2012年12月30日 待降後主日

ルカによる福音書2章25〜40節
高野 公雄 牧師

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり

この僕を安らかに去らせてくださいます。

わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

これは万民のために整えてくださった救いで、

異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

ルカによる福音書1章25~40節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

先週クリスマスを祝ったあとの、きょうは今年最後の主日礼拝となりました。教会の暦では降誕後主日といいます。この日にはイエスさまの年少時代の記事を読む習わしになっており、カトリック教会では聖家族の主日と呼んでいます。聖家族とは、幼子のイエスさまと父ヨセフと母マリアの三人を指します。

今年は、ルカ福音2章の赤ちゃんイエスさまのお宮参りの記事が選ばれています。ルカ福音は、これまで洗礼者ヨハネとイエスさまの物語を交互に書いてきましたが、この物語からは、イエスさまひとりに焦点をしぼって語られるようになります。

《八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である》(21節)。きょうの福音の前に、こう記されています。ヨセフとマリアは信仰の篤い親として律法の決まりのとおりに、イエスさま誕生の一週間後に割礼を施し、天使の命じた名を付けます。律法にはこう定められています。《イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない》(レビ12章2~4)。

《さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った》(22節)。

上記レビ記12章のとおり、清めの期間は7日プラス33日で40日間です。それで、昔はヨセフとマリアがイエスさまを伴って神殿に上る出来事は、12月25日のちょうど40日後にあたる2月2日に祝われていました。

清めのための献げ物については、こう定められています。《男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。祭司がそれを主の御前にささげて、産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は出血の汚れから清められる。これが男児もしくは女児を出産した産婦についての指示である。なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる》(レビ12章6~8)。本来は雄羊一匹と鳩一羽を献げるのですが、貧しい者は、鳩二羽に代えることが認められていました。

聖家族がお宮参りをしたのは、マリアの清めのためだけでなく、イエスさまを主に献げるためでもありました。そのことをルカは、《それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである》と説明しています。これは、《すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである》(出エジプト13章2)を自由に引用したものでしょう。

主に献げるといっても、動物の初子と違って、人間の赤ちゃんはいけにえにするのではありません。銀貨五シェケルを祭司に支払って自分たちの長子を贖い出すのです。《人であれ、家畜であれ、主にささげられる生き物の初子はすべて、あなたのものとなる。ただし、人の初子は必ず贖わねばならない。また、汚れた家畜の初子も贖わねばならない。初子は、生後一か月を経た後、銀五シェケル、つまり一シェケル当たり二十ゲラの聖所シェケルの贖い金を支払う》(民数記18章15~16)。1シェケルは4デナリオンに相当すると言われますから、初子の身請けに10万円以上かかったようです。

《シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。》

きょうの福音は、ここから始まりますが、聖家族は上記のような律法の定めにしたがって神殿にやって来ました。一方、メシアを持ち望んでいたシメオンとアンナも、霊に満たされて神殿に入って来ました。そして、ちょうどタイミング良く両者が出会います。シメオンは幼子を腕に抱き、アンナもそばにきてイエスさまを礼拝します。とつぜんシメオンとアンナが登場しますが、二人は神の約束を信じて、救い主の到来を待ち望んでいたイスラエルの善男善女の代表として描かれているのでしょう。

《主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。》

私たちは23日の礼拝で安藤先生の指導によって「やわらかくこの胸に」を歌い、マリアやヨセフになった思いで幼い命が与える温もりを受けとりました。シメオンも幼子イエスを抱きかかえ、神をたたえて歌います。この賛歌は、ラテン語の最初の二語をとってヌンク・ディミティス nunc dimittis(「今こそあなたは去らせてくださいます」という意味)または日本語で「シメオンの賛歌」と呼ばれます。この賛歌は、カトリック教会では「寝る前の祈り」の福音の歌として毎日となえられているものですが、私たちのルーテル教会では礼拝の終わりの部分で毎週歌われます。

そして、きょうのように、一年の最後の礼拝でも読まれます。確かに「今こそあなたは去らせてくださいます」という言葉は、一年を終わる時にふさわしいものでしょう。私たちもこのシメオンの賛歌の心を私たちの心とすることによって、この年末の礼拝を守りましょう。そして私たちは、その年に限らず、まさに終わりに向かって生きている存在でありますので、そのことを改めて覚える機会にしたいと思います。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。救い主を信じ、滅ぶべき自分の受容を必要とするとするのは、シメオンやアンナのように余命の短い老人に限られるものではありません。それは、人生の盛りの時を過ごしている者であっても目指すべきことです。そこにこそ、本当に幸せな、充実した人生があると思います。なぜなら、この言葉は、どのような思いを抱いて死ぬかというよりも、むしろどのような思いを抱いて生きているかを語っている言葉であって、なにもこう言ったからといって別にすぐに死ななくてもよいのです。このような安らかな思いを抱いて生きることができるかどうかこそが、私たちの人生の課題であると言えるでしょう。

「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉があります。これは「論語」にある孔子の言葉で、注によると、「朝、道(事物当然の理)を聞いたら、それで修学の目的を達したわけだから、その夕には死んでもいい」という、求道への熱情の吐露だということです。シメオンもアンナも、満足できる幸福な生活を送っていたからこのように語ったり、神を賛美することができたのではありません。シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいた、と25節にありますが、シメオンもアンナも、慰めと救いがない状態の中で、長くそれを待ち望みつつ、忍耐しつつ生きてきたのです。その慰めが、救いがようやく与えられた時に、アンナは神を賛美してそのことを人々に伝えたし、シメオンは「いま、わたしは主の救いを見ました。主よ、あなたはみ言葉のとおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のために、お備えになられたもの、異邦人の心を開く光、み民イスラエルの栄光です」(ルーテル教会式文)と喜びをもって歌ったのです。

私たちは、さまざまな課題、悩みを抱えたまま新しい年へ進みゆこうとしています。そうした厳しい現実の中で、歴史の終わり・私たちの人生の終わりから今の現実を振り返り見る視点を、きょうの福音をとおして与えられています。そして私たちはすでにそれを得た者として、喜びの歌を歌うことができるのです。思いを新たにし、そこに心をしっかりと定め、心安んじて、主のご用のために働くものでありたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年12月23日 待降節第4主日 「マリアのエリサベト訪問」

ルカによる福音書1章39〜45節
高野 公雄 牧師

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

ルカによる福音書1章39~45節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン

アドベント・クランツのローソクが四本点灯しました。待降節が四週目に入り、今週、クリスマスがやって来るしるしです。と言っても、もう明日がイヴです。私たちは今日の礼拝のあとクリスマス祝会をするのですから、日にちを逆にして祝うことになります。

四週目には毎年、イエスさま誕生の直前の出来事を読むことになっていますが、今年はマリアのエリサベト訪問が選ばれています。この聖書個所を味わうことをとおして、クリスマスを迎える喜びとその準備について教えていただきましょう。

ルカ福音の1章では、まず洗礼者ヨハネの誕生を天使が祭司ザカリアに予告し、次にイエスさまの誕生をマリアに予告します。そして、このマリアの訪問の記事によって、二つの予告が一つの話につながります。

《そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。》

「そのころ」とは、マリアさんが天使ガブリエルからイエスさま受胎を告げられて、それを謹んでお受けした、また叔母のエリサベトの懐妊を教えられた出来事から「間もなく」ということです。マリアは天使のお告げを受けると間もなく、エリサベトを訪問します。

マリアはガリラヤ地方のナザレ村に住み、エリサベトはユダヤ地方の村に住んでいます。イスラエルの伝承では、父祖ヤコブの十二人の息子たちが十二の部族の元になったのですが、その内のユダの子孫たちが住んだ地方がユダヤと呼ばれます。人名ユダを地名に変えるとユダヤとなります。ガリラヤからユダヤまでは四日間の旅だといいます。マリアにとってはかなり大変な旅だったことでしょう。この同じ旅を、後にはいいなずけのヨセフとともに住民登録をするために繰り返すことになります。

伝承によると、ザカリアとエリサベトが住んでいた村、つまりマリアが尋ねて行き、洗礼者ヨハネが生まれた村は、エルサレムの南西8KMにある村エイン・カレム Ein Karem(「ぶどう園の泉」という意味)だと言われます。史実である証拠はありませんが、その村にはマリア訪問を記念する教会や洗礼者ヨハネを記念する教会が建っているそうです。なお、銀座にあるキリスト教書店「教文館」の四階の雑貨売り場はこの村の名をもらって「エインカレム」と名づけられています。

《そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。》

マリアがエリサベトのところへ行ったのは、《あなたの親類のエルサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女なのに、もう六か月。神にできないことは何一つない》(1章36~37)、と天使のお告げを受けたからです。会いに行った動機については、いろいろな解釈がありますが、身ごもったことが露見しないように避難したのだとか、天使が告げたことの真偽を確かめに行ったのだという見方は、当たらないでしょう。マリアはすでに敬虔に《わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように》(1章38)と天使に答えていますから。ほかの見方として、マリアは自分の身に起こったことを同様な経験をした伯母さんに相談しに行ったのだ。高齢の伯母さんの手伝いに行ったのだ。お祝いを言いに行ったのだ、などなど。これらは皆それなりに当たっているでしょうが、聖書は、神から特別な務めを託された二人の女性が出会うことと、その交わりの大切さを伝えたかったようです。

1章24に《エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた》とありました。彼女は不思議な体験をしましたが、それを分かち合う相手が見つかりません。マリアもまた、天使から告げられた言葉を誰にも説明できなかったでしょう。二人は互いに自分の身に起こったことを話し、分かってもらう相手を必要としていました。マリアはエリザベトを助けたいという気持ちと、自分もまた話を聞いてもらい、分かってもらうことで助けてもらいたいという思いから出かけたのだと思います。

「その胎内の子がおどった」とは、マリアの訪問を受けた大きな喜びだけでなく、胎内の子の動きはその子の将来に対する神の意思をも表しています。故事としては、創世記25章に、エサウとヤコブが胎内で押し合いましたが、それは「兄(年長者)が弟(年下)に仕える」ことを表わしました。ここでも、年長のエリサベトが年下のマリアを敬うことを、そして年長の洗礼者ヨハネが年下のイエスさまを敬うことになることを示しています。

《エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」》

このように天使のお告げをうけて子供を宿した二人が出会います。エリザベトは子を宿したためらいをマリアに理解してもらって喜びました。マリアは天使に答えた生き方について、「主がおっしゃったことを必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」とエリザベトの賞賛を受け、理解されました。マリアの小さな確信はエリザベトの祝福によって確かなものとなり、大きなものとなります。ここには、人と人との最高の対話が成り立っています。伝えたい気持ちが十分に理解され、お互いに喜び合う姿です。

「友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする」、とドイツの詩人・劇作家シラーが言いました。一つの幸せを、二人で喜べば、幸福感が共鳴して大きくなります。また、問題を共有し、協力し合えば、負担は軽くなります。聖書も、《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい》(ローマ12章15)と勧めています。

神に対する共通の想いを交わし、その不安や期待を共有することほど喜ばしいことはありません。人は、一人では生きられません。自らの確信や不安を隣人との交わりの中で交流させ、そこに共通の意味を見いだすとき、それは、大きな喜びとなって人の心を満たすのです。信仰者である兄弟姉妹の交わりにおける、この分かち合いこそが、教会の意義です。この分かり合いのために、私たちは毎週、礼拝に集い、共々に祈りと賛美を献げ、み言葉に聞くのです。

なお、エリサベトの冒頭の言葉「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」ですが、「女の中で祝福された方」は最上級を表わす表現方法です。つまり「女の中で最も祝福された方」を意味します。また「胎内のお子さまも」という表現は、マリアさんが祝福されているので、二次的にイエスさまも二次的に祝福されている、というふうにも読めますが、実際はイエスさまが祝福された方だからこそ、その方を宿したマリアも祝福されているのです。

 

先週聞いた《わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように》(1章38)というマリアの信仰の言葉、今週聞いた《主がおっしゃったことを必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう》というエリサベトの信仰の言葉は、この季節に私たちが深く心に留めて、導きとすべき言葉です。私たちもまた神さまの救いの約束を信じて歩む者でありたいし、クリスマスにはその約束の到来を期待と喜びをもって迎えたいものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年12月16日 待降節第3主日 「マリアへのお告げ」

ルカによる福音書1章26〜38節
高野 公雄 牧師

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

ルカによる福音書1章26~38節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

先週の福音はルカ3章の初めの部分から、洗礼者ヨハネの活動とイエスさまがヨハネから洗礼を受ける出来事を読みました。それがイエスさまの活動の始まりであり、ルカ福音の本論の始まりでした。その前に置かれているルカ1~2章は、本論に入る前の序言であり、イエスさまの公生涯を読む者に心備えを与える役割をもっています。旧約聖書の雰囲気の濃い、ヨハネとイエスさまの誕生の話でもって、新約聖書への橋渡しをしています。

《六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。》

六か月前の出来事は、この前の段落に記されています。天使ガブリエルが祭司ザカリアに現われて、年老いた妻エリサベトが男の子を産む、その子をヨハネと名付けなさいと告げたのでした。

天使ですが、ヘブライ語でもギリシア語でも、「使者」とか「伝令」という意味の言葉です。旧約聖書でも初めは、神が人に現われたときの仮の姿を指しており、神さまと同一視してよいものでした。しかし、後に、バビロン捕囚の中でオリエントの宗教の影響を受けて、次第に神と人との仲立ちをする霊的な存在とみなされるようになりました。神の化身としての使者でなく、天使という固有の存在と認められ、ガブリエルとかミカエルとか名前をもつようになりました。キリスト教でも初期には、天使は翼をもっていなかったのですが、後に持つものとイメージされるようになりました。天的存在であり、天と地を往復する彼らの務めから生じたイメージでしょう。

天使ガブリエルがナザレの町に遣わされ、神の言葉を伝えます。イスラム教でも、預言者ムハンマドに神の言葉である『クルアーン』を伝えたのはガブリエルであり、このために天使の中で最高位に位置づけられています。

《ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」》

天使はナザレの町のおとめマリアのところに遣わされました。当時の社会の通例から、マリアは10代前半の少女だったと考えられます。婚約者のヨセフは、ここではただ、生まれる子がダビデ王家に連なる者であることを示すために登場します。

この天使の言葉は、「アヴェ・マリアの祈り」に採りいれられています。カトリック教会によるこの祈りの公式口語訳はこうです。「アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン」。

「おめでとう」と訳された言葉カイレを、フランシスコ会訳聖書は直訳して「喜びなさい」と訳しています。しかし、この言葉は挨拶として日常的に用いられる言葉なので、岩波訳聖書では「こんにちは」と訳されています。公式口語訳の祈りでは訳されず、「アヴェ」とラテン語の挨拶の言葉がそのまま用いられています。聖書には、呼びかけの「マリア」という名はありませんが、補足の言葉として付け加えられています。

「主があなたと共におられる」、この天使の言葉は、非力な少女マリアが神の救いの器として用いられるとき、神が助けてくださることを約束する言葉です。

《マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」》

マリアは天使の出現に戸惑うばかりだったことでしょう。そこで、天使は神からの伝言を伝えます。マリアが恵まれているのは、彼女が身ごもる子が、ダビデの王座を継ぐ神の子だからだと言います。伝言の中心は、マリア自身ではなくて、マリアから生まれるイエスさまだったことが分かります。

《マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」》

マリアは天使に、自分はまだおとめであるから、身ごもることなどありえないと疑義を呈します。天使はそれに答えて、神の霊が、つまり神の力があなたに降って、そういうことが実現するのだと説明します。そして最後に、神信仰の基本中の基本である信条「神にできないことは何一つない」をマリアに説きます。信仰とは、神さまの力、愛、信実に対する信頼にほかなりません。同じ言葉が創世記18章14に記されています、《主に不可能なことがあろうか》。高齢になっても跡継ぎができないアブラハムとサラの夫婦に、神が男の子の受胎を告知した場面での言葉です。

《マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。》

マリアは深く頭を垂れて神さまの言葉を受け入れます。クリスマスを間近にひかえて、私たちはきょう、このマリアの答を深く味わいたいと思います。

マリアの「わたしは主のはしためです」という言葉ですが、これは、「どうせ自分は奴隷なのだから、主人がどんな無理難題を言おうが、逆らうことはできないし、唯々諾々と従うしかない」というような自嘲の言葉ではありません。「自分は神の奴隷だ」ということは、神の強さと自分の弱さ、神の高さと自分の低さを素直に認めるだけではなく、その神さまが弱きを助け、低きを高めてくださる慈悲深いお方であることに依り頼む者だと言っているのです。このマリアさんの信仰は、私たちすべての模範とすべきものです。

私は、宗教改革者マルティン・ルターの言葉を思い出します。それは、ルターが死の二日前に書き残したメモ「私たちは神の乞食だ」という言葉です。すべてのものを神からのみ与えられて、それのみに頼って生きていく、与えられた一つひとつに感謝して生きていく、一日一日を生きていく、そういうルターの信仰の姿勢を表わす言葉だと思います。

次は、「お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉です。マリアは神さまから負いきれない重荷を背負わせられることになりました。おとめが身ごもって男の子を産むなどとは、マリアにとってまったく受け入れがたいことです。しかし、神の信実にすべてを委ねる生き方に徹しようと答えました。

イエスさまもオリーブ山の西麓ゲツセマネの園で祈りました、《父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください》(ルカ22章42)。私たちも日々祈っています、《御心が行われますように、天におけるように地の上にも》(マタイ6章10)。この「成りますように」「行ってください」「行われますように」は同じ言葉が使われています。

「お言葉どおり」とか「御心のままに」とは、どうあがいても仕方がないことは、あるがままに平静に受け止めようということだと思います。英語のことわざにも「人生は10パーセントは自分でつくり、90パーセントはどう受け止めるかだ」とあります。知恵ある言葉だと思います。以前にも一度引いたことがありますが、ニーバーの祈りを祈って、きょうの説教を終わります。

平静な心を求める祈り ラインホールド・ニーバー作

神よ 変えることのできるものについて、

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。アーメン。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年12月9日 待降節第2主日 「洗礼者ヨハネ」

ルカによる福音書3章1〜6節
高野 公雄 牧師

皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を整え、

その道筋をまっすぐにせよ。

谷はすべて埋められ、

山と丘はみな低くされる。

曲がった道はまっすぐに、

でこぼこの道は平らになり、

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

ルカによる福音書3章1~6節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

ルカ3章には、洗礼者ヨハネの活動とイエスさまがヨハネから洗礼を受ける出来事が書かれています。きょうの福音はそのうちのヨハネの活動の部分だけが選らばれていますが、著者ルカはヨハネの活動自体に関心があるのではなく、それがイエスさまの活動の始まりだから報告しているのです。つまり、待降節の二週目を迎えて、教会はイエスさまの公生涯 public ministry の始まりを学ぶことで、イエスさまを迎える心備えをするのです。

《皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、・・》

イエスさまが公の活動を始めたのは「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」のことでした。ティベリウスはローマ帝国の二代目の皇帝です。養父である初代皇帝アウグストゥスの死を受けて、紀元14年に即位しましたから、イエスさまは紀元28年か29年に活動を始めたことになります。

アウグストゥスについては、ルカ2章1に《皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た》と出てきます。イエスさまがユダヤのベツレヘムで生まれたのは、住民登録をするための旅先の出来事でした。

イエスさまがガリラヤで活動を始めたとき、《ヘロデ・アンティパスがガリラヤの領主》でした。このヘロデはガリラヤ湖畔にガリラヤの首都をローマ風に建築し、ティベリアと名付けました。ときの皇帝に敬意を表すためです。イエスさまはこの都市を好まなかったのでしょうか、福音書にはこの町に入った記事がありません。このヘロデはヨハネの首を刎ね、イエスさまの裁判に立ち合いました。

ヘロデ・アンティパス《の兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主》とあります。ガリラヤ湖の東側とその北の地域です。このフィリポも自分の領地の首都を建てて、「カイサリア」と名付けました。これもカイサル・ティベリウスにちなんだ命名です。聖書では、地中海岸の港町カイサリアと区別して、この町をフィリポ・カイサリアと呼んでいます。この町は、イエスさまが訪れた最北の地として聖書に出て来ます。

ユダヤ教の中心であるエルサレム神殿のあるユダヤは、ローマの貴族ポンテオ・ピラトが総督として派遣され(在任:26年~36年)、普段は地中海岸のカイサリアの官邸に常駐していましたが、必要とあればエルサレム城内の官邸に出張して監督していました。イエスさまはその官邸の庭で裁かれました。

このように、ユダヤ人領主たちはローマの圧倒的な支配の下にありましたし、人々は圧政に喘ぎ、人頭税反対の運動も起こりました。ローマ支配から脱するために、メシア待望の熱気も高まっていました。ちなみに、《皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい》(ルカ20章20~26)の言葉で有名な、ローマ帝国に支払う人頭税の納税問答に出てくるデナリオン銀貨には、このティベリウス皇帝の肖像と銘が描かれていました。そして、イエスさまが十字架刑に処せられたのは、この皇帝への反逆罪という罪状によってでした。

《神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。》

このような時代に「神の言葉が・・ヨハネに降」りました。この表現は、預言者が神に召し出されるときの常套句です。旧約聖書の最後は「マラキ書」ですが、そのマラキが預言した後、四百年間、預言は絶えていました。ヨハネは四百年ぶりに現われた預言者ですが、その出現はマラキが預言していました。それがきょうの旧約の日課に選ばれています。

《見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者。見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである。》(マラキ書 3章1~3)

神が語りかけたとき、ヨハネは荒れ野で修業していたのでしょう。神の言葉を受けると、ヨルダン川に沿った地方に行って、宣教活動を始めました。宣教の中味は、次のようなものでした。「メシアの来る日は近い。その日に備えて、悔い改めよ、つまり神に立ち返って神の赦しを得よ。立ち返りのしるしとして、洗礼を受けて身を清め、律法に忠実に従え」。

《これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」》

福音書では、メシア到来への期待を語る洗礼者ヨハネが、旧約時代のバビロン捕囚の解放への期待を語ったイザヤに重ね合わせて紹介されます。カギカッコ内はイザヤ書からの引用ですが、イザヤ書ではその前に、神の恵み深い語りかけが声高らかに告げられています。《慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。》(イザヤ40章1~2)人々は補囚の苦しみを通して傲慢な自分たちを知り、神に立ち返る生き方によってその罪は償われた、というお告げです。そして、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え・・」と引用された部分に続きます。神はみ力を振るい、思い上がる者を引き降ろし、低い者を高く上げてくださる。そのようにして神とつながる道が整えられ、世々の人々が神の救いを見る、と良き知らせが告げられます。

きょう交唱した賛美唱も、この神の救いへの期待を歌うものでした。

《主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちる。そのときには、国々も言う、「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた。」主よ、わたしたちのために、大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び歌います。主よ、ネゲブに川の流れを導くように、わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。・・》(詩編126編)

洗礼者ヨハネはイエスさまの先駆けとして、神の救いの良き知らせをもたらす方です。その役割について、天使ガブリエルは父ザカリアにヨハネ誕生を予告して、こう告げています。

《恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。》(ルカ1章13~17)

父ザカリアもまたヨハネ誕生に際して、このように預言して歌っていました。

《幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを、知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。》(ルカ1章76~79)

神は洗礼者ヨハネによって、み子イエスさまの来臨を告げ、その道を備えられました。私たちがその知らせに耳を傾けて、神のみ心を悟り、イエスさまと共にこの世を歩みつつ、この良き知らせを周囲の人々に語り伝え、また、クリスマスの祝いに備えることができますように。

きょうの第二朗読でパウロが祈る執り成しの祈りに心を合わせて、私たち自身の祈りとしてささげたいと思います。

《わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。》(フィリピ1章9~11)

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン