2012年6月3日 三位一体主日 「上から生まれる」

ヨハネによる福音書3章1〜12節
説教:高野 公雄 牧師

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。

はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

ヨハネによる福音書3章1〜12節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

先週の聖霊降臨祭をもって50日間の、主イエスのご復活を祝う季節が終わりました。それで、お気づきでしょうが、今まで聖卓の横に灯っていた大きな復活のローソクが片づけられました。今週から教会の暦では新しい季節が始まったのです。「聖霊降臨後」という季節で、これから11月一杯まで6か月間続きます。この季節の典礼色は「緑」、この季節のテーマは「教会の成長」となります。

その始まりにあたって、きょうは神の三位一体を祝います。典礼色は「白」です。きょうのテーマは、教会にとって根本的なこと、つまり、私たちの信じる神はどのようなお方かということです。

きょうの主日の名である「三位一体」(さんみいったい)とは、ただひとりの神がつねに父と子と聖霊という三重の仕方で私たちに働きかけるお方であるということを言い表すキリスト教用語です。三位一体という言葉自体は聖書には出て来ませんが、その言葉が指し示す事柄、つまり唯一の神は父・子・聖霊という三様のあり方をするということは、例えば、《わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい》(マタイ28章18~20)というように、聖書の中に示されています。

神さまを人の言葉で言い表すことは不可能なのですが、それでも何とかその神秘を言い表したいという初代のクリスチャンたちの努力の中でこの三位一体 Trinitas という言葉が生み出されました。二世紀後半にカルタゴ(今の北アフリカのチュニジア)の司教であったテルトゥリアヌスという教父が最初に使ったのだそうです。

キリスト教は313年にローマ皇帝コンスタンティヌスの発した「ミラノの勅令」によって禁教を解かれ、公認宗教の仲間入りをしました。キリスト教が社会の表面に出てみると、各地で教えや習慣の違いが著しい現実がありました。とくに問題だったのは、キリストの神性に関してです。ユダヤ教の影響が強く、イエス・キリストは父なる神から生まれた子であるならば、神に似た人ではあっても神ではありえないという立場の人と、イエス・キリストは人を救う力を持つのだから子なる神だという立場の人との間に、激しい論争がもちあがっていました。

この問題を解決するために、コンスタンティヌスは325年に初めての世界教会会議(公会議)をニケア(ニカイアともいう。今のトルコのイスタンブール近く)で開催しました。この会議で、復活祭の日取りが統一され、ニケア信条が定められました。神である父と子であるキリストは同質であると説くアタナシウスらが正統とされ、神に似た人と説くアリウスとその同調者は異端とされ、破門に処せられました。アリウス派を論駁したアタナシウスは後に、アレクサンドリア教会の司教に叙階され、三位一体の教理において第一人者とされました。

この論争はニケア会議以後も続き、正統派の教会では、私たちが現在使っている式文に見られるように、三位一体の神を称える言葉がいたるところにちりばめられることになりました。

私たちの礼拝は「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」で始まり、祝福に続く「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」で終わります。讃美頌に続けていつも「グロリア・パトリ」を歌いますが、これも「父、み子、み霊にみ栄え、初めも今も後も世々に絶えず。アーメン」と三一の神を称える頌栄です。キリエのあとに歌う「グロリア・イン・エクセルシス」は、ルカ2章14にある天使の讃美に、ポアチエ(フランス西部の都市)の司教ヒラリウスが加筆したもので、やはり三一の神を称える頌栄です。この人は東のアタナシウス、西のヒラリウスというように並び称される三位一体信仰の擁護者でした。そして三位一体主日のきょうは、このあと、いつもの「ニケア信条」に代えて「アタナシウス信条」を全員で唱えます。これは毎年この日だけに守られてきた習慣です。この信条は三位一体の神を称えているので、アタナシウスの名で呼ばれますが、本当の著者は不明です。詩編交読と同じように讃美の心をもって交唱しましょう。

「主日の祈り」にも三位一体を称える結びがついています。「あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン」。この長い結びは来週からの緑の季節には省かれる習慣になっています。もっともこの結びは、「奉献の祈り」にも、聖餐の感謝の祈りにも付いており、こちらは緑の季節でも省かれません。

そして、聖餐設定の言葉に続く「感謝の祈り」の結びの句があります。「すべての栄光と讃美が、教会において、ギリストにより、聖霊と共におられるあなたに世々限りなくありますように。アーメン」

このように私たちの礼拝は、三位一体の神に対する讃美に満ちみちているのです。きょうの説教は、礼拝式文の説明のようになってしまいましたが、礼拝の中で礼拝式の説明をするのも、三位一体主日の守り方のひとつの方法になっています。

さて、きょうの福音はイエスさまとニコデモの対話でした。ここで語られているのは、神の働きが人の心に救い主イエス・キリストを示し、人を新たに生まれ変わらせてくださるということです。そして、それがきょうこの個所が読まれる理由です。

《さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」》。

ユダヤ人の指導者であるニコデモが夜イエスさまを尋ねます。そして、《わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています》と挨拶します。現代でも、この世の闇を知り、真理を求めてキリスト教に近づく人はたいていイエスさまについてこう言います。それが傍観者の公平な判断なのでしょう。

このニコデモは、良識と善意を十分に持ちながらもこの世的生き方に留まり、イエスさまを救い主と告白するに至らない人々を代表しているようです。彼はヨハネ福音書にあと二回登場します。ユダヤ人指導者たちがイエスさまを逮捕しようとしたとき、こう発言しています。《彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」》(ヨハネ7章50~51)。次は、イエスさまを墓に埋葬する場面です。《その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ》(ヨハネ19章38~40)。

《イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない》。

イエスさまはニコデモに言います。イエスさまに、またはキリスト教に好意的であり、人柄も誠実で知的にも優れているあなたであっても、生まれたままの人は神を知ることはできません。人は勉強や修行といった自力の努力で神の救いを得ること、キリストを救い主と信じることはできません。神さまの賜物である霊によって上から根源的に生まれ変わることによって初めて、イエス・キリストを通して現わされた真の神と出会うことができるのです。霊による再生を即物的にもう一度母の胎から生まれ直すことと誤解するニコデモは、現代人にそっくりです。ニコデモの信仰は、人の営みの地平に留まっており、人が生ける神と出会うという次元が欠けていたのです。人は自分のできる努力はするのが当然ですが、人の努力を超えたことは、神の働きに委ねる、私たちの心に神が働く余地を空けておく、これが人として大事なことなのです。イエスさまとニコデモの対話から、きょうはこのことを心に留めましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年5月27日 聖霊降臨祭 「聖霊の約束」

ヨハネによる福音書15章26〜16章4a節
説教:高野 公雄 牧師

わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

ヨハネによる福音書15章26〜16章4a節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

聖霊降臨祭おめでとうございます。

教会の暦で、きょうは聖霊降臨祭、ペンテコステです。キリストが天に昇ってもう地上の人としては会えなくなった後に、イエスさまの弟子たちに聖霊がくだり、その聖霊に促されてキリストの復活を証しする使徒として活動を始めたことによってキリスト教会が誕生しました。聖霊降臨祭はこのことを祝うお祭りの日で、復活祭と降誕祭とならぶキリスト教の三大祭りの一つです。他の二つのお祭りほどポピュラーではありませんが、古くから大事な記念日として祝われてきました。

この日の出来事については、先ほど第一朗読で聞きました。

《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった》(使徒言行録2章1~4)。

こうしてキリストの教会は、2000年の歴史をとおして、自分たちの国の言葉で「福音」、キリスト教の教えを聞くことによって、全世界に広まりました。私自身もそうだったのですが、外国人宣教師の少し変な日本語の説教をとおして聞いた福音が心に沁みて、信仰を得た人も多いと思います。

ここに「五旬祭」とあるのが、新約聖書の元の言葉、ギリシア語でペンテコステです。これを日本語では、ユダヤ教の祭りは「五旬祭」、キリスト教の祭りは「聖霊降臨祭」と訳し分けています。五旬祭はユダヤ教の大きなお祭りであり、過越祭と仮庵祭とともに三大巡礼祭として、エルサレムの神殿へのお参りが求められました。

ところで、ペンテコステは五旬祭という訳語が示すように、50日目のお祭りです。ユダヤ教なら過越祭から数えて、キリスト教なら復活祭から数えて50日目のお祭りという意味です。旧約聖書では、「七週の祭り」とか「刈り入れ祭」とも呼ばれています。この日は、もとは冬に蒔いた小麦の春の収穫祭でしたが、のちにモーセがシナイ山で神から律法をいただいたことを記念する祭りとして祝われるようになりました。

この日、ユダヤ教では「ルツ記」が読まれます。聖書に親しんでいる人は、ボアズの畑で刈り入れの後の落穂拾いをしていたルツの話しを覚えておられるでしょう。

聖霊降臨祭を表わすシンボルは、聖霊の火を象徴する「赤」です。きょうは、聖卓に掛けられた飾布、牧師が着けているストラ、聖壇を飾るバラの花、そして皆さまが身に着けたものも、みな赤です。そのほかにこの日を表わすのが、聖霊の降下を象徴する「鳩」、この季節を表わす「麦の穂」です。壁のバナーや私のストラにも、この通り、麦の穂が描かれています。

《わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである》。

きょうの福音にこうあるように、イエスさまは生前に、自分が世を去っても、弟子たちには別の弁護者、助け主が送られるからその時を待てと言っておられました。聖霊の約束は、この個所のほかにも、たとえば《わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい》(ルカ24章49)とか、《わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである》(ヨハネ14章16~17)というように記されています。その約束の聖霊が2000年間前のきょう,弟子たちの心の中に来られたのです。

ここでは、この聖霊なる神さまを「弁護者」、「真理の霊」と呼んで紹介していますが、聖霊を人の言葉で十分に言い表すことは難しく、そもそも聖書の記述も少ないのです。いま私は、自分自身の体験に基づいて聖霊の必要性とその働きをお話ししたいと思います。

私は人生に行き悩んで、二十歳の今ごろ、初夏に自分から信仰を求めて教会に行き始めました。礼拝に出たり、聖書の勉強会に出たりして、熱心に信仰を求めましたが、いつまでも神は知識の上だけの第三者にとどまり、神をあなたと呼べるような神との出会いを経験することはできませんでした。私は二年くらいクリスチャンのまねをしていたのです。しかし、そうこうするうちにいつの間にか気がついてみると、心が開かれて、神と一対一で向き合う信仰生活へと移り住んでいました。

一般に、信仰とは人がすること、人にできることと考えられているようですが、聖書の神を信じることは、相手があることであって人が自分ひとりの能力でできることではありません。神が私の心を開いて、ご自分を私と共に歩んでくださるお方として現わしてくださることによって、初めて信仰を得ることができるのです。それが、私における聖霊降臨であり、神が私に信仰を与えた出来事です。きょうの福音にあるとおり、前もって約束されていた聖霊が与えられることによってすべての人の信仰生活は始まり、保たれるのです。

先に引用したヨハネ福音14章では、聖霊は「別の弁護者」と呼ばれています。では、もとの弁護者とは誰でしょう。それはもちろん、それはイエスさまです。《わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます》(Ⅰヨハネ2章1)。聖書はこのようにイエスさまを弁護者と言っています。

聖霊もまた「弁護者」と呼ばれるのは、イエス・キリストの贖いのみわざにもとづいて、聖霊は弁護士のように神の御前に立つ私たちの傍らに寄り添って、神との関係の回復を、和解をとりもってくださるお方だからです。

聖霊が「真理の霊」と呼ばれるのは、聖霊がイエス・キリストを神の真理そのものとして私たちにありありと示してくださるからです。《わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる》(ヨハネ14章25~26)。

イエスさまはその言葉と行いをとおして、とくに十字架と復活によって、私たちに対する神の愛と真実を示してくださいました。天に戻ったイエスさまは、今度は聖霊を送って私たちの心に愛と真実の神を現わし、信仰を与え、保ってくださっています。

私たちの内に留まる聖霊というお方のイメージは捉えにくいかも知れませんが、復活して今も生きているイエスさまが私たちの心の内にいらして、人生の歩みを共にしてくださっているというイメージなら理解ができると思います。このように、聖霊を「復活されたイエスさまの霊」と置き換えると分かり易いでしょう。

聖霊降臨の日の説教を、ペトロはこう締めくくっています。

《悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです》(使徒言行録2章38~39)。

聖霊降臨祭のきょう、私たちにはすでに約束の聖霊が与えられていることに感謝しつつ、その火が心の内にいつも赤々と燃えているように、キリストの心を心として生活できるように、さらに聖霊の注ぎを祈り求めましょう。そして、求道中の方々には、真理の霊が豊かに注がれ、真実と愛の神さまと出会う恵みが与えられるようお祈りいたしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年5月20日 昇天主日 「キリストの昇天」

ルカによる福音書24章44〜53節
説教:高野 公雄 牧師

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

《イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された》(使徒言行録1章3)。

先ほど読んでいただいた第一日課に,こうありました。十字架の死から復活されたイエスさまは、さまざまな機会に復活の姿を弟子たちに現されましたが、40日の後には天に昇って、弟子たちがふたたびイエスさまの姿を見ることはありませんでした。この記事にもとづいて、キリスト教会では復活祭の40日後に昇天を祝うようになりました。

今年はそれが先週の木曜日だったのですが、ちょうどカトリナ会の例会にあたりましたので、この聖書個所を学びました。しかし、キリスト教の歴史の浅いところでは、ウィークデイに集まることが難しいので、それを日曜日に移して記念しています。今日がその日で、教会の暦では復活後第六主日を昇天主日として祝います。

ところで、ルカ福音書と使徒言行録は、どちらもルカによって一続きの物語として書かれたもので、福音書はその前編、使徒言行録はその後編です。そして、きょうの福音を読むかぎりでは、イエスさまは復活したその日のうちに、弟子たちにご自身を現わされ、伝道の務めを与え、昇天されたように読めます。ところが、使徒言行録では、それは40日後の出来事であったと書かれており、同じ著者の本なのにくいちがっています。

これを学者たちは、こう説明しています。ルカ福音24章は、復活祭の日に読まれることを意図して、復活の出来事を短くまとめて書いたのだ、と。

また、使徒言行録にある40日ということについても、40は文字通りの意味で使われているのではなく、聖書によく出てくる象徴的数字であって、必要十分な長さを意味している、とされています。ノアの40日40夜の大雨、あと40日すると都は滅びるというヨナの預言、イエスさまの荒れ野の40日間の試練などの40も同じ使い方です。

また、昇天の場所についてもルカ福音24章50では《ベタニアのあたり》とあり、使徒言行録1章12では《「オリーブ畑」と呼ばれる山》とあって、違っていますが、ベタニア村はオリーブ山の麓にあるので、これはくいちがいとは言えません。

さらに私たちを戸惑わせるのは、復活したイエスさまの手足を弟子たちが見たとか、見ているうちに天に上げられたとかという古い時代の信じがたい描写です。こうした記事の読み方にも触れておきましょう。「天」は、人の目で見ることのできない、神の世界を指しています。弟子たちの信仰によれば、復活したイエスさまは天に上げられ、神の右の座を与えられました。イエスさまは世を裁く神の権能を与えられた神と等しい者とされたのです。つまり、復活といい昇天といい、本来は人の目で見ることも、人の言葉で語ることもできない神の柲義です。それでも、何とかしてそのことを人に伝えたいわけで、それを聖書は伝統的に生き生きした物語の形式で語ってきました。それはどの時代の人にとっても作り話に思え、つまづきのもとになるのですが、だからと言って、人は現代的、科学的に神の柲義を表現できる訳ではありません。神を求める人が、その神話的童話的な外観を乗り越えて神の真実に触れることができるよう聖霊の導きを願わずにはいられません。

《そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」である」》。

イエスさまが言われたように、聖書に書かれたことを悟るためには、復活のイエスさまが、または聖霊が私たちの心の目を開いてくださることが必要なのです。

ルカは、前編のルカ福音でもってイエスさまの活動を描き、後編の使徒言行録でイエスさまの弟子、使徒たちの活動を描いています。その繋ぎの部分を、きょう私たちはルカ福音側と使徒言行録側の両方で読みました。それがイエスさまの昇天の記事です。その記事は、イエスさまが復活して天に上げられたこと、神の全権を譲られた王の王、主の主となられたこと、そして弟子たちに世界への伝道を委ねられたこと、弟子たちに力つまり聖霊を注がれることを約束されたことを含んでいます。きょうの福音の結びも、このことを表わしています。

《イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた》。

ここで「イエスを伏し拝んだ」とは、イエスさまを神として礼拝したことを意味しています。

よく指摘されることですが、イエスさまの処刑のときには人々を恐れてひっそりと家に閉じこもっていた弟子たちが、復活と昇天と聖霊降臨の後には、非常に大胆に全世界へ出ていって福音を宣べ伝える者へと変えられました。この一大転換のナゾを解くカギが、キリストの昇天です。昇天とは、今度こそ本当に弟子たちの心の目が開かれて、イエスさまが死から復活して神の右の座へと高く挙げられた方であることを悟り、イエスさまが万物の主であることを確信したことなのです。弟子たちの宣教活動はこの覚醒と確信にもとづくものです。その意味で昇天を祝うことは、キリストを王の王として祝うことであり、それは同時にキリスト教宣教の始まりを祝うことなのです。

キリストの昇天は、もうひとつ大事なことを表わしています。イエスさまが復活して神のもとへと招き入れられたのは、私たちの初穂ないしは初子としてであるということです。キリストのとりなしのおかげで、そしてキリストにならって、私たちも神の家族ないしは子どもとして、受け入れられるということを示しています。私たちがこの世の生を終えた後、復活して神のみ国に迎え入れられるということもまた、神の領域のことであり、人は物語のようにでしか語れないことです。それは信仰のつまずきにもなりますが、また信仰の伝達として避けられない方法でもあります。

きょうの礼拝の始めに、私たちはこう祈りました。「天に上げられた御独り子の執り成しによって、私たちをみ前で永遠に生きる者としてください」、と。

私たちのふるさとは神の国にあり、私たちは神の国を目指して歩んでいる旅人であり、この世にあっては寄留者です。この世における人生の一足一足が永遠の神の国へとつながっていることを、またキリストが共に歩んでくださっていることを覚え、キリストの心を心として、主と隣人に仕えてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年5月13日 復活後第5主日 「互いに相愛せよ」

ヨハネによる福音書15章11〜17節
説教:高野 公雄 牧師

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
ヨハネによる福音書15章11〜17節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音も、イエスさまが最後の晩餐の席で弟子たちに語られたお別れ説教の一部です。きょうも、イエスさまのお言葉を聴くことを通して、今も生きて私たちに語りかける復活のイエスさまに出会いましょう。

きょうの福音は、《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である》で始まり、《互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である》で終わります。この段落の中心が,弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と諭すことにあることは明らかです。できる、できないは別として、「互いに愛し合いなさい」という教えは、当たり前のことを言っているだけで平凡に聞こえるかもしれません。しかし、キリスト教の特徴は、この教えに《わたしがあなたがたを愛したように》という前置き、前提が付いており、これを欠かせないことです。

同じ相互愛を命じる言葉は、実はお別れ説教の前の部分にもありました。

《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる》(ヨハネ13章34~35)。

ここでも《わたしがあなたがたを愛したように》と、愛の根拠を示す前置きが付いていました。そして、このイエスさまの愛を知っていることこそが、クリスチャンのしるしであると言われています。

では、イエスさまの愛とは、どのようなものだったのでしょうか。それを示すのが、次のみ言葉です。

《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》。

これは、自己犠牲の精神を説く道徳の教えではありません。たしかに、この言葉は「女性は家庭を守るために自分のことは犠牲にすべきだ」とか、「若者は国を守るために自分を捧げる覚悟をもつべきだ」、というような意味合いで引かれることがありましたし、今でもあります。しかし、この聖句は、私たち一人ひとりに対する神の愛の質を語っているのです。友のために命を捧げた方は、人に自己犠牲を強いるのではなく、互いに愛し合うことを勧めています。

きょうの第二朗読も,イエスさまの愛をこう描いていました。

《わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです》(Ⅰヨハネ4章10~11)。

神は、私たちが愛されるにふさわしいからではなくて、ふさわしくないからこそ、み子を世に遣わし、み子の生死を通して人間に対するご自分の愛と真実をお示しになったのです。私たちが神を愛しているからではなく、神に無関心でいるとき、それは実は神に敵対していることなのですが、そのとき、神が先手をとって私たちの救いのために、み子の命を賜るほどの深く大きな愛を現わしてくださったのです。これが本当の愛の姿です。これが、私たち相互の愛の模範であり、根拠であり、原動力です。ここを根拠としない倫理・道徳は、本物の力を持ちません。

聖書になじみのある人は、ここでおのずと福音書中の小福音と呼ばれる次の聖句を思い出すでしょう。

《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである》(ヨハネ3章16~17)。

このようなわけですから、イエスさまが「これがわたしの掟である」、「あなたがたに新しい掟を与える」とこの福音書の著者ヨハネが書いたとき、イエスさまこそが旧約聖書が預言していた救い主であり、ユダヤ教徒が待望していた新しい契約が現実のものとなった、すなわちキリスト教が誕生したことを高らかに宣言しているのです。

神はイエスさまの生涯,とくにも十字架を通して、私たち人間に対するご自身の愛と誠意を表わされました。私たちはイエスさまを通して神の愛を知り、神の愛に応えて、神を信じるに至りました。それゆえに、どうしようもなくわがままで、移り気で、愛のない自分ではあるけれども、少しは他の人のことも大切にし,他の人の益となるようなことを考える気にもなるのです。実際にどのくらいそうできるかということでは、クリスチャンとそうでない人の差はないかもしれません。唯一の違いは、自分の振る舞いふり返る原点をもっているかどうか、悩むとき、苦しむとき、孤独なとき、虚しいとき、頼るべき、見上げるべき原点をもっているかどうかです。クリスチャンはイエスさまの十字架に示された神の愛を知っています。私たちは神から恵みをいただいている、これが私たちの生活の原点です。

《あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ》。

「神の選び」ということが、きょうの福音の二つ目のポイントです。現代人は、神などいないとか、神は死んだとかと言って、神を見失っています。もし誰かが神を信じるに至ったとしたら、それは神の側から人に出会ってくれたからであって、人が神に出会ったのではないことは確かです。

神がイエスさまの振る舞いを通して、ご自身を人々に現わされたこと、しかも人に対するご自身の真実の愛を示されたことが、すべての始まりです。そして、聖書がそのことを証言しています。また、教会がイエスさまと聖書に聴くこと、従うことによって人々に信仰を伝えています。もちろん、聖書も教会も人間的限界をもっているので、人を躓かせる側面もあります。にもかかわらず、イエスさまの振る舞いに人を救う真実を見出し、それを証ししてきました。聖書と教会を抜きにしても救いの神に出会うことができるかもしれませんが、現実には聖書と教会の証しによって神を信じています。このように福音を証ししている側面に注目して、私たちは聖書を信じるとか、教会を信じると言っているのです。

私たちは「神の友」として選ばれたのですが、それは私たちが人々よりも優れていたからではありません。反対に、神は弱い者、貧しい者、小さい者を選ばれました。すべての人を救おうとしておられることが明らかとなるためです。私たちはむしろ選ばれなくて当然の者なのに、イエスさまの愛によって、赦しの力によって、選びの中に加えられたのです。これが福音、良い知らせです。

神の恵みによる選びとは、こういうものですから、私たちの救いは確かです。人間の信仰や行いが選びの基準であるならば、誰がそういう基準に耐えられるでしょうか。信仰といい決心といい、私たちのなすことは、弱く移ろいやすいものですが、選びが人の行いによらず、神の恵みによるのですから、これ以上に確かなことはありません。

とは言え、私たちは丸太のようなものではなく、神に反抗する人間です。それが信仰によって造りかえられようとしているのです。私たちは神の恵みと慈しみに応えて、主の祈りにあるように、「み心が天で行わるように、地上でも行われますように」(マタイ6章10参照)と、また奉献唱にあるように、「神よ、わたしのために清い心を造ってください」(詩51編12参照)と日々祈りつつ歩む者でありたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン