2014年3月23日 四旬節第3主日 「我が魂は主を慕い求む」

ヨハネによる福音書4章5〜42節
木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「ツイッターで自分の悪口を書かれ、腹を立てた」。そんな動機から起こる様々なトラブル、果てには殺人事件、殺人事件、そんなニュースを日常的によく聞きます。悪口を書いた方も、書かれた方も、両者の間には深い憎しみが背景にあるのでしょう。その憎しみが殺人という形で現実のものとなってくる。そんな悲劇が起こる前に、彼らの深い憎しみを止めるもの、和らげるもの、治めるものは何かなかったのかと、私たちは考えさせられます。

どんなに物質的に豊かであっても、満たされ、潤っていても、私たちは渇きを覚える存在であり、常に潤いを求める存在であります。潤いが満たされず、渇いたままでいますと、脱水症状を起こし、生き物の生死に関わります。また、肉体的な渇きだけではありません。精神的な渇き、すなわち心、魂にも渇きを覚えます。憎しみ、悲しみ、孤独、不安、疑い、無関心。傷つけられ、罵られ、愛されない・・・他にも数え切れないぐらい多くの魂の渇きを私たちは覚えるのであります。それらの渇き故に、魂が脱水症状を起こし、死の危険にさらされた時、自分の理性や意思はコントロールが効かなくなります。自分自身を見失うのであります。

私たちはそのような肉体的にも精神的にも多くの渇きを覚えて生きている、時には脱水症状を引き起こして、苦しみます。自分の渇きを満たすもの、潤ってくれるものは何でしょうか。何を思い浮かべるでしょうか。自分自身でそれを知り、見つけているでしょうか。聖書は人間の渇きを真に満たすものを私たちに啓示しています。それが、今日の福音書にある主イエスが与えてくださる「生きた水」であり、永遠に渇かぬ命の水であります。私たちはこの水、真の渇きを潤ってくれるこの命の水をどのようにして受け止めて行けば良いのでしょうか。ご一緒に御言葉から聞いてまいりたいと思います。

主イエスと弟子たちはユダヤを去り、ガリラヤに行く途上で、サマリア地方に足を運び、休息を取っていました。正午ごろの時間でした。パレスチナ地方は熱帯の地でありますから、この時間帯はものすごい炎天下で、誰一人そのような暑さの中、外を歩く人などいなかったでしょう。主イエスも日差しを避けるために、井戸のそばで休息を取っていたのだと思います。そこに一人のサマリア人の女性が、通りがかりました。主イエスは彼女に声をかけ、渇きを満たすために、一杯の水を願い出ますが、彼女は大変驚くのです。サマリア人とユダヤ人の先祖は同じイスラエルの民でありますが、当時サマリアとユダヤは敵対関係にあり、その憎しみ故に、お互いの交際、交わりは全くなかったと言えます。だから、ユダヤ人の主イエスからそのようなお願いをされること自体、彼女には主イエスの行動が全く信じられなかったのです。なぜ何の関わりもない私に、しかも敵である私に声をかけたのか。

彼女の質問に対して主イエスは答えます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(10節)水を飲ませて欲しいと頼んだ私が誰であるか分かれば、あなたの方から求めてくるはずだと主イエスは言うのです。私が誰であるかというこの主イエスの問い、その問いから彼女は主イエスがユダヤ人であるということしか分からなかったと単純に推測できますが、主イエスはなぜ敵であるサマリアの女性にこのようなことを言われたのでしょうか。主イエスが彼女と出会った時、声をかけたのは主イエスの方からです。それもただ声をかけたということではない、主イエスは真に疲れ果て、喉に渇きを覚えていたのです。敵対する者の前で、そのような人間としての弱さ、あたかもすぐに襲われてもおかしくないような状況の中で、声をかけたのです。主イエスの方から声をかけ、水を要求したけれど、実は主イエスこそが彼女の渇きを知っていたのでした。その渇き故に、私からではなくあなたの方から渇きを満たすために頼んでくるはずだ、求めてくるはずだと。あなたが真実の神様からの賜物、恵みを知り、受け取れるならば・・・。そう、彼女はその状況になかったのです。自分の真の渇きを潤す、満たす水を知らなかったのです。そんな彼女の、渇きという心の空洞の只中に、主イエスは入っていかれたのです。水を飲ませてくださいと、自らも彼女と同じように、渇きの空洞の中に立たされたのであります。自らが生きた水として。

主イエスが言われる生きた水、それを彼女は理解できませんでした。ユダヤ人とサマリア人の共通の先祖、ヤコブが与えてくださったこの井戸の水で、多くの子孫と家畜たちは生きながらえてきた。井戸の深さもさる事ながら、この井戸からもたらしてくださる水も、そのような長年の歴史を経て、恩恵も深いのです。まさにヤコブの井戸からは生きた水が湧き出ているのです。今の私もこの水で生きている。あなたが与えてくださる水は、この井戸の水よりも恩恵深い生きた水なのか、どこからそんな水を手に入れるのか。先祖ヤコブよりもあなたは偉いから、そのようなことができるのかと彼女は問います。主イエスは言います。あなたが飲んでいるその井戸の水は、恩恵深いその水を飲んでも渇きは避けられない。渇きを覚える水であって、生きた水ではないと。私が与える水は違う。私が与える水は渇かない、渇きを覚えない生きた水である。それはなぜか、この水を与えられる者は、その人の内で泉となって、永遠に湧きい出る水となる、渇くことのない命の水となるからだと主イエスは言われるからです。彼女は、その水を求めますが、それはもうこの井戸まで、人目を避けて水を汲みに来なくてもよくなる、そのような便利な水に見えたのです。しかし、主イエスは「その人の内で」とこう言われたのです。どこか具体的な場所を指し示されたのではない。どこか特別な水脈源を教えたわけでもないのです。その永遠に渇かぬ水はどこに湧きいでるのか、それはまさしく私、主イエスという生きた水を知り、受け取る者、その者の内で湧きいでるのだ。すなわち、主イエスは今、この生きた水を、彼女の内に、心の空洞の只中で、湧きいでさせようと、彼女を招いているのです。いや、むしろ、既にこの招きは起こっていたのです。主イエスが渇き、彼女に水を求めた頃から、彼女の心、魂の渇きの元に主イエスはおられるのです。いてくださるのです。そして、この主イエスという生きた水の水脈源を、彼女の心、魂の渇きの元に造られようとされているのです。

されど、彼女は直、この生きた水を理解しません。彼女が自分の真の渇きに気づかないのです。主イエスは彼女の、真の渇きに生きた水を、その水脈を造るために、彼女の渇き、彼女の夫との問題に触れていきます。彼女にはこれまでに5人もの夫がいました。単に分かれたのか、死別したのか、またどのような夫婦の歩みを成していたのかわかりませんが、誰にも言えない深い事情があったのでしょう。今連れ添っている人は、夫ではないということです。彼女が夫婦関係、夫婦生活の中で、5人も夫が変わっても、むしろ変わり続けるからこそ、常に渇きを覚えていた。幸せな夫婦生活に渇いていたのかも知れません。具体的な背景はわからなくても、ここに彼女の深い悲しみ、孤独があります。主イエスはそんな彼女を、どういう事情があったかを深入りさせるようなことは言われない。彼女の人格を否定し、叱り、裁くようなことは言わないのです。彼女は主イエスに答え、主イエスは彼女に「あなたはありのままを言っただけだ」と言われたのです。心を開いて、ただありのままに、本当の自分をさらけだした。主イエスという神の御子、生きた水を与えてくださる方のみ前で、自分の真の渇きに彼女は気づくのです。真に渇かぬ水を知り、求めていくようになるのです。主イエスは、そのありのままの彼女を、ありのままにただ受け取めておられるのです。なぜ主イエスはそのように受け止められるのか、それは主イエスが彼女を愛しているからにほかなりません。そして彼女の渇きを、自らの渇きとされ、共におられるからです。

そして彼女は、真剣に神様との交わりを求めます。なぜか、それは自らの渇きは、夫が変わったところで、ヤコブの井戸から水を汲み飲んだところで、満たされるものではなく、また。根本的な渇きが起こるのは、神様から離れて、自分の渇きを自分で満たしていこうとするからであると気づかされるからです。それでは満たされない、絶対的な渇きには気づかないと思い知らされる。彼女は、自分自身、人間の真の渇きを知っておられる、受け止めてくださる方と出会ったのです。自分の渇きの只中に入ってきてくださった主イエスによって、彼女は開放されていくのです。

神様との交わり、礼拝を通しての交わり、その礼拝すべき場所はエルサレム、自分と敵対するユダヤ人の神殿の中にしかないと彼女は思っていました。それはあたかも自分は神様との関わりからはかけ離れている、ふさわしくない自分の姿があると、自覚しているかのようです。されど、主イエスはまことの礼拝について彼女に言います。場所とか自分のあり方とかは関係ない、まことの礼拝とは霊と真理をもって父を礼拝することであると。それは真に神様と向き合って、ありのままの自分と向き合う時であるということです。そして主イエスは今こそがその時であると彼女に言いました。彼女は既に礼拝に招かれ、神様との交わりの中にある、そこで生かされている。既に神様からの賜物、恵みはあなたに向けられている。あなたはその真実を知り、ありのままに私に委ねなさい、求めなさい、私の愛の中で生きなさい、私はあなたを決して見捨てないと、主イエスは彼女に愛の眼差しを向けているのです。そして彼女はいずれ来る、メシアというキリスト、救い主を待ち望みますが、主イエスは自らの存在を彼女に、今お示しになられたのです。彼女は主を求めて、また主の救いを、このありのままの自分を受け入れて、生きた水を自分の内に湧きいでてくださる主の愛、この喜びを人々に伝えていくのです。

主イエスと出会ったあの正午の時間帯、あたかも人を避けていた彼女は人が変わったかのように、彼女は新しい歩み、真に生きた水を受け入れて、新しい生命に生きていくのです。もはや井戸の水を汲む水がめは必要ないのです。自らの渇き、それは不安、苦しみ、悲しみ、孤独の中に、主が来られ、永遠に渇かぬ生きた水として、共にいてくださるからです。彼女はこの恵みを受け入れたのです。ありのままに、自分の存在を主に委ねて。

詩篇42編2節にこういう歌があります。「枯れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、私の魂はあなたを求める。」
この魂という言葉は原語(ヘブライ語)で調べて見ますと、もとの意味は「喉」という意味です。鹿の喉が渇くように、人間の魂も渇くということです。喉が渇いて飲み水を求めるように、神様を求めるということも、そのように魂が渇く、喉がかわいて飲み水を求めるように、神様との交わりを求めるということであると、詩篇の作者は思いを込めてこのように美しく歌っているのです。

この礼拝において、私たちは主に出会い、交わりが与えられています。生きた水、それはまさに御言葉を通して、あなたの魂に注がれています。命の水として、あなたの中に主がおられ、渇くことがない永遠の命の水は湧き出ているのです。サマリアの女性が水がめを置いて、人々のところに行ったように、私たちもこの生ける水が与えられています。神様は私たちの渇きを知っておられます。だから、私たちを招いてくださる。神様の方から、この礼拝に招いてくださるのです。

この神様からの賜物、主イエスという生きた水を受け取り、そこから始まる新しい生命に生きてまいりましょう。渇きだらけの世界に生きる私たちですが、私たちは誠の渇きを満たしてくれるものを知っています。喉が渇いて飲み水を求めるように、私たちは、私たちの魂は、主を慕い求めるのであります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年3月16日 四旬節第2主日 「支えを必要として」

マタイによる福音書20章17〜28節
木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

東日本大震災から3年が経ちましたが、今も26万7419人の方々が避難者として、仮設住宅での避難生活を余儀なくされています。加えて、原発問題、復興問題、防災の問題、または風評被害の問題などが山積みです。これらの現実的な課題を祈りつつも、先日の11日にルーテル救援活動の拠点でありました日本福音ルーテル教会仙台教会で、東日本大震災記念礼拝が執り行われ、同時中継で、東京のルーテルセンター教会でも記念礼拝が執り行われました。私はこの仙台での記念礼拝に出席し、その後続けて行われた紀伊半島沖の震災、所謂「南海トラフ巨大地震」に備えた防災に向けての実務研修に参加して参りました。実にたくさんの驚きと気づきが与えられた実りある研修でありました。防災に向けての教育、防災対策に取り組むことの大切さは、無論承知しておりますし、教会単位で皆さんと一緒に考えていかなくてはなりません。

しかし、今回の研修では、いづれ来る巨大地震に向けての防災対策ということだけでなく、東日本大震災において、ルーテル教会が被災地で活動した記録を辿り、ルーテル教会がなぜ救援活動をするのかという根本的な理念、または神学について考えさせられる研修のひと時でもありました。私は研修の中でこのことが一番印象に残っています。

なぜ教会が救援活動をするのか、皆さんはそのように聞かれたら何て答えますか。単純に、目の前で困っている人がいたら助けるのが普通だと思う方が多いかと思いますし、聖書の言葉を思い浮かべながら、答える方もおられるでしょう。ルーテルの救援活動、その活動の母体名は「ルーテルとなりびと」です。他の支援団体と同じように、物資を送ったり、支援活動をし続けてきましたが、まず第1にルーテルとなりびとは、被災に遭われた方々のとなり人、隣人となるということであります。被災者の方々と共に寄り添い、共に生きていくということです。それは他の支援団体とどう違うのか、何ら変わりはないではないかと思うかもしれません。されど、今回の研修で学んだことの中で、支援と言っても、様々な支援のあり方があるということです。その中でルーテル教会は隣人として被災者の方々に支援していく、というより被災者の方々と共にあって、彼らに仕えていく、いわゆるディアコニアの働き、奉仕していくということです。奉仕する者、奉仕者というのは今日の福音書にも記されていますが、「ディアコノス」と言います。

主イエスは26節から27節でこう言われます。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」先程も言いましたが、仕える者というのは奉仕者「ディアコノス」という意味で、僕というのは「奴隷」という意味です。ルターはキリスト者の自由の冒頭で「キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する」と言い、また最後の命題のところでは「キリスト者は自分自身においては生きないで、キリストと隣人とにおいて生きる。キリストにおいては信仰によって、隣人においては愛によって生きるのである。」と言っています。隣人に仕えるということが愛するという時、それは仕える側の意志によって「自分は隣人に仕えている」というのではなく、「仕えられる他者」が主体であり、他者が仕えてくれていると思ったときに、奉仕ということが現されてくるのであります。ですから、奉仕者というのは他者主体であり、自分の意思とは関係なく、他者の僕として仕えていくということに他なりません。

主イエスがこのように語られた背景には、ゼベダイの2人の息子、すなわち主イエスの弟子であるヤコブとヨハネの母親の願いがありました。主イエスの3度目の受難と十字架の死、復活の話は12弟子だけが聞いたことでしたが、ヤコブとヨハネはふたりの息子からその詳細を聞いた彼らの母親はいてもたってもいられなくなったのか、主イエスに願い出ます。主イエスが王座に着くときに、自分のふたりの息子をそれぞれ王座の近いところに着かせて欲しいと。主イエスはきっぱり言います。あなたがたは何を願っているのかわからないと。そして、これから私が飲むことになる杯を飲むことができるか。主イエスが飲む杯、それは来る受難と十字架の死を受けいれるという苦しみの杯です。あなたがたもこの杯、十字架に従うことができるのかと問うのです。母親もふたりの息子も主イエスの言わんとしていることを理解できなかったでしょう。しかし、主イエスと共に歩んでいく、従っていくということに迷いはない。弟子として立派に役に立ちたい、誰よりも主イエスの王座、すぐ近くにいて、仕えていきたいという思いが彼らの中にはあったのかもしれません。

けれど、他の弟子たちは彼らに腹を立てます。自分たちだけ抜け駆けして、偉くなろうとしている、目だとうとしている。ましてこれから先のことを願っていると聞けば、気にしないわけにはまいりません。自分たちだって、主イエスのそばにいて、主イエスに従っていきたい、共に歩んで行きたいと願うからです。立派に奉仕したいと思う。彼らのそんな思いに際して、主イエスは26節から27節で、弟子としての新しい生き方を示されました。主イエスは「偉くなりたい者は」と言います。この「偉い」という言葉は、「大きい」という意味です。弟子として、神様に仕える者として、また人々の中で精力的に活動する者として、大きくされたい、人々から注目されたい、弟子としての様々な願いがあったかも知れません。

偉くなりたいと直接そのように思う人は少ないかもしれません。人に偉そうに振る舞えば当然ひんしゅくを買うことはわかっているからです。でも、自分の人生は大きなものでありたい、充実した人生を歩んで、自分という器を磨いて、大きくなりないと思うのは誰しも抱くことです。ほどほどに偉くなりたいと思う自分もあります。そのような大きい器を重ね備えた自分だからこそ、相手を助けることができる、支援することができると考えるかもしれません。しかし、主イエスが語る「大きさ」というのはそういうことではないのです。26節から27節で主イエスが語る大きさというのは、仕えなさい、僕となりなさいということ、それもここで主語になっているのは「皆に」ということ、すなわち「人々に」仕える、「人々の」僕ということです。じゃあ、人に仕えていれば、頭を下げていれば、自分は偉くなれる、大きくされるのかということでしょうか

人に仕えるということは、その人の僕になるということです。自分はこうこうこうして、この人を支える、この人を支援するという自分の思いは二の次であります。目の前にいる人がこうして欲しい、こういう状況であるという声にまず耳を傾けるのです。自分がどんなに相手よりも見識が豊かで、器が大きくとも、相手が自分に求めることは、相手にしかわからないのです。そのような大きい器を重ね備えた自分だからこそ、相手を助けることができる、支援することができると考えるよりも先に、相手に仕える、僕になるということは、自分がどのような器を持っていようとも、相手の心、魂の中に自分という存在を、その相手の枠に入れていくのです。

ですから、およそこの世では、仕えるということは、自分が大きくされるどころか、小さくされるものであると言えるでしょう。この世の賞賛など全くない、みじめな姿になる。その人と同じ立場に立たされる、むしろその人よりも小さい存在になるかも知れません。だから主イエスは25節で「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と言われるのです。異邦人の間、すなわちこの世では・・・・支配者たちが偉い大きい存在なのだということです。支配者たちはその大きな力をもってして、その力に頼って人々を支配し、国を治めるのです。そして、この後の主イエスの言葉は、全くの逆転が起こっているのです。主イエスが26節でいう「あなたがたの間では・・・」この言葉によく注目して欲しいのです。この世ではなく、あなたがたの間、あなたがたの世界では、弟子たちの間、もっと具体的に言えば「教会」ではということです。さらにもっと具体的に言えば、「御国では」ということです。神様の支配されるあなたがたの間(世)では、・・・とこうなります。ですから、ここで大きくされるということは、この世の価値ではない、神様の眼によってということ。皆に仕えるあなたは大きい、大きい者として映るのだということであります。神様のご支配の中において、ここに生きる私たちは、私たちの存在を大きくする方は、主において他にはないということ、大きくされることを望むのは、主であります。

28節で主イエスは「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と言います。人の子、すなわち主イエスは人々に仕えるために来られたのだと言います。人々が受けなくてはならない杯を主イエスが一身に引き受けてくださる、すなわち十字架の死を遂げるように、私こそ、あなたがたに仕える、主がまず私たちに仕えてくださると言うのです。私たちの何に仕えてくださるのか、それは私たちの人生においてです。もっと言えば、命を与えてくださる贖い主としてです。キリストが仕える者として、真に小さな者となられたのです。そして私たちの支えとなってくださるというのです。だから、共にいる、共に生きようと招いてくださるのです。

私たち人間に仕えてくださる神様として、キリストは私たちの只中に宿られました。私たちもまた苦しみの多い人生を歩んでいます。こうして欲しい、この「苦しみの声を聞いて欲しい」と願います。主は私たちの祈りを聞かれます。主が何よりもまず私たちの隣人となってくださった、この真実において、私たちもまた仕える者として、隣人と共に歩みなさいと招かれているのです。

被災者への支援、それが隣人として仕えていくということは、被災者の方々の人生に関わるということ、一時的な支援物資を指すことではないのです。本当に長丁場です。でも、彼らは支えを必要としています。支援物資という支えでしょうか、本当に必要とする支えは、その人が一人で歩み始めていくための道を整えていくということです。それは被災者の方々だけでなく、私たちにも必要な支えです。私たちも主によって、日々助け起こされているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年3月9日 四旬節第1主日 「自我の復活」

マタイによる福音書4章1〜11節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「自分」という存在、自我について考えたことがあるでしょうか。一般的に、自我が目覚めるのは幼児期、およそ3歳頃で、自我が確立するのは、思春期を迎えた時だと言われています。しかし、自我の確立は個人差があるらしく、最近では「アダルトチルドレン」と言って、身体は大人でも精神的にはまだ自我が確立されていない人のことを指す人がいるそうです。このアダルトチルドレンのケアに携わった方がこういうことを言っています。「自我の確立に必要不可欠なもの、それは親の愛である」と。子供の成長に大きく影響するのが親の愛情であり、子供は親の愛情を通して情緒的に安定し、「どんな自分でも愛されている、受け入れられている」という確信をもって、初めて自分自身の人生を自我の確立をもって歩み始めることができるということです。逆に子供が親の愛情を十分に受けることができないと、肉体的には成長していっても、常に親の愛情を求め、なんとか親から愛されたい、受け入れてもらいたいと無意識のうちに考え、行動し、子供はなかなか自分自身の人生を自我の確立をもって歩み始めることができないそうです。

ですから、自我の確立というのは、決して自分自身の力だけで確立できるものではないのでしょう。外からの力、支えが必要だということです。それが親の愛であると言います。大人になって独立しても、本当の意味で自分は自分らしい、自我をもった人生を歩んでいるのか、親からまたは他人から愛されたい、受け入れてもらいたいという思いは誰しもが抱くことではありますが、そのことにばかり束縛されて、思い悩み、親から、他者から愛されるために、受け入れられるために、自分を偽って、自分自身の人生を歩んではいないだろうか。自分の人生を自分らしく歩めてはいない、そんな自分自身の姿がどこかにあるのかも知れません。

親の愛、それは様々な愛情表現があるかと思いますが、やはり真の愛というのは「どんな自分でもありのままに愛されている、受け入れられている」ということが軸にあるかと思います。愛するということでありますから、それは決して親が子供のわがままを聞いて、甘やかすということではなく、子供と真剣に向き合い、時には叱りつけることもあるでしょう。でも、絶対に子供のことを見捨てない、見放さないのです。それが、子供自身が感じる親への愛です。親への信頼です。

ルカによる福音書に、有名な放蕩息子のたとえ話があります。ある父親にふたりの息子がいて、次男の方はある日、父親がまだ生きているにも関わらず、財産の半分を分けて欲しい、相続して欲しいと願い出ます。父親が次男に財産を与えると、次男はもう一人でこれからは生きていける、誰からも束縛されない自分らしい人生を歩んでいけると思うかのように、旅に出るのです。父親を残して。話の結末はもう皆さん知っているかと思いますが、結局この次男は父親のもとに帰ってきます。放蕩の限りを尽くして、何もかも失い、世間の厳しさを存分に味わい、ぼろぼろな状態で帰ってくるのです。この時の父親と次男の再会の場面は印象に残ります。次男は自分が許されるとは思っていません。もう息子とは思われない、親子の縁を切られてもしかたないと思います。しかし、彼の予想を遥かに凌ぐ出来事が起こります。彼の姿を見た父親が遠くから走り寄って、彼を出迎えるのです。彼の姿を見て、大いに喜び、彼を愛する息子として受け入れるのです。父親は彼を家に迎え、ご馳走を出し、立派な衣服を与えました。もう生きてはいないかもしれないと思っていた息子を、愛で包んだのです。

この息子は真の親の愛をここで知ることができ、自分という存在が受け入れられたことを知ったのです。親の財産を相続し、独立して旅立っていった息子は、自我が確立されていたかのようで、しかし、放蕩の限りを尽くして誰からも相手にされなくなった時に、自我を見失っていたのだと思います。自分という存在、自分の価値は、親からの相続財産という目に見える金銭的なものにしか彼の周りの人たちには映らなかった。それでは生きていくことができないと彼は悟ったのです。彼は父親との再会、ありのままに自分を受け入れてくれる父親の愛によって、自分の存在価値を見出した、見失っていた自我が復活したのです。

今日の福音書は主イエスが荒野で悪魔の誘惑を受けたお話です。主イエスはヨルダン川で洗礼を受けた直後に、この荒野で試練を受けました。それは「霊に導かれて」とあるように、この霊というのは神様の御心でありますから、父なる神様によって、主イエスはこの場所に導かれたのです。その理由は、主イエスが洗礼を受ける際に言われた言葉「正しいことをすべて行う」ためでした。この正しいこと、それはすなわち十字架につくということです。この十字架につくための道を歩んでいくということに繋がる出来事、それがこの荒野での試練です。

主イエスは40日間の断食をしました。空腹を覚えたというのですから、過酷な試練の時であったでしょう。空腹で弱り果てていた主イエスを悪魔は3回誘惑し、試します。この時悪魔は「神の子なら」と言います。これは事実を前提にした言い回しでありますから、悪魔は主イエスの正体を知った上で誘惑しているのです。「神の子ならばどうだ」という具合に、そのままに理解できるかと思います。

神の子である主イエスは、最初の誘惑であれば、石ころをパンに変えることは造作もなかったでしょう。しかし、主イエスは全て神様の御言葉にたって、御言葉に委ねてこの悪魔の誘惑を退けたのであります。ただひたすら父なる神様への信頼を置いた姿勢を貫いたのです。私たちはこの主イエスの姿にあやかれるのでしょうか。悪魔からの誘惑、試みというのは例外ではありません。それは私たちが、私たちの弱さ、弱点を突いてくる現実的な問題と向き合わされているということです。それに打ち勝つほどの信念、または信仰というものがあるのかどうかということが問われている、そう考えるかも知れません。けれど、結局私たちが行きつく結論は、悪魔と同じ言葉を使うかもしれません。主イエスは神の子だから、だから試練に耐えることができた、誘惑に打つ勝つことができたのだと。私たちは神の子じゃない、生身の人間だから無理だという具合に。

第1の誘惑の内容は特に切実な問題です。食物に関するからです。3節と4節を読みます。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」」人はパンだけで生きるものではない。こう聞きますと、すぐにこう思わないでしょうか。人はパンがなければ生きてはいけないのだと。どんなに綺麗事を言われても、どんなすばらしい徳のある生き方を示されても、食欲には勝てない。食べなければ死んでしまう。ただそれだけのことではないか。まずは食欲を満たさなければならない、そう思います。ですから、尚更、悪魔の言葉に納得してしまうのです。神の子なら、石をパンに変えたらどうかという言葉。そうすれば世界の食糧問題は一気に解決する。問題はなくなり、人類は生きながらえる。私たちも悪魔の言葉に同意するというより、そのような私たちの思い自体が悪魔の言葉になっているのです。

しかし、ここで主イエスが言う「生きる」とはどういう意味でしょうか。ただ食欲を満たすだけの肉体的なことだけを指しているのでしょうか。主イエスは決してパンのこと、食糧のことを無視しているわけではありません。拒絶しているわけではなく、それだけでは生きられないというのです。私たちを真に活かす真の糧があると言われる、それが神の御言葉であると言われます。神様の御言葉とはどういうことでしょうか。この4節の言葉には元の言葉があります。申命記8章3節の言葉ですが、前後の2節から4節にはこう書いてあるのです。

「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」

この40年の旅というのは、モーセに率いられた旧約の民、イスラエルが経験した40年の旅、神様が与えてくださる約束の地に向けて彼らが歩んだ旅のことです。この40年の旅は、実に誘惑と試みだらけの、主イエスとは違い、その誘惑と試みに翻弄されたイスラエルの過酷な歴史です。この旅路の中で、神様は天からマナという食べ物を降らせて、人々に与えました。彼らを飢え死にさせるようなことはしなかった、その日に必要な糧を与え続けたのです。私たちが主の祈りにおいて「必要な糧をお与えください」と祈るように、私たちにはパンが必要です。けれど、このパンは石ころからたやすく変えられて手に入るパンではない、ただ食欲を満たすだけのパンではなく、人として、私が私として生きていくために必要な糧です。

イスラエルの人々がこの過酷な旅路の中で、誘惑に翻弄され、弱く、もろい姿を神様の前でさらけ出すように、私たちもそのような姿をさらけだして生きています。神様の目に留まる姿は、彼らイスラエルの民となんら変わりはないように思えます。主はこの私たちの弱さを、苦しさを見つめておられるのです。私たちに本当に必要な糧は何であるのかということを見つめておられる。だから御言葉が私たちに示されています。私として生きていく命の御言葉を。

神様の御言葉によって生きるとは、この恵みを頂いて、生きる、感謝して生きていくということです。そして、神様の御言葉によって私たちは生きるということは、神様の御言葉になんとかして与ろうと求める以前に、先に御言葉は語られているということなのです。それがマナという目に見えるパンという糧を頂いているということ、すなわちこの神様の御言葉、それは神様と私たちの交わりであり、神様が私たちを愛してくださるということにほかならないのです。神様の愛によって真に、人として生きていくことができる、ありのままの私として生きていくことができる。なぜなら、神様の愛は私たちを見捨てないからです。ありのままの私をそのままに愛されるからです。ここに、私たちの自我があります。自我をもって、そのままに私として生きていくことができる道があるのです。

パンだけで生きていけるでしょうか。ここに放蕩息子の姿が重なります。彼は財産を手に入れて、もうそれだけで生きていかれると思ったのです。父親は必要ないと思ったかもしれません。食べ物、着るもの、お金、生活に必要なものはすべて揃っていたでしょう。父親から独立して己の道を突き進む、自我をもってして自分の道を突き進むのです。しかし、彼はすべてを失って、誰も助けてくれる人がいない、受け入れてくれる人がいないことに気付かされます。もはや自分という存在は失った財産と共に消え失せてしまったかのように。自分の存在を見失ったら、自我を見失ったら、本当の意味で生きられないのです。私の自我を自我として受け止めてくれるもの、その拠り所が必要なのです。パンそのものは、その拠り所とはならないのです。

彼の自我を復活させたのは父親でした。父親の愛でした。息子の自我の拠り所はそこにあるのです。だからそこで生きられるのです。私たちは一人では生きていかれないからです。自我を確立するというのは、独立して好き勝手に生きていくことではない、むしろそこでは生きられない、自分の存在を根底から受け止めてくれる土台がないと、生きられないのです。

私たちは神様のみ前にあって、不信仰に陥ることがたくさんあります。誘惑に陥りそうなことがたくさんあります。信仰者といっても、神様のみ前にあって、信仰のアダルトチルドレンとしての私たちの姿があるのか知れません。信仰者であっても、信仰を見失っている時がある。本当に私は信仰があるのか、そういう不安がある。パンだけで生きようとする姿があります。だから私たちは毎週の主日ごとに、帰ってくるのです。この教会、キリストのみ体のもとに。放蕩息子のように、この世ではすべてを失い、疲れ果てているこの私を、主は迎えてくださるのです。主の御言葉こそが真に私たちを生かしてくださる。神様の愛を知り、キリストに繋がっているという平安が与えられます。この平安を知るからこそ、真に私は私という自我をもって新しい一週間を生きていくのです。それが信仰をもつということ、神様の愛に信頼して生きていくということです。キリストと共に、父なる神様の愛に支えられて歩みましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年3月2日 変容主日 「恐れることはない」

マタイによる福音書17章1〜9節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日は変容主日です。弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネが主イエスに連れられて、高い山に登り、そこで彼らは不思議な体験をしました。弟子たちの目の前で主イエスの姿が変わり、そこにモーセとエリヤという旧約の預言者が現れて、主イエスと語り合い、そして光り輝く雲に弟子たちは覆われて、天の声を聞いた。そして弟子たちが顔を上げて見ると、主イエスの他には誰もいなかったと言います。彼らは一体何を見たのでしょうか、そしてこの変容の出来事、物語は私たちに何を示しているのでしょうか。出来事が出来事なだけに、非常に難解な物語かもしれません。

けれど、この非日常的で、神秘的な出来事の目撃者、体現者であるペトロ、ヨハネ、ヤコブのことを、とてもうらやましく思えるのは私だけでしょうか。彼らは本当に特別な体験をした、第2日課のペトロ自身の言葉で言えば、彼は神の威光を目撃した「目撃者」であると言います。こんなに間近に神様の威光を、恵みを経験することができたと言うのです。(Ⅱペトロ1:16)普段と変わらない日常生活を送っている中で、その日が当たり前のように来て、当たり前のように過ぎ去っていくと感じてしまう私は、真剣に神様の恵みを受け止めているのだろうかと思うものです。自分自身も神様の恵みを受けて、今この時を生かされている。そのことを自覚することが既に、神様の威光、恵みの目撃者なのですが、やはりペトロたちのような体験を「特別な神体験」として見てしまうのです。目に見えることだけに縛られている私自身の愚かさであり、信仰の薄さであると感じます。しかし、ここで言われている「目撃者」という言葉。ペトロたちの体験、あの変容の出来事は、自分自身の愚かさ、信仰の薄さという次元では計りきれないほどのことだったのだと思うのです。

彼ら弟子たちが生きた初代教会の時代、それはローマ帝国のキリスト教会への迫害が特に激しかった時代でありますが、その苦難と困難の只中にあっても、この体験が彼らを、そして教会の支えとなったのです。「わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」(1:18―19)この言葉から伝わってくるのは、厳しい迫害下の中で、時には不信仰になりかけ、時には希望を失い、いつ命を失ってもおかしくない、そんな暗黒に包まれた日々を送ろうとも、いずれ夜が明けて、明けの明星が登る時が来るのだ。私たちの心に輝く命の光、主イエスという光が輝く時が来るではないか。私たちは確かに天の声を聞いた。暗い所は暗いままではない、そこに輝く灯火を私たちは灯しているのだ。この灯火を消さないように、望みを抱いて生きていこうというペトロとその教会の人々の思いであります。彼らはそういう信仰、神信頼を基として、歩んでいったのでしょう。やがて、ペトロは捕まって、逆さ十字の刑に処せられたのでありますが、最後までその希望のともし火を消すことなく、後世の人々に主イエスの光を伝えていった人です。

この主イエスの変容の出来事は、弟子たちにとって、単なる良い思い出となった、記念となった過去の出来事には収まらないのです。その時代に生きた彼らの確固たる支えとなり、希望となったという真実であります。神様の威光、恵みの目撃者として、どのような状況にあろうとも、自分たちの生を真に生かしむる救い主を仰ぎ見ることができたのです。

話が少し戻りますが、この変容の出来事が起こる6日前、ペトロたちは深い絶望と悲しみの只中にあったかと思います。彼らは主イエスの受難と十字架、復活の予告の前につまづくのです。主の受難と十字架を受け止めることができないペトロは主イエスをいさめますが、主イエスから「サタン、引き下がれ」とさえ言われてしまったのです。(16:22―23)彼らからしてみれば、主と共に歩んできた宣教の旅がここで潰えてしまう、「主イエス」という希望が儚くも消え失せてしまう。その神の子の死。世の権力の前には無力なのか、どうしようもないのか。そういうあきらめの境地に立たされていたでしょう。私たちもあきらめの境地に立たされることがあります。様々な挫折、愛する者との死別。闇しか見えない。闇の先が見えないのです。だからあきらめようとする。もう無駄だと思う。自分たちの無力さに打ちひしがれてしまうことがあります。この弟子たちのように。彼らもまた、闇しか見えなかったのです。十字架の死へと続く闇の道、その先にある光、「復活」という光は見いだせませんでした。

そして、6日後です。主イエスは3人の弟子を連れて高い山に登ります。旧約聖書の時代から、山は神顕現の場所とされた、聖なる領域とされていました。日本にも「山岳信仰」という言葉がある通り、山には神様が住んでいる神顕現の場所として、特別な領域として人々に認識されてきた歴史があります。ここで突如、主イエスの姿が変わり、ふたりの預言者が現れて、主イエスと語るという光景を弟子たちは目の当たりにするのです。この時ペトロは思わず口を挟みます。「すばらしいことです」と。これは「美しい」とも訳せる言葉です。目の前には眩いばかりに、美しい光景がある。それを今自分目の当たりにしている。なんとすばらしく麗しいことであろうか。ペトロの心境は、秘境と言われる場所に遭遇した時の私たちの心境に似ているものでしょうか。とにかくそこは人間の支配など全く及ばない神様の領域、その支配の下で起こっている神秘的な出来事なのだと言うのです。そして彼は仮小屋を建てようとします。そこを記念とするのです。仮小屋というのは「天幕」という意味ですが、かつて旧約の民が神様の顕現、その御業が働いた場所を記念して、各地に至聖所を作って、祭壇を築いたように、彼はそのすばらしさ故に、神様の住まわれる場所、神顕現の記念として、仮小屋を建てようと提案しているのです。

されど、このことが、後に彼らが灯した暗闇の只中で灯された灯火だったのでしょうか。そうではないのです。世の支配が、闇が及ばない領域で、ペトロたちは安心して神様の領域だけに生きたのではないのです。記念とする場所だけにいたのではないのです。

今、目の前に姿を変えておられる方、主イエスのそのみ姿は、およそこの世の者ではないと、弟子たちは理解したでしょう。モーセとエリヤの存在がそのことを引き立てています。ようするに、受難と十字架の道を歩まれる主イエスの道はそこで終わらないということです。彼らに予告した出来事が、ここで起こっているのです。すなわち、十字架の死が終着点ではないということ、その先にある復活の光を彼らに向けているのです。だから、死の先にある復活の世界、この永遠の命という来るべき光は、来るべき時に到来する光なのです。この光を知るためにも、闇を知らなくてはならない。光が闇の中でこそ輝くように、受難と十字架という死、死の闇なくして、復活の命の光は輝かないのです。

だから、ペトロが話終わらないうちに、光り輝く雲が弟子たちを覆っていき、彼らの姿は見えなくなるのです。この時、雲の中から、声が聞こえたと言います。「これに聞け」。(17:5)その声を聞いた彼らは非常に恐れました。(17:6)顔を上げることができないのです。何が起こったのでしょうか。何が彼らを恐れさせたのでしょうか。

その声は天の声、天の声が響いている場に彼らがいる、すなわち彼らは主のみ前に立たされたのです。もはや仮小屋に収めて、記念とするという問題ではありません。恵みの主、栄光の主がそこにおられるからです。彼らの恐れは、恐れ多いという謙遜から来る思いではありません。顔を上げられぬ程に、主のみ前にあって、自分の罪深さに打ちひしがれ、恐れているのです。罪ある裸同然のままに、主のみ前に立たされているのです。その恐れです。

彼らを恐れさせた天の声は「これに聞け」。すなわち主イエスに聞けということでした。主イエスの言葉によって、すなわち御言葉に聞け、聞くということです。聞くことによって歩め、生きなさいと言われるのです。仮小屋を立てて、その記念の中に思いとどまるのではない。主の栄光、すなわち恵みは、あなたがたの目の前におられる主イエスにあるのだということです。主イエスの神の御言葉に聞き従うところにあるのだから、「これに聞け」と言われるのです。御言葉に聞き従う歩み、すなわち主イエスの道、受難と十字架への道に歩むということなのです。

主イエスは近づいて、彼らに手を触れて言いました。「起きなさい。恐れることはない」。主イエスの方から近づかれて、手を触れてくださったのです。恐れることはないと言います。自身の罪深さに打ちひしがれることはない、私があなたの罪を背負うから、担うからと言われんばかりに、その彼らの、私たちの救いのために、主イエスは十字架への道を歩まれ、私たちの贖い主となってくださるのです。主の真の栄光はそこにおいて現され、それだけではなく、三日目に復活する。確かにそう予告されたのです。モーセとエリヤと共に姿を変えられた復活の主がおられたのです。辛く険しい闇の道に見えるが、その目的地は復活の光が輝くところ。暗闇に勝る光であるということです。だから主イエスを信じて歩め、十字架の先にある復活という真の命に与りなさいと示される。先にある不安と困難ばかりが目に映ってしまうこの現実の只中で、そこで御言葉は響き渡っている。聞こえないのではないのです。私たちが聞こうとしないで、すぐに思い悩む、待つことができなくなるのです。思い悩んで、罪故に恐れを抱く。顔をあげることすらできない自分の姿がある。つまづいている自分の姿があります。そんな私たちを、助け起こし、「恐れるな」と言ってくださる主が共におられるのです。寄りそって、手を触れてくださる主のみ姿は、私たちへの愛です。私たちを決して見捨てない主の深き愛に他なりません。この深き愛は、結局最後は十字架に従うことができない弟子たち、それは私たちの姿でもありますが、それでも私たちを見放さない、私たちの小ささ弱さの只中にたって下さる主の愛です。

来週の水曜日は灰の水曜日です。この日から四旬節を迎え、日曜日を除いた40日後にイースターを迎えます。この変容の主日はちょうど顕現節から四旬節の間にあります。変容主日が独立して、この聖書の出来事を捉えているわけではありません。変容主日は顕現節と四旬節を結ぶのです。それは主の顕現が主の受難と十字架へと結ぶということであります。だから天の声は「これに聞け」、主イエスに聞け。主イエスのみ声に聞き従い、共に歩めと言われるのです。もはや仮小屋の中に、主の威光と恵みを留める必要はないのです。キリストこそ神様の威光、恵みそのものです。私たちが小屋を建てるのではなく、キリストという真の小屋の中で、私たちは生かされるのです。だから、恐れることはない。私たちもまた目撃者、主の恵みの目撃者なのです。今ここに生かされている故に。このことを信じて、四旬節を共に歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。