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2019年1月27日 顕現節第4主日 礼拝の説教「罪深き者よ、神の福音に生きよ」

「罪深き者よ、神の福音に生きよ」 ルカによる福音書5章1~11節  藤木 智広 牧師
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 主イエスの一番弟子であるシモン、後のペトロが主イエスと出会い、弟子とされた物語から御言葉を聞きました。シモンの体験は神様、主イエスとの真の出会いを描いております。私たちもこのシモンの姿に自分を重ねるならば、自分が神様と出会ったきっかけ、また既に洗礼を受けている方は洗礼を受けるきっかけとなった体験を思い起こすのではないでしょうか。神様は実に不思議なやり方で、シモンと出会い、私たちと出会ってくださるのです。
 この時シモンは窮地に追い込まれていました。「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」と漁師のプロがこのように嘆いていることは、死活問題に関わります。明日をどのようにして生きていけばいいのか。シモンはそのことに頭を悩ませ、疲れ果てていました。自分の船には主イエスが乗っておられますが、彼は本当の意味でまだ主イエスと出会ってはいなかったのです。
 実は、主イエスとシモンの出会いは、この場面が始めてではありませんでした。前の4章38節から41節で主イエスはシモンの家を訪ね、高熱に苦しむシモンのしゅうとめを癒し、またその家で多くの人を癒していました。主イエスはこのシモンの家を拠点に宣教活動を行い、人々を癒し、神の言葉を説教して、礼拝を行っていたのではないかと言われています。自分の家に来た主イエスのことを知らないわけがなかったでしょう。もしかしたら、シモンは主イエスと一緒に食事をしていたのかもしれません。
 そして主イエスは出かけて、ゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖)におられました。そこで神の言葉を聞こうと、群集たちが集まって来ました。その傍ではシモンたちがいます。神の言葉を聞くどころではなかった。明日をどう生きていけばいいのか、これからの自分の人生を考えながら、ただ網を洗っている漁師たちの姿がありました。
 主イエスは彼らの姿をもご覧になっていたのでしょう。神の言葉を説教する場所として、主イエスはシモンの船に乗ったのです。そして、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになったと言います。シモンに手伝ってもらい、シモンとの関わりを主イエスの方から持たれたのです。自分のしゅうとめを癒してくだった主イエスが自分の船に乗っている。それこそ、漁師である彼にとって、船は彼の商売道具以上に、自分の人生を表しているものでしょう。その自分の人生の象徴とも言えるこの自分の船に主イエスほうからやってきてくださり、彼と関わりを持たれるのです。しかし、シモンは神の言葉を深く聞くことができなかったでしょう。夜通し苦労して何もとれなかったのだから、肉体的にも精神的にももう疲れ果てていたはずです。そして、主イエスが群集に話し終えると、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。漁のプロである漁師が夜通し苦労したけれど、何もとれなかったのです。漁師でもない主イエスがそのように言われる根拠は何かなどと伺い知ることは到底できなかったでしょう。
 しかし、シモンは言います。お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。お言葉ですから、これはあなたの言葉にかけて、あなたの言葉に基づいて、やってみましょうという意味です。彼にとっては、それは未知なる領域であり、本当に漁をして魚が絶対にとれるなどという確信は抱けなかったでしょう。この言葉は、漁師としての自分の力や計算ではなく、あなたの言葉にかける、あなたの言葉以外に何も委ねるものはないというシモンの告白であります。私がこれから漁をするのは、漁師としての感や経験ではない。あなたの言葉によって、あなたの言葉に突き動かされてするもの。主権は自分ではなく、主イエスであり、神様なのです。
 そして、シモンたち漁師に驚きの光景が広がります。その通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになって、船が沈みそうになるくらいに魚が取れたのです。信じられないという思いを抱きつつも、彼らの仕事は大成功を収めたわけです。互いに握手し、肩を寄せ合ってハグをし、その喜びを大いに表すでしょう。しかし、その大漁の奇跡と恵みを前にして、シモンの反応は意外なものでした。主イエスの前にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったのです。漁師仲間のヤコブとヨハネも続きます。皆喜び舞踊っているのではなく、主イエスの前にひれ伏しているのです。それも、喜びや感謝来るものではありませんでした。恐れから来ているものなのです。
 私があなたの言葉に全てを委ねたから、当然このような恩恵に与ることができたなどとは微塵も思っていないのです。この大漁の奇跡がもはや自分の力や計算、自分の存在によってどうこうできる範疇を超えていることから、彼らは恐れ、そして主イエスの前に顔をあげることができず、罪人としてただひれ伏すしかなかったのです。それは、ようするに自分が正しい者ではないということです。正しさは正確さです。シモンにとっては漁師としての正確さがあり、それで生きてきたのです。自分を頼りにして、それこそ漁師としての自分の言葉に基づいて、生きてきたのです。しかし、現実は厳しいもので、夜通し苦労したけれど、何もとれなかったということが起こりました。漁師としての正確さが打ち破れ、もはや自分には何も残るものがなかったのです。この大漁の奇跡はもはや自分自身の正しさ、正確さから来るものではない。主イエスがもたらす神の大いなる恵み、その聖さを前にして、自分は汚れたものであり、罪人であるという彼の恐れがここにあるのです。むしろ、この大漁の奇跡を通して、自分の罪に気づかされたと言って良いでしょう。正しいのは私ではなく、主イエスあなたであると。
 しかし、尚主イエスはシモンたちから離れず、むしろ更に彼らに近づかれるのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と。罪人のままにいつまでも恐れることはない。むしろ、ここで主イエスは彼らを新しい人生へと導いていかれるのです。人間をとる漁師としてのキリスト者、神の言葉がもたらす福音にこれからあなたがたは生きていくのだ。その福音の恵みはあなた自身の言葉に基づく上では見えてこない、わたしの言葉、神の言葉に基づくところから、福音の恵みが見えてくるのです。神の福音に生き、その福音を伝えていく新しい生き方へと彼らを招き、導いて行かれるのです。そして、この言葉は、彼らの罪が既に神の赦しの中におかれていることを先取りしているのです。
 夜通し苦労しても何もとれなかった。この現実の厳しさ、苦難は私たちにもあります。しかし、その私たちの只中に、主イエスのほうから近づいてこられる。シモンの船に乗られたように、私たちの人生の只中に主イエスは来てくださるのです。そして、自分の罪に気づかれ、神の言葉の恵みをより一層体験するようにと導かれているのです。お言葉どおりに、そう、目に見える自分の期待、確信は打ち崩されるかもしれない。しかし私たちは神の言葉に基づくことができるのです。諦めることはないのです。わたしの船に主イエスが乗っていてくださり、共にいてくださるからです。自分の正しさ、目に見える確かさを超えて、主の偉大な驚くべき恵みは、確かに起こっているのです。だから、私たちもお言葉どおりに、お言葉に基づいて歩んでいくのです。
 ここにシモンと神様、主イエスとの真の出会いがあります。既に自分の家で出会っていたけれど、本当の意味で主イエスと出会ったのはこの時なのです。あなたこそが正しい人であり、その力強い御言葉によって私は導かれ、その中にわたしの人生があり、命があるのだと。シモンのひれ伏す姿は、そのことを彷彿とさせるのではないでしょうか。私たちも主イエスと出会います。それは自分の言葉ではなく、お言葉どおりに、神の言葉に聞き、神の言葉に基づいて、人生を歩むところに、主イエスは共にいてくださるのです。
 そして何よりも、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。この人生の苦悩、困難を主イエスは共に負って下さる方なのです。同じ状況、同じところに立ってくださるのです。でも、それで終わりではない。沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。そう、その苦難から主イエスは共に進んでくださるのです。だから、今主イエスが私たちに神の言葉を告げています。心を開いて、その言葉を聞き、お言葉どおりに前に進んでいきたい。必ずや主イエスは私たちを導いてくだいます。神様との出会いによって、皆様の歩みが祝福されたものとなるように。その祝福の内に歩んでまいりましょう。
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

福音記者ルカの日

 福音記者ルカは新約聖書ルカによる福音書と使徒言行録の著者とされています(ルカ1:1~4、使徒1:1~2)。どちらの文書も文体の整った質の高いギリシア語で書かれ、ギリシア・ローマ世界の歴史記述を明記し、その只中で神の救いの計画(約束)がイエスキリスト、聖霊の働きを通して起こされていることを力強く詳細に記しています。そのため、著者のルカは比較的社会的地位があり、ギリシア文学に教養のある異邦人であったと言われています。

 伝承によると、彼はシリアのアンティオキアで生まれ、ギリシアで活動し、そこでルカによる福音書と使徒言行録を編纂し、84歳で亡くなったと言われています。また、福音書には一度も彼の名前が出てきませんが、パウロ書簡には3度だけ言及されています(コロサイ4:14、Ⅱテモテ4:11、フィレモン24)。彼は使徒パウロの同労者として、パウロの近くにて彼を助け、伝道に従事し、パウロが特に信頼を置いているほどに、親しい関係にあったと言われています。また、コロサイの信徒への手紙4章14節に「愛する医者ルカ」と言及されていることから、彼は医者であったと言われています。しかし、このルカが福音記者ルカと同一人物であるかどうかということは諸説有り、信憑性に乏しいと言われています。

 祝祭日は10月18日です。ルカは9世紀頃から外科医、内科医の守護聖人として崇敬されています。また、彼は聖母マリアの肖像を描いたとも伝えられ、8世紀ごろからは画家とも見なされています。15世紀の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンは聖母マリアの肖像を描くルカを題材にした作品『聖母を描く聖ルカ』を描いています。

2014年6月1日 昇天主日 「祝福しながら」

ルカによる福音書24章44〜53節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

昨日は関東地区婦人の集い、春の例会、お疲れ様でした。通年当番教会で行われている会ですが、今年は、私たちルーテル教会の教育関連施設であるルーテル学院大学、日本ルーテル神学校で執り行われました。この目で、ルーテルで学んでいる学生たちの学び舎を直接見てまいりましたので、皆さん大変新鮮な思いを抱かれたことでしょう。Read more

2013年12月22日 待降節第4主日 「神の偉大を知った者の歌」

ルカによる福音書1章46〜55節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

アドベントクランツの4本目のキャンドルに火が灯りました。本日の礼拝後にクリスマスの祝会を致しますが、教会暦では待降節第4主日、最後のアドベントの週を迎えたので、本日は待降節第4主日の日課から、福音を聞いてまいります。

本日の福音として与えられましたルカによる福音書1章46~55節、これは伝統的に「マリアの讃歌」と言われている箇所でありますが、この歌はラテン語で「マグニフィカート」と言いまして、「大きくする」という意味です。47節の「あがめ」、崇めるという言葉が「大きくする」という意味から取られているものです。すなわち、主を崇めるということは、主を大きくすると、このように歌われているのです。

このマリアの讃歌ですが、そのタイトルの通り、マリアが歌ったと言われる歌ですが、マリアはこの時、ナザレという田舎町に住む14~15歳程度の少女であったと言われています。ごく普通の農家の娘だったのでしょう、そんな少女が、このような神様を讃える歌を誇らしげに歌っているのです。特に後半の51節からは、私たち人間の価値観をひっくり返す、とんでもないことが主の御業として起こると歌われています。ようするに、主の御業の前には、人間の力、知恵、繁栄などといったものは、無に等しいということ、そんな人間の無力さがここでは同時に歌われている激的な歌、激しい歌がこのマリアの讃歌なのであります。

「マリア」と聞けば、主イエスの母親としての「聖母のマリア」、また、このように神様に対する絶大な信頼と力強さに満ちた歌を歌っている「信仰深い人」、「敬虔な信仰者」というイメージを持っている方が多いかと思います。確かにマリアは特別な人なのかも知れません。そもそもマリアに起こった出来事そのものが、この賛歌を歌ったという驚くべきことに結びついていると言えるでしょう

先週私たちはマタイ福音書から、マリアの夫のヨセフに起こった出来事を聞いてまいりましたが、その状況と重なるように、マリア自身も天使からお告げを聞きました。それはルカ福音書1章26節からの受胎告知と言われる場面であります。彼女も天使から、聖霊によって男の子を身ごもったことを聞きました。ヨセフと違い、マリアには言葉がありますから、そこから、その時の彼女の心情が伝わってまいります。天使のお告げに対してマリアは言います。「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(1:34)こんなことは信じられない、この世の価値観、人間の常識ではありえないと彼女は言いますが、それは驚きだけではなく、彼女自身の不安と恐れがあったのです。なぜなら、このことは明らかにヨセフとの婚約生活に支障をきたしてしまう危機的な状況を生み出す出来事だったからです。

しかし天使は彼女の問いに答えます。「神にできないことは何一つない」と。その言葉を聞いた彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」と言います。神様が全ての出来事を導き、働かれる、マリアはその確信を抱いたというより、信じて委ねたのでしょう。私たちはこのマリアの気持ちに疑問を抱くかも知れません。どうして、そう簡単に天使の言葉を受け入れることができたのかと。もう打つ手がないから、神頼みにかけたのでしょうか。神様に運命を委ねたのでしょうか。それとも単純な諦めでしょうか。

決してそういうことではありません。そうでなければ、またそんな思いからはこのような歌は歌えないでしょう。この歌は確かに神様の御業の絶大さを歌ってはいますが、それが自分にとってどのようなことなのかということがはっきりと歌われているからであります。神様から見て、自分とはどのような存在なのか、そんな自分のために神様は何をしてくださったのかということを彼女ははっきりと歌っているのです。まわりの状況が自分にとって都合よく、がらっと変わってくれたのではなく、自分という存在としっかりと向き合って、自分こそが変えられたということを、人間の力ではなく、神様の御力によって成されるということを信じているのです。彼女を取り巻く状況は変わっていない、現実そのものは全く変わっていないのです。でも彼女は魂、心の底から神様を讃美し、ほめたたえています。その理由が48節から記されています。

48節で「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」と彼女は自分自身についてこう言っています。身分の低い主のはしため、はしためというのは奴隷という意味ですが、身分が低いというのは口語訳聖書では「この卑しい女をさえ」となっています。それは周りの人間から、ヨセフと同居する前に妊娠したという出来事を通して、彼女は卑しい女性だと見られていた。そういった現実そのものを表していると言えるかも知れませんが、彼女自身は神様のみ前で、自分はそんな存在ではないと弁明しているわけでもなく、卑下しているわけでもないのです。

この「卑しい」という言葉ですが、これは謙虚、謙遜ということではありません。最近ではあまり使われない言葉ですが、この言葉を広辞苑で調べて見ますと、たくさんの意味が書いてありました。源氏物語や伊勢物語などの古典文学にはたくさん出てくる表現ですが、これは忌み言葉です。身分や地位が低いという意味から始まって、他には「貧しい、みすぼらしい、とるにたりない、下品である、おとっている、さもしい、いじきたない」など、人間の惨めな存在として、この言葉は使われているのです。つまりマリアは、人間にとって、全く評価されない人、無価値な存在として、ここに描かれているのです。

主をあがめる、すなわち主を大きくするということは、自分自身は小さいのです。取るに足りない存在、卑しい存在なのです。ヨセフとの結婚生活さえ危機的な状況を迎え、普通の人としてではなく、卑しい存在となってしまったという境遇を通して、神様の大きさが見えてくる。神様からの大いなる恵みがわかるのです。神様は彼女の卑しさそのものに、目を留めてくださったと彼女は歌うのです。神様を讃えているのです。こんな私にも、こんな私でさえ、神様は見放さない、それどころか神様の方から目を向けて下さる、気にかけてくださる、私の存在を受け留めてくださると、彼女は言うのです。

そんな自分は幸いな者、つまり幸せ者だと彼女は言うのです。神様が彼女に目を留められた、受け止めてくださったということですが、実際に神様は彼女に何をしてくださったのかということが、49節の御言葉です。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」神様がマリアに偉大なことをなさったというのです。「偉大」という言葉もまた「大きい」という言葉が元となっています。他にも「広い、強い、重要な、立派な」という意味を総称して偉大となっているのでしょう。だから偉大というのは、単なる表向きな姿勢だけではありませんし、神様が人間を無視している行為でもない、卑しさを通して、真に重要なことを彼女に託したのであります。彼女を必要とした、それは偉大なことを成し遂げるために、まだ15歳にも満たない農家の少女が選ばれたのでした。彼女の卑しさの中に、救い主が宿ったのです。それは人間の卑しさの中で、神が生きて働いていかれるというご決断、人間が忌み嫌う場所で、神の子が宿った、それがあの悪臭漂う飼い葉桶に、真に実現するのです。

私たちは人間の卑しさ、この世の卑しさの只中で、生きています。けれど私たちは卑しさを嫌います。受け止めようとはしません。大きいとまでは言わなくとも、自分は清い存在でありたいと願うものです。しかし、時にこの世界に蔓延る人間の卑しさ故に、いつ自分が理不尽な目に会うのか、わかりません。突然愛する人を失うかも知れませんし、病気になるかも知れませんし、職を失うかも知れません。ヨセフとマリアに起こった現実は私たちの現実となりうるのです。信じられない事件が毎日たくさん、私たちの間近で起きています。ヨセフは密かに縁を切ろうと一大決心し、マリアはなぜそんなことが起こるのかと、それぞれに葛藤を抱きます。私たちも抱く葛藤であります。自分たちで何とかしようともがき苦しみます。そして自分の卑しさ、無力さに気づかされ、卑下する自分の姿があるのかも知れません。

しかし、人間の常識を超えて、また理不尽さを超えて、神は働かれる。奇跡と言っても言いのかもしれません。神はそうご決断されました。偉大なことをご決断された。マリアが選ばれ、救い主が宿られた。何の価値もない卑しい人の中に宿られたのです。私たちもマリアのように招かれ、選ばれてこの場におり、神の御言葉を、生きて働いてくださるキリストを心に宿すために、神様の愛によって目を留められているのであります。人間的な価値感という縛りを打ち破って、真の自由を人にもたらすために、神は我々と共におられる。共にいるものとして、私たちの人生に関わってくださる方として、この世に救い主が与えられるのです。だから、私たちは、その理不尽さ故に、どうしようもない状況の中で、自分を卑下して嘆きつづけるのではなく、自分の中にある卑しさそのものに神様が目を留めてくださっているという真実に目を向けて、マリアを通して救い主を与えてくださった神様の愛に導かれて、歩んでいけばいいのです。人間は卑しさに対して、嫌悪感を抱きますが、神様は卑しさに対して、愛をもって応えられます。まわりは変わらなくとも、あなたを卑しいままに愛される方は、あなたを導く、あなたを変えます。そしてあなた自身が変わるのです。

いよいよクリスマスを迎えます。毎年来るのが当然だと思ってしまう私たちのところに、神様は一人ひとりを目に留めてくださる故に、救い主を与えてくださいます。神様は卑しい者、無力な者に、偉大なことをしてくださる方です。神様の御心は主イエスを通して、私たちの卑しさに宿られました。そしてご自身は最も卑しい者となって、私たちと共にいてくださるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。