2014年2月23日 顕現節第8主日 「必要なものを知らされて」

マタイによる福音書6章24〜34節
藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日は午後1時30分から、この六本木教会の教会総会が開催される予定でありますが、午後4時からは、日本福音ルーテル教会の東京教会で、神学校の夕べの祈りが予定されています。神学校から卒業していく者を送り出す行事として毎年守られてきた行事で、昨年は私も他の4人の卒業生と一緒に、この神学校の夕べの祈りに出て、礼拝の中で短い説教をさせていただき、皆さんから祝福と祈り、激励の言葉を頂きました。六本木教会からも何人かの方が来て下さり、お祝いの品を頂き、六本木教会で共に信仰生活をこれから送っていく、この教会で一緒に生きていくという証しを立てた時でもありました。あれからもう一年も経ち、懐かしく思います。

今年は卒業生がいないので、「召命」をテーマに、神学生たちが奉仕してくださるそうです。ふたりの神学生が説教してくださる予定です。説教の中で自分たちの召命感が語られるでしょう。彼らは自分たちの人生を振り返りつつ、その中で人生経験を語るかもしれません。しかし、その人生経験というのは、その人自身の経験の豊かさではなく、その人の口を通して語られる神様の恵みの豊かさであります。神様がその時、その場で私を捕えてくださり、用いてくださる。そういう出来事が起こった、真に起こったという恵みの体験です。されど、その時、恐れ、迷い、不安、思い煩いを抱いたかもしれません。自分があなたに仕える資格などあろうか、ふさわしい者であろうか。私ごとで恐縮ではございますが、私自身も牧師になるために、献身を決意し、神学校に入った後も、自分は牧者としてふさわしい器になれるのか、もっと人生経験を積んで、信徒として信仰生活を送って、教会を知り、様々な知恵をつけてからのほうが良かったのではないのか。目の前の課題、困難にぶちあたった時に、そのように思い煩うことはたくさんありました。

しかし、初代教会の発展に大きく貢献し、神様の福音を大胆に力強く宣べ伝えていたあのペトロやヨハネは、使徒言行録で、他の人からこう見られていたのです。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」(使徒4:13)大胆な態度というのは、自分たちに敵対する者たち、すなわち、主イエスの福音を拒もうとする者たちに捕まって殺されてしまうかもしれないのに、そのような不安。思い煩いなど全くないかのように、彼らは神様の福音を宣べ伝えるために、そこに立ち続けていたということ姿に見られます。彼らは「無学な者」、特別に知恵のある魅力的な人間ではないのに、人々は自分たちの心に響く福音が、神様の救いの御言葉が語られている、だから人々は驚いているというのです。彼らは自分たちの口を通して、神様の恵み豊かさを証ししている。さらに言えば、そこに神様の御業の働きが彼らの口を通して示されている。彼らの牧者としての偉大さが描かれているのではありません。

ヨハネ福音書15章16節で「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と主イエスが言われるように、ペトロもヨハネも、今日説教される神学生も、私も、献身者として、牧者としてただ、神様に選ばれたという先行する導きがあったという真実、それはまた洗礼に招かれた信徒の皆様、洗礼に招かれている皆様も、同じく神様の導きの下に、神様に選ばれた存在です。神様に選ばれた者が魅力的なのではなく、選ばれた人を通して、その人の存在を通して、生き方を通して、神様の恵みが溢れ出ている、神様の栄光が現されているのです。

神学校の夕べで説教される神学生の口を通して、神様の恵みが語られ、献身の喜びが語られるでしょう。その恵み、喜びはその人だけでなく、またその神学生を送り出した教会に限らず、教会全体、信仰者の喜びであると願います。是非とも、お時間のある方は、神学校の夕べの祈りにお出かけください。キリストに捕らえられ、キリストに生かされる者の恵みを分かち合うひと時となるでしょう。私たちは神様に選ばれた者なのです。

今日の御言葉もまた、恵みに満ちております。神様の愛が示されています。御言葉を通してこの世を生きる私たちに示されています。「思い煩い」に縛られている私たちにです。私たちに主イエスは明確に「思い煩うな」と言うのです。思い煩う必要などないと言わんばかりに、主イエスは空の鳥、野の花を通して神様の恵み、神様の養いの下に生きている命を、私たちに示しているのです。

思い煩う、思い悩みとは、元は「分裂する、分裂している」という意味です。思いや心を向けるべきひとつの方向に焦点が合わず、他の不安や悩み事に心を奪われている状態を言います。先程も私は牧者としての器、そのために必要な物として、人生経験やあらゆる知恵を身につけなくてはならないという、あれもこれも必要だという思い悩みがあったことを言いました。本当に大切な者、軸となる本質を見失っている状態とも言えます。皆さんそれぞれに、思い悩みを抱えておられるかと思います。

26節で主イエスは私たちに空の鳥、野の花に注目させます。あれらのようになれとは言いません。見なさいというのです。私たちは見て、何を感じるでしょうか。単なる自然現象に過ぎないのかもしれません。されど、主イエスは29節、30節でこう言うのです。「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」ソロモンという偉大な王様と、見向きもされないような小さな花が比較され、野の花の方が美しく着飾っていると言われる。明日は炉に投げ込まれて、死んでしまうかもしれない野の草もまた美しく着飾っていると言われるのです。生きていて、命がある。それはそうです。しかし、この「着飾る」という言葉の中に、神様の特別な思いが込められています。

目に見えるような美しさ、人間の目に価値ある花や草のことを指しているのではありません。神様が着飾る装いとは何か。ソロモン以上の美しさとは何か。それは野の花、野の草が見栄を張って背伸びしているわけではなく、それらのものの命が神様の御手の中で生きながらえている、神様の恵みに生きているということです。その姿は、むき出しのその命の美しさは、ソロモンの偉業、その人間的な価値観に見られる美しさに勝るということです。

実に、単純なことを聖書は言っているでしょうか。楽観的なことを言っているでしょうか。野の草の命が保証されているということではありません。明日には死ぬのです。神様の恵みの中に生きるものはもう安心だとは言わないのです。野の草だけではありませんが、今より先に待ち構えている困難、労苦から逃れることはできないのです。

私たちは空の鳥、野の草花ではありません。ですから、目の前の苦労、困難と向き合うことも、逃れようとすることもできるでしょう。しかし、そこで思い煩うのです。思い煩いが、目の前の困難、苦労を悩みの種にします。思い煩いが、苦労や困難と向き合えない状況を作るのです。そこに私たちの生き方が問われるのではないでしょうか。喜びや楽しみだけではない人生、苦労や困難と向き合わなくてはならない、または回避しようとする。そこに働く思い煩い。困難や労苦と向き合っていく生き方の中心となるもの、その方向性とは何でしょうか。いや、中心は、方向性はあるけれど、それが明確にはならないという思いに立たされているとも言えるかもしれません。それは思いが分裂しているから、思い悩んでいるからです。何が必要で、何が大切か、そう突き詰めれば突き詰めるほど、思い悩み、不足ばかりが念頭に浮かぶのです。あれもこれも必要だと、思ってしまうのです。

このことは25節で主イエスが「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」と言われる通りです。生きていく上で何が軸となるのか、基となっているのかよく考えなさいというのです。ここで命ということが示されています。この命とは「魂」とか「心」という意味の言葉です。単に肉体のこと生だけを言っているのではありません。その人の生そのもの、人生の基であります。苦労、困難を生きていく命です。自分の命のことで・・・思い悩んだところで、思い悩みはこの与えられた命を生かさないのです。真に生かされる命とは、困難、苦労の只中にあっても、実感をもって生きていく。人生の旅路として、そこで思い悩んで立ち止まろうとするのではなく、旅路としてその道を進んでいくことができる生の歩みです。この生の歩みが、主の恵みに生きていくということであります。

この命、与えられた生命を生かされるために、何が必要か。何が大切か。33節で主イエスは何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。と言われます。神様のご支配とその正しの中に、自分の命を委ねていく。信じていくということです。私たちの望むものが全て与えられるから、思い悩むなと言うのか。そうではなくて、私たち一人一人も、神様の養いのもとにあり、着飾られている。既に施されているのです。心も魂も、備えられているのです。だから、思い煩いの世にいつまでも心も魂も縛られる必要はない、神の国と神の義という神信頼の世界に、生きていく。私たちを真に活かされる創造主の御手の中にあって、私たちの思い煩いは無に等しいのです。

自分の人生の主は、もちろん自分であります。喜びも悲しみも、痛みも苦しみも、全て自分自身が体験するからです。されど、人生を歩むこの命は、この命を与えたのは、命の主は誰かと考えたときに、自分は被造物として、この世界で生かされているということを知ります。大いなる導きの中で、私たちの思い煩いを超えて、主は恵み深き御業をもって、わたしたちを選び、わたしたちを導かれます。労苦を労苦として、困難を困難として向き合っていく。この歩みは一人ではないということです。主は私たちを創られて、そのままにしているわけではありません。救い主イエスを通して、主が共に歩んでくださるということを教えてくださるのです。だから思い悩む必要はない。主は私たちの命、全人格、そしてただ私たちを創られただけでなく、全生涯に関わる方、人生の基であります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年2月16日 顕現節第7主日 「敵をみつめて」

マタイによる福音書5章38〜48節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

神学生の時に、1995年アメリカで制作され、上映された「デッドマン・ウォーキング」という映画をDVDで借りて見たことがあります。こういうお話です。

アメリカの貧困地区で働くシスターのヘレンは、強姦殺人の容疑で逮捕され、死刑宣告を受けた死刑囚マシューと、刑務所で出会います。ヘレンはマシューのスピリチュアルカウンセラーとして、彼と幾度となく向き合っていきますが、マシューは傲慢で横柄で、人をからかうような態度を彼女に向け、自らの無罪を主張し続けます。結局彼の主張は裁判で通らず、死刑は免れることができなくなるのですが、死刑執行日が近づくにつれて、彼の態度は変わります。彼は死の恐怖に怯え、犯した罪に怯え続けるようになるのです。ヘレンは彼に寄り添い、その思いを受け止めつつも、彼に罪の告白をするように解きます。そして執行日の直前に彼は罪を認めて、自分が殺人を犯したことをヘレンに打ち明けました。そして彼は彼女にこう言うのです。「僕を愛してくれてありがとう」と。そして迎えた死刑執行日の時に、独房から執行室に連れて行かれるマシューの後ろからヘレンは彼に聖書の言葉を聞かせ、彼に慰めの言葉を語りながら同行します。同行が認められない場所まで来たとき、最後の別れの瞬間に、ふたりは「I Love you」と互いに言って、別れます。執行台に縛り付けられたマシューは、死刑執行の直前に、被害者の父親にこう言いました。「僕の死が、あなたにとっての癒やしになりますように、そして僕を赦してください」と。

どうあがいても死刑は免れない彼は、最後の最後で、罪の告白に導かれ、被害者の父親に、こう言ったのでした。彼が死の恐怖、罪の怯えから、言えた言葉ではなかったでしょう。そうではなくて、彼がヘレンに言った言葉「僕を愛してくれてありがとう」という、自分が愛されているからこそ言えた言葉だったのではないかと思います。ヘレンはマシューをひたすら愛し、彼に愛を与え続けたのでした。そんな彼女に対して、彼は最初、傲慢で横柄で、人をからかうような態度をとっていた。人から憎まれても、殺人を犯しても、何とも思わなかった。彼は愛する、愛されるということを知らなかったのです。「僕を愛してくれてありがとう」。彼の生涯は、死刑という形をもって終りを迎えますが、彼は最後の最後で愛を知り、愛されて終えたのであります。

今日も山上の説教から、御言葉を聞いています。主イエスは言います。「悪人に手向かうな(5:39)敵を愛せ(5:44)」と。私たちはこの有名な主イエスの言葉を聞くと、すぐに主イエスの教えなど守れるはずがない、実現不可能な教えであるとして、気にもとめなくなってしまうことがあります。主イエスは理想を語っているだけで、現実に生きている私たちのことなど全く分かっていないとさえ思ってしまうのです。主イエスはどういう思いをもって、このようなことを言ったのでしょうか。

まず、「目には目を、歯には歯を」という律法の教えが述べられています。(5:38)いわゆる「同害報復」の教えですが、よく勘違いされるのが、これは復讐を推奨している教えではなくて、相手の目、または歯に損害を与えたら、自分は相手と同じ損害を被らないといけないという、個人的な感情に根ざした教えではなくて、公的な立場に則っている教えです。目をやられたら、目だけではなく、目全体に手をだしてしまう。歯を折られたら、歯一本に収まらず、全体を折ってやらないと気がすまないという人間の思いがあります。そういった、限りない復讐の連鎖を断つために、設けられた教えでした。

しかし、と主イエスは言うのです。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(5:39―42)
復讐してやりたい、報復してやりたいという人間の感情を抑えなさい、それどころか、損害を受けたものは更に損をしろと言っているように聞こえるのです。相手から何かやられたら、相手にも同じ境遇を味わってもらう。自分が損したままに、相手と関わっていくことなどできるのか。そういう思いを抱かないでしょうか。けれど、主イエスは、相手から何かやられて損をしたら、その損害を相手に向けるのではなく、帰って、相手を生かすようにしなさいと言うのです。

そして43節、44節では、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
隣人というのは、ユダヤ人たちにとっての親交ある人たちです。その中に異邦人は含まれませんし、同胞のユダヤ人でも、徴税人や罪人は入りません。彼らは憎むべき敵として見なされているのです。しかし、主イエスは敵を憎むのではなく、むしろ愛しなさい、その人のために祈りなさいと言うのです。

38節から43節で、主イエスが言わんとしていることは、自分が相手から何をされようとも、相手を生かしなさい、愛しなさいということです。その対象に限度がないのです。目には目を、歯には歯をという、互いに損害を被る歩みではなく、また隣人を愛して、敵を憎むという自分の軸に焦点を当てた愛だけにとどまるなと言うのです。

目には目を、歯には歯をという相手との関係、隣人を愛し、敵を憎むという関係。これらは人間の愛に限られます。部分的な愛、断片的な愛とでも言えましょうか、これらの人間の愛には条件がある愛の関係なのです。合理的な考えに基づいているでしょう。あの人はこうしたから、あの人はこういう人だから、こういうふうに愛していく、こういうふうに関わっていくと、自分を軸にして、条件をつけるのです。

主イエスはこの人間の愛、条件つきの愛を打ち破るのです。人間がつけた雁字搦めの愛の縛りを解かれるのです。部分的、断片的な愛ではない、いやむしろ、愛とはそのように条件づけられたものなのか、都合よく解釈できる範疇にあるものなのかという問いに私たちは立たされているのです。また、隣人愛と言っても、たとえば親子の愛、男女の愛、友人との愛などが挙げられるかと思いますが、これらの愛も、どこかしらに部分的なものを感じるのです。どこかに破れがある、欠点がある。自分が条件をつけてしまう。その結果、明日には親しい人が敵になってしまうこともあるのです。

愛の破れの中で、敵ができるのでしょう。相手も自分を敵として、自分を憎み、復讐の対象とされています。されど、主イエスは敵を愛しなさいというのです。憎しみを抱いて、復讐心を抱く思いから、解放されなさいと言われるのです。敵は自分に対して愛することができず、自分もまた敵に対して愛することができない状態です。互いに愛を知らないのです。そのまま憎しみをもってして、その相手と関わっていくその結末は・・・。復讐心がエスカレートし、憎しみに心を奪われ続ける滅びの結末を迎えるのです。憎む方も憎まれる方も、互いに行き着く滅びの道であります。

主イエスはその結末を望まないのです。敵を憎むのではなく、愛しなさいという主イエスの御言葉。我慢しても、忍耐しても、そんなことができるのかという葛藤の中に立たされる私たちの姿があります。人から憎まれれば、そんな覚えはない、そんなことをしたつもりはないと弁解の余地に立たされます。自分の中で敵と味方を作ってしまうのです。

憎しみの心、互いに復讐の絶えない滅びの道を突き進む私たちを主イエスが見ておられます。滅びへと向かう私たちを見過ごされて、復讐を肯定、助長するようなその場限りの人間の都合を満たす思いには立たれないのです。主イエスは滅びへと突き進む私たちの憎しみの心、復讐の道、その果てにある滅びからの救いを私たちに示しているのです。主イエスの御言葉を通して、私たちの救いということが問題となっているのです。主イエスは私たちに救いを、敵をも愛するという救いの道を宣べ伝えているのです。

それは何よりもまず、敵味方関係なく、敵味方の只中にある私たちひとりひとりが神様から愛されているということを知ることから始まります。

デッドマン・ウォーキングで、マシューは愛を知りました。愛を知らずそのまま死刑を執行されていれば、事実上それは彼にとっての人生の滅びとなっていたでしょう。しかし、彼が愛を知り、愛されていることを喜び、被害者に悔いる言葉を言うことができたということは、同じ死刑執行にして死ぬということにおいても、人生の滅びというよりは、死の瞬間に救われたということが言えるでしょう。相手から憎まれるだけの、愛される価値のない者であると思っていた死刑囚が、愛を知ることによって、大きく変えられた。被害者の痛みに気づかされたのです。

主イエスは45節でこう言います。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」自分は悪人でしょうか、善人でしょうか、正しい者でしょうか、正しくないものでしょうか。あんな人でも神様が恵みを与えてくれる存在だから、大切にしなくてはいけないということでしょうか。それは自分を軸にした思いでしかありません。相手から見たら、自分は悪人であり、正しくないものであります。私たちはどの立場にも立たされているのです。されど、神様のみ前にあっても、自分の思いを軸としてしまう罪人である自分にさえも、神様はこのようにして太陽を昇らせて光を与えてくださり、恵みの雨を降り注いでくださるのです。罪人、それは神様から離れ、敵対しているこの自分こそを、神様は自分を憎むのではなく、愛してくださる。恵みを与えてくださるのです。

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(5:48)私たちが完全な者となるとはどういうことでしょうか。神様みたく全知全能になれというのは不可能です。そういうことではなくて、天の父なる神様の完全さとは何かと考えたときに、父なる神様が私たちに何をしてくださったのかということです。それは罪人として敵であった私たちを愛してくださった、いや今も愛してくださるということです。だから、完全な者となりなさい、つまり魅力的な人間になりなさいという人間の完全さではなくて、神の完全さ、ようするに「愛する者」となりさないと、私たちを招かれるのです。

天の父なる神様が完全であられる、愛する方であるということ。その御心は、主イエスキリストを通して私たちに表されています。神様はその独り子を愛するほどに、この世を愛された方です。この愛の方の子供として、私たちも愛する者として生きるようにと招かれています。敵を憎む、敵から憎まれるという滅びの道ではなく、敵を憎み、敵から憎まれる私たちは、憎しみでは生きられないということを知るのです。敵味方、その只中にある私たちは、ひとりひとりを愛される神様の愛の只中で生かされているのです。この救いの道、神様の愛が示されています。この神様の愛に私たちは生きるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年2月9日 顕現節第6主日 「和解に至る道」

マタイによる福音書5章21〜37節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日も山上の説教から御言葉を聞いております。本日は5章21~37節までが福音の日課として与えられていますが、今回は5章21~26節に焦点を当てて、聞いてまいりたいと思います。

「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」兄弟、隣人、他者に対して腹を立てる、怒るということですね。それはささいなことから生じます。怒るというのは「荒れ狂う」、「力んだ荒々しい形状があらわれる」という意味合いをもっていますから、肉体的、精神的に非常に負担のかかる人間の感情であります。気持ちが荒ぶり、時には正常な判断に、支障をきたすものでありますから、極力怒りは覚えたくないものです。

主イエスはこの怒りを他者に向けるものは、「裁き」を受けると言いました。好きで怒る人なんて誰もいないでしょう。自分を怒らせるようなことをする人が裁かれるならまだしも、なぜ自分が裁かれなくてはいけないのかと思いますし、主イエスのこの言葉を聞いて、はいそうですねと誰が素直に受け止めることができるでしょうか。

ここでまず「裁き」を受けるということに注目したいと思います。前の21節には「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。人を殺したら裁かれる。刑罰を受けるというのは当然のことですが、この殺すなという教えは旧約聖書のモーセの十戒の第5戒に当たります。ルターの小教理問答書にはこのような説明が書いてあります。「わたしたちは、神を恐れ、愛すべきです。それでわたしたちは、隣人のからだをきずつけたり、苦しめたりしないで、むしろ、あらゆる困難の場合に、その人を助け、また励ますのです。」
殺すなという神様の教えは、命を奪うということに留まりません。隣人を、つまり他者をきずつけたり、苦しめたりすること自体が、既に他者を殺しているというのです。殺すのではなく、助け、支え、励ましなさい、他者を生かしなさいという教えです。
ですから、人を殺す者は隣人との関係に破壊をもたらすと言えるでしょう。そして、人に腹を立てるものもまた、兄弟との関係に破壊をもたらすということが問われているのです。神様の裁きという視点に立たされるのです。

兄弟、隣人に対する暴言が22節に記されています。「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。ばか者というのは、「間抜けな」、「頭がからっぽ」という意味があり、取るに足りない無価値な人間という意味合いが含まれている言葉です。そして愚か者というのは、「ならず者」、「神に捨てられた者」という意味があり、神様との関係において、あなたは救いに値しない、神様と離れている者だという、いわば祝福とは反対の言葉、「呪い」の言葉でもあります。すなわち、腹を立てる兄弟に対する怒りが、人の人格を傷つけ、神様の救いには値しない者だと、言い張る言葉に示されているのです。兄弟を傷つけ、苦しめるのです。兄弟を殺す破壊の言葉、その思いそのものです。兄弟との関係に明確な破壊の印をつけるそれぞれの言葉であります。

ばか者と言う者は最高法院という裁判所に引き立てられ、愚か者と言う者は火の地獄に投げ込まれると、裁きの内容が記されています。火の地獄、それは神様の支配する天の国とは異なる領域でしょうか、愚か者と言葉を投げかけた者が、むしろ神様に捨てられる者、神様との関係に破壊をもたらすという結末を迎えると言うのです

これらの主イエスの言葉、怒りを抑えきれない私たち人間には、厳しい言葉に聞こえます。私たちは好んで相手に腹を立てる、怒りを覚えるわけではありません。自分を怒らせるのは、相手が原因、相手に非があるからだと思うものです。自分は相手を怒らせるようなことをしていないのに、相手が自分を怒らせるようなことをしてくる。腹を立てるのは当然ではないか。その怒りに満ちた思いから、あの人はおかしいんだ、ばか者だ、愚か者だ、もう関わりたくないという関係性の破壊が起こってくる、自分が相手を殺すということが起こってくるのです。自分の視点で相手を見定め、自分が正しいと思う、自分を軸とした視点に相手を立たせる。人の数だけ、怒りの数があり、人の数だけ正義があります。

主イエスはすぐ前の5章20節でこういうことを言っています。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」律法学者やファリサイ派というのは福音書に多く登場する宗教指導者たちです。神様の教え、律法を守り、律法を民衆に教える立場にあった人たちです。彼らの義、彼らの正しさというのは、律法を遵守し、律法を守れない者を諭し、律法を破るものを裁く義です。自分たちは真に熱心に、生真面目に律法を守る正しさに生きていたという自覚をもっていた人たちでしょう。それゆえに、律法を破り、神様の教えに反する生き方をしている人たちを裁く、腹を立てていたのです。

主イエスはそんな彼らの義にまさらないと、天の国には入れないと言います。彼らの義にまさるとはどういうことでしょうか。彼らの正しさを超えるということでしょうか。ばか者、愚か者と言われないように、人間としての魅力的な価値を身に付け、神様の救いに。彼らよりも熱心に神様の教えを守り、努力していくことでしょうか。

主イエスが言う、彼らの義にまさるとはそういうことではありません。彼らを超えて、より魅力的な人間、信仰者になれということではないのです。彼らの義にまさる「義」という「正しさ」、それは真にどこから来ているのかということを知ることです。人の数だけある義ではなく、真の義です。人間の内面、自分には持ち得ていない真実の義を知るとき、自分の義が欠陥だらけの未完全な義であると知ったとき、自分の義を捨てるということ、そこから導かれる義です。義を捨てて、悪人になれと言っているのではありません。自分の義を捨てて、真実の義を知り、それを受け入れる、自分から義を得るのではなく、真実の義を受け取りなさいという招きの声があるのです。この真実の義とは、律法の完成者としてこの世に来られた、私たちの只中に来てくださったキリストの義であります。このキリストの義の前に、もはや自分の義は打ち砕かれるのです。

それでは、このキリストの義は私たちに何をもたらすのでしょうか。直、怒りを抑えきれない私たちは、自分の義を捨てきることなどできるのでしょうか。主イエスは23節、24節でこう言います。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」主イエスは怒りを捨てろとは言わず、和解しなさい、仲直りしなさいと私たちを導きます。

祭壇ということですから、厳密に言うと、神様のみ前にあるということです。そこで礼拝に招かれて、供え物を捧げる時、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、まず仲直りをしに行きなさいと、和解が示されるのです。神様と自分という関係を思うときに、自分に反感を持つ、腹を立てる兄弟を抜きにして、その関係は成り立たないというのです。自分も相手に腹を立てるが、自分もまた相手から腹を立てられ、反感をもたれているということを私たちは知っています。みな自分の義を持っている、自分の正しさが怒りを正当なものとします。しかし、主イエスはそんな私たちに自分の義を捨てろと言わんばかりに、「和解しなさい」と招くのです。キリストこそが私たちを真に和解へと招かれるのです。自分の怒りという義を捨てて、和解というキリストの義を受け取りなさいと招かれるのです。

このキリストは和解に至る道を指し示す、和解の主であります。何をもってして和解に至る道を示し、和解の主となってくださるのか。それこそがあの十字架、十字架に至る道を行かれ、「彼らをおゆるしください」と、父なる神様に私たちへの怒りを執り成してくださった十字架の贖いに他ならないのです。私たちは相手に怒りを覚え、ばか者、愚か者といって、相手との関係を破壊しようとしてしまうかもしれません。その人は裁かれるというのです。相手も同じように、自分に腹を立てて、反感をもち、自分との関係を破壊しようとする。そして相手も裁きの座に立たされる。互いの義によって、滅びの道へと行ってしまう私たちを主イエスは、見捨てはしないのです。私の怒りを自分の怒りとされ、相手からの怒りを、ご自身が負ってくださるのです。私ではなく、あのキリストが、十字架上のキリストが、和解の主となって下さり、神様と人間、人間と人間の関係を回復なされる。和解は実現するのです。

十字架にはこういう言い伝えがあります。縦と横の棒が交わらないと十字架にはなりませんが、縦の一番上には神様が、下には人間が、縦の関係で結ばれている。横は人間同士の関係が結ばれていると言います。この十字架の中央にキリストがおられる。和解の主として、この十字架に示されているのです。

主イエスは怒りではなく、和解という新しい道、生き方を、十字架を通して示されました。滅びに至る怒りの義、自分の義ではなく、救いに至る和解の義、それを成してくださったキリストの義を私たちは受け止めていきたい。主イエスは私たちへの怒りではなく、神様との関係を回復されるために、愛に立たれています。怒りではなく、愛の視点に、それはこのキリストこそが和解の主だからです。怒りを抑えきれない私たち、反感を抱かれる私たちを赦してくださるからです。怒りによって行きつく裁かれる道、滅びの道ではなく、主イエスは和解における愛の道、救いの道を行かれます。このキリストの義に生きる新しい道、和解に至る道へと私たちは招かれているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2014年2月2日 顕現節第5主日 「地の塩、世の光」

マタイによる福音書5章13〜16節
藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「あなたがたは地の塩である・・・世の光である」。聖書になじみのない方でも、聞いたことがある言葉かもしれません。愛唱聖句にされている方も多いでしょう。しかも、主イエスは地の塩、世の光となれと言われたのではなく、「である」と言われたのです。地とか世というのは、この世界という意味ですから、あなたがたは世界の塩、世界の光であると、きっぱりと私たちに宣言しているのです。

今、この主イエスの言葉を聞いている皆さんはどう反応しますか。「地の塩、世の光」と聞くと、世界中で活躍している人、必要とされている人を思い浮かべるかもしれません。だから、あなたがまさにそうだ、と言われると、悪い気はしないけれど、なんとなくたじろいでしまうか、そんな大げさなと思って、本気にしないかも知れません。何よりも、なぜ「私なのか」ということに疑問を抱くばかりです。しかし、主イエスがここで言われる、地の塩、世の光というのは何を表わしてしているのでしょうか。

塩というのは、それこそ調味料として私たちの身近にあるものですが、塩は料理の味を引き出し、また古代から物の腐敗を防ぐ防腐剤と重用され、また多くの宗教において、清めの役割を果たしてきました。さらに、私たちの体にも欠かせないものがこの塩です。塩分をとらないと、私たちは生きていけません。塩は生命の存続に大きく関わるからです。

そして、光でありますが、光は旅の道案内をします。電気のなかった当時は、光の存在というのは、より尊いものだったでしょう。また光は人を正しい道に導きます。暗闇の中で輝き、人々の心を柔和にさせ、希望をもたらします。暗闇の中では人は生きていくことができないのですから、光もまた、私たちの生命に大きく関わるのです。

ですから、「あなたがたは地の塩である、また世の光である」と主イエスが言われるその御心は、この世界で生きるあなたがたは塩として、この世界に絶対になくてはならない存在であり、また世界に輝く光だということ、それも、彼らがもう既にそういう存在であるということです。

では、主イエスが目の前で語っている「あなたがた」とは誰を指すのでしょうか。彼らはガリラヤから主イエスに従い、ついてきた人たちでした。前の4章24節から見てみますと、「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」(マタイ4:24―5:2)とありますように、彼らはパレスチナ地方全域から集まってきた人たちでした。この中にデカポリス、ヨルダン川の向こう側という地域も記されていますから、そこにはユダヤ人に限らず異邦人も、そして男性も女性も、子供から老人に至るまで、様々な身分の人々がいたのでしょう。彼らは病を煩い、悩みを抱えて主イエスのもとに来たのです。そして主イエスに癒された彼らは、山の上で主イエスの教えに耳を傾けている、いわゆる山上の説教の場面であります。

ですから、この群衆というのは、律法学者や宗教指導者といった社会的地位の高い人たちではなかったでしょう。社会の前線で活躍している人たちではなかったのかもしれません。彼らは病に苦しみ、悩みを抱えていた生活を送っていたからです。そんな彼らに対して主イエスは「あなたがたは地の塩である、また世の光である」と言うのです。私たちが思い描く人物像とはかけ離れているのです。

けれど、主イエスがどういう思いをもってこのことを彼らに宣言しているのかということを理解しなくてはなりません。ここで主イエスは、身分の差はどうあれ、あなたたちもこの世界に必要な存在なんだよ、何かの役に立つ存在なんだよ、だから胸を張って生きていきなさいと、そういうことを言っているのではないのです。「あなたがたは地の塩である、また世の光である」というこの主イエスの御心は、もっと深いものであり、私たちの想像(人間的な思い)を超えるのです。それは、あなたがたはこの世界に「なくてはならない」存在、地の塩、世の光としてのあなたがたがいないと、この世界は生きてはいかれない、人は生きてはいかれない、滅んでしまうと、これほどの思いをもって彼らに語っているのであります。主イエスはここで単に人間の平等とか、人権問題のことを念頭に掲げて宣言しているわけではないのです。

もちろん、主イエスはここで社会の前線で活躍している人たちを否定しているわけではないし、あなたがたのほうが彼らより偉い、尊い存在であると言っているのでもありません。しかし、主イエスが言うような、地の塩、世の光としてのなくてはならない存在というのは、わたしたち人間の力や知恵、才能、お金、権力ということを指しているのではなく、それはわたしたちの命の質であり、生の質であるということなのです。それは塩としての味を引き出す隠し味として、暗闇を照らす光として存在する源であると言うのです。

確かにわたしたち人間の力や知恵、才能、お金、権力と言ったものは、大切なものです。それらは私たちを生かしむるものであります。けれど、そういったものが自分の人生を決定づけるものとなるのか、真の持ち味となるのか、または命の泉として乾くことのない永遠なる普遍的なものになるのかということはわからないことです。それらは、いつ失ってもおかしくない、先が見えるものではないということだけは言えるでしょう。

今言えることは、主イエスの下に集った群衆は、それらのものに癒しを求めたのではなく、主イエスの御言葉、招きの呼び声に癒しを求めた、救いを求めたということです。この世では魅力的で価値あるものによって、彼らは癒され、立ち上がることができたのではなかったのです。自分たちの乾きを満たすことはできなかったのです。自分の魂にまで浸透するようなことをこの世の価値観では見出すことができなかったのです。彼らは主イエスという永遠に乾かない命の泉を求めて、そこに真の生を、命を見出していったのです。それは自分の肉体や細胞の健全さ以上に、自分の魂にまで浸透する呼び声でした。その呼び声が木霊する神の世界(天の国)に彼らは招かれている、主イエスに従い、地の塩、世の光として生きているのです。

この世に生きながらも、この世に属すのではなく、神の世界に属している。主イエスに従うということは、この世に生きながら、神の世界に属しているということ。それが地の塩、世の光としてこの世に生きている彼らの姿であり、また私たちの姿でもあるのです。

では、地の塩、世の光として生きていくとは具体的にどういうことなのでしょうか。主イエスは言います。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(5:13)「山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。」(5:14~15)塩に塩気がなくなるなどいうことがありえましょうか。不自然なことです。

しかし、こう理解することができます。地の塩として生きるということは、キリストに従うということ、キリストに従うということは、この世に生きつつも、この世には属さないと言いました。この世に属さない、すなわちこの世の価値感に縛られないから、地の塩としての塩の味を引き立たせることができる。しかし、地の塩でありながら、この世に属し、この世の価値観に縛られ、染まるのであれば、もはや地の塩としての役割はない。地の塩として、味付けする必要もないと分かれば、塩として生きる必要はないと思う。その時、塩味を失うのです。

これを教会に例えるなら、神様の御言葉に立つ地の塩としての教会ではなく、この世の価値感に立ち、癒着し、もはや塩味を失った教会がそこに残る。そして地の塩、それをまた神様の御言葉に重ねるなら、塩としての神様の御言葉は、この世に属す教会では塩味を失ったように、何の味も引き立たない言葉となる。もはや、そこには聖霊の働きはなく、神の御言葉ではない、むなしく人間の言葉が木霊しているだけなのです。教会の舵取りが、キリストではなく、この世の価値感に立ってしまう時、地の塩としての神の言葉が塩味のない人間の言葉に変わってしまうのです。たとえ雄々しく力強くこの世界に神の御言葉が響き渡っても、魂に浸透してくるものがない、それは神の御言葉に思える塩味を失った人間の言葉だからです。そこに自分の中で、何か引き起こされてくるという出来事は起こらないのです。

光もまた、世の光として輝くのは、世の闇の中に輝くのであって、升の下に置くのであれば、光としての役割を果たさないのです。そのためには闇を知らなくてはなりません。受け止めなくてはなりません。教会はどこに向かって、神様の福音という光を照らすのか、そういうことが問われているのです。

光を照らすために、闇を知る。教会が闇を知るということ、受けとめるということ、それは教会自体も罪を犯すということが言われます。なぜなら、教会は清い聖徒の群れではないからです。招かれた者でありつつも、罪人の群れという姿もあるのです。誤解がないように言いますが、罪人の群れというのは、悪事を奨励している群れではありません。開き直って、悪事を働く群れでも場所でもありません。もちろん悪事を働かない群れということでもありません。私たちはこの世に生きているからです。

教会もこの世に立っています。ですから、罪を犯すのです。キリストを見失い、舵取りを間違えることはあるのです。このことを教会は知る必要があります。受け止める必要があります。そう、闇は私たちの身近にあるのです。

教会も罪を犯すということは、教会という人が集まる場所そのものが地の塩となり、世の光になるということにはならないでしょう。この世はこの世の価値感のままに、闇は闇のままに存在するからです。教会が地の塩、世の光となるのは、そこに真の地の塩、世の光が顕されているからです。それこそが主イエスキリストであります。この救い主が教会の舵取りとなってくださるからこそ、地の塩、世の光としての教会が立ち続けることができるのです。この真の地の塩、世の光というキリストを見失うという罪の必然性があります。そのことを知り、受け止めて、教会も悔い改めるのです。その時、地の塩、世の光としての福音が響き渡ってくるのです。

主イエスは16節でこう言われます。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(5:16)人々は、地の塩、世の光である私たちの行いを見て、私たちを崇めるのではなく、天の父なる神様を崇める。罪と闇の只中にある、わたしたたちを、それこそ地の塩、世の光に程遠いわたしたちを、そのままに地の塩、世の光とされ、生かしてくださる天の父なる神様こそが崇められるのは、わたしたちの行いを人々が見ているからです。私たちの行いが人々の目に、立派に映っているという保証はありませんし、そのように自分たちの力や知恵では無理なのです。キリストの光をただ私たちは自分たちを通して、光として造りかえてくださる、私たちの新しい生き方を人々は見るのです

ルターの有名な言葉に「大胆に罪を犯し、大胆に福音を伝えよ」という言葉があります。また誤解がないように申し上げますが、罪を犯すことを奨励しているのではなく、ルターの理解で言えば、私たちは罪を犯す必然性にあるということであり、罪を知り、受け止め、その罪という暗闇の只中でこそ福音を伝えよということです。地の塩、世の光とされた私たちは、罪なき義人ではなく、義人であるのと同時にむしろ罪人であり、闇を知るからこそ、地の塩、世の光として、神様の福音を恵みとして受けてとめていくことができるのです。地の塩、世の光として、この世に生きつつ罪を犯しても、この世に属すのではなく、キリストに属して福音の喜びを知り、福音を宣べ伝えていくのです。地の塩、世の光として生きていくとは、そういうことです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。