2011年8月14日 聖霊降臨後第9主日 「隠された宝」

マタイによる福音書13章44〜52節
説教:高野 公雄 牧師

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

マタイによる福音書13章44〜52節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、マタイ福音書13章に集められた「たとえ話集」の結びの部分です。きょう読む「たとえ」はすべて、福音書の小見出しの隣にカッコ書きで参照個所が挙げられていないことで分かりますように、マタイ福音書の特ダネ記事です。

きょうの「たとえ」も《天の国は次のようにたとえられる》で始まっています。「天」はマタイ特有の「神」を言い換えた言葉ですから、他の福音書では「神の国のたとえ」と言われます。しかし、学者たちによれば、静的に「神の国」と訳すよりは、動的に「神の支配」と訳す方が良いのだそうです。天の国あるいは天国というと、人が死んだあと行くところ、あの世のことになってしまいますが、このたとえでイエスさまが言おうとしていることは、この世における、つまり私たちの日常における、神の支配、すなわちイエスさまの言行を通して始まっている神の愛の働きを主題としているのです。

さて、きょう最初のたとえは、「畑に隠された宝」のたとえです。《天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う》。

タンス預金という言葉があります。銀行などに預けないで現金をタンスの中などに持っていることを言います。欧米ではマットレスの下に隠す人が多いそうです。昔の人にとって、日本でもそうだったでしょうが、盗難の危険を防ぐために金品を壺に入れて土に埋めるのが一番確実な方法と考えられました。隠した場所が忘れられたり、戦争が起こったり、家が途絶えて、そこが畑になったりということもあったことでしょう。埋蔵金を発見というニュースは今でもたまに聞かれます。このたとえでは、事情はどうであれ、宝は畑の中に隠されていました。それを見つけた人は、小作人であって主人の畑で働いていたのでしょう。彼は大喜びで家に帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買いとったという話です。

次のたとえは「高価な真珠」のたとえです。《また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う》。

古代には真珠の養殖はありませんでしたから、天然の真珠です。滅多に採取できない貴重な宝石でした。ヨブ記28章18に「さんごや水晶は言うに及ばず、真珠よりも知恵は得がたい」とあるように、さんごや水晶に比べ真珠がずっと高価であったことが分かります。そもそも「真珠」という言葉自体が「真の珠」、宝石の中の宝石を意味しています。古代の真珠の産地は、ペルシャ湾や紅海の沿岸でした。商人たちは、真珠を求めるために、イスラエルから遠く離れた場所へ行かなければなりませんでした。そして探していた一つのものを見つけると、やはり、持ち物をすっかり売り払って、それを買うという話です。

さて、これら二つのたとえで、「隠された宝」また「真珠」でたとえられている「天の国」とは、私たちの日常生活を支配しておられる神の愛の働きのことでした。それを農夫は汗して耕していた畑で、商人は遠い外国の仕事先で見つけました。どちらの人にとっても日常生活の中で彼らの宝を見つけ、《持ち物をすっかり売り払って》それを手に入れました。喜んで《持ち物をすっかり売り払って》、彼らが宝とするものを手に入れたのですから、彼らの人生はすっかり新しい、喜ばしいものに変わったことでしょう。宝を手に入れた生活とは、神が彼らを愛し、人生を共に歩いていてくださる、彼らの人生を支え、導いていてくださる生活です。人はこの神の愛の働きをイエスさまの言動をとおして見出すことができるのです。《このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです》(コロサイ2章3)。

ひるがえって、私たち自身にとって一番大切なもの・宝は何でしょうか。お金や宝石そのものでしょうか。マタイ6章21に《あなたの富(すなわち宝)のあるところに、あなたの心もある》とあるとおり、あなたの心が一番大切にしているもの、それがあなたにとっての「神」です。神と名付けられていなくても、一番大切にしているものがあなたの命なら、それがあなたの「神」です。家族が一番大切なものであるなら、あなたにとって家族があなたの「神」です。それがお金なら、お金があなたにとっての「神」です。たとえ自分は無宗教だ、無神論者だと主張するとしても、実は人は何かしら心に「神」を持っているというのが、聖書の人間観・宗教観です。

今もいつも神が私たちの味方として私たちと共にいてくださる、人生を共に歩んでくださるということこそが、地上における「天の国」であり、福音であり、何ものにもまさる宝です。古代キリスト教教父アウグスチヌスはこう言っています。「神よ、あなたは私たちをあなたに向けて造られたので、私の心はあなたのもとに憩うまで、安らぎを覚えることがありません」。このように、神の愛の働きに私たちの心の目が開かれることが、このたとえのねらいであり、イエスさまが言葉と行いで目指していたことだったのです。

 

「畑の中の宝」と「真珠」のたとえが示すことは、神さまの愛の働きを前提としていますが、神の愛は畑の中、または「アコヤ貝」の中のように人の目に隠されているので、人がその現実に対して心の目を開くこと、そしてその神の真実を見出したならば、それを自分のものとして体得すべく努力をしていくという、人間の反応が強調されています。

しかし、そのことは、天の国に入る条件として、全財産を捨てる覚悟が必要だとか、神の救いは代価を払って買い取ることができるものだなどと誤解してはいけません。聖書の中心は、あくまでも天の国すなわち神の愛の真実は恵みとして賜物として受け取るべきものだということです。私たちは、このことをきょう三番目の「網のたとえ」で聞くことができます。

《また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める》。ここで漁をするのは神、集められる魚は人間でしょう。神はいろいろな魚を集められます。神の愛の支配を見つけた人も見つけてない人も招いておられますし、善人だけでなく、悪人をも漏らすことなく救いに招いておられます。神は、生真面目な兄をも放蕩に身を持ち崩した弟をも、分け隔てなく愛した父のように慈悲深いお方です。放蕩息子がまだ遠くにいるのに、もう駆け出していって抱きしめた父です。そう考えると、宝や真珠は神ではなく私たちのことで、《出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う》農夫や商人が神のことだというふうにも読めてきます。神は私たちを救うためにすべてを犠牲にしてくださいました。実に、《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(ヨハネ3章16)。

このたとえの後半はこう続きます。《網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け》る。今はすべての人が招かれています。そしてそれと同時に人はその招きにふさわしい応答をすることを求められています。

自分の生活の中に神の働きを見ていない人の人生は、暗闇の中を歩いている人のようです。しかし、イエスさまは言います。《あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている》(マタイ13章11)。そしてこう尋ねます。《「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った》。私たちもまた、神の真実・神の愛による支配という「宝」が、日々私たちに臨んでいることにいつも気づき、また互いに分かち合うことができるように祈りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年8月7日 聖霊降臨後第8主日 「毒麦たとえ話」

マタイによる福音書13章24〜35節
説教:高野 公雄 牧師

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

マタイによる福音書13章24〜35節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、先週の「種を蒔く人」のたとえに続く箇所です。このマタイ福音書13章には「天の国のたとえ」が集められていますが、きょうはその中から「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」の三つを読みます。最初の「毒麦のたとえ」はマタイ福音書にだけ見出されるたとえです。

「天の国のたとえ」といいますのは、これらのたとえは《天の国は次のようにたとえられる》というような出だしで始まるので、そう名付けられています。この福音書を書いたマタイ先生は「神」という言葉を大事にとっておくために、ふつうは「神」と使われるところを「天」と言い換えるという特徴があります。ですから、ふつうは「神の国のたとえ」と呼ばれます。

身近な物事を例にとって、よく知られていることにたとえて、神の国のことを伝えようとするのですが、イエスさまのたとえは、神の国と言っても、将来の天国の楽園状態を教えようというわけではありません。いま現在、イエスさまご自身がこの世に来られたことによって神のこの世に対する働きかけが始まっているということを伝えようとしています。きょうの福音の最後に《わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる》とありますが、この《天地創造の時から隠されていたこと》とは、イエスさまを通して神の救いの働きが始まっていることを指しています。「神の国のたとえ」を聞いて、そのことを悟るかどうかがカギになります。

さて、「毒麦のたとえ」です。毒麦とは、外見が小麦そっくりの雑草で、麦畑にはびこります。それ自体が毒をもっているわけではありませんが、毒をもった菌が付着するので毒麦と呼ばれます。このたとえ話の筋は、こうです。ある人の畑に、敵が毒麦をこっそりと蒔きます。僕(しもべ)たちが気づき、すぐに抜き取ろうとしますが、主人は《いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい》と、収穫の時期を待つよう指示します。すぐに抜けば根が絡んでいるので良い麦も抜いてしまうおそれがありますし、あまりよく似ているので毒麦のつもりで間違って麦を抜いてしまうかもしれません。しかし、生長しきったときなら穂の形で見分けがつくので完全に選り分けることができるのです。

麦と毒麦が共存している畑、これは私たちの暮らす社会の現実そのものです。どうにかしなければなりませんが、世の中は善と悪が白と黒にはっきりと分かれているわけではなく、グレーゾーンが幅広く占めています。それにそもそも、他人を善か悪か判断しようとする自分自身が麦と毒麦が混ざった畑であることも考えなくてはなりません。ある人を悪と決めつける私の視点は果たして正しく公平なものでありうるでしょうか。また毒麦は育つあいだに良い麦に変身することはありませんが、人は育つあいだに悔い改めて本心に立ち帰ることができます。人は変わりうるのです。ことわざにも「角を矯(た)めて牛を殺す」とあります。牛の角を直そうとしてあまりいじり回すと、牛自身を殺してしまうことになりかねません。西洋にも「産湯と一緒に赤ん坊を流すな」というのがあります。趣旨は同じで、あまりに熱心に改革や組織の改変や行動をしすぎると、不必要な要素を取り除くうちにどうしても必要な要素までもとりのぞいてしまうことになりがちです。

たとえの最後に、主人が《刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう》、と言っているように、最後には神さまの審判があることは確かですが、イエスさまの関心は、この主人の取る姿勢を述べることによって、ご自分の身を通して始まったいま現在の神の国の働きを伝えることにあります。いまは裁きの時ではない、いまは寛容の時、忍耐の時だと言っているのです。ここに、誰をも切り捨てない神の国のあり方、そして《徴税人や罪人の仲間だ》(マタイ11章9)と非難されたイエスさまご自身の生きる姿勢を見ることができます。私たちはどうしたら世の中を良くしていくことができるのか、いつもイエスさまの生き方の中にその答えを探していく者でありたいと思います。

ところで、このたとえは、教会を考えるときにも適用されて、500年ほど昔の宗教改革の時代には改革者たちを二分することにもなりました。一つのグループは、当時の社会と教会の道徳的堕落ぶりを否定し清めようとするあまりに、教会を否定し、幼児洗礼を否定して、自分たち真の信仰者だけからなる新しい教会を作ろうとしました。他のグループは、道徳よりも信仰の質の改革を目指しました。改革の旗印は「恵みのみ・信仰のみ・聖書のみ」ということでした。そして現世にある教会つまり目に見える教会は、麦と毒麦の、信仰者と不信仰者のまじりあった群れである現実に耐えていくべきと考えました。なぜなら、誰が信仰者であり、誰がそうでないのかは、神のみが知ることであるからです。《主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ》(エフェソ4章5)です。教会を割ることには反対でした。これがルーテル教会の立場です。

イエスさまの神の国運動に加わった人々は、世の権力者や金持ちではありませんでした。むしろ彼らはイエスさまの運動をつぶしにかかったのです。イエスさまと弟子たちは、貧しく小さな群れに過ぎず、神の国からほど遠い姿でした。そんなグループの運動が果たして世の中を改善することができるでしょうか。このような疑問に答えるのが、次の二つのたとえです。

《天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる》。からしは地中海沿岸原産で荒れ地などに自生している野草ですが、栽培もされています。種子を挽いて粉にしたものを料理用のマスタードとするほか、野菜またはハーブとしても利用されます。このたとえでは実際のからしよりも誇張されていますが、始まりの小ささと結果の驚くほどの大きさが対照されています。「空の鳥」は異邦人、異教徒を指しています。ガリラヤの片隅で始まった小さな運動を神さまは将来かならず外国人もが参加するように大きく育てるというイエスさまの確信、弟子たちへの激励です。

次のたとえも同じです。《天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる》。パン種とは、パンの製造に使用する酵母、イーストのことです。小麦粉にイーストを混ぜたならば、イーストは消えてなくなってしまうかのようです。私たちは吹けば飛ぶような小さな群れにすぎません。しかし、ほんの少量のイーストが粉に働きますとパン生地全体が膨らみます。3サトンは換算すると38.4リットルですから、ずいぶん大量のパンができあがることになります。これはたぶん、世界の東西南北から集まった救われた者たちの、天国における大祝宴に供されるパンを象徴しているのでしょう。

東日本大震災のような途方もない大きな出来事に直面したら、私たちの愛の業、募金や援助はまったく無力に感じられます。しかし、神さまが私たちの小さな努力を、神の国が成長していくことの中に用いてくださると信じてよいのです。イエスさまの「神の国のたとえ」は、そう私たちを励ましてくれているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年7月31日 聖霊降臨後第7主日 「種蒔きのたとえ」

マタイによる福音書13章1〜9節
説教:高野 公雄 牧師

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

マタイによる福音書13章1〜9節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

最初に、きょうの福音が置かれている聖書の流れを見ておきましょう。

先週はマタイ福音書11章の結びの部分を読みました。そこでは、知恵ある者や賢い者はイエスさまを受け入れなかったけれども、幼子のような者がイエスさまの宣べ伝える神の国の福音を受け入れたこと、そしてそれはイエスさまの伝道の失敗ではなく、それが神さまのみ心であったのだということが語られました。今週の朗読個所はマタイ13章でして、12章が省略されていますが、そこには、安息日に病人をいやし、悪霊を追い出すなどのイエスさまの活動と、それに対する人々の反応が伝えられています。

きょうの13章はたとえ話集で、7つないし8つのたとえを収めていますが、イエスさまのメッセージが簡単には受け入れられなかった「今の時代」(マタイ11章16)の人々の現実の中で、それでも神の国は力強く成長している、神の働きは成果を必ず生み出すと語ります。

きょうの福音はその最初のたとえで、「種を蒔く人のたとえ」と呼ばれます。「種を蒔く人」と言えば、フランスの画家ミレーの作品が有名ですが、この絵を題材にした彫刻家・詩人の高村光太郎の銅版画が岩波文庫のシンボルマークとして使われています。

では、きょうの福音を聞いていきましょう。

《その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた》。

13章に集められたたとえ話は、ガリラヤ湖の岸辺に集まった大勢の群衆に対して、漕ぎ出した舟の上から語られたものです。ここで群衆は立って聞き、イエスさまは座って語ったとありますが、教師が座って語り、学ぶ者たちは立って聞くというのが当時の普通の姿勢でした。

さて、種を蒔く人のたとえですが、種を蒔く人は、道端や石だらけの所や茨の茂った所にも種を蒔いたというのです。この農夫の蒔き方は奇妙です。日本のやり方なら、種が無駄にならないように、まず畑をよく耕して、石ころや雑草をとりのぞき、「良い土地」にしてから蒔くのが普通でしょう。耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるのが、ふつうの種まきです。

ところが、聖書の学者たちによれば、パレスチナの農民の種まきは私たちになじみのそういうやり方ではありませんでした。彼らは耕す前に、まず土地一面に種を蒔いてしまい、そのあと土地を掘り起こすように耕していったそうです。蒔くときに、石ころがあろうと、茨が生えていようと、どうせ後で掘り起こすので問題にはならないのです。なぜこのようにするかと言えば、パレスチナでは日差しが強く、種を地中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからなのだそうです。

《イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた》とあるとおり、イエスさまは神の国の福音を人々に語るときに、聞く人になじみのあるたとえを用いて話されました。私たちには奇妙に見える種まきですが、イエスさまの聴衆にとっては身近な「たとえ話」だったわけです。

では、このたとえ話は何を伝えようとしているのでしょうか。農夫は麦が刈り取られたあと人の通り道になって固くなってしまった土地、石だらけの土地、茨の生えている土地にも種を蒔きました。次には深く耕されるはずなのですが、そうされなかったのでしょうか。土地それぞれの事情のゆえに実をつけるまでに育つことができませんでした。良い土地にまかれた種はさいわいです。100倍、60倍、30倍の実をつけました。悪い土地に落ちた種が実を結ばないように世の中には苦労に遭うばかりの不運な人もいれば、良い土地に落ちた種がたくさんの実りを産むように幸運な人もいる、と言っているのでしょうか。そんなことではないようです。このたとえ話のポイントはどこにあるのでしょうか。イエスさまは話の結びに、人々にこう言います。《耳のある者は聞きなさい》。まるで、イエスさまは「なぞなぞ」を話して、これを解いてみなさいと人々に問いかけているかのようです。

ここで、ちょっと立ち止まって、礼拝では読まれませんでしたが、このたとえに続くマタイ11章10以下に、イエスさまがなぜ「たとえ」を使って話すのか、その理由が語られていますので、そこで言われていることを見ておきましょう。そこでは、こういうことが言われています。イエスさまの言葉のうちに「天の国の秘密」(マタイ11章11)を見出した者には、「天の国の秘密」は次々に明かされ、「いよいよ豊かになる」けれども、そうでなければ閉じられたままとなるとあります。「天の国の秘密」とは、イエスさまの活動において神が最後的な支配を開始しておられるということであり、そのことを認識する特権を神はイエスさまの弟子たちに許されたのです。弟子たちはイエスさまに聞くことによって、このことが何を意味しているのかということに関する知識を、さらに深く悟ることになります。

つまり、イエスさまは弟子にも弟子以外の者にも同じように「たとえ」を語りますが、「天の国の秘密」に心を開いた弟子には、それは単なる「たとえ」ではなく、秘義を明かす真理の言葉となりますが、心を閉ざす者には「たとえ」にしかすぎません。結果として「だから、彼らにはたとえを用いて話す」(マタイ11章13)こととなるのだ、というのです。

実は、聖書で使われている「たとえ」という言葉は、「格言・比喩・なぞ」など広い意味を持つ言葉です。ここでは、「なぞ」の意味をも含んだ「たとえ」を指しています。「なぞ」とは隠しもするし明かしもするような謎のような言葉です。実話によって単純な考えを伝えるのではなく、「なぞ」は、心をじらすことで洞察へと至らせようとするのです。イエスさまの言葉は、弟子たちには「なぞ・たとえ」ではないが、弟子以外の者には「なぞ・たとえ」に終わってしまうのです。

では、あらためて、この「種を蒔く人のたとえ」が意味することに注目しましょう。

11章18以下にこのたとえの説明が書かれています。それによると、このたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が良い土地かどうかではなく、むしろ、大きな収穫に信頼し、希望を持って、忍耐して種を蒔く人のほうにあるようです。

4~7節は別々の事柄をたとえているのではなく、全体が種まきに伴う無駄の多さを強調しているのです。それに対比されるのが、実りの豊かさを述べる8節です。農夫は多くの種が無駄になるかもしれないと知っていても、あらゆる所に種を蒔き、実りを待ちます。そのように、イエスさまも人間的な反対や抵抗にあっても、あきらめずに神の国について語り続け、父である神のみ旨を行い続けます。このたとえは、神は希望の持ちにくい所からも、見事な実りをもたらすことができる、ということを私たちに語っているのです。当時の麦畑は普通の出来が7.5倍、豊作で10倍だったそうです。100倍、60倍、30倍というのは、神さまの働きの力がそれだけ大きいことを示しています。

そしてまた、私たちは《艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしま》いますし、《御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで》しまう者です。先週はコラジン・ベトサイダ・カファルナウムの人たちが、こうしたことで熱意を失ってしまったことで叱られたこと自戒の言葉として聞きましたが、この説明の言葉も私たちによくあてはまる事柄です。神のみ旨の確かさを信じましょう。そして、艱難に遭ったとき、誘惑に誘われたときにも、しっかりとイエスさまから手を離さず、しっかりとつかまっていましょう。

いま「しっかりとつかまっていましょう」と言いましたが、その真意は、「イエスさまが私たちをしっかりとつかまえていてくださることをいつも忘れないでください」ということです。イエスさまがしっかりと手を握っていてくださることを知るがゆえに、その応答として、感謝の心で、私も喜んでその手をしっかりと握り返すことができるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年7月24日 聖霊降臨後第6主日 「安らぎを見出す」

マタイによる福音書11章25〜30節
説教:高野 公雄 牧師

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

マタイによる福音書11章25〜30節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

最初に、きょうの福音が置かれている聖書の流れを見ておきましょう。

マタイ福音書11章では洗礼者ヨハネやイエスさまを受け入れなかった人々のことが語られています。まず2~19節では、投獄されたヨハネが自分の弟子たちを遣わして、イエスさまに「来たるべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせます。イエスさまはその質問に対して直接には答えず、こう事実を指摘します。《行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである》(4~6節)。イエスさまが来て、こういう事態を作り出しているのに、人々はその意味を理解できずにいます。神に立ち帰り、神の国の福音を信じることをしません。そのような「今の時代」をイエスさまはとがめて、こう評しています。《今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』。ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う》(16~19節)。

それだけではありません。続く箇所では、イエスさまのガリラヤ伝道の中心地であった町々、コラジン・ベトサイダ・カファルナウムを名指しして、そのかたくなな態度を非難します。《それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」》。

ガリラヤ湖畔の町カファルナウムは、イエスさまがガリラヤ湖の漁師であった兄弟のペトロとアンデレ、それともう一組の兄弟ヤコブとヨハネを最初の弟子として召した町であり、またイエスさま自身がガリラヤ伝道の拠点とされた町でもありました。この町の大多数もまた、病気の治療などの御利益(ごりやく)だけをありがたがり、自らの生き方を変えることはかたくなに拒む、といういつの時代の人々にも通じる宗教との付き合い方だったのです。

実際、イエスさまを受け入れた人々と受け入れなかった人々がいました。しかも、受け入れない人の方が圧倒的な多数だったのでしょう。きょうの福音は、そのような状況の中でのイエスさまの祈りと、人々に対する大きな招きとして読むことができます。

イエスさまはこう神さまをほめたたえて祈ります。《天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした》。「これらのこと」とは、イエスさまが言葉と業とで人々に告げ知らせた神の国の福音です。ここでは「知恵ある者や賢い者」がイエスさまを受け入れなかった。しかし、「幼子のような者」がイエスさまを受け入れた、と言われています。「知恵ある者や賢い者」とは、学のある人、当時においては、律法についての知識を持っている人のことでした。「幼子のような者」とは、貧しい無学な人のことです。つまり、当時、世間的な評価の高かった祭司長や律法学者たちは、自分たちの知識や力を頼みとし、そのためにイエスさまの福音を理解できなかったけれども、世の評価が低く、社会の片隅に追いやられていた人たちがかえって、イエスさまの福音を受け入れたのです。そして、そのことは神さまのみ心にかなうことなのだというのです。「知恵ある者や賢い者」が心を閉ざし信じないことも、「幼子のような者」、世間的な評価を受けない人々がかえって心を開いてイエスさまを迎え入れ、神に頼ることも、神のみ心であるとして、そういう神さまをほめたたえます。これは、イエスさまが神の国を宣べ伝えても聞かれない事態、人間的に見れば伝道の失敗ともいえる厳しい現実に直面して、深い祈りの中で聞き取った神さまのみ心だったのです。

イエスさまは、以上の賛美の言葉に続けて、祈りで得た確信をこう言い表します。《父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません》。ここで「子」とはもちろんイエスさま自身のことであり、「子が示そうと思う者」とは、前出の「幼子のような者」のことです。神のみ心と一致して、ご自分の思いもこれら社会の片隅に追いやられている人びとに向けられていることを言い表しています。

この確信にもとづいて、イエスさまは人々に対して大いなる招きの言葉を発します。《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう》。なんと慰め深い呼びかけでしょう。一体、誰か疲れていない人、重荷を負っていない人がいるでしょうか。私たちは皆、どれほどこの招きの言葉を必要としていることでしょう。

当時の人々は、宗教指導者に重い荷を負わされ、疲れ果てていました。このことについて、イエスさまは後にこのように言っています。《律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。》(マタイ23章2~4)。当時の人々の負っていた重荷は、単なる仕事上の重荷ではないし、単なる罪の重荷のことでもありません。律法学者たちやファリサイ派の人たちが、人々に課した戒律という重荷です。人々は貧しい生活のゆえに彼らの課した戒律を守ることができず、劣った者と見なされ、社会の片隅に追いやられていたのです。《彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない》のでした。

しかし、イエスさまは律法学者たちとはちがいます。イエスさまは「あなたにわたしの手を貸しましょう。あなたの重荷をわたしが共に担いましょう」と言って呼びかけておられます。《わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである》。

軛(くびき)とは、荷車や犂(すき=畑を耕す農具)を引かせるために、二頭の牛またはロバを横につなぐものです。「わたしの軛」も「わたしの荷」も、負うべき荷であることは変わりありません。宗教指導者たちの重荷を降ろしたとしても、今度はイエスさまの軛または荷を負うのであれば、同じことだと思うでしょうか。キリスト教に好意的と見られる人でも、よくこう言うのを聞きます。「キリスト教にもいろいろ戒律があるのでしょう?私はとうていそういう戒律を守れるような人間ではありません。私にはキリスト教は無理です」と。

そういう人たちは、この軛が二頭立てであることに気づいていないようです。この軛が二頭立てであることの意味合いについては、パウロがコリントの信徒への手紙で、こう書いていることが参考になります。《あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか》(Ⅱコリント6章14)。これでお分かりのように、軛が二頭立てであるということは、自分と誰かが一対となって軛につながれるということです。そして、イエスさまが「わたしの軛」と言ったら、それは一つの軛に、イエスさまと私が一対となってつながれて重荷を引く、すなわちイエスさまが私の重荷を私と一緒になって担ってくださるということを意味しているのでした。ですから、イエスさまを拒み、自分はどんな軛からも自由でいたいという人は、決して重荷を負わずに「安らぎ」を得ている、ということにはならず、旧態依然として自分ひとりでは負いきれない過大な荷を負い続けるということになるのです。

《だれでもわたしのもとに来なさい》という招きに応えて、イエスさまにお願いして、私と一緒に歩んでもらいましょう。私の重荷を一緒にを担いでいただき、荷を軽くしていただき、安らぎを得させてもらいましょう。そして、《わたしの軛を負い、わたしに学びなさい》と言われているように、共に荷を負ってくださるイエスさまから、荷の負い方、人生の歩み方を学びましょう。イエスさま自らが《わたしは柔和で謙遜な者だ》とおっしゃっておられるように、荷も軽く柔和で謙遜な歩みをできますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン