2001年11月11日 「信徒でまもる礼拝説教集1」

佐々木謙一兄

2001年11月11日ルカによる福音書 19:11~27

本日の聖書の個所は、「ルカの旅行記」といわれる第9章51節から、第19章27節の最後の個所に位置しています。これは、イエスがガリラヤからエルサレムにむけて旅をする個所であります。9章51節では「天にあげられる日がちかづいたので、エルサレムへ行こうと決心して」、エルサレムへの旅がはじまります。ここでこの旅はクライマックスをむかえ、「エルサレムに近づいて」こられたのです。この聖書の個所は、イエス様が、私たちのために命を捧げてくださる、そのエルサレムに近づいてこられていることが、契機となっているのです。

1節から13節にご注目ください。
「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために旅立った」とありますが、この「立派な家柄の人」とはイエス様をあらわしています。これはイエス様のエルサレムへの旅、そしてさらに十字架の死を遂げて、復活し、父なる神のみもとにおいて覆いを受けるという旅を表しています。
ここで主人は旅立ちに際し、10人の僕たちに1ムナというお金をプレゼントします。この10ムナはただプレゼントとして渡されただけでなく、この1ムナをもとに、もっと増やしなさいというメッセージがこめられています。つまり1ムナとは、単にお金を意味するのではなく、いろいろな賜物と解釈することができます。
それは神様が私たちに与えてくださった体力であったり、知力であったりと、その人の能力を意味しているかもしれません。そういった能力を生かしなさいという意味にもとることができるかもしれません。しかし、この世の現実をみるとき、みなさんは「全ての人に1ムナを与えられてはいない、それぞれ異なったムナを与えられている、この世は不公平、不平等ではないか」と思われるかもしれません。私たちに平等に与えられているこの1ムナとは何を表しているのでしょうか。
日野原重明という方の著書で「生の選択」という本がございます。この方はご存知のように様々な重い病にかかって苦しんでいる方々に接っするお仕事をなさり、人間の命の尊厳についてたくさんのことを教えてくれている方であります。この本のなかで氏は、次のようにいっています。
「もし平等ということがありうるとすれば、与えられた人生のなかで、各人の「宝」を最高度に社会のなかで活かす、あるいは社会に還元する機会がすべての人に与えられている。言い換えると「どのようにして自己を活かすか」という自由とその機会が与えられているという意味では、平等はすべての人の上にあるように思われます」
10章42節では「無くてはならないものは、多くはない。いや。1つだけである」とイエスは教えておられます。これらのことを考えると、この1ムナとは、まさに「神のことば」であるとは考えられないでしょうか。そしてこの各人にあたえられた「神のことば」によって、弟子たちつまりは我々が「使徒的」な働きをすることをイエス様はのぞんでおられるのです。
15章で主人が帰ってきたとき、僕たちが呼ばれ、渡した1ムナをどのようにしたか、決算が始まります。そこで第一の僕は「あなたの1ムナは、10ムナをもうけました」といい、第二の僕も「あなたの1ムナは5ムナをつくりました」といいます。ここで主語が「私」ではなく「あなたの1ムナ」であることに注目していただきたいと思います。彼らが自分が労苦と努力を重ねた結果、もうけたのだとは言わず、また自分の業務について語ろうとはしません。ムナそのものが新しいムナを生み出したかのようにいっています。コリント人への手紙第一でパウロも「私に賜った神の恵みは無駄にはならず、むしろわたしは彼らのなかのだれよりも多く働いてきた。しかしそれは私自身ではなく、私と共にあった神の恵みである」といっています。私という小さな人間とその人生や活動を舞台にしてムナが生きて働く、人の思いを超えて働く神の力がおおきなものを生み出していくのです。そしてそれはムナを活かすものにのみ経験できる大きな驚きなのです。
私が社会人になりたてのころ、私はとても自分に自信があり、自分に力があるように感じていました。会社でも上下の関係にとらわれず、力のあるものがこの社会を勝ち抜いていくのだと信じて疑いませんでした。しかし自分の力に頼っている自分に次第に疲れを感じてきたように思います。私の仕事は営業ですので、毎月自分が売り上げていかなければならないノルマがあります。
ある日、私はあまりにも多くのノルマをかせられているように感じて、上司に文句をいったことがあります。ある一定のノルマを達成すると、さらに多くのノルマを与えられ、だんだんとやらなければならない仕事の量を増やされるのです。私はこれでは疲れきってしまう、みんなと同じくらいのノルマに戻して欲しいと訴えました。そのとき上司から「おまえからそれをとってしまったら何が残るのか」といわれました。これはひとつの例えですが、この話を自分の生活に置き換えて考えることがあります。私から教会生活をとってしまったら、一体なにが残るのだろうか。何故教会生活を私は続けているのだろうか?いや、何故続けられるのだろうかと。私たちはそのあたえられた役割や仕事、いってみればノルマによって自分らしさを保っていけるのではないかと感じることがあります。私たちにはそれぞれ神さまから与えられた「ムナ」があり、その恵みが私たちを生かしているのではないでしょうか。それを考えたときに、私の意志だけでここにいるのではないように思います。何かが私に働き、私を超えた力が働いて、自分がその道に進んでいるようにさえ感じられます。逆にいえば、私から信仰がなくなるということがあるのだろうかと思います。私を越えた何かがあるとすれば、それは何でしょうか。私にとって大切なムナとは信仰であると思います。私から信仰や教会生活をとってしまったら、私は私でなくなると思います。つまり、ただむなしく生きていくだけだと。神への仕事とは、牧師として働くということではなく、日々祈りの中で人を思うこと、自分を優先させず愛をもって人に接すること、これこそが一番大切な神への奉仕であると思います。なぜなら聖書にあるとおり、「神は愛である」からです。愛のあるところに、必ず神様がともにいてくださるからです。その反面、愛のないところにはサタンが存在し、我々を常に誘惑しようとしています。今年、世界では大変なテロ事件が相次ぎ、深い悲しみが私たちを支配しました。これもサタンの仕業であるかもしれません。その原因はタリバンという勢力とアメリカという勢力の間に生じた憎しみから起こったもので、愛とはかけ離れたものです。
22節で「善い僕」、「悪い僕」とでてきますが、この善い、悪いは主人のために役立つかどうか、その行いが問題とされます。よく私たちは善い、悪い、ときくと「欠点がある、ない」というように解釈しがちですが、ここでは失敗をおそれて何もしないことが良いのではないのです。何か行動を起こして、悪いことをすると罪が増し、罰が与えられると考えられがちですが、そうではないのです。イエスさまが生涯をかけて、受難と十字架において示した神の愛は、私たちを臆病にさせる恐怖の神ではありません。つまり、キリスト教の神とは、単なる物理的な創造者ではなく、また人間の生活や富の上にその摂理を働かせて、自分を崇拝するものに幸福を与えるにすぎない神でもありません。そういった神は私たちのために、十字架にかかって死んでくださった愛の神ではありません。異教徒の神です。私たちの愛する神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、キリストの神は愛となぐさめの神なのです。この神様はご自身のとらえたもう人々の魂とこころを満たしてくれる愛の神、我々が自分の力のなさ、惨めさを感じるときに、ご自身の限りない自愛を与え、それを身にしみて感じずにおれないようになさる神です。そして自らへりくだり、私たちと魂の奥底においてひとつとなってくださる神なのです。
我々が今ここに礼拝を守り、一週間安心して進むことができるのはこの神がいてくださるからです。キリスト者の神は希望の神です。神は十字架にかかり、復活し、天に昇られ、そして今日、私たちとともにいてくださいます。最後に次の言葉を紹介しておわりにします。J.Jルソーという人のことばです。「生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。最も長生きした人とは、最も多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ」私たちも慈悲深い神が生きて働いておられることを覚え、このような人生を体験する幸いを感謝して今日の日をすごしましょう。

2001年10月7日 「シャローム・レーケム」

“シャローム・レーケム”

(ヨハネによる福音書14:27;16:33;20:19,21)

  シャローム―――ご存知のように、ヘブライ語の中でも最も美しいことばの一つであります。旧約聖書の中でもそうでありますし、現代ヘブライ語でも同じといえましょう。 今日、最も争いの絶えることのないあのパレスチナにおいて人々は、“シャローム・アレイへム(こんにちは、さようなら)”――“アレイへム・シャローム”と挨拶を交わしているのであります。

  シャローム―――聖書では、平和、平安と訳されます。 戦争と平和といえば、戦争の反対が平和のように考えられるかも知れませんが、シャロームというときの平和は、ただ戦争や紛争の無い状態のことではありません。 なるほど平和を破壊する最大のものは戦争でしょう。 しかし、戦争はあくまでも平和を破壊するものの一つに過ぎません。 平和を壊す最大のものといえますが、そのうちの一つにすぎないことには変わりないのです。 シャロームの敵には、戦争の他に、身近なところから挙げれば、病気と死、事故、盗みと殺人、災害と環境破壊などがあります。 これらによって平和はいつも脅かされています。

  ですから、平和の反対語を強いて挙げれば、それは世界の混乱、つまりカオスとなります。 ある方の定義によりますと、シャロームという言葉は、「全体が統合された状況、つまり、神と他者と自然とに調和して生きる状態を指し示す」 のだと言います。 神と人との関係だけでなく、自然との関係を問題にするところは、極めて今日的な見解といえるでしょう。

  さて、ヨハネによる福音書のことばにご注目ください。 この福音書では、平和という言葉が意外と少ないのに驚かされます。 まるでこの言葉を惜しみながら、大切そうに使っているようにさえみられます。いちばん大事なときにだけ使いたいとでもおもっているのでしょうか。 ではどんなところに平和という言葉でてくるでしょうか。 “平和”と訳されている個所が4箇所ございます。 いずれも現代ヘブライ語訳の新約聖書をみますと“シャローム”と訳されています。

  そのうち2箇所は、14章から16章に及ぶイエスさまの告別説教と呼ばれる二つの説教のそれぞれの結びのところ、すなわち、14章27節と16章33節に出てきます。お読みいたしましょう:

   「平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。 わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。 心を騒がせるな。 おびえるな。」(14:27)

   「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。 あなたがたには世で苦難がある。 しかし、勇気をだしなさい。 わたしはすでに世に勝っている。」(16:33)

あとの2箇所は、20章19節と21節、すなわち、復活のイエスが弟子たちのところに現れたときの挨拶のことばとして出てくるのです。 次のように記されています。 お聴きください:  

   その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、 自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」 と言われた(19) イエスは重ねて言われた。 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21)
 
  つまり、こういうことになります:イエスさまは、十字架の死の前に、別れの説教で弟子たちに 「平和を与える」 と約束されたとおり、復活されたとき、まず、死と復活をとおして自ら平和の主として現れてくださったというのです。 なんという見事な一致でありましょう。

  14章27節: 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」 とあります。 「世が与えるように与えるのではない」、「この世が与える平和」 と 「イエスさまの与える平和」 とでは、その“平和の与え方”が違うというのです。 新約聖書時代のことなら、当時は、“パックス・ロマーナ”、「ローマの平和」 といわれた時代です。 しかし、それは表向きのこと、その裏舞台は、血で血を洗う権力抗争の歴史でもありました。 一般市民にとっては戦争の火の粉が直接降りかかることはありませんでしたが、決して自由とはいえない奴隷制社会であり、また皇帝礼拝の強要される社会でした。 さらには、重い税金に苦しみつつやっと保たれた平和にすぎなかったのです。 だからといって、本当の自由を得るために戦わなければならないといって戦争が正当化されてはなりません。 最初にも言いましたが、戦争は平和を破壊する最大の敵です。 戦争は人間の魂と肉体を絶滅させ、神さまの啓示を見えなくしてしまうからです。今年は56回目の8月15日を迎えたわけでありますが、平和の共同体として神さまからこの世に遣わされているキリストの教会に連なるわたしたちは、改めてこのこと―――戦争を繰り返してはならない―――ということを自らも自覚し、戦争の悲惨さを風化させてはならないと思います。

  マタイ福音書5章の有名な 「山上の説教」 の初めに、八つの祝福が語られていますが、ご存知のとおり、その一つに 「平和を実現する人々は、さいわいである」 とあります。 キリスト者にとって、「平和を実現する人々」 とは何をする人のいことでしょうか。 何か旗を振って、平和運動のような行動を起こすことを求められているのでしょうか。 そこで問題は、ここでいう平和とは何かということです。 聖書でいう平和、神のシャロームはどのように実現されたかということです。

  ローマの信徒への手紙5章のはじめに、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、」 とありますように、またエフェソの信徒への手紙2章14節に 「実に、キリストはわたしたちの平和であります」 と告白されていますように、人間にとって根元的な平和は、創造の主である神さまとの間に築かれた平和、それはイエス・キリストの十字架の死による赦しと復活の命によってもたらされたものであります。 ですから、復活のイエスは、はじめて弟子たちのもとを訪れたとき、“シャローム・レーケム(平和があなたがたにあるように)”と宣言され、自ら弟子たちに約束されていたとおり、その実現として平和をもたらされたのでした。

  これがキリストの平和(パックス・クリスティ)の与え方です。 この世の平和は、多くの場合、人々の犠牲の上にかろうじて保たれる平和ではないでしょうか。 広島、長崎の何十万人の尊い生命が失われてはじめてあの戦争が終結したことを忘れることはできません。 しかし、キリストの平和はどうでしょう。 キリストご自身の犠牲によってもたらされたのです。 なんという大きな違いでしょう。

  イエス・キリストにおける神の平和、神のシャローム、聖書によれば、それは、あくまでも神さまの側からの働きかけ、つまり、ヨハネ福音書3章16節の有名なことばにあるとおり、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛され」、自ら人間になられたこと、人間はそのように神さまから目をかけられ、神さまの下に生きる被造物であるということです。  聖書によればまた、神と人間との間に越えがたい、深い溝が存在します。 罪によるさけめです。 遠藤周作氏の言い方を借りるなら、人間の「狂える心」、その奥底にひそむ 「罪の母胎の影」 の存在であります。 ところが、今や、人間の側からどうしても越えられないこの溝が越えられ、克服できないこの影が克服されたというのです。 あの十字架において、それは実現しました。 人間の側からではりません。 神と人間との両方からというのでもないのです。 ただ神さまの側からだけ越えて来られました。 和解、平和とは、実にこのような神さまの一方的な恵みによる救いなのです。 イエス・キリストにおける神さまの愛と力による働きかけです。 わたしたちは、今朝も新しくこの福音を、わたしたちに語られている福音として聴くのです。

  ですから、「平和を実現する」 とは、実に、このイエス・キリストの十字架とその平和を証しすること、そしてその証しをとおして、このイエス・キリストが真の主として、人々のあいだに支配者となることであり、キリストの平和の御国が実現することにほかなりません。
マザー・テレサのことばに:
    沈黙の実は祈りであり、祈りの実は信仰であり、
    信仰の実は愛であり、愛の実は奉仕であり、
    奉仕の実は平和である。
とあります。
「奉仕の実は平和である」。 ご自身のすべてを与え尽くされて神との平和を実現してくださったイエス・キリストに従う者の奉仕によって、平和が実を結ぶというのです。 奉仕する人と奉仕を受ける人との間に神の平和を分かち合うことが生まれるのだとマザー・テレサはいいます。 これこそ平和の実現以外の何でありましょう。 こうして、彼女たちのグループにとって、最も大切な祈りは、あのアッシジの聖フランシスコが祈ったといわれる 「平和の祈り」 だそうです:
    わたしをあなたの平和の道具としてお使いください、
    憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに許しを、
    分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、
    誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
    闇に光を、悲しみのあるところに喜びを、もたらすものとしてください。
    慰められるよりは慰めることを、
    理解されることよりは理解することを、
    愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
    わたしたちは、与えるから受け、許すから許され、
    自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから。

  今、世界の人々が最も必要としている祈りは、これではないでしょうか。 ご自身の生涯と死と復活をとおして、平和を実現してくださった主イエスは、復活者として、最初に弟子たちに現れたとき、こうおっしゃいました: 「あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」 と。 そうです:キリストの教会は、こうして世に遣わされた 「平和の使者」 なのです。

  私たちキリストに従う者は、平和を“与えられている、持っている”だけではありません。 それと同時に、平和を“実現する”者と言われています。そして、それはまずわたしたち一人一人が 「平和の祈り」 を祈ることから始まるのではないでしょうか。

  どうか今週も問題の多い世の中に生かされてはおりますが、家庭にあって、職場において、あるいは学校にあって、人々と出会うとき、キリストの平和に生かされた者として、その平和がわたしたちの人間関係において互いに分かち合うものとなりますように!祈りましょう:

2001年3月25日 四旬節第4主日

第1日課   イザヤ書12:1-6

その日には、あなたは言うであろう。

「主よ、わたしはあなたに感謝します。

あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが、その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった。」

あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む。

その日には、貴方たちは言うであろう。

「主に感謝し、御名を呼べ。諸国民の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ。主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。シオンに住む者よ叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたたちのただ中にいます大いなる方。」

第2日課   コリント人への第1の手紙5:1-8

現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行ないがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行ないで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。

それにもかかわらず、あなた方は高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって。あなた方とわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。あなたがたが誇っているのは、よくない。僅かなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現在あなたがたはパン種がはいっていないものなのです。キリストが、わたしたちの過ぎ越しの子羊として屠られたからです。だから、古いパン種の悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実なパンで過ぎ越しを祝おうではありませんか。

福音書   ルカによる福音書15:11-32

イエスは言われた。「あるひとにむすこが二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日も立たないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物を暮れる人はだあれもいなかった。そこで、彼はわれにかえって言った『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にをしそうだ。ここを発ち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、また、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」 と。』 そして彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』 そして、祝宴を始めた。

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これは一体何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんがかえってこられました。無事な姿で迎えたと言うので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめた。しかし、兄は父親に言った。『この通り、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけにそむいたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子やぎ一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの心象を食い潰して帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしの物は全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』。」

2001年3月18日 四旬節第3主日 「神様は人間の目覚めるのを待っておられます」

第1日課   出エジプト記3:1-15

モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」 と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 神は続けて言われた。 「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」 モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人の住むところへ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたがエジプトから導き出しとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」 と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名、これこそ、世々にわたしの呼び名。」
第2日課   コリント人への第1の手紙10:1-13

兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼(バプテスマ)を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中にある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った。」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたかたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道を備えていてくださいます。

福音書   ルカによる福音書13:1-9

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたかたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたかたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

説教  「神様は人間の目覚めるのを待っておられます。」

ルカによる福音書十三章の一節から九節までのお言葉でございます。

今日の福音書の日課で、事件が起こったのです。エルサレムの神殿で、奉げ物をしようとしていたガリラヤの人たちが殺害されたのです。ピラトが軍を送り込んで彼らを殺したのです。それは、彼らがローマ帝国の支配に反対していたからです。人はそのような災害にあった人に対して、日本的に言えば罰が当たったと解釈をしていたようです。また、シロアムの塔が倒れて、十八人の人が下敷きになって死んだ事件が、その少し前にあったことも、彼らが悪い者であったから罰が当たったのでしょうと言っていました。

イエスさまはそうではないと言われて、次のたとえ話を仰ったのです。いちじくの木の畑に虫が来てもう三年も実がなるのを期待していたのですが、実がならないで楽しむことが出来なかったので、この木を処分しましょうと使っている人に言いました。その人はもう一年待ちましょう。私がもう少し上手に木の手入れをしますからと言ったのです。このたとえ話の意味は、神様はかなり忍耐強いお方です。三年ばかりではなく、あんまり役に立たない私たち人間を、神様の思われるほどの人間になっていないわたしたちを、神さまは忍耐強くもう少し、もう少し待とうと思ってくださるのです。これが今日のお話の大事なテーマでございます。

神様は相当忍耐強いお方です。 そこで旧約聖書に一つの例がございます。モーセという方を、イスラエル人のリーダーに神様が選びなさったのです。モーゼはどんな人でしょうか。イスラエル人でエジプトで生まれたのです。丁度、イスラエル人が迫害されていた頃です。男の子は生まれたら殺せと王様から言われて、大変な時でした。そこでモーセが生まれた時に親が川辺に隠したのです。そこへエジプトの王様の王女が来て、見つけてモーセを自分の子供としたのです。ですからモーセは最高の教育を受けていました。イスラエル人がいじめられて苦しめられているのを見かねて、ある時、そのエジプト人を殺してしまったので、モーセは国から逃げなければならなかったのです。察することは四十年くらいの間、エジプトの東にある余り地の肥えていない砂漠のようなところでしたが、家畜を飼っている人のところに縋ってモーセは暮らしていました。そこで、神様が彼を呼び出すのです。燃えているように見える柴が燃え尽きないでそのままでした。モーセは不思議に思って近くへ行って見ようとしたら、神さまが燃える柴の中から、モーセに話をされるのです。「エジプトへ戻って、イスラエル人をエジプトの奴隷生活から導き出すのだ」 と命令をなさるのです。勿論モーセは、口実を言いますが、神さまはそうするように言われるので、彼はエジプトへ行きます。聖書の中に出エジプトと言う一部がございます。それを読んで、私たちも如何に神さまが、モーセをリーダーとしてお救いなさって、守って、終には四十年後になりますが、約束の国へお連れなさった事がわかります。

その話をパウロがコリント人の手紙で聞かせています。コリントは随分商業の地として栄えて、立派な町でした。日本でしたら東京のようなところでした。政治はアテネでしたが、金儲け、その国の財産はみなコリントで作っていたのです。彼らはそれを自慢していたのです。どこにも負けないようなところと彼らはそれを誇っていました。その中にいるクリスチャンもその影響を受けていたでしょうと思えます。パウロがその世の中の人の真似をするなと、神様はちゃんと皆さんを心配しておられると言っております。そう言う世の中ですから、問題も起こり、ことに誘惑も多かったのです。彼らも同じように商売をして儲けたいのでしょう。楽な生活をすることを望んでいるのでしょう。でも、その誘惑に負けるなとパウロが言ったのです。そして、十章にある今日の聖句の終わりの言葉ですが、私たちはこれを良く覚えておきたいものです。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れ道も備えてくださいます。」 と聞かせているのです。わたしたちもそのような事情や、試練に遭うこともあるでしょう。イエスさまの世の中でも事件が次々に起こって、彼らはちょっとこわくなっていたのでしょう。恐れ持っていたのです。そのためにこの世について行こうとも考えていたのでしょう。そこで、イエス様がいちじくのたとえを聞かせて、もう少し忍耐強く、これは神さまが忍耐をしてくださるのですが、その神さまのしてくださることを待ちましょうと、当時の人たちに聞かせておられます。

私たちも同じような事情にあることが時々あります。どうしょうか。困った。方法としてはちょっと不正なことですが不真面目なことですか、それをやったら助かると私たちは思いつくのですが、「その誘惑に私たちは決して負けてはいけません。」 とパウロは聞かせています。イエスさまのこのたとえも同じ意味です。神さまは忍耐強く私たちのことを思っておられます。本当を言えば、神さまは正しいお方ですから、悪いことは大嫌いです。そしてその大嫌いなことを私たちがやっていて神さまはどう思われるでしょうか。丁度、いちじくの木の持ち主のように、処分しましょうと思うのが普通でしょう。このたとえ話はわたしたちにとって大きな慰めとなります。神さまは忍耐強いのです。今すぐ処分するのではなく、しばらく待ってくださるのです。そして私たちをこの世の中からいずれは、お呼びなさるでしょう。その時まで私たちは耐えていましよう。

私たちは先日、会員の一人のお葬式に参加いたしました。その時聞かされたことは、神さまがわたしたちのために本当の将来を計画しておられて、その場所がよろしいだけではなく、そこに相応しいように私たちを変えて下さって、私たちは永遠に生きることを約束されております。それをわたしたちは信じておりましょう。それが私たちクリスチャンの信仰です。それを知らない人を私たちはかわいそうに思います。彼らにもぜひ知っていただきたい。神さまはそのような大きな愛を持っておられる方で、忍耐強いお方ですから、知らない方もそれを知って、信じていただきたい。 私たちが今生きていることは、その役割の一つがそこにはっきりと見えるのではないでしょうか。私たちのやるべきことは、大したことはできないですが、人に呼びかけてその人たちをある意味では導くことができるのです。それに応じない方もいるでしょうが、理屈ではそう考えられるのですが、神さまの力、神さまの愛、聖霊の仕事、お働きによってその人が導かれて私たちと同じような大きな将来の、永遠の希望を持つことが出来るでしょう。とにかく私たちがやらなければ何もない。今悪いから処分しょうということではなく、彼らはもう駄目だと言って何もしないことではなく、少しでも私たちに出来る僅かな事でも彼らのためにやってみましょう。