2013年7月14日 聖霊降臨後第8主日 「天に向けて」

ルカによる福音書9章51〜62節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音書には、主イエスの弟子としての在り方、従うということについて、様々な人の姿が描かれています。「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と、サマリアのたちに対して過激なことを言っているヤコブとヨハネ。また、旅の途上で出会った3人の人。主イエスから枕するところもないと言われた人、お葬式を済ませてから主イエスに従うと言った人、家族にお別れを告げてから、主イエスに従うと言った人。ヤコブとヨハネの表現は過激で、その心情は理解できない、けれど後半の3人の人の心情には同情できる、致し方ない人間の都合があるから、彼らの言い分は理解できる。今日の箇所を読んだ人は、ほとんどの方が、そのように思うのではないでしょうか。私も最初はそう思いました。ヤコブとヨハネの発言は過激だ、主イエスの弟子として問題ではないか、しかし、後半の3人の事情はわかる。端的にそう考えてしまいがちです。しかし、ヤコブとヨハネにしろ、後半の3人の人にしろ、共通しているのは、彼らは自分たち人間の都合、自分たちの解釈を第1と考えて、その後に「主イエスに従おう」としているということです。私たちもどこかしら、そういう考えをもってはいないでしょうか。自分を第1と考えるか、神を第1と考えるか。主に従うということについて、どういう認識を抱いているのかということです。改めて、いや私たちは常に向き合わなくてはなりません、主に従うとはどういうことなのかということを。そして、今日の箇所を、ただ頭ごなしに主に従うことを第1であると説くのであれば、それは単なる律法主義に過ぎないということです。人間の都合に立つのではなく、また律法主義に陥るのでもなく、「主に招かれて従う」という神様からの愛の招きに、あなたも招かれているということを今日の福音から聞いてまいりましょう。

冒頭で、主イエスは自らの旅の方向性、その目的を明確に首都エルサレムへと定めました。その旅路に向けて、準備、おそらく休息を取るために、サマリア人の村に入ろうとしたのでしょう。ところが、サマリア人たちは主イエスと弟子たちを拒絶しました。これを見たヤコブとヨハネが、主イエスに彼らに天からの火を降らせましょうかと言ったのです。サマリア人が主イエスと弟子たちを拒絶した背景としては、数百年に民族同士の対立が根深くありました。来週の良きサマリア人の譬え話で、サマリア人については詳しくお話ししますが、エルサレムに向かう主イエスと弟子たちを到底受け入れることなどできないという憎しみが、彼らの心情として、際立っていたのでしょう。

ヤコブとヨハネは、主イエスを拒絶し、神の救いを拒む彼らサマリア人が赦せなかったのです。ここで2人は「お望みなら」と、あたかも主イエスの心中を悟っているかの如く、彼らは進言するのです。けれど、主イエスは2人を戒めました。この主イエスの戒めに、2つの大きな意味があります。

1つは、主イエスが御救いを拒んだサマリアを憐れんでいるということです。あのソドムとゴモラを滅ぼしつくした裁きではなく、赦しを与えている。全世界に、余すところなく、神のご支配が、福音が行きわたるようにという主イエスの想いがあった。むしろ、それこそが神のご意志であったのでしょう。

もうひとつは、ヤコブとヨハネに対する戒めそのもの。戒めと言っても、罰を与えるということではなく、諭すということです。彼らは「主よ、お望みなら」と言いました。「お望みなら」ということです。主イエスの想いを悟っているかの如く、彼らは進言しているのですが、彼らの本心はどうなのか。主イエスの弟子である自分たちには、天から火を降らすという神の御業を起こすことができるという優越感さえ感じます。主イエスはそんな彼らの本心を見抜いたうえで、彼らを戒められたのではないでしょうか。

さて、ヤコブとヨハネの姿は、非現実的でしょうか。彼らの発言は過激なものでありますが、問題は過激かどうかではなく、主の御心を人間の都合に合わせて理解し、神の御業という権能に与っているから、それを自由に行使できるという錯覚に陥ることであります

私たち人間は、何か大きくて強い力、または人物、物など、そういったものが自分の後ろ盾となっているとわかりますと、安心感を得ることができますが、時にそういった後ろ盾となっている大きくて強い力、魅力的なものがあたかも自分の力であるかの如く、錯覚してしまうことがあります。自分の身の丈にあっていないにも関わらず、そういった力を、自分が行使できるかのように、振舞っている。そんな姿があります。
私は大学生の時に、大学の聖歌隊に所属しておりました。合唱経験のない私は、ひとりで自分のパートを歌うことすら出来なかったので、常に先輩たちに囲まれて、先輩たちの声を聞きながら歌っていました。練習には欠かさず毎回出ていたので、うまくなってきているという実感をつかむことができたのですが、その実感だけに留まらず、自分はもう満足にひとりで歌うことができるという錯覚にも陥っていました。まわりの先輩たちと一緒に歌っている時はそのように思っていたのですが、先輩たちの多くの人が卒業していなくなり、自分も学年があがって、後輩が増えてきますと、そこで全く歌えていない自分に気付かされました。今までは先輩たちが後ろ盾となって支えてくださる中で、自分は歌うことができていた。もう自分は満足に歌うことができると勘違いしていた。本当は満足に歌うことができず、自分の下手さに打ち砕かれて、初めて自分の実力を知ったのです。自分の傲慢さ、小ささ、無力さが浮き彫りとなってきた。それが、一からやり直すきっかけとなりましたが、本当の自分とやっと向き合うことができたのであります。そして、うまくなるためにも、失敗を恐れず、常に自分の実力と向き合っていなくてはならない。ひたすら努力して、練習しなくてはならないと自分に言い聞かせていましたが、本当に大事なことは何かということも、この時気付かされました。合唱ですから、当然自分一人だけが歌うわけではない。まわりの声を聞いて、合わせなくてはいけない。ひとつのハーモニーとなるように、そこに溶け込まなくてはなりません。そしてそのハーモニーを統括する者、指揮者に合わせなくてはなりません。指揮者とは英語で「コンダクター」、「支配する者」という意味があります。そのハーモニーを支配する者、指揮者こそ見なくてはならないのです。楽譜だけを見て、楽譜にかじりつきではだめだということ、その曲のハーモニーを支配する者に目を向けて、また思いを向けなくてはならないのです。強いて言えば、そのハーモニーの中に、自分の歌声を溶け込ませていく、指揮者に委ねていくということであります。

ヤコブとヨハネは主イエスを見ず、敵対者であるサマリア人と、弟子としての自分たちだけを見ていました。彼らは主イエスという自分たちの支配者を見てはいなかったのです。「主よ、お望みなら」。主イエスの望み、それは敵対者への裁きではない、サマリアに向けられた神の憐れみ。そして、弟子たちへの戒め、弟子としての誉れではなく、弟子だからこそ、神の憐れみに目を向けよという戒め、その憐れみ深い神にこそ仕えよという招きでもあるのです。

主に仕えるということ、その本質が今日の福音の後半、3人の弟子志願者との会話を通して、私たちに語られています。その姿勢が描かれています。すなわち、主に従う者には、安住の地はなく、福音宣教が優先され、後ろを振り返ることはできないという厳しい姿勢、覚悟であるということです。主イエスには安住の地がありませんでした。主イエスは飼い葉桶で誕生したのです。その後も、エジプトやガリラヤに逃れるなど、常に行先を負われました。また、主イエスはナインのやもめの息子のお葬式に立ち会い、死者を葬ったのではなく、そこに神の国を宣べ伝えました、息子が生き返ったのは、そのしるしです。死の雰囲気に満ちていたところに、神の支配を実現成されたのです。そして、主イエスはうしろをふりむくことなく、エルサレムへの行進を決意されました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活されるためです。そして、今「天に上げられる時期が近づいた」のでした。

主に従う者は、この主イエスを仰ぎ見て、「日々自分の十字架」を背負って歩むことに他なりません。人から受け入れられず、迫害され、休む間もない。主に従う者とはそういうものであります。しかし、この歩みは自分ひとりではないということ。仲間がいます。主に従う者たちがいます。それが教会です。そして、この教会の中心におられる方、私たちの福音宣教の指揮をとるお方が共におられるということです。福音宣教に伴う苦難の只中に、キリストが共におられるという慰めを受けるのであります。それは神の国、神のご支配の中に招き入れられて、初めて気付かされる恵みです。

しかし、私たちはいまだ、この世に生きる肉なる存在であります。主の招きよりも、自分自身の土台を盤石にしたい、まずは自分自身を整えたいという思いに駆られます。主の御言葉に従いえない姿があるのです。また逆に、主に従うことを誇り、主に従わない者を裁くという律法主義にさえ走ってしまいます。私たちは常に、それらの弱さを抱えている、悩みを抱えています。されど、主イエスは私たちを招き続きます。弱く、小さく、悩みに駆られて、立ち上がれなくなってしまう私たちを引き起こし、主イエスと共に歩ませてくださるようにしてくださるのは、主の御言葉であり、十字架と復活の御救いに他なりません。

主イエスは私たち人間の弱さを歩まれる。十字架への道をゆくのです。ヤコブとヨハネを含む弟子たちは、この主の十字架の御前に立つことはできませんでした。彼らは背を負けて、うしろを振り返って、逃げてしまうのです。自分たちの弱さ、惨めさ、小ささを痛感します。挫折したのでした。しかし、その絶望という暗闇の只中で、主の復活は光輝くのです。この復活の光に彼らは再び立ち上げられた。そう、福音宣教者として、主に従う者として。その出来事そのもの、その救いの体験こそが福音宣教なのです。

ですから、私たちの福音宣教は、弟子たちと同じように挫折から始まったのです。彼らは迫害され、殉教していきます。主に従う者の覚悟、その姿勢を彼らは証し、現代の私たちに問いかけられています。私たちもまた主の復活によって立ち上げられたものです。人間の都合があり、様々な事情が私たちにあります。そういうのを無視しろというわけではありません。どの場にあっても、私たちは福音を宣べ伝える者であるということです。お葬式という葬りの場に置いても、死を越えた神の恵みがある。悲しみの只中にある者たちに寄り添いつつも、それは悲しみに終わるということではない。神の国の支配は、死の世界を凌駕するのであるという確信に、福音宣教者、主イエスの弟子である私たちはそこに立ち続けるのです。

主イエスは弟子たちに、そして私たちに世界宣教、地の果てまで福音を宣べ伝えよと命じられました。その中に、あのサマリアが入っている。神に敵対する者を滅ぼせという命令ではなく、主の十字架と復活の贖い、永遠の命によって生きる新しい生の只中で、神に委ねて歩めと、全ての人を招いています。私たちは今!、ここで!主の招きを受けているのであります。私たちの働きは小さく乏しいものかも知れない。逆に、大きく、誇れるものかも知れない。そんな真の自分を知りつつも、しかし、そんな自分を見るのではなく、私たちの真の支配者にこそ目を向けてまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013年7月7日 聖霊降臨後第7主日 「真の命」

ルカによる福音書9章18〜26節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

最近私は、「キリスト新聞」を購読し始めました。毎週土曜日に送られてくる新聞ですが、その新聞の記事の中に、「論壇」というコラムがあります。昨日7月6日の記事で、そのコラムの見出しのタイトルが「日本伝道について考える④ 教会は『真の救い』を語れ」というものでした。実に刺激的なタイトルです。この記事を書かれたのは、日本基督教団前総幹事の内藤留(とめ)幸(ゆき)という方で、私は、面識がないのですが、内藤先生は記事の中で、『救い』についてこう語っています。

「・・・・その(この世の)救いの内容は簡潔に言えば、『この世で生きている間は幸福でありたい』ということであり、また『できれば社会的差別・経済的不公平・政治的抑圧などから解放されて、皆が健康で安定した生活をしたい』ということであろう。そこで求められている『救い』は極めて人間主義的傾向が強い。それはキリスト教会が長い歴史を貫いて語り伝えてきた『真の救い』すなわち『永遠の救い』とは異なっている。・・・・『真の救い』とは実に永遠の命を与えられることによって完結・成就する『救い』である。・・・・永遠の命を与えられた者(信仰者)たちは、そのことをどのように自覚し、どのように世にあって生きるのだろうか。端的に言えば『信仰と希望と愛』に生きるのである。そのことはわたしたちが救い主キリストの復活を記念して守る主日礼拝で語られる神の言葉を聴き、主キリストとつながる喜びに満たされ、永遠のみ国への希望と救いの確信が新たにされるとき実現するのである」と、このように語っておられます。Read more

2013年6月30日 聖霊降臨後第6主日 「これ以上ない愛」

ルカによる福音書7章36〜50節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

イエスキリストの十字架、罪の赦しとは何か。誰しもが疑問を抱きます。私は大学生の時に洗礼を受けましたが、その時には、この疑問に対する答えは見つけられませんでした。聖書を読んでも、人から教えもらっても、何か実感がわかない。何となく頭の中で理解できそうだけど、これが自分とどう関係があるのだろうかというリアリティーがなかったために、終始疑問を抱いていました。

そんな時、ある小説に出会って、深い印象を与えられました。その小説は三浦綾子の「道ありき(青春篇)」です。ご存じの通り、この小説は三浦綾子の13年間の闘病生活の只中で、自己の青春、信仰生活を描いた作品であります。この小説を読んだ読者は彼女の人生に大きな影響を与えた人物、「前川正」を思い浮かべずして、感想を分かち合うことはできないでしょう。Read more

2013年6月23日 聖霊降臨後第5主日 「もう泣かなくともよい」

ルカによる福音書7章11〜17節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

星野冨弘さんの詩集の中に、こういう詩があります。

いのちが 一番大切だと
思っていたころ
生きるのが、苦しかった。

いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった

いのちより大切なものがある。星野さんはこう言われます。いのちより大切なもの、本当にそういうものがあるのでしょうか。いのちあっての私があり、あなたがある。いのちがあるから、この世界のあらゆる生命体の鼓動を感じとることができますし、赤ちゃんを見て、いのちの輝きに思いを深く寄せることができます。「いのち」が土台となってその存在を認識するのです。それ以上に大切なものがあるなどと考えられるのでしょうか。

この詩の中で、星野さんは「生きる」ということについて語っています。生きるのが苦しいか、嬉しいかと思えるのは、この「いのち」について、自分がどう思っているか。与えられたいのちを生きなくてはいけないという義務感に駆られた生涯を過ごすのか、それとも、与えられたいのちに喜びを抱いて生きていくという解放感に満たされた生涯を過ごすのか。いのちに対する考え方は個々人で異なるでしょう。前者はいのちを消極的に、後者はいのちを積極的に捉えています。しかし、結果的に私たちが命についてどのような想いを抱こうと、いづれは肉体的な死を迎えて、いのちの終焉があるという答えにいきつくかと思います。いづれ迎える「死ぬ」という出来事。その出来事に向かって私たちはただ生きているだけなのか、生きるためのいのちが与えられているだけだと考えてしまうのでしょうか。星野さんが言われるように、そこには苦しみしか見いだせないと思います。喜び、楽しみだけでなく、痛み、苦しみ、悲しみを背負って生きている私たち。この世のいのちを生きるとはそういうことの連続です。

私たちはどんなに自分のいのちに目を向けても、それをコントロールすることはできません。医学の発達によって、「延命治療」という一時的にいのちを長らえさせるという技術が存在する現代世界の中で私たちは生きていますが、それはやはり一時的なことなのです。自分のいのちに目を向け続ける限り、このいのちに苦しむ自分自身の姿がそこにあるのではないでしょうか。この「いのち」より大切なものがあるという。改めて考えさせられます、いのちについて。そしてひとつの答えに私はいきつきました。それは、このいのちをもたらされる方、私たちの創造主である神様です。どうして私たちはいのちを与えられたのか、それは神様が「良し」とされたからです。良しとされた神様の御心の中にこそ、いのちが見出されるのです。それは耐えず、神様が私たちを愛されているということ、憐れまれ、顧みてくださるということに、生きていく力が湧き立たされるということです。生きているのが嬉しいと受け止められる時、私のいのちをこのお方に委ねることができる。いのちを、自分の力ではどうすることもできないけど、このいのちに生きる力を与えてくださる方が、今も私たちと共にいてくださるのです。

今日の福音は、ナインの町で、やもめの一人息子を生き返らせる奇跡物語です。主イエスと弟子たち、その他大勢の群衆がその町の門に近づいた時、やもめの一人息子が納められた棺が担ぎ出されるところでした。お墓は町の門を出た郊外、人里離れた場所にあったと言われています。今まさに、その墓地に向かって、棺が担いで行かれ、やもめが泣きながら、町の人たちに付き添われながら、行進しようとしていたのです。この時、ナインの町の人々が主イエスのことを知っていたのかどうかはわかりません。ナインという町は、ナザレから南東に10キロほど離れたところにある、ガリラヤ地方の南端にある町であったと言われています。主イエスの噂がそこまで広がっていたのかも知れませんが、人々の方から主イエスに声をかけることはなかったでしょう。息子は既に「死んでいた」からです。死者を生き返らせることなど誰にでもできようがないと人々は思っていたからだと思います。町の人々はやもめの女性に付き添い、彼らもまた、やもめと同じように、悲しみの只中にあったことでしょう。やもめというのは、夫に先立たれた未亡人です。旧約聖書のルツ記をお読みいただければ分かるかと思いますが、当時の社会の中で、夫に先立たれた女性が生きていくことは大変なことでした。再婚して新しい夫に養ってもらうか、息子に養ってもらうかしないと生きてはいけませんでした。ですから、自らが愛し、頼りにしていた一人息子を失うということは、その悲しみを背負いつつ、困窮した生活をこれから送っていかなくてはならないということを意味するのです。

愛する息子を失った悲しみに暮れるこのやもめという遺族に、町の人たちはきっと何も声をかけることはできなかったかのかも知れません。寄り添い、すすり泣くことしかできなかったでしょう。一人息子がどんな亡くなり方をしたのかはわかりませんが、母親より早く亡くなったという深い痛みと悲しみが、その場に満ちていました。死ということに対して、どうすることもできない者たちの姿、現代に生きる私たちと同じ姿です。私たちも、人生において、愛する者を失った遺族に付き添い、共に泣き悲しむ経験をし、また自分自身が愛する者を失った遺族となり、深い悲しみの只中に突き落とされる経験を誰しもが致します。目に見える死が全ての終焉を迎えると理解しているからです。そして、自分たちもまた、他者の死を経験しつつ、死に向かって生きている存在であるというところに立たされます。やもめや町の人々、棺を担ぐ人々が墓に向かって行進していくが如く、私たちの人生も、墓に向かって歩んでいる。その終着点である「死の世界」に日々近づいていると実感させられます。この死の行進は誰にも止められないのです。それが自然だ、ありのままだ。それで良いのかもしれません。でも、死の訪れは、そんな生易しい人間の認識を越えて、突如として現れるのです。「死」を受け止めるという心の準備など間に合わない、本当に一瞬のうちにです。このやもめのように、ただ泣き叫ぶことしかできない境地に立たされます。

しかし、今この死の行進を前にして、主イエスがそこにおられます。葬列者は主イエスを通り過ぎようとしたかも知れない、でも、主イエスはこの行進を引き留めたのです。墓地という死の世界への行進を引き留めた。そして、何をされたか。まず何をされたかということです。このやもめを「憐れんだ」のです。前の説教でお話ししましたが、ここで使われている「憐れむ」という言葉の元の意味は、「はらわたが痛む」という意味です。主イエスが痛まれる、神が痛む思いを持って、このやもめに愛の目を向けている、主イエスを通して出会って下さっている。そして「もう泣かなくともよい」と言われた。これから一人息子が埋葬されるという究極の悲しみの只中で、主イエスはやもめに言われたのです。死の行進を引き留めただけではない、それを押しかえそうするほどの力と慰めのあるお言葉。死の力に対するいのちの御言葉として、このやもめに語られ、人々は聞いているのです。主イエスは棺に手を触れて「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われ、一人息子を生き返らせました。その一人息子にいのちを与えられ、やもめにお返しになったのです。死の力を打ち破ったキリストが、今このやもめを憐れまれ、共におられる。死に向かって歩むいのちを見出すのではなく、このキリストと共に歩むいのちを見出すようにと、このやもめに目を向けているのです。ただ生きるだけのいのちではなくて、生きていく力を与えられた希望のいのちに新しく生きなさいとこのやもめを招いておられるのです。

主イエスの力に驚きの反応を示したのはやもめではなく、人々でした。彼らは主イエスを恐れ賛美しているのです。自分たちもまたこのやもめに付き添い、寄り添いつつも、人生の途上において、ただ死へと向かう道のりを歩んでいた。やもめと共に死の行進を進まざるえなかった自分たちにも、はっきりと神の憐れみを見出した。死の行進を引き留め、これを押し返したいのちの御言葉を聞くことができた。「神はその民を心にかけてくださった」のです。神が顧みてくださったのです。主イエスの視点はやもめだけに留まらなかった。自分たちイスラエルの民にも、神は痛まれ、その救いの御手を差し伸べておられる。神から離れ続けてきた、罪にまみれた民を、神様は顧みて下さると喜んでいたことでしょう。人々は方々に、このキリストを伝えて行ったのです。

私たちも彼らと同じように、死への行進を突き進んでいる途上で、それは人生における様々な痛み、悲しみ、苦しみを担いながら生きている途上で、主イエスを横切って通りすぎようとする私たちに、主イエスは出会って下さり、私たちは憐れみを知りました。憐れみの中に、真のいのちを知りました。そして、主イエスを信じ、招かれて洗礼を受け、古い自分に死に、キリストと共に新しい生を歩んでおられる方がいます。まだ洗礼を受けておられない方も、今このキリストの憐れみが向けられ、真のいのちに招かれているのです

私たちはいづれ、肉体的な死を迎えなくてはなりません。この生き返った若者もいづれはまた死んだことでしょう。目に見える肉体的な死を経験するということにおいて、私たちは死への行進を歩んでいるのです。しかし、この行進の行きつく先は墓ではありません。キリストの下へと繋がっています。キリストの下に向かう希望への道、その信仰の旅路を私たちは歩んでいるのです。

私たちはいついのちを失うかわかりません。そのいのちより大切なものはないと思い、そのいづれは失われるこの世のいのちにだけ目を奪われるならば、私たちは痛み、悲しみ、苦しみを体験するごとに、生きる力をなくすでしょう。私たちにいのちを与え、ただありのままに私たちを憐れまれ、愛される方、主イエスキリストと出会い、このお方にいのちを委ねるならば、私たちはいづれ朽ち果てるこの世のいのちに優る尊き恵み、真のいのちを知ることができます。真に私たちを生かしてくださる恵みを知り、生きる力を得ることができるのです。それは決して平坦な道ではありません。試練の連続かも知れません。みすぼらしくて、愚かで、無力な自分と常に向き合わなくてはなりません。とても辛いかも知れない。辛いけれど、それは私たちの生きる力の本質ではありません。それらは表面的なことに過ぎないのです。主の憐れみはどれほど深い事か。私たちの心に、魂の奥底にいのちを与える方なのです。

だから私は最後に言います。いのちよりも大切な賜物を私は知った。主と共に生きているのが嬉しいと。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。