礼を受けて、彼らの仲間になったのは、3千人だと言われています。1章15節を見て見ますと、120人ほどの人々が集まっていたそうです。120人の群れに一気に3千人が加わったのですから、驚きです。そして、42節で02:42「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあり、彼らのこの姿を通して、教会の始まりを私たちは見るのです。

ここで聖霊に満たされたペトロたちという弟子たちの人物像に注目したいと思います。ルターは1534年のペンテコステの説教で、ペトロたちの姿を通して次のようなことを述べています。「あの力と権威はいったい何によるのでしょうか。それはみことばと御霊にほかなりません。ペテロはなんと驚くべき力をもっていたことでしょうか。しかも、ペトロだけでなく、他の人たちも同様だったのです。彼らはいかに確信をもってメッセージを語ったことでしょう。あたかも10万年も学んできて完全に知った人のようです。私は神学博士で、彼らはそれまで聖書を学んだことのない漁師でしたが、私は彼らのように聖書をものにすることができなかったのです。このようにキリストの国は、貧しい漁師たちのことばと、十字架につけられたナザレのイエスと呼ばれる神の、侮辱され軽蔑されたわざとにより始められたのでした。」ルターは、あのペトロたちの姿を見て、神学博士として、聖書知識において右に出る者はいないはずである自分自身よりも、聖書知識がほとんどない彼ら漁師たちのほうが遥かに聖書を知っている、確信をもって語っていると、言うわけです。彼は決してペトロたちに対して謙遜に浸っているのではなく、むしろペトロたちそのものではなく、彼らに働きかけているみ霊、すなわち聖霊に、その力と権威を見出しています。どんなに聖書を読みこなし、知識を得ても、聖霊が働かなければ、意味がないし、何も伝わっては来ない。ただ聖霊により頼み、祈り求める以外にはないということなのです。

ペトロの説教を聞いた人々は、その内容に喜び、共感したのではなく、「心を打たれた」のです。心を打たれる、それは自分自身の奥底にある魂に触れたということ、絶対に曲げられない価値観の転換が起こったとも言えるでしょう。また、悲しくて、苦しくて、絶望の内にある者を、慰め、立ち上げる力があるということです。ここに聖霊の働きがあり、聖書を読み、聞くことへの姿勢が私たちに語りかけられているのです。そして、私たちの生き方が、人生の歩みが変えられる、いや今も御言葉と聖霊の働きを通して、私たちは変わり続けている。時代が変わり、物事の価値観、思想が変わる、目に見える形でこの世そのものが変わろうとも、御言葉の真理は変わらないのです。神様の福音は、その中心的なメッセージである愛は、絶えず、私たちに語られている。説教者、奉仕者の口を通して、どんなにつたなく、魅力がない言葉を使おうと、その口を聖霊が清め、聖霊が働くことにおいてのみ、私たちの心は打たれる、魂に触れ、響き渡るのです。

このような聖霊の働きについて、今日の福音書で主イエスは、この聖霊を「弁護者」と呼んでいます。今日の福音は主イエスのヨハネ福音書13章から始まる告別説教の場面ですが、この告別説教の中で、弁護者と言う言葉はたくさん出てきます。14章16-17節で「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」この聖霊は弟子たちと共におられ、内にいてくださるということです。そしてこの聖霊は弁護者であるということ、これは助け主、慰め主とも訳せますが、もとの言葉は「呼んでそばに来てくれた人」という意味なのです。ですから、聖霊とはずっとそばにいて助けてくださる神の御力ということであり、主イエスが昇天された後に、弟子たちに与えられるということなのです。しかし、この世にはこの聖霊が見え、知られ、受け入れられるというものではないと言うのです。

そして、今日の福音であります16章8節で「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」とあります。世の誤りを明らかにする、口語訳聖書では「世の人の目を開くであろう」となっています。罪と義と裁きについて、9-11節まで主イエスは語られますが、弁護者と言われる聖霊がこの世の人の目を開くために、神の御業を証しするというのです。それが今まさに、ペトロたちの口を通して語られている、主イエスキリストの救いの出来事なのです。罪について、義について、裁きについて、ペトロたちは証しできるでしょう。彼らは主イエスを信じ、その救いを体現しているからです。しかし、証しするのは、彼等ではない、彼らと共にいてくださる聖霊だと言うのです。

実に、ペトロたちはこの世に対して、無力であります。誰も彼らの話を真剣に聞こうとはしない、それどころか彼らはこの世から迫害されるということを、主イエスは見通して、ペトロたちに語っているのです。使徒言行録4章13節で、ペトロとヨハネが人々からこう見られています。「二人が無学な普通の人である」と。彼らは律法の教師ではないし、地位のある議員でもない。教養がある学者でもない、ごくごくふつうの人。面白半分に彼らの話を聞いても、人々は信じることはないでしょう。まして、彼らに聖書の知識はほとんどなかったでしょう。彼らは自分たちの体験を軸に、福音を語る以外にないのです。それも人生の教訓でもないからこそ、彼らには弁護人が必要なのです。彼らにはその弁護人なる聖霊が働かれている、彼らの口を清め、無学であるが、彼らに言葉を与えられるのです。与えられた言葉を、彼らは口に出しているだけなのです。そう、与えられた言葉、受け止めた言葉をただ人々に語る、説教とはそれに尽きるのみです。神学博士であるルターが10万年かかっても、無学な人たちであるペトロ、彼らが語るメッセージには及ばないのです。彼らは聖霊に満ちて、人々の魂に語りかけているわけですから。

世の中には、名言やはやり言葉がたくさんあります。私たちの日常生活において、どれだけの言葉が生きた言葉として、心に響いているでしょうか。聖書の言葉も、その一部分だけを、抜き出して、ただ名言として聞こうとするのであれば、それは世の中に価値観に重点を置いて、聞こうとする言葉に過ぎないのです。そこで混乱が起きる。理解できないものを無理やり理解しようとして、様々な解釈を持ちこんで、味付けしていく。ちょうどいい味になるまで。しかし、その味のある言葉、元の味はなんだったのか。改良に改良を重ねれば重ねるほど、本質を見失うということを、私たちは歴史の中で垣間見てきているのではないでしょうか。

また、学者や教養ある人、政治家などが発する言葉は確かに重く、影響のある言葉ばかりです。生きていくうえで、それらの言葉は知恵の言葉として、必要なわけです。しかし、時代の変革において、それらの言葉はいづれ廃れていく人間の言葉です。

当然ですが、私たちは人間の言葉を通して、人とコミュニケーションします。人と関わり、社会と関わります。でも、最近コミュニケーション傷害(略してコミュ症)という言葉を聞きます。自分の意志を伝えられない、理解されない、言葉が出てこない。言葉だけの問題じゃないかも知れません。対人関係などいろいろな事情はあります。しかし、誰しもがそういう問題を抱えているのではないでしょうか。悩み、苦しみ、誰からも理解されないという苦痛。言葉にならない言葉しか出ない。そう、気付いたら、沈黙が支配している。この世に生きている私たちが直面しなくてはいけない問題はいくらでもあるわけです。

言葉にならない言葉、でも誰かに聞いてほしい、受け止めてほしい、そういう思いがあります。そんな時、私は思うのです。祈りを通して聞いて下さる方、受け止めてくださる方がいる。そう、主なる神様という方が。胸の奥にある「伝わらない」という葛藤を抱えつつ、その思いを神様に向けて解放する、心を開く、それが祈りです。神様はあなたを受け入れ、あなたを愛の言葉で包んでくださいます。神様に思いを向けていくということ、すなわちペトロが使徒言行録2章38節で、心を打たれ、自分たちはどうすればよいのかと迷っている3千人に言った言葉はこうです。「悔い改めなさい。」と。神様の懐に飛び込みなさい、大丈夫だからということです。神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。主イエスはそう言われました。この世を愛されている、だからこの世に生きるあなたがた一人一人を愛さないでいようか。今は、この世に属し、この世の価値観で生きている。それも必要です。しかし、主イエスはこの世に勝る救い主です。この世の価値観という縛りを解かれた方です。あの「死の力」をも克服された救い主なのです。この救い主を信じ、仕えていく時、聖霊が与えられるのです。

無学なペトロたち。この世から相手にされない彼らが、聖霊に満たされて、世界中の言葉を話だし、3千人が心打たれた説教、その言葉を話した出来事。教会はここから始まりました。世の無学な者たちが、聖霊に満たされて、神様の愛を伝え続けていった。そして今の私たちも、彼らに続いています。悔い改めなさい、神様の懐に飛び込みなさい、大丈夫だから。神様はあなたを受け入れ、愛される。そう信じて、そのことを人々に伝えながら、私たちの伝道は今日も始まっているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。